六二話 先々の私は、こう、在るべきだ


 常に守られて、いつくしまれて、愛されてきた一方で女の花園はなぞの醜悪しゅうあくさをじっと睨みつけてきた殿下。軽い女性不信ふしんおちいっていても仕方ないが、私はこのひとの愛が、欲しい。


 円扇えんせんを持ったままで言っても信用ないかもしれないけど、本心だ。それにいつ茶を持って宦官かんがん侍女じじょが来るかわからないので恥じらいからおうぎを手放せない。だったが……。


 ――バッ、ぎゅうう。そんな音がつきそうな感じに私の体は殿下の腕にさらわれて抱きしめられた。遅れて円扇が床に落ちる軽い、コン、という音がした。つい声をくす。


 熱いくらいの殿下の熱が、体温が私を抱きしめているからか、私の顔は発火しそうなくらい熱くなっている。きっと鏡を見るまでもなく真っ赤っかに違いない。だけども。


ジン、すまない」


「いいえ、いえ、いいえ……」


 何度も重ねる否定のげん。これは私が悪い。私の冷淡な態度が殿下を不安にさせた。


 私のとがだ。……こんなことを私が思う日が来るなんて。ずっと理不尽だとしか思っていなかったむらの連中と違う殿下のまっすぐなぬくもりが心地いい。うとうとする。殿下こそ先まで女に会っていたのにいいにおい。くさかったと口にして爽やかなにおいの理由。


 もしかしてわざわざ、私に会うぽっちなことで気を遣って、気にして沐浴もくよくでもしてくれたのだろうか。だとしたら本当になんて心の広い、偉大なひとだろう。私なんかでこのひとを支えられるものか。自惚うぬぼれないだけ、私は謙虚だと思うが、先を望む浅ましさ。


 こんな、すべての女が憧れる幸せがあってもいいものかとひねくれ思考が一瞬浮かんで沈んでいった。それでいい。そうでなければ。私はもう、ここで生きていくと決めた。


 後宮こうきゅうという殿下にとっては息苦しい、生き苦しい場所を本物の花でいろどりたい、と。


 ただそこに咲いている花。時に目で、手ででられる可憐な、綺麗な、美しき花を植えて殿下を支えていきたい。そして、時として将として戦の血生臭さが満ちる場でも。


 もしも私でこの後宮に実をつけられなくともそれは他の花でも代替が利くのだし。


 殿下は嫌がるだろうが、そこは次期天子てんし貫禄かんろくで胸の中にある本心を黙殺もくさつしてでもそうするべきだ。彼は天琳テンレイ唯一の皇子おうじ皇太子こうたいしだとされる人物。この先をつむぐひとが故。


 私などがその関心も、視線も、手も、愛も独占などできない。そんなの当然だ。もちろんわかっているし、わきまえている。いつか、彼の心が離れても仕方のないことだ。


 今、こうしているだけで私は充分。だからこそ名残惜なごりおしくなる前に離れておいた。


 およそ私が零しようがない、と思っていた悪戯いたずらめいた笑みがくすり、と零れていったので私は円扇を拾いあげて元通り顔を隠した。と、同時に茶の一式を持った宦官がふたり現れたので私は殿下に座をすすめつつ私も座る。ユエはとうに座ってにやにやしている。


 なにを考えているか、だいたいわかる。このクソぎつねは「歯が浮きまくり台詞で総入れ歯目前ぢゃな?」だのと言うに決まっている。私は円扇の横から月を睨みつけてやる。


 だから、殿下が意表を衝かれた表情で照れ臭そうに頬を染めていたのを知るのはその宦官たちだけだった、という過去の話を私が耳にしたのはこの茶会ちゃかいから二日後だった。


 茶会では皇后こうごう陛下との授業や美朱ミンシュウ様が言っていた女性の鑑定眼が厳しい云々には殿下が反論したり、皇后陛下の招待で開かれる茶会に呼ばれている。徳妃とくひ賢妃けんひにも紹介される、と話したら絶句ぜっくされた。で、まつりごとの合間につくった時間を満喫し、私たちは別れた。


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