三六話 物音に引かれ、その美に惹かれ


 ――ぱしゃ。不意に、音。水の音? だが、こんな水路も通されていない場所でなにがどうして水が音を立てるのだろう。俺は興味と好奇心に珍しく、いや、生まれてはじめて駆られてそっと音が聞こえた方へ向かっていった。そこにいたのは背格好から、女?


 こんな場所に女が、後宮こうきゅうきさきはまずありえないが侍女じじょですら寄りつかないというのになぜだ? なにかの使いで下女げじょを使わせた、にしてもここになんの用事で、だろうか?


 女はこちらに背を向けてちょっとした岩に腰かけなにかを熱心に研いている様子。


 邪魔をするのもなんだ、と思ったのでそっと近づくと顔の上半分を覆う仮面、か?


 なんだ、と思った。この女も化粧で着飾る腐った女共同様虚飾きょしょくよそおうか、もしくはとても見られぬ顔をしていてつつしみからそれを隠しているか。誰もいないから拭いている?


 背からなのであまり詳細はわからないがめんを扱う手つきはとても優しい。ああ、と思った。俺が求めてやまない手。後宮で育った俺にとっての憧れ。いつか誰か大切な女が現れたとして華奢きゃしゃな手で、優しく俺を支えてほしいと夢に思ってきた。ありえないがな。


 ……しかし、あの手。どれほど入念にゅうねんに手入れをしたからあそこまで綺麗な手になるものなのだろうか? すらりと伸びた細指ほそゆび。白くてシミもしわもない。爪はつやのある薄紅。


 まるで、妃のような……。いや、妃であろうとあそこまで美しい手にはならない。


 ふと、女がため息をついた。嘆くようであり、自嘲じちょうするかのような、失笑の吐息。


 おどろかしてしまうだろうか、とは思ったが忍び足で近づいていく。夕暮れの最中、赤と紫と青が混ざる不思議な空になびく漆黒の宝石を砕いて混ぜた絹糸けんしのような艶髪。真っ白い肌。白色の衣を纏っている。……ということは賢妃けんひ様、美友メイユウ様のみやの? いや、違う。


 彼の賢妃の宮の侍女たちは把握している。不本意ながら下女共も顔は知っている。というのも俺にびて賢妃からだとせっせと実に不埒ふらちな贈り物をしてくるから。賢妃だなどと所詮は称号にすぎずかしこさの欠片もない、と引いた、以上に気色悪さを覚えたものだ。


 背後に立った俺に気づかず、その女はやはり自らを軽んじるよう自嘲し、零した。


「……お似合い、だな」


「なにがだ」


 その声があまりに淋しそうだったから、俺は思わず声をあげていた。疑問を述べただけだったが女は肩を大きく跳ねさせて持っていた、研いていたあの仮面を顔に当てた。


 動揺激しくる女。やはりなにか相当大きな傷でもある顔なのだろうか? もしくは絶世ぜっせいの美女ならぬ今世こんぜ最低に汚らわしい醜女しこめ、とでもいったところか。いずれにせよ。


「なん、なんの、用だ?」


「こちらの台詞だ。ここでなにをしている」


「散歩。ついでに、手入れ」


 少々声がひっくり返っていたが、徐々に落ち着いていく声は可憐かれんなまだ少女のような声であり、口調はぶっきらぼうで無愛想。端的たんてきにものを言ってくる。平素ならとがめる。


 皇太子こうたいしである俺にどういう口を利く、とおどかしてやってもよい。よかったが、どういうわけか咎めるより、脅かすよりも、驚かせてやりたいのとその醜さをさらさせたい。


 昼に会っていた女たちの毒気どくけてられてかそんな底意地悪さを考えた俺は女が面の紐を手繰たぐろうとしたのを見て取り、肩を掴んで無理矢理振り向かせた。そして、面が落ちていき、驚かせてやる、意地悪をしよう、と思っていた俺こそが驚かされてしまった。


 なんて、美しい女――。黒い、たっぷりと艶を含んだ絹糸の髪。くすみもシミもれ物吹き出物一切ないすべらかで潤んだ白皙はくせきの肌。いや、そんなものはいい、どうでも。


 よくはないが、仮に今は置いておく。俺がなにより驚き、心を掴まれたのは女の不思議でこの世のものならざる瞳だった。はっきりとした蒼に黄金の影をたたえた吸い込まれそうな美しい瞳。渡来とらいの品だ、と言って商人あきんどに見せられた宝石「青金石ラピスラズリ」のような双眸そうぼう


 瞳孔はやや鋭く、とげのようだったがそれすらかすませるとんでもなく綺麗な瞳だ。


 この世の者と思えない美。顔の造作も整っている。部品ひとつひとつが可憐で愛らしくあるが故に余計、際立ってその宝石の瞳が神秘的で……時も呼吸も忘れて見入った。


 が、俺がまじまじ見つめてしまった数瞬後、女は我に返って俺の手を振り払い、面をその美麗すぎる顔に押し当ててしまった。もったいない。あんな眼福がんぷくが隠されるなど。


 俺は、気づけば素性も知れない女に一歩近づいて声をかけていた。もう一度、今一度あの清浄な、黄金おうごん色の影をはらんだ美しい蒼に見つめられたい。そう、思ったからこそ。


 なのに、俺の接近に気づいた、わけではないというのに女……いや、あの顔立ちからしてまだ少女と言って差し支えない歳の頃の娘は激しく震えていた。まるで、仕置きを恐れる幼子のように。……どういうことだ。そう思った矢先、震える涙声が叫んできた。


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