最後の刻
鈴ノ木 鈴ノ子
さいごのとき
僕には三分以内にやらなければならないことがあった。
いや、そう思い込まなければ心が折れてしまうかもしれないと思ったからだ。
外来診療中に病棟から緊急コールが入り、大慌てで病室へと向かった。腕時計は12月24日 12時24分、イブの別れとなる事を覚悟して病室の扉を開ける。
そこにいる真っ白な布団に包まれるようにして眠っている彼女を見て、普段と変わらぬす姿だと思ってしまった。いや、そう思いたかった。
入院した時は4人部屋で他の入院患者さんと喋っていた姿が思い浮び、そして、その前、まだ、病に侵される前の2人で過ごした大切な思い出までが蘇る。あの頃の僕は彼女に助けられてばかりだったと感慨深くなりながら、そっとベッド脇までる歩み寄った。
点滴台には1リットルほどの輸液パックとそこから磨りガラスのような少し濁ったチューブが布団の中の彼女の腕まで伸びていて、チャンバー内のポタリ、ポタリと滴下される水滴を見つめて彼女がまだ生き続けるように思えた。
だが、現実はそう甘くはない。
個室へと移動、そして2回の状態悪化により意識消失を起こし、今では意識も意思も確認する事すらできない状況となった。彼女を慈しむ様に育ててきた両親の言葉も、姉妹の妹の言葉にも、そして伴侶になるはずであった僕の言葉にも返事は、ない。
「雪島くん、変わろうか?」
先輩医師で僕と彼女が付き合っている事を知っている後藤田真里先生が、私の脇に立ち耳元でそう囁いた。その声がいつもよりほんの少しだけ震えている。
「いえ、大丈夫です」
先輩を見ずに彼女を見つめたまま僕はそう小さく返事をした。
『気が弱いんだから、心配だわ』
初めてのデートでそう言った彼女の声が脳裏に響く、兎にも角にも何かと彼女はそう言って心配ばかりしていた。
出会った小学生の頃から、付き合い始めた中学生の頃から、そして今までずっと。
すでに心電図モニターの波形はフラット、所謂、平坦な一本棒となっている。音は切られているからアラームはもう鳴らない。ときより棒が少しだけ姿を変えるが、それはただの電気信号の無残りに過ぎない。
部屋には彼女の両親と妹がいて顔をくしゃくしゃにして母親は泣き、父親は引退したが医師だからだろう、神妙な面持ちで娘と私を見ている。姉と仲の良かった妹はもう見るのも哀れな程に泣き疲れ、病室のソファーに座って項垂れている。
『お姉ちゃんを助けてよ!先生でしょ!』
意識を失った彼女を前にして病室で妹に詰め寄られた。白衣の襟元を掴まれて、いつもの優しい顔からは程遠い、憤怒に近い表情を目の前にして己の力不足を嫌と言うほど思い知らされた瞬間だった。
「では、確認させていただきます」
そう家族に告げて先輩と一緒に頭を下げると、妹の静かな泣き声が病室に漏れた。
体温という優しい温もりの残る体に触れる。そっと脈に手を当てて暫く刻をかけて待つ、戻る事がない事を医師として理解している。 だが、一抹の希望に縋るような思いが過った。聴診器を取り出して聴診をする。
『この音、覚えておいてね!』
子供の頃に父親の聴診器を彼女が勝手に持ち出して、互いに心臓の音を聞き合ったことがあった。だが、あの音をもう聴くことはできない。無音、ときより体内の残滓の音を聴くが、それ以外、規則性のある音は聞こえてこない。
胸ポケットに入っているプレゼントされたペンライトを取り出して、点滴の影響で膨れてしまったけれど、綺麗な丸顔に手を翳す、その閉ざされた瞼を開いて、少しだけ震える手で瞳孔を見つめる、けれど、その目に光を宿すことはなく、景色を、家族を、僕を2度と見つめることはない。翳したライトにも反応することもない。
腕時計を見つめて時間を確認する。時を刻む秒針は少しも動きを止める事はなく、規則正しく動いていた。後藤田先生に軽く頷くと同じように頷きが返ってくる。
「12時27分、お亡くなりになりました」
そう死亡宣告を家族に告げる。
妹と母親の泣き声、そして声を殺すようにして涙を流しながら、彼女の父親がこちらへ深々と頭を下げた。 もう、二度と彼女と一緒に過ごしてゆくことができないと言う残酷な事実が室内に溢れる。
「では、失礼します」
彼女に一礼して、そして家族に一礼して、病室を後にする。扉を閉めてナースステーションへ死亡診断書の作成のために向かおうとすると、廊下の先で老練な東阪病棟師長が僕を手招きして呼んでいた。担当患者で何か急変でもあったのかもしれないと不安になり、後藤田先生に直ぐ戻る旨を伝えて、足早に東阪師長の元へと駆け寄る。
「どうしました?」
そう声を掛けると、以前使われていた分厚い壁の病棟レントゲン室、今でも扉の重たく現在はリネン室として使われている部屋に電気が灯っている。師長がその部屋を指差した。
「先生、3分以内に気持ちを整えてください」
東阪師長の目に薄らと潤みが垣間見えた。
そして、部屋の中へと押し込められる様にして僕の背中が力強く押し出される。そのまま蹌踉めきながら部屋の中にあった椅子に座りこむとガチャリと重たい扉が閉まる音が響いた。
幼馴染の世界で一番の彼女を想い、声の漏れぬこの部屋で、喪失した悲しみに僕はただ落涙するしかなかった。
最後の刻 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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