三七話 鬼面に秘された美貌の主は初の例外


 忘れてほしいだの汚いもので俺の目を汚しただのと意味がてんでわからんことを。


 最後の方の声は本当に泣いているのではないかというくらい震えていて、この娘が心から恐怖しているのが痛いほど伝わってきた。自らを汚い、そうそしる娘は震え怯える。


 なにを言っているのか、わからなかった。この娘はなにを言っているんだろうか?


 そして、やっと顔をあげた娘がつけていたのは恐ろしい鬼の形相をした半面はんめんだ。


 そのなんとなこと。あのように美しいかおをなぜそんな面で隠すのだ、といぶかった。


 天女てんにょより、女神めがみよりもなお美しいのに。なぜ、そんな誤解を抱いている? はじめこそ謙遜けんそんのひどいものかという思考もよぎったが、違う。この娘は本心から思っている。


 自らの顔が汚らしい、醜いと思い込んでいる。貧しい農家のうかの娘ならば鏡などないと思うが、この娘の格好はどう見ても農家じゃない。上等なきぬを使えるいい家の娘だ。ならば鏡を見る習慣がない。それ以外考えられず問うと予想にたがわぬ答。見ない。醜いから。


 自身の醜いつらが見つめ返す鏡などどうして覗こうと思える、と? などという愚問ぐもんを抱く変な男のように思われているようだったが、俺は言わずにはいられなかった。この感動、この激しい衝動に近いこの言葉を教えてやらずにはいられず、叫びをあげていた。


 美しく、綺麗で神々しい。そんなふう女人にょにんを思うことなどないと思っていたのに。


 特にここ、後宮こうきゅうにおいては。女とは美しく着飾り、よそおうばかりでその性根しょうねは見るにえないほどみにくやかであるというのが俺がつちかってきたこの特殊環境での常識だったから。


 だから、はじめての例外。自らの美を売り込むどころか自分自身のすさまじい美しさを知らないのか、と訊きたくなった。神々のうるわしさとは違う、あやかしの如き妖艶ようえんさを持ちえる娘を逃がしたくなかった俺は立ち去ろうとする娘の手を掴んだ。細い、儚い腕。


 華奢きゃしゃな腕ひとつさえ、どうしようもなく俺はもうすでに愛おしくてならなかった。


 はじめて覚えた「愛おしい」という情。なんてとうとい感情だろう。なんと心震わせられる衝動だろうか。こんな素晴らしい感情をこの歳まで知りえず、知ろうともしなかったなんて。俺はどれほど損をしてきたのだろう。いや、与えてくれる存在を知らなかった。


 他の女にはきっと抱かなかっただろう情。俺が見てなかろうと見ていようと美しく装った顔や身なりを台無しにするほど醜悪しゅうあくに意地も悪く美辞麗句びじれいくで飾り立ててののしりあう。


 そんな腐熟ふじゅくしているクセ、自己認識に甘えを混ぜて「私はたっぷり蜜を含んだ絶世ぜっせいの美女」と迫りくる面の皮の厚さに閉口する。してきた。なのに、この娘は美をひけらかすどころか醜いとじて鬼の面にて隠している。当人は真剣なのだろうが、いじらしい。


 放せ、と嫌がる娘に一応確認を取る。衣の色は白を貴色きしょくとする白麒宮はくきぐう皇太后こうたいごう様時代のきさきが住まう白虎宮びゃっこぐうの者だと思われたが、やはり。違う、と言って抵抗を示してきた。


 嫌がるこの娘は恐ろしい鬼の面の下で、果たしてどのような表情をしているのか。


 俺のことは見回りの宦官かんがん、だとでも思っているようであるし、いまだに、俺の言葉を受けても自らを醜いと卑下ひげして俺に顔をさらしてしまったことを悔いているようだが。


 それこそ違う。間違っている。この悪意と瘴気しょうきが立ち込める女のそのでその醜さから目をそむけて、くささに鼻を摘まみたかった俺がはじめて心の底から美しい、と感動した娘。


 それがなぜ醜い? ありえない、そんなこと。ああ、今ここで手に入れたい。俺だけのかごに閉じ込め、誰の目にも触れないよう封じてしまいたい。俺だけのモノにしたい。


 そんな胸の内にある獣を宥めて俺はつとめて優しくどこの者か、と問うてみたが邪魔が入った。猛々たけだけしい炎。かなり高位こういの、火性かしょうを持つあやかしの力が迫り、娘を庇おうとしたが突き飛ばされた。俺が火炎の範囲から逃れるより早く娘はなんと水を操ってみせた。


 しき持ち。となればやはり昼に入内じゅだいを希望した妃候補たち、もしくは明日の朝に面談を控えた妃候補たちの付き添い兼護衛。娘を案じて護衛をつけて寄越す親も珍しくない。


 まあ、こんな粗野そやな言葉遣いの娘を護衛にてるというのは珍しくはあるが、そう考えていると娘が炎の主を「ユエ」と呼び、炎の主は娘を「ジン」と呼んだ。名はたいを表す。


 それがここまでとは。水のように清く妖艶で美しい娘の名を口で転がし、宣言しておいた。忘れはしない、と。そして、あのあやかしは相当に高位こういなのでここは退こう、と決断してある意味断腸されそうな思いできびすを返した。で、皇宮こうぐう本宮ほんぐうに戻ってきた俺は。


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