アラートオレンジ

雨琴

第1話

「秘すれば花」と世阿弥は言った。秘密というものは、秘密であるということそれ自体が価値を持つ。平たく言えば、ごく限られた人間しか知りえない情報というのは、それだけで特別ということだ。

 この世の中にはたくさんの秘密がある。暗証番号や個人情報、浮気や不倫、ヘソクリの隠し場所……なんてなんだかしみったれた話になってしまったが。そうやって意識的に隠している秘密ももちろんあるのだが、あえて公言していないだけで特別隠していない秘密というものもある。いや、隠してないわけではないのか。

 桜の花が散った頃、私は近所のケーキ屋に行った。古くからの友人の娘が進学したので、そのお祝いに、“お母さんの同級生”という距離感からだと何を持っていったらいいか思案した挙句、こじゃれたケーキ屋で焼き菓子の詰め合わせでも見繕っていこうと思ったのだ。思えばケーキ屋なんてそうそう入ることはない。行き慣れない店に入るのは緊張する。などと益体もなく考えながら入店すると、白衣にカラシ色のスカーフをした女性の店員の姿が目に入った。小柄で目が大きく、愛らしい顔をしている。

「いらっしゃいませ」という涼やかなアルトで我に返った。

「クッキーの詰め合わせとかありますかね?」


 気がつけば私は、丁寧に応対してくれたあの女性店員のファンになっていた。なんだか妙にあの人のことばかり考えてしまう。名札とか読んでおけば良かったと思いつ、名前がわかったところでいよいよ何にもならないということにも気づく。客と店員という距離感をいったいどうしたら埋められるというのか。そもそも埋められるものなのか。

 それから私はことあるごとに例のケーキ屋に通った。あの店員さんがいる日もあればいない日もある。いてくれたとして、客と店員という関係性を越える会話など生まれるはずもなく日々は過ぎていった。


 天気予報士がテレビでコートを羽織りだしてしばらくした頃、私は駅前の喫茶店にいた。待ち合わせまでの時間をつぶすべくコーヒーを飲みながら一息ついていると、聞き覚えのあるアルトが聞こえてきた。

「こんにちは」

 あのケーキ屋の店員だ。ダッフルコートを羽織って、髪を下ろしているが彼女に間違いない。彼女は向かいのテーブルの席に座ろうとして私の存在に気づいたらしい。控えめにはにかんで会釈をしてから、彼女はコートを脱ぎはじめた。こちらも会釈を返しつつ、私服姿の彼女を見るのは初めてだったので密かにときめいていると、グレンチェックのロングスカートが見えた。トップスは濃紺の大き目なセーターで、かわいいな、なんて思っているところにハプニングが起きた。コートの袖から腕を抜こうとする彼女のセーターの袖がコートに引っ張られて、大き目の襟ぐりから橙色の下着のストラップが見えてしまっている。

 白でなく、黒でなく。ピンクでなく赤でなく。パステルカラーでもなく。

 そんなこととは露知らず。彼女は何事もなくコートを脱ぎ、襟ぐりを直し、席に座った。

 濃紺のセーターに白い肌だけでも映えるというのに、橙色の下着。悶々と頭の中がそのことでいっぱいになる。

 たまらず私は外へ飛び出して叫びたくなった。何を? 下着の色を。だがそんなことはしない。そんなことをしていたら私はただの不審者だ。危険人物だ。それは私だけが知っていればいい価値ある秘密なのだから。

 その日家に帰ってテレビでニュースを見ていると、南極地域観測隊のニュースがやっていて、砕氷船の映像が映っていた。白い氷塊を割って進む橙色の船体を見て、私は思わず叫んでしまった。

極地観測で用いられる装備に使用されている橙色のことを“アラートオレンジ”というのだと知ったのはその後のことだった。


〈終〉

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アラートオレンジ 雨琴 @ukin66

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