肆の幕 東は紙の大国――泉宝

理解してそしてだからこそ、苦しい

一〇八話 憤りの向けどころなど


 果たして、これまで生きてきてここほど自分自身を憎んだことがあっただろうか?


「この、このたわけがああッ!!」


「ぐあっ!?」


 熱い。頬が、殴られた箇所が熱をじんわりと持っていく。目の前にはきつね半面はんめんに隠れてなお美しい女の姿。ユエが見下ろす先にいる俺は、なんの抗議もできないでいる無様ぶざま


 惨めだ。阿呆あほうだ。月に言われるまでもなく俺は愚かだった。たかが小さな嫉妬しっとに狂った挙句大切な唯一の存在をむざむざさらわれる真似をしてしまったのだから。これが滑稽こっけいでなくて、なんだというのだ。……もう、なんのけなしもでてこない。自嘲じちょうも、できない。


 ジン。彼女が攫われてしまった。よりによって泉宝センホウの、あの陰湿いんしつ皇太子こうたいしの手にとしてしまった。なにも言えない。なにも。俺が悪かった。最悪だったせいだ。知っている。


 だから、月。止めてくれるな、そのそしりを罵倒ばとう嫌悪けんお憎悪ぞうおを。それを向けられるだけのことを俺はしでかしてしまったのだから。静は、俺だけの大事だいじでないというのに。


 しきに、あやかしに、月にとっても静は唯一無二の存在で、この傲岸ごうがんな女がおのれ比肩ひけんして対等な口を利ける貴重なひとであり、彼女が見下みくだす人間なる種族でもまともなひと。


 だから、月は静に心を傾けた。気を配った。その上で彼女が言いにくいことも口にしてきた。俺にいさめを吐いてきた。そう、忠告されていた、のに。俺は、それを破った。


 諫められ、反抗心に火をつけられた俺は知らんぷりで戦場いくさばに来て、静の前でいいところを、あの瞬間の俺いわく「格好いい」ところを見せたかった。俺をはじめてまっすぐ見てくれた彼女だからいいところを見せたかった。それが裏目どころでなくなると思わず。


 俺は彼女の中の天秤てんびんを見誤っていた。静のことだからいざとなれば阿呆を切り捨てて自衛じえいする。そんなおごりにも似た心があった。女に庇われて守られる皇太子? 笑えん。


 本当に笑えん。そのあまり、涙がでる。月に殴られたからではない。静を、大事な彼女を永遠に失ってしまうかもしれない。そんな最低最悪の予感に震えて、悲しくって。


夏星シィアシィン! どういうことだっ? 泉宝の連中め、突然へいを引い、た、のだ、が……」


「ああ、厽岩ルイガンよ。厄介やっかいなことになった」


「ちょ、と、待て。なぜ殿下が、ここに?」


「おい、ド阿呆皇太子」


 びくっ。体が震える。月の声は厳しく冷たい。恐々見上げる先、怒りにひきつった唇の女は忌々しいと言わんばかりに俺に吐き捨ててきた。それこそ憎悪をまぶしつけて。


「ぬしが自己責任で説明せい」


「お、れ、俺、おれ、は……っ」


「言い訳なんぞ聞かぬ。ぬしのせいぢゃ」


 そうだ。俺のせいだ。だが、俺の口で説明しろ、というのか。俺の軽挙妄動けいきょもうどうのせいで静が攫われた、だなどと。それが俺の傷をえぐると知っていて……しているんだろうな。


 俺が悪いのだから責任持って説明させることで俺に罪を認識させ、逃れることを許さない。そうして、俺に何度でも認識させて、確認させて、俺を傷つけさせる、のだな?


 それが相応しい罰だ、と。ある意味精神の処刑で済ませてやるからありがたがれ、というのだな、月? 月にとっても特別だった存在を俺の愚かしさのせいでこの手から失ったことをまっとうに、正当に責めてくれる。それはありがたくもあり、つらくもあった。


「で、殿下?」


「――な、でくれ」


「え」


「俺を許さないでくれッ! 俺のせいだ俺のせいで俺がバカで愚かで思いあがっていたそのせいで彼女が、ジ、水姴スイレツが……。どう、したらどうすればいい、厽岩っ? 俺は」


 取り乱す俺は平素へいそ、そうれ、と言われるのに。冷静さを完全にき、荒れ狂う心のままに五行ごぎょうは乱れ、地面がめくれていき、水が噴きだし、静が連れていたつわものたちの火種ひだねが燃えあがっていく。よろいに使われた金属がボロボロ崩れていき、木々がザザとざわめく。


 平静さを完全に失った俺は目の前にある厽岩の大きな体に、鎧に額を打ちつける。何度も何度も幾度も幾度も……。そして、それでなおおのれが許せなかった。おの迂闊うかつさが。


 あのクソ皇太子の挑発にまんまと乗せられてしまっていたのに。いつもなら気づけただろうに、乗せられてしまったのは静が関わっていたから。あの皇太子に応答をした。


 たったそれっぽっちなことが許せなくて残酷ざんこくに無視して、意固地いこじになって、かたくなになって聞く耳持たなかったのが最悪のわざわいを呼んだ。静を敵国の手中に堕としてしまった。


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