一〇九話 許せない、許せない、絶対に


 泉宝センホウに連れ去られて無事に帰ってきた者はいないと聞く。天琳テンレイの、ではなく、の国とことを構えた国の皇太子こうたいしがこっそり教えてくれたことがあった。あの国の拷問ごうもん常軌じょうきいっしている。精神を壊され、み、自国に戻れてもを置かず、自害じがいするほどに。


 ジンが、彼女の綺麗きれいな心が死ぬ? 粉塵ふんじんにされてしまう? いや、それだけで済めばまだ軽い方かもしれない。静は若い女性。と、なれば「そうした拷問」も充分ありうる。


 想像だけで吐き気がする。自分自身の最低さに反吐がでそうだ。どうして、制御せいぎょできなかった、俺は。たかがこれしきの嫉妬しっとに狂うなどあってはならない筈だ。な、のに。


 なのに、それなのにどうしてしまった、俺はどうしてこんなバカをしてしまった?


 普段の俺なら絶対に引っかからないだろうに。あの皇太子の性根しょうね腐敗ふはい承知しょうちしているのだからあの程度挑発は鼻で笑ってやれた筈で。どうして、どうして、どうし、て?


 静が、彼女の存在がそこほど大きかった、ということでそれを失った今、俺は理性りせいを失う直前のけだものも同然。痛みに、悲しみに、激情に任せて暴れたいのに、できないつらさ。


 ユエが先んじて封じてしまった。俺を、皇太子であれ遠慮なく殴って示してみせた。


 事態を招いた俺だけは喪失そうしつを嘆けど、泣くことは許されず。自身に憤れど、他に怒ることは許されず。どう、したらいい? わからない。静、俺の、大事だいじな静だったのに。


 俺のせいで失った。敵の手にとした。それをいる真似も許されない。俺が招いたことであるのにまるで俺が被害をこうむったような振る舞いをするのは間違っている。


「殿下、どうか落ち着いてっ」


「俺のせいだ、俺のせいだ俺の俺の俺の!」


「殿下っ。夏星シィアシィン、いったいなにが」


「それを本気で言いおるのかえ?」


 冷たい声。月の声はその持ちえる裏腹うらはらに冷え切っている。氷獄ひょうごくの真っ青で真っ白い炎のような声。ふつふつと煮えたぎる怒りの声が静かに轟くようだった。厽岩ルイガンに問う。


 本気で言っているのか、と。この場にいない者といる者。このふたつの要素ようそだけでは推理すいりできないのか、と問うている。厽岩はぐ、と黙った。男が見るのは平原へいげんの一点だ。


 血の水溜まりができているそこ。細かい鋭利えいりさに貫かれた地面にある血溜まりを。


 そして、この場にいない。いる筈の存在がいないことでおおよそを察した厽岩は頭を抱えて自身を責め続ける俺を見つめてなぐさめを吐こうとしたのか、はたまた……。だが。


 俺は、俺だけはそれを、慰めを受け取ってはならない。慰められるべきは俺のせいで犠牲ぎせいになった者だ。俺が余計な真似をして、しゃしゃりでて、勝手をしなければ――。


 彼女はきっとこの場を軽々と乗り切っていた。こちらに出向いていたあやかしの集団は泉宝の皇太子、然樹ネンシュウに抱えられた静を見て、なにか未練みれんがある様子だったが、それは俺や俺以上に月の無念むねんと未練には遠く及ばない。ただ、希望をたれたようではあった。


 誇り高い月のことだ。俺のこの最悪の罪を皇帝こうてい皇后こうごう両陛下に報せて俺を反省させる独房どくぼうにぶち込ませるか、もしくはあの官吏かんりにしたのと同じで違う、火炙ひあぶりにかけるか。


 主人の為ならば自らの手を汚そうと気にしない。そしてそんな彼女だからこそ静を目の前で連れ去られるのを許してしまった、俺のおもり優先ゆうせんせざるをえなかったことを悔いているのがわかる。だって、それが静の願いだったから。俺を身をていして庇ったあるじの。


 俺なんかを「頼む」と託した静の清さが恐ろしくあり、悲しくあり、冷徹れいてつすぎる。一将軍の命よりも一国の皇太子を迷うことなく、ほとんど迷わず選択した。怖い、勇気。


 ああ、だがそんなことよりなによりも静だ。どうしようどうしたらどうすればいいのだろうか。ここで身代金みのしろきんを用意してもあの然樹が素直に交渉こうしょうおうじるなどありえない。


 なにしろ「研究し甲斐がいがある」だのと言いやがったので静を使っていろいろと試す気でいるのだ。彼女ほど妖気の受け皿が大きく深い存在も珍しい。だから、だったのか?


 彼女ではなく俺を挑発した。俺が、もしも俺が捕まって虜囚りょしゅうにされたとしても静の身柄みがら交換こうかんでいい、と言う容易よういに思い浮かぶ。厽岩にすがっていた俺の手がゆき場を失くして滑っていき、落ちる。鋭い音がした。見ると静が母上からたまわったと言っていた槍。


 地に突き立てられた槍。それをしたぬしは不機嫌極まったり、というふう鼻を鳴らして兵たちに撤収てっしゅうを命じた。動かねば。引き揚げて、陛下に報告しなければ。この愚かを。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る