九四話 過去を思い、現在を思い……


 ただ、今の問題は殿下の方だ。彼の方こそ放っておいたらあの乱闘に飛び込んでいきそうなのは私の気のせいで心配しすぎで気にしすぎでしょうか違いますね。ええはい。


 だって、陛下が抑えるのに結構踏ん張っていらっしゃっている。殿下、食い意地汚く張りまくりだって皇后こうごう陛下に言いつけますよ? うーん、とえーっとどうしようかな?


 と、そこでユエが殿下にこそこそと何事か耳打ちしたのが見えた。なにを言ったんだろうか、あのきつね。というのを流して私は最後の汁椀を満たし終わった。はあぁ、忙しい。


 気疲れ、しているつもりはなかったが、ちょっとは緊張していたのかな、私でも。


 あのむらではいつも長の畑の水世話に際しては妖力水ようりきすいを使わせられたのでその日は疲労困憊こんぱいになって、はじめてやらされた日は終わったその場で死んだように眠ったっけか。


 で、起きたら畑の外に蹴りだされていた。畑が、田が、水が、実りが穢れる、と。


 穢れる、というのなら私にクソっ垂れた世話をさせなければいい話だろうに都合のよいことで。ひとなんて、人間なんてそんなものだ、とその頃にはもう諦めていたけど。


 何度も考えた。何度も願った。夢でハオさとされても祈らずにはいられなかったな。


 ――生まれてこなければ、よかったのに。


 いっぱいいろいろ狂わせられて絶望していたからそんなことを思い描いていたんだろうと思う。いっそ、生まれてこなければ。もし、生まれたって死ねば苦しくても楽に。


 苦しいから楽しい、というのも最近になってようやく覚えたこの世界の冷えたことわり


 でも、同時に温かい道理でもあった。楽しいことをするには苦しいこともたくさん乗り越えなければならない。楽しいことの半面に苦痛を負うなにかがあることを覚えた。


 そして、だからこそ楽しくて温かで優しい時間を目一杯楽しもう、そう思えたの。


 そこまでなれただけでもすごい進歩。すごく頑張ったと私は私を褒めたいくらい。


 それまではなにをしても無駄で。無意味な符号ふごうでしかなかった。喜ぶ顔が見たい、ありがとうを言ってほしい。そんな「不純」な動機でしか動こうと思えなかったからさ。


 心が死んでいく。弱る、という過程を除いて薄れて消えていくのがわかるようだったからそれを死んでいっていると考えた。ここで、殿下に会うまでは。ずっと、ずっと。


 ひたすら削られていって薄くなっていって、存在が消えていく、死んでいく未来しか思い描けなかった。辛いとも悲しいとも思わず、考えつくこともなかった。……だってそれは私にとってもう幾重いくえにも重ねられた予想図の通りだったから。悲しいなんて、ね?


 そんなの悲劇の主人公を気取きどっていてイタい。そんなふうに、そういうふうに生まれて育って生きていたからしょうがないのに。今、思い返したらとっても、悲しかった。


 特に今、殿下に、至上の君に大事だいじに大切にされているのだし。そんな過去があったなんて、乗り越えていないけどでも、生まれたくなかった、だなんてことを考えていた。


 その事実が悲しい。だから今の幸せは一入ひとしお感じるものがある。幸福を噛みしめる。あの頃の私だったら受け入れがたかっただろう現状は苦くて、でも愛おしくてならない。


「馳走になった、水姴スイレツ将軍! 久しぶりに美味うまいものというよりまともな味の料理を食べられてここにいるみな、満足だ。食事は当番制にしていてな。外れに当たると……」


「ああ、そら辛いな。てか、だったら誰かやとってもらうとかそういう案はねえの?」


「でたことがあるにはあるが、幾度いくどとなく毒のたぐいがでたのと手前てまえのことは手前らで、というのを徹底した結果微妙味びみょうあじの料理が並ぶようになった。これはある意味、ならわしだ」


「お、おお。大変だな」


 ていうか、今大変なのは私。殿下、あなたなんて顔しているんだ。なにがあった?


 口惜しい、というか悔しそうなんだが。……アレか、食い物の恨みは怖いっての。そういうアレでしょうか。あのさ、一応、念の為に確認するけどあなた皇太子こうたいしでしょう?


 好きなもの好きなだけ食べればいいじゃない。どうして私のつくった食事一食如きでんな膨れ面しているんですか。兵たち及び厽岩ルイガン将軍の向こうに見える三人顔それぞれ。


 殿下は先述の通り不満そう。陛下は苦笑いで月は呆れつつ面白生物でも見つけたかのよう殿下を見てくすくす笑っている。? なんなんだ、御三方というかふたりと一体。


 んー? ……いっか。わからないことを追究したところで徒労とろうかもしれないから。


「邪魔したな」


「いや、助かった。では、明後日みょうごにちまでに予定と隊編制を決めておくのでよろしくな」


「おーう、わかった」


 それだけ言って私は手をひらひらさせて食堂を月を連れて陛下たちと一緒にでた。そのまま無言で通路を歩く。ぶっちゃけ沈黙が肌にヒリヒリ刺さってくる気がするけど。


 気がするだけかな。だって殿下の性格からして言いたいことは言ってくるのだし。


 ともすればうまく言葉にまとまらないとか、言葉にできないかのいずれか辺り。そのまま禁軍きんぐん宿舎しゅくしゃをでて私は後宮こうきゅうの方向へ。陛下たちは皇宮こうぐうの方へ歩いていった。結局殿下はなにも言わずじまいだった。なんだったんだろう。気にはなるがこのあとも忙しい。


 今日は禁軍との顔あわせがあったので授業予定はないが、予習と復習はしないと。明日の授業は桜綾ヨウリン様の房事ぼうじ予備知識の授業だ。昼間からするの? と思わなくもないが。


 でも、夜お邪魔するのは迷惑だ。気を遣わせてしまう、というのもあることだし。


 後宮の門をくぐる時、門衛もんえい皇帝こうてい陛下に発行してもらった身分証を提示して入れてもらい途中、廃屋はいおくとなっているみやに勝手にお邪魔して着替える。月は先に帰ってもらう。


 あの紙のしきも気になる。皇帝陛下ではないが後宮になぜ軍事行動を起こしている国が探りを入れる、というのだ? 不可解すぎる。私の宮のそばにいたのも偶然か、いなか。


 ただ、あまり気にしすぎてもむ。ある程度でやめておいて、と。さて、帰ろう。


 はいされた宮の二階にあがって窓からでた私は折り畳み式の円扇えんせんを取りだした。顔を鬼面おにめんではなくおうぎで隠した私は表通りではないが、果樹園かじゅえんのある通りを歩いて自分の宮――金狐宮きんこぐうに帰ってきてしょぱな驚くことになった。なぜか、本当になぜかお客様がいたから。


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