大戦編


  大戦編


「われこそは近藤いさみじゃ。おぬしは桂小五郎か。さては勤王きんのうのヤカラであるな」

「おぬしこそ、幕府の犬め。成敗せいばいしてくれる!」

 川沿いの公園には寒々とした冬木立が、残り少なくなった葉っぱを北風に散らそうとしている。路面電車が短い橋をゴトゴトと渡る。行く先には「前駅呉」の文字が見える。右から左へ書いてあるところを見ると、それなりに古い時代ということか。

 チャンバラをしている男の子たちは、通りかかった学生帽の少年に気づいて呼び止めた。少年は小さな女の子を背中におんぶしている。

「章太郎!新選組が一人足らんのじゃ。お前も入らんか」

「わしゃ、チャンバラは好かん……行こう、清乃」

 少年はそっけない顔で、遊歩道を下流の方へ、女の子をおぶい直しながら歩いて行く。

「やーい、弱虫章太郎。勉強でもしとれ!」

 背後から悪ガキたちがはやし立てる。川べりには消防署の火の見やぐらが、傾きかけた日差しを浴びてそそり立っている。

「いま清乃って言ったね。僕のお祖母ばあちゃんと同じ名前だ」

 僕は木の上から、おんぶされるのが当たり前の権利だと言いたげな女の子の、おそらくは兄であろうその少年の背中に、甘えた顔をこすりつけている様子を微笑ましく眺めた。

「うん。そうだね……それより、ぼんちゃん。よく見て。お兄さんのほう……」

 となりでチュン太が指差す。「ぼんちゃんにそっくりだ」

 言われて少年の方を見ると、学生帽の下で日焼けしたその顔は、決して僕と瓜二つとは言いがたいが、しかしたしかに、どこか他人とは思えないような、クセのある、ちょっと頑固そうな面持ちであった。

「……ってことは、僕のお祖母ちゃんと、そのお兄さんてこと?」

 チュン太は黙ってうなずいた。

 僕は祖母の部屋に立て掛けてあった古びた写真立てを思い出した。

 祖母があのくらいの年だとすると、いまからおよそ七十年前―――つまり昭和の初め、ということか。僕は今まで、七十年前の日本というものをとくに想像してみたことがなかった。コンクリートの建物や電線のある風景は今とさほど変わらないが、見上げるような高層ビルはなく、空がいくぶん広く感じられる。

「どこへ行くのかな。ついてってみよう」

 川下へ向かうらしい兄妹きょうだいのあとを、僕らは木の枝から電柱へ、電柱から橋の欄干へと飛び移りながら追いかけた。清乃が兄の背中からときどきこちらを見ている。

 ひと回りほど年の違うらしいこの兄妹は、散歩がてら海を見に行くのであろうか、しだいに潮風の混じるようになった遊歩道を、仲よく歌を口ずさみながら歩いた。そして繋留けいりゅうされた牡蠣かき船のあたりで、とつぜん港の風景がひらけ、鉛色の海が見えた。

 まぶしそうに目を細める少年の頭ごしに、僕らも少し上空へ飛んでみて、西日にかがやく海を眺めた。

 港からは向こう側にうっすらと島影が見える。その間に大小さまざまな船が所せましと浮かんでいる。しかもよく見ると、それらの船はみなどす黒い、無愛想な色あいをした物々しい風貌である。

 僕は、その中のいくつかの船が、大きな「砲台」を装備しているのを発見して、ドキリとした。いま目の前にしている船たちはすべて「戦争のための船」なのであった。

「く、黒船だ……」

 思わずそうつぶやいた。幕末のころ、とつぜん現れたペリーの艦隊を見た民衆のおどろきも、あるいはこんな風であっただろうか。

「日本―――いや、大日本帝国の海軍の船だよ」

 チュン太が目を離さずにそう言った。

 あっけにとられながら、なおよく見ると、主力艦、と言うのだろうか、最も大きな船は、そのどっしりとした図体ずうたいをゆっくりと動かし、何本もの大砲をかまえて、周囲に睨みを利かせている。まさに海の要塞のようだ。その要塞を取り囲むように、中型の船が何隻か、前後左右にはべっている。さらにその周りを、小まわりのきく小型船が、鉄砲をかついだ哨兵しょうへいのように、警固に当たっている。

「……戦艦、巡洋艦、駆逐艦というんだよ。その間をぬうように物資を運んでいるのが内火艇ないかてい―――あの飛行場みたいな船が空母。潜水艦やドイツのUボートもいるよ。ここは戦時中の呉の港だ」

 チュン太が一つ一つ指さした。

 僕は将棋の陣型を連想した。戦う船はみな同じだと思っていたが、それぞれ役割がちがうようだ。

「……呉って、たしか広島のとなり町だよね。でも、なぜここに、こんなにたくさんの船が集まってるの?瀬戸内海はせまいのに」

「せまいから守りやすいんだ。呉は入り江になっていて、水深も十分にある。三方を山に囲まれたかくれ家のような場所なんだ。それで明治の頃から軍港として使われている」

 僕はふたたび龍馬の時代を思い起こした。日本を外国の植民地にしてはならないと、彼らは必死で戦った。そのためには強い海軍を持たなければならない。そして日本は独立を守った。その一つのが、今ここにあるわけだ。

 僕は威風堂々とした船たちを眺め、それから360度まわりを見回してみた。港の対岸には瀬戸内海の島々、右手には小高い半島、ぐるっと回って背後には高く連なる峰々、その先にまた低い丘陵があって、また海がある。たしかに、戦いを終えて帰還した船がその傷をいやしたり、つぎの戦いに備えて英気をやしなったりするのに、この港ほど適した場所はないように思われる。

 僕はふと空を見上げた。

「しかし、もし、空から攻められたら、どうするんだろう……」

 あっけらかんとした空には、夕日にふち取られた雲がのんびりと流れている。

 チュン太が「よく気がついたね」という顔で見た。

「人間が空を飛ぶと、ろくなことしないね……」

 彼もいっしょに空を見上げた。その目は笑っていない。

 僕がもう一度視線を海に落としたとき、何気なく目に止まったのは、港の左はじの工場に架けられた大きな屋根であった。それが工場だと分かったのは、海上に立つ巨大なクレーンが見えたからだ。クレーンがゆっくりと旋回し、何かを建造中のようである。不自然なほど大きな屋根の前には、やはり巨大な「幕」が張られ、中が見えないようになっている。

「何を造ってるんだろう。かくしているように見えるけど……」

 もしその中で造っているのが船だとすれば、相当に大きな船である。この港に停泊しているどの船よりも巨大な船―――それは敵の目に触れさせたくないばかりか、味方にもまだ隠しておきたい秘密兵器―――ということだろうか。

 見えないだけに無気味な想像が膨らんだが、僕らはいつしか、清乃たち兄妹が、どこかへ歩き去るのを発見して、あわてて後を追った。

 彼らが向かった先には、長い垣根フェンスのつづく広大な敷地があった。敷地の中で、白い制服の水兵たちが何か訓練をしているようである。

「ぜんたーい、前へ!お一、二、お一、二……」

 勇ましい号令とともに駆け足をしたり、ラッパに合わせて手旗信号を練習したりしている。そのきびきびとした動きに、僕はつい居ずまいを正した。彼らの背中にはセーラー服のような模様がついている。考えてみると、こっちが本家本元の船乗りセーラーたちだ。

「スイへーサン!」

 清乃が兄の背中から可愛い声を上げた。身を乗り出さんばかりの勢いである。

「お、ほうじゃ、水兵さんじゃ。よう覚えとったのう、清乃……」

 兄は、背中で元気にあばれ回る妹の顔を感心したように見つめた。そしてしばらく、二人はフェンス越しに中の様子を眺めていた。

 日差しがやわらかくなった。

「清乃。帰りは眼鏡橋めがねばしを通って、本通りの方から行こう。にぎやかで楽しいぞ」

 二人は、三輪トラックの走る大きな交差点を渡り、道幅の広い道路の方へ歩いて行く。

 正面の山に向かって真っすぐに伸びている大通りが呉のメインストリートであろうか。和服に山高帽の男性や、買い物袋をさげた丸髷の女性に混じって、連れ立って歩く海兵の姿が目立った。ときどきすれ違う車は、黒塗りの公用車か軍用のジープである。

「呉は海軍の街なんだね」

 僕はあらためて、映画のセットのような珍しい風景を好奇の目で眺めた。

 大通りには飲食店や服飾店、理髪店や百貨店、また映画館やさまざまな娯楽場がひしめき、さしずめ今でいう渋谷か表参道のような活況を呈していた。建物のかたちが凸凹でこぼこ不揃ふぞろいなのも、かえってレトロな感じでお洒落しゃれだ。僕は七十年をへだてたこの昭和の初期に、僕らの住む平成と同じ匂いの水が流れているのを感じた。

 やがて夕闇がせまるにつれ、街燈に火が灯り、街全体がぼんやりと輝きはじめた。

「ずいぶん華やかだね。まだ戦争は始まってないのかな」

「いや、もう始まってるよ。日本はいま中国と戦ってる……」

 辺りを見ると、街を歩く兵士の中には、松葉杖をついて足を引きずっている人もいる。中国戦線で負傷して、いまこの街で療養中ということか。

 それにしても僕は戦争というと、もっと陰惨な、暗い世界を想像していたが、目の前に広がるこの眺めは、どちらかと言えば陽気で明るい雰囲気だ。

 人通りも多く、まっすぐ歩けないほどの喧噪けんそうの中を、章太郎と清乃は上手にぬうように歩いて行った。人々はそれぞれの用事にかまけて、ときどきぶつかりそうになる二人の兄妹を気にする様子もない。

 ふと章太郎はひさしの大きな商店の前で立ち止まると、「ちょっと待っててな……」と言って清乃を下ろし、一人で中へ入って行った。

 すぐさま戻って来ると、しゃがみ込んで妹に何かを与えた。

 平べったい物体はお菓子のようにも見える。

「干し芋じゃ。お食べ」

 清乃はしばらくそれを見つめたあと、ゆっくりと一くち口に入れた。そしてモグモグと頬を動かし、やがてもう一口それをかじった。

「どうじゃ。うまいか」

 兄に問われて、はじめて清乃はニッコリとうなずいた。

「こんなんしか買ってやれんで、御免な」

 章太郎は小銭入れをズボンのポケットにしまいながら、両手で大事そうに干し芋を食べている妹の横顔を愛おしそうに眺めた。

 清乃は、三口めをかじったところでふいに食べるのをやめ、持っていた残りの半分をそっと兄に差し出す。

「わしゃええ。みんな食べてしまいい」

 章太郎は笑いながら妹の頭をなでた。清乃は少し考えて、

「ほんなら、スズメさんに上げてもええ?」

と言って兄の顔を見た。

「ええよ。ちょっとだけな。ようけは食べられん」

 章太郎が干し芋の固そうな部分を適当な大きさにちぎって清乃に渡すと、清乃はこちらへ向き直り、すこし離れた場所から、それを僕らのいる地面へ放り投げた。

「見てたら、よう食べんけ……」

 清乃は小声で兄をうながし、手を取ってあとずさりしながら、そっと身をかがめてこちらを見ている。

「どうやらバレてたみたいだね」

 僕とチュン太は互いに顔を見合わせて笑った。

 そして、ちょうどお腹が空いていたこともあり、投げられた黒いかたまりを遠慮なくついばんだ。

 干し芋は、かめばかむほど甘味が出て、どんな豪華なデザートよりも美味であった。

「食べんさった……」

 清乃は満足げにニッコリすると、ふたたび兄の背中にしがみつき、残りの干し芋を自らの口に入れた。

 繁華街をぬけ、民家の立ち並ぶ一角に差しかかったとき、ふいに板塀いたべいの向こうから、何やら犬の悲鳴が聞こえて来た。五、六人の子供たちの歓声がそれに混じる。

「ワンと言ったな!」

「ワンは敵性語じゃ」

「さては米英のスパイだな」

「こらしめてやる!」

 材木屋の角を曲がって、二人の兄妹が目にしたものは、壁ぎわに負いつめた野良犬を、大勢でいじめている子供らの姿であった。かすりの着物にイガグリ頭の少年たちは、めいめいの手に持ったY字型の小枝に、ゴムを張って小石をはさみ、それを引っぱって犬めがけて撃っている。

 あばらの浮き出た白い犬の腹に、彼らの放った一発が命中した。

「キャン!」 

 野良犬は哀れな声を上げた。見ていた章太郎が思わず目をむいて彼らに駆け寄る。

「こら!何やっとんじゃ、お前ら!」

 章太郎は材木の陰に清乃を下ろし、男の子たちを追いかける。

 悪事を見つけられた少年たちは、中学の制帽をかぶった章太郎の姿を見て、蜘蛛の子を散らすように逃げまわる。しかし、なおも悪びれず、なかば章太郎を恐れ、なかば彼をからかうように口々に叫んでいる。

「やーい、章太郎の木偶でくのぼう!」

「いくじなしの腰抜け!」

「非国民の息子!」

 章太郎はひるまず、リーダー格の一人を今にも捕らえようとしたが、そのとき、振り向きざまに少年の放った小石が、章太郎の顔面をとらえた。

「痛っ!」

 とっさに章太郎は目のあたりを手で押さえた。

 しばらく立ち止まったあと手を開いてみると、右の眉の上のあたりから血が流れている。

 章太郎はポケットからハンカチを取り出し、だまって傷口を拭いた。

 そしてふたたび悪ガキたちを睨みつけ、いきなり追いはじめる。

「待て!」

 様子を見ていた少年たちも、あわてて逃げ出す。

「非国民の息子!」

「おサルのおしりは真っ赤っか」

「お前の父ちゃん真っ赤っか!」

 憎まれ口をたたきながら、子供たちは草履ぞうりをひるがえして路地裏へと消えて行った。

 章太郎は追うのをやめ、材木の陰でおびえている清乃のもとへ、ゆっくりと歩みを進めた。難をのがれた野良犬が、スタスタとどこかへ立ち去って行く。

「お兄ちゃん……」

 目に涙をいっぱい浮かべていた清乃は、兄の顔を見てほっとしたのか、急にハラリと大粒の涙をこぼした。そして血のついた兄の顔をしげしげと見る。

「平気じゃ、清乃。こんなん、怪我けがのうちに入らん……」

 章太郎はつとめて笑顔を作ってみせる。そして、なおもしゃくり上げる清乃を、しっかりと抱きしめた。

「……弱虫はあいつらの方じゃ。本当に強い人は。―――あいつらは強がっとるだけじゃ」

 負けるが勝ちじゃ、とおかっぱの頭を撫でられ、ようやく泣き止んでいく妹を、章太郎はふたたびぶうためにしゃがみ込んだ。清乃は兄の背中に飛びつき、まだ涙も乾かないまま、嬉しそうな顔を隠すように兄の背中にうずめた。

「いーま泣いたカーラスがもー笑ろた」

 章太郎にからかわれて、清乃はやっと本当の笑顔になる。

 路地裏をぬけ、橋を渡り、二人はまた山手に向かって歩いて行く。道は心なしか、ゆるやかに上昇しているようだ。

「うーん。腹へったのう……」

 明かりのともりはじめた家々の、湯気の立つ窓を見ながら、章太郎が思わず呟いた。

「晩御飯は何かのう……」

 しばらく大人しかった清乃が、やがて何かを思い出したように、兄の肩に顔を近づけるようにして訊いた。

「お兄ちゃん……」

「なんじゃ」

「ヒコクミン、て、お父ちゃんのこと?」

 章太郎は一瞬言葉に詰まったが、すぐにしっかりと、一言一言力を込めるように言った。

「お父ちゃんが非国民なもんか。勉強のために集めとった本が、憲兵に取り上げられてしもただけじゃ。勉強せん人間がようそんなこと言うわ。あいつら何も分からんと、親の口マネばかりしよる……」

 前を向いたままそう言い放った章太郎の、表情はよく分からなかったが、うす汚れた学生帽からは、やはり悔しさと怒りがにじみ出ている。

 清乃もそれ以上は訊かなかった。

 二人はしばらく無言で歩いた。

 やがて山のにかかる月を見つけた清乃が大きな声で言った。

「あ、お月サン!」

 章太郎も空を見上げた。

 前方に連なる山々はすでに影絵のようになって、ほの白い空にくっきりと稜線を浮かばせている。いつのまにか辺りはもう真っ暗である。その背景との対比で、すこし片側の欠けた月が意外なほど大きく見える。

「なのはーなばたけーに入りィ日うすれー」

 章太郎はふいに唱歌の一節を思い出したらしく、張りのある声で歌いはじめた。


  菜の花ばたけに 入り日うすれ

  見わたす山の かすみ深し

  春風そよふく 空を見れば

  夕月かかりて におい淡し……


「歌声が僕に似てるよ……」

 僕は、自分の祖母の兄にあたるこの人と、顔が似ていると言われてもそれ程には思わなかったが、こうして思いがけずその歌声を聞いてみると、やはり一すじの血のつながりを感じずにはいられなかった。

 チュン太もニッコリと笑っている。

 清乃がもぞもぞと、兄の背中から降りたがるそぶりを見せたので、章太郎はしゃがみ込んで妹を下ろした。二人は手をつないで歌をうたいながら歩いて行く。


  里わのかげも 森のいろも

  たなかの小径こみちを たどる人も

  かわずの鳴くねも かねの音も

  さながらかすめる おぼろ月夜……


 歌詞を十分に覚えていない清乃は、くり返す「も」の部分だけを得意気に唱和して、兄の顔を見上げた。兄も目を細めて妹の顔を見おろす。

「もうすぐ家じゃぞ……」

 清乃はつないだ手をふりほどき、急に水に放たれた魚のように、一人でどこかへ駆け出した。どうやらこの辺りが、ふだんの自分の遊び場であることにとつぜん気が付いた様子である。

 どっしりとした、赤いポストのある郵便局の角を曲がって、すぐ裏手にある玄関が彼らの家のようである。

「ただいま!」

 ガタのつく重たい格子戸を、わずかな体重をあずけるようにして一人で開けた清乃は、今までで一番大きな声でそう叫んだ。

 奥の方から、母親らしい人の返事がかすかに聞こえる。

 章太郎も玄関をまたぎ、妹の開けた引き戸を要領よく動かして、中からピシャリと閉めた。ひびの入ったガラスには、紙テープでつぎはぎがしてある。

 庇の下には黒ずんだ表札があり、うっすらとした文字で「上松實」と書かれている。

 ウエマツ……その下は何と読むのであろう。

 とり残された僕とチュン太は、しかたなく、瓦屋根を飛び越えて、家の裏手へ行ってみることにした。

 決して裕福そうには見えない、どちらかと言えばつつましい感じのする彼らの家にも、裏へ回るとなかなか立派な庭があった。敷地はさほど広くないが、柿の木があって納屋なやがあって、洗濯物を干せるくらいのスペースは十分にある。かつては余裕のある暮らしを営んでいたらしいことがそこから伺われるが、しかし、いたる所に生え放題になった雑草を見ると、ここしばらくは手入れをする人手は足りていないようだ。

 にもかかわらず、その庭がどこかしら品よく見えたのは、柿の木のとなりにある石灯籠のせいであった。子供の背丈くらいの苔むした石灯籠が、忘れられたようにポツリと片隅に立っている。

「なんだろうね」

「なにか由来がありそうだね」

 僕らはどうにかして家の中の様子が見たかったが、なにぶん冬の日の暮れやすく、すべての戸はすでに閉じられていた。

 なすすべもなく、縁台の下にまきの積んである隙間すきまを見つけ、僕らはそこにもぐり込んだ。踏み石の陰にかくれて、雨露をしのぐのにちょうどよい。まだ少し早いが、今夜はここで寝ることにしよう―――ふと空を見上げると、山の頂きにはすでにオリオン座がかかっていた。

 僕は、これまで辿って来た道、訪れた時代をふり返りながら、チュン太と身を寄せ合い、だまって目を閉じた。

 すると思いがけず、頭の上から家族の会話らしいものが聞こえて来た。

「わたしはそがいに食べられんよ」

「いいんですよ、お母さん。あるときに食べとかんと、近頃はなかなか手に入らんのですから……」

 一家団欒だんらんがちょうど僕らの真上であるらしく、その声は意外とはっきりと聞こえて来た。夕飯どきであろうか。

きよちゃんや、さきに好きなだけ食べんさい。ばあちゃんは残りをもらう」

「おおきに……」

「清乃は魚を食べるのが下手へたじゃからなあ」

 章太郎の笑い声が混じる。

 母、清乃、章太郎、祖母の四人が、仲よく食卓を囲んでいるらしい。

 食事の内容までは分からなかったが、意外と早く「ごちそうさま……」の声がしたところを見ると、あまり品数は多くなかったようである。そのうち清乃と祖母は、食べ終わってどこかへ引っ込んでしまったらしく、聞こえて来るのは章太郎と母親の声だけになった。

「お母さん……」

 章太郎がなにかを口ごもるように言った。咳払いが聞こえる。

「僕、……兵学校を受けようと思うんじゃ―――海軍兵学校」

 進路についての話であろうか。

 母親の返答に一瞬があった。

「あら……」

 しかし、つとめて平静を装うように、

「そう……。一高を受けるんじゃなかったの?」

と、食器を片付けながら問い返す声がした。

「うん……。一高は官立だけど、すこしは授業料がかかる。兵学校は完全に無料なんじゃ。それに今の時代、兵学校のほうが活躍の場が多いし、なにより、外国語を自由に勉強出来るのがええ。それが出来るのは兵学校だけなんじゃ」

 章太郎の語気が強まり、にわかに早口になる。

 母親はうしろを向いたまま黙っている。

 章太郎はなおも、自分の目指そうとする学校の美点を力説しようとするが、どうやら母親の心には響いていないようだ。彼女はやはり、水仕事をしながらのくぐもった声で、

「……お父さんの仕事のことを心配しとるんね?……」

と、胸の内にあることを真っすぐに訊いた。

「そうじゃないけど、……いや、それもあるけど……」

 章太郎の方は歯切れが悪く、ついつい曖昧な返事になってしまう。そこには何か事情がありそうである。

 しかし、かえって見透かされたことに意を決したのか、

「その方がうちのためでもあるし、お国のためにもなる。……お父さんをバカにした奴らを見返したいんじゃ」

と、こんどは本音に近いことをキッパリと言った。

 母親はあい変らず落ち着いている。

「お父さんはそがいなこと、ちっとも気にしておられんよ。でも、あんたが決めたことなら、反対はしなさらんと思う。帰ったらお父さんに相談してみんさい」

「……分かった。……でも、たぶんお父さんは、おう、ほうか、としか言わんと思うけど……」

 やがて夜空に満天の星が冴え冴えと輝きはじめたころ、重たい玄関の戸をガタガタと開ける音がした。つづいて、靴を脱ぎながらであろう、「ただいま……」という低い声が聞こえた。

 いちばん先に返事をしたのは清乃であった。

「おかえり、お父ちゃん!」

 廊下をトコトコと走りながら、駆け寄って何かを一生懸命喋っているようだ。

「お父ちゃん、きょうね、境川さかいがわをとおって、お兄ちゃんと、スイヘイサンを見てきたの。ほいで、本通りを歩いて、帰ってきたの……」

「おう、ほうか」

「ほいでね、お兄ちゃんに干し芋……」

と言いかけたところで、清乃は言っていいことかどうか迷ったらしく、急に口ごもった。

 父親はそんなことには一向頓着せず、ゆっくりと居間の方へ歩いて行った。

「ただいま……」

「お帰り、お父さん」

「おかえり……」

 妻と息子に迎えられ、この家の主人はようやく人心地ついたようで、かばんを下ろし、どっかと畳に腰を据えた。

 なおもまとわりつこうとする娘を、ついには母親が制した。

「清乃。お父ちゃんはお疲れなんよ。ばあちゃんの部屋へ行ってらっしゃい」

 清乃は聞き分けよく、はーい、と言ってまた足早に立ち去った。

「いつお帰りになるか分からんので、さきにご飯すませてしまいました」

「ええよ」

「すぐ支度したくしますけ……」

 母が炊事場に立つあいだ、父はカチリとライターで煙草に火を点ける。

 章太郎と父は、卓袱ちゃぶ台を囲んで差し向かいのまま、とくに会話するでもなく、だまって母の背中を見ていた。そのしずかな様子は、どことなくぎこちない感じでもある。父と息子とはいつの世もそういうものであろうか。

「会社はいかがでしたか」

 味噌汁椀を置きながら、最初に口を開いたのは母であった。

「……まだゴタゴタしとる。営業停止は避けられたが、かなり業務縮小になった。刷り上がった本も、ほとんどがお蔵入りじゃ……」

 汁をすする音がする。

「検閲がきびしいんですね」

「出版できるのは、国策に添ったつまらん本か、社内向け小冊子くらいじゃ。だんだん自由にものが言えん時代になって来よる……」

「……」

「今日は広島じゅうの病院と学校をまわって、ひたすら注文取りをしとったよ。足が棒のようじゃわい。サダエ、あとでんでくれんかのう……」

「お父さん、風呂沸かしましょうか」

 章太郎が声を発する。

「おお、ありがとう。ほうしてくれるか」

 やがて縁側の方へ足音が近づいて来たかと思うと、ふいに雨戸がガラガラと開いた。僕らはあわてて身をひそめた。

 しばらくじっと様子を見ていると、カラコロという下駄の音につづいて、章太郎の大きな顔がニュッと僕らのいる縁の下を覗き込んだ。そして巨大な手が伸びて来て、僕らの鼻先を通り越し、積んであるまきの一本を掴んで引き抜いた。さらに四、五本を引き集め、章太郎はその束を脇にかかえてどこかへ去って行く。

 恐る恐る外へ出て、気づかれないようについて行ってみると、角を曲がった裏手に風呂場らしき格子窓があり、さらにその下に薪をくべるがあった。章太郎はかがみ込んでマッチで火を点け、大きくなって来た火に少しずつ薪をつぎ足していく。冬の夜風は冷たく、羽織の襟をおさえる章太郎の、赤々と燃え上がる炎を見つめる顔が、くっきりと火に照らされている。

「ああやって風呂を沸かすんだね」

「沸いたお湯はさぞかし貴重だろうね」

 僕とチュン太は、風呂ひとつ沸かすにも手作業でやるしかないこの時代の苦労を思いやった。

 蛇口をひねればお湯が出る時代に生まれた僕らは、いわば急行列車に乗っているようなものだ。目的地に着くのは早いが、各駅停車の窓から見る風景の美しさは分からない。章太郎が見つめている炎の色は、おそらく、僕らがかつて見たどんな炎より、濃く深く赤いのではないだろうか―――

「お父さん、湯加減はどうですか。もっと熱くしましょうか」

 格子窓へ向かって章太郎が声を掛ける。

「いや、ちょうどええよ。ええ気分じゃ。ごくらく、ごくらく……」

 風呂場から響いて来るその声は思いのほか晴れやかで、やがて鼻歌が混じりはじめる。

「手のケガは……まだ痛みますか?」

 章太郎が重ねて尋ねる。

「いや、大丈夫じゃ。骨まで折れとらんかったのが幸いじゃった。あいつらのおかげで、左手で箸を使うのが上手うもうなったわい。あはは」

 さも他人ひと事のように笑い飛ばす父の明るい声にくらべ、章太郎の表情は険しい。

「……このころ出版関係の人は、思想犯の疑いをかけられて取り調べを受けたんだ。何日も拘束されて、拷問された人もいるよ……」

 チュン太の顔もいつになく険しい。事態は思うより深刻であるらしかった。もしそれが本当だとすると、何という乱暴で野蛮な、愚かしい時代が、僕らのすぐ前にあったことだろう。

 章太郎は持って来た薪をすべてくべ尽くしたところで、なにやら立ち上がって咳払いをした。いよいよ例の相談ごとのようだ。

「お父さん……」

「……ん?」

「僕、……兵学校を受けようと思うんです」

 風呂場から漏れてくる明かりに、かすかに照らされた章太郎の顔は、眉がキリリと引き締まって目が輝いている。もう誰に反対されても思いは変わらない、という強い意志が感じられる。

 そのうち父の返事がかえって来た。

「おう、ほうか」

 予想通りのその返事は、まるで、さっき帰宅したとき、今日の出来事を一生懸命報告する清乃に対してのそれと、まったく同じ調子の「おう、ほうか」であった。

 章太郎は苦笑した。

 そして、あっけないやりとりに、少し拍子抜けした顔でその場を立ち去りかけたとき、ふたたび「章太郎……」という父の声がした。

 振り返ると、格子窓に顔をつけて、父親がじっとこちらを見ている。不精髭の生えたその顔は、痩せているぶん皺が目立ったが、どことなく目元が息子に似ている。

「……章太郎。やっぱり、もちっと熱くしてくれんかのう。思うたより、体が冷えとったようじゃ。どうせこのあと、みんなも入るじゃろし……」

 章太郎はニッコリとうなずき、ふたたび小走りに薪を取りに行った。

「男同士の会話って、……よく分からないね……」

 チュン太が肩をすぼめた。

 僕にはよく分かる。

 章太郎が庭へ行っているあいだ、父親はまた湯舟に身を沈めて、ふう、とため息をついた。お湯のヒタヒタと波立つ音だけが聞こえた。その表情までは分からなかったが、先ほど口をついて出た鼻歌は、いつしかすでに消えていた。

 翌朝、僕らは例によって早く目が覚めたので、みんなが寝ているうちに、呉で一番高い山に登ってみることにした。

 一番高いと言っても、高尾山よりも少し高いくらいで、雀であるわれわれにとっては丁度よい朝の散歩コースであった。

 さっそく斜面に沿ってスイスイと飛ぶ。山の中腹にはかなりの高さに至るまで民家が点在し、段々畑とともに朝日に照らされている。その間を縫うように、迷路のような細い路がつづく。ところどころに小川も流れている。生活の息吹いぶきと人間のたくましさを感じながら、われわれはさらに登ると、さすがに民家も途絶え、山深くなった辺りの、冬枯れた林の中に、頂上と思しき山肌が見えた。僕とチュン太はせり出した大きな岩の上に降り立った。

 ふり返ると眼下には、朝もやにかすむ呉市街の眺望が大きく開けている。僕らは羽を伸ばして深呼吸した。

 やはり高いところからの眺めはすがすがしくて気持ちがいい。

「来てよかったね」

「早起きは三文の得だね」

 われわれはどちらからともなく「ヤッホー」「ヤッホー」と、大きな声を競い合った。頂上に立つ石碑には「灰ヶ峰」と記してある。

 清乃の家はおそらく、あのなだらかなふもとの、人里の始まる辺りであろうか。ちょうどそこから市街地が開け、幾筋かの大通りに沿って繁華な街並みがつづいている。目を凝らすと、昨日その流れを辿った小さな川のほとりに、目じるしの鉄塔が小さくそそり立っている。海に出る手前には海兵たちの訓練所が見える。その向こうが、鏡のように輝く瀬戸内海だ。海に浮かぶ船たちは、動いているのか止まっているのか、のんびりと眠るように停泊している。

 まるで両手ですくい上げられた泉の水のような美しいこの街の風景を見ていると、ほんとうに今、どこかで激しい戦争が行われているということが、いぶかしくさえ思えて来る。

 朝の空気を十分に堪能した僕らは、またすぐに山を下りた。さきほどより太陽が高くなり、起きて働く人間の姿もちらほら見えはじめる。井戸水を汲む人、窓を開けて布団を干す人、あわただしく坂道を下りる人―――一日のはじまりの風景がそこにある。

 そんな中、ふと見ると、小さなせせらぎに沿って、リヤカーを引きながら畦道を登ってくる一人の老女があった。すこし猫背ではあるが、気丈にリヤカーを引くその姿は、どちらかと言えばとしている。リヤカーの荷台には、孫とおぼしき小さな女の子を乗せている。僕はそのおかっぱ頭の女の子が、すぐに誰だか分かった。

「清乃ちゃんだ」

 僕は自分の祖母をうっかり「ちゃん」付けで呼んでしまったが、この場合、なぜかその呼び方がしっくりと来た。

 清乃は赤いスカートにセーター姿で、荷台のうしろにちょこんと腰かけ、足をぶらぶらさせている。

 祖母のほうは―――ややこしいが、清乃の祖母のほうは―――手拭いをかぶった白髪しらがまじりの頭で、ときどき後ろを振り返り、孫の無事を確かめている。腰にはゆったりと動きやすそうな、足首のしまったかすりのズボンを穿いている。

「モンペ、というんだよ」

 チュン太に言われるまでもなく、僕はその、昭和の女性の代名詞のような格好を知っていた。

 二人は、おそらく朝の日課であろうか、段々畑の脇道にリヤカーを止め、なにやら畑仕事を始めるようであった。荷台に積んであったくわや鎌やバケツを下ろし、連れ立って畑へ向かう。

 作業を見ていると、祖母が地面に振り下ろした鍬に、清乃が体重をかけて乗っかり、少しだけ刃先を深く入れる手伝いをしているようであった。それは、やってもやらなくてもいいような仕事であったが、清乃は役に立っているのがうれしいらしく、喜々としてその役割をつとめていた。

 二人の女手による、ゆっくりとした作業ぶりでも、ものの三十分もつづけているうちに、固い地面はやわらかく耕されて行った。

「もうこのくらいでよかろ……」

 祖母がそう言ったので、清乃も手伝いをやめ、掘り返して色が変わった地面を、満足そうに眺めている。

「きーちゃん、水くんでくる」

 ここからは自分の仕事、とばかりに、清乃は転がっていたバケツをつかむと、畑の横を流れる小川のへりへ行って腹這いになった。そしてバケツを沈めながら水を汲み、両手でそれを重たそうに運んで来る。

「おお、つよい、つよい。清ちゃんは力持ちじゃのう」

 祖母におだてられて、彼女は鼻の穴をふくらませる。

 耕した土の上にバケツの水を柄杓ひしゃくで丁寧に振りかけると、祖母は「……これでよし。さ、帰ろ」と言って農具を片付けはじめた。清乃も真似をしてバケツをリヤカーに積み込む。

 僕は子供のころ、祖母といっしょに(清乃のことだ)禅林寺の近くの畑へ行って、同じように作業を手伝ったことを思い出した。手伝ったと言っても、やはりただ邪魔をしていたに過ぎないが、初めて一人で鍬を持たせてもらい、思い切り地面に振り下ろした時の、くぐもった心地よい音と、なんとも言えない誇らしい気分を今でもはっきりと覚えている。

 二人が家に帰ると、いつのまにか庭先の戸はすべて開け放たれていた。寒い冬の朝でも、空気の入れ替えは怠らないようである。おかげで、昨日は分からなかった家の中の様子を、遠慮なく垣間見ることが出来た。日差しが強く、中は薄暗かったが、目が慣れて来ると、卓袱ちゃぶ台の上に食事の準備をする女性の姿がうっすらと見えた。かっぽう着姿のその女性は、声だけは昨日耳にした、清乃の母であった。

「おかえり!」

 納屋の壁にリヤカーを立てかける祖母と清乃に、彼女は縁台の上から声を掛けた。

「朝ごはん出来とるよ。お父さんはもう出かけんさるけ、清乃、行ってらっしゃいをしなさい」

 母に言われて、清乃はトコトコと駆け出し、庭から玄関の方へまわった。

 僕らも行ってみると、ガタピシと開いた引き戸から、枯草色の地味な服装に、やはり同じ色の帽子をかぶった父親が、ヨッコラと敷居をまたぐところであった。脚にはベージュ色の包帯のようなものを巻いている。

「お父ちゃん、行ってらっしゃーい!」

 駆け寄って来る娘のおかっぱ頭をなで、かすかに微笑む父の顔は、昨夜とちがってきれいに髭が剃られている。朝の光の中で見ると、父親は昨夜の印象よりもいくぶん若いようだ。

「あの兵隊みたいな格好はなに?」

 僕はその独特の服装についてチュン太に尋ねてみた。

「国民服、っていうんだよ。国が定めた成人男子の基本スタイルだ。脚に巻いているのはゲートル。すそが締まって歩きやすいらしい。ぼくたちの脚みたいだね」

 なるほど、たしかに機能的で動きやすそうだ。それにしても―――柔和ながら反骨精神の強そうなこの父にまでそんな格好をさせてしまう時代の空気というものを、僕は一方で、とても痛々しく感じた。どんな自由な人でも、時代の流れにはあらがえないものなのだろうか。もっとも、この父親ならば、「どうでもええことには、したごうとった方がええ」と言いそうな気もするが……。 

 父を見送った清乃はそのまま居間へ戻ると、用意された食卓の前へちょこんと正座した。僕らもまた庭へと飛び、柿の木に止まって中の様子を観察した。章太郎もいつのまにかそこにいた。

「清乃。も一つ仕事を忘れとるぞ」

 兄に言われて、清乃は「あっ」という顔で立ち上がり、台所と座敷の間にある柱のもとへ駆け寄った。そして爪先立ちをして、何をするかと思うと、柱に掛けられた日めくりカレンダーを一枚めくるのであった。うすい紙を、途中で破れないように、丁寧に端からめくり取る。これが清乃の朝の役目であるらしかった。

 大きなカレンダーの紙面には「皇紀二六〇〇年」と書かれている。そのとなりに小さく「昭和十五年」と記してある。

「皇紀、ってなんだろう……」

 僕は耳慣れない表記が気になって、チュン太に訊いてみた。

「日本の最初の天皇―――神武天皇を紀元とする数え方だよ。ちなみに昭和十五年は皇紀二六〇〇年にあたる。区切りのいいゼロの年だ。この年に造られた戦闘機の名機が『ゼロ戦』だよ」

 ふーん、と聞いていた僕は、いっしゅんにして何かがつながった気がした。

 小さな島国日本。ゆたかな自然はあるが、近代社会を生き抜くための資源に乏しい弱小国。川にたとえると、それはささやかな小川にすぎないが、源流をさかのぼれば、どの外国よりも長くつづく歴史がある。大国に挟まれて戦々恐々とするなか、唯一誇れるその歴史のを、人々は心の拠り所にしたのであろう。そんな特異な条件のもとで、そこに暮らす人々はたくましく生きている―――

 章太郎はあっという間にご飯を平らげると、すぐさま立ち上がり、二階の自分の部屋へ消えて行った。祖母が納屋を片付けて座につくころには、一粒残さずきれいに食べられたからの茶碗が卓上にあった。

 僕らは二階の屋根に飛んで、窓枠から章太郎の部屋を覗き見た。章太郎はもうすでに机に向かって勉強をはじめている。

「こういうところが、ぼんちゃんと少しちがうね……」

 チュン太は面白そうにこちらを見てクスクスと笑った。

 聞くところによると、海軍兵学校というのは、当時「一高」と呼ばれた今の東大と同じくらい入学が難しく、むしろが一高に行くといわれた程であるらしかった。

 いまは冬休みであろうか、章太郎は一日中ずっと部屋にこもったまま、ふたを閉じたサザエのように外に出て来なかった。

 下の庭では、清乃が縁側で、紙ヒコーキの折り方を母に教わっているところであった。

 紙はさきほど破りとったカレンダーの反故ほごである。うつむき加減に小さな清乃の手をとる母の睫毛まつげは長く、その頬は心なしかうっすらと赤みを帯びている。こちらも父親と同じく、思ったよりも若い人のようだ。たしかサダエと呼ばれていた。

「……ここで端と端を合わせて、しっかりと折るのが、まっすぐ飛ぶコツなんよ。やってみんさい」

 清乃は言われた通りやろうとするが、どうも、一方の端を押さえている間に他方がズレてしまい、なかなか思うようにいかない。結局、適当なところで折り目をつけ、苦心の末、不格好ではあるが、なかなか愛敬あいきょうのあるヒコーキが出来上がった。

 清乃は勇んで立ち上がり、庭に向かってそれを飛ばそうとする。

「ふわっと、かるく投げるんよ―――」

 母の声が耳に届くか届かないうちに、清乃は思い切り、投げつけるようにそれを飛ばした。乱暴にあつかわれたヒコーキは案の定、すぐ近くの地面へ頭からコツリと落ちた。

 サダエは笑いながら下駄をつっかけ、それを拾い上げてまた戻って来た。

「見てんさい」

 母親はいったん紙を拡げなおし、清乃のつけた折り目を、正しい位置に合わせながら、手際よく形のよいヒコーキを折り上げた。

 そして縁台に立って庭の方を向いた。

 白いかっぽう着姿の彼女の背丈は、小さな清乃と比べるせいか、とてつもなく大きく見えた。

「こうやって……」

 母は振りかぶり、

「ゆっくりと……」

と投げる動作に入り、

「……放す!」

と、最後は手首に若干の力をこめてヒコーキを飛ばした。

 ヒコーキはふわりと揚力を得て、優雅に放物線を描き、思いのほか遠くまで飛んだ。

 投げた拍子に跳ね上がった彼女の白い靴下が、お転婆てんばな少女を思わせた。

 サダエは得意気にパチパチと手を叩き、満面の笑みで清乃をふり返る。清乃もニッコリと母を見上げながら、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる。

 石灯籠の根元の、苔むした地面の上に落ちたヒコーキは、一瞬の躍動感と生命の輝きを見せたあと、何もなかったようにまたひっそりと地面に静止している。

 うらがえしの薄紙の翼には「皇紀二六〇〇年」の文字が透けて見えた。

 それからしばらくは平凡な日々がつづいた。

 父はあい変らず、苦境に立つ会社を立て直すため、営業にかけずり回る。

 章太郎は勉学にいそしむ。

 祖母と清乃は、畑仕事や針仕事、井戸の水汲みなど、ひまつぶしを兼ねた雑用の日々。

 そんな中で、唯一暮らしぶりに変化があったのは、母のサダエであった。

 年が明け、ささやかな正月の行事も一段落したころ、サダエはいつのまに探して来たのか、海軍の工場の食堂でまかないの仕事をすることになった。ある夕飯の席でそれを発表した。

「来月から働きに出まーす……」

 仕事と言っても一家の主婦であるから、家族の朝食を作り、みんなを送り出したあと、昼間の三、四時間だけ働くのである。勤務地は港の左岸にある、いつかクレーンで巨大な何かを造っていたあの工場の一部であるらしかった。「コウショウさん、コウショウさん」とサダエは言った。

「呉の海軍工廠こうしょうだよ。国営の軍需工場だ」とチュン太が補足した。

 どうやらその一帯は巨大な工場になっていて、日本海軍の船舶の大部分や、鉄砲、弾薬などの兵器類を、大がかりに造っている国の重要施設なのであった。そう言えばいつか見たレンガ造りの立派な官舎も「呉鎮守府」という海軍の最高司令部であった。

 それにしても、父との間にそんな話し合いがあったとは思えないが、おおかたサダエが独りぎめに決めたものを、父が例の「おう、ほうか」で承諾し、そのまま既成事実となったのであろう。幼い清乃の世話も、幸い祖母になついていることもあるし、昼食は作り置きして行くということで、こちらも祖母の「それでええよ」で済んだのかもしれない。こういう、言わば家風は、いまの僕の家族にも受け継がれている。

 パートが始まってからも、サダエは遅くとも三時には帰って来るので、とくに支障なく生活はつづいた。 

 清乃も元気に母を見送った。

 サダエはどちらかと言えば新しい仕事を楽しんでいるように見えた。ある時など、職場で教わって来たパンの焼き方を、家族の食卓に取り入れたりした。清乃は喜んでそれを食べた。そう言えば今でも、清乃は一人だけ朝はパン食である―――

「女性はたくましいね」

 毎晩おそく、くたびれて帰って来る父に比べて、いつも生き生きとしている母の姿は、つつましやかな一家の雰囲気を明るくした。

 しかしいつの頃からか、そんな彼女の口から、物資の不足を嘆く声が聞かれはじめた。

「砂糖が手に入らんようになった……」

 仕事がえりに買い物を済ませてくる彼女は、ある日、めずらしく眉をひそめた。

「マッチも高うなっとる。なるべく大切に使わんと……」

 章太郎は中学から帰って来たあと、やはりすぐに机に向かうことが多かったが、たまの気晴らしに、清乃を連れて、街へ散歩に出かけることもあった。清乃はそんなとき、何を差し置いてもすぐに飛んで来て、兄の手を取った。

 僕らも退屈しのぎについて行ってみると、街はあい変らずとてもにぎやかであったが、ときどき人々の口から、長びく戦争への不満といらだちの声が聞こえて来た。

支那しながなかなか降参せんのは、うしろにアメリカがついとるからじゃ……」

「この分じゃ、持久戦になるかのう……」

 砂糖にひきつづいて、米や味噌などの食料品も入手が困難になって行った。

 そしていつしか世の中には「配給制」が敷かれた。

「……まず軍関係に物資をまわし、余ったモノを国民で分けるという手順だ。戦争に役立つことが最優先だよ。国民はいろんなものを我慢することで、勝利に貢献させられたんだ……」

『ぜいたくは敵だ』とか『一億一心』などといった、団結を呼びかけるポスターが街中に貼られた。どうやら政府が準備したスローガンのようだ。

「いよいよキナ臭い雰囲気になって来たね……」

 もっとも人々の表情はまだ決して暗いものではなく、むしろ日本の勝利を信じて疑わない誇りと自信にあふれていた。

―――神国日本が負けるわけがない。いまこそ日本が亜細亜アジアのリーダーとなり、世界にその名をとどろかす時だ―――

 時代の空気はあくまで強気で楽観的であった。

 また、ラジオのニュースも、勇ましい口調で国民の士気をあおる報道を流した。『大東亜共栄圏』という言葉がたびたび聞かれた。

 チュン太が宙を見据える。

「じっさい、この頃の日本の領土は、台湾から朝鮮、満州国と呼ばれる中国大陸の一部に至るまで、今より数倍広大なものだったんだ。強い者が領土を奪い取るという、弱肉強食の論理だね……」

 敗戦後に生を受けた僕は、「戦争」というと「負けてミジメになる」というイメージであったが、その逆に「勝って豊かになる」という発想でいけば、それはということになる。「戦争は良いもの」―――この感じを、少し理解してしまった自分が、僕は急に恐ろしくなった。

 しかし―――時代の流れがどちらへ向かうにしても、人々はただ、目の前の生活をどうするかにのみ、心を砕くものである。自分の頭の上で育ちつつある大きな怪物の影には、ゆめゆめ気づく様子もない。

 昭和十六年の春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が来て、また冬になった。

 章太郎は海軍兵学校に合格した。

「合格祝いに、宮島へでも行こうか」

 言い出したのは父であった。

 父は、いつまで続くか分からない困難な生活の中で、つかの間の息抜きがしたかったのかも知れない。

 ある晴れた日、それぞれに着飾って、家族総出の小旅行となった。

 一行は電車と船を乗りついで、広島の先、赤い鳥居が海の中にそそり立つ風光明媚な神社へと向かった。

厳島いつくしま神社だね」

 僕らも鳥居の上に止まって、波の向こうの立派な神殿を眺めた。

 いかめしい屋根の下につづく廊下や、神官たちの華やかな装束を見ていると、ここがどの時代なのか、ふと分からなくなってくる。やはり神社というものは、時代を超越した、タイムスリップする場所のようである。

 戦争中なのに、思いのほか参拝客の数は多い。どんな時でも、観光や娯楽は必要、ということか。

 祭壇に向かって手を合わせる章太郎のとなりで、清乃も見よう見まねで頭を下げている。

 僕はふと、小さいころ家族でった、僕の七五三のときの写真を思い出した。にこやかな両親と祖母のあいだで、なぜか半ズボンの僕だけが、なんとも不機嫌な顔でこちらを睨みつけている写真だ。そのとき何が気に入らなかったのか、今では覚えていないが、それからもよくその仏頂面について父や母にからかわれた。

 一行は参拝をすますと、ふたたび船と電車を乗りついで帰途に就く。道すがら、思い立ってこんどは途中の広島駅で降りた。

「デパートで食事をしよう」

 父の提案に清乃が手を叩いて喜んだ。

 路面電車に乗って、一行が降り立ったのは、大通りに面した繁華街に立つ、ある大きな百貨店であった。様々なビルがひしめき合う中で、ひときわ立派にそびえ立つその建物を、一家はそろって見上げた。『福屋百貨店』という、金色の浮き彫りの文字に、わくわくする心が伝わって来た。

 彼らが中へ入って行ったので、われわれは建物に沿って上昇し、最上階に近いガラス張りの窓から中の様子を盗み見た。

 ほどなくして、白いテーブルに並べられた料理に、みんなの笑みがこぼれるのが見えた。特別に用意された高い椅子に座った清乃の前には、黄色い楕円形のものが運ばれた。

 清乃は目を丸くしてそれを見ている。

「オムライスだね……」

 僕とチュン太はニッコリと顔を見合わせた。

 物資がしだいに欠乏していく時代に、まだ少しは残されていたささやかな贅沢を、彼らは思う存分楽しんでいるようであった。一家の経済状態からしても、それは最後にもてあそんだ精いっぱいの豪遊であったにちがいない―――

 呉へ帰り着くと、ふたたび緊迫した日常が彼らを待っていた。

 章太郎は海軍兵学校へ入学するために家を出た。

 章太郎の学校は、呉の港から向こう側に見える江田島えたじまという島にあったが、全寮制のため、近い者でも荷物をまとめる必要があった。

 章太郎のいなくなった上松家は、やはりどことなく寂しい感じがした。昼間は父親も働きに出、母親も不在、残された清乃は、祖母とともに暇をもてあました。清乃はそのことについて、とくに不平を言うことはなかったものの、母親が帰って来た時の喜びようを見ると、やはり幼いなりに、寂しい思いを我慢していたのであろう。母親の手を取り、配給の列に並ぶときも、その顔を見上げる表情はいつになく嬉しそうであった。

 そんな折、世間をゆるがす大きなニュースが飛び込んで来た。

 ラジオから流れ出る生真面目なアナウンサーの声は、日米の開戦を告げていた。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。

 大本営陸海りくかい軍部十二月八日ようか午前六時発表

 帝国陸海軍はこん八日未明、西太平洋におい

 米英軍と戦闘状態にれり

 帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋に於て

 米英軍と戦闘状態に入れり……」

 いよいよアメリカとの戦争が始まったのだと、僕は緊張した。

「……アメリカが日本への石油の輸出を禁止したのをきっかけに、追い詰められた日本がハワイの真珠湾を攻撃したんだ……」

 チュン太が真剣な目で言った。

 僕らは、世の中の人々がどんなに取り乱しているか、様子を見るために市街地へと飛んだ。

 繁華街に出ると、ラジオの設置された場所では押し合いへし合い、人々が寄り集まって、その声に耳を傾けている。さぞや困惑した顔をしているかと想像しながら、僕はその人だかりを覗き込んだ。

 ところが、予想に反して、人々は嘆き悲しむどころか、むしろ歓喜の色をさえ浮かべているではないか―――

「よし、よくやった!」

にっくきアメ公をこらしめてやれ!」

 こぶしを突き上げる人々の口から、強く勇ましいセリフが声高に飛び交う。それは僕の想像だにしなかった光景であった。

「みんな、……喜んでるんだ……」

 僕はあっけにとられ、その様子を眺めた。すくなくとも、そこにいる人々は日米の開戦を

「……それまでアメリカにさんざんめ上げられて来たから、仕返しをしてやった解放感でいっぱいだったんだね」 

 チュン太がつぶやく。

 街には勇壮な軍艦マーチが流れ、見知らぬ者同士が肩を組んで拳を振りながら軍歌を合唱している。お祭り気分と言ってもよかった。

 ちょうどそのころ、呉の港に、見たこともないような巨大な船がゆっくりと姿を現した。居合わせた人々は目を丸くしてそれを見ている。

「な、なんだ、あれは……」

 僕はその、いかめしい砲台を備えた、動く要塞のような恐ろしく長大な船を、端から端まで眺め回した。まるで一つのが、そのまま動いているようであった。目を凝らすと、中で働く大勢の乗組員の姿が小さく見える。

「戦艦大和やまと……」

 僕の頭に、思わずその名前が浮かんだ。決して軍艦に詳しい訳ではないが、あれが「大和」でなくて何であろう、という確信のようなものがあった。

「……てことは、大きな屋根の下で、ひそかに造っていたあれは、戦艦大和だったんだ……」

 チュン太はだまっていたが、その沈黙は肯定を意味していた。

 僕はあらためて、ここが戦時中の日本であることを思い出した。

 今まで、何となく頭では分かっていても、どうもピンと来ていなかったようだ。祖母はこんな時代を生きてきたんだ―――

 しかもそれは、今からそう遠くない過去の話である。

 僕は大和の姿をの当たりにして、一気に寝ぼけまなこを覚まされた気がした。

 それからというもの、世の中は雪崩なだれのように、物資の欠乏がさらに深刻になって行った。

 米、みそ、醤油をはじめ、衣料や燃料や消耗品など、生活に必要なあらゆる物が店頭から消えた。人々はそれらを手に入れるため、長い配給の列に並ばなければならなかった。

 さらに街なかから若い男性の姿が一人へり、二人へりした。兵士として役に立ちそうな者から徴兵されたのである。あとには女性と子供と老人だけが残された。

 それでも、なにかにつけて彼らは「お国のため」という言葉で自らを鼓舞し、それらのすべてをひたすら我慢した。命がけで戦ってくれている兵隊さんに申し訳ない―――ことあるごとに、彼らはそう呟いた。

 そして「日本快進撃」のニュースが流れると、人々はいっせいに歓喜の声を上げた。

 章太郎の父は、徴兵の年齢を少し過ぎていたため、召集の対象にはならなかった。

みのるさんはどうしとるね、元気かね?」

 配給の列に並ぶサダエに、恰幅かっぷくのいいモンペ姿の女性が歩み寄って声を掛けた。

「ああ、榊さん。おかげ様でなんとかやっとります。このご時勢で、なかなか注文は取れんようですが……」

 二人の会話から、父の名が「みのる」であることが分かった。

 女性はサダエよりも少し年かさの、チャキチャキとした男まさりの性格であった。

「あんひたぁ、昔から頭が良うて、なんでも人よりよう出来でけた。しかし、ちいと要領の悪いところがあってのう、せいぜい損させんよう、あんたが世話してやらんとな……あん人の悪口言うヤツがおったら、あたしがタダじゃ置かんけ……」

 榊さんは豪快に笑った。そして、かたわらで母の手を取る清乃の頭をなでながら、

「清ちゃん、こんにちは」

と言った。

「こんにちは……」

 清乃はさっきから、榊さんが連れている男の子とチラチラ目を合わせて、なにやらクスクスと笑っている。

 男の子はガニ股になってお道化どけたり、ゴリラの真似をしたりして、清乃を笑わせている。半ズボンのすき間からは横チンが見える。

「トシオちゃん。こんにちは」

 サダエが男の子に声を掛けるが、男の子は返事をしない。聞こえてはいるけれども、照れ臭くて、わざと気付かないフリをしているようだ。

「こら、トシオ。ちゃんと挨拶しなさい!」

 榊さんに頭を小突かれて、トシオ君はしぶしぶ口の中で「こんにちは……」と呟いた。

「まったく、どうしようもない悪ガキで困る……。章ちゃんのように出来がええとええんじゃが……。兵学校はどうかの。頑張っとるかの」

「さあ、どうですか。あんまり帰って来んので……。そう言えば、マサル君は元気ですかのう。章太郎が子供んころ、よう遊んでもろたが、もう二十歳はたちになりますか……」

「ああ、元気じゃ。うちは元気なだけが取りじゃ。元気過ぎて、こないだ甲種合格をもろてしもたわい。あははは……」

 榊さんはまた笑ったが、こんどの笑顔はどこか歯切れが悪かった。

「……甲種合格というのは、徴兵検査で、いちばん丈夫な人がもらうんだよ。兵隊の第一候補だ……」

 チュン太が言った。

 僕は押し黙った。

 それから二十分ほど列に並んで、彼女たちが手にしたのは、配給のトウモロコシと豆かすのようなものであった。

「まるで僕たちのエサみたいだね……」

 僕らは配給所のテーブルの下にこぼれたトウモロコシをついばんでみたが、とても硬くて食べられたものではなかった―――

 また別の日には、金属の回収というものが行われた。配給のときと同じく、それは近所の公民館を使って開催されたが、こちらもなかなかの賑わいであった。『愛国婦人会』というタスキをした女性たちが世話役をつとめている。集まったメンバーも、この前とだいたい同じ顔ぶれである。

「金属を回収して、何をするんだろう」

「船や飛行機や鉄砲のたまを作るんだよ」

「そんなに鉄が足りないの?」

「鉄もほとんどアメリカから輸入してたから、それをストップされて困ってるんだ。石油と同じだよ」

「そういえば、石油にしても、アメリカがだめなら中東から輸入すればいいじゃないか」

「中東が石油産業で伸びるのは戦後になってからだ。そのころはアメリカが世界一の産油国だったんだ。日本もその多くをアメリカから輸入していたから、それを止めることが、日本を困らせる作戦としては有効なんだよ」

 僕は世界の歴史について、皆目無知な自分を恥じた。

 パンがなければお菓子を食べればいい―――そのマリーの言葉は濡れぎぬであったけれども、この場合の僕の見識のなさは救いようがなかった。

 お金さえ出せば何でも買える平成の日本。夜中にお腹が空けば、コンビニに行っておにぎりを買えばいい。しかし時にはそれさえも億劫おっくうがる自分がいる。あるいはお金がなくても、一か月くらいは何とか暮らせるであろう「たくわえ」のある豊かな日本―――

 どうやらこんな国は、世界史的に見てもかなり珍しいのではないだろうか。そして、そんな条件のもとに生まれた自分が、たくましく貧窮に耐えている人たちを、よもやさげすむことなど出来るであろうか……

 僕はいたたまれない気分になりながら、寄り集まった人々の作業を眺めた。

 公民館の裏庭では、集められた金属類がボロボロのむしろの上に並べられている。鍋や薬缶やかんや鉄瓶など、台所で使う調理器具をはじめ、ベルトのバックル、ボタンや留め金など衣類の部品、使わなくなったミシンや農機具、使っている途中らしき日用品の数々、それらがごちゃごちゃと山のように積まれている。珍しいところでは、商店の看板、お寺の柄杓ひしゃくや仏具に加え、大きな青い釣鐘つりがねまでが、あらたな使命を授かるべく順番を待っているのであった。

「あんなものまで……」

 僕はため息をついた。よくもまあ色々と探して来たものだ。しかもみんな、嫌々いやいやではなく、それらを持ち寄っているのである。

 サダエが持参したのは、刃こぼれのした包丁、たんすの取っ手、古いアルミの弁当箱、少し高価そうなネックレス、それに、銀色に光る小さなものは「ライター」のようであった。

 貴金属には幾らかの代価が支払われるものと見え、サダエはテーブルの上でしばし鑑定を受けている。と、それを見つけた榊さんがあわてて近寄って来て、耳元でなにかを囁いた。

「あんた、これ……」

「いえ、いいんです……」

 サダエはキッパリと言った。そのつややかなネックレスは、なにか大事な記念の品なのであろうか。

「それに、こっちは實さんの……」

と、榊さんはテーブルに置かれたライターをすばやく手に取ると、しばらくそれを眺め、すぐさまサダエの手の中に押し込むように握らせた。

「いいんです、いいんです」

と、サダエは笑いながら、こんどはこちらが小声になって、

「……うちの主人はみなさんにあんまり良う思われとりませんから、このぐらいはせんと……。それに本人も、これをきっかけに煙草やめるからええ言うとりましたけ……」

と言ってライターをふたたびテーブルへ戻した。

 榊さんは困ったような、怒ったような、複雑な表情を浮かべ、いつまでも口の中で何かブツブツ言っている。

 庭の隅では子供たちが、そんな大人の事情には頓着せず、元気に相撲をとって遊んでいる。

 ありふれた日常の風景であるが、僕はなぜかしみじみとした思いで見つめた。

 物資の欠乏をおぎなうように、街の一角に「闇市やみいち」が現れたのもこの頃であった。わずかな配給品はすぐに底をつき、人々はどうしても必要な物品を、少々高くても「闇」で調達した。政府も事情をかんがみ、これを黙認したようである。

 狭苦しい路地に、ごちゃごちゃと急ごしらえの小屋が建ち並び、あまり人目につかぬよう様々な物品が売られた。したたかな商人たちは、ガタつく台の上に並べた商品に、乱雑な文字で値段を書いた。背に腹は代えられない客たちの表情から、それらが法外な値段であることが分かった。売る方も買う方も、どこかうしろめたい雰囲気があったが、それでも、その界隈から立ち昇る熱気は、人間が生きるための猥雑わいざつなエネルギーに溢れていた。

 欲しかった食材と調味料を手にしたサダエ母子おやこは、心なしか軽い足どりで家路についた。清乃は白い息を吐きながら、新聞紙にくるまれた食材を抱きかかえ、スキップなどして嬉しそうである。見ると、その新聞には黒々とした文字で「皇軍○○半島を制圧」と書いてあった。「向かうところ敵なし」「見よ赫々かっかくたる大戦果」―――華々しい文字が紙面に踊っている。

「あしたはお兄ちゃんが帰ってくる!あしたはお兄ちゃんが帰ってくる!……」

 家に着くまでの間、清乃は何度もそう呟き、ピョンピョン飛び跳ねた。サダエもだまって微笑んでいる。

 章太郎が兵学校に入学してから、もう一年が経とうとしていた。

 翌朝、清乃は祖母の手を取るようにして畑へ促した。日課の畑仕事は本日も欠かさないようである。というより、清乃はどうやら、畑で育った白菜の収穫を楽しみにしているらしかった。祖母と二人で耕した畑には、この冬、なかなか大きな白菜がゴロゴロと育っていた。その中の、いちばん立派そうな一個を、清乃が押し倒すようにもぎ取り、服が汚れるのも構わず抱きかかえると、自分ごとリヤカーに乗って家まで持ち帰った。

 勝手口から出て来たサダエが白菜を受け取り、汲んであった水につけて丁寧に泥を洗った。柱の日めくりカレンダーには赤丸がついている。日曜日のようだ。

 久々に帰って来る息子のために、サダエは本日は仕事を休んだらしい。父の實のほうは、日曜も祝日もなく、朝食のあといつも通り出かけて行った。

 この日に帰ります、という葉書は届いたものの、いついつ何時ごろ、とは書いてなかったので、一家は所在なく、午後まで章太郎を待った。

 清乃は待ちくたびれて、畳の上で寝てしまった。サダエがのついた布団をそっと掛けてやった。

 柱時計が二時を打ったころ、玄関の引き戸がガタピシと開く音がした。

 寝入っていたはずの清乃はとつぜん目を開き、布団をはねのけて起き上がった。 

 玄関へ駆けつけると、そこにはまぶしいような白い制服の、日に焼けたたくましい青年が立っていた。正面にいかりの徽章のついた正帽をかぶり、肩には金の飾りものが光っている。腰のベルトには短剣が吊るされている。

「ただいま戻りました!」

 青年は清乃に対し、まるで上官に対するようなキビキビとした動作で挙手の礼をした。

 そしてそのまま、しばらく沈黙したあと、いきなり真っ黒な顔からおどけたような白い歯を見せた。

「お兄ちゃん!」

 清乃はやっとそれが自分の兄であることに確信を持つと、ようやく笑顔になって玄関のへりまで身を寄せた。しかし、まだその凛々りりしい制服姿に緊張しているのか、手を伸ばすのをためらってモジモジしている。

 章太郎はかまわず、その赤い吊りスカートの妹を抱きかかえた。

「清乃。大きゅうなったのう!」

 久しぶりに抱き上げた妹を、章太郎はさも重たいものを持つように大袈裟にからかうと、清乃ははじめて屈託のないはしゃぎ声を上げた。

 そんな二人を見てチュン太が感心したように呟いた。

「やっぱり、ぼんちゃんにそっくりだよ」

 僕はその、軍服にも似た兵学校の制服という、僕にはあまり縁のない格好のせいか、彼の面立おもだちや表情がかえって際立って見え、チュン太がしばしば僕に似ているという意味が、やっと分かったような気がした。

 台所から出て来た母のサダエが、前かけで手を拭きながら、

「おかえり!」

と、息子を迎えた。

「ただいま……」

 章太郎はその晴れ姿を、清乃にはともかく母親に見せるのは少々照れ臭いと見え、とくに目を合わせるでもなく靴をぬいで玄関から上がった。

 サダエもただ黙って目を細めている。

「疲れたでしょ。着替えて来んさい。いまお鍋の用意しよるから」

 章太郎が帽子を脱ぐと、その下は青々とした五分刈りの坊主頭であった。

 清乃はすかさず兄の手からその帽子を奪い、自分の頭にかぶせて、兄がやったのと同じように挙手の礼をした。

「ただいま、かえりました!」

 ブカブカの帽子が前にずれて目が見えなくなり、清乃は自分で可笑しくなって、そのままお化けのフリをして笑いながら歩き回った。

 そして何かを思い出したように帽子をかぶり直し、兄の手を掴んで台所の方へ連れて行く。彼女は収穫した白菜を兄に見せたいのであった。

「ほう、これ、清乃が作ったんかのう。大きいのう」

 章太郎は大袈裟に驚いてみせる。 

 清乃はこれ以上ないほどの得意顔だ。

「うん。ばあちゃんと一緒につくった……」

 ちょうどその時、祖母が大きなみかん箱をかかえて居間に現れた。

「章ちゃん。今年も送って来たよ。こっちへ来て食べんさい」

 和歌山みかん、と書かれたその箱を、祖母はどさりと炬燵こたつの上に置き、何個かを取り出して皿の上に盛りつけた。

「ばあちゃん、ただいま……このご時世でも、みかんはまだあるんじゃのう。久しぶりに頂くとするか」

 ちょっと着替えてくる、と言って章太郎はドタドタと二階へ駆け上がり、すぐまた降りて来たときには、今度はくつろいだ姿になっていた。

 そしてそのまま炬燵に脚を入れ、胡坐あぐらをかいた。

 祖母はいつしか縁側に腰を下ろし、それっきり孫たちにはかまわず、一升瓶に入れた茶色い米を、細い棒で何度もつついている。

「ああやって手作業で精米してるんだよ」チュン太が言った。

 皿の上に並べられたみかんの一個を無造作につかむと、章太郎は慣れた手つきで皮をむきはじめた。中からみずみずしいみかんの玉が飛び出した。

 そしてサクリとそれを半分に割り、さらに小さな一片をぎ取ってポイと口の中に入れる。それを何度も繰り返し、あっという間に一個を平らげてしまった。食べ終わって章太郎は、はじめて「……うむ、うまい」と言って、日に焼けた顔をニッコリとさせた。

 僕とチュン太はゴクリを唾をのみ込んだ。

 台の上にはむき終わったみかんの皮が、八つ手のようにきれいに広げられている。

「お兄ちゃん、むくの上手うまいなあ」

 清乃はみかんのよりも、きれいに広げられたの方に感心しているようだ。目を丸くしてそれを見つめている。

「清乃もこっち来て食べえ。ばあちゃんの里の味がするぞ」

 清乃は兄のとなりに脚を入れ、ちょこんと正座してみかんの山に手を伸ばした。そして小さな玉を両手に持ち、たどたどしい手つきでむき始めた。

 ところが、彼女の意に反して、みかんの皮はつながってはむけず、ときどき引きちぎれてバラバラになった。

 清乃は残念そうに口をとがらせる。

「あーん。お兄ちゃんのように上手にタコさんにむけんのう……」

 章太郎はそんな妹の様子をいとおしそうに見ている。

「こんなん簡単じゃ。よう見とれ」

 妹のむきかけのみかんを横から奪うと、章太郎はかしこまって実演をはじめる。

「ええか。こうやって指を入れてな、こう差し込んで、こっちの方へ、まっすぐに……ちょっと待て。清乃。ちょっと兄ちゃんの膝へ来てみい」

 そう言って章太郎は、炬燵と自分のあいだに隙間をあけ、そこへ妹を招いた。清乃はうれしそうに兄の膝の間に身をすべり込ませた。すっぽりとそこに納まった彼女の顔は、まるで居心地のいい揺り椅子に身を沈めたように幸福そうである。

 章太郎は新しいみかんをもう一個取って、妹の紅葉もみじのような小さな手と一緒につつみ込むようにそれを持った。

「……こうやってな、こう真っ直ぐに、ヘタの方に向かって押して行く。いかん。いかん。お前はここで引っ張るから皮がバラバラになる。なるべくガマンして、ここまでむくんじゃ」

と、兄は、ここが肝心とばかり、真剣な目になる。

 教わっているはずの清乃は、そんな兄の話にはうわの空で、まるで毛布に包まれているような温かさに、うっとりと目を細めている。兄のあごの先がときどき自分の頭にぶつかるのも、イヤではなさそうだ。

 章太郎はむき終わったみかんの皮を、タコの足のように八方に広げて、清乃の前に置いて見せた。

「分かったか、清乃……こんどは一人でやってみい」

 清乃は言われた通りやろうとするが、やはりイジワルなみかんの皮は言うことを聞かず、途中でちぎれてバラバラになってしまう。

 兄は笑いながら、みかんの一切れをパクっと口に入れ、

「……まあ、どんなむき方をしても味は変わらん。うーむ。甘うて美味しいのう」

と、妹のおかっぱ頭をなでた。

 台所からサダエの、あんまり食べると御飯が入らんよ、といさめる声がした。

 章太郎は思い立ったように、葉書と鉛筆を持って来て、炬燵の上で書きものをするようであった。

「ばあちゃんの里へお礼の葉書を出そう。兄ちゃんが宛名を書くけえ、清乃はうらへ絵を描きい」

 わかやまけん、しらはまちょう、と呟きながら、章太郎はさらさらと宛名を書いた。

 それを妹に渡すと、清乃はひっくり返して、何を描こうかとしばらく思案している。

「ほうじゃ!」

 やがて名案が浮かんだらしく、彼女は紙面に顔を近づけながら、一生懸命何かを描いている。

「……でけた」

 完成した作品を、兄の鼻先へつき出す。章太郎は寄り目をしてそれを見ている。

「なになに。この右の丸いのは、みかんじゃな。なかなか上手に描けとる。しかし、この左の、星のお化けみたいなんは、何かの?」

 章太郎が指差したものを、僕らも庭から遠目に覗き見た。

「みかんの皮―――」

 清乃はすまし顔である。

「なるほど……思い付きは上等じゃ。しかしこれでは、まるで爆発したお星さまのように見えるぞ。宇宙の神秘じゃ。どうせならこう描いてみてはどうかの。ちょっと貸してみい」

 章太郎は葉書を引き寄せると、清乃の描いた星のお化けの上に何かを描き足した。どうやらそれは、むかれたあとの、白くて丸いみかんのであった。そうすることによって、その絵はとつぜん立体感を増し、いかにも飛び出したように見えた。

「ええな!ええな!」

 清乃は大喜びである。

 そして二人は、出来上がった傑作を持って玄関を出ると、家のとなりの郵便局へ向かうようであった。赤いポストがその角にある。

「きーちゃんが出す!」

 清乃は自分で投函したいらしく、背伸びしてポストの口に手を伸ばそうとする。

 ところが、少し背が足りず、下の方でピョンピョンしている。

 章太郎は妹の脇を抱きかかえ、投函口がちょうど目の前に来るようにしてやった。

 清乃は葉書を持った手を、ポストの奥深くまで差し込んだはいいが、そのままなぜか、なかなか放そうとしない。

「はよう放せ……」

 章太郎が苦笑しながら言うと、清乃はようやく手を放したようで、ポストの底の方でカサリと落ちる音がした。

「よし。……これで、どういう訳か、和歌山のばあちゃんの里まで届くんじゃ。不思議じゃのう」

 年の離れた兄と妹は、まるで二人で悪巧みでもしたように、互いの顔を見合わせて笑った。

 夕刻になり、鍋の準備が整ったところで、ちょうど国民服姿の父が帰って来た。ふだんよりも早い帰宅である。

「父さん、おかえり」

「おお、章太郎か……」

 玄関先で挨拶をかわす父と息子は、あい変らず言葉少なであった。

 冬の夜の冷え込みは厳しく、上松家のすべての雨戸はピシャリと閉じられた。夜空にはえ冴えと無数の星がまたたいている。

 僕とチュン太は急に手持無沙汰になり、ただ身を寄せ合って震えるしかなかった。しかし、煙突から立ち昇るほのかな湯気と、あかあかといた白熱灯の窓明かりに、久々に勢ぞろいした家族の喜びを想像して心を温めた。

 章太郎は一泊するかと思いきや、すぐに帰らなければならないらしく、父のかしてくれた風呂につかったあと、あわただしくその日のうちに帰って行った。

 上松家にはふたたび静けさが訪れた。そして、さらなる倹約の日々が始まった。

 次の日から、一家の食卓は文字通り一汁一菜となった。

 父は朝早く出かけ、夜遅く帰って来た。ときにはそのまま帰らない日もあった。

 母もせっせとパートの仕事をこなした。

 僕らはふと思い立って、サダエの勤務する海軍の工場までついて行ってみることにした。

 工場の敷地へは専用の通勤列車も引かれていたが、サダエはかなりの道のりを歩いて通った。僕らは途中、街のいたる所で、人々の広げた新聞を覗き見た。そこには朗々と戦況を告げる文字が踊っていた。

「ミッドウェーにて大激戦」

「米空母二隻を撃沈」

「皇軍、任務を終え転進」

「当方の被害は極めて軽微」……

 それらの記事を見ながら、僕は「日本はどうやら勝っているようだね」とチュン太の顔を伺った。

「さあ、どうかな……」チュン太は言葉を濁した。

 本通りを抜け、海兵訓練所の横を過ぎ、赤レンガ造りの建物を右手に見ながら、さらに岬に沿ってしばらく行ったところに、サダエの勤める工場はあった。

 正門を入ると、見渡すかぎり延々とくすんだ色の建物がつづいている。カーンカーンと金属を打つ音や、シュッシュッと蒸気の上がる音があちこちから聞こえて来る。やはりその一帯は工場群と呼ぶにふさわしい複合施設で、その壮大さは目をみはった。サダエはいつのまにか、その中の一つの建物へと消えていた。

 うっかり彼女を見失ってしまった僕らは、所在なくその辺りの上空を散策してみた。

 しかし、行けども行けども敷地の終わりが見えず、途中であきらめて引き返して来た。

 作業の様子は分からなかったが、おそらくは何千人、何万人という労働者がそこで働いているのであろう。

 そう言えば、いつか「大和」が造られていた大屋根の下に、いまは船の姿はなかった。

 いよいよ戦地へ赴いたのであろうか。

 僕らは先に帰ることにして、ふたたび市街地の上空を飛んだ。

 来るときには気が付かなかったが、大通りはよく見ると、かつてのにぎわいがいくぶん翳りを見せ、シャッターを下ろす店が多かった。「物資の欠乏」という窮状が実感をもって迫って来た。きっと商売どころか、肝心の「売るもの」さえなくなっているのに違いない。 

 そしてその翌日―――

 この日は仕事を休んだらしい父のみのるが、朝から庭で何か穴掘りのようなものをしている。

 納屋からスコップや鍬やバケツなどを取り出し、いつもは洗濯物を干す辺りに、かなり大きなを掘っているようだ。

 少しずつ掘り進められた穴は、昼近くには實のヒザがかくれる深さになった。掻き出した土が、そのかたわらへうずたかく積まれて行く。

「何をしてるんだろう」

「防空壕ほりだね。空襲に備えての、シェルターを作るんだ」

 やがて昼食をはさんで、祖母と清乃がその手伝いを始めた。手伝いと言っても、せいぜい邪魔をしないよう、積まれた土を、柿の木の根元へ移動させる役目だ。

「……四人分は入れるように掘らんといかん。だんだんそっちの、柿の木の方へ掘り進めて行く。根っこに守られた丈夫なごうを作るんじゃ」

 實は幼い清乃にも分かるよう、その意図を語った。

 昼過ぎに、サダエが帰って来た。

「あんまりこん詰めんと、休み休みにして下さい。お父さんは夢中になると、人の声がなんも聞こえんようになるけえ」

 そして彼女も庭へ出て、いっしょに土を運ぶのを手伝った。

 その日は、清乃の背がちょうど隠れるくらいまで掘ったところで、作業は一時中断となった。清乃は爪先立ちで鼻の下を伸ばし、穴の中で飛び跳ねてみせた。

 それから實は、幾日かつづけて仕事を休み、防空壕ほりに専念した。

 穴は少しずつ、深く長く伸びて行った。そして實の背がはるか下に隠れるまでになった。途中から横に掘り進めるため、足場の土をスコップで固めて階段状にする。清乃が入口から覗き込んで「おーい」と叫んだ。實は一心不乱に作業をつづけた。サダエも休みの日には一日手伝い、顔中を泥だらけにした。天井が落下しないよう、ありあわせの木材を切りそろえて支えにし、柱を作った。そして掘り進めるうちに、やがて柿の木の根っ子が顔を現した。實はふう、と息をつき、「ここからが難所じゃ」と気合を入れ直した。

 根っ子を傷つけないよう、うまくそれを利用しながら、實はなるべく中の空間を広く快適にするよう努めた。ある程度進んだところで、サダエが「もうこのくらいでええでしょ」と言うと、實はまだまだ満足せず、「あとこの倍は掘らんといかん」と言って、ひとり作業をつづけた。

 一週間ほどしたころ、隣組の榊さんが息子のトシオ君をつれて上松家を見舞いに来た。

「精が出ますね」

「おお、マツさんか。久しぶりじゃのう……」

 實はひたいの汗を拭いながら穴から出て来て、一休みした。そのくだけた様子は、どうやらこの二人は昔からの知り合いのようである。ひょっとすると、かつての同級生なのかもしれない。

「今日は草だんごを作ったんで、おすそ分けにと思って、持って来たんよ」

 榊さんの手には四角い風呂敷包みがあった。

「おお、これは珍しい。ちょっとお茶にするか」

 實が縁台に腰かけた時には、すでにサダエが丸いお盆にお茶をのせて運んで来たところであった。

「榊さんもこちらへどうぞ」

 サダエは縁台の上へ熱い湯呑みを置いて隣人を招いた。

「いやいや、お構いなく。なんせ、砂糖が足りんけえ、あんまり甘うないが……」

 榊さんは照れ臭そうに言いながら、縁台で風呂敷包みをほどいた。中にはうす緑色の丸いものがきれいに並んでいる。

「まあ、いい色ですね。……こと言うたらウチのお茶だって、三番出しでほとんどお湯みたいなもんです……」

 サダエがそう言って笑ったので、二人の女性は一くさり物資の欠乏の話に花を咲かせた。

 實は遠慮なく草団子を一つ指でつまむと、パクリと口の中に入れた。そして女たちの話を聞きながら小声で「……うまい」と呟く。

 縁台の隅では小さいトシオ君が母親の陰にかくれて、所在なさそうにしている。サダエがそれに気付き、声を掛ける。

「トシオちゃん。清乃は今日は、祖母ばあちゃんと出掛けとるから、またこんど遊んでね……」

 トシオ君はやはり、黙ったままである。

「ウチのが完成したら、こんどはマツさんのとこ手伝うけえ、待っとってくれ」

 實が二つ目の団子を口に入れながら言う。

 榊さんは遠慮がちな表情を浮かべ、

「おおきに。そうしてくれると助かるわ。なんせもうすぐ、男手が一人足りんようになるけえ……」

と言って、お茶を飲んだ。

 實は動かしていた口を止め、榊さんの顔を真っすぐに見た。

「どういうことじゃ」

 榊さんは一瞬ためらったあと、意を決したように口を開いた。

「マサルに赤紙がとどいた。来月あたまには出征じゃ……」

 實とサダエは顔を見合わせた。トシオ君はあい変らず、縁台に腰かけたままつまらなそうに縁石ふちいしを蹴っている。

「……おめでとうございます」 

 サダエが沈黙を取りつくろうかのようにそう言った。しかしそのあとの言葉が続かなかった。

「なんで、おめでとうなの?」

 僕はチュン太に訊いてみた。

「そう言わなければいけないんだよ」

 チュン太が囁くように言った。

 實は冷めてしまったお茶を一と息に飲み干すと、「よっこらしょ」と言って立ち上がり、ふたたび作業を始めた。

 縁台には昭和十七年のまぶしい冬の日差しが、モンペ姿の二人の女性と、坊主頭の退屈そうな男の子をくっきりと照らしている。

 防空壕はそれから二、三日して、家族が入れる十分な大きさになった。そして中に簀子すのこを運び込み、雨水が入らないよう入口を補強したあと、最後に柿の木の方から縦に空気あなを通すことでようやく完成した。

 實は出来上がった壕を眺めながら、腰に手を当ててぐるぐる回している。体じゅうが痛むようだ。

 榊さんの長男のマサル君―――と言っても、二十歳はたちの立派な青年であるが―――の出征式が行われたのは、それから数日後であった。

 隣組の人たちがぞろぞろと旗を持って出掛けるので、僕らもサダエと清乃につづいて行ってみた。

 榊さんの家は郵便局の角を曲がって一本うら側の道を、やはり山に向かって少し坂道を上った十軒目くらいの場所にあった。大きな屋根の立派な民家である。

 見ると、玄関前の人だかりの中に、軍服姿のがっしりとした青年が、顔を四角くこわばらせて立っている。肩から掛けられたたすきには「武運長久」と書かれている。かたわらには留袖とめそでを着た榊さんが、うつむき加減に寄り添っている。祖母が一人に妹が一人、父親はいないようだ。小さなトシオ君もやはり一張羅いっちょうらを着せられて、まるで自分も一緒に出征するようなそわそわした顔付きである。

 人々が勢ぞろいすると、地区の長老らしき紋付もんつき姿の男性が前へ歩み出て、格式ばった長い祝辞を述べた。旅立つ若者への激励の言葉だ。。そしてしめくくりに、皆んなの手を借りて万歳三唱した。

「サカキマサル君。バンザーイ!」

 一同はそれに合わせてバンザイをし、手に持った旗をパタパタと振った。日の丸に混じって、太陽に光が差したような「旭日旗きょくじつき」もある。

 漢文口調の祝辞を、まるで他人ひと事のように聞いていた当のマサル君は、自分の名前が呼ばれると急にハッとしたように目を見開き、喝采の中で深々とおじぎをした。

 自分が戦地におもむくということが、どうもまだピンと来ていないのであろうか。

 僕とチュン太は大きなもちの木に止まってそれを眺めた。

 式が一通り済むと、みんなで記念撮影となった。

 玄関を背にして、総勢二十人ほどがずらりと並ぶ。

 出征するマサル君を中心に、そのとなりに長老、反対側に母親とトシオ君、つづいて近親者たち、その周りに隣組の面々が顔を並べた。小さい子供たちは最前列に並ばされた。サダエと清乃も左端の方でかしこまっている。清乃はまぶしそうな顔で撮影の技師を睨んでいる。

「みなさん、いいですか?」

 丸めがねの技師が黒い幕の中にもぐると、人々は雑談をやめ、静かになった。

 緊張した面持ちのマサル君と母親が、同時にあごを引いた。その真剣なまなざしと、への字に結んだ口元が互いにそっくりであった。

「やっぱり親子なんだね……」

 僕はふと、マサル君がまだ小さくて、いまのトシオ君のように手を引かれていた日のことを想像し、母親の胸中を思った。

 フラッシュがかれ、「バシャリ」という派手な音とともにシャッターが切られた。

 冬晴れのやわらかな日差しの中、後列の人が両手に支え持つ「南無八幡大菩薩」というのぼりが、折から吹いてきた風にひるがえった。

 それからまた春が来て、やがて夏がめぐったが、父の實はあい変らず、出版物の注文取りにかけずり回った。国民服はさらに色せ、靴はボロボロになっていた。このころ、たいがいの呉市民は何かしら「海軍」に関わる仕事に転職することが多かったが、實はかたくなに自分の本業を貫くようであった。ワニのように先の開いた靴で出掛けて行った。

「お父さんの靴を買いに行こう」

 見かねたサダエが清乃をつれて闇市へと出かけた。自分の給料日のようである。父には内緒であった。

 炎天下の闇市は、本日も人々の熱気であふれている。トタン屋根の下で、物資を買いあさる多くの濃い影がゆらめいた。

 人ごみの中でさんざん歩き回り、路地のはずれの方でようやく欲しい靴を見つけたサダエは、そのつやのある茶色い革靴を両手にかかげ持って、ため息をつくように言った。

「五十えんか……」

 五十圓というのがどのくらいの価値になるのか、僕には分からなかったが、それがサダエの給料の丸々一ヶ月分に相当することが、口調から読み取れた。そして、ずいぶん長いこと買うかどうか迷っていた。清乃はいよいよしびれを切らし、母親の横でモジモジしている。

「よし、買おう!」

 本日の青空が決め手となった、とでも言うように、サダエは大空を仰ぎ見たあと、自分の財布を覗き込んで、折りたたまれたお札を取り出した。

「まいど……」

 無愛想な商人は、乱暴な手つきで包みを渡し、もぎ取るようにお金を受け取った。

 晴ればれとした顔でサダエ親子は帰路についた。スキップする清乃は、よく見ると、新しい赤いモンペを穿いている。このところ祖母が縁側でなにか縫い物をしていたのは、きっとあれを作っていたのにちがいない。

 しばらく行くと、小さな橋を渡ったところで、軍服を着た役人らしい男が、これも親子であろう、小学生くらいの男の子と、その母親を前に立たせ、威丈高に何か大声で叫んでいるのが見えた。腕には「憲兵」の文字が見える。

「どういうシツケをしとるんじゃ、お前ンところは!」

 母親はひたすら頭を下げている。

 ふてくされたように黙っている男の子は、母親に頭を押さえられて、仕方なく一緒にお辞儀をする。

「なにをしたんだろう、あの子……」

 僕とチュン太は恐る恐る近づいてみた。

 サダエと清乃も、その脇を通らなければ家へ帰れないので、なるべく見ないようにしながらも、なんとなく様子を伺っている。

「……アメリカのグラマンの方が性能がええなどとは、どの口が言うとるんじゃ!日本の零戦れいせん大和魂やまとだましいが加われば、たとえ鬼神おにがみといえども尻っぽを巻いて逃げ出すわい。恐れ多くも天皇陛下の……」

と、男はひとりで勝手にカチリと靴のかかとを合わせ、直立不動の姿勢になった。

 どうやら男の子が、なにか日本軍の悪口を言ったか、もしくは無邪気にアメリカの飛行機への憧れを口にしたのを、巡回の男に見とがめられたものらしい。

 ひとくさり興奮してまくし立てたあと、憲兵は「歯を食いしばれ!」と言うが早いか、男の子にいきなり平手打ちを食らわせた。かわいた大きな音が辺りに響いた。

「あっ!」

 僕らが驚くひまもなく、男の子は横倒しに跳ね飛ばされた。母親が駆け寄って男の子を抱きかかえる。

 なおも母親は何度も何度も頭を下げて許しを乞うている。

「ちょっとひどいね……」

 僕は怒りを通り越して、呆れてしまった。

 見ていたサダエは、おびえている清乃の背中に手を回しながら、ふり返りふり返り、その場を立ち去った。

 権力をふりかざしてイバりたがる種族が、いつの時代にもいるものである。僕はこういう浅はかな、権勢づくの連中が、もっとも鼻持ちならない。

 夕食のとき、帰宅した實にサダエは事のあらましを話して聞かせた。清乃はすでに食事を終えて寝ているようだ。

 ふだん温厚な實が、めずらしく怒りをにじませた。食器がカタリと音を立てるのが分かった。

「……声の大きい者、勇ましいことを言う者の意見だけがまかり通り、良心の声は搔き消される。こんな社会がこの先どこへ向かうか、見通しは暗いのう……」

 その口ぶりはたんに憲兵への怒りと言うより、社会全体への義憤ぎふんのようでもあった。むしろ、あの横暴な憲兵さえもが、その社会の犠牲者である、という風にも聞こえた。

 しばらく重たい空気が流れた。

 サダエは食卓にしのび込んだ気まずさを追い払うように、明るい話題を提供した。

「……お父さん、玄関の靴、見ましたか?」

 だまって箸を動かしていた實は、一瞬「ん?」という表情になった。

 こういうことにうといのは、世の男たちの常である。

「どれどれ……」

 實は立ち上がって玄関へおもむいた。そのあとをしずしずと歩いて行くサダエの足音も聞こえた。

 實は言葉少なに「ほう……」とつぶやき、あとは無言であったが、その「ほう」にはまんざらでもない喜びがにじんでいた。サダエのニッコリする様子も分かった。われわれもつられて笑顔になった。いつのまにか實は、また元のおだやかな彼に戻っていた。

 それから数日して、實は約束どおり、榊さんの家の防空壕ほりを始めた。

 こんどは二回目なので、作業はいくぶん手際のよさを増したものの、思わぬ悪天候がつづき、進行はあまりかんばしくなかった。

「なかなかはかどらんのう……」

 腕組みをしながら掘りかけの穴を見つめる實に、榊さんはねぎらいの声を掛ける。

「まあ、休み休みでええですけえ。無理せんと……」

 いつもは威勢のいい、肝っ玉母さんのような榊さんが、なぜか實の前では可憐かれんな少女のような顔を見せる。しおらしいくらいだ。

「……まさか、榊さんて……むかし實さんのことが……」

 僕は感じるところがあって、若かりし日の二人のロマンスのようなものを想像した。学生帽の實青年に、お下げ髪の榊さんが憧れのまなざしを注いでいる―――ほほえましい光景だ。

「なに言ってるの、ぼんちゃん!」

 チュン太が僕を軽蔑の目で見た。やはり下衆げすの勘ぐりであったか。

「いまごろ気付いたの?」

 ―――こういうことにかけては、僕はいつまでたっても、チュン太の足元にも及ばない。

 雨はしばらく降りつづき、作業は休みがちであった。

 どしゃ降りの中、傘をさしながら、サダエが回覧板を持って榊家を訪れた。榊さんは玄関の中へ招き入れようとする。サダエはそれを辞退する。二人はお互いに何度もお辞儀をして別れる。回覧板には「進め一億火の玉だ!」の文字が見える。戦況はますます緊迫しているようだ。

 ようやく雨が上がった日曜日、打って変わって晴天まぶしい中、朝から穴掘りに精を出していた實は、ふと太陽を見上げ、汗を拭いながら、ふうとため息をついた。

「大きな岩が邪魔しとる……」

 榊さんの家は上松家よりも高台にあるので、掘り進める穴は斜面に沿って少し横向きになる予定だ。ところが、草の生えた土手をかなりの深さまで掘ったところで、思いがけず實の前に手ごわい障害物が現れたようだ。

 うしろから榊さんが心配そうに見ている。縁側では耳の遠そうなお婆さんが、うつらうつら居眠りをしている。

「どうしたもんかのう……」

 穴の前で立ち尽くす二人の頭には、おそらく同時に、もう一人男手があれば、―――という考えが浮かんだにちがいない。しかしそれは、互いに口に出さなかった。

「……はじめから掘り直すかのう」

「それも勿体もったいないなあ」

 いい考えが浮かばず、時間ばかり過ぎていたところへ、とつぜん後ろから溌剌はつらつとした声で、「お父さん!」と呼ぶ者があった。

「おばさん、お久しぶりです」

「あらまあ、章ちゃん!めずらしいこと……」

 逆光の中に立つ凛々りりしい青年は、久びさの休暇で帰って来た坊主頭の章太郎であった。去年よりもさらに大人びた顔立ちになっている。

「そうか、今日じゃったのう……」

 實は腰を手でさすり、少しほっとした顔になった。「ええ所へ来た……」

 僕とチュン太も、強力な助っ人が現れたことを喜び合った。榊さんは立派になった章太郎を上から下まで眺めまわし、何度もくり返しくり返し賞めている。

 しかし、やがて少し眉を寄せ、

「章ちゃん、マサルがねえ……」

「……聞いてます」

 章太郎は、事情を話そうとする榊さんを制し、ゆっくりと土手の方へ歩み寄って斜面を見上げた。

「……むかしよく、ここに登って遊んだなあ……と言うより、マサル君は登れたけど、僕はどうしても登れなかった……」

 章太郎は草の生えた土手を靴の裏でポンポンと叩き、感慨にふけっている。

「章太郎―――大きな岩が中で踏んばっとって、難儀しとる。なにかよい知恵はないかのう……」

 實はためらうことなく、成長した息子に意見を求めた。その遠慮のない信頼感がこのもしかった。

 息子の方もハリきって「どれどれ……」と穴の中を覗き込んだが、その口ぶりが父親とそっくりであることに、本人は気づいていないようだ。

「うーむ。こりゃどうも、ちィとずつ脇から掻き出すよりしょうがないな。根気のいる仕事じゃ。どうれ、僕がやるけえ、父さんはちと休んどってくれ……」

 章太郎は腕まくりをして、スコップを片手に、穴の中へもぐって行く。父の横を通るとき、その体はあきらかに父より大きかった。

 實と榊さんは縁側に腰かけ、まったりとお茶をのんだ。

 うたた寝をしていたお婆さんがふと目を覚まし、いつのまにか別の若者が来て、自宅の土手を掘っていることに、不思議そうな顔である。

 一時間ほどしたころ、泥だらけになった章太郎が穴から出て来て、汗ばんだ顔で言った。

大岩おおいわさんが、動きんさった……」

 掻き出した土をらす加勢をしていた實は、思わず手を止め、目を輝かせた。

「……二人でなら、動かせるか?」

 父は息子につづいて中へと入って行った。

 しばらくすると、穴の奥から「うーん」とか「よーいしょ」という掛け声がかすかに響いて来た。少しだけ動いたとは言え、それを運び出すのはなかなか容易ではないらしい。父と息子の奮闘は、さらに小一時間ほどつづいた。

 そのうち、「えーいっ!」という一きわ大きな掛け声がしたかと思うと、穴の中はふいに静かになった。

 僕らは近くへ寄って中を覗いたが、暗くてよく見えない。

 いよいよ心配になったころ、暗闇の中で何かがもぞもぞ動く気配がした。と、間もなく、ゴロ……ゴロ……と大きな岩を雪だるまのように押しながら、親子がゆっくりと光の中へ出て来た。

「うーんしょ!」

 最後の掛け声とともに、岩は穴の外へゴロリと転がり出た。

「やった!」僕らは小躍りした。

 大岩さんはついにえぐり出され、白日のもとにその正体をさらした。

 章太郎は顔を火照ほてらせ、息を切らしている。實の方も、精魂尽き果てた様子で地面へ仰向けになった。しかし、やがて起き上がったその顔は、泥だらけのまま笑っている。

「あはは」

「あはは」

 章太郎も、まるで泥棒のような父の顔を見て急におかしくなったのか、一旦笑い出すと止まらなくなった。

「あはは」

「あはは」

 笑いつづける父子おやこの横で、榊さんは目に涙を浮かべながら、やはりつられて笑顔になった。

 僕は―――章太郎はともかくとして、こんなに無防備な姿で笑う實の顔を初めて見たような気がした。

 榊さんは男たちが岩と格闘している間、家の裏手で風呂の準備をしていたようだ。

「章ちゃん。せっかく帰って来たんに、穴掘りばっかりですまんねえ。日本を背負しょって立つ人物を、こがいにこき使っちゃバチが当たるわ。實さんも、ここんとこしばらく休んどらんでしょ。今日はその辺にして、さあさ、風呂が沸いたから、二人とも入りんさい……」

 そう言って半ば強引に風呂場の方へ促す。

 父と子は顔を見合わせ、それじゃお言葉に甘えるかと、目で合図をする。

 榊さんの家は大家族らしく、風呂場も上松家のよりも大きいようであった。

 格子の窓から、ザブリとお湯を流す音が聞こえる。

「昼間っから湯とは、ぜいたくじゃのう。われらもええ身分になったもんじゃ……」

 そんなことを言い合いながら、二人はまた笑った。

「あはは」

「あはは」

 さっきの興奮がまだつづいているようであった。

 連れ立って家に帰ると、二人はそれぞれ、思いがけず得た自由時間を、各々おのおのの好きなことに費やした。

 實は日の当たる座敷へ大の字になり、座布団を枕に本を読みはじめた。読書が彼にとって何よりの喜びであるらしい。しかし日々の疲れからか、ものの五分と経たないうちにグウグウいびきを掻き始めた。座敷の隅には、旧家によくあるような、薄暗い大きな仏壇が見える。

 章太郎は二階の自分の部屋で、何やら押入れの中からゴソゴソ引っ張り出そうとしている。

「何だろう……」

 僕らは窓の外からその様子を観察した。

「あった、あった。……これじゃ」

 章太郎が両手にかかげ持ったのは、黒ずんだ骨董品のような、ふたつきの四角い箱であった。蓋を開くと中には丸いターンテーブル回転盤がある。

 箱のすみにあいた穴へ、章太郎は別に取り出した喇叭ラッパのようなものを差し込んだ。

 写真では見たことのあるその原始的な機械―――蓄音機―――を、僕は興味深く眺めた。

「うまく鳴るかのう……」

 章太郎は脇に付いたレバーを、ネジを巻くようにグルグルと回す。そして、本棚にしまってあった何枚かのレコードのうち、お気に入りらしい一枚を見つけると、古びた表紙を目の前にかざして、大きく息を吸った。

「これじゃ……」

 そのとき、階段をトコトコと駆け上がって来る可愛らしい足音がした。上がり口から顔だけ出して、清乃がこちらを見ている。

「お兄ちゃん……」

 どうやら、ゴソゴソという物音を聞きつけて、兄の様子を見に来たらしい。

「入ってもええ?」

 清乃は、おそらく母親から、久しぶりに帰って来た兄をゆっくりさせて上げなさい、邪魔しちゃダメよ、と釘をさされていたのにちがいない。

 章太郎は気にする様子もなく、「ええよ」と笑いながら妹を招いた。

 清乃はうれしそうに駆け寄って、蓄音機の前にしゃがみ込んだ。

「なに、これ……」

「これは『蓄音機』じゃ。いまからルービンシュタインのピアノコンサートが始まるぞ。清乃も一緒に拝聴するか?」

 妹を勉強机の椅子に座らせると、章太郎はジャケットからゆっくりとレコードを取り出し、大事そうにそれをターンテーブルの上に置いた。

「うまく鳴るか、おなぐさみ……」

と、集中した顔で針の先を見つめている。

 机の上に置かれたジャケットには『ショパン・ピアノ作品集』と書かれている。

 回り始めた黒いレコードの溝に、狙いを定めて静かに針を落とす。パチパチッ、という独特な音が、朝顔のようなスピーカーから聞こえて来た。

 どうやら無事、音は鳴るようだ。

 章太郎は蓄音機から一歩下がって、そっと目を閉じた。清乃はそんな兄とレコードとを、交互に見比べている。

 ピアノの音が静かに聞こえてきた。

 ブラブラさせていた足を止め、清乃もその音に聞き入る。

 ささやくような、誰かに語りかけるような、あるいは、夜に一人で物思いにふけるような、そのゆっくりとしたメロディーに、僕は聞き覚えがあった。

 小さな音がやさしい音色をつむぎだす。

 ―――傷つきやすい、感情の振り幅の大きい人間が、つかのま得た心の平安。しかし、いつまたもろくも崩れるか分からない、微妙なバランスの上に成り立つ切ない幸福感。明日あすはまた戦いの場へ戻る者への、ささやかな慰め。そんな、言葉には言い尽くせないさまざまな思いが、しみ入るように伝わって来る―――

 僕は自分が雀であることを忘れ、しばしそのメロディーに感じ入った。そして、思わずあふれ出てくる涙をチュン太に見られないよう、少しだけ上を向いた。

 章太郎もだまってそれを聴いている。

 曲はさりげなく、おだやかなうちにも華麗な盛り上がりを見せ、そしてまた静かに終わった。

 章太郎は針を手で持ち上げ、元に戻した。

「ええ曲じゃろ―――ショパンの『ノクターン』いう曲じゃ」

 清乃はキョトンとした顔である。

「……ピアノいう楽器を一人で弾いとるんじゃ。兄ちゃんはな、この曲を聴くたんびに、くよくよ考えていた事がもうどうでもよくなる。そして明日またがんばろうという気になる。おそらく、このショパンいう人も、弱虫なくせに無鉄砲な、悩みの多い人だったんとちがうかな。兄ちゃんはショパンのことを思うと、まるで友だちが一人ふえたような、うれしい気持ちになるよ。いつか戦争が終わったら、このショパンの国へ行くのがワシの夢なんじゃ。そのために外国語も勉強しとる……」

 章太郎はレコードをしまいながら言った。

「……音楽いうのは不思議じゃ。大昔の人が作った曲なのに、まるでその人がここにいて、目の前で語りかけてくれるような気がする―――わかるか、清乃」

「うーん、ようわからん。じゃけんど、このピアノいうのはきれいな音じゃね。うち、弾いてみとうなったわ……」

阿呆あほう。ピアノは何万圓もするんじゃ。下々しもじもの庶民にはよう買えん。せいぜい大人になったら、お金持ちの家にお嫁に行って、思う存分弾かしてもらうんじゃな……」

 兄は妹の頭に手を置いた。

 章太郎はその日一泊して、翌朝早く、また白い制服姿になって帰って行った。兵学校の生徒は、外出するときも常に、その格好でなければならないらしかった。

 清乃は兄を見送ったあと、そのまま祖母と一緒に畑へ出かけた。畑には一面うっすらと霜が下りている。あちこち、霜柱で盛り上がったやわらかい土を、清乃はシャクシャクと楽しそうに踏んでまわった。今度は何を栽培しているのであろうか。

 また春が来て、四月になると、清乃の生活にも変化が訪れた。五歳になった彼女は、この四月から小学校へ通うことになった。小学校は「国民学校」と呼ばれた。

 国民学校は榊さんの家からさらに坂道を上った、見晴らしのいい高台にあった。

 桜の舞う小道を、母と一緒に入学式へ向かう清乃の姿が小さく見える。緊張で泣き出しそうな彼女を、その日から一人で畑へ行くことになる祖母は笑顔で見送った。

 入学式から帰ると、父がお祝いに、寄木細工の色鮮やかな小物入れをプレゼントした。広島で買って来たものらしい。清乃は飛び跳ねて喜んだ。

「……あの箱……」

 僕は、清乃がかかげ持つ小箱を、たしか祖母の部屋で見た気がした。枕元に大事そうに据えられた木の箱―――もっとも僕が見たのは、もっと色褪せた、黒光りのする、うす汚れた箱であったが……

 次の日から学校へは、榊さんのうちのトシオ君と一緒にかよった。トシオ君は一学年上で、教科書も彼から譲り受けた。

 ところどころ破れかけたボロボロの教科書を、清乃は文句も言わずに使った。と言うより、子供たちの誰一人として新品の教科書を持つ者はいなかった。みんな元の持ち主の名前を書きかえて、お下がりを使った。

 学校では、清乃はどちらかと言うと大人しい生徒であった。むしろ、がしばらく治らなかった。前からの知り合いである二年生のトシオ君は、学校で清乃に会うと、なぜか他の男の子たちに混じって、彼女をからかった。二人でいる時にはあんなにやさしいのに、まったく男の子というものは大馬鹿である。登校のときは、またいつものトシオ君に戻った。

 全校集会のとき、国民服姿の校長先生が朝礼台に立って、なにやら訥々とつとつと長たらしい訓示を垂れた。生徒たちはモジモジしながら、我慢して聞いている。その足元を見ると、多くは裸足である。

 正面に並んだ先生たちのほどんどが女の先生であった。そのっぺたは赤く、一様に長いはかまをはいている。化粧はしていないようだ。

 男の先生もまばらにはいたが、彼らはみな痩せた年配者で、校長先生と同じく、枯草色の地味な服を着ていた。

 訓示がすむと、「国旗掲揚けいよう!」と進行係の先生が大声で言った。朝礼台の横には、まだ旗のついていない、つるんと背の高いポールが青空にそそり立っている。

「気を付け!―――国旗に注目!」

 よく訓練された上級生たちは、号令に合わせてキビキビと行動した。砂ぼこりを上げながらザザッと一斉にポールの方を向く。

 それに比べて、まだ号令に慣れていない下級生たちは、何をしてよいのか分からず、キョロキョロするばかりである。中には、あらぬ方向を向いて、先生に向きを直される子もいる。

「かわいらしい軍隊みたいだね……」

 僕とチュン太は校庭の木の枝から、その光景をほほ笑ましく眺めた。

「国家斉唱!」

 録音されたテープの粗っぽい音が響いて、「君が代」の前奏が始まった。全員が声を合わせる。

 ポールの下では二人の女の先生が、用意された日の丸の旗を、君が代に合わせて少しずつロープで引っ張り上げる。風がないので、日の丸はしなだれたままである。ゆっくりと、ポールに沿ってスルスルと揚がって行く。

 子供たちの歌声が少し元気が足りないと思ったのか、男の先生の一人が誰よりも大きく「さーざーれー石のー」と声を張り上げた。

 居合わせた全員の顔は日の丸とともに徐々に上を向いて行く。

 ロープを引っ張る女の先生は、タイミングを図りながら、その速度を調節しているようだ。歌い終わりと同時に、ピタリと旗をてっぺんに落ち着かせたいらしい。

 ところが、途中慎重になり過ぎたのか、歌が「こけのーむーすう」のところになっても、頂上までかなり距離があった。

 焦った顔の二人の先生は、いよいよ曲が終わりそうになったとき、仕方なくロープを一気に手繰たぐり寄せた。

 それまでは堂々と、威厳をもって昇って来た日の丸が、ストンと不自然にスピードを上げた。その様子がなんとも言えず可笑しかった。

 子供たちの間から「クスクスッ」という笑い声が起こった。

 僕とチュン太は、木の上で遠慮なく笑い転げた。

 おごそかに居ならぶ先生たちは、咳払いをしたり、生徒たちを睨んだりして、渋い表情を浮かべている。朝礼にありがちなマヌケな風景だ。

 そんな中、子供たちと同じように、手を口に当てて面白そうに笑っている一人の女の先生があった。花柄のモンペを穿き、束ねた黒髪をうしろに結んで、おデコを広く出している。

「解散!」の号令がかかると、整然と並んでいた生徒の列はみるみる崩れ、大きな生き物のように校舎へ向かって動き出した。そのうちの、下級生たちの何人かが、その先生のもとへ駆け寄り、勝手に手をつないだり、背中を押したりして取り囲んでいる。人気のある先生のようだ。

「あ、いた……」

 僕たちは、その群がりの方へ、おくれて駆け寄る清乃の姿を見つけた。

 女の先生はしばらく子供たちにじゃれつかれていたが、あとから来た清乃に気が付くと、立ち止まって手招きをし、「おいで」と、その背中に手を当てた。

 清乃はうれしそうな顔をする。

「いい先生みたいだね……」

 僕たちもほっこりとした気分になった。あの先生が担任ならば安心である。

 一年生の教室は二階にあった。僕らは窓外の、咲き誇る桜の枝に止まった。

 辿り着いた生徒たちは、ガヤガヤとめいめいの席に着いた。いつまでも仲良しの子とふざけ合っている者もいる。

 少しおくれて、荷物を持ったさっきの先生が、前の扉から入って来た。先生は教壇に立つ前に、窓際に歩み寄っていちばん前の窓を大きく開けた。

「みんなも手伝って」

 窓際の生徒は立ち上がり、自分の近くの窓を、同じように大きく開けた。窓際でない生徒までしゃしゃり出て来て、我れ先にとその仕事を手伝っている。

「この方が気持ちいいでしょ。まだちょっと寒いけど……」

 おかげで僕とチュン太は、桜の木の上から、その教室の様子をよく見ることが出来た。

 先生は教壇のまん中に立ち、おだやかな笑みを浮かべて、みんなの顔を一人ひとり眺めている。ざわついた空気はしだいに落ち着いて来た。

「それじゃ、始めましょ……」

 起立、気を付け、礼、と右端の生徒が号令をかけ、みんな可愛くおじぎをする。

 木の椅子、木の机―――すべてが思いのほか小さかった。僕はふと鼻の奥に、一年生の教室の「匂い」のようなものを思い出した。清乃の席は一番前の真ん中あたりであった。

「……みんな、この前のおさらいからやりましょう。教科書は開けなくていいから、前の黒板を見て。もう覚えている子もいるかな……」

 先生はうしろを向き、黒板に大きな文字で何かを書きはじめた。見ると生徒の中には、教科書を持っていない子もいる。先生はわざと、教科書を使わないようにしているようであった。

 ゆっくりと黒板にチョークで書かれた文字は、「ひらがな」ではなく「カタカナ」であった。

 

  サイタ 

  サイタ……

 

 一文字ずつ書くたびに、すでに知っている生徒は、得意気に声を上げてそれを読んだ。先生はだまって書きすすめる。


  サイタ

  サイタ

  サクラガ

  サイタ


  ススメ

  ススメ

  ヘイタイ

  ススメ


 たった八行の文字で、黒板はいっぱいになった。

 書き終えると先生は、パチパチと手を払って前に向き直り、ニッコリと微笑んだ。つややかなおデコが印象的な若い先生である。

「さあ、覚えてるかな……」

 教室を見回し、全員の顔を確認すると、先生は自分の右手を挙げた。

「言える人!」

 元気な生徒の中から「ハイ!」「ハイ!」と手が挙がり、当てて欲しそうに目を輝かせている。十人くらいの生徒の手が挙がった。

「おっ、みんな元気ですね。さあ、どうしようかな……」

と、先生は探すフリをしながら、結局だれか一人を当てようとはせず、

「……それでは、全員で声を合わせて言ってみましょう。なるだけ大きな声で……」

と、指揮者のように手を広げた

 ハリキッて手を挙げていた子は残念そうに手を下ろしたが、すぐさま唱和の声に混じって大きな口を開いた。

 三、四十人ほどの声が教室に響きわたった。

 

 サイタ サイタ サクラガ サイタ……


その一行は、まさしく今の季節にふさわしいおもむきで、生徒の中には僕らの止まっている満開の桜の木を、ふと誘われるようにぼんやりと眺める子もいた。

 

 ススメ ススメ ヘイタイ ススメ……

 

 その、いかにも時代色の濃い一行でさえ、子供たちのかわいい声で唱えられると、まるで絵本の世界のような牧歌的なイメージを与えた。

 先生は、教科書も何もいっさい使わず、つねに生徒たちの目をよく見て喋った。

 大声を出したあとの解放感からか、子供たちはのびのびとした表情になった。

「みなさん、よく言えましたね。さあ、今日は勉強はこれでおしまい。みんな教科書をしまいましょう……」

 早やばやと授業を終わらせると、先生は黒板の文字を消して、なにか別のことを始めるようであった。拍子抜けした男の子の一人が叫んだ。

「もう終わりなん?早ええのう!」

 その剽軽ひょうきんな言い方に、女の子たちが笑った。

「今日はお天気もよく、気分もいいので、あとはお話の時間にしましょう。たまにはお話することも大事です。そう、お喋りとお話はちがうわ……」

「どうちがうんじゃ」

 さっきの子がまた尋ねた。教室はいつのまにか一体になっている。生徒たちは身を乗り出して先生の話を聞いている。

「それは自分で考えて、イッペイ君。考えることがいちばん大事よ……」

 男の子は、一本とられた、という顔で舌を出した。

「今日はね、……先生はみなさんが、将来何になりたいか、それを尋ねたいと思います。もちろん、決まってない子は言わなくてもかまいません。あくまで、あこがれですから、それは途中で変わってもいいのです。あこがれ、って分かるかな。見たいと思う夢のことです……」

 先生は黒板に大きく「ユメ」と書いた。

 その角ばったカタカナを見ていると、僕はしだいにそれが、なにか意味のない一図形であるような錯覚にとらわれた。

 一年生はきっと全ての文字が、こういう風に見えているのであろう。

「……先生はね、みなさんのように小さかったころ、将来、お菓子屋さんになりたかったの。なぜって、そう、いつでも好きなときに、お菓子が食べられるから……」

 全員がどっと笑った。言った本人が誰よりも可笑しそうに笑った。

「先生!それじゃ、お店で売るものがなくなります!」

 女の子の一人が言った。

「そうね……先生もそれに気づいて、また考え直したの。売っても売っても減らないものは、何かなって。それで思いついて、『先生』になることにしたの。言葉は、いくらたくさん喋っても、なくならないでしょ……」

 こんどはまばらに五、六人が笑った。

「先生。わたしも大きくなったら、先生になりたいです」

 まん中の席の女の子が手を挙げて言った。

 清乃はふり返ってその子の顔を見ている。

「……ほんとうはお饅頭まんじゅう屋さんがよかったんじゃけど……」

「食いすぎてブタになるからか?」

 斜めうしろの男の子が、すかさず茶々を入れた。女の子は立ち上がって、男の子をつマネをする。コロコロとした、可愛らしい女の子だ。

 先生はみんなと一緒に笑っている。

「先生。うちもヒデコ先生みたいな先生になりたい」

 別の女の子が言った。

 その真うしろの席から、前歯の全部欠けた男の子が野次やじをとばす。

「マネこうずじゃ。お前ら、ションベン行くときも、いつも一緒じゃろ」

 教室の半分の、男の子たちだけが笑った。

 先生は両手を腰に当て、わざと顔をしかめながら、笑わずにたしなめた。

「モリゾー君。そんなことを言うもんじゃないわ。お嫁さんの来手きてがなくなるわよ。女の子を怒らせるとコワイんだから」

 こんどは女の子たちだけが笑った。

 発言した男の子は、頭をかかえてちぢこまるフリをする。

 そのうち、いろんな意見が出始めると、みんなそれまで遠慮していたのが、われもわれもと手が挙がるようになった。女の子の答えで多かったのは、飲食店や医療関係、理髪師など、身の周りで見かける職業であった。

 それに比べて男の子たちは、―――もちろん消防士や車掌さんといった定番の意見もあったが、予想外に多かった答えは「軍人」であった。

「わしは軍人じゃ」

「わしも」

「わしも軍人になる」

 ざっと数えて、約半数の男の子が「軍人」と答えていた。

 先生は笑みを浮かべたまま、決して否定はせず、「そう……そうなの」とうなずいて聞いていたが、しかしあまりに多くの男の子が判で押したように「軍人」と答えるので、しまいには、素朴な疑問をよそおって訊いてみた。

「みんな、どうしてそんなに軍人になりたいの?戦争は恐いでしょ。ケガすることだってあるのよ」

 先生はあえて「死」という言葉は使わなかった。

「死ぬのなんか怖くないや。命をしむのは臆病者じゃ。先生は臆病者になりたいんか?」

 勇ましい男の子の一人が、挑むように口を曲げて言った。どうだ、勇気があるだろう、と言わんばかりである。

「ほうじゃ、ほうじゃ。先生は臆病者じゃ」

 他の男の子たちが、尻馬に乗ってはやし立てる。

 女の子たちはだまっている。

「臆病者、か……そうかも知れないわね……」

 先生はしばらく考えていて、思い出したように、いまだ発言のない清乃に話を向けた。

「……上松さんはどうですか。大きくなったら、何になりたい?」

「わたしは、……食べもの屋さんがいいです」

 清乃は急に指名されて少しまごついていたが、そのわりにはしっかりとした口調で答えた。頭の中で準備していたのかもしれない。

「そう。いいですね―――でも、どうして食べもの屋さんになりたいの?」

「……人間には、食べものが一番大切だからです」

 先生は大きくうなずいてニッコリとした。しごく当り前の答えだが、清乃の口から発せられると、妙に説得力があった。

 すると、乱暴な男の子からまた声が上がった。

「女はみんな食い意地が張っとるのう。食いものなんぞ、あしたになればクソになるだけじゃ!」

 教室は、笑い転げる男の子と、顔をしかめる女の子と、真っ二つに分かれた。

 言った本人も、なかなか反応がよかったことに気をよくして、誰よりも嬉しそうに笑っている。

 ざわつく教室の中で、ひとり先生だけが、やれやれ、と困った表情で上を向いている。

 ようやく騒ぎが収まると、笑い過ぎたせいか、あるいは食べものの連想からか、暴言を吐いた男の子のお腹が、みんなに聞こえるようにグゥと鳴った。

 グゥ~。

 教室は一瞬シーンとなった。

 それは普通であれば、笑ってもいい場面であった。

 ところが、なぜか一度クスリと起こりかけた笑いが、そのまま失速したようにしぼんでしまった。みんなは申し合わせたように押し黙った。

 その沈黙の正体を、先生はよく分かっているようで、しずかに教室の一人ひとりを見まわしている。

 僕らにもその理由が分かった。

 彼らはみな、ここしばらくの間、つねに空腹でない時はないのであった。

 ―――しだいに減っていく配給。質素な食卓にのぼる味気ない食事。ときには何も食べずに床に就くこともある。育ち盛りの子供たちにとって、それらは決して歓迎すべきものであるはずがなかった。

 男の子も女の子も、口には出さないが、それらをみな、ずっと我慢していたのである。

 それまでなごやかだった教室が、急にしょんぼりとした空気になった。

 ところが、そのとき誰かが、

「武士は食わねど高楊枝じゃ!」

と、おちゃらけたそぶりで椅子の上に立ち、元気に言い放った。片手に剣を持つ格好をしているのは、流行はやりのヒーローの真似であろうか。

 先生はそのセリフに、救われたような顔をする。

 こういう罪のない元気さは、ときによって何よりの助け舟となる。

 男の子たちはさらに勢いを得て、また口々に好き勝手なことを言い始めた。

「やっぱりオナゴは腰抜けじゃのう。先生もしょせん女じゃ」

「先生の弱虫!」

「臆病者!」

 悪ガキたちは、ほんとうは先生が誰よりもやさしいことを知っているので、安心して憎まれ口を叩く。

 先生の方も、わざと口をとんがらせて、負けずに言い返す。

「先生は臆病者で結構です。みんなが無事な方がいいもの。君、死にたもうことなかれ、よ……」

 教室はふたたび活気を取り戻した。

 男の子たちはなおも調子に乗って、先生をやり玉にあげる。

「臆病者は非国民じゃ。非国民はこの日本にはいらん……」

 その口ぶりは、きっとどこかで、大人に言われたことをそのまま真似している風であった。

「お国のために命を捧げるのが、日本男児のほまれじゃ」

「軍人になって、鬼畜米英の横暴から日本を守るんじゃ」

 また幾人かがそう叫んだ。

 先生は憂いの眉を曇らせながらも、ふと、男の子たちの小さな胸の内を思い、そのけなげさに心打たれたのか、結んだ唇にかすかに共感の色を浮かべた。

 僕は、元気に言い放つ男の子の坊主頭を眺めながら、時代が違えば空気はこんなにも違うものかと、あらためて感慨を深くした。

 やがて先生は、沈んだ心を奮い立たせるように、つとめて元気に宣言した。

「……シゲオ君や、セイジ君がとっても勇敢なの、先生、ようく分かったわ。日本のために戦って、家族や国民を守るのも、ほんとに立派な仕事よ。だけどね、それでも先生は、大好きな人にはずっとそばにいて欲しいの。先生のお婿むこさんになる人は、ってそれっきりの人より、いつもおうちに帰ってくる人がいいわ。だって、あるじがいなくなったら、何のためにお家を守ってるのか、分からなくなってしまうもの……」

 男の子たちは、先生の思いも寄らぬ熱意に気圧けおされたように、しばらくは口をつぐんだ。女の子たちの間からヒソヒソと「……先生、結婚するの?……」という囁きが聞こえた。

 やがてまた男の子の一人が言った。

「家にばかりおったら、大した手がらは立てられん」

「手がらって、そんなに大事かしら」

 先生は即答する。

「本人がいないのに、手がらだけがノコノコ帰って来るかしら。手ぶらでも、元気に本人が帰って来るほうが、先生はうれしい」

 そのキッパリとした口調に、男の子は返す言葉がない。

 もっとも先生の方も、途中から、子供相手に少し本気になり過ぎたかな、という表情になった。

 そこへ、見るからに頼りなさそうな、青っぱなをたらした男の子が立ち上がって言った。

「先生……」

「なあに、キヨシ君……」

 先生は不意をつかれてキョトンとしている。

「ワシ、さっき軍人ゆうたが、変えてもええか」

「……どうぞ」 

 先生はその呑気のんきな調子に、笑いをこらえる。

「ワシ、やっぱりうどん屋がええ。うどん屋じゃったら、毎日家におらるるけえ……」

 男の子はそう言って、人差し指で鼻の下をこすっている。

 教室からクスクスと笑い声がれた。

 いちばん後ろの席から、体の大きな男の子が大声で叫んだ。

「キヨシ!お前、ひょっとして、デコちゃん先生のおムコさんになりたいんか?」

 みんながせきを切ったように笑った。

 青っ洟の男の子の顔が、みるみる耳まで真っ赤になった。

 デコちゃん先生、というのが、この先生のアダ名のようである。そう言えば教室の入口には「村田秀子学級」という立て札が見える。ムラタヒデコ、なので「デコちゃん先生」か。なるほど、子供というのは、なかなか特徴をとらえる。

 さっきの男の子は、そういうつもりで言ったのではないが、結局、そういう意味になることに、いま初めて気がついた様子で狼狽あわてている。

 男の子たちはここぞとばかり、楽しそうに彼をからかった。

 先生もだまって笑っているが、モジモジしている男の子の純情さと、思いがけず寄せられた素朴な好意に、デコちゃん先生はまんざらでもなさそうだ。

 教室がひときわなごやかに盛り上がったそのとき、廊下の向こうに誰かが通りかかるのが見えた。

 威厳のある国民服姿のそのハゲ頭は、さっき朝礼で訓示を垂れた校長先生であった。なにやら教室が騒がしいので、背伸びして窓から中を覗こうとしている。

 それに気付いた先生は、あわてて自分の教科書を開き、大きな声で読むフリをする。

「サイタ サイタ サクラガ サイタ……」

 子供たちも事情をすぐに察して、先生のマネをして大きく唱和する。

  サイタ サイタ サクラガ サイタ……

 教室はにわかに共犯者の喜びに満ちあふれる。清乃ももちろんその一人だ。

 校長先生は何事もなかったように、また黙って立ち去って行く。

  ススメ ススメ ヘイタイ ススメ……

 なおも教室には、子供たちの元気な声がこだまする。

 授業が終わって、僕らがふと、同じ二階にある職員室の窓を覗くと、校長先生の机の前でデコちゃん先生が、申し訳なさそうにペコペコ頭を下げている。

 アナタノ 学級ハ ドウモ 自由スギル キライガアル……

 うまく誤魔化したつもりが、やはり校長先生にはすべてがバレていたようだ―――

 お昼休みになり、子供たちは外へ出て遊ぶ。弁当のある子は弁当を広げ、持っていない子はそのまま飛び出して行く。勢いで空腹をまぎらすつもりなのであろう。

 よく観察していると、男の子たちはずいぶん乱暴な遊びをしているようだ。

 一人が壁を背にして立ち、そのまたの間へ別の男の子が頭をつっ込む。そのうしろへ、また別の男の子が頭を入れる。そうしてつぎつぎと長い馬をつくり、残りの男の子たちが、順番にそれに飛び乗ってぐらぐらと揺らす。

 持ちこたえ切れなくなった馬が、しまいにグシャリとつぶれるのが楽しくて、みんな訳もなく笑いころげている。

 女の子たちはまた別の遊びをしている。

 地面に線を引いて四角いコースを作り、片足跳びで石を蹴りながらゴールをめざす遊びだ。石が枠をはみ出したり、両足をついたりすれば、またフリダシに戻る。途中、ジャンプする箇所や、石を手に持ってケンケンする場所もあって、なかなか楽しそうである。

 そのほか、大繩飛びをする者、鉄棒でぐるぐる回る者、かくれんぼをする者、相撲をとる者など、校庭はさまざまな遊びでいっぱいであった。

 みんなのいなくなった教室では、先生の弾くオルガンを囲んで、少女たちが歌をうたっている。清乃の姿もそこにあった。清乃は歌よりも、鍵盤の上を軽やかにすべる先生の指の動きに見惚みとれているようだ―――

 そんな風にして、清乃の一年生の時は過ぎた。

 秋になると、ラジオからは「学徒出陣」のニュースが流れて来た。いよいよ、兵役を猶予されていた大学生までもが、戦争にかり出されるらしい。

 清乃は、つなぎ合わせた短い鉛筆で、めくり取ったカレンダーの裏に、毎日カタカナの練習をした。

 やがてカタカナが書けるようになって、彼女が初めにしたことは、兵学校にいる兄の章太郎に手紙を書くことであった。母にもらった白い葉書に、清乃は大きな文字で「オニイチャン、オゲンキデスカ」と書き、余白に波と船の絵を描いた。

 母に宛名を書いてもらって作品が完成すると、清乃は一人で郵便局まで行き、ポストへそれを差し入れた。かつて背が足りなかった投函口は、いまは手が届くようになっていた。

 章太郎の学校は、呉の港からうっすらと対岸に見える、江田島えたじまという島にあった。

 ある日、清乃は遠足のとき、山の上からその島を眺め、仲よくなった友達に「お兄ちゃんは今あそこにおるんじゃ」と、誇らし気に指さした。

 章太郎からの返事はすぐに来た。

 妹のために同じくカタカナで書かれたその葉書を、清乃はなん度もなん度も、穴が開くほど読み返し、しっかりと胸に抱きしめた。そして、父からもらった寄木細工の箱に大切にしまった。その箱は彼女の宝物入れのようであった。色とりどりの千代紙などがそこに入っていた。

 年が明け、彼女のめくるカレンダーは昭和十九年に変わった。

 その年の正月、あいにく章太郎の帰省はかなわず、賀状を兼ねた葉書が一枚来ただけであった。

「……戦況にあわせて、卒業がくり上げとなりました。三月にはもう卒業です……か」

 父がそれを食卓でしずかに読み上げた。ついこの間、入学したばかりのようであったが、もう卒業とは、まさに光陰矢の如しである。

 七草がゆをささやかに済ませると、一家四人―――父、母、清乃、祖母―――は、またそれぞれの日常へ戻って行った。

 世の中はいよいよあわただしさを増し、かつ不穏な空気が充満した。

『欲しがりません勝つまでは』

『撃ちてしまむ』

 そんなポスターが街中いたる所に貼られた。

「だんだんキナ臭くなって来たね……」

 さらに市街地では、空襲に備えて、さまざまな準備が進められた。

 役所や学校など、町の主要な場所にはサイレンが設けられた。敵機襲来のとき、いち早く知らせる警報装置である。

 また隣組の集会では、軍服を着た役人の指導のもと、防空訓練が行われた。

 実際にサイレンが鳴った場合どう行動するか―――

 公民館に集まった人々は真剣に聞いている。

 防空頭巾ずきんをかぶり、火の元を確認する。戸板やふすまなどを外し、避難通路を確保する。防空壕へ逃げ込んだら、爆弾の衝撃から身を守るため、目と耳を同時に押さえ、口は大きく開ける、など、具体的すぎる指導がなされると、それまで他人ひと事のように聞いていた一同は緊張のあまり顔をこわばらせた。

 サイレンには二種類があり、はじめに「ウー……」と長い音で鳴るのが警戒警報、いよいよ敵機が接近したとき「ウー!ウー!ウー!」と短く断続的に鳴るのが空襲警報である。

 こころみに本物のサイレンを聞かされたとき、短い時間ではあったが、僕とチュン太はその不気味な物々しさに、身の毛がよだつ思いがした。

 爆弾にも様々なタイプがあり、黒板を使って説明がなされた。

 じかに爆撃の効果を狙った「炸裂弾」のほかに、火災を引き起こすのが目的の「焼夷弾」もあった。

 日本には木造建築が多いため、米軍は効率のよい「焼夷弾」を多用する。焼夷弾はすぐには爆発せず、早期に発見して水をかけたり、布団をかぶせて叩けば消える、とされた。

 どこまでが本当で、どこからが想像に基づくものか分からなかったが、まじめな庶民たちは一心不乱にそれらをノートに写し取った。

 日本は苦戦しながらもどうにか持ちこたえている、と彼らは信じ、苦しい日常に耐えた。

 新聞社も、人々の心情をんでか、それらを鼓舞するような勇ましい記事を、なるべく派手に書き立てた。

「皇国の興廃の一戦にあり」

「向かうところ敵なし」

「敵に甚大じんだいなる打撃―――こちらの被害は軽微」……

 華々しい文字が紙面に踊るとき、新聞は最もよく売れた。

 しかしそんな彼らを、やがて決定的に絶望におとしいれるニュースが飛び込んで来た。

 サイパン島陥落―――

 新聞を持つ人々は、紙面に視線を落としたまま、しばらく絶句した。

 新聞社も、その事実まではおおい隠せないようであった。

「どういうこと?サイパン島が陥落したって……」

 僕は、それが何を意味するのか分からず、チュン太に訊いてみた。

「……本土空襲が可能になった、ということだよ。サイパンからはB29が給油なしで日本まで往復できる。喉元に匕首あいくちを突きつけられた感じだね……」

 人々の中には実際、もう日本は降参すべきだ、いまが白旗のあげ時だとささやく声もあった。

 しかし、世の中の大勢は、そういう弱気な意見のまかり通る空気ではなかった。それはまるで、小さな笹舟が、大きな渦に巻き込まれるさまに似ていた。

 清乃の学校では、三年生以上の児童が、空襲の危険の比較的少ない田舎へ疎開そかいすることになった。

 縁故えんこのある者は縁故をたどり、ない者は集団疎開といって、地方の学校や旅館を借りて多勢で避難するのである。

 遠足気分でぞろぞろと汽車に乗り込む上級生たちを、清乃ら低学年の生徒は、すこしうらやましそうに見ている。

 しかしその後ろには、我が子を送り出す親たちの心配そうな顔がずらりと並んでいた。子供の姿を目に焼き付けるように、いつまでも別れを惜しみ、中には涙を流す者もいた。

「……これが本当に、一生の別れになることもあったんだ……」

 チュン太もグスンと洟をすすった。

 また、聞き慣れない言葉に「建物疎開」というものがあった。

 空襲があった場合、こわいのは家屋の「延焼」である。密集した住宅地では、一軒が火事になると、隣接した建物につぎつぎと燃え移り、被害が拡大する。

 それを防ぐために、主要な建物以外の、いわば建物を「間引まびく」のである。その取り壊し作業を「建物疎開」と言った。

 どの建物を「間引く」かは役所が決定し、不要と判断された家の住民は立ち退きを余儀なくされた。

 取り壊しの決まった家は、やむなく全ての家財道具を運び出した。

 まだ住める家に縄をかけ、みんなで綱引きのように引き倒す作業は、その家の持ち主にとって胸の痛む辛さであったにちがいない。

 清乃の友達の家も「建物疎開」の対象になり、見物に行ってみると、清乃と同じようなおかっぱ頭の女の子が、半壊になった自分の家を見上げながら、しくしくと泣いていた。清乃はいたたまれず、早々そうそうと引き返して来た。

 当の清乃の家は郵便局のとなりでもあり、見るからに古びたボロ家なので、いつ立ち退きを命ぜられてもおかしくはなかったが、なぜか疎開の対象からは外された。なにが基準で、どういう理由か分からないまま行われたその作業は、図らずもその住人の運命を左右することになった。

 そんな明日あすをも知れない暮らしの中で、母のサダエはあい変らず元気に働いた。

 昼間は海軍工廠の食堂で働き、家では炊事、洗濯、掃除、つくろいものなど家事全般をこなし、集会があれば出かけて行って防火訓練、配給の手伝い、生活必需品の調達など、息つくヒマもない毎日を送っていた彼女は、どんなにくたくたに疲れていても、家族の前ではつねに笑顔を絶やさなかった。むしろその困難な状況を楽しんでいるようにさえ見えた。サダエに言わせれば「挺身隊ていしんたいの女の子たちはもっと楽しそうに、歌をうたいながら仕事をしている。彼女たちに負けてられないわ」と言うのであった。

「挺身隊」というのは、正式には「女子挺身隊」と言って、女学生や未婚の女性が奉仕団を結成し、いろんな所へ出張して労働力を提供する仕組みらしかった。海軍工廠にも働きに来ていて、せっせと火薬をつめたり、パラシュートを縫ったり、弾丸を磨いたりしている。彼女たちが白い歯を見せて笑うと、こっちまで元気になる、とサダエは言った。

 女性というのは、やはりいつの時代もたくましいものである。

 一方、父のみのるの方はそれとは対照的に、本業で身を立てることがいよいよ難しくなり、防空壕ほりや建物疎開の手伝いなどして一日を過ごすことが多くなった。

 無口な彼はとくに不平を言わなかったが、折にふれてにじみ出る忸怩じくじたる思いがその背中から伝わった。

 ある晩のこと、夜中に目を覚ました清乃がお手洗いに立つために、座敷を通って暗い廊下を歩いていると(この頃は祖母を起こさずに一人で用足しに行けるようになっていた)、居間の方から父と母がなにやら小声で話しているのが聞こえた。

「いつも済まんのう。おれが不甲斐ないばっかりに、苦労をかけてしもて……」

「どうかそれは言わんといて下さい。あなたには、やらんといかん仕事があるのですから……」

 そう応えた母の方が、むしろ涙声になっている。

 實はしばらく黙ったあと、ポツリと呟いた。

「こんな時代に、学問や思想は無力じゃのう……」

 清乃は聞いているのがバレないよう、足音を忍ばせて便所まで行き、また戻って来てそっとふすまを閉めた。

 来年二年生になる彼女は、急速に体も心も成長しつつあった。

 サイパン島陥落のニュースと前後するように、呉の街にもついに、本物の空襲警報が鳴り渡った。

 人々は慌てる気持ちを抑えながら、訓練どおり沈着に行動し、防空壕へと逃げ込んだ。

 清乃たち一家も、父の掘った防空壕へ全員で避難し、身をひそめて待った。

 しかし空襲は来なかった。

 そしてサイレンが止んだあと、いつもと変わらない空を見上げた。

 その後もいくたびか、昼夜を問わず、人々はけたたましいサイレンに不意をつかれて不安な日々を過ごした。しかし、本当に敵機が襲って来ることは、いまだ一度もなかった。

 つづいて八月には呉に「灯火管制とうかかんせい」が敷かれた。

「灯火管制って、夜、なるべく電気を消すんだよね?」

「うん。やむを得ずつける場合も、ランプを黒い布でおおって、光が外へ漏れないようにするんだ。呉は軍港の街だから、とくに狙われやすいんだよ」

 灰ヶ峰からの美しい夜景も、灯火管制が敷かれてからは、まるでひっそりと海の底に沈んだようになった。蝉の声だけがジージーと黒一色の熱帯夜に鳴り響いた。

 また天気のよい昼間には、隣組ごとに竹やり訓練や防火訓練が行われた。

 鉢巻はちまきをしたモンペ姿の女性たちが、覚束おぼつかないへっぴり腰で、わら人形を突いたり、バケツを運んだりしている。

「そんなことでは図体のでかい米兵は殺せんぞ!」

 少しでも白い歯を見せると、たちまち例の役人のげきが飛ぶので、女性たちは真剣にならざるを得ない。

「……こんなもんで、機関銃を持った兵隊に、どう立ち向かえ言うんかね……」

 訓練が終わった帰り道、彼女たちは汗を拭きながら、声をひそめて囁き合った。

 女性たちの胸には、よく見ると、名前や住所、血液型を書いた小さな布が縫い付けてあった。罹災時の身元証明であろう。

 しかし、ほんとうに人々をして、戦争が他人ごとではないと思わしめたのは、南方より帰還して来た、小さな白い箱であった。

 純白の布に包まれた木箱には、兵士の名前と階級が記され、しずかにその生家へと返された。

 受け取った家族は、声を上げて泣くこともならず、うやうやしくそれを押し戴くのみであった。

「○○さんところのご主人も、らしい……」

 知人の家にその箱が届くと、隣組の人たちは寄り集まって出かけて行き、またぞろぞろと無言で帰って来た。

 本人のいない、白い箱だけの帰還は、日を増すごとに増えて行った。

 さらにその年の秋、僕にも聞き覚えのあるニュースが飛び込んで来た。

 神風しんぷう特別攻撃隊、出撃―――

 一機をもって一艦をほふる、起死回生の大作戦……。

 特攻とは言うまでもなく、生還を期さない、捨て身の体当たり攻撃のことである。それは決して、戦争に勝っている国が取る作戦ではないだろう。

 しかし、初めのうちは、その奇襲戦法が功を奏して、予想以上の大戦果を上げたようである。

 新聞もまるで救世主が現れたような記事を書き立てた。

 それを読んだ人々も、きっと最後には「軍神」―――特攻隊員たちをそう呼んだ―――が何とかしてくれる、いまに神風かみかぜが吹いていよいよ日本が勝つのだ、と信じた。

 僕はふと、あることに思い当たった。

 僕の祖母のお兄さん、すなわち清乃のお兄さんは、たしか特攻に行って死んだのではなかったか―――

 それはつまり、章太郎さんのことではないか―――

 兵学校を卒業し、前線へ出た章太郎さんが、いつか彼らと同じように、敵に体当たりして「軍神」と化すのであろうか。

 僕は心臓が早鐘を打つのが分かった。

 しかし不思議なのは、あの章太郎さんならばきっと、まっ先にそんな馬鹿げた作戦には反対するはずである。 

 なぜあの温厚な、感性豊かな、ほがらかで思慮深い章太郎さんが、遂にはその作戦に身を投じることになったのか。

 どんなやむを得ない事情があって、彼は「足元をすくわれた」のか―――

 考えても考えても、僕にはその理由が見つからなかった。

 時は昭和十九年十二月―――

 こんな時勢にも関わらず、毎年冬に送られて来る「みかん」は、やはり今年も祖母の実家から届いた。

 清乃はお礼の葉書をしたため、今回は宛名まで自分で書いた。

 わかやまけん、しらはまちょう……

 その住所を耳にするのも、もう三回目になる。祖母に教わるまでもなく、清乃はほぼ番地までそらんじていた。習いたてのひらがなも、祖母に言わせれば「ばあちゃんよりも上手じょうず」であった。

 清乃はそのまま筆の勢いで、兄にも報告する、と言い始めた。

 彼女はどうやら手紙を出すのが好きなようである。そう言えば今でも、同じ家に住んでいるのに、毎年僕に年賀状をくれる。

「届くかどうか分からんよ……」

 サダエはそう言いながらも、もう一枚葉書を持って来て、章太郎が卒業後に配属されているという航空隊の住所を書いてやった。

 いばらきけん、かすみがうら……

 清乃はその裏に、みかんを美味しそうに食べる人、の絵をなかなか上手に描くと、和歌山への葉書といっしょに、喜々としてポストへ投函した。

 そして兄からの返事を心待ちにした。

 しかし、一週間経っても、二週間経っても、返事は来なかった。

「……もう別のところへ異動になっとるかも知れんし……」

 サダエは清乃の小さな肩に手をのせて慰めた。

 呉の街ではこの頃になると、警報のサイレンが日常茶飯事になっていた。

 人々は昼夜を問わず、空に響きわたるサイレンを聞くと、一にも二にも訓練された通り、すみやかに行動して防空壕へ避難した。

 警報はしだいに頻繁になり、一日に十数回に及ぶこともあった。が、ほとんどの場合、敵の襲来はなかった。

 はじめのうち彼らは生真面目にも、防空頭巾をかぶり、火の始末をし、ふすまを外して防空壕に逃げ込むという、言いつけ通りの手順を踏んだが、そのうち、たいがいの警報が誤報であることを知ると、しだいに横着になり、しまいにはそのまま気にも留めずグーグー寝ている者まで現れた。

「空襲、いつ来るの?」

 そんな不届ふとどきなことを言って、叱られる子供もいた。

 学校は臨時休校になる日が多くなった。

 清乃はふたたび祖母の畑仕事を手伝ったり、同じく疎開の居残り組となったトシオ君と、榊さんの庭で遊んだりした。

 ある日、二人が裏庭の土手に登って鬼ごっこをしたり、防空壕でかくれんぼをしたりしていると、国民服を来た二人の男性が、小さな白い箱を持って玄関を訪れるのが見えた。

 清乃はふと立ち止まり、土手の頂上で笑っているトシオ君を尻目に、しきりにそちらを気にしている。

 僕らもイヤな予感がして顔を見合わせた。

 玄関の扉を開け、年輩の男性がうやうやしく帽子を取った。若い方の男性が、持っていた白い箱をしずかに差し出す。受け取る榊さんの手が震えた。

 二人はもう一度お辞儀をして、もと来た道をそそくさと帰って行った。

 しばしの静寂のあと、榊さんのすすり泣く声が聞こえ、それがやがて号泣に変わった。

 僕らは近くで見る気になれず、その場で肩を抱き合った。

 それは言うまでもなく、本人のいないマサル君の帰還であった。

 清乃はすでに楽しい気分ではなくなり、庭の真ん中で立ち尽くしている。

 事態に気付かず、なおも笑いつづけるトシオ君に、しばらくして縁側から出て来た榊さんが声を掛けた。

「トシオ、ちょっとおいで……」

 その目は赤く腫れ上がって、涙もまだ乾いていない。榊さんは清乃の方へ向き直り、つとめて笑顔を作りながら言った。

「キヨちゃん、ごめんな、ちょっと、トシオに用事が出来たんじゃ。今日はおしまいにして、おうちへお帰り。また、遊んでな……」

 清乃はだまってコクリとうなずき、そのまま庭の外へ走り出した。

 途中ふり返って見ると、母親に肩を抱かれたトシオ君がようやく事態に気付いて怪訝けげんそうな顔になるのが見えた。

 そしてまもなく、清乃を先頭に、實とサダエが小走りに駆けつけた。實は素足すあしに下駄ばきのままである。

「……マツさん」

 玄関を開けて、三人は家の中へ入った。

 すこし開いた雨戸のすき間から、うす暗い座敷の様子が見えた。

 仏壇に据えられた白い箱を背にして、榊さんとトシオ君、その向かいに上松家の三人が、全員うなだれて正座していた。

 それは、出来ることなら見たくない場面であった。

 ふと視線を上に移すと、座敷のはりのところに「天照大御神」と書かれた御札の立つ神棚があった。その横には、おそらくは相当の貴人であろう、正装をした男女の写真が飾られていた。

 戦争は着実に庶民の間に忍び寄っていた。

 そのころ、新聞の一面をにぎわせたのは、恒例と化していた特攻隊の華々しい活躍のニュースであった。

「必死必中の体当たり」

「見よ若鷲の大使命」

「神州を救う果敢なる特攻精神」

「国民も彼らに続け」

 人々はこぞって新聞を買い求め、それらの記事をむさぼり読んだ。

 その書き方が派手であればあるほど、勇ましければ勇ましいほど、新聞はよく売れた。

 兵隊さんたちがここまで頑張ってくれている、銃後じゅうごのわれわれが先に弱音を吐くわけにはいかない、いまが我慢のしどころだ……

 そんな気分を、これらの記事は盛り立てた。

 僕は、ある胡散うさん臭さを感じた。

 冷静に考えれば、戦局はあきらかに不利であり、特攻の存在自体がむしろむなしい悪あがきとも取れる。物量の差を考慮に入れず、やたら精神論ばかりを強調するのも、いずれ負ける者の特徴である。なにより、人間の命を鉄砲玉と同じように考える作戦など、そもそもあってはならないはずだ。新聞はこの機会に、毅然として戦争の中止を訴え、あやふやな空気に流されず、国民を危険から遠ざけるべきではなかったか。

 なのに、そうはしなかった。

 むしろ、行かなくてもいい人たちまでをもせっせと戦場へ駆り立てる役目を果たした。

 なぜか。

 思うに、いちど出来上がった流れに逆らうより、それに乗じた方がラクなのであろう。

 あるいは単に、記者たちは新聞の発行部数を伸ばすために、意図的にそれらのあおり記事を書いたか。

 もしそうだとすれば、それは恥ずべき功利主義である。

 新聞社の内部で生まれた小さなモンスターが、戦争という大きなモンスターを呼び覚まし、それに火をつけ、暴れさせた―――戦争にはそういう一面があったのではないか。

 僕は言いようのない怒りとやるせなさを感じた。

 世の中がある方向へ大きく動こうとするとき、その流れを押しとどめるのは容易なことではない。のたうち回る大蛇を手なずけるのが容易でないように。

 しかしそんな中で、世の迷いを正し、人々の目を覚まさせるのが社会の木鐸ぼくたくたる新聞の役割ではないか。流されやすい大衆に、すこしでも光ある方向を指し示すのが、心あるマスコミのつとめではないか。

 しかしまた思うに、新聞の煽り記事を喜んで受け入れた国民も「同じ穴のむじな」であり、のたうち回る大蛇の正体は実は民衆かも知れない。

 いったい世の中の流れは、どこから来てどこへ向かうのであろう。その流れに、否応いやおうなく左右される笹舟のようなわれわれ一人ひとりに、いったい何が出来るであろうか。 

 僕は、新聞をひらいて一喜一憂する人々の顔を見ながら、そんな暗鬱な思いにとらわれた。

 それからまた警報に神経をすり減らす日々がつづいた。

 僕とチュン太も、夜昼よるひるかまわず鳴り響くサイレンに、すっかり寝不足になった。

「いつまでつづくのかな」

「気が休まらないね」

 灯火管制で真っ暗になった呉の街は、いつ来るか分からない空襲におびえ、息をひそめて震える小動物のようであった。

 そして昭和二十年になった。

 その幕開けは、いつもととくに変わるところはなかった。

 ただ物資の欠乏にだけは、さらに拍車がかかった。

 サダエは、手に入りづらくなった野菜類を調達するため、このごろでは道端に生えている雑草を摘みに行くことが多くなった。雑草と言っても一つ一つ名前があり、味はともかくとして、そのかなりの種類が、食べようと思えば食べられるようであった。

 清乃を学校へ送り出し、まかないの仕事も休みの、ある冬晴れの日、サダエは竹で編んだかごを背負って、かじかむ手に息を吹きかけながら雑草摘みに出かけた。

「ハコベ、タンポポ、セリ、ナズナ……」

 石垣のあいだや、小川の水ぎわに手を伸ばす彼女の口から、鼻歌とともにそんな名前が聞かれた。

 チュン太も、どこから探して来たのか、青々としたくきを一本、口にくわえて戻って来た。

「アブラナだよ……食べてみる?」

 そう言ってくちばしを近づけるので、僕はその折れた茎を受け取り、試しに噛んでみた。

 ちょっとホロ苦くて青臭いけれど、なかなかいい味だ。調味料がないのが少々物足りないが……

 山に向かって少し歩くうちに、すぐにサダエの籠はいっぱいになった。

 そろそろ帰ろうかと山に背を向けたその時、灰ヶ峰の頂上から「ドーン!」という砲声が聞こえた。

 サダエは思わず首をすくめた。

 僕は、いよいよ敵が襲って来たのかと、いっしゅん身構えた。

 しかし、チュン太はあわてることなく、

「あれは日本軍の演習だよ」

と、上空を仰ぎ見た。「敵を迎え撃つための訓練だ」

 サダエも恐る恐る空を見上げた。

 そしてなぜかそのまま、頭を押さえる格好で小走りになった。

 まもなく、付近の民家の瓦屋根に、パラパラと何かが降って来た。

「ぼんちゃん、気をつけて。かけらに当たっちゃうよ」

 僕らは急いで民家の軒下に逃げ込んだ。

「……空中で炸裂した砲弾のかけらが、ときどき頭上に落ちて来るんだ。ぼやぼやしてるとケガするよ」

 やれやれ、敵を迎え撃つのも大変だな、と僕はあらためて時勢の厳しさを憂えた。

 サダエが玄関の戸をガタガタと開けると、すぐ目に飛び込んで来たのは、こちら向きにそろえられた軍靴ぐんかであった。ところどころり傷のある皮製の靴は、古びてはいるが、よく手入れが行き届いていた。

「章ちゃん……⁉」

 サダエはその持ち主が誰なのか、すぐに思い当たった。草履ぞうりを脱ぐのももどかしげに、かごはその辺に放り出して、バタバタと玄関を駆け上がった。

 僕らも庭から回ってみると、物干し竿の向こうに、ぼんやりと薄暗い座敷の様子が見えた。中では留守居るすいの祖母が、とつぜん帰って来た孫―――どこからどう見ても、立派な大人である―――を、ありあわせのお茶でもてなしているところであった。

「章ちゃん!いつ帰ったの?」

 座敷へ飛び込んで来たサダエが、軍服姿の息子に声を掛けた。

 章太郎は向き直りながら、

「たった今じゃ……」

と言って、正座していた足を崩し、あぐらをかいた。

 その顔は、冬なのに真っ黒に日焼けしていて、さらに精悍さを増していた。と言うより、どちらかと言えば頬は痩せこけ、目は落ちくぼみ、全身から漂う殺気がまるで「獣」のようであった。

 僕は思わず息をのんだ。

 サダエはそれには構わず、どう変わっても息子は息子だ、と言わんばかりに、

「いまどこにおるん?いつまで居らるるん?お父さんも出かけとるし、清乃も学校行っとるよ……知らせてくれれば、みんな待っとったのに……」

と、早口にたたみかけた。久しぶりに帰って来た息子を見て、やはり興奮が抑えられないようだ。

「急に時間ができた……今日しかなかったんじゃ。いまは大分おおいたにおる……」

 章太郎の方は言葉少なに、まるで言い訳のようにそう言った。

「またすぐに戻らんといかん。夕方の汽車でつ……」

 サダエはさも残念そうに「そう……」と呟きながら、ようやく、汚れたたかっぽう着を外し、自分も畳に座った。「せめて清乃は間に合うかしらん……」

 章太郎はだまっている。

 やはり何かがおかしいようだ。

高角砲こうかくほうが鳴っとったのう……呉ものんびりはしとられんのう」

 章太郎は座敷から空を見上げた。やっと少し、人間味が戻った顔である。

「……清乃は疎開はさせんのですか?ばあちゃんと一緒に、和歌山へでも行ったらええ思うが……」

 祖母を見ると、さっきから正座したまま、しずかにお茶を飲んでいる。が、自分に話が向けられると、少し含み笑いをしながら言った。

「わたしゃ、もう呉の人間じゃ。和歌山へはよう帰らん。あがいなこと言うて、飛び出して来た身じゃけえのう……」

 そう言って、庭の柿の木を見上げた。

 章太郎とサダエは顔を見合わせた。

 そこには何か、かつての祖母の嫁入りに関する、こみ入った事情がありそうであったが、その話はそこでおしまいになった。

「……とにかく清乃は、呉に残ることになったんよ。まあどこにっても、ぜったいに無事な場所はなかろ。われわれがせいぜい守ってやらんと……」

 サダエは、そのあと何か大切なことを思い出したように、

「それより章ちゃん、マサル君が……」

と、榊さんの長男―――章太郎にとっては幼なじみであるその人の戦死を告げた。

 章太郎は大きく目を見開き、一呼吸おいて、

「ちょっと行って来る……」

と、すぐさま立ち上がり、玄関を出た。

 サダエはだまってその後ろ姿を見送った。

 三十分ほどして、章太郎はまた帰って来た。

 その目はギラギラと輝き、まるで獲物を狙う鷹のように、一切のやさしみを失っていた。

「やっぱり何かあったんだね……」

 僕とチュン太は、今までとはすっかり人が変わってしまった、まるで何かに取りかれたような章太郎の様子を心配した。

 その顔には明らかに、人には言えない懊悩おうのうの色が浮かび、おそらくは何日も寝ていないであろうことがうかがわれた。

「お母さん、二階へ行って、ちょっと寝てもええか……」

 章太郎は、台所で野菜のり分けをしていたサダエに声をかけた。

「あんたの部屋じゃけ、好きに使いい……」

 そう答えたサダエの言葉にも、さすがにどこか他人行儀な息子の様子を、いぶかしく思う気持ちが混じっていた。

 僕とチュン太は、今日にかぎって清乃の帰りが遅いことをじれったく思い、学校の様子を見に行くことにした。屋根に飛んで、ふと二階の窓を覗くと、章太郎は五分と経たないうちに、倒れ込むようにグーグーいびきを立てて寝ていた。

 清乃の教室は、窓ガラスが湯気で曇って、中がよく見えなかった。

 僕らは窓枠にへばりついて、競い合うように中の様子を覗き見た。

 まん中に大きなストーブがあり、前の方に生徒たちが寄り集まって、押し合いへし合い何かに注目している。

 人だかりの中心には、紙芝居を広げたデコちゃん先生がいた。

 すでに放課後であったが、どうやらデコちゃん先生が、生徒たちを元気づけるために、自作の紙芝居を子供たちに披露している様子であった。大きな自転車の絵が見えた。

 僕とチュン太は、それを見てみたい気持ちと、早く終わってほしい気持ちと、両方のあいだで焼きもきした。

 紙芝居はなかなかの盛り上がりを見せ、そしてなかなか終わらなかった。

 僕たちのあせりをよそに、教室には子供たちの笑い声がどっと響いた。

 仕方なくまた家に戻ると、いつのまにか目を覚ました章太郎が階段を下りて、座敷のあたりで何かを探している様子であった。

 座敷の隅には、いつもそこで父が読んでいる本が数冊と、覚え書きのノート、それから太い万年筆が置いてあった。その場所は「こっちの方が居心地がええ」と言って實がよく時間を過ごす一角であった。

 章太郎は父のノートと万年筆を手に取り、縁側へ歩いて行ってどっかと腰を下ろした。

 そしてノートの最後のページを開き、すでに傾きかけた日差しの中で何かを書きはじめた。

 僕らはよく見るために、屋根の庇のところへ行って、非礼を詫びながら、上から盗み見た。


    前略

  お父さん、これがきっと最後の手紙になると思います。

  このような愚かな時代に生まれたのも、すべて我々の運命と言うべきでしょうか。

  けだし八十年生きるのも、二十年生きるのも、人間の歴史に比べれば同じようなものです。

  しかし、輝いて生きるのと、流されて生きるのとでは、雲泥の差があります。

  たとえこの身はそこへ辿り着けなくても、北極星はつねに我々の頭上にあります。  

  このような生き方を教えてくれたのは、他ならぬお父さんです。

  僕は、死んで行った仲間のために、家族のために、友人のために征きます。

  これまで育てていただき、ありがとうございました。

  お母さん、清乃、ハマさんを宜しくお頼み申し上げます。

  さようなら


      つばくらめ 旅路の果てのふる里は

                花咲きそろふ 美しき島


                             章太郎


 それは明らかに、章太郎のであった。

 僕は頭の中が真っ白になった。

 目の前にいる、坊主頭のこの人は、胸のうちに死を覚悟している。

 その状況がうまく呑み込めず、僕は混乱した。

 チュン太はだまったまま、下を向いている。

 万年筆のピンをそのページにはさみ、章太郎はパタリとノートを閉じて、また元の場所へ戻した。そして二階へ上がって、すぐまた降りて来たときには、来た時と同じ正装の軍服姿になっていた。

 さらにまた思い出して座敷へ戻ると、暗がりの方へ歩み寄り、ゆっくりと仏壇の前へ正座した。目を閉じて合掌している時間が、まるで時が止まったように長かった。

 みかんを盆にのせて運んで来た祖母が、声を掛けるのをためらったほど、その後ろ姿は鬼気迫っていた。

 章太郎は目を開け、すこし後ずさりしながら、ポケットから何か厚みのある封筒と、一枚の写真のようなものを取り出し、仏壇にそなえた。

 そして、思い切ったように、すっと立ち上がると、向き直ってそのまま座敷をあとにした。

 柱の陰にいた祖母とすれちがうとき、彼は「ばあちゃん、元気でな……」と言って盆の上のみかんを一つ手に取った。

 台所ではサダエが、採って来た野草を湯通しして、夕飯の準備をしていた。

「あら、もう帰るん?もうすぐ清乃が帰って来るけ、あと少し、られんかのう……それにしても、今日は遅いなあ……」

「もう汽車の時刻じゃ。また来るけ。清乃には写真を渡しとってくれ。仏壇のところにある。それから、ちいとばかしじゃが、お金も置いといた。父さんにも、よろしゅう言うてくれ……」

 章太郎は靴ひもを結びながらそう言うと、立ち上がって振り向き、それから凛として二人の女性の正面を向いた。

 彼は両腕を真っすぐ脇につけ、深々とお辞儀をした。

「それでは、行って参ります」

 それは軍隊式の挙手の礼ではなく、母と祖母への心からの敬礼のように見えた。

 二人の女性は玄関の外に出て、去り行く章太郎の背中をいつまでも見送った。

 祖母は我知らずその後ろ姿に手を合わせ、口の中で何かぶつぶつと唱えている。

 母は濡れた手を前掛けで拭きながら、眉根を寄せて心配そうに見ている。

 僕らも玄関の軒下から見送ったが、青年は前を向いたまま、決して振り返らなかった。けっきょく今回の帰省において、章太郎の笑顔を見ることは一度もなかった。

「……妹には、恐い顔を見せたくなかったのかもね……」

 僕がそう言ってチュン太を見ると、彼は声を押し殺して泣いていた。僕はそれ以上、何も言えなかった。

 ようやく清乃が帰って来たときには、すでに日がとっぷりと暮れていた。

「どこへ行っとったん、こんな夕方まで……」

 サダエの詰問きつもんするような口調に、清乃はかがんで靴を脱ぎながら、上気した顔で答えた。

「先生を送って、二河川にこうがわの方まで行っとった。みんな一緒で楽しかったよ。冒険みたいじゃった……」

 そして、紙芝居を見たこと、みたいに隊列を組んで、号令をかけながら歩いたこと、などを興奮して喋った。

 サダエは、清乃が元気に学校生活を送っていることを、なかば嬉しく思いながらも、やはり言いづらそうに、章太郎の帰省の件を切り出した。

「……それは、よかったのう……でもな清乃……さっきまで、兄ちゃんがおったんよ……汽車がないとかで……もう帰ってしもた」

 聞いていた清乃はとたんにハッとした顔になり、口をあんぐりと開け、みるみる目を吊り上げながら母に詰め寄った。

「なんで早よう言うてくれんのん?紙芝居も途中で抜けて来たんに!……」

 ゲンコツをふり上げてエプロンを叩く娘のふくれっ面を、母はなんとかなだめようと懸命になった。

「ごめん。ごめん。急に来て急に帰ったけ、呼びに行くひまがなかった。また来る言うとったけえ……堪忍かんにんじゃ……」

 なおも不満が治まらない娘に、母は思い出したように言った。

「そうそう。あんたに何か、写真を渡してくれ、言うとったな。仏壇のところにあるそうじゃ。ちょっと見て来てみい……」

 清乃はキョトンとした顔になり、すぐさま座敷の方へ駆け出した。

 そして戻って来たときには、すでに機嫌を直していた。

「見て、見て、お母さん!うらにこんなこと書いてある。―――みかんを食べる人の絵、上手にかけてました、まるで匂いまで伝わって来るようでした……だって。やっぱり、うちの葉書、届いとったんじゃ!」

 清乃は写真を持ったまま、ピョンピョン飛び跳ねている。

 母もほっと胸をなで下ろした。

 清乃は寄り目をするように、その写真を顔の前にかかげながら、くるくると旋回した。

 その写真とは、言うまでもなく、僕が祖母の部屋で見たことのある、あの、僕に似ているという青年の写真であった。

 颯爽と腰に手を当てた、飛行服姿の青年の顔には、屈託のないおだやかな笑みが浮かんでいる。章太郎は笑顔を見せてやれない代わりに、その写真を妹のために残して行ったのかも知れなかった。

 父が帰って来たのは、やはり夜遅く、清乃が寝入った後だった。

「章ちゃんが帰っとったんよ」

「おう、ほうか」

「大金を置いてってくれた」

「おう、ほうか」

「ずいぶん、やつれとったよ」

「おう、……ほうか」

 父の例の返事には、よく聞いていると、思いのほかいろんな表情があるのであった。

 妻がこしらえた野草の料理に、「ふむ……」と一言感想を述べ、やがて食事を終えた實は、しずかに座敷の方へ歩いて行った。

 くたびれて帰ったあと、眠りにつく前に、パラパラと好きな本のページをめくるのが彼の日課であった。本日もお気に入りの場所で、いこいのひと時をのんびり過ごそうと思ったのに違いない。

 ところが、畳をきしませて歩く足音は、その場所まで来ると、少し手前で止まった。何かがいつもと違うことに気づいた様子である。ノートに挟まれた万年筆を、パチリと引き抜く音がした。

 灯火管制で真っ暗になった上松家は、雨戸もしっかりと閉じられていて、僕らのいる場所からは、中の様子は伺い知れなかった。

 しかし、おそらく實は今ごろ、ノートに書かれた章太郎の文字に目を走らせていることであろう。

 ひっそりとした、めずらしく警報もない静かな夜更よふけに、台所でサダエが洗いものをする水音だけが、澄み切った星空に響いていた。

 章太郎のとつぜんの帰省からしばらく経った、ある晴れた朝のことである。清乃と祖母は久しぶりに連れ立って畑へと出かけた。

 冬のあいだ放置されていた畑は、地面が固くなり、雑草が生え放題になっていた。

「……手入れをせんと、すぐこうなるんじゃね……」

 二人はどちらからともなく顔を見合わせ、苦笑した。しかし、むしろ春の息吹いぶきを感じながら、やるべきことのある喜びを噛みしめている風でもあった。

 祖母はリヤカーからくわを取り出し、

「きょうは自分で打ってみるかね……」

と、それを、少し背の伸びた孫に渡した。

 清乃はハリキった顔で重そうに受け取ると、祖母の真似をして大きく地面に足を踏んばり、お腹に力を入れて「うんしょ……」と持ち上げた。

 ところが、振りかぶった拍子に青空を見上げた彼女は、ふと何か異変を感じたのか、ピタリとその手を止めた。

 と思うまもなく、灰ヶ峰の向こうから、すさまじい爆音とともに、何百機もの飛行機が姿を現した。

 まるでトンボがいっせいに飛び立つようなその不気味さに、すぐには何が起きたのか分からず、清乃はポカンと口を開けたまま、やがて鍬の重みで後ろへひっくり返った。

 あわてて助けようとした祖母もまた、尻餅をつきながら空を見上げた。

 それが本物の空襲であることが分かったのは、山の上の砲台から、対空射撃の砲声がつぎつぎと上がったからである。

「ドーン」

「パーン」

「ドドーン」

 空には花火のように、色とりどりに炸裂した砲弾がいくつもの花を咲かせた。辺りは一変、お祭り騒ぎになった。

「あぶない!逃げよう」

 僕らはあわてた。

 とは言え、どこへ逃げていいか分からず、ひたすら右往左往するばかりであった。

 遅きに失したサイレンが、けたたましく敵機襲来を告げるなか、砲弾のかけらがパラパラとそこら中に降って来た。

 事態を察した祖母は、リヤカーも鍬も放りっぱなしで、清乃を抱きかかえるように坂道を下った。

 しかし足元はままならず、動くとかえって危険なことから、清乃に覆いかぶさるように、その場に身を伏せた。

 上空は飛行機のうなり声と、砲弾の破裂音と、鳴り止まぬサイレンとで、耳をおおわんばかりの狂騒であった。

 つぎからつぎへと湧き出る敵機は、驚くほど低空をかすめ、やがて頭上を通り越して、どこか港の方へ向かうようであった。

 恐る恐るそちらを見ると、はるか港の上空では、急降下した飛行機がつぎつぎと爆弾を落とし、また急上昇をくり返している。船を狙っているらしい。その執拗なさまは、あたかもスズメバチの来襲に似ていた。船からも、大砲をはなって応戦する。そのうちどこからか別の種類のハチがやって来て、彼らを激しく追い回す。敵か味方か、撃ち落とされて黒煙を上げながらクルクルと落下していく飛行機もあった。

 激しい戦闘はしばらくつづいた。

 そしていつか敵機は去って行った。

 僕らが見たものは、まぎれもない「戦争」であった。

 いや、戦争はすでに始まっていたのだが、やはり眼前に敵の姿を見るまでは、どうしても実感できずにいたのだ。

 うのていで逃げ帰った祖母と清乃は、出迎えたサダエといっしょに身を寄せ合って泣いた。

 あとから聞いた話では、そのときの空襲―――三月十九日の呉への初空襲―――で、港に停泊していた艦艇かんてい数隻が破壊され、住民をふくむ多数の犠牲者が出たらしい。

 戦争は否応なく、目の前の現実となった。

 それ以来、呉にはたびたび敵の飛行機が飛来するようになった。

 実のところ、それ以前にも、つけっぱなしのラジオからは、東京や大阪や神戸の空襲のニュースが伝わってはいたのだが、例によって紋切り型の口調からは被害の詳細は分からず、どこか絵空事の感がしていた。

 しかし、爆音とともに低空を飛んで、こちらへ銃口を向けるグラマンの機体を目撃すると、われわれは初めて「命の危険」を感じた。

 中には、あろうことか、単機で偵察に来た飛行機が、面白半分、庶民に機銃掃射を加えることもあった。

 ダダダダッ。ダダダダッ―――

 こわごわ頭を上げると、操縦席でニヤリとするパイロットの顔が見えた、と証言する者もあった。

 そしてしばらく経ってから、恐ろしい事が起こった。

 清乃の学校では、三学期の終わりを待たずして、デコちゃん先生の異動が告げられた。

 どこか四国の学校へ転勤になると言う。

「このたび、とつぜんではありますが……」

 校長先生が朝礼台に立ち、挨拶をした。当のデコちゃん先生の姿はそこにはなかった。

 子供たちは騒然となり、先生がいないことを不審に思いながらも、気を取り直してみんなで寄せ書きをかいた。

「先生、ひょっとして、お嫁に行くんですか……お幸せに」

「また戻って来てね」

 清乃は誰よりもさびしい顔をした。

 真相はこうであった。

 隣組の噂によると、近ごろ二河にこう川の橋の付近で、米軍の機銃掃射にやられた若い女性の死体が見つかった、女性はうつ伏せに倒れ、頭を撃たれて顔も分からないほどであったが、胸に縫い付けられた名札から、小学校の教員であることが分かった、生徒たちにはショックを与えないよう、どこかへ転勤になったことにしてあるらしい、と言うのであった。

 主婦たちはヒソヒソ声で、

「なんでも、足の悪いお婆さんを家に送るために手伝っていたところを、後ろからやられたそうよ……」

「かわいそうにねえ……」

と囁き合った。

 立ち聞きしたサダエも、顔をまっ青にして、とぼとぼと家に帰って来た。とても清乃に真実を言えたものではなかった。

 僕とチュン太は声にならないほど衝撃を受けた。

 そして、ここから先は―――それがいつかは覚める悪夢であってくれたらと、願わずにはいられない出来事が立てつづけに起こることになる。

 サダエの勤務する海軍工廠では、船を狙った先日の空襲で相当の被害があったにも関わらず、半壊した施設の中で作業は休まず続けられた。人々はたび重なる脅しにひるまず、かえって闘志を燃やし、気を引き締めるようにして仕事に励んだ。彼らには、自分たちが頑張らなければ、という意気込みとともに、この戦争に負けたらどうなるか、男は半死半生はんしょうで働かされ、女子供は凌辱りょうじょくほしいままにされる、日本には地獄が現出する、という恐れがあった。住民たちはあわびのように、目の前の生活に必死にしがみついた。サダエも、それが自分のやるべきことと信じて、せっせと仕事に通った。

 清乃は二年生になり、担任は男の先生に変わった。この教師は不粋ぶすいな愛国主義者で、生徒一人ひとりの身の上より、全体としてのクラスのまとまりを重んじた。

 清乃は傍目はためにも口数が少なくなり、鬱々とする日が多くなった。

「世の中にはままならんこともあるよ……」

 サダエは懸命に清乃を慰めながら、ふと自らもため息をついた。

 ラジオからは「沖縄特攻」のニュースが連日伝えられた。戦艦大和も出撃したらしい。戦局は大詰めのようであった。また、呉の山むこうにある飛行機工場も、空爆にやられたという知らせが入って来た。

 日本は満身創痍になりつつあった。

 そして……

 昭和二十年の六月はすでに真夏の暑さであった。

 その日、清乃は食欲もなく、朝食に出された食事にほとんど手をつけないまま箸を置いた。

 そして、だまってガラガラと玄関をあけ、力なく学校へ出かけた。ごちそうさま、も、行ってきます、も言わずに……

「行ってらっしゃい!」

 サダエはつとめて元気に見送ったが、やがてしょんぼりと肩を落とした。

 そしてそのことを―――母に日々のねぎらいの言葉をかけてやれなかったことを―――清乃は後々まで悔やむことになる。

 清乃を送り出したあと、サダエは身支度を整え、いつものように海軍工廠へ出かけた。みのるは例によって朝早くに家を出ていた。

 港に停泊している、被弾した船を横目に見ながら、サダエは食堂のある建物へそそくさと消えて行く。僕たちも、この前の空襲の爪あとを確認するため、彼女を追って港のあたりまで行ってみた。

 しずかに佇んでいるように見える船たちは、近くで見ると、甲板は無惨に破壊され、船体は傾いたまま波にさらされている。

「片付ける費用も燃料もないから、そのまま放置されてるんだね……」

「あれだけ大群で来られたら、一たまりもないね……」

 僕はかねてから聞いていた、日米の物量の差、国力の違いをあらためて実感した。

 茫然としながら工場をあとにし、僕らは気分を変えて、こんどは清乃の授業風景でも見に行こうと、境川にかかる橋の上を一つ一つ辿るように飛んだ。

 堺橋、小春橋、五月橋……橋にはいろんな名前が付いている。

 ところがその時である。

 けたたましいサイレンが鳴った。

 警戒警報ではなく、いきなり「空襲警報」であった。

 驚いて振り向くと、遠くの空から、太陽に照らされた物体が、編隊を組んでしだいに近づいて来るのが見えた。細長い雲を引いている。

 いつかの空襲のときは、小型の飛行機がせわしなく低空から襲って来たが、今回はそれよりもはるか上空を、大型の飛行機がゆうゆうと飛んで来る。銀色に光る胴体には、小さく星のマークが見えた。

「B29だ!」

 僕はその、空襲の代名詞とも言うべき爆撃機の名前を、思わず叫んでいた。

 言うが早いか、山々に設置された高角砲がいっせいに火を吹いた。

 ドーン!

 パーン!

 市街地では、異変に気づいた人々がこぞって逃げ惑い、近くの防空壕に駆け込む姿が見えた。街のいたる所に、公共の防空壕が掘られていた。

 僕らも他人ひと事ではなく、どこかへ逃げなければと迷った挙句、近くの橋の下へ隠れることにした。そこは、いつか章太郎が小さな清乃をおんぶして歩いていた公園の辺りである。消防署の鉄塔がその横にある。

「カーン、カーン」という半鐘の音が、警報のサイレンに混じって響いた。火の見やぐらの上で消防士が鐘を打っている。

 橋の下から見上げる空は、高角砲の砲弾が煙幕のように広がっている。

 しかし、それらはすべて、B29のはるか手前の方で炸裂し、むなしく周囲に破片を降らせるばかりであった。敵機の高度が高すぎて、対空砲火が届かないのである。

 飛行機の開発は日進月歩であり、ここでも日本はアメリカに大きく水をあけられた形であった。

「……戦争も、船ではなく、飛行機の時代なんだね……」

 思えばライト兄弟が初めて空を飛んで以来、わずか六十年で月にまで行ってしまう人類の、なんと賢い存在であることか。

 と同時に、それを使ってお互い殺し合うことしか思いつかない人間の、なんと愚かな存在であることか―――

 そんな感慨に耽りながら、僕は空襲を避けて身を伏せていた。戦闘はどうやら市街地ではなく、どこか海岸の方で行われているらしいことが音の響きで分かった。

 恐る恐る橋の上へ顔を出し、さらに火の見櫓の高さにまで飛んでみた。

 すると、よく晴れた空に、なぜか一ヶ所だけ、夕立のように日がかげり、集中的に雨を降らせている場所があった。

 よく見ると、それは雨ではなく、規則的に降るマッチ棒のようなものであった。

 雲のように見えたのはB29の編隊で、マッチ棒は焼夷弾の雨であった。

「海軍工廠だ!」

 僕らは、さっきまでそこにいた海岸の一帯に、見る見るうちに無数の爆弾が投下され、やがて煙に包まれて行くのを目の当たりにした。

 少し離れたこの場所へも、地鳴りと共に生あたたかい爆風が伝わって来る。

 しかしそれより―――

 僕は攻撃のすさまじさに圧倒されて、いままで忘れていた大事なことを、その時やっと思い出した。

 あの中に、サダエさんがいる!

 人間は、認めたくない現実を目の前に突きつけられた時、とっさに何か別のことを考え、現実逃避するものなのであろうか。

 僕は、火の見櫓の上で半鐘を鳴らす消防士を見ながら、あの鐘は金属の供出をまぬがれたのかな、とか、僕もあそこへ登って一度鳴らしてみたいな、などと場違いなことを考えていた。

 そして、パラパラと降って来る砲弾のかけらを眺めては、また現実に引き戻される。

 あの中に、サダエさんがいる……

 となりで心配そうに見ているチュン太の羽は、僕のよりやわらかそうだな、やっぱりチュン太はメスなのだろうか……

 あの中に、サダエさんがいる……

 そんな堂々巡りをくり返すうちに、僕にはようやく、現実が絶望の重みをもって腹の底へ響いて来た。

 しかし、どうすることも出来なかった。 

 容赦ない空爆がおよそ一時間ほど続くあいだ、僕らは呆然とそれを見ているしかなかった。

 消防士たちも、出動の準備を整えながら近づくことも出来ず、もどかしそうに、赤く燃え上がる空を見つめていた。

 どこからかラジオの声が、呉のみなさん、危険です、避難して下さい、とむなしく告げていた。

 そして、気が済んだようにB29の編隊は、やがてどこかへ去って行った。

 あとには黒煙と炎だけが残された。

 攻撃がんだのを見計みはからい、消防車がつぎつぎと鐘を鳴らしながら出動した。男たちの顔は使命感に燃えている。

「僕らも行ってみよう!」

 彼らの向かう方向へ、僕らも並行した。

 もちろん、雀が駆けつけたところで何の役に立たないことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。

 現場へ近づくにつれ、猛烈な熱さが身を包んだ。

「このままじゃ、焼け死んじゃうよ……」

 僕らはとっさに、近くにあった防火用水に頭から飛び込み、全身を水でひたした。濡れた羽で飛ぶのは重たかったけれど、なんとか熱さは耐えられるようになった。

 火災現場に到着すると、ついさっきまで工場としてそこにあった建物たちは、その面影が跡形もなかった。

 屋根や壁は焼け落ち、向こう側がぽっかりと透かし見えた。残った鉄骨も、ぐにゃりと折れ曲がり、哀れな姿を熱風にさらしていた。海の水が流れ込んでいる箇所もあった。黒煙の中で消火活動をする隊員が、大きな声で叫んだ。

「不発弾があるけえ、気を付けるんじゃ!」

 見ると、えぐり取られた地面に、羽のついた筒状の爆弾が、不気味に突き刺さっている。

 あんなものが一発でも落ちたら、平成の日本ならば大騒ぎであろう。それが何百発も、何千発も、この工場群に振りそそいだのだ。

 燃えつづける建物の中から、何とか生存者を見つけ出そうと、隊員たちは必死である。駆けつけた軍の救護班も、いっしょに救助活動を手伝った。

「だれか、生きとる者はおらんかあ!」

 隊員たちの呼びかけに、答える者はなかった。しかしそこへ、声が出せないかわりに、瓦礫の下でもぞもぞと動く一本の手が見えた。隊員はすかさず駆け寄り、その手を握った。

 他の隊員たちも、すでに黒焦げになった遺体を踏み越えながら集まって来て、その一人を助けることに専念した。

 掘り出されたのは、服も下着もボロボロになった男性の工員で、かすかに安堵の色を浮かべたまま気を失い、担架で裏山の方へ運ばれた。

 こんな焼け跡からも生存者が発見されたことに、僕は少しだけ希望を持った。

 裏山には、斜面に掘られた大規模な防空壕があり、トンネル状の入口が頑丈そうな扉を閉じて静かに佇んでいた。爆風と炎は無差別に山肌にまで達したらしく、そこら一帯、焼け焦げた林がくすぶって白い煙を上げていた。

 あの中に逃げ込んだ人たちは無事なのだろうか。

 消防隊員が長い鉄の棒を使って扉をこじ開けようとするが、変形した扉はなかなか開こうとしない。

 五、六人がかりでやっと扉が口を開けたとき、中から猛烈な水蒸気が吹き出し、隊員の一人がたまらず顔を手で覆った。他の隊員たちは、それでも力まかせに扉を押し開けた。

 そのとき僕らが目にしたものは、とても正視できない光景であった。

 熱風とともに、中から流れ出て来たのは、白いハチマキをしたモンペ姿の少女たちの集団であった。それらがすでに遺体であることは、その弾力のない倒れ方で分かった。まるで満員電車の扉が急に開いたように、少女たちは一かたまりになってドサリと外へ雪崩なだれ落ちた。

 ある者は防空頭巾をかぶり、ある者は髪が焼け焦げ、みんな一様に苦痛の表情を浮かべて死んでいる。互いの手を固く握りしめている者もいた。

 おそらく、全員で防空壕へ逃げ込んだはいいが、炎や熱風が壕の中まで侵入し、外へ出ようにも扉が開かず、泣きさけびながら蒸し焼きになった形であろう。

 みんな僕と同じような年代の可憐な少女たちであった。サダエが言っていた「挺身隊ていしんたいの女の子たち」にちがいない。

 遺体は一人ひとり、壕の外へ運び出され、裏山へ並べられた。幸い、と言うべきか、サダエの姿はそこにはなかった。

 僕は、サダエが早く見つかることを望むと同時に、こんな姿で発見されることを恐れた。

 少し進んだ場所でも、やはり同じような惨状が広がっていた。建物は崩れ落ち、鉄骨は折れ曲がり、黒焦げの遺体が固くなって無数に転がっていた。ときどき何処どこからか「ドーン」という新たな爆発音が聞こえるのは、不発弾の炸裂であろうか。救助する方も命がけである。

 消防士、軍の関係者に加えて、無事だった工員や、かけつけた奉仕団の人たちも救助に参加した。焼け跡は立ち昇る煙と鼻をつく異臭とで息が出来ないほどであった。

 襲撃しゅうげきから数時間が経った。

 僕らはふと、瓦礫をかき分け、誰かを必死に探す、国民服姿の一人の男性が目に止まった。

 口をタオルで押さえ、帽子を目深にかぶるその顔はすすけているが、それはまぎれもない主人のみのるであった。ラジオのニュースを聞きつけて、広島から急遽きゅうきょ引き返して来たのであろう。普段のんびりした彼の、どこにそんな力があったのかと思うくらい、瓦礫を持ち上げるその動きは強靭であった。

 僕らは僕らで、焼け落ちた建物の裏へ回ったり、ほかの防空壕を当たったり、空から俯瞰してみたりしたが、どこにもサダエの姿はなかった。むなしく時間ばかりが過ぎた。無邪気に紙ヒコーキを飛ばす彼女の笑顔が目に浮かんだ。

 運ばれて行く担架を覗いてみても、どれも彼女ではなかった。ふう、と天を仰ぐ實の顔に、しだいに疲労の色が濃くなった。

 かつての堂々とした工場群は、すっかり変わり果てた姿となり、急に視界が開けたおかげで、向こう側の海岸線がはっきりと見えた。やがて空気が冷え込んで来た。

 實はその日、日没まで捜索をつづけ、いよいよ視界不良となったので、やむなくあきらめて帰った。

 次の日も、實とともに僕らは朝から焼け跡に向かった。―――が、結果は同じであった。

 生きていれば運ばれているはずの、病院のベッドもすべて探したが、やはり彼女の姿はなかった。

 あくる日も、そのあくる日も、實は仕事を休んで、妻の捜索に全力を注いだ。

 しかし、日が経つにつれ、発見の可能性は低くなり、實の疲労はやがて限界に達した。せめて遺体でもいいから、という譲歩がその心に生じた。

 ラジオのニュースは相変わらず「こちらの被害は軽微……」を繰り返している。

 そしてその次の日、實はようやく仕事に復帰した。事実上、捜索を打ち切った形であった。

 しかしながら實の心配ごとはそれだけにとどまらなかった。

 清乃へは、母の仕事が忙しく、何日も泊りがけになっている、もう少し経ったら帰って来る、と伝えてあったが、勘のいい清乃は大方おおかたの事情を察していて、ついには食事が喉を通らなくなっていた。

 日に日に、その小さな体は衰弱した。

 祖母のハマが母に代わって台所に立ち、なるべく消化のよさそうなおかゆを作ったり、闇で買って来た高価な卵を火であぶって、気付け薬のようなものを作ったりしたが、病床の清乃はすぐにそれを吐き出した。

「弱ったねえ……」

 見舞いに訪れた榊さんも顔を曇らせた。トシオ君がたどたどしい口調で、持って来た冒険物の漫画を読んでやったときは、清乃は少しだけ笑った。

 それから一週間ほどしたころ、榊さんがふたたび上松家を訪れ、實に電話を取りついだ。(隣組では唯一、榊さんの家にだけ電話機があった。)

「……広島の井上さんいう方が、實さんに話がある言うて……」

 實は下駄をつっかけて、榊さんの家へ急いだ。

「……私立学校の理事長じゃ。いつも贔屓ひいきにしてもろとる。何の話じゃろ……」

 道々、小走りについて来る榊さんに、實は振り向きながら言った。僕とチュン太もあとを追った。

 しばらくして電話を切った實は榊さんにこう告げた。

「救援物資をくれるそうじゃ。広島に取りに来い言うとる。トラックは用意してあるらしい。あの言い方じゃと、隣組や七組、三組の分まであるかも知れんぞ……」

 實は久しぶりのいい話に、髭の伸びた顔を輝かせた。榊さんはそんな實をはすに見て、

「そう……そりゃ良かったな……しかし、實さん。あんたのことを悪う言うた人たちの分まで、そがいにせんでも……」

と、不服そうな顔をした。

「それとこれとは話が別じゃ。なにより、清乃にやっと白い飯が食わせてやれるかも知れん……」

 實は出立しゅったつの準備をした。午後の日はすでに傾いていた。

「お祖母かあさん。夜までには戻るけえ。清乃をよろしゅう頼むな」

 實にとって、祖母のハマさんは「お母さん」であることを改めて思いながら、僕はチュン太といっしょに彼を見送った。

「あんたも気ィ付けてな。広島は空襲は大丈夫かの?」

 ハマさんは心配そうに息子に問いかけた。清乃は風通しのいい座敷に寝かされている。

「なあに、広島にはなんでか、不思議なほど空襲がないんじゃ。なにを企んどるか分からんが、とにかく、わしのことは心配いらん……」

 實はそそくさと郵便局の角を曲がった。

 祖母と清乃と、二人だけが残された上松家はさすがに寂しい感じがした。ひところは、サダエと章太郎も加えた家族五人が、わいわいと食卓を囲んでいたはずなのに……。そう言えば章太郎さんは今頃どうしているだろう。戦線で活躍しているはずだが、果たして無事なのだろうか―――

 ふいに目を覚ました清乃が、寝ぼけた声で言った。

「いつかまた、福屋デパートのオムライス、みんなそろって食べたいな……」

 どうやら食欲は少し戻って来たらしい。

「ほうじゃのう、ほうじゃのう……」

 泣き笑いの顔をしながら、自分を抱きしめる祖母を、清乃は不思議そうに見つめている。どうして大人は、こんなときに泣くのだろう、と言いたげな表情である。

 その日、夕方になっても、また夜になっても、實は帰って来なかった。

 祖母はあり合わせの材料で、質素な夕食をこしらえた。清乃が食べやすいように、野菜もふだんより細かく刻んだ。

 しかし、やはり清乃の体調は思わしくなく、一口食べただけで、すぐに箸を置いた。

「ごちそうさま……」

 こんな時、サダエさんがいてくれたらなあ……

 そんな祖母の心のつぶやきが、僕にもありありと感じられた。しかし「母」という言葉は、あの時以来、禁句なのであった。

 八時を過ぎたころ、灯火管制で真っ暗な上松家の庭へ、榊さんが懐中電灯を照らしながらやって来た。雨戸は避難しやすいよう開け放してある。

「……お祖母かあさん、實さんから電話があってな、トラックが山道で故障して、どうにも難儀しとるらしい。近くの農家で救援を待っとるところじゃけえ、夜には間に合わんかも知れん言うてじゃ。二人で大丈夫かの……」

 祖母は「おおきに、マツさん。いつも済まんのう……」と、気丈なところを見せた。祖母の顔は心なしか、つややかに、若々しく見える。

 ささやかな差し入れを置いて、榊さんはうしろを振りかえり振りかえり帰って行った。

 今日から七月というだけあって、蒸し暑さは夜までつづいた。祖母は、ふだん寝ている自分の部屋ではなく、今夜は清乃といっしょに、涼しい座敷で寝ることにしたらしい。踏み台を持って来て、部屋の四隅に蚊帳かやを吊った。

 蚊帳というものを、僕は知識では知っていたが、実際に見るのは初めてだった。それはどういう訳か、子供たちにとって、心躍る夏の風物詩のようである。

「入ったらすぐに閉めるんじゃぞ……」

 祖母に言われて、清乃はいそいそと緑の網をかいくぐり、すぐにまたピタリとそのふちを手で押さえた。このときばかりは、ふだんの元気な七歳の女の子に戻った。

 縁側に蚊取り線香を置いて、祖母は自分も蚊帳の中へ入り、清乃の横に添い寝をすると、持って来た団扇うちわで心地よい風を送った。

 清乃は昼寝をしたせいかすぐには寝付けないらしく、しばらくは目を開けたまま、じっと天井を見つめていた。たるんだ蚊帳が、頭の上で、大海原のように揺れている。

 このところ母親の役割をつとめて、さすがに疲れているのであろう、祖母の方が先にうとうとし始めたが、団扇はあい変らず動いている。

 静かな時が流れた。

 戦争さえなければ、いかにものどかで平凡な夏の夜のひとときである。枕元にはいつもの防空頭巾と、非常持ち出し用のずた袋が忘れずに置いてある。清乃はいつもその中へ、寄木細工の宝箱を入れていた。

 いつしか団扇も止まり、清乃もすやすやと寝息を立てはじめた頃であった。蚊取り線香は半分ほど燃えて白い灰になっている。

 けたたましく警報のサイレンが鳴った。

 警報は近ごろ毎夜のことであったが、今日はそれが長くつづき、なにか不穏な感じがした。

 縁の下で身を寄せ合っていた僕とチュン太は、屋根のところまで飛んでみた。

 真っ暗闇の中、軍艦からのサーチライトが山肌に幾筋もの光を投げていた。

 雲の間にチラリと飛行機の影が見えた。―――B29だ!

 つづいて耳をとどろかす爆音が近づき、近隣の人々があわてて避難する足音がした。

「Bじゃ!Bじゃ!」

 口々に叫んでいる。

「清ちゃん、起きんさい!清ちゃん!」

 寝入ったばかりでなかなか起きようとしない清乃を、このときばかりは乱暴に揺り起こすと、祖母は自分の頭と孫の頭に防空頭巾をかぶせ、非常袋をそれぞれの肩にかけながら、半ば強引に手を引くように外へ連れ出した。上がり口に用意してあった草履をはく冷静さも失わなかった。

 庭に掘られた防空壕の扉を開け、二人が中へ飛び込むが早いか、空には尾をく線香花火のような、まぶしい光が二すじ落ちて来て、中空で炸裂した。

 みるみる呉の街は明るく輝き、昼をあざむく景観に照らし出された。

 どうやらそれは、攻撃目標を見えやすくするための「照明弾」というものであるらしかった。

 僕は思わずその明るさに見とれ、ライトアップされた中で何かショーが始まるような錯覚におちいった。

 呆然とするうちに、しだいに僕の目の前に広がったのは、まさしく悪夢のようなショーであった。飛来したB29は次々に、規則正しく、あのたちの悪いマッチ棒を、市街地の上へ所かまわずき散らし始めたのである。

 昼間はにぎやかな本通りの上へも、それは容赦なく降りそそいだ。

 境川へも、二河にこう川へも、まるで絨毯じゅうたんを敷きつめるように、余すところなく、焼夷弾はバラ撒かれた。

 つづいて地鳴りのような轟音が押し寄せる。

 たちまち呉の上空は真っ赤になった。逃げ惑う人々の叫び声がその中に混じった。

「キャーッ!」

「早う逃げえ!」

「この子も入れて下さい!」

「おかあさーん!」

 飛行機が「市街地」を狙っているのは明らかであった。

 山からの対空砲火もすさまじかった。

 ドーン!

 パーン!

 しかし、またもやそれは敵機に届かず、むなしく砲弾のかけらを屋根へ降らせるばかりであった。

 炎につづいて、煙が街を包んだ。

 この勢いからすると、たとえ防空壕へ逃げ込んだとしても、あの時の少女たちのように、蒸し焼きになるか、あるいは窒息死するかであろう。ギュウギュウ詰めの壕では、圧死する者もいるかもしれない。逃げ場を失って、デタラメな方向へ駆け出す者もいた。

 みんななりふり構わず、死に物狂いで走る。

 裸足の者や、下着姿の者もいた。体裁ていさいを気にしている余裕はない。

 中には、重たい箪笥たんすをかかえて、よろよろする者もいた。

「こらーっ!何をやっとるかあっ!」

 憲兵のののしる声が聞こえた。

「日ごろの訓練は、この時のためじゃ言うことが、分からんのかあ!逃げずに、火を消せえ!」

 彼は一人でバケツの水をんだり、長い棒で火を叩いたりしているが、それが役に立たないと分かると、さっさと道具を投げ捨て、誰よりも早く山の方へ逃げた。

 煙は上松家のあたりまで押し寄せて来て、僕らの頭上へも、油っぽい雨のようなものが降って来た。

「ぼんちゃん!次はこっちへ来る。ほら……」

 チュン太の指差す方を見ると、郵便局の前の十字路に、シュルシュルと落ちて来た六角形の爆弾が、轟音とともに突き刺さって土をえぐり取っていた。

 ヒューッ、シュルシュル―――

 ヒューッ、シュルシュル―――

 まるで死刑宣告のようなその無気味な音が、しだいにこちらへ近づいて来た。

 と思うや、すさまじい爆音とともに、上松家の瓦屋根がガラガラと吹き飛んだ。

 ドカーン!

「あっ!」

 僕が思わず振り返ると、屋根には大きな穴があき、いつのまにか「招かれざる客」が、上松家の座敷へ居座っていた。

 挨拶なしの焼夷弾の来訪であった。

 聞いた通り、それはすぐには爆発せず、しばらくは何食わぬ顔でムッツリしていたが、やがてつなぎ目から煙が上りはじめ、つづいて炎がチロチロと舌を出し、ついには邪悪な高笑いを放ち始めた。そして、あっという間に炎は大きくなり、天井や柱へ燃え移った。

「あ、あつい!」

 近くで見る炎は想像以上に温度が高く、まるで噛みつかれるような熱さであった。

「川に飛び込もう!」

 僕とチュン太は一も二もなく、畑の近くの小川へと向かった。

 途中、振り返って上松家を見ると、祖母と清乃が中にいるはずの防空壕が、その扉をしっかりと固く閉ざしていた。どうか二人が無事でありますように!

 川の水に体を浸して、ふたたび戻ってみると、炎はさらに燃え広がり、家屋を包み込むように肥大化していた。赤い炎の中に影絵のように家の枠組みだけが見えた。

 みんなで食事をした居間も、ガタつく玄関も、紙ヒコーキを飛ばした縁側も、レコードを聴いた二階の部屋も、風呂場も、格子窓も、みんなみんな、灰になりつつあった。

 しかし、そんなことを言っている場合ではない。家はまた建て直せばよい。大事なのは命だ。

 防空壕の扉はカタリとも動かない。

 もっとも、いま外へ出れば危険である。

 老人と子供の足では、炎をかいくぐって逃げることは到底不可能であろう。中でじっとしている方がまだ無難かもしれない。

 おそらく祖母もそう判断して、今ごろ清乃の体をしっかりと抱いていることであろう。

 しかし、中はやはりすさまじい高温のはずである。

 僕の頭に、挺身隊の女の子たちの悲惨な姿がふと浮かんだ。

 はたして、二人の体力は持ちこたえることが出来るであろうか。

 僕らはただ祈るしかなかった。

 ところが、そんな思いに追い打ちをかけるように、事態はさらに悪化の方向を辿った。

 柱を残してほとんど丸焼けになった家屋は、こんどはその柱さえもがボキボキと折れはじめ、しだいに建物全体が傾いて来たのである。しかもそれは、庭の方へ倒れかけている。

 焼けた瓦が一枚一枚、ドサリドサリと庭へ滑り落ち、防空壕の上へ降りかかる。僕はどうすることも出来ず、叫び出したい気分であった。

 そしてついに、一番太い柱が平衡を崩した途端、まるでボクサーが力尽きて倒れるように、黒焦げになった家屋はゆっくりと壕の上へ崩れ落ちた。火の粉が一斉に空に舞い上がった。

 僕は思わず目を閉じた。 

 万事休す。

 よもや、これで助かることはあるまい。僕は天を仰いだ。

 しょせん人間はちっぽけな存在であり、僕らが蚊を叩きつぶすように、なにか大きな力によって、いとも簡単に叩きつぶされるのであろう。

 神も仏も、やはりこの世には存在しないのであろうか。

 そんな絶望にかられている僕の背中を、チュン太が思いっ切りひっぱたいた。

「ぼんちゃん!目をあけて!よく見て!」

 僕がおそるおそる目を開けると、防空壕の上には焼けた柱が何本も覆いかぶさっていたが、その柱ごと押しのけるように、中から何者かが渾身の力で扉を押し開けるのが見えた。と見るや、防空頭巾をかぶった女の子の体がしだいに押し出されて来て、壕の外へ転がり出た。つづいて祖母の痩せた手が見え、自分も這い出そうと必死になっている様子である。

 何か別の力が、祖母を後押ししているようにも見える。

 ところが、半身を乗り出したところで力尽き、柱の重みでふたたび扉が閉まった。祖母は扉に挟まれる形でそれ以上動かなくなった。

「清乃さんは無事かもしれない!」

 チュン太はそう叫ぶと、焼けるような高温にも関わらず、二人のそばへ躊躇なく近寄った。僕も意を決して、そのあとを追った。

 すすけた顔を赤く火照ほてらせた清乃は、押し出された格好のまま横向きに倒れ、身じろぎ一つしなかった。足が板に挟まれているので、生きていたとしても、自力では立てないようである。

 祖母の方は、残念ながらすでに生気がなく、肌の色も死人のそれに変わりつつあった。火のついた木材がさらにその上へしなだれかかった。

 チュン太は清乃の防空頭巾の上に乗って、必死で羽を動かし、彼女の目を覚まさせようとする。

「清乃さん!起きて!清乃さん」

 しばらくの間、清乃は朦朧もうろうと、夢うつつの世界をさまよっているようであったが、チュン太の懸命な呼び掛けが聞こえたのか、閉じていた瞼を一瞬ピクリと動かした。生きているかもしれない!

「清乃さん!」

「おばあちゃん!」

 僕もいっしょになって叫んだ。僕はそのとき、清乃ではなく「おばあちゃん」と呼んでいた。

 チュン太が荒々しく彼女の頬の上でジャンプする。清乃はなにやら口をもぞもぞと動かした。

 僕らはその声に耳を傾けた。

「……み……ず……」

 その唇は、かすかにではあるが、はっきりとそう呟いた。「水を」……

 チュン太はいきおいよく飛び立った。

「ちょっと待っててね、いまんでくる……」

 言うが早いか、彼はふたたび小川の方へ向かって飛んだ。僕もあとを追った。

 ふだんは僕の方が、飛ぶ速度は少し彼より速いのであるが、このときのチュン太の勢いに、僕はとても追いつくことが出来なかった。

 チュン太は川べりの野草をくちばしで折り取ると、自分ごと川へ飛び込み、葉っぱを水に浸しながら、ずぶ濡れの羽を必死に動かして、また火事場へ戻った。

 僕も同じように、葉っぱをもぎ取り、流れに飛び込んだ。水は冷たく、火照ほてった体をいい具合に冷ましてくれた。ニガい葉っぱはよもぎであった。

 清乃の頬の上へ、チュン太は濡れた脚で降り立ち、葉っぱの雫を唇の方へ垂らした。

 が、葉っぱに含まれる水はほんの少しであり、かろうじて清乃の口へ伝って行ったものの、その乾いたのどうるおすには至らなかった。

 チュン太はまたすぐに飛び立った。

 かわって僕が清乃の頭上に立ち、同じように雫を唇へ伝わせた。そんな少量の水で、はたして彼女の乾きをいやすことが出来るかは分からなかった。しかし、僕も今度はあきらめず、無我夢中でまた空を飛んだ。羽はいつの間にか高温と熱風のために乾いていた。

 代わる代わる僕らはその作業をくり返した。小川と庭のあいだを何度往復したであろう。あるとき、動かなかった清乃の唇がかすかに動きを見せ、水滴を口の中へ飲み込むのが分かった。

「清乃さん、その調子!」

 チュン太は勢いを得て、さらに猛スピードで羽ばたいた。小さな彼の体はかなり消耗しているはずであったが、使命感がそれを上まわっていた。

「おばあちゃん、頑張れ!」

 僕も負けずに、せっせと水を運んだ。

 見ると、意地の悪いことに、清乃が足を挟まれている板が、火に焼けて高温となり、彼女に火傷やけどを負わせつつあった。

 僕は頭のすみにあった知識から、よもぎが傷の手当に役立つことを思い出し、破れたモンペから剥き出しになったすねの、赤く腫れ上がった部分にその汁をこすりつけた。ふだんの僕ならばとてもしないような気骨ある行為であった。この時の僕は、出来ることなら何でもやる、という気分になっていた。

 ところがそのとき、いきなり、火のついたあぶらのかたまりがパーンと弾け、四方へ飛び散った。そして運悪く、それは飛んで来たチュン太の羽にかかった。

「あっ!」

 チュン太は思わず悲鳴をあげ、バタバタと羽を動かしてそれを振り払おうとした。しかし、粘り気のある油脂は、羽にこびりついて容易に離れようとしない。チュン太の羽の焼け焦げる匂いがした。

 僕は急いで近くへ寄って、チュン太の落とした葉っぱを拾い、濡れた部分をその羽に押し当てた。火はジュッという音をたて、水蒸気とともにようやく消えた。

 チュン太の羽は、その焼けた部分だけ、痛々しく地肌が見えていた。

 僕は、苦痛に顔をゆがめる彼の肩を抱きかかえるように水辺へと飛び、傷口へさらに水を掛けた。

 チュン太はじっと歯を食いしばっていたが、その表情は負けん気の強い男の子のようである。彼はやっぱりオスなのであろうか。

 そして、ものの一分と経たないうちに、彼は「よし!」と気合を入れ直し、新たな葉っぱをくわえて水に浸すと、またよろよろと飛び立とうとした。

「チュン太!」

 僕は彼を制した。

「僕が代わりにやるから、休んだ方がいいよ」

 しかし、彼は僕の忠告を聞かず、ふらふらとした飛び方で、また庭の方へ戻って行く。

 仕方なく僕も、なるべく大きな蓬を選んで水を含ませ、彼のあとを追った。

 チュン太は朦朧とした意識の中で、あい変らず懸命に清乃の口へ水を送った。

 僕も同じように水を伝わせ、またときどきチュン太の羽にも水を掛けてやった。

 憔悴しきった彼を見かねて、僕がふたたび、

「チュン太、無理すると、自分が倒れちゃうよ……」

と声を掛けると、彼はしたたる水滴を見つめながら、

「……ボクは、……子どもの頃、……この人に、……助けられたんだ……」

と、またいきおいよく、口にくわえた葉っぱを震わせた。

 僕はそんな彼をただ黙って見ているしかなかった。

 どのくらい爆撃がつづいただろうか、ようやく悪魔の飛行機はどこかへ消えて行った。

 やがて白々と夜が明けてきた。

 燃えていた炎は下火となり、白い煙だけが辺りにくすぶった。

 静まりかえった朝もやの中を、そのとき、誰かが瓦礫を踏んで近づいて来る音がした。

 僕らはその場を離れ、物かげに隠れた。

 見ると、足にゲートルを巻いた国民服姿の男性が、覚束ない足取りで立ち止まった。父の實であった。

 すっかり変わり果てた風景の中を、おそらくは焼け残ったポストと、庭の石灯籠を目印に歩いて来たのであろう。

 そこが我が家の土地であることを確信すると、彼はまもなく「あっ」と声を上げ、庭に倒れている二人の女性のもとへ駆け寄った。

 防空頭巾をかぶった二人のうち、壕から半身を乗り出してうつ伏せになっているハマの方は、すでに冷たくなっているのが分かった。

 しかし小さな女の子の方は、身動きこそしなかったが、その頬には赤みがさして、生気が見える。

「清乃!清乃!」

 實は、片足が挟まった板を外してやり、娘を抱きかかえた。

 助けられた清乃は父の腕の中で、

「お父ちゃん……」

と、かすかに目を開けた。

 僕らは、やっと清乃が意識を取り戻したことに安堵した。

―――やれることはやった。あとは父親に任せよう……

 と同時に、どっと疲れが押し寄せ、あらがいがたい眠気に襲われた。

 實はハマさんの遺体を引きずり出し、まっ直ぐに寝かせてやっている。僕らは休む場所を探して、ひとまず畑の方へ向かった。

 畑では、大きな芋の葉っぱの上に、おはじきのようなきれいな水がキラキラと輝いていた。僕らはのどがカラカラであることを思い出し、葉っぱを揺らしながらむさぼるようにそれを飲んだ。久びさに自分のために飲む水は、まさしく「甘露かんろ」と呼ぶにふさわしかった。そして芋の葉の傘の下で、僕らは気を失うように眠り込んだ。

 目を覚ますと、傘の陰から太陽がじりじりと顔をのぞかせていた。

 僕はしばらく、ここがどこか分からずにいたが、昨夜の悪夢のような出来事を思い出し、どうか夢であってくれと祈りながら、ゆっくりと空へ羽ばたいてみた。チュン太はまだ葉っぱの下で、羽をかばうようにして眠っている。

 上空は、夏の日差しの照りつける中、目をうたがう風景が広がっていた。

 ところどころ白い煙がのろしのように上がる荒涼とした土地は、よく目を凝らすと、一面焼け野原になった呉の街であった。あまりにもきれいさっぱり建物が焼け落ちているせいで、遠く境川や海兵団のあたりまで見わたせた。川べりには消防署の鉄塔がぽつんと焼け残っている。悪夢は現実であった。

 僕は東西南北を見回した。

 どうやら今回の空襲では、やはり、住宅の密集した「市街地」が狙われたようである。山の方は比較的無事であった。

 被害の境目はちょうど坂道にさしかかる辺り、まさしく上松家をふくむ平野部までで、街全体が茶色一色になっていた。榊さんの家は無事であった。

 その榊家の庭に、ふと、小さく實の姿が見える。僕が様子を見に行こうとした矢先、チュン太が目を覚まし、「うーん」とうなり声を上げた。

「チュン太、大丈夫かい?」

 下へ降りてみると、彼は翼をかかえながら、まだかなり痛そうである。

「……飛べるかい?」

 傷口は赤くただれて、思ったよりも損傷がひどかった。

 僕は水際からなるべく新鮮な蓬を採って来て、くちばしで細かく砕き、ふたたびその汁を傷口に押し当てた。チュン太は少し顔をゆがめたが、だまって僕のなすにまかせた。

 こんな大怪我を負ったままで、昨日はいったい、どうやって飛べたのだろう。この小さな体の、どこにそんな力が宿っていたのだろうか。

「清乃さんは無事かな……」

 チュン太はさらに、自分のことよりも清乃の心配をしている。

 僕は、背中に彼をおんぶするように、地面づたいに榊さんの家まで歩いて行くことにした。

「清乃さんもきっとそこにいるよ……」

 チュン太の重みを背中に感じながら、僕はかつて郵便局のあった場所―――今ではポストだけが焼け残っている―――を曲がって、榊さんの家へ向かった。焼けた地面はまるでフライパンのように熱かったが、僕はチュン太の昨夜の勇気に恥じないよう、なるべく平気な顔をしてそれに耐えた。

 榊さんの庭先では、清乃が包帯をぐるぐる巻きにされて、座敷に寝かされていた。

 こちらも予想以上に重症だったようである。

 しかし、眠ってはいるものの、その血色はよく、すやすやと寝息を立てている様子に、僕はひとまず安心した。

 そしてチュン太を休ませるために、適当な場所を探し、ひさしの下にいい場所を見つけたので、彼を連れてそこへ飛んだ。怪我をしていない方の羽で、チュン太も必死に羽ばたいてくれた。

 座敷の方から、實と榊さんの話し声が聞こえた。

「……山ん中で救援を待っとるうちに、呉の空がまっ赤になってのう、仕方なしに、故障したトラックを置いて、米だけ持って歩いて来たんじゃ。丘の上にもようけ人が逃げて来よった。あの様子じゃと、防空壕へ入ったもんの方が助からんかったかも知れん……わしの掘った防空壕も、なんのこたぁない、我がかかさんの墓穴はかあなを掘ったようなもんじゃった……」

 寂しく笑う實の声からは、深い落胆の色が伝わって来た。

「……まったく、わしのすることは、いつもことごとく裏目じゃのう。世の中の何の役にも立っとらん……わしゃ、おってもしょうがない人間じゃ……」

 聞いている榊さんの顔が、見る見るくしゃくしゃになるのが分かった。

「なに言うとる―――ハマさんには気の毒じゃったが、實さん、あんたの掘ってくれた防空壕のお陰で、ウチはみィんな助かったんよ。命の恩人じゃ。あんたは昔からいつも一人正しいことをする。なんにも間違うとらん―――そがいなこと、言わんどいて」

 榊さんは途中から涙声になった。

 わずか十日足らずのうちに、ほぼ生死が絶望的な妻サダエと、つづいて今度は母親のハマまで亡くした實の心境は、いかばかりであっただろう。見ると、となりで目を閉じているチュン太の目にも涙がにじんだ。

 實は気弱なところを見せたのが恥ずかしかったのか、気を取り直すように「さて……」と言ってすっくと立ち上がった。

「ひとまず、母さんを火葬して、それからトラックのところまで戻る。すまんが、清乃にこの米を食わせてやってくれ。もちろんマツさんらの分もある」

きよちゃんはもちろんウチで面倒みさせてもらうが、實さん、あんたもしばらく、ここへおったらええ。いらん遠慮はなしじゃ……」

 實は、ありがとう、と背中で言って、縁側で靴のヒモを結んでいる。そして榊さんにマッチと新聞紙を借り受けると、しずかに自分の家の方へ歩いて行った。

 僕は、息子が母親の遺体を焼くところを見る気になれず、そのまま榊さんの屋根の下で体を休めることにした。気がつけば僕の体にも、いたるところに小さな傷があった。

 それから幾日かは、チュン太は怪我の療養に専念した。僕はせっせと食べものや水を運び、彼の回復を願った。

 そんな僕らのさえずる声を聴いて、清乃が布団のはじからぼんやりとこちらを眺めているのが分かった。彼女はひょっとすると、僕らの言葉が聞こえているのかもしれない―――ふとそんな気がした。

 清乃は、父が持ち帰った白米の、つややかなご飯をこそ美味しそうに食べたが、そのあとはやはりまだ本調子でなく、榊さんが作ってくれるうどんや雑炊でさえ半分以上残した。榊さんは根気づよく清乃を介抱した。した手拭いで体をふいてやったり、自分の着物をほどいて小さな寝間着ねまきを作ったり、常備薬の箱の中から「はら薬」を取り出して飲ませたりした。

 チュン太は病床の清乃を見て、「どっちが早く治るか、競争だよ、ピーチク……」と言った。彼の方がすこし早く、元気を取り戻したようだ。

 榊さんの次男坊のトシオ君は、ときどき友だちを連れて来て清乃に会わせた。友だちはめいめい自分でこしらえた折り紙や人形、大切にしているらしいビー玉やメンコなどを持ち寄って、清乃を元気づけた。そして布団にしている清乃を尻目に、自分たちで勝手に庭で遊び始めるのであったが、清乃は彼らの笑い声につられるように、いつか自然と笑顔になった。彼女に必要なのは、こうした「心の栄養」だったのかもしれない。

 僕は久しぶりに、焼け跡の呉の街がどうなっているか確かめるために、一人で市街地へ飛んだ。

 かつてにぎやかだった商店街や住宅地は、きれいさっぱり焼け落ち、文字どおり何もなくなっていた。コンクリートの建物や橋の欄干だけが、かろうじて過ぎし日の面影をとどめていた。

 空襲から十日ほど経ち、これでもかなり片づいた方なのであろうが、やはり人手不足のため復旧作業はままならず、黒焦げになった遺体がいまだ至る所にごろごろしていた。行き倒れになった遺体は炎天下に腐乱し、腐った魚のような耐えがたい悪臭を放っていた。銀蠅が無数にたかり、白いうじが目や耳にいていた。

 そしてどこまで行っても同じような風景がつづいた。

 はじめのうち僕は、遺体を見るたびに顔をしかめ、その生前の姿を想像して一々心を痛めたが、そのうち不思議と何も感じなくなり、しまいにはただの物体にしか見えなくなった。慣れというものは良しわるしである。

 瓦礫を片づける人々は、地獄のような光景の中で、ただやるべきことを黙々とこなしていた。こんなとき、大人というものは、文句一つ言わずエライものだ。彼らは市の職員か、日雇い労働者であろう。頑健な若者は兵隊に行っているので、やはりここでも、痩せた年配者が多かった。

 そんな男たちのうちに、僕は一人の見知った顔を見つけた。汗をぬぐう日に焼けたその顔は、山男のような髭づらではあるが、その鋭い目の光りは、まぎれもない父の實であった。いまは日雇い労働に身を投じているのだろうか、誰よりも懸命に、ハンマーで大きな瓦礫を砕いている。

 太陽が中天に達したとき、労働者には弁当が配られた。弁当と言っても、竹の皮に包まれたおにぎりが一個と、めざしが一匹、それだけである。

 しかし彼らはみな、うまそうにそれを食べた。あたりに漂う、糞尿のような臭いも気にしていない。

 壊れた壁の、わずかな日陰に腰を下ろして、實もそれを口にした。

 だまって一人で食べていると、いきなり、妙に親しげな一人の男が近づいて来て、實の横に座った。男は穴のあいたランニングシャツを着て、焼けた肌に汗を光らせている。

「だいぶ片づいたね。朝はどうなることかと、思いました……」

 少し言葉に訛りがあるが、人なつっこく、やたらずけずけと話しかけてくる。

「ウエマツさん、あんた、よく働くね……」

 男は實の名札を見ながら言った。

「わたしは、カネモトと言います。本当は、モトはいらないね……」

 男はどうやら、朝鮮系の労働者であるらしい。自分の名札を引っぱるようにして、實の鼻先にかざした。

 ふだん口数が少なく、あまり社交的とは言えない實の方も、この男の気さくな様子に心を許したのか、めずらしく打ち解けた顔で言葉を返した。

「なあに、あんたらこそ、好きなようにこき使われて、ほんに気の毒じゃのう……空襲はどうじゃった?家族は無事か?」

「わたしの家族は、いま朝鮮にいます……」

 男は何かを思い出したように、立ち上がってズボンのポケットをまさぐり、よれよれになった小さな紙切れを取り出した。それは一枚の写真であった。實の前へそれを突き出しながら男は得意気に言った。

「奥さんと、それから娘が一人、こんど一年生になります。右ののが、オモニです。最近、耳が遠くなったね……この家族のためなら、わたしは何だってやるよ」

 そう言ってニンマリとする男の様子に、實も我知らず頬をゆるませた。

「……わしにも同じくらいの娘がおる。この子だけは守ってやらんといかん。家内と婆さんは、空襲でやられてしもた……」

 ニコニコ聞いていた男はみるみる真顔になり、あわてて實の手から写真を奪い返した。

「こりゃ、すまんことでした。悪いことした―――それで一生懸命、がんばってるんですね、あんたは……」

 男はもう一度立ち上がって、今度は反対のポケットから折れ曲がった煙草を取り出し、指で伸ばしながらその一本を實にすすめた。

「飲みますか?」

 實はたしか、愛用のライターを供出に出して以来、煙草は辞めているはずであったが、意外にすんなりと、男の差し出した煙草を受け取り、口にくわえた。

 カネモトさんはマッチで火を点けてやり、同じマッチですばやく自分の煙草にも火を点けた。

「……いつまで続きますかね、この戦争……。大きな声じゃ言えませんが」

「さあて……いつまで続くかのう……」

 二人はしばらく無言で煙草をふかした。

 立ち昇る煙は、壁に沿ってゆらゆらと空へ上り、ギラギラとした真夏の太陽に照らされてやがて消えて行った。

 休憩時間が終わり、男たちはふたたび作業に精を出した。ハンマーを振り下ろす實の手にさらに力が入った。それはまるで、やり場のない哀しみと怒りを何かにぶつけるようでもあった。またそうやって体をクタクタにさせないと、夜が眠れないのだと言うようにも見えた。

 實はいくばくかの賃金を受け取ると、夕暮れの日差しの中、二河にこう公園に建てられた仮設住宅へと帰って行った。近ごろはここで寝泊まりをしているらしかった。

 清乃は少しずつ回復を見せ、さらに十日ほど経つと、誰の助けも借りずに、自分で歩けるようになった。僕らはよく彼女に食べものを投げてもらった。それは干した大根の皮や菜っ葉くずなどであったが、彼女の元気のあかしのように思えて、じんわりとした味わいがあった。

 空襲のサイレンはあい変らず人々をおびやかした。とくに住民が寝静まった深夜に、それはうなり出すことが多かった。

「ほんとに、たちの悪いいやがらせだね……」

 僕とチュン太は寝ぼけまなこでしばし身を寄せ合った。

 かと思うと、白昼堂々、轟音を響かせながら敵機が襲って来ることもあった。七月末の空襲では、港に停泊している半壊の船や、燃料がなくなってかくれている軍艦たちが、そのとどめを刺すために襲撃された。交戦もむなしく、それらの多くは転覆して瀬戸内海に無残な横腹をさらした。

「どこまでいじめれば気が済むんかねえ……」

 新聞やラジオはあくまで「被害は軽微」と言い張り、人々も「一億玉砕ぎょくさい」などと言って、表向きは徹底抗戦の姿勢を見せたが、夜中にふと漏らす溜息からは、そんな厭戦気分が伝わって来た。

 呉の街は人々の努力で、少しずつではあるが確実に復旧して行った。広島からの救援物資も大いに役立った。いまだ空襲のない広島から、食料や衣料、まきなどの燃料や、その他さまざまな生活必需品が届けられた。

 實はこのところ、帰りのトラックに乗って、広島へ建物疎開の手伝いに行くことが多かった。支援に対する恩返しの気持ちであろうか。

 もっとも人々の心には、ある無気味な予感があった。

「それにしても、なぜ、広島には空襲がないんじゃろ。もしや次は……」

 そんな言葉が囁かれた。

 清乃は少しずつ元気を取り戻し、やがて友だちとも遊べるようになった。三日に一度くらい顔色を見に帰って来る實も、そんな娘を見て一安心し、またそそくさと出かけて行った。

 朝からよく晴れたその日は、広島で大規模な建物疎開が行われるというので、實も参加することになり、前もって榊さんの家へ挨拶に訪れた。

「また五日ほど帰れんと思う。清乃、おばさんの言うことをよく聞くんじゃぞ。大人しゅうしとったら、福屋百貨店で画用紙を買うてきちゃる……」

 清乃は一瞬目を輝かせたが、反面、いまの父にそんな余裕がないことも分かっており、素直に喜んでいいかどうか分からないという、複雑な表情をした。

 しかしすぐにまた、自分の笑顔が父を元気づけるのだと思い直し、

「お父ちゃん、行ってらっしゃい!」

と大きな声で答えた。榊さんも「気を付けてのう……」と、その後ろ姿を見送った。

 實と入れ違いに、榊さんの庭には、トシオ君の友だちがワイワイとなだれ込んで来た。

「トシオ!裏山へイタドリを採りに行くぞ。いっぱい集めたら、お金にかえてくれるそうじゃ。はやく準備せい!清乃も来るか?」

 リーダー格の男の子が、清乃にも声を掛けた。

 清乃はちょっと考えた上で榊さんの顔を見たが、榊さんが「用心してな」と言ってくれたので、うれしそうにコックリとうなずいた。

 一行は探検隊のように列をなして、曲がりくねった細い道を山の方へ進んだ。みんな裸足である。清乃も裸足であった。蝉しぐれが子供たちを包んだ。竹で編んだ大きな籠を背中にしょっている者もいた。

 トシオ君は、列のしんがりをついて行く清乃の、さらに後方に位置をとり、短い棒を振り回しながら勇ましく進んだ。まるで「清乃を守るのは自分だ」と言いたげな、頼もしい顔であった。こんな戦争をしていても、子供たちだけはいつも元気である。

「子供って、すごいね」

 僕は、ついこないだまで自分も子供であったにも関わらず、いまは何だか、理屈ばかりねてはすに構えている自分を反省した。

 チュン太は羽をバタバタさせて微笑んだ。彼ももうすっかり元気になっている。

「ところで、イタドリ、って何だっけ?」

 僕はまたもや教養のなさをさらけ出した。

 しかし、知らないことはいいことだ、これから知る喜びがある―――

その時はそんな風に思えた。どこかで聞いたセリフのような気がするが……。

「……山肌や土手に自生する野草の一種で、タバコの原料にもなるんだ。広い葉っぱが特徴的な多年草だよ。生えているところには、これでもかってぐらい生えてる。ぼんちゃんもきっと見たことがあるよ」

 彼らのあとを付いて行くと、石垣と石垣のあいだの何でもない場所に、それはぎっしりと繁茂していた。

 あ、あれか―――

 アジサイの季節にはアジサイの陰で、紅葉の季節には紅葉のうしろで、所かまわず、無節操にはびこっている、あまり見栄えのしないあの広い葉っぱ―――あれをイタドリというんだ……

 僕は、雑草にも立派な名前があることを改めて思いながら、強い日差しの中で、子供たちの元気さに負けないくらい、旺盛な生命力で繁茂するその丸い葉っぱを眺めた。

「ぎょうさんあったぞ。宝の山じゃ!」

 一人がそのにぎわいを発見すると、皆いっせいに駆け出した。そして、誰に命じられるまでもなく、競ってそれを摘みはじめた。

 そのくきは軽い力で折り取れるらしく、小さな団扇うちわのような形をした葉っぱが、みるみる子供たちの手の中にあふれて行った。きっとそれは彼らにとって、札束と同じように見えていたに違いない。

 手の届く範囲のものをあらかた採ってしまうと、身軽な男の子の一人が石垣によじ登り、上の方に生えている葉っぱに手を伸ばした。そしてまた一とおり新たな札束を手にした。

 清乃はうらやましそうに眺め、自分も真似をして石垣に足をかけると、意外にも器用に上の方まで登って行って、ひときわ大きな一枚を摘み取ることに成功した。下で心配そうに見ているトシオ君を、彼女は満面の笑みで見下ろした。

「もう、すっかり元気になったね……」

 僕はチュン太とともに彼女の回復を喜んだ。

 イタドリの葉は、取っても取っても取り尽くせなかった。一つの場所を征服すると、小さなギャングたちは、また別の場所へ移動して、思う存分荒稼ぎをした。

「これでワシらは大金持ちじゃ」

「裏の畑に蔵が立つぞ」

 そんなことを言い合っては大笑いした。

 ものの一時間も摘んでいるうちに、竹の籠はいっぱいになった。

 もっとも彼らは、みんなでワイワイやること自体が楽しく、しかもそれが小遣いになったり、親の助けになったりすることを思えば、まだまだ満足しないのも道理であった。

「よし、こんどは、あの土手を占領するぞ!野郎ども、つづけ!」

 リーダー格の男の子が目指す先には、うぶ毛の生えた葉っぱがうろこのように生い繁った日当たりのいい斜面があった。気の早い男の子は、すでに半分ほど石垣を登っている。

 その時である。

 山肌に繁茂するイタドリの緑の葉っぱが、一瞬すべて白くなったように見えた。

 と同時に空に閃光せんこうが走った。

 子供たちは首をすくめ、空を見上げた。

 こんな晴れた日に、朝からかみなりであろうか。

 しかし空はそれっきり、何事もなかったように静かになったので、子供たちはまたガヤガヤと土手に群がった。

「清乃。ワシの葉っぱの方が大きいぞ!見てみい」

 トシオ君が手にした一枚は、さきほど清乃が採った葉っぱよりもさらに一まわり大きかった。やみくもに枚数を稼ぐことに飽きて来た彼らは、こんどは葉っぱの大きさと、形のよさを競い合っている風である。

「よーし!」

と清乃がハリキッて丘を見上げたそのとき、地鳴りとともに山肌の木がゆさゆさと揺れ、耳をつんざくような大きな音が響いた。

 ガラガラ!……

 それは雷の何倍もあるような轟音であった。

 子供たちは一斉にその場にひっくり返った。

 土手に登っている者は、土手から転げ落ちた。

 腰をさすりながら、一人が言った。

「な、なんじゃ、あれは……」

 何が起きたか分からず、あっけに取られる彼らの視線の先には、入道雲にしては無気味にする、きのこの形をした巨大な雲があった。その中心部は、ものすごい速さで気流が上昇し、すべてのものを吸い上げるようにふくれ上がっている。

 僕はそれが何なのか、すぐに分かった。

 上松家が焼失して以来、清乃のめくるカレンダーをしばらく見ていなかったため、僕は今日が何月何日なのか、すっかり忘れていた。

 しかし、指折り数えてみると、今日はたしか八月六日のはずであった。

 昭和二十年八月六日午前八時十五分―――

 そのとき広島で何が起きたか。

 さすがに無知な僕でも、そのことだけは知っていた。

 僕らが呆然と見ている、あのきのこのような雲は、まぎれもない原子爆弾であった。

 それは、広島から数十キロ離れたこの呉の街へも、爆風となって押し寄せて来た。

 あの山の向こうの広島で、いま、この瞬間、どんな惨状が広がっているか―――

 その認めたくない事実を認めるまでに、僕はしばらく時間を要した。

 子供たちも、それがただごとでない事態であるのに気付いて、つぎつぎと山を下りはじめた。もうイタドリのことなど、念頭になかった。

 彼らは折り重なり、転げ落ちるように家へと走った。

 家に辿り着くと、大人たちもまた困惑した顔で、しばらく空模様に釘付けになっていた。お化けのような巨大な雲が、傲然ごうぜんと空に貼りついている。縁側のラジオからは、つとめて冷静さを装いつつも、やはり動揺を隠せないアナウンサーの声が聞こえた。

 先日の空襲では無傷だった榊さんの家も、今の衝撃で屋根瓦が何枚か、庭先に滑り落ちて割れていた。

 出迎えた榊さんは、しゃがみ込んでトシオ君と清乃を交互に抱きしめた。

 口をへの字に結んで強がっているトシオ君よりも、うつむいてベソをかいている清乃の方を、とくに強く抱きしめた。

 清乃は震えながら腕の中でじっとしている。

 そのとき僕は、父の實が朝、広島に出かけて行ったことを思い出した。

「大丈夫よ、清ちゃん。大丈夫よ……」

 榊さんもそのことを、真っ先に心配している表情であった。

 何が大丈夫なのか、あの爆発のもとでどう大丈夫なのか、根拠のない慰めではあったが、清乃はしゃくり上げながらもだまって聞いているしかなかった。

 きのこ雲はその日一日、空に漂っていた。

 呉からは、先日助けてもらった返礼として、救援物資を積んだトラックが何台も広島へ向かった。

 反対に広島からは、焼け出された人々がうの体で呉へと逃げて来た。大やけどを負い、皮膚がただれている者もいる。

 今の知識から言えば、原爆投下直後、放射能が充満した街に不用意に近づかない方がいいのであるが、何しろ初めて直面する危機に対して、出来るかぎりのことをやろうとする彼らの奮闘を、僕はもどかしく思いながらも傍観しているしかなかった。

 チュン太も口をへの字にして黙っていた。彼ははじめから分かっていたのかも知れない。僕らはあくまで、歴史の傍観者にすぎないのだ。

 それから二日たっても、三日たっても、實は帰って来なかった。

 榊さんは清乃のために、自ら広島へ乗り込むことも考えたが、幼いトシオ君や年老いた祖母を置いて家を空ける訳にもいかず、仕方なく神棚に手を合わせたり、庭から広島の空を拝んだりした。

 また役所へ行って、警防団にも捜索を依頼したものの、結局手がかりはつかめなかった。ただ、實の働いていた現場が、被害のいちばん大きかった市の中心部であることが役所の調べで分かった。

 一方、清乃はどんなに憔悴しているかと思いきや、意外にも平然とした顔で、むしろ無表情と言ってもよかった。もはや涙も流さなかった。

 察するところ、七歳の女の子が経験するにはあまりに過酷な現実を、なんとか支障なくやり過ごすために、彼女の心がわざと扉を閉ざしているのかもしれなかった。

 三日後には長崎へも「新型爆弾」が落とされたことを、ラジオのニュースが告げていた。

 国民は呆然とし、声にもならない悲鳴を上げた。

 川の流れが刻々と移り変わるように、目まぐるしく流れを変える世の中を、僕とチュン太はしばらく遠くから眺めた。

 日本政府はまもなく、無条件降伏を決めた。

 有名な昭和天皇の「玉音放送」を、清乃は榊さんの家のラジオで聞いた。

 あれよあれよと言う間に戦争は終わり、ずっと真っ暗だった呉の街に、久しぶりに平和な明かりが灯った。灯火管制のない静かな夜半、無数に灯された家々の光は、まるで蛍火のように澄んで美しかった。

 しかし、戦争が終わったからといって、すぐに生活がよくなる訳ではなかった。むしろ物資の不足はさらに深刻となった。戦争に負けるということの本当の意味を、人々が思い知るのはこれからであった。

 榊さんの家も、旧家であるとは言え、働き手がいなくなって久しく、収入と言えばわずかに戦死したマサル君の軍人恩給があるのみであった。しかも、政府が機能しなくなった今、恩給をいつまでも当てにすることも出来ず、苦慮のすえ榊さんは、財産である土地を二束三文に売って生活のしにした。

 しかしそれもやがて尽きると、こんどは自分が働きに出るために、公設の職業訓練所に通いはじめた。

 もともと机に向かうことがあまり得意でない榊さんは、慣れない座学に時々いらだちを見せるようになった。

「トシオ、それくらい我慢しなさい。今はあるもんを分け合わんといかん時じゃ。清乃ちゃんもおるんじゃし……」

 あるとき、空腹のあまりダダをこねるトシオ君を、榊さんは思わず強く叱った。

 それをふすまの陰で聞いていた清乃は、トシオ君が叱られるのは自分のせいだと思ったのか、次の日、榊さんの前にちょこんと正座をして、「おばちゃん……」と言った。

「おばちゃん……うち、和歌山のばあちゃんの里へ行く。住所も覚えとるけ、大丈夫じゃ。汽車にもひとりで乗れる……」

 榊さんは、はっとした顔をした。 

 自分が不用意に言った言葉が女の子を深く傷つけ、小さな胸を痛めさせたことに、そのとき初めて気が付いたようである。

 榊さんはあわてて言葉をいだ。

「なに言うとる、清ちゃん。清ちゃんは、ずっとここに居てええんよ。あんたはもうウチの子じゃ……いらん心配させて、ゴメンな」

 トシオ君はなぜ清乃が今そんなことを言い出すのか、まったく理解できない顔で、不思議そうに見ている。

 しかし、清乃の心はすでに決まっているようであった。あの、歯車の一つはずれた、魂の抜けたような彼女とは全く別人の、大人びた顔になっていた。

「おばちゃん、書くもん貸して」

 彼女は紙と鉛筆を借りると、机の上に顔を近づけるようにして、しっかりとした文字で、わかやまけん、しらはまちょう……と書いた。

 何度もつづったことのあるその住所を、彼女は榊さんに見せた。

 榊さんはそれを手にしながらも、再三、清乃に思い止まるよう説得したが、彼女の意志が固いことを見て取ると、ついにあきらめたように、奥へ行って何かを取って来た。それは小さな板切れと硯箱すずりばこであった。

「これにもう一ぺん清書しんさい。迷子になったら大人に見せるんじゃ。首にかけるよう、おばちゃんが作ったる……」

 清乃はもう一度それに、同じ住所を黒々と力づよく書いた。

 出来上がった迷子札に榊さんはきりで穴を開け、丈夫そうなヒモを通して首掛けにした。

「……おばちゃんの知り合いの工員さんで、こんど大阪へ帰る人がおるけ、途中まで一緒に連れてってもらおう。そっから先は、だれか親切な人に、これを見せるんじゃ」

 それから出立しゅったつまでは幾日もなかった。

 清乃は一つのずた袋にすべての持ち物を詰め込んだ。衣類や文房具、それに寄木細工の箱ももちろん忘れなかった。切符は工廠づとめのおじさんが、ツテで手に入れてくれた。トシオ君は荷物をまとめる清乃を見て、さすがに寂しそうな顔をした。そして奥へ行って、自分の大切にしているベーゴマを彼女に持たせた。

 出発の朝、国民服姿の小太りのおじさんが玄関に現れ、清乃に声をかけた。

「よろしゅうのう」

「こんにちは」

 清乃はいつもの人見知りをせず、しっかりと挨拶をした。

 おじさんは口数が少なかったが、榊さんの知り合いだけに、人好きのする雰囲気を漂わせていた。

「……清ちゃん、なんかあったらまた戻って来るんよ。あんたの家はここじゃけのう……」

 榊さんは竹の皮に包んだおにぎりを手渡すと、いつまでも名残惜しそうに、連れ立って玄関を出て行く二人を、涙ながらに見送った。トシオ君は母親の陰で、不機嫌そうな顔をしている。

 僕らも二人のあとをついて行った。ふり返ると、互いによく似た好人物の親子が、玄関先で小さくなるのが見えた。

 焼け跡の呉の大地を踏みしめて、二人は駅へと向かった。

 火の見やぐらの横を通って川沿いを行く間も、清乃とおじさんはほとんど無言であった。無言だけれども、何となく心許せる雰囲気がそこにあった。いつか子供たちがチャンバラをしていた辺りは、今は荒れ果てて何もなかった。

 駅は大きな荷物を背負った人々でごった返していた。

「……今までみんな、職を求めて呉へ来てたんだね。戦争が終わって、海軍の施設も解体されたから、田舎へ帰って新生活を始めるんだろう……」

 それぞれの事情をかかえた人たちが、同じ一つの列車に乗って、みんなどこかへ運ばれて行く。到着した汽車はギュウギュウ詰めにされ、屋根の上にまで人があふれていた。

 おじさんは清乃をかばうようにして、その中へ割り込ませてやり、自分も隙間を見つけて無理やり分け入った。

 客車の中で苦しそうにしている清乃を見かねて、親切な人が席をゆずってくれた。清乃は幸い窓際の席に座ることが出来た。彼女は「ふう」と息をついた。

「いったん広島へ出て、それから山陽本線へ乗り換えて大阪まで行く。そこからは一人じゃが、大丈夫かのう……」

 おじさんは行程を説明した。清乃はこっくりとうなずいた。

 ゆっくりと動き出す汽車の窓を追うように、僕らもその横を飛んだ。

 ガラス窓に顔を寄せ、清乃がぼんやりと海を見ている。

 いつか兄に背負われて見た海と、そのおだやかな波の色は同じであった。

 トンネルに入る前に、屋根の上の人々の真似をして、僕らは懸命に車体にしがみついた。石炭で走る列車がトンネルを過ぎると、人々の顔も、チュン太の顔も、みんな同じように真っ黒になった。僕の顔もきっと真っ黒なのであろう。

 ほどなくして、広島へ到着した。そこには、息をのむような荒涼とした風景が広がっていた。

 街は文字通り、見わたす限りの焼け野原であった。たて横に走る大通りと、曲がりくねった川以外、すべて瓦礫であった。わずかに焼け残ったコンクリートの建物も、中が抜け落ちて空洞になっていた。鉄骨はぐにゃりと溶けて曲がっていた。ふだんは見えないはずの海が、はるか遠くに見渡せた。橋のたもとに、いまは原爆ドームと呼ばれる、丸い屋根の建物も小さく見えた。

 あの日から一ヶ月が経つのに、焼け焦げた匂いがまだ消え残っている。復旧作業をつづける人々の姿が至るところに見られた。

 僕はただ茫然と、廃墟と化した街を見つめた。

「広島は川の街なんだね……」

 がらんとして何もなくなったおかげで、この街のもともとの地形がよく分かった。

「街全体が三角州の上に建てられたような所なんだよ……」

 チュン太が言った。

 豊かな川の恩恵に浴するように、少しずつ築かれて行ったであろうこの街―――数千年の時を経て、あるとき、一瞬にして灰燼かいじんに帰したこの街―――

 僕はふと、人類の歴史という川の流れを思い浮かべた。

 人間が二足歩行になり、道具を手にして、いつしか創り上げた科学文明。その文明をもとに、目覚ましく発展した近代都市。人類は海を征し、山を征し、また空を征し、やがて宇宙にまで手を伸ばし、そしてついには、自らの姿を「神」と重ね合わせるほどに肥大化させた。ところが、どこでまちがったか、彼らは互いに憎み合い、殺し合い、街を破壊し、いまや自らの住む地球という星をも、生物の住めない環境に変えつつある。人類という川は、いったいどこから来て、どこへ向かうのだろう。小さなせせらぎが大河となり、折しも海に流れ出そうとするとき、その叡智の辿り着いた場所が、いま、目の前に広がるこの荒涼とした風景なのか―――

 僕はにわかに、すべてのことがむなしくなり、暗鬱な思いにかられた。

 しかし―――

 原爆直後から、町の人々は少しずつ、蟻のようにたくましく、復興への道を歩み出している。

 山に蔓延はびこるイタドリのように、野原を駆け回る子供たちのように、おそらくは人間そのものに備わっているであろう、その生命のエネルギー。

 焼け跡の中で細々と走る路面電車や、瓦礫を一心に片付ける人々の姿は、愚かな人類への絶望に沈む僕の心を、にわかに一筋の光で照らした。

 広島駅のプラットフォームは、戦地から引き揚げて来た兵士たちであふれていた。大きなリュックを背負い、ぼうぼうに髭を生やした男たちは、みな真っ黒に日焼けして、一様に破れた服を着ていた。中には片腕や片足のない者もいた。

 清乃とおじさんは、山陽本線に乗り換えるため、いったん列車を降り、男たちの中をかき分けて進んだ。

 そのときふと、清乃は、視界のひらけた場所から、焼け跡の広島の街を見遣みやった。そしてすぐに、また前を向き、おじさんのあとにつづいた。

 彼女の心の中に去来したものは、いったい何であったか。

 この風景のどこかで、父の實がしずかに眠っている。

 白骨になって……。

 あるいはまた……。

 父の瞳が、どこからか自分を見つめている……

 この廃墟の街を、さらさらと吹く風になって……

 彼女が向けた視線の先には、そこだけぽつんと墓石のようにそびえ立つコンクリートのビルがあった。福屋百貨店の焼け残った姿であった。

 山陽本線の列車は、屋根がなかった。多くの人々がこぼれ落ちそうになりながら、どうにか車体にしがみついていた。

 おじさんと清乃も、後方の車両にやっと隙間を見つけ、かろうじて体をあずけた。清乃が振り落とされないよう、おじさんはしっかりと背中を押さえてやった。

 さらに幾人かが無理やり乗り込むと、列車は前ぶれもなく動き出した。そのあとからも、追いかけて飛び乗る者がいた。

 みんな文句も言わず、じっとその苦しい状況に耐えた。汗と脂で汚れた服やカバンには、小さな白い虫がくっついていた。人々は動かしづらい手で、必死に体を掻いた。

 列車はたびたび停車した。

 石炭が尽きたところで止まり、またどこからか搔き集めて来ては、ふたたび発車するようであった。待っている間、線路わきの草むらで、人々は一息ついた。おじさんと清乃は榊さんが持たせてくれたおにぎりを食べた。

 現在では半日で行ける大阪までの道のりを、このときは丸二日かかった。夜はホームのベンチで寝た。ヤブ蚊に悩まされながらも、清乃はしっかりと荷物をかかえて眠った。おじさんはときどき目を覚まし、清乃の無事を確認した。

 大阪へ着いたのは三日目の朝であった。

 ついにおじさんとは、ここで別れなければならない。

「……ええか、あの列車に乗って、天王寺ちゅうところで乗り換えるんや……」

 清乃の正面にしゃがみ込んで、おじさんは噛んで含めるように、これからの行き方を説明した。清乃は目をまん丸にして、しっかりとうなずいた。そして、何かを思い出したように、ずた袋をまさぐった。

 取り出したのは、榊さんがヒモを通してくれた「迷子札」であった。彼女は自分の首にそれを掛けた。

「おう、それや、それ。ええ子やな……」

 おじさんは清乃の頭に手を乗せて、顔をほころばせた。清乃もニッコリとした。おじさんは干し芋を一つくれた。

 ペコリと頭を下げ、彼女は自分の乗るべき列車へと向かった。今度の列車もなかなかの混みようである。

 おじさんは階段を降りながら、もう一度、清乃のうしろ姿を眺めた。

 僕らもおじさんに別れを告げ、清乃の乗った列車を追いかけた。列車がホームを出たところで、周りを見渡すと、焼け野原の大阪の街には、闇市のバラックから細々と白い煙が上がっていた。

 天王寺で列車を降り、清乃は人混みをかき分けながら、和歌山へ向かう列車を探した。駅員が心配そうに近寄って来て声を掛けた。

「ここへ行きます……」

 清乃は迷子札を見せ、しっかりとそう告げた。

 駅員に案内されて、彼女はようやく紀伊半島を南下する列車に乗ることが出来た。

 こんどの列車は比較的いていて、清乃は四人掛けの席にひとりで腰かけた。

 出発までかなり時間があったので、彼女は首にかけた迷子札をしずかに眺めたり、ぼんやり風景を眺めたりしている。

 思えば、ひとりで旅をするのもこれが初めてなのに、彼女はずいぶんと大人びた顔をしていた。

 僕は、迷子札を下げてちょこんと座っている清乃を見るうちに、なぜだか急にいろんな思いが込み上げて来て、我知らずボロボロと涙をこぼしていた。涙は、自分でも不思議なくらい、あとからあとから流れ出て来た。

 チュン太はわざと気付かないフリをしている。

 列車が動き出すと、清乃は長旅の疲れからか、たちまち窓に頭をもたせて眠り込んだ。 

 白浜町へ着くころには、残暑きびしい九月の太陽はすでに西日になっていた。

 駅に降り立ったのは、清乃のほかにもう一人、足の悪い復員兵があるのみであった。

 潮風の匂いのする通りへ出て、清乃は井戸水をくむ老婆に道をたずねた。老婆は耳が遠く、迷子札がもう一度役に立った。

 僕とチュン太は上空へ飛んでみた。民家の屋根の向こうに、青い海が見えた。

 清乃を見失わないよう気にかけながらも、僕らはちょっと海の方へ行ってみることにした。

 背の高い、立ち枯れたヒマワリの群れを越えて、僕らの眼前に広がったのは、美しい白い砂浜であった。

 弓なりの浜に打ち寄せるさざ波がザワザワと耳に心地よかった。

 戦争が終わったのだと、そのとき初めて実感した。

 ハマさんの実家は海岸から線路をこえ、さらに山の方へ少し登った坂道の辺りにあった。大家族のみかん農家で、清乃がふいに訪れたとき、みんながそろってこちらを向いた。

「ほほう。あんたが清乃ちゃんかいな」

「みかんの絵、上手やったな」

「ハマさんの若いころに、そっくりや」

「しっかりした顔しとる」

 それぞれ好き勝手なことを言い合い、日焼けした顔に白い歯をほころばせた。

 僕は、その親しみやすそうな一家を見て、清乃のために少し安心した。あとで聞くと、その時はたまたま他の親戚も寄り集まって、作業を手伝っていたらしい。裏山のみかんはまだ固く、葉っぱと同じ濃い緑色をしていた。今は農閑期で、なにか代わりの作物を育てているようである。食いっぱぐれがなさそうなところも安心材料の一つであった。

 こんなあったかそうな家族とハマさんとの間に、かつてどんないさかいがあったのか、今では想像もつかないが、家族の方では、ハマさんの死を知り、その孫が訪ねて来た今となっては、過去のことは水に流し、この可愛い忘れ形見をいつくしみたい気持ちでいっぱいのようであった。

 清乃はこの一家のもとで、やがて成長し、女学生時代を過ごすことになる。そして十数年ののち、縁あって東京にとつぎ、今の僕の家族へとつながるのであるが、その間、世の中にはさまざまな変化があった。僕らはその移り変わりを目まぐるしく眺めた。

 軍国主義は民主主義の世の中になり、鬼畜米英は「親米」となった。子供たちは進駐軍に群がって、チョコレートをせがんだ。清乃が転入した小学校で、初めにやらされた作業は、教科書に墨を塗ることであった。

 戦時中、あれほど称揚された軍国の教えを、戦後は打って変わって、その匂いのする部分をすべて抹消し、なかったことにするのであった。新聞の論調も、手のひらを返したように「民主主義」一辺倒になった。

 また軍神とたたえられた特攻隊も、やがては「戦争犯罪人」と呼ばれ、軍国日本の亡霊として人々にさげすまれた。

 この極端な変わり方に、僕はある種の危惧を覚えた。

 人々がこぞって一つの方向へ進もうとするとき、そこにはまるでのたうち回る大蛇のような歯止めの効かない力が生まれる。それは戦時中の軍国主義も、戦後の民主主義も、おそらく同類であろう(僕らの住む平成の時代にもまた、タチの悪い大蛇の這いまわる気配がする)。

 ともあれ、清乃のその後の人生は、初めの数年間に比べ、おしなべて平穏で恵まれたものと呼べるであろう。少なくとも、僕が知る限りでは。

 そんな彼女の前半生の、一つの区切りとなる出来事があった。

 章太郎の戦死の知らせが届いたのである。

 戦死公報と呼ばれるその通知は、榊さんの家を経由して、この和歌山の里まで届けられた。みかんがたわわに実り、山一面、黄色くなる頃であった。

 郵便配達人が自転車に乗ってその封書を届けに来たとき、

「清ちゃん。あんたにやで」

と、受け取ったおばさんがそれをお下げ髪の清乃に渡した。

 清乃は女学生になっていた。

 封を開けて一読すると、彼女はしばし無言になり、そしてしずかにそれをたたんで仏壇に供えた。

 内容を尋ねるおばさんに、彼女は一と言、「お兄ちゃんの死亡通知書じゃ」と言った。

 学校へ行くと、どこから伝え聞いたのか、仲の良い友達が歩み寄って来て、彼女に慰めの言葉を掛けた。

「上松さん、大変やったねえ。お兄さんはお国のために立派に戦ったのに、このごろは口性くちさがない人たちが、いた風なこと言いよる。気にせん方がええよ」

 友達は眉をひそめて、清乃の肩に手を置いた。

「ううん。ウチは平気じゃ。あんな紙切れ、当てんならん」

 清乃は意外にも、笑みを浮かべたまま友達の言葉をさえぎった。

「まだ死んだと決まっとらん。どこかで必ず生きとる―――ウチのお兄ちゃんは不死身なんじゃ……」

 彼女は遠くを見るように言った。

「いつかまた、ひょっこり『ただいま』って、帰って来るような気がしよる。敬礼しながらな。きっとそうやよ……」

 教室からはピアノの伴奏とともに、女学生たちの澄んだ歌声が聞こえていた。


  あした 浜辺をさまよえば

  昔のことぞ しのばるる……


 その清らかなせせらぎのような歌声にうっとりとしながらも、僕はふと、章太郎さんがあのあとどうなったか、本当に戦場へおもむいて、どこかで亡くなったのか、その真相を知りたくなった。

 そのことが分からないかぎり、僕の心にはいつまでもモヤモヤしたものが残るであろう。どんないきさつがあって、彼は特攻作戦に身を投じたか。その経緯が知りたい。

 またそれを知ることで、出口のない今の僕の生活に、なにか光明のようなものが見出せるかもしれない。そう思い始めると、僕は矢も楯もたまらなくなった。

 章太郎さんの消息が知りたい―――

 僕はチュン太に向き直り、それを言い出すために口を開こうとすると、チュン太ははじめから分かっていたように言った。

「きっとそう言うと思ったよ……」 

 そして寂しそうに笑った。

 それは何かを覚悟した人間の、あきらめにも似た表情であった。

「ちょっと時間をさかのぼるから、ボクの体のどこかに触れてみて……」

 僕はチュン太の背中に羽を押しあてた。彼の体はやわらかく、少し震えていた。心臓の鼓動が聞こえるようであった。

「いくよ……」

 迷いを断ち切るように、彼は勢いよく飛び立った。彼の体が一瞬七色に光ったような気がした。よく見ると、僕の羽も同じ色に光っていた。

 僕らが舞い降りたのは、緑の木立の中にある、だだっ広い運動場のような場所であった。

 真っ白な体操着の若者たちが、何百人も等間隔に並び、掛け声を上げながらキビキビと体操をしている。

 うす明るい日差しと肌寒い空気は、まだ朝早い時間であろうか。

 若者たちの正面には、おそらく校舎であろう、赤レンガの立派な建物があり、その向こうは小高い山になっている。

 運動場のうしろには背の高い松林、そのすき間から波光きらめく海が見える。空気が澄んでいて、まるで別天地へ来たような清々すがすがしさである。

「呉で見たのと、んなじ海の色だ……」

 僕はそのおだやかな波の様子から、それが瀬戸内海であることを確信した。

「そう。江田島えたじまの海軍兵学校だよ……」

 チュン太が、赤レンガの上にひるがえる日章旗と軍旗を指さした。

 それは、章太郎が苦学のすえに入学した、海軍の最高学府であった。

 たしかその学校は、呉の港から対岸に見える島にあった。

 なるほど、全国から選び抜かれた文武両道の生徒たちが、あすの日本を牽引けんいんすべく勉学に励むのに、この風光明媚な土地ほどふさわしい場所はないように思われる。

 俗世間とは一線を画した、こんな静かな場所で学ぶことが出来れば、さぞかし勉学もはかどるだろう―――

 と、僕はその恵まれた環境をうらやみながらも、どうせチュン太にからかわれそうだったので、その言葉を呑み込んだ。

 チュン太はまるで僕の心を読んだかのように、横目でクスクスと笑った。

「ほら。章太郎さんがいるよ……」

 目を凝らすと、さっきの集団の中に、ひときわ引き締まった顔で屈伸をする血色のいい青年がいた。僕はその顔が自分にそっくりであることに、いまさらながらハッとした。まさしく現在の彼は、ちょうど僕と同じくらいの年齢なのであった。

「なるほど、そういうことか……」

 僕はしばらく感心しながら彼の顔を見つめていたが、一つだけ僕とちがうことに気が付いた。それは彼の真剣なである。いや、章太郎のみならず、そこに集まった青年たちの瞳はみなキラキラと輝いていた。だれもよそ見をしたり、なまけたりする者はいない。その目は、自らの使命をしっかりと見据えて「迷い」がない。日本を守るのは自分たちである、という気概にあふれていた。

 体操が終わると、若者たちは駆け足で教室へ戻り、着替えを済ませて、すみやかにそれぞれの席に着いた。

 しばらくすると教官が入って来て、黒板を使って授業をすすめる。体操のとき以上に、生徒たちの目は真剣である。指名された生徒は勢いよく立ち上がって、大声で答えを述べ、すぐにまた着席する。キビキビとした動作は、僕らの教室とは大ちがいだ。さすがは全国から選ばれた精鋭たちである。僕は居ずまいを正した。

 授業は歴史、数学、漢文や理科など、通常の科目に加えて、モールス信号や手旗信号、船や飛行機の構造の学習、測量術や航海術など、この学校ならではの実践的なものもあった。

 中でも章太郎が生き生きとしたのは、外国語の授業である。敵国語である欧米語を、この学校ではだれにはばかることなく存分に学ぶことが出来た。思えばそれが、彼がこの学校を選んだ理由の一つであった。

 当てられた章太郎は、教科書を両手で前にかざし、どこで覚えたのか、なめらかないい発音で、すらすらと読んだ。教官は自分よりも発音がいいことに目を丸くし、照れかくしに咳払いをした。

「……ショパンの国に行きたいというのが、彼の夢だったね。音楽が好きなだけあって、そもそも耳がいいんだ……」

 チュン太の讃辞に、僕は自分がホメられたように誇らしく思った。

 大げさでなく、章太郎は精鋭たちの中でも、抜きん出てよく出来た。

 また学問のみならず、身体の訓練においても、彼は優れた能力を発揮した。

 水練のとき、生徒たちはふんどし一丁になって海で泳ぐのであるが、実習が終わって、章太郎は何を思ったか、繋留けいりゅうされた船のマストによじ登り、十数メートルの高さから海へ飛び込んでみせた。彼の描く放物線はしなやかで美しく、太陽に照らされたその体は神々しいくらいであった。

 朝から晩まで、来る日も来る日も、彼らは学問と身体訓練に明け暮れた。

 体育ということで言うと、彼らのそれは特に厳しいものであったが、中でも荒っぽく危険なのは、棒倒しという運動競技であった。

 棒倒しというのは、まず生徒が二、三十人ほどの二つの集団に分かれ、それぞれの中央に太い棒を垂直に立てる、そしてそれを守りながら相手の棒に襲いかかり、早く倒した方が勝ち、というゲームであった。頭部以外は、殴る、蹴るなどの行為も許された。

 攻防のすえ、教官が終了の笛を吹いたときには、彼らの顔や手足はあざだらけで、中には鼻血を流したり、肩を脱臼している者もいた。

 今では考えられない乱暴さである。戦争の疑似体験と言ってもよい。

 また、海軍ならではの演習として、短艇カッター訓練というものがあった。

 ふだんは岸壁に吊るしてある手漕てこぎボートを水面に浮かべ、それぞれの手に長いオールを持ち、力を合わせて漕ぐ。

 一つのボートに十数名が乗り込み、左右に分かれて漕ぐのだが、全員の呼吸が合わないとボートは思った方向に進まない。

 僕は井の頭公園で手漕ぎのボートを漕いだことがあるが、自分一人で漕ぐのもなかなか難しいのだ。ましてやムカデの足のように、大人数で長いボートを動かすのはさぞかし練習が必要だろうと思われた。おそらく、きたるべき軍隊生活でのチームワークを育成する訓練なのであろう。

 しかし、だんだんタイミングが合ってきて、全員の呼吸がピタリと合うと、それは驚くほどのスピードを上げた。流れ去る風景に、若者たちは顔を輝かせた。

 大勢で何かを成し遂げるという経験を、僕はこれまであまりしたことがなかったので、彼らの晴れやかな表情を見て少しうらやましく思った。もし、人間に戻れるのなら、またサッカーでも始めてみようかという気になった。

 夜は夜で、精神統一の時間、礼儀作法の時間など、あらゆる角度から「全人的」な教育がほどこされた。

 晴れた日には、古鷹山ふるたかやまという小高い裏山に、ピクニックを兼ねてみんなで登り、野道を駆け回ったり、アケビを取ったりして自然にも親しんだ。

 そんな風にして、章太郎の充実した日々はまたたく間に過ぎた。真っ黒に日焼けした顔を、いきなり呉の家族に見せに来たのもこの頃である。

 しかし、そんな彼の有意義な学校生活とはうらはらに、日本の戦局は悪化の一途を辿った。兵学校もそのあおりを受け、この年、卒業が通常四年のところ、二年半に短縮されることが決まった。即戦力を確保するためであろう。

 もっとも章太郎は、あわただしい中にも、最後の一年で、自分の能力に見合った、進むべき道をほぼ見出していた。

 それは、航空隊の教官になることであった。

 かつて体験した、岩国での飛行実習訓練で、彼はよい手応えをつかみ、その思いを固めた。

 飛行機の操縦は「知力」「体力」「冷静さ」「すばやい行動力」といった、バランスのよい能力が必要とされるが、章太郎はそのすべてを兼ね備えていた。

「海軍なのに、なぜ飛行機なの?」 

 僕はまたもや愚かな質問をした。

 知らないことは恥ずかしいことではない、知らないことをそのままにしておくのが恥ずかしいことである、と、なぜかチュン太の前ではそんな気分になれた。

「……このころ日本にというのはなかったんだよ。陸軍と海軍の航空隊がそれをになった。そもそも飛行機が発明されてまだ日が浅いし、日本は海に囲まれているから、戦争といえば海戦が主体だったんだ。ちなみに飛行機を戦力としてもちい、はじめて空襲を行ったのが『ゲルニカ空襲』だよ。ナチスがスペインの市街地を攻撃したんだ」

 僕はピカソの「ゲルニカ」の絵が、そんな状況のもとで描かれたことを、ついぞ知らなかった。ただのな絵かと思っていた。今度ばかりは、自分の見識のなさと、思慮の浅さをとても恥ずかしく思った。

 卒業式は、天皇陛下の弟である皇室の宮様ご臨席のもと、おごそかに行われた。兵学校が国を挙げての育成機関であることを改めて思った。章太郎は、特に優秀な生徒に贈られる記念の短剣を手にした。

 卒業生たちの配属先はさまざまであり、中にはいきなり巡洋艦や潜水艦に乗って前線へ向かう者もあったが、章太郎は希望が叶って、茨城いばらき県の霞ケ浦にある航空隊へ、飛行練習生として赴くことになった。

 在校生たちが「ささつつ」をして見守るなか、卒業生を乗せた船が岸壁を離れた。卒業生たちは船の上から一斉に帽子を振って兵学校に別れを告げた。

 僕らも章太郎の行方を追って霞ケ浦へ飛んだ。

 ザップーン―――

 波打つ水面はまるで海のように荒々しかった。しかし空から見ると、それは鏡のようになめらかであった。

 この見晴らしのよい、広々とした場所で、飛行訓練は行われる。

 章太郎は荷物をほどき、宿舎の人々に挨拶をした。

 さっそく二日目から、さまざまな実習が行われた。

 はじめは教官をうしろに乗せて、手取り足取り操縦を教えてもらう。実習には「赤とんぼ」と呼ばれる、複葉の練習機が用いられた。

 離陸、着陸にはじまり、上昇、下降、旋回、またしばらく経つと、急上昇、急降下、さらに一ヶ月のうちには、宙返りや背面飛行までやらされた。

 練習生の中には気分が悪くなってフラつく者もいたが、章太郎はむしろ訓練を楽しんでいるようであった。枯草色の飛行服もよく似合っていた。

 そして二か月後、いよいよ教官抜きの、単独飛行になった。

 たどたどしく飛ぶ他の生徒たちに比べ、章太郎の演技は大胆かつ正確であった。

 練習生としての四か月はあっという間に過ぎた。

 さらにあわただしくも、今度は実戦機による訓練を受けるため、大分県にある別の航空隊へ異動が決まった。

 折しも清乃から「みかんを食べる人」の絵葉書が届き、章太郎は頬をゆるませた。しかしわけあって、返事は出さなかった。

 郵便物はきびしく検閲を受け、軍の機密に属することは、たとえ自分の居場所であっても、無暗むやみに人に教えてはいけなかったのである。

 僕らもまた彼を追って、日本列島を南下した。そして九州へ到着した。

 大分での実戦機による訓練は、ふたたび教官をうしろに乗せるところから始まった。

 初めて乗り込む零戦ゼロせんを前に、章太郎の顔に緊張と興奮が浮かんだ。

「うわぁ……」

 そう呟きながら、章太郎は機体を一周した。

 零戦に乗り込むための階段ステップはなく、翼の付け根をじかに踏んで、無造作によじ登る。

 そして座席に着くと、ゴーグルをかけ、「風防」と呼ばれるカバーを閉める。防寒と安全のため、飛行服は思ったよりも厚着であった。

 教官の指示のもと、いよいよエンジンがかかり、滑走路までゆっくりと走行する。僕とチュン太は後方から固唾かたずをのんで見守った。

 滑走路へ着くと、まるで棒高跳びの選手が徐々に助走のスピードを上げるように、零戦もまたスピードを上げた。エンジンはフル回転し、スズメバチのような独特のうなり声を響かせた。

 そして猛スピードで滑走路を駆け抜け、機体がフワリと浮いたかと思うと、すでに格納庫の屋根よりも高く飛んでいた。

 見る見るうちに、章太郎を乗せた零戦はいわし雲の広がる空へと小さくなった。

 遠ざかるエンジン音を聞きながら、僕とチュン太はぼんやりと空を眺めた。

「行っちゃったね……」

 僕らは急にしずかになった飛行場の芝生の上でただポツンと佇んでいた。

 小一時間もしたころ、しだいにまた爆音が近づいて来て、小さな零戦の機体が見えはじめた。

 と思うまもなく、滑走路へ向かって高度を下げ、タイヤをバウンドさせながら、やがて着地した零戦は、最後は急ブレーキをかけるように前のめりになって、僕らの目の前でピタリと止まった。

 風防がひらき、章太郎と教官が下りて来る。

 章太郎はゴーグルをずらしながら、感嘆の声を上げる。

「いやぁ、なんちゅう軽さ、なんちゅう速さじゃ……」

「驚いたか?」

 教官も含み笑いを浮かべている。

 軍隊では上下の礼節にきびしく、ほんとうは上官に向かってこんなくだけた物言いをしてはいけないのであるが、そこが章太郎の不思議なところで、人なつっこい彼の性格は、謹厳実直な上官の胸襟きょうきんをも開かせるようであった。

 しかし、訓練の最後には、きびきびした挙手の礼をもって、教官の指導に感謝した。

 僕はさまざまな訓練を見ているうちに、軍用機には零戦以外にも、いろんな種類があることを知った。

 零戦というのは、正しくは「零式れいしき艦上戦闘機」と言って、主に空中戦や味方の援護射撃を任務とし、その敏捷性のため、機銃は備えているが爆弾は搭載していない。

 爆弾を積んでいるのは爆撃機で、たとえば「九九式艦上爆撃機」―――九九艦爆きゅうきゅうかんばくと呼ばれる―――や、九六艦爆、などがある。「艦上」とつくのは、空母から発着できる軽便な小型機、というほどの意味らしい。

 また中型機では「一式陸上攻撃機」―――一式陸攻りっこう―――などがあり、特技は、上空から魚雷を落とすなどの中規模攻撃である。そしてそれぞれ、名前のアタマには、皇紀による年号の数字が冠されている。

 ちなみにB29のような大型機は、日本にはないらしい。

 しかし中でも、やはり「零戦」というのは、その速さといい、機動性といい、航続距離の長さといい、どれを取っても特別な、航空機史上に残る名機であることが、だんだん分かって来た。

 章太郎はいろんな機種に乗せられて、一通りその特性に応じた訓練を受けたが、やはり零戦に乗るときがいちばん、表情が生き生きとしていた。

 単独飛行になっても、彼はまるで自分の手足のようにそれをあやつった。

 そして章太郎は、数か月のうちに全ての教習課程を終え、ひとり立ち出来るようになった。すると今度はいきなり「教官」になるよう命ぜられた。

「……お前は呑み込みも早いし、感じたことを簡潔に人に伝えることにけている。前線に行くよりは指導員として、後進の育成につとめた方が適任だろう……」

 章太郎は目を輝かせた。予想外に早く、夢が実現した訳である。

 同期生の中には、この時点で前線へ送り出される者が多かった。彼らの目もまた、希望の光に満ちていた。僕らには想像しがたいが、それは、いよいよ国に報いることが出来る、という願望の成就なのであった。

「……しかし上松、くれぐれも慢心はいかんぞ。早く出来る者はとかく兎になりがちである。お前はどっしりとした亀になれ」

「承知いたしました!」

 彼の返事は、歓喜に上ずっていた。

 章太郎が赴任するのは、同じ大分県にある「宇佐うさ航空隊」というところであった。彼は自戒をこめて「ウサではなく、カメ航空隊じゃ……」とつぶやいた。

 軍人の位としては「少尉」から「中尉」に昇進した。

 着任式を終え、まず彼が担当したのは「爆撃機」による飛行訓練であった。

九六きゅうろく艦爆」と呼ばれる、複葉の旧型機を練習に用いたが、指導のため後部座席に乗り込む彼の表情は、新任教官とは思えないくらい堂々と板に付いていた。

「ついこないだまで、自分が生徒だったのにね……」

 僕は思わず笑いかけたが、すぐに気持ちを引き締めた。この時代の青年にとって、いまの僕らが持つような「猶予期間モラトリアム」は存在しないのであった。

 生徒の方は、みなあどけなさの残るやせっぽちの少年たちであった。初めての顔合わせのとき、章太郎は彼らの顔や手足がれてあざだらけであることに目を止めた。

「どうしたんじゃ……」

「ヨカレンでしごかれました」

 少年たちは苦笑しながら答えた。

 きびしい教官たちによる、鉄拳制裁の様子が目に浮かんだ。

 僕は、暴力容認の、この時代の空気を思いがけなく垣間見た気がして、イヤな気分になった。

 しかし、考えてみれば、戦争自体が国を挙げての暴力容認である。あらためてこの時代が「激流の時代」であることを思った。

「ヨカレン?」

 僕はチュン太に訊いた。

「予科練習生―――少年航空兵を養成するところだよ。みんなお国のためと思って、あるいは飛行機乗りに憧れて、十五歳くらいで志願するんだ。どうせ二十歳はたちになったら全員徴兵されるから、自ら志願することで、早い出世も期待できるし、家計の助けにもなると考えたんだ……」

 僕はデコちゃん先生の教室で、元気に手を挙げる男の子たちの顔を思い浮かべた。少年兵たちの目は、あのときの子供たちの目と同じであった。

「でも、戦争に行ったら死ぬかもしれないじゃないか」

 僕はデコちゃん先生と同じ疑問を投げかけた。彼らは死ぬのは怖くないのであろうか。

「ぼんちゃんの世代は、命は何より大切なもの、地球よりも重いもの、と教わるけど、この時代の子供たちは、命はお国に捧げるもの、と教えられるんだよ。この感じはなかなか理解できないと思うけど……」

 僕らはそれを「洗脳」と呼ぶことも出来る。いわば国家的な洗脳である。しかしそれなら「人間の命は地球よりも重い」という言葉だって洗脳ではないか。むしろ「あした自分が死ぬかもしれない」と考えて生きることの方が、「この命が永遠につづく」と妄信するより、あるいは大切なのかもしれない―――僕は自分なりに彼らの価値観をなんとか理解しようと努めた。

 少年兵たちは初めのうち、予科練でのしごきが頭にあったのか、章太郎の講習を受けるときも妙に強張こわばった顔付きをしていたが、この教官のおだやかな語り口や、ときに笑顔を交えた明快な説明を聞いているうちに、しだいに緊張もほぐれて、白い歯さえ見せるようになった。

 あるとき、章太郎が翼の下で円陣を組ませ、模型飛行機を使って何かを説明しているときに、練習生の一人が、ふと、滑走路に迷い込んだ白い子犬を見つけた。少年は思わず立ち上がって、子犬を捕まえようと滑走路の方へ駆け出した。他の少年たちもつられて、次々と立ち上がった。そして大捕物おおとりもののすえ、彼らは子犬を抱きかかえて戻って来たが、ふいに章太郎の顔を見ると、さすがに礼を失したことに気が付き、全員が帽子を取って一列に並んだ。一人は子犬をかかえたままである。

「上松教官。申し訳ありませんでした!」

 彼らは一斉に坊主頭を下げ、そのままの姿勢でじっとしている。きっと殴られることを覚悟しているのに違いない。

 ところが、そのかん、手持ち無沙汰に模型飛行機を磨いていた章太郎は、とくに気にする様子もなく、ふたたび彼らを座らせ、自らはパイプ椅子に腰を下ろした。

 少年たちは互いに顔を見合わせ、仕方なくそれに従い、また円陣を組んだ。

 そして、何もなかったように講習をつづける章太郎を見ながら、怪訝けげんに思った練習生の一人が、やがて「上松教官!」

と、話をさえぎった。

「なんじゃ……」

「教官はなぜ、自分たちを殴らんのですか?」

 正直な胸のうちを述べた。

 こんどは章太郎が不思議そうな顔をした。

「……なんで殴らにゃいかん。口で言えば犬だって分かる。お前たちは言われる前に自分から謝った。それでええじゃないか。のう……」

 彼はそう言って子犬の頭を撫でた。

 章太郎が練習生たちの間で、絶大な人気を博したことは言うまでもない。

 もっとも、彼の訓練そのものは、他のどの教官よりも厳しかった。

 「爆撃機」というのは爆弾を落とすのが役目なので、何よりそのが肝心である。ただやみくもに上から落とすのではなく、まず自分が目標物に向かって突進し、勢いをつけて爆弾を放す。そして投下後、再び急上昇する。そうすることで命中率を高めるのであった。

「失敗すると自分が危険だから、真剣なんだ……」

 チュン太も険しい目付きをした。

 章太郎はこの急降下訓練のとき、生徒たちにギリギリまで高度を下げさせた。

 他の教官が地上六百メートルの地点で急上昇するところを、彼は四百五十メートルまで目標に接近した。そうすると当然、地面に激突する危険性と、上昇するときの難易度が上がる。章太郎に伴われて飛行機を降りて来た練習生たちはみなフラフラになり、その場に倒れ込む者もあった。

 章太郎は笑って言った。

「お前たちが腕のあるところを見せれば、そうそう使い捨てには出来んじゃろ……」

 訓練の厳しさには理由があるのであった。

 章太郎はふときびすを返し、ふたたび機体に歩み寄って、一人でそれに乗り込んだ。どうやら模範演技をするつもりらしい。

 生徒たちは整列して演技を見学した。僕とチュン太も、まるで学校の生徒のように、その横に並んだ。

 軽快に飛び立った彼の飛行機は、翼を左右に振って合図したあと、不意にスピードを上げ、まもなくヒラリと身をひるがえして急降下した。そして目標物に向かって一直線に接近し、地面すれすれのところで急上昇、来たときと同じ角度で空に舞い上がった。

 そして、トンビのようにゆっくりと旋回し、またこちらへ戻って来る。

 そのしなやかで美しいカーブは、いつかマストの上から海に飛び込んでみせた彼の勇姿を髣髴とさせた。

 章太郎はゴーグルをはずし、微笑を浮かべた。そしてそのまま授業は終了した。訓練の終わりには、いつも機体を整備してくれる整備兵へのねぎらいも忘れなかった。

 芝生の上で生徒の一人が、模型飛行機を手に取り、ほかの連中が彼を取り囲んで、章太郎の飛び方を研究している。

 章太郎は振り返って、彼らの成長ぶりに目を細めている。

 また、ときに彼は―――これは禁止されていることであったが、―――教え子たちを伴って宇佐の街へくり出し、飯をおごってやることもあった

 大っぴらに同行すると人目につくので、生徒たちを先に行かせ、自分はあとから、少し遅れて行くのである。行きつけの店を「八乙女やおとめ食堂」と言った。

 店にはその名の通り、愛くるしい丸顔の看板娘がいて、生徒たちの憧れの的であったが、彼女は章太郎の姿を認めると、目を輝かせて中へ招いた。

 僕らは夕暮れの宇佐の街をそぞろ飛んだ。

 寒い夜、暖簾のれんごしにあたたかな光がもれ、店内からはにぎやかな笑い声が聞こえた。

 章太郎の教員生活は充実していた。

 ところが、そんなある日、見慣れない小型の白い飛行機が宇佐空へと運ばれて来た。

 それはプロペラもなく、エンジンもなく、小さな機体はせいぜい一人乗るのがいいところで、そのとした風体ふうていは、なにか不気味な肌寒さを感じさせた。

桜花おうかだね。人間爆弾だ……」

 チュン太が僕の懸念を先まわりして言葉にした。

「……一式陸攻に吊るされて敵に近づき、そこで切り離されて、グライダーのように目標に突っ込む……」

 チュン太の目は、暗い光をたたえていた。

 僕は突入の様子を想像して眉をひそめた。

 一口に特攻と言っても、いろんな種類があるようだ。この桜花による体当たり攻撃のほか、潜水艦による特攻、水上艇による特攻もあるという。

「いったいなぜ、人間が乗り込む必要があるの?」

「表向きは軌道の調整と、途中で点火して加速するため、と言われてるけど、もっと技術力があればそんな必要はないよね。この頃はすでにという考え方が当たり前になってたんだ……」

 僕はここが、まさしく戦争中の航空隊であることを痛感した。しかも、時代は特攻一色、一億玉砕が叫ばれ、「大義」のために命を捨てることが美徳とされる空気が定着していた。

 ということは―――と僕は憂慮した。

 章太郎が育成している生徒たちも、遅かれ早かれ、いずれは特攻にかり出されるのであろうか。あるいは、章太郎さん本人も……。僕は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 章太郎も桜花を見るや、すぐにその正体に心付いたらしく、おだやかな彼の眉間がみるみる険しくなるのが分かった。

 しかし、その時は何も言わずにそこを通り過ぎた。

 翌日、章太郎に意外な命令が下った。

「上松中尉。おまえに桜花出撃の際の、直掩ちょくえん隊をつとめて欲しい。敵は沖縄の南方から徐々に北上中だ」

 直掩隊というのは、特攻機の誘導と援護えんご、戦果の確認と報告がその任務らしかった。

「かしこまりました」

 一も二もなく彼は答えた。

 軍隊において、上官の命令は絶対である。

「初めての実戦だね。無事だといいけど……」

 僕とチュン太は、護衛といえども万が一のこともあるので、祈るような気持ちであった。

 それにしても―――目の錯覚か、よく見るとチュン太は、心なしかいつもより生気がなく、その輪郭も少しぼやけて見えた。

 上官室には、位の高そうな、白い軍服にバッジをたくさんつけた「司令長官」らしき人が来訪中であった。作戦の指示と隊員の激励のためであろうか。そのとなりで、章太郎を推薦したらしい宇佐空の上官が力強く言った。

「上松中尉、柳田やなぎだ中尉。今回の作戦は是が非でも成功させる必要がある。よろしく頼むぞ」

 宇佐空からは章太郎の他にもう一人、やはり若い中尉がその任務に当たるようであった。司令長官は二人の中尉に握手を求めた。

 つづいて長官は、実際に桜花に乗り込むらしい、他の航空隊から来た若者たちを部屋に入れ、一人ひとりその肩を叩きながら言葉を掛けた。

「頼んだぞ」

「はい!」

「頼んだぞ」

「はい!」

 兵士たちは見るからに年が若く、あどけなさの残る顔を紅潮させて、緊張した声でそう答えた。口はへの字に結ばれている。

 そのやりとりはあっけないほど事務的で、問答を差しはさむ余地はなかった。

 こんなふうにして、特攻作戦は淡々と遂行されるのだろうか、と、僕はなにか腑に落ちない感じがした。

 彼らが去った上官室の窓に顔を付け、僕とチュン太はなおも司令官たちの会話に耳を傾けた。特攻を命ずる方の、本当の気持ちが知りたかったからである。

 二人の会話は専門用語が飛び交い、僕にはほとんど理解ができなかったが、最後に長官が溜息まじりに言った言葉に、どこか引っかかるものがあった。

「それもこれも、国民を納得させるためだ……」

 そうはっきりと聞こえた。

 国民を納得させるため?……

 たしかに彼はそう言った。

 僕はその言葉について、ある想像をめぐらした。

 それはこういうことではないか。

 つまり、前途ある若者の命をみすみす散らせるのは自分とて心苦しいが、ここまで必死に頑張っている姿を国民に見せれば、、国民はどうにかあきらめてくれるのではないか。やれることはやった。今となっては―――それがわれわれに残された使命である……

 その言葉はそういう風に聞こえた。

 もしその想像が本当なら、それは何という本末転倒であろうか。

 そして、何という潔ぎ態度であろうか。

 僕は胸クソの悪さを感じた。

 しかし、またよくよく考えてみると、かつての武士の誇りを受けぐ彼らをしてさえ、そんな苦渋の決断をさせるということは、彼らにもまた、あらがいがたい、もっと大きな力が働いていたのではないか―――

 軍人は国民のためと言い、国民は軍人をりどころにして、互いにもたれ合っている。そこには「中心」がない。つまるところ、やはり戦争というのは、つかみどころのない幻想が生んだ、顔のないモンスターなのではないか―――

 彼らの行く手にぽっかりと開いた、深淵のような前途を思い、僕は暗澹となった。

 出撃の日時が決まると、基地内はにわかにあわただしくなった。章太郎も、護衛として乗り込む零戦の点検を、整備兵とともに入念におこなった。零戦は使い古された旧型のもので、緑色の塗装もところどころ剥げていた。

 生徒たちは章太郎の健闘を祈って、宇佐八幡宮へ参拝し、お守りを買って来て合同で手渡した。

「どうかご無事で」

 章太郎は気丈に答えた。

「あたり前じゃ。お前たちを一人前にするまでは、死ぬわけにはいかん」

 その顔は笑っていたが、その目は真剣であった。

 予定日が現地の天候不良で一日延びたあと、いよいよ出撃の日となった。夕暮れ時の出発であった。桜花を吊るした一式陸攻は比較的速度がおそく、迎撃げいげきの格好の餌食えじきとなりやすいため、なるべく目立たない時刻を選んだものらしかった。

 桜花に乗り込む隊員たちは、うす暗闇の中で、申し合わせたように白い歯を見せた。

 そして一列に並び、短い儀式のあと、それぞれの機に乗り込む。

「……特攻隊員たちは笑って出撃したというけど、あれは自分への激励と、残された者を心配させないための思いやりだね……」

 僕は写真では分からない、彼らの表情の意味が、そのとき分かったような気がした。

 一方、章太郎は、いままでに見たこともないような鬼の形相ぎょうそうで零戦に乗り込んだ。

 やはり初めての実戦で緊張しているらしかった。

 ゴーグルを着け、生徒たちに二本指で挨拶したあと、風防を閉めた。柳田中尉の機も、となりに控えていた。

 見送りの人たちが並んで旗を振るなか、直掩ちょくえん機に守られる形で、桜花部隊が出撃した。あわせて十数機がつぎつぎと飛び立って行った。

「桜花の若者たちは、これから行くんだね……」

 僕はその旅立ちが何を意味するのか、頭では分かっていても、実際この目で見るまで、うまく想像できずにいた。それはきっと、僕自身の現実逃避なのかもしれない。

 特攻―――自爆攻撃―――それは九死に一生もない。十死零生じっしれいしょうである。必ず死ぬ。

 僕はそのことについて、なんとか自分の中で納得させようと、あれこれいろんなことを考えてみたが、思うようにいかなかった。幸い今のところ僕は、大きなケガをしたこともなければ、重たい病気に罹ったこともない。とくに人生において死を身近に感じたことが一度もない。なんとなく自分の命が永遠につづくと思っている。ところが、その命が、ある日突然プッツリと途切れる。いや、突然ならまだしも、この若者たちはそれが何月何日か、はっきりと分かっている。そんな状況のもとで、はたして僕なら正気でいられるだろうか。彼らのように、残る者たちへの配慮まで持つことが出来るであろうか。一度も死んだことがないのは彼らとて同じであるが、彼らはそれを現実のものとして、しっかりと見据えて生きている。僕のぼんやりとした人生に比べ、その人生の、なんと鮮明なことか―――

 今ごろどの辺りを飛んでいるのだろう。もう敵と巡り合っただろうか―――僕がこんな考えに耽っている間も、着実にどこかで作戦は遂行されている。桜花に乗り込んだ若者たちは、命をかけるほどの戦果を上げることが出来たであろうか。あっけなく撃墜されて、海の藻屑もくずと消えてはいないか。はたまた章太郎さんの命は……。

 寒い風の吹き抜ける夜の滑走路で、僕とチュン太は身を震わせながら、長くもどかしい時を過ごした。

 やがて時刻が深夜に達したころ、澄んだ星空の中にうっすらと、幾つかの小さな黒い影が見えた。つづいてあの独特の蜂のような唸り声が近づいたかと思うと、しだいにそれは大きくなり、ついには機体が肉眼でも確認できるくらいになった。

 特攻部隊が戻って来た。静かに、おごそかに。―――しかし、出発した時とくらべ、その数は半分に減っていた。

 真っ暗な滑走路へ、つぎつぎと軍機が着陸する。その最後に、章太郎の零戦の姿もあった。エンジンがかすかに白い煙を上げていた。

(よかった……)

 僕は章太郎の無事を喜ぶと同時に、桜花とともに消えた若者たちをいたみ、その言葉を呑み込んだ。

 チュン太も同じ気持ちであったらしく、ただ寒そうに身を震わせるだけであった。僕は彼の肩を抱き寄せてやったが、やはり彼の輪郭りんかくはおぼろげであった。

 零戦から降り立った章太郎は、整備兵と軽く言葉をかわし、やがて暗がりへと消えて行った。その後ろ姿には、なんとも言えない哀愁と疲労感が漂っていた。

 戦闘の翌日からも、訓練は休みなく続けられた。

 章太郎の様子はそれまでと比べ、一見、さほど変わりはないように見えたが、心なしかその表情は暗いように思われた。と言うより、心になにか引っかかりがあって、目の前の訓練に集中できていないようである。彼はうっかり何度も同じ課題を生徒たちに命じ、また生徒たちは不審がりながらも、だまってそれに従った。

「上松中尉!」

 そこへ、先に訓練を終えて引き上げて来た柳田中尉が声を掛けた。

 彼は章太郎に歩み寄って何か小声でささやき、杯で酒を飲む仕草をした。

 章太郎は小さくうなずいた。

 その夜、柳田中尉が章太郎を伴って訪れたのは、場末ばすえにあるうら寂しい飲み屋であった。年かさの女性が一人で切り盛りしていた。

「……おい、どうしたんだ、上松。貴様きさまらしくないぞ。心ここにあらず、という感じだ……」

 柳田中尉は章太郎に酒をつぎながら話を切り出した。「訓練とは言え、ぼうっとしていると、命を落とすぞ」

「はい……」

 章太郎の返事は歯切れが悪く、一言いってまた黙り込んでしまう。

「きのうの戦闘が身にこたえたか。あんなのはしょっちゅうだ。いちいち気にするな」

 柳田中尉の読みは図星をついたようで、寡黙な章太郎はそれを皮切りに、とたんに声を荒くした。

「あんな作戦が効果があるとは、とても思えないんです。ふつうに爆撃して戻って来た方がよっぽどいい。そのために毎日、命中率を高める訓練をしてるんじゃないか。あんな一回切りの、捨て鉢のやり方なんて……」

 章太郎は杯を叩きつけんばかりの勢いで言った。

「なるほど……」

 柳田中尉の方は、実戦においても軍隊生活においても、章太郎よりずっと練達れんたつらしく、はじめての出撃で動揺がかくせない後輩をさとすように、微笑しながら言った。同じ中尉とは言え、彼の方が年上らしいのは、章太郎の昇進が特別に早かったからであろうか。

「上松。お前の気持ちはよく分かる。しかし軍隊という所はな、一人ひとりが勝手な判断で動くのが一番よくないんだ。すでに決まった作戦には黙って従う。その方が、長い目で見てうまく行く場合が多い。作戦に不満があるのなら、自分が昇進してから正すんだ。俺はそう思ってるよ。長いものには巻かれろ、と言えばお前は反発するだろうが、上松、お前は少し一本気すぎる。もっと要領よく、割り切ってやるんだよ。その方が自分のためだ……」

 そう言って手酌で酒をついだ。

 章太郎はなおも納得がいかないようで、腹立ちまぎれに杯の酒を二、三杯、一気に飲み干した。そして空の徳利とっくりを、だまって先輩の前に突き出した。もうすでにかなり酔っているようである。

「そもそも特攻作戦というものを、柳田さんはどう思われますか。どんな意味があると思われますか」

 柳田中尉は、こんどはしばらく考えてから答えた。

 僕は、黄ばんだりガラスに身を貼り付けるようにして、聞き耳を立てた。チュン太は疲れたのだろうか、横でウトウトと眠るように目を閉じている。

「……お前が言いたいのはこういうことだろう。つまり、特攻が初めて行われた頃は、意表をつく奇襲作戦としてそれなりの効果を上げた。一機をもって一艦をほふる―――その言葉通り、戦果は華々しかった。パイロットも優秀で命中率も高かった。ところが敵側の研究が進み、防衛策が取られるようになると、先回りして迎撃される機が多くなった。命中率もぐんと下がった。さらに特攻が公式の作戦として採用される頃には、パイロットも充分訓練されていない未熟な者ばかりになった。飛行機も使い古しの故障機しか残っていない。敵艦まで辿り着くのがやっとで、たいがいは撃ち落とされる。そんな作戦をいつまでもつづける意味があるのか、と。若い命を浪費しているだけではないかと……」

「柳田さんはそこまで分かってて、なぜ黙って命令に従うんですか。若者たちは鉄砲玉と同じですか?われわれは将棋の駒ではないはずだ!」

「将棋の駒なんだよ!」

 柳田中尉は即答した。「少なくとも軍人はな……」

「ならば負けが確実となった時点で、いさぎよく投了とうりょうすべきではありませんか!いつまでも見苦しくあがいてないで」

 章太郎も負けずに反論した。「駒をぜんぶ失うまで負けを認めないのは、子供の将棋だ!」

 先輩への非礼をもかえりみず、吐き捨てるように言う章太郎をなだめるため、柳田中尉は一呼吸おいて、年長者らしくまた笑みを浮かべた。

「上松。この店は白菜の漬物がうまいんだ。食ってみろ」

 後輩の前へ皿を差し出す。女将おかみは少し耳が遠いらしく、だまって脂ののった秋刀魚さんまを焼いている。狭い店内は煙で白くなった。

「俺はこんな風に考えてるよ……」

 柳田中尉はつづけた。

「―――海軍に入隊したとき、すでにこの命はないものと覚悟した。自分の短い一生を何に捧げるか。わずかながら自分に出来ることは何か。それは、日本という大きな船が、少しでも正しい方向へ進むよう、舳先へさきを向けること―――それで充分だと思った。特攻作戦なんて、はっきり言ってクソみたいなもんだ。勝つ国のやり方じゃない。大きな声じゃ言えないが、日本はじきに負けるよ。しかしそれをやることで、少しでも国民の心を鼓舞できれば、あるいはアメ公に向かって、お前たちの好きなようにはさせないぞ、という気概を示せれば、少しは効果がある、と言えるんじゃないかな。昔、そんなバカな奴らがいた、と後世の人間が笑いながらも粛然とえりを正す。それでいいんじゃないかな、って……」

 章太郎は、それでも満足できないという顔で食い下がった。

「しかし、命を守るために命を捨てるというのは、そもそも矛盾じゃないでしょうか。少なくとも少年たちの母親にとって、彼らの命こそすべてなんです。彼らの命が消えれば、世界が消えるのと同じなんです。それ以上のどんな幸福をも、彼女たちは望んでいない。それでも、そんなバカげた作戦に息子を捧げなければならないのか……」

「あいつらだって、お国に命を捧げる覚悟は出来てるさ。あどけない顔をして、健気けなげなもんじゃないか。それより上松、貴様こそ命を捨てるのに、なにかためらいでもあるんじゃないのか。もしそうだとしたら……」

「いや、自分だって日本のために、命は喜んで捨てます。明日死んでも本望です。しかし、何かほかに、もっと別のやり方があるんじゃないか、と言ってるんです。上官たちだって、決してそれが最善の方策でないことは分かってるじゃないか。じゃあ何のためだ。体裁ていさいのためか。保身のためか。美しく負けることが、カッコいいとでも思ってるのか!」

 呂律ろれつがまわらなくなって来た章太郎の前に、空になった酒壜が数本、乱雑に転がっている。焼き上がった秋刀魚を、柳田中尉は箸も付けずに眺めている。二人の話もそれ以上は平行線となり、らちが明かないと判断した柳田中尉は、立ち上がって勘定を済ませ、章太郎の肩を抱きかかえるようにして店の外へ出た。

 三月の夜は、九州といえども寒さが身にこたえた。

 僕は、眠そうなチュン太を無理にゆり起こして、二人の中尉のあとを追った。やはり、このところチュン太は、どことなく今までの彼とは様子がちがうようだ。

 盛り場を歩く途中、路地を曲がったところで、八乙女食堂の暖簾のれんが目に入った。柳田中尉は「なにかあったかいもんでも食うか」と言って、ほとんど意識のない章太郎を連れて暖簾をくぐった。「すこし酔いを覚まそう。お前のなじみの店だぞ」

 中へ入ると、すぐに例の娘が心づき、コップに水を汲んで持って来た。「上松さん……」

 柳田中尉は、テーブルにうつ伏せになる章太郎の肩を撫でながら、娘に向かって言った。

「こいつはどうしようもない頑固者でね。まったく困ったもんだ。でも、そこがヤツのいいところなんです」

「ええ、分かってます……」

 娘は心配そうな顔で答えた。

 柳田中尉は章太郎のとなりに座って、やれやれとため息をついたが、結局章太郎が目を覚ましそうにないので、二人は何も食べずに店を出ることになった。無理に起こされてフラついている章太郎は、そこがなじみの店であることが分かると、娘を見上げながら言った。

清子きよこさん、僕はあなたのためなら、死ねるかも知れない……」

 柳田中尉は思わず噴き出した。

 娘は「まあ……」と言って、頬を赤らめた。

 翌日になっても、章太郎の気分は晴れなかった。

 生徒の一人が、そんな教官の様子を察して、彼の代わりに講習の指揮を申し出た。

「すまんな、工藤……」

 章太郎もすなおに生徒の好意を受け入れた。このころには練習生の何人かは、すでにかなりの技量を身につけていた。

「大丈夫かな、章太郎さん……」

 僕は、一昨日の戦闘以来、それまでの彼とは人が変わったように、なにか迷いが生じたような、自信をなくしたような、顔色の悪い章太郎を案じて、チュン太に言ってみた。

 ところがチュン太の方も―――このところ気になっていたが―――ふだんの元気な彼とは打って変わって、明らかに精彩を欠いていた。

「チュン太?」

 僕が彼の顔を下から覗き込もうとすると、彼は無理に笑顔を作り、

「大丈夫だよ……」

と、ちょっとその辺の空を羽ばたいて見せた。しかし、その羽の色はうすく、むこう側が透けて見えた。

 僕はふと、チュン太が死ぬのではないか、と思った。

 おかしな言い方だが、彼はすでに死者の国の住人である。そして、その死者の特権をもって、僕をさまざまな時空の旅へ案内してくれている。

 その彼が、再び「死ぬ」というのは、どういうことであろう。彼の存在を、おぼろげなものにしているのは、いったい何であろうか。

 僕の頭は混乱するばかりであった。

 章太郎は桜花特攻に参加したとき、彼らの壮絶な最期を目にしたのがよほどショックであったのか、その後、立ち直るのにしばらく時間がかかった。特攻作戦が日本の常套手段になって久しいことは、彼とて充分に承知しているはずであるが、思うにその事実と、彼が日々やりがいをもっていそしんできた飛行訓練の意味とが、意図しないつながりをもってしまった、ということであろうか。つまり、彼が一生懸命にやればやるほど、育っていく練習生たちは、つぎつぎと特攻要員にされてしまうわけである。彼の苦悩は、その矛盾との戦いなのかもしれなかった。

 激流の中で翻弄される小さな舟たちは、まるで渦に呑み込まれる木の葉のように、ただあらがいがたい時代の流れに身を任せるしかないのであろうか―――

 そんなりどころを失った彼の心に、さらに大きなゆさぶりをかける情報が飛び込んで来た。

 B29が編隊を組んで東京上空に飛来し、無差別に市街地を爆撃した、というのである。

 被害は一夜にして死者十万人、焼け野原になった街は帝都のおもかげもなく、泣き叫ぶ市民で地獄の様相を呈している、と伝えられた。

 章太郎の憂いの眉はしだいに吊り上がって、こんどは憤怒ふんぬの形相に変わって行った。

「なんで無抵抗な市民にまで危害を加えるんじゃ!」

 彼は人目もはばからず、新聞に向かってそう叫んだ。

 思えばサイパンが陥落して以来、本土がいつ攻撃されてもおかしくない状況であったが、その悪夢が現実となったのだ。

 しかも、チュン太のつぶやきによると、章太郎の怒りは、アメリカの攻撃が、戦闘員や軍事施設ではなく、無辜むこの市民に向けられたことが大きな理由であった。

「……戦争にもルールがあって、何でも攻撃していい訳じゃないんだ。赤十字の旗や、戦闘員でない無抵抗な市民は狙ってはいけない、と国際法で決められている。兵士どうしが戦って決着をつけるのが基本原則だ……」

 僕は、戦争と言えばなんでもありの殺し合い、そこにルールなんかないと思っていたが、実は一応のルールが存在することをその時はじめて知った。しかしそれならば、この無差別の爆撃をはじめ、このあと広島や長崎に落とされる原爆はなんであろうか。それはルール違反ではないのか……。

 日本が「日本」というモンスターにあやつられていたように、アメリカも「アメリカ」という巨大なモンスターに、知らず知らず操られていた、と考えるより他ないのかもしれない。

 さらに、東京につづいて大阪も爆撃されたという知らせを受けると、章太郎はしだいに何かを決意した顔になって行った。そして思うところあって、上官に休暇を願い出、久しぶりに呉へ帰省することになった。「両親に挨拶してきます」

 彼のきっぱりとした物言いに、ただならぬ気配を感じた上官は、「よし、行ってこい」とすぐさま送り出した。

 このときの帰省が、あの、まるで遺書のようなメモを残して来た短い旅である。

 数日後、また戻って来た彼は何かがふっ切れた顔になっていた。

 章太郎は二十歳はたちになっていた。

 二十歳の人間にしては、その顔はあまりにも老成していた。

 しかし、そんな彼をあざ笑うかのように、戻った翌日、米軍の戦闘機が基地の上へ飛んで来て、所かまわず機銃掃射をくわえた。

 ダダダダ……

 身を伏せていた章太郎は、吹き飛ばされた倉庫の屋根を見上げながら、狼のように歯をむき出しにした。

「おのれ!……」

 この襲撃によって覚醒したかのように、次の日からの彼の訓練はいよいよ厳しさを増した。

 生徒たちも事態をよく心得ていて、淡々たんたんと彼に従った。

 食うか食われるか―――ここで指をくわえていたら自分たちがやられる、いや、日本列島にすでに火がついてしまった今、愛する家族や国民はおろか、がなくなってしまうかもしれない―――誇張でなく、そんな危機感が全員を包んだ。

 宇佐空からも連日、多くの特攻機が飛び立って行った。

 その効果のあるなしに関わらず、とにかく、居ても立ってもいられない苛立ちと焦り―――つぶされそうな緊迫感が、全部隊から伝わって来た。

 章太郎も、いつ自分が飛び立ってもおかしくないような、すさまじい目をしていた。

 ところが、幸か不幸か、指導者としての彼の任務は、あくまで戦闘員のであり、それは言わば「後方勤務」なのであった。

 彼は出撃していく隊員たちの顔を、なかば祈るように、なかば歯がゆい思いで見つめていた。

 正直に言うと、僕はそのことを―――彼が「後方勤務」であることを、むしろ喜ぶ気持ちが強かった。あわよくば、このまま戦争が終わるまで、どこかで生き延びて欲しい。あなたには「ショパンの国へ行く」という夢があるではないか。そしていつか、大きくなった清乃のもとへ「ただいま」と言って笑顔で戻って欲しい―――僕は、強くそう願った。

 しかし無慈悲にも、章太郎にとって身を切られるよりもつらい命令が、ある日上官から下された。

「上松中尉。お前の隊から、梅宮と工藤を出してほしい。隊の中で最も技量が高く、戦果が期待できるのはあの二人だ」

 章太郎は絶句した。そして、

「……承知しました」 

と小さく答えた。 

 ついに、彼の教え子からも、特攻隊員が選出されたのであった。

 しかも、当初の彼の目論見もくろみ―――腕を磨けば使い捨てにされないという―――に反して、最も上達の早かった二人が抜擢された形であった。

 章太郎は足取り重く生徒たちのもとへ歩み寄り、呼吸を整えてから、意を決したように口を開いた。

「梅宮一飛曹いっぴそう

「はい!」

「工藤一飛曹」

「はい!」

「お前たちに出撃命令がくだった。次回の神風しんぷう特別攻撃隊だ……」

 章太郎は宙を睨み、一言ひとことしぼり出すように言った。その唇は震えていた。

 名前を呼ばれた二人は、一瞬お互いの顔を見合わせ、しばらく放心していたが、しだいに口元が引き締まり、やがてかすかな笑みさえ浮かべた。

 いつか子犬を追いかけて行った少年と、章太郎の代わりに指導役をつとめた少年であった。

「こんな風にとつぜん言い渡されるんだね……」

 僕は、その死刑宣告にも似た命令が、いかにも唐突に下される様子を、にわかには信じがたい思いで見つめた。

 チュン太も暗い表情で囁いた。

「少年たちははじめから死を覚悟してここへ来ている。どうやってお国に奉公できるか、なるべくなら、よい手がらを立てて命を捧げたいと、いつも考えてるんだ。だから前線へ行く心構えはとっくに出来てる。だけど……」

 と、最後の方は聞こえるか聞こえないかの声で、

「男の子にとって、手がらってそんなに大事なのかな。生きてるだけでいいんじゃないかな……」

 それにしても、そんな非情な宣告を、他ならぬ自分が下さなけばならない章太郎の心中は、いかばかりであっただろうか。そうでなくても、人一倍感受性の強い彼のことである。誰よりも彼自身がいちばん、深く傷付いているにちがいない。

 しかし、そんな章太郎のことを生徒たちもよく分かっていて、彼らは教官を悲しませないよう、なるべく明るい声で言った。

「上松教官!これでやっとお国に報いることが出来ます。男子の本懐ほんかいです。自分は教官の隊に入れてほんとに幸せでした。死ぬ前に、上松教官のような方が、この世にはいるんだということが分かって、愉快な気分でくことが出来ます。今まで、ありがとうございました!」

「教官、靖國でまたお逢いしましょう、と言いたいところですが、教官はぜひとも長生きされて、われら後進に夢と希望を与えて下さい!」

 ついこないだまで、幼い表情だった二人が、このときは急に大人びて見えた。

 章太郎は彼らの顔をじっと見つめた。しばらくして、またこう訊いた。

「梅宮、お前はなぜ航空隊を志したんだ?」

「空を飛んでみたかったんです。鳥でもないのに空を飛べるなんて、素晴しいじゃないですか!」

 工藤がつづけた。

「……オレ達は親不孝なだけが取りで、ほかに何も出来ないから、せめて好きなことでお国に報いたいと、いつも思っていました。やっと死に場所が見つかりました。上松教官、任せて下さい!」

 章太郎の方が逆に、生徒たちに励まされるような格好になっていた。

「お前たちの思いを、……無駄にはしないぞ」

 彼はうつ向いたまま、そう呟くのがやっとであった。

 出撃の準備は着々と進められた。敵艦隊はいよいよ沖縄に近づきつつある。彼らの任務はその侵攻をことであった。日程が決まると、緊張感はさらに高まった。少年たちは気丈さとはうらはらに、眠れぬ夜を過ごした。昼間は明るく振るまっていても、夜になると、やはり色んな思いが込み上げて来て、平静ではいられないらしかった。林の中から、泣きながら竹刀を振り回す声が聞こえた。

 しかし、翌日にはまた、元気な顔を仲間に見せた。いつも通り、何ごともなかったかのように……

 そして出撃当日―――

 彼らの乗る爆撃機が格納庫からつぎつぎと運び出される。爆撃機とは言っても、今回は爆弾投下はせず、自らが爆弾となって粉々になることが運命づけられていた。

 点検を待つあいだ、特攻隊員たちは恩師や仲間とさいごの挨拶をかわした。例によって彼らは、なるべく朗らかな笑顔を見せようと努めた。見送りには軍人だけでなく、一般の人々も大勢来ていた。しばしの自由時間が与えられた。

 章太郎は腕組みをしたまま、苦渋の表情で彼らを見つめている。

 そこへ、林の脇の方から、白いブラウスにモンペ姿の、見たことのある若い女性が駆けて来た。いつもとちがう場所で見るせいか、一瞬それが誰だか分からなかったが、そのつややかな丸顔は、八乙女食堂のあの娘であった。

「間にあった……」

 彼女は戦闘服の少年たちを見つけると、息を切らしながら近くへ駆け寄った。手には古新聞に包んだ丸いものと、折り取った桜の枝がある。

 章太郎ももちろん、彼女の存在には気がついたようであったが、とくに声を掛けるでもなく、その様子を見守っている。少年たちは思いがけない人の来訪に目を丸くし、しだいに本心からの笑顔になった。

「……梅宮君、工藤君。飛行機の中でこれを食べて……」

 新聞紙の中から取り出したのは、竹の皮に包んだ大きなおにぎりであった。

 少年たちは喜びを隠せなかった。

「ありがとうございます!」

「おいしくいただきます!」

 それぞれの手に一つずつ、大きな包みが渡された。二人はそれを高くかかげたり、日に透かしたりして眺めている。ふと、梅宮少年が思いついたように言った。

清子きよこさん、これ、いま食べてもいいですか?」

 工藤もそれに賛成した。

「自分も、いま食べたいです!」

 娘は少し戸惑った顔をしながら、

「ええ、……もちろんよ。どうぞ召し上がれ」

 二人の少年はこぞって芝生の上にあぐらをかき、竹の包みを開いた。

 中から、輝くような白いおにぎりが顔を出した。ご飯は白米の炊き立てであるらしく、ふんわりと崩れそうに白い湯気を立てている。

「いただきます!」

 二人は同時にそう言って、我先きにと、おにぎりにかぶりついた。

 その勢いは見事で、あれよあれよと言う間におにぎりは小さくなって行った。彼らが昨夜から何も食べていないことを僕は知っていた。と言うより、食べものがのどを通らないらしいのであった。そこへ差し入れられた憧れの人からの温かいおにぎりは、少年たちの食欲をたちまち呼び覚ましたようである。きっと、故郷にいる母親を思い出しているのかも知れなかった。

 あまりに豪快に食べるので、ついつい、ご飯の一かけらが芝生の上にこぼれ落ちた。娘はそれに目を止め、僕とチュン太の前へそれを放って投げた。彼女は僕らの存在に気づいていたようだ。

 僕はおそるおそる近づいて行って、白いご飯をついばんだ。

 ただの白い米つぶが、こんなに美味しく感じられたことはなかった。思わず羽をばたつかせてはしゃいだ。少年たちもそれを見て笑っている。

 チュン太は相変わらず元気がないので、僕はもう一かけら口にくわえ、彼のところへ運んでやった。

「ありがとう……ぼんちゃん」

 彼はしみじみと言った。

 少年たちが食べ終わると、娘は少しためらいながら、持っていた桜の枝を彼らの前に差し出した。それはまだ三分咲きくらいの、つぼみの多く残る枝であった。

「……空の上はあまりに殺風景でしょうから、せめてこれを……」

 そう言いながら娘は、途中で言葉をつまらせ、いつしか涙を流していた。

 少年たちは彼女の心中を察し、すこし顔を曇らせたが、すぐに大げさなくらい元気な声で、「うわぁ、さすがは清子さん。オレたちが欲しかったのは、こういうやさしさです!」

と喜んでみせた。

 さらに梅宮少年が、肘に手を当てて何かを考えていたかと思うと、「一句できた……」と言ってみんなを注目させた。彼は勿体もったいをつけながら、何やら自作の歌を披露するようであった。

「みんな聞いてくれ。えっへん。ご静粛に―――

  若ざくら 雀とともに 頬ばれる

         白きご飯の 温かきかな

 ……どうじゃ?」

 聞いていた工藤少年が、わざとらしく顔をしかめた。

「お前、そんなのが辞世の句で、いはないか?」

 みんながどっと笑った。

 そばで見ていた章太郎の頬にも、久しぶりに笑みが浮かんだ。

 少年たちの屈託のなさは、とてもあと数時間ののち、短い一生を終える者のそれとは思えなかった。

 いよいよ出発の時が来た。エンジンはすでにとどろいている。

 短く作戦を確認したあと、数名の特攻兵たちは台の上に並べられた杯を口にし、それを勢いよく地面に叩きつけた。出陣の儀式のようである。

 今回は出番のない章太郎は、教え子の二人に向かって、まるで上官にするような厳粛な態度で挙手の礼をした。

 少年たちもとたんに顔が引き締まり、返礼の手をかざした。

 それぞれの機に向かって、兵士たちが駆け足で乗り込む。やがて飛行機はゆっくりと動き出した。風防はまだ開けたままである。

 見送りの人たちは、手に持った日の丸や帽子を、ちぎれんばかりに勢いよく振っている。

 清子さんも、少年たちの気持ちに報いるため、泣きらした顔につとめて笑みを浮かべている。

 しかし、飛行機がつぎつぎに飛び立ち、空の彼方へ見えなくなると、彼女は力尽きたように、その場にへたり込んでしまった。

 章太郎がしずかに歩み寄り、彼女の背中に手を添えて、立ち上がるのに力を貸した。そして、門のところまで送って行った。

 僕とチュン太はただ茫然と、そんな場面を見ているしかなかった。

 気が付くとチュン太は、やはり先日よりもさらに色が薄くなり、向こう側の林がハッキリと透けて見えた。

 それから章太郎は思いついたように、知り合いの若い技師をつかまえて、何かを頼んでいる。

 若者はこっくりと頷き、章太郎を林の奥に立つ、ひっそりとした小屋へと連れて行った。

 僕もチュン太の手を引き、その後を追った。

 二人が入って行った小屋の扉には「通信指令室」と書かれていた。

 窓から中を覗いてみると、そこには数々の計器類がぎっしりと並んでいて、ヘッドホンをした通信員たちが数名、しきりに何かと連絡を取っていた。

「……飛び立った飛行機が、モールス信号で状況を知らせて来るんだよ」

 チュン太が弱々しく言った。

 一人の通信員が、後ろに立っている上松教官を認め、自分のヘッドホンを貸してくれた。スピーカーのボリュームを上げると、トン、ツー、トン、ツーという、あの無機質な音が聞こえて来た。

「敵艦隊発見しました!」

 やがて誰かが叫んだ。

「空母一、巡洋艦三、駆逐艦六、宮古島付近を北上中……」

 室内に緊張が走った。

 また誰かが叫んだ。

「ワタナベ機からの連絡が途絶えました!……」

 トン、ツー、トン、ツーという音だけがたよりで、僕はいったいそこで何が起きているのか予想がつかない。途中で消息を絶ったのであろうか。

「ハセガワ機、突入します!」

 トン、ツー、トン、ツーのあとに、ツーという長音符がしばらく続いた。そしてそれが、ある瞬間、プツリと途切れた。

 その静寂の向こうで何が起きているのか―――僕はその光景を思い浮かべ、思わず目をつぶった。

 通信員はあくまで冷静に、その時刻を記録した。

「つづいてスギヤマ機、突入します!」

 ―――ツー―――プツッ。

「カワムラ機、連絡が途絶えました!」

 つぎつぎと結果が分かって行く中で、僕は、あの二人の少年の名前がいつ呼ばれるか、出来ればこのまま、いつまでも呼ばれないことを祈った。

 そして、いずれにしても―――突入が成功するにしても、失敗するにしても―――生還の可能性は極めて低いことを思い、またその瞬間に立ち会いたくない気持ちもあって、僕はチュン太を促して、窓辺を離れることにした。すでにその緊張感に耐えられなくなっていた。

 夕暮れの光が差し込む林の中でぼんやりとあかね色の空を見つめていると、うしろの方から章太郎の、「梅宮!工藤!」という叫び声がかすかに聞こえて来た。

 つい今しがたまで、彼らはそこにいて笑っていた。

 そして、今―――

 僕の耳には、彼らの笑い声とともに、ふと、いつか根本先生が言っていた言葉が浮かんで来た。

「……愚かだったと……思える時代にも……共感してみることが……大事……」

 僕はこう考えた。

 仮に彼らが身を投じた作戦そのものがであったとしても、それが「お国のため」と信じ、愛する家族や国民を守るために進んで命を捧げた彼らの魂を、けがらわしいものであると誰が言うことが出来よう。彼らの魂は少なくとも、心やさしく純粋であった。そして、そのやさしさと純粋さこそ、人生において最も大切なものではないだろうか。彼らの肉体は滅んでも、その魂は長く生き伸びる。そしていつまでも誰かの人生を照らしつづける……

 僕はそう信じたかった。

 やがて、燃えるように大きな太陽が、林の向こうに沈んだ。

 さらに数日が経った。

 彼らの命の犠牲など、焼け石に水であると言わんばかりの勢いで、アメリカ軍の侵攻は進んだ。

 三月の終わりには、敵艦隊は沖縄本島を取り囲み、ほしいままに砲撃をくわえた。また本土への空襲も、大都市から各地方都市へと波及した。

 軍機密により正確な情報は分からなかったが、章太郎の故郷の呉へも大きな空襲があったことが知らされた。

「清乃を守らなければ……」

 章太郎の目が叫んでいた。

 四月に入ると、沖縄戦の劣勢はいよいよ濃厚になり、ここが正念場と見たのか、司令部より「天一号作戦」なる指令が発せられた。軍の総力を挙げての一大作戦になるらしい。戦艦大和も出陣すると噂された。

「……これは、日本の威信をかけての戦いになるぞ……」

 柳田中尉が言った。

「もはやすら問題でないかもしれない……」

 僕はなにか大きな恐ろしい波が頭上に覆いかぶさって来るのを感じた。

 宇佐航空隊からも、教官を含む全員が作戦に参加することになった。

 急ぎ、部隊が編成され、準備が整えられた。

「明朝をもって全部隊は鹿児島の基地へと移動する。部隊を『八幡飛竜隊』と命名する……」

 決定事項がすみやかに申し渡された。章太郎は柳田中尉を隊長とする部隊へと編入された。

 宇佐での最後となる日、教官たちはそろって宇佐八幡宮へ参拝した。巫女みこたちの華やかな舞に送られたあと、一行は花街に出て、決起の酒盛りをするらしかった。

「お前は行かないのか?」

 柳田中尉に問われて、章太郎は首を横に振った。

「ちょっと寄るところがあります……」

 彼は参道わきの縁石ふちいしにひとり腰かけ、ポケットからメモ帳を取り出し、折から満開になった桜を写生しはじめた。

 僕とチュン太は彼の頭上に陣取って、その様子を眺めた。

 鉛筆はさらさらと動き、みるみるうちに、大鳥居をバックにした桜並木の絵が完成した。なかなかの出来ばえであった。

 さらに次のページをめくると、彼は小さな文字で何やら手紙のようなものを書くようである。

「……清子さん。あなたの、最も美しかったその時代……」

 僕は、それがラブレターであることに気がつき、さすがに覗くのが躊躇ためらわれたが、どうしても見てみたい気持ちを抑え切れなかった。チュン太の顔を伺うと、彼は魂が抜けたように虚空を見つめている。

 ―――清子さん。あなたの、最も美しかったその時代を、僕はたしかに目撃しました。僕のアフロディーテ……

 僕の妹は、清乃と言います。あなたと一字ちがいです。

 この子も、あなたと同じように、心やさしい、思いやりのある子です。

 この子だけは、なんとしてでも、守ってやらなければならない。

 清子さん。僕の沈まぬ太陽……

 僕がどこにいても、あなたの面影は、つねに胸の中にいます……―――

 章太郎は二枚のページをメモ帳から引きやぶり、用意していた封筒に入れて立ち上がった。僕は体重の軽くなったチュン太をぶって飛んだ。

 八乙女食堂は準備中であった。章太郎は勝手口へまわり、清子を呼び出した。

 まもなく出て来た清子は、エプロンで手を拭きながら、章太郎を見て驚いた顔をした。

「上松さん……」

 章太郎は笑いかけようとしたが、うまく笑えなかった。 

 そして手持ち無沙汰に、あわてて例の封筒を取り出し、ぶっきらぼうに彼女の前へ突き出した。

「あの……これ……ちょっとそこまで散歩したついでに、スケッチして来ました。あまりに桜がきれいだったんで……」

 清子は封筒と章太郎を交互に見比べた。

 ちょっとそこまで、にしては、章太郎はずいぶん、ものものしい海軍の正装をしていた。

「ありがとうございます……」

 清子は理由を訊かずに、それを両手で受け取った。

 また言葉に詰まりながら、章太郎はそそくさと本題を切り出した。

「あの、……その代わりと言っては何ですが、もし清子さんの、その、使い古しのマフラーなどがあったら、ひとつ頂けませんか。空の上はとても寒いので、風邪を引きそうなんです。どんながらでもかまいませんから……」

 彼は一気にそこまで言うと、大きく息を吐いた。その呼吸からは心臓の鼓動が伝わって来た。

 いつもと様子がおかしい章太郎をいぶかしみながらも、清子は、はい、ちょっと待ってて下さい、と言って店の奥へ消えて行った。

 そしてふたたび、困った顔をしながら戻って来て、

「こんなのでいいかしら、女物ですけど……」

と言って、自分の持ち物らしいマフラーを遠慮がちに見せた。

 それは真珠のような光沢のあるクリーム色のマフラーであった。

「もちろんです!もったいないくらいです!」

 章太郎は喜んでそれを押しいただいた。

 そして―――おそらくは、これが最後の別れになることを、またその挨拶のためにここへ来て、立ち去りがたく思っている本心を悟られないよう、つとめて気軽な風を装って言った。

「しばらくの間、ここへは寄れないかも知れません。遠くへ出向しゅっこうを命じられたので……。でも、きっと夏頃には戻ります。清子さんも、……どうかお元気で……」

 言葉のしまいの方はだんだん感情がたかぶって、まるで地面に向かって叫んでいるようであった。章太郎はそのまま、意を決したようにきびすを返した。出陣を控えていることは、ついに言い出せなかった。

「お気を付けて、……行ってらっしゃい」

 清子は心配そうに、章太郎に向かって言いながら、しばらくその背中を眺めていた。

 僕はまた章太郎のあとを追いたかったが、そのときふと、チュン太のことが気になった。

 チュン太はいよいよ消え入りそうに色が薄くなり、ほどんど輪郭だけになっている。

 僕は清子さんのうしろ姿―――ゆっくりとドアの方へ戻るその背中を見て、この人ならチュン太をまかせられる、と思った。

 そこでまず、チュン太を屋根のところへ連れて行き、彼を寝かせたあと、いきなり急降下して清子さんの鼻先をかすめるように、わざと荒々しく飛んだ。そしてまたひさしへ戻って、大きな声でチュンチュン、と鳴いた。

〝清子さん。チュン太をよろしく!〟

 あら、あんなところにスズメさん……という顔で、彼女は庇を見上げた。どうやら僕らの存在に気が付いたようだ。

 僕はチュン太に向かって言った。

「チュン太。しばらくの間、待っててね。章太郎さんの行方を見届けたら、すぐに戻るからね……」

 チュン太はぼんやりとこちらを見たような気がしたが、その目は見えているのか見えていないのかよく分からなかった。

 章太郎は夕暮れの街並みを一人で歩いていた。僕はその軍服のあとを追った。このときはもちろん、いつもと同じく、再びチュン太に会えることを信じて疑わずに……。

 次の日の朝、柳田中尉がめずらしく酔いの残るしわがれた声で章太郎に言った。

「上松、お前は直掩隊ちょくえんたいに任命された。よろしく援護をたのむぞ」

「……承知しました」

 章太郎は淡々と答えた。

 柳田中尉の口ぶりからすると、中尉本人は隊長として自ら特攻機に乗り込むようである。すでに覚悟は出来ているようだ。

 それにしても、教官を特攻要員にするというのは、もうこれ以上打つ手がない、という、軍の差し迫った状況を伺わせるものであった。

 そのとき僕の頭をよぎったのは、―――正直に言うが、―――章太郎が、という期待であった。

「十死零生」の特攻隊に比べれば、直掩隊はまだ生還の可能性がある。戦果を見とどけて無事ふたたび戻って来て欲しい……僕はそんなかすかな希望を抱いた。

 しかも、僕のおぼろげな記憶では、太平洋戦争が終わるのは、たしか昭和二十年の八月である。いまは四月……。ということは、あと数ヶ月をなんとかしのげば、やがて終戦となる。

 もっとも、彼ら軍人はそんなことはつゆ知らず、先の見えない戦いを必死に戦っている最中なのであるが……。

 出陣の期日が迫り、基地内の空気は張り詰めた。

 すべての攻撃機、爆撃機、戦闘機が勢ぞろいし、出撃の体勢がいよいよ整った。トラブルに備えて、整備兵も多数同乗した。

 鹿児島の基地へ向けて次々と飛び立って行くその姿は、まさに怒ったスズメバチの集団であった。もう誰にも止められない勢いがそこにあった。

 最後に出発した章太郎のあとを追って、僕は必死に羽をはばたかせた。

 いつかその上空を飛んだことのある阿蘇山が眼下に見えた。美しいカルデラが丸く連なり、集落を取り囲んでいる。編隊はすでに見えなくなったが、僕はいざとなれば、煙を上げる桜島を目指せばよいことを知っていた。思えば日本列島は火山の多い島である。

 ついに桜島が見えて来た。と、まもなく、よく目を凝らすと、滑走路のある広い敷地の脇の方で、クリーム色のマフラーをした章太郎が零戦から降り立つのを発見した。僕はそのまま急降下した。

 降り立った基地には、日本各地から集まって来たらしい航空隊の飛行機が、滑走路を取り囲むようにずらりと居並んでいる。

 それはたしかに壮観ではあるが、僕にとっては恐ろしい光景であった。

 すでに死ぬ覚悟をした特攻隊員たちが、その肩や背中から、なにか異様な殺気を立ち昇らせていた。

 彼らを集めて、司令官が訓示を垂れている。「米兵のブタ野郎……」などという言葉も聞こえて来た。

 僕は、来てはいけない場所に来たような気がした。

 まるでリングに上がったボクサーが、「勝利」の二文字をその燃える瞳に宿すようであった。そこには、ふだん僕が想像するような「相手への思いやり」などは微塵もなかった。あるのは、すさまじい敵愾てきがい心だけであった。「共存」などという甘い考えは、すでに居場所を失っていた。

 るか殺られるかの非情な世界―――それが戦争であった。

 おそらく、アメリカ人が「ブタ野郎」ならば、彼らは日本人のことを「黄色い猿」ぐらいにしか考えていないであろう。そう思わなければ、無差別に人を殺すことなど出来ないのかもしれない。戦争に「正気」を期待する方が間違っていた。

 しかしその意気込みの割には、集まった日本軍の飛行機は、どれを取っても決してピカピカの新型ではなく、どちらかと言えば使い古されたオンボロ機が多かった。機体がへこんでいたり、風防が閉まらなかったり、中にはエンジンが奇妙な音を発しているものもあった。いつか霞ケ浦で見たような、複葉の練習機「赤とんぼ」まで駆り出されていた。

 章太郎の隊の飛行機も、「八幡飛竜隊」という勇ましい名前とはうらはらに、やはり似たり寄ったりのポンコツぞろいであった。機体に描かれた日の丸だけが、残された最後の気概を示していた。

 広げた地図を中心に、宇佐空の隊員たちは円陣を組んで、最後の打ち合わせをしている。出撃は明朝みょうちょう日の出前である。打ち合わせが終わり、その日は解散となった。

 地平線に沈む夕日の中、章太郎と上官が二人、影絵のように、なにやら熱心に話をしている。腰に手を当てる上官に向かって、章太郎が深々と頭を下げるのが見えた。

 南九州の夜は星が美しかった。僕は草むらに身をうずめた。

 つらつら思うに、宇宙の永遠に比べれば、この戦争もまた、ごく一瞬の出来事なのであろう。

 しかしその一瞬の、なんと長くつらい時間であることか。

 特攻隊員たちは、人生最後の夜を、どんな思いで過ごしたであろうか。

 僕はまんじりともせず、星空を眺めていた。

 運命の朝が来た。

 まだ真っ暗な中を、戦闘員たちが飛行服に身を固め、林の中からぞくぞくと姿を現す。

 白い服の整備兵たちが、敬礼をしながら彼らを出迎える。飛行機は夜のうちに、整備が完了しているようだ。

 つづいて柳田中尉と章太郎の姿も見えた。二人は何やら短く会話したあと、お互い向き合って敬礼を交わした。

 空がだんだん白みはじめると、滑走路に並べられた飛行機がうっすらと浮かび上がった。

 出撃前のスズメバチの集団が時を待っていた。

 僕は章太郎の乗る零戦を見つけ、そっと近くへ寄ってみた。ペンキがきれいに塗り直されているのは、整備兵の心遣いであろう。

 しかしそのあと、ふと機体の下に、何か先のとがった、大きな爆弾のようなものが装着されているのを発見した。

 ん?どういうことだろう?

 僕は首をかしげた。

 たしか章太郎の任務は直掩ちょくえん隊―――特攻機の「護衛」であり、俊敏性が持ち味の零戦に「爆弾」は不要なはずである。

 なぜ?

 僕は頭がまっ白になり、そして、いやな予感がした。

 章太郎が整備兵に歩み寄り、うやうやしく敬礼をしている。

 整備兵は眼鏡を外して、涙をぬぐった。

 まさか……

 僕は混乱した頭を落ち着かせようと、何度も零戦と章太郎を見比べた。それはどう見ても、の姿であった。

 背筋に寒さが走った。

 いったい昨夜のうちに何があったのだろうか。

 はじめは直掩隊を命ぜられたのが、途中から指示が変わったのか。それとも、自ら願い出て……

 真相は分からなかった。

 しかし、非情にも出撃の時刻がせまり、特攻兵のために用意された杯に章太郎が口をつけた時、その予感は確信に変わった。その事実を、僕は認めざるを得なかった。

 章太郎さんが特攻へ?今日で命が終わる?……

 僕の動揺にも関わらず、章太郎本人は毅然としていた。

 恐らくそれは、特攻へ行く者の、ゆるぎない表情であった。

 僕は必死に考えてみた。

 章太郎さんの胸中には何があるのだろう。

 部下を先に死なせ、のうのうと生きている自分―――そしてショパンの国へ行きたいなどと言っている自分―――そんな自分が許せなかったのか。

 あるいは、空襲が日本各地へ及び、父や母や清乃までが命の危険にさらされている、その現状に、なんとしてでも一矢いっし報いたかったのか。

 しかしそれならば、かねてから反対している特攻攻撃より、通常攻撃の方がまだ効果が期待できる。その通常攻撃にしても、強大な敵の前には無力であると判断したのか。

 思うに、彼が息の根を止めたかったのは、米兵でもなく、敵艦隊でもなく、はたまたアメリカという国家でもなく、戦争という巨大なだったのではないか。

 もし、彼がもっとずる賢く、世故せこけた、優柔不断な人間であってくれさえしたら、きっとそういう道は選ばなかったかもしれない。そして二十一世紀の今日まで、命長らえていたかもしれない。しかし結果的に、彼が従容しょうようとしてその任務につくことを決意したのは紛れもない事実なのであった。

 章太郎は杯を勢いよく地面に叩きつけた。

 いよいよ出陣の時が来た。

 すこし痩せたように見えるその顔は、目ばかりが異様に輝いていた。

 僕はその章太郎の目を、どこかで見たことがあるような気がした。

 そうだ―――あのときのチュン太の目だ。

 焼けた防空壕から清乃を救おうと、火の中へ飛び込んで行ったチュン太の目。―――ボクはこの人に助けられたんだ―――そう言って死に物狂いだったあのときのチュン太の目に、それはそっくりであった。

 そしてさらに、零戦へ向かって小走りに駆けて行く章太郎の背中からも、こんな声が聞こえて来た。

 ―――清乃を守らなければ……

 僕はその瞬間、ふと何かにつき動かされるのを感じた。

 と同時に、我知らず、章太郎さんを追って飛んでいた。

 ―――おばあちゃんを守らなければ……

 僕は章太郎を追いかけ、彼に追いつき、いつのまにか人間の姿となって、彼に重なった。

 僕は章太郎さんにいた。

 気づけば、僕の体は戦闘服に包まれていた。

 そしてそのまま、零戦の翼に足を掛け、操縦席へ乗り込むのに何の迷いもなかった。

 あのスズメバチのような爆音の中に、いまは僕自身がいた。

 操縦席は初めて見る計器類やレバーで埋まっていたが、僕は不思議なことに、どこをどう動かせばよいのか知っていた。それはまるで、自分の手足を無意識に動かすのと同じであった。

 大勢の人が見送る中、僕は敬礼をして、風防を閉め、徐々にエンジンの回転数を上げた。機体はゆっくりと動きはじめた。

 そして滑走路の端まで来ると、いきなりエンジンを全開にした。背中に大きな重圧がかかり、零戦は猛スピードで滑走路を疾駆しっくした。

 風景が左右に分かれ、スピードは僕の想像の三倍以上に達した。すべての物が流線形に見えたとき、機体はフワリと宙に浮いた。

 見る見るうちに格納庫の屋根や見送りの人々が小さくなる。僕はゴーグルを前にしっかりと装着した。

 やがて朝日が水平線から昇り、一瞬まぶしさが目をた。眼下にはオレンジ色に照らされた桜島が見える。

 いつのまにか、編隊を組んだ味方の飛行機が、左右の空を飛んでいた。柳田中尉の顔もそこにあった。

 僕は機上の人となった。空を飛ぶのには慣れていたが、スピードと高度が全くちがうので、まるで巨大な日本地図の上を飛んでいるような錯覚に陥った。半島に挟まれた鹿児島湾が鈍く光っている。

 上空は真冬のように寒かった。このとき、首に巻いたクリーム色のマフラーが身に染みて有難かった。

 しばらく行くと、尖った半島の先に、富士のような美しい形をした、緑色の山が見えた。これが九州の最南端、本土の見納めかもしれない。

 そしてそこを過ぎると、辺りはすべて海となった。

 見渡すかぎり、なにもない風景は、急に僕を不安にさせた。

 僕はなぜここにいるのだろう。

 いったい何のために?

 衝動に駆られ、自らすすんで飛び立ったとは言え、あと数時間後に、自分の命がこの世からなくなるという思いは、やはり僕を戦慄させた。僕は自分に言い聞かせようとした。人はいずれ死ぬ。遅かれ早かれ。―――しかし「純粋」な魂は、その人の死後も、誰かの人生を照らしつづける。あたかもショパンの魂が章太郎さんの人生を照らすように。あるいは、その章太郎さんの魂が清乃の人生をいつまでも照らしているように。

 思えば、チュン太との出会いも偶然であった。しかしその偶然は、ひょっとすると彼の親鳥が、外敵からヒナを守るために犠牲となって作り出してくれたものかもしれなかった。もし零戦が敵を引きつけている間に、運よく誰かの命が助かるのであれば、そこからまた別の人生がつづく。きっとそうやって、命は受け継がれて行くのだろう。もう後戻りできない以上、そう信じるしかなかった。

 そしてその考えは、僕に不思議な「やすらぎ」を与えた。このマフラーのあたたかさがあれば、ほかに何もいらない。そんな気分になれた。

 何もない大海原を、ひたすら零戦は飛んだ。そのとき、ふと眼下に、巨大な一隻の軍艦の航行するのが見えた。その見覚えのある威容は、まぎれもない戦艦大和であった。

 同じく沖縄へ向かうのであろう。

 あれほど巨大に見えたその姿も、空から見ると、やはり哀れなくらい小さかった。悲愴感さえ漂わせながら、総大将みずから特攻へ向かう姿を、僕は手を合わせるような気持ちで見送った。

 ところどころ小さな島が連なって浮かんでいる。南下するにつれ、海は透明度を増し、まるで海底まで透けて見えるような美しい色に変わって行った。折から高く昇った太陽が、飛行機の影を海面に落とした。

 しかし、そんな長閑のどかな気分でいられたのも、屋久島を過ぎる辺りまでであった。そこから先はしだいに雲行きが怪しくなり、緊張を余儀なくされた。いよいよ敵機の姿がチラつき始めたのである。

 おそらくレーダーで我々の襲来を察知していて、その辺りで待ち伏せしていたのであろう。敵はみるみるサッと横に広がり、我々を取り囲んだ。

 そしてグラマンの放った先制の機銃をきっかけに、いきなり銃撃戦がはじまった。いくつもの邪悪な光が中空を乱れ飛んだ。

 僕はしばらく呆然としていたが、敵の撃った弾が風防のギリギリをかすめて激しく光ったとき、一気に目が覚めたような気がした。空中戦など、もちろん初めてである。しかし、やるべきことはおおよそ分かっていた。なるべく敵の視界に入らないよう、巧みに身をかわし、こちらは相手のうしろを取って機銃で狙う。ためらっているヒマはない。ここは戦場である。しかも僕が乗っているのは、名だたる戦闘機の名機なのだ。

 文字通り、るか殺られるかの状況の中で、僕は無我夢中で闘った。試みに操縦桿のボタンを押すと、連続して機銃が発射された。

 ふと彼方に、敵か味方か、被弾した飛行機が火を吹きながら、くるくると落下して行くのが見えた。胴体に描かれた日の丸から、それが友軍機であるのが分かった。

 誰かがやられた、と僕は思ったが、落胆しているヒマはない。

 すると今度は、撃った相手の銀色の胴体に、味方の機銃がダダダッと撃ち込まれた。グラマンはバランスを崩し、黒煙を上げながら海面へと落下した。

 撃ったのは柳田中尉であった。風防の向こうで、片手を上げて合図する顔がはっきりと見えた。強い味方がいることを頼もしく思った。

 しかし、それも束の間、とつぜん彼の表情がこわばり、なにかしきりに上、上と指で教えている。僕は風防を透かして上を見た。上空約50メートルの所に、太陽を背にして、銀色の機体が僕のあとを追うように飛んでいる。まさしく今僕が狙われていた。

 僕はとっさにレバーを前に倒し、海面へ向かって急降下した。なるべく相手から見える角度を小さくするためである。案の定、それにつられて相手も急降下して来る。そして次の瞬間、僕は力まかせにレバーを手前に引いた。零戦はするどいカーブを描き、しなやかに急上昇した。そしてそのままレバーを握りつづけ、僕は宙返りを打った。天と地が入れ替わる。

 そしてふたたび海面が見えたとき、僕は敵機のうしろに付けていた。星のマークの翼が零戦の射程に入った。僕は思わず機銃のボタンを押した。

 ダダダダ……

 放たれた弾は敵機の尾翼から風防にかけて貫通した。またたく間に、銀色の機体は燃え上がり、風ぐるまのように回転した。風防の内側は真っ赤な血に染まり、ぐったりとした米兵の顔が見えた。操縦不能となった機体は、紙くずのように、水しぶきを上げて海面に激突した。僕はそれを見とどけ、機体を立て直した。

 僕が生まれて初めて、人を殺した瞬間であった。

 人はそれを「勝利」と呼ぶ。

 しかし―――

 たとえ戦争とはいえ、僕はついに殺人者となってしまった。自分が罪の加害者になるとは、夢にも思ったことがなかった。やがて正気に戻った僕は、必死で自分に言い聞かせようとした。僕が殺したのは、故郷に家族や恋人のある「ひとりの人間」ではなく、それは単なる「卑劣なブタ野郎」に過ぎないのだと……。

 僕がいるのは「狂気」の中であろうか。

 戦闘は十五分ほどつづいた。十五分は一時間くらいに感じられた。

 結局、この銃撃戦において、敵味方あわせて十数機が海に沈んだ。八幡飛竜隊は約半数が失われ、かろうじて七機が残った。

 いったん引き上げて行った敵を尻目に、僕らはまた編隊を組み直した。柳田中尉の機も残っていた。さっきまで揺れ動いていた水平線が、ふたたび静かな直線にもどった。

 中尉の指示により、そこからしばらく、僕らは海面すれすれの、超低空を飛ぶ作戦をとった。相手のレーダーから姿をくらますためである。時速五百キロのスピードで海面を飛ぶのは、一歩まちがえば海に激突する恐れがあったが、このときはその選択が最善かつ不可避であった。

 いくつかの白い砂浜や、それを取り囲む珊瑚礁が、ものすごい速さで下を通り過ぎる。それ以外はすべて海であった。延々と海がつづいた。

 地球は水の惑星であることを、僕はあらためて思った。

 太古の昔、そこで生まれたプランクトンがやがて魚類に進化し、陸に上がって動物となり、恐竜の時代を経て我々の祖先へとつながった。われわれは海から生まれたのである。

 そしていつか空に憧れ、飛行機を発明し、どこをどう間違ったか、地球全体をも破壊できる兵器まで手にしてしまった。

 今やわれわれは、その暴走する支配欲をもてあまし、制御不能のまま迷走中である。

 そんな人間の死に場所として、「海」ほどふさわしいところはないかも知れない。……

 そんなとりとめのない空想にふけりつつ、僕は友軍機とともに、敵艦隊のたむろする沖縄本島沖を目指した。

 ふと見上げると、ところどころ雲の立ちこめる空に、敵の飛行機がゆっくりと警戒に当たるのが見えた。こちらには気が付いていない様子だ。僕らは敵のレーダーをかわし、その本陣へ近づくのに成功した。

 そのとき、柳田中尉が全機に向かって、上昇の指示を出した。

「雲の中へ入るぞ!」

 あと数分で沖縄本島が見えて来るはずだ。上空には都合よく、大きな雲がかかっている。柳田中尉の目論見では、いったん雲の中にかくれ、それから一気に、相手に総攻撃をかける作戦であるらしい。

 僕は操縦桿のレバーを強く引いた。

 友軍機もいっせいに、あたかも水鳥が空へ飛び立つように上昇した。

 やがて視界が真っ白になり、機体は雲の中に突入した。そして雲の上へ出た。

 辺りは一面の茫洋たる雲海で、ところどころその切れ目に青い海が見えた。むきだしの太陽がまぶしかった。前方の、大きく視界が開けているところ―――あの辺りがちょうど沖縄本島の真上にあたるはずだ。

 極度の緊張が僕を襲った。

 自分の命があと数分で終わることを、いやが上にも感じた。

 僕らはふつう、何かを考え、それを吟味し、準備したあとで、初めて行動に移す。

 ところがこの時代は順序が逆である。

 まず事実がやって来る。

 そして行動し、そのあとでやっとその意味を知る。

 それがこの時代に生まれた者の、避けがたい宿命である。

 雲が途切れた。

 眼下にはふたたび、沖縄の海が広がった。

 しかしそれは、決して南国の平和な海ではなく、怒りと憎しみに満ちた暗黒の海であった。

 視界を埋め尽くす、大小さまざまな敵の船団が、まるで獲物を取り囲むハイエナのように、沖縄本島を取り囲んでいた。

 僕は目をみはり、息を吞んだ。背筋の凍るような光景であった。

 進攻を阻止しようとする日本軍との交戦も、すでに始まっていた。

 おそらくは僕らと同じように、敵の迎撃をくぐり抜けて来た友軍の機が、今は矢のような敵の艦砲射撃を受けている。

 見ると、高速の連続した光が、何本ものムチのように、はげしく空に飛び交っている。あれに少しでも触れたら一たまりもない。せっかく辿り着いたのもつかの間、すぐに撃ち落とされる友軍機も多数あった。

 一方で、どこからともなく、次から次へと味方の飛行機も姿を現す。きっとその中には、戦艦大和が敵を引きつけている間に、包囲をくぐり抜けて来た機もあったであろう。日本の命運をかけた総力戦であることが、その様子からも分かった。

 そして「幸運な」特攻機の中には、当初の目的通り、突入を成功させる者もあった。

 遠くで炎上する敵の軍艦を、僕は蒼然と眺めた。

 しかし、こうしてはいられない。

 敵の砲台がこちらへ向けられ、何本もの光のムチが襲って来たからである。僕はあわてて機体を斜めに倒した。

 ところが、僕のうしろを飛んでいた友軍機が、運悪くそのムチに触れてしまった。

 機体は爆音とともに片方の羽根をもぎとられ、無惨な格好で海面へと落下して行った。

 撃ったのは、船団の中でも最も大きい、憎々しい面がまえの戦艦であった。

 われわれの目標は決まった。

 あいつを沈める―――

 柳田中尉がすみやかに指示を出した。

「―――オレはこのままの角度で突っ込む。みんなは八方へ広がって、多方面から攻撃せよ!」

 われわれは阿吽あうんの呼吸で了解した。

 僕は大きく右に旋回し、敵艦のうしろ側に回ることに決めた。

 僕のイメージはこうであった。

 まず急降下して、海面すれすれを飛ぶ。高度が低ければ、敵は同士撃ちを恐れて、むやみに攻撃できないであろう。そして相手の真うしろに来たとき、ふたたび急上昇して、船が最も長く見える角度から、まるで滑走路に着陸するように突入する。そこまで辿り着けば、たとえ途中で被弾しても、そのままの勢いで体当たりすることが出来る。それは遠回りの危険なルートであったが、そもそもルートなど、この戦場のどこにもありはしないのだ。

 構想が決まると、僕は自分にためらうすきを与えないよう、ただちに急降下に入った。

 このとき被弾すれは、もちろん一巻の終わりである。

 僕は祈るような気持ちでスピードを上げた。南無三なむさん

 顔面が硬直し、髪の毛が逆立つ。光のムチが左右に飛び交う。砲弾のかけらが機体をかすめる。

 そして速度が最高潮に達したとき、僕はふと自分が、一頭の大きな竜に変化したように錯覚した。

 なめらかなうろこをすべらせ、ゆっくりと海面をたどる巨大な竜。それは八幡大菩薩にまもられた、この世とあの世とを行き来する不思議な生き物―――

 僕の目には、そのとき、すべてのものがスローモーションに見えた。

 大砲を撃つ戦艦。空に広がる弾幕。撃ち落とされる友軍機。吹き上げる水しぶき……

 僕は首を傾け、ゆっくりとその光景を眺めた。

 突然すべての音が、パタリと止んだ。

 銃撃の音。飛行機のうなり声。兵士の叫び。あらゆる喧騒けんそうが急に遠ざかり、そして僕の耳には、聞こえるはずもない、小さなピアノの音が聞こえた。

 その甘く切ない、聞き覚えのある旋律―――荒ぶる魂をなぐさめ、やさしい手で包んでくれるような、そのかすかな旋律は、ショパンのノクターンであった。

 戦場の音にかき消されることなく、その繊細な音はハッキリと僕の耳に聞こえた。あるいはショパンの魂が、直接僕の魂に語りかけてくれたのかも知れない。僕はしばしその音に聴き入った。

 思えば、ショパンの国へ行くという、上松章太郎の夢はついに叶わなかった訳であるが、彼の魂はその後も長く生き延び、清乃や僕の人生を照らしつづけている……

 戦場で散った数多くの命。おそらくは寿命の半分にも達することなく。―――彼らの孤独な魂を慰める荘厳なレクイエムのように、その曲は静かに響いた。

 くり広げられる壮絶な戦いの中で、僕は平和な沖縄の海をまぶたに描いた。

 花咲きそろう南国の、青く美しい海。

 さざ波が砂をあらう、太古からの海。

 いったい何のために、僕らは戦っているのだろう。

 こんなにも相手を傷つけ、憎み合って、その傷が、いつかえる日が来るのであろうか。

 僕らはただ、やるべきことをやっているだけなのか。

 その流れに逆らうことは不可能なのか―――

 答えは見つからなかった。

 ただ、かすかな旋律につつまれて、いつしか僕の頬には一筋の涙が流れていた。

 しかし―――

 この時代はつねに、の方が先にやって来る。いや、それはいつの時代も同じかもしれない。

 敵艦の横腹が見える。

 零戦はついに敵の後方に達した。僕は作戦どおり高く上昇した。竜の幻はいつしか消えていた。

 そして大きく旋回し、黒い船体の全貌を見下ろす位置まで来ると、そこにはまぎれもない地獄の風景が広がっていた。

 轟音うずまく、戦場がそこにあった。

 敵の軍艦も、命知らずの攻撃を仕掛けてくる日本軍を撃ち落とすのに懸命であった。

 見ると、向こう側から一直線に、船に突入して来る友軍機がある。柳田中尉の「九九艦爆」だ。砲台はいっせいにそちらを向いた。

 柳田中尉の顔は見えないが、機体からは異様な殺気が立ち昇っていた。

 軍艦からの対空砲火が容赦なく小さな機体に降りそそぐ。

 そのとき、いよいよ敵艦まであと数十メートルというところで、一発の砲弾が彼の機体を捕らえた。

 あっという間であった。

 柳田機は大爆発を起こし、一瞬にして空中に飛散した。おそらく、自爆用の爆弾に引火したのであろう。炎を上げながら、紙屑のように落下して行く。

「柳田中尉!」

 僕は思わず叫んだ。それは章太郎の叫びでもあった。

 しかし、ここで悲しんでいるひまはない。

 彼が敵を引き付けてくれていたおかげで、こちら側は手薄てうすになっている。僕に与えられたタイミングは今であった。今をおいて他にない。彼の死を無駄にしてはならない。

 僕はエンジンを全開にし、急降下の体勢に入った。

 砲台がこちらを向かないうちに、敵艦の中心部めがけて突進する。

 この零戦も大きな爆弾を抱えている。その威力はいま目の前で見た。

 一機をもって一艦をほふる―――

 たとえそれがわずかな時間であっても、僕は敵の侵攻を少しでも防がなければならない。大事な国民、大切な家族を守るために―――

 砲台が徐々にこちらを向く。気付かれたようだ。僕はさらにスピードを上げる。 

 やがて大砲の発射口が丸く見えたとき、僕は一瞬、ひどくまぶしい光に包まれた。鼓膜が破れそうな爆音とともに機体に衝撃が走った。

 痛い、という感覚もなかった。

 風防の内側は真っ赤な血に染まり、視界がさえぎられる。

 首に巻いたマフラーも、いつか赤く染まっている。

 どうやら僕は被弾したようだ。

 そう言えば、左のこめかみがなんだか熱い気がする。

 外を見ると、左の翼がきれいにもぎ取られている。水平線がくるくると回り、エンジンが油っぽい煙を上げる。

 零戦は失速した。

 しかし問題なのは、失速しながらも、このままなんとか敵艦に突っ込めるかどうかだ。

 死はすでに覚悟している。命はなきものと思う。

 機体は制御を失いつつも、はじめに充分な高度を取っていたおかげで、ぎりぎり後方の甲板を捕らえることが出来そうであった。デッキの手摺りがみるみる接近する。僕の命もあと数秒で終わる。

 そのとき―――。

 自分でもなぜ、今、そんなことを考えたのか分からないが、僕の耳の奥に、かつてチュン太がなにげなくつぶやいた言葉がよみがえった。

 生きてるだけでいいんじゃないかな……。

 彼の哀しそうな顔が目に浮かんだ。

 その瞬間、僕の中で何かがつながった。

 近ごろ彼が、目に見えて色が薄くなり、生気を失いかけていた理由が、いま分かったような気がした。

 チュン太はその昔、僕に助けられたことを恩義に感じ、死者の特権をもって、いろんな時代の、さまざまな出来事を見せてくれた。おそらくは僕を励ますために―――

 しかし、その僕はいま、刻々と死地に向かいつつある。そしておそらくは、死者の国において、生者をあやまって死なせることは、その案内役にとって大いなる「罪」なのではないか。チュン太はその「罰」として、この死者の国から追放されようとしているのではないか。しかも永久に―――

 それは本当の意味で「無」になることである。つまり僕が死ぬということは、、彼に会えなくなるということだ。

 しまった―――

 チュン太は自分の存在をかけて、僕の最後の「わがまま」を許してくれた。不平やり言も、何も言わずに……

 しかし、もう遅い。

 僕はむしょうにチュン太に会いたくなった。

 そして、命を捨てることを後悔した。

 生きなければ―――

 僕は強くそう願った。

 生きなければ!

 死んではいけない!

 生きたい!僕は生きたいんだ!

 しかし、すべては遅かった。

 敵艦の甲板が目の前にある。

 大砲を撃っていた乗組員たちが、あわてて逃げ惑う姿が見える。

 零戦は飛ぶ能力を失い、ただの鉄のかたまりと化したまま、しかし、まるで亡霊のように、自らの使命を忠実に覚えていた。

 敵艦に体当たりするという、その悲しい使命を―――

 僕はその瞬間、目を開けていたつもりであるが、僕の脳裏には、何か別の映像が重なっていたように思う。

 それは敵艦の黒い船体ではなく、三鷹駅のホームを通過する、快速電車のヘッドライトであった。

 船の甲板と列車のヘッドライト―――二つの映像が、僕の視界に交互に入れ替わった。

 そして大きな破裂音がした。

 ドーン。

 大きすぎて聞こえない爆音は、と呼んでもよかった。

 僕は気を失った。

 そして、永遠の宇宙への扉を開け、そのまま底なしの暗闇へと引きずり込まれて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る