維新編


  維新編


 パーン。

「うわぁ、大した威力じゃ」

 発射された弾は松の木に当たり、こなごなに砕けた枝が皮一枚で生々なまなましくぶら下がっている。驚いた山鳩が羽音はおと高く空に飛び立つ。松の木の向こうには日の当たる山々が雄大に広がっている。

「ぼんちゃん、隠れて。あの人、まだピストルにれてないんだ。殺されちゃうよ」

 狙いの定まらない銃口が、こんどはこちらに向けられている。あぶない!

 パーン。

 一瞬、冷たい風圧を頬に感じたかと思うと、僕らの止まっている枝から木の葉が数枚ハラリと落ちた。

 どうやら鳥を狙っているようだ。

 長身の青年はうす汚れた羽織はかま脇差わきざしの刀、ボサボサの髪をうしろに束ねただけの気取らない格好だが、足だけはおしゃれに皮靴ブーツ穿いている。まっ黒に日焼けしたその顔は、よく見ると生徒会役員のリョースケにそっくりだ。

 命の恩人に、僕はいま命を狙われている。

 かたわらで着物姿の女がほほと笑っている。

 勝気そうなその女の表情を、ふとどこかで見たような気がしたが、とっさには誰だか思い出せない。

「うちにやらせてみとくなはれ」

 京都なまりの女は、ピストルをもぎ取るように奪い、さまよく両手に持って狙いを定める。こちらの方がよほど堂に入っている。

 ―――ちょっとあたしにやらせてみて―――

 僕はその台詞せりふでようやく思い出した。

 テニスコートで雨に濡れながら、南京錠を奪うようにして開けていた、リーダーのあの子だ。リョーコとか言った。

「坂本龍馬と、その奥さんの、……ええと……おりょうさんだね?」僕はチュン太に囁いた。

「そう。いま鹿児島に旅行に来てるんだ。日本初の新婚旅行ってやつだ」

 僕らは何の因果いんがか、こんどは幕末の日本へ来ているようだ。行きがかり上、例によって、彼らの行動をしばし追ってみることにした。

 山あいの道をしばらく下って谷の方へ降りると、新緑の林の中に一軒の茶店が立っていて、そのかたわらを清流がながれていた。

 龍馬とお龍は緋毛氈ひもうせんの縁台に腰を下ろした。

 中から茶店の主人が出て来て、背中を丸めながら二人にお茶を出した。ほかに客は誰もいない。主人の手馴れた様子から、それでもに何組かは客のあるらしいことが伺われた。

「下の川で釣りも出来ますよ。すこし上流へ行くと滝もありますよ」

 ちょんまげ頭の主人は、ひどくなまりのある口調で、そんな意味のことを言った。

「いっちょう、釣りでもやってみるか」

 龍馬は少年にもどったような笑顔になった。

 二人は団子を食べ終え、代金を払うと、主人が貸してくれた釣竿をかかえて、ごつごつした岩間いわまの道を川の方へ降りて行った。

 川原へ出ると、目の覚めるようなすがすがしい流れが、おおいかぶさる樹木の下を滔々とうとうと流れていた。透明な水が川底のかたちに盛り上がって、まるで止まっているように見える。

「滝の方まで行ってみよう」

 龍馬とお龍は足場の悪い岩のあいだを、用心しながら上流へと進んだ。ときどき互いに手を貸す姿が、仲睦なかむつまじい様子である。しばらく行くと、どこかでザーザーと水の落ちる音がした。鶯の声がこだまする。

 苔むした大きな岩を曲がったところで、二人の目の前に現れたのは、鏡のような淵へ向かって落ちる一本の滝であった。

 水面には山の影と空の雲が映り、滝壺からの水しぶきが霧になってかすかに漂っている。鬱蒼とした森を見上げると、丸くくり抜いたように、そこだけポカンと青空が見える。

「ええ場所じゃ。ここらで釣るとしよう」

 龍馬は小さな手荷物を川原へおろし、釣竿だけを持って淵のそばへ歩み寄った。

 おそるおそる水面をのぞくと、深みどり色の同系色の中に、かすかに、なにか黒いものが動くのが見えた。さらに目を凝らすと、その黒いものは銀色の腹を見せてひるがえった。

「おる、おる!ようけおる」

 龍馬は声をひそめながら目を輝かせた。

 そしてそわそわした様子で足場を定め、いきなり片手で竿を振って、その黒いものの鼻先へ向かって釣り糸を垂れた。

 ところが、重りのついた針先はボチャンと大きな音を立てて落下したので、魚は驚いてすぐに逃げてしまった。

 僕とチュン太は顔を見合わせて苦笑した。

「ピストルもそうだけど、釣りもあんまり上手じゃないね」

 龍馬はそれを何回か繰り返すものの、一向に釣れる気配はない。そのうち、ちらほら見えていた魚影も全く見えなくなってしまった。

 一方、しばらく後ろで見ていたお龍は、苦戦する龍馬の姿を尻目に、自ら用意した仕掛けを持って少し離れた場所へゆっくりと歩みを進めた。

 そして落ち着いた様子で針先にエサをつけ、両手を使って優雅に竿を振ると、しなやかに音もなく、それを水面に沈めた。

 ほどなくして、お龍の持つ長い釣竿の先に手応てごたえがあった。

 稲穂のように静かであった竿の先端に、急に何かの力が加わり、ビクンビクン、と生きているように暴れはじめる。

 魚が掛かったらしい。

 しかし、お龍は決してあわてず、手際よく竿を立てると、右へ左へ動き回る相手に逆らわないよう自らも動きを合わせ、徐々に半径を縮めながら自分の足元にそれを寄せた。

 黒い物体がお龍の足元まで来たとき、それは最後のあがきを見せるように、とつぜん空中へジャンプして針をふりほどこうとした。横腹に斑点のある魚が眼前に姿を現した。

 お龍はその瞬間を見逃さず、「やっ」という掛け声とともに、薙刀なぎなたを振るように竿を横にしたかと思うと、ジャンプした魚をそのまま川原へ着地させた。

 おかに上がった魚は、もはやその本領を奪われ、ごろごろとした石の上で、哀れにもピチピチ跳ね回っている。

「お龍!やったぜよ!」

 自分の竿を放り出して駆け寄って来た龍馬は、跳ね回る魚を見て、お龍よりも嬉しそうな顔をしている。

「おまん、なかなかの太公望たいこうぼうじゃ。は、は、は」

 龍馬は暴れる魚を両手で押さえて、顔を近づけるように覗き込んだ。

「ところで……この魚は、何という魚じゃ……かつおではなさそうじゃのう」

「あほちゃいますか。岩魚いわなどす」

 お龍は吹き出した。

 おそらく、ふだんはあまり笑わないような、少し影のあるこの女性から、無邪気な笑顔を引き出すのが、龍馬は釣りよりも何よりも得意なようである。

「ようし。わしもデカいのを釣っちゃる」

 龍馬は勇んで引き返し、また到底、無駄な努力をくり返した。片手で竿を振り、ポチャンと針を落とす。投げてはまた引き寄せる。しかし、引っぱり上げる竿の先に、ついに魚の姿はなく、ついでにエサもなくなっていた。

 そのかん、お龍はさらに二匹の岩魚を釣り上げた。

 龍馬はしまいに、ふて腐れた顔で竿を放り出し、川原へ大の字になった。左手はふところに折り畳まれている。

「龍馬さん、なにか左手をかばってるみたいだね」

 僕はさっきから、龍馬の竿の振り方が不自然なことに気づき、チュン太に言ってみた。

「彼は左手にケガをしてるんだよ……」

 チュン太は岩場に寝転がる龍馬を眺めながら言った。

「……京都伏見の寺田屋で、幕府のかたに追われたときの刀傷かたなきずだ。お龍さんの活躍で、なんとか難を逃れることが出来た」

 僕は、ここが幕末の動乱期であることを今さらながら思い出した。

「なんで龍馬は幕府に追われてるんだっけ」

「彼が幕府の転覆をくわだてたからだよ。幕府にとっては目障めざわりな存在なんだ」

 坂本龍馬という人物について、僕は『幕末の風雲児』という呼称のほかに、思えばほとんど何も知らなかった。ただ一つ、それまで犬猿の仲だった薩摩と長州を結び付け、幕府に対抗できる勢力を作り上げたということはおぼろげに知っていた。

「……それで、西郷隆盛のすすめに従って、傷が治るまでのしばらくの間、鹿児島に身を隠してるんだよ」

 釣り糸を垂れながら石の上でぼんやりしている龍馬の目は、水面ではなく、どこか遠くを見つめているような目であった。それは、のっぴきならない激流の中に身を置く人間の、精悍な表情である。

 しかしそんな時代にも関わらず、山や川や、のんびりとした自然の風景は、平成の日本と何も変わらない。

「龍馬はん……龍馬はん。引いてます!」

 お龍に教えられて、龍馬は糸の先が輪を描いていることに初めて気が付いた。あわてて立ち上がり、竿を立てたが、タイミングが悪かったのか、水面にまで上がって来た魚は、エラを振るようにして巧みに針をはずした。そしてポチャリと落ちて水底に消えた。龍馬の手には、また元のように、たるんだ糸がむなしく残っている。

 結局、お龍の釣った三匹の岩魚が本日の収穫のすべてであった。獲物を魚籠びくに入れると、二人は茶店への道を引き返した。

 茶店の主人は岩魚をその場で塩焼きにしてくれた。そして、自分は結構、と遠慮する主人にも一本持たせ、三人は熱々あつあつの魚を、それぞれ美味そうに頬張った。

「……どこか、眺めのええ場所はないかのう。日本中が見渡せるような……」

 龍馬は主人に訊いた。

「ここへ来て霧島山に登らんという手はありません。実にいい眺めです。今はキリシマツツジが見頃で……」

と言いかけて、主人はお龍の方を見り、

「いや……あの山は女人禁制でした。まことに残念ですが……」

と気の毒そうな顔をした。

 お龍は、ふん、と言っただけで、だまってお茶を飲んでいる。

 主人に礼を言うと二人は茶店を出た。

 とにかくふもとの辺りまで行ってみよう、ツツジ見物くらいは出来るだろう、ということで、二人はその、いちばん高い山の見える方角へ坂道を登って行った。

 僕らも、久しぶりの豊かな緑ときれいな空気を味わいながら、二人のあとを追った。

 しばらくはなだらかな道が続いたが、ある所まで来ると、急に道が険しくなり、ゴツゴツとして足場も悪くなった。

 見ると、登山道の入口と思しき場所に大きな立て札が立っていた。いかめしい文字で「女人禁制」と書いてある。

「お龍、どうやらここまでじゃ。ここからでも充分ええ眺めじゃ。引き返して温泉へでも入ろう」

 龍馬はうしろを振り返って、いままで歩いて来た山道を遠くに眺めながら、満足そうに微笑んだ。この辺りにも、あざやかなピンク色の花がきれいに咲きはじめている。

「いやどす。上まで登ります」

 お龍は、にも関わらずそびえ立つ山の頂上をじっと見上げている。そのまなざしと唇は、言いだしたら聞かない人間のそれである。

「なにを言いゆう。……バチが当たるぞ」

「罰はもうこれまでに充分受けとります。うちはもう、何も恐いものはあらへんのどす」

 お龍は立て札を払いのけ、着物のすそをまくり上げて、もうすでに登山道を登りはじめている。

「おい、待つがじゃ。お龍!」

 龍馬は、そそくさと登って行くお龍の背中をあわてて追いかけた。

 登山道ははじめの方こそなだらかな、歩きやすい赤土であったが、そのうち勾配も急になり、だんだん瓦礫がれきのむき出しになった凸凹道に変わって行った。

 勢い込んで登りはじめたお龍も、しばらく行くとハアハアと息が上がり、ときどき立ち止まっては額の汗を拭いている。

「大丈夫か、お龍。引き返すか?」

 龍馬はお龍を気遣きづかって手を貸そうとするが、お龍はその手を振り払い、

「平気どす。女に二言はありまへん」

と、どこまでも意地を張る。

 龍馬は苦笑しながら、そんなお龍をとてもいとおしそうに見つめている。

「……龍馬さんは、勝気な女の人が好きなんだね……」

 僕は自分の観察をチュン太に囁いた。

「そうかもね。龍馬が生まれ育った坂本家も、大家族で姉が三人、その一人は有名な女丈夫おんなじょうぶのお乙女とめさんだ。末っ子の龍馬は、いつのまにか、目上の人や強い女の人とうまくやっていくのが得意になったのかもね」

 一人っ子の僕は、ときどき彼のような境遇をうらやましく思うことがある。もしリョースケのように、あっけらかんと人と関わることが出来たら、さぞかし人生が楽しくなり、将来の可能性も広がっていくことだろう。もっともそれは環境だけでなく、生まれ持った気質にもよるであろうけれども……

 そんなことを考えて少し黙り込んだ僕を、なぜかチュン太はニッコリと笑って見ている。

 龍馬はと言うと、いつのまにかお龍よりも張り切った顔で、勇んで山道を登りはじめている。今度はお龍が彼を追いかける格好だ。やはり男のさがなのであろうか、山があったらついつい登りたくなってしまうのであろう、その山が高ければ高いほど―――

「待っとくなはれ。草履に石がはさまって……」

「はよう来い、お龍。頂上はあすこに見えちゅうぞ。ほら、あすこじゃ」

 龍馬の指さす方を見ると、逆光のなか黒々とそそり立つ山の頂きが、抜けるような青空に照り映えている。その雄大な尾根の起伏を見ていると、人間という存在の小ささが思われる。

「あともう少しじゃ。気張りいや」

 ガニ股で登って行く龍馬は、ときどき置き去りにしたお龍のところへ戻って行って、うしろからその背中を押してやる。くたびれ切ったお龍は、もはや強がる余裕もなく、身をもたせるように押されるがままになっている。

 あと少し、あと少しと言いながら、なかなか頂上は近くにはならず、むしろ歩くたびに遠ざかるように見えた。

 二人は無言のまま、さらに一時間ほど登ったところで、ようやく今までとは違った風景が現れたことに気づいた。明らかに周りの山々よりも一段高い、それらを見下ろす眺望が広がり、向こうには雲と一体になったような地平線がかすんで見える。

 一足さきに頂上に辿り着いた龍馬が、こちらへ向かって叫んでいる。

「はよう来いや、お龍!まっこと見事な眺めじゃ!」

 お龍とともに、僕とチュン太も、やっとのことで山の向こう側が見渡せる場所へと辿り着いた。

 頂上からの眺めは言葉に言い尽くせないものであった。

 登って来るときは気が付かなかったが、斜面に自生するキリシマツツジが、うっすらと山全体をピンク色に染めている。山の向こうにはまた山がつづき、段々とうす墨のように折り重なる。はるか前方に白く光っているのは太平洋であろうか。目を細めると、さらにその先に、かすかな陸地のようなものがぼんやりと見える。まるで実物大に広げた日本地図を横から眺めているような感じだ。

「やっぱり山登りは気分がいいね」

 僕とチュン太は、ピーチクとしか聞こえないのをいいことに、その辺りをはしゃいで飛び回った。

 龍馬とお龍も、深呼吸をしたり、竹筒の水を飲んだりしながら、雄大な景色を存分に堪能している。

 ふと見ると、すこし離れた場所に、ごろごろとした石がうず高く積まれた塔があった。中央に大きな剣のようなものが差してある。

あま逆鉾さかほこだよ」チュン太が言った。

「そのむかし、天から降りて来たニニギノミコトが、この国は自分が治めるという誓いのもと、この剣をここへ突き刺したという伝説があるんだ。日本という国の建国神話だね」

 龍馬とお龍もそれを見るや、しだいに近寄って来て、逆鉾を珍しそうに眺めている。

 そのうちお龍が、積まれた石の上まで登って逆鉾を撫でながら、

「抜いてみとうござんす」

と言った。

「おまん、なんと大それたことをぬかすか……」

 龍馬の方があたふたしている。

 と、まもなく、お龍は逆鉾の根元を両手でつかんで、エイヤッ、という掛け声とともにその大きな剣を引き抜きにかかった。

 逆鉾は思ったよりも軽いらしく、女の力でも地面から半分ほど抜けてしまった。しかし、あとの半分が長すぎてなかなか抜けない。

「お龍、大丈夫か!」

 それまで及び腰だった龍馬も、いつのまにかお龍のうしろへ回って、一緒に抜くのを手伝っている。

「いちにの、さん、で引き抜くぞ。ええか。一、二の……」

 龍馬の声に合わせて、二人は力を込める。

「三!」

 二人の力が合わさったとき、逆鉾はあたかも畑の大根のようにきれいに引き抜かれてしまった。根元には、やはり野菜のように土がついている。

「わはは……」

「おほほ……」

 新婚の二人は、何千年の眠りから覚まされた神聖なつるぎを、勝ち誇ったように太陽の光にかざしながら、さも愉快そうに笑い転げている。

「共犯者の喜びだね」

 僕がそう言うと、チュン太は案の定、ため息をつきながら顔を覆っている。

 龍馬は雄大な景色に向かって大きな剣を振り上げ、ゆっくりとそれを振り下ろす。

 剣術の心得のある人の間合まあいである。

「お龍……」

 龍馬は何かを考えているようだ。お龍は微笑みながら、だまって聞いている。

「……この日本の山や川はこんなに美しいのに、なぜか人間だけが狭い考えに凝り固まって、よどみにたまるおりのように互いにいがみうちゅう。いっぺんこうやって……」

と、手に持った逆鉾をまるで洗濯棒のように、日本列島に突き刺すマネをしながら、それをひねり上げた。

「日本を……洗濯せんといかんぜよ!」

 龍馬の叫ぶ声が山びことなって峰々にこだました。

「これからの世の中……剣はこうやって使うぜよ!」

 龍馬は何度もそれを、こねくり回したり、ひっくり返したりしながら、実に愉快そうである。

 僕らは上空へと飛び、霧島連山を一望できる場所まで行って、ゆっくりと旋回した。その向こうには大きな日本列島がゆうゆうと横たわっている。平和そうに見えるこの国はいま、幕末の動乱の中にある―――

 剣を持って飛び跳ねる龍馬が蟻のように小さく見えた。しかし、この蟻のように小さな男がいまその日本を大きく動かそうとしているのだ。

 麓の村まで下りて来たときには、太陽はもう山に沈もうとしていた。

 ところどころ湯けむりの上がる温泉街の夕暮れの中を、二人は並んで歩いた。提灯のともる風流な温泉宿が、坂道の途中にいくつも軒を並べている。

「ここらで温泉にでも入って、汗を流そう。わしゃもう、一週間も風呂に入っとらん」

 龍馬とお龍はその中の一軒を選んで暖簾のれんをくぐった。 

 宿は古めかしい大きな造りで、老舗旅館のおもむきがあった。

 僕らも水浴びがしたくなり、宿のうら側へ回った。

 うら側には岩場のあいだに渓流が流れていて、その地形をうまく利用するように、広々とした露天風呂が造られていた。

 うす暗い脱衣所から現れた龍馬は、洗い場でおけの湯をかぶり、がっしりとした体を丹念に洗い清めると、湯けむりの上がる湯舟へと身を沈めた。

 湯舟にはほかに誰もいない。

 龍馬は左手を湯につけたり、目の前で結んだり開いたりして、その動きを確かめている。傷あとがまだ少しうずくらしい。

 そして、目を閉じてしばらくじっとしていると、どうやら衝立ついたての向こうから女の声がする。

「龍馬はーん」

「……お龍……湯加減はどうじゃ!」

 二人の声が衝立をはさんで響き合った。

「ええ湯どす。そっちへ行ってもええやろか」

「あほう。何を言いゆう。仕切られとるに、どやって来るんじゃ」

 しばらく返事がないので、龍馬が不審に思っていると、湯舟の中で何か黒いものがもぞもぞと動く気配がした。が、やがてみるみるお湯が波立ち、まあるいお尻がぷかりと浮かび上がったと思う瞬間、まるで海坊主のようにお龍がざぶりと顔を出した。

「な、何を……」

 あっけに取られる龍馬を見て、お龍は愉快そうにケラケラ笑っている。

「衝立の下はけになってましてん」

 得意気にそう言って仁王立ちになるお龍のすべてを、僕は一瞬見てしまった。

 おそるおそるチュン太の方を見ると、彼はいい具合に岩場の陰に小さな水溜まりを見つけ、ひとりで湯あみを楽しんでいるところであった。チュン太が気付かないのをいいことに、僕はもう一度お龍の全身をまじまじと見た。

 さっきまで丸髷に結っていた黒髪は、ほどいて下ろすと意外に長く、濡れた体に胸のあたりまでワカメのようにピッタリと貼りついていた。つややかな肌がまるで凝り固まった蝋燭ろうそくのように、すべすべと水滴をしたたらせている。

 たじたじとなる龍馬を尻目に、お龍はそのまま平泳ぎで湯舟を一周した。

「誰かに見られたらどうするがじゃ」

「かめしまへん。へるもんやなし」

 意外に気の小さい龍馬に比べて、お龍はあくまで大胆である。

「おまんはどいてそんなに度胸がええがじゃ」

 それには答えず、お龍は泳ぎつづける。

 しかし、だんだん龍馬に近づいて来て、何を思ったか、自分の右腕をぬっと龍馬の鼻先へ突き出した。

「うちも一度死んだ身ですさかい……」

 よく見るとお龍の手首には、刃物で切ったような傷あとが幾筋か残っていた。

 お龍はまたすぐにケラケラと笑った。

「おまん……」

 龍馬はそんなお龍をしばらく茫然と見つめている。

 僕はチュン太の方へ飛んで行って、一緒に小さな湯舟につかった。温泉のあたたかさが冷えきった体に心地よくみ渡った。

 それから二人はそこへ一泊して、あくる日はまた別の温泉に立ち寄ったり、大きな神社へ参拝したりしながら、だんだんと人里の方へ下りて行った。

 ひなびた風景はしだいに賑わいを見せはじめ、やがて彼らは「都会」と呼んでもいいくらいの、潮の香りのする繁華な街へと辿り着いた。人々の暮らしがここにも息づいている。ただ、この街で一つだけ珍しいのは、海を隔てた湾の向こうに、もうもうと煙を上げる火山が見えることであった。それは驚くほど目と鼻の先にあった。

「桜島だね……」

 僕はこんな奇妙な風景の中にも、どことなく親しみを覚えてしまう自分が、やはり日本人なのだなという感慨をあらたにした。いや、日本人ではなく、今はまぎれもない「雀」である―――いったいいつになったら僕は人間に戻れるのであろう。ふとそんな不安が頭をよぎった。しかし、雀であることもそう悪くないなと思いはじめている自分もいた。

 龍馬とお龍は、ある大きな屋敷の前で立ち止まった。頭にちょんまげを結った、はかま姿の、立派な体格の男に出迎えられる。

「よか養生ようじょうになりもしたか」

 巨体のわりには優しい目をしたその男は、見れば見るほどタカシにそっくりであった。

「西郷さんだよ。上野の銅像とはかなり違うね」

 チュン太が言った。犬は連れていなかった。

「おかげでこの通り、もうすっかりようなりました」

 龍馬は左手を上げてグルグル回して見せた。

「それはよかった。坂本さんは忙しか人のけん、たまにはゆっくりせんといかん。昔から、いては事を仕損じる、と申しもす」

「西郷さんこそ、お忙しい中、何から何まで世話してもろて、まっことかたじけのうございます。貧乏ひまなし、あわてる乞食こじきはもらいが少ない、言うけんど、わしゃ乞食のくせに贅沢三昧さしてもらいゆう」

「わはは」

 西郷は大きな口を開けて豪快に笑った。

「坂本さんは面白か人ごわす。オイはぜんぜん忙しうなか。……もしよかったら、このまま薩摩の工場ば見て行かんですか。案内しもす」

 西郷に連れられて、二人は藩の直営であるらしい、なかなか大がかりな工場群を見て回った。

 反射炉と呼ばれる鉄を溶かす設備、ガラスの製造工場、武器や弾薬をつくる施設、糸をつむぐ紡績工場、そしてなんと、電気通信の研究所まであった。それは、ここが江戸時代であることを忘れさせるほどの近代化ぶりであった。

 多くの労働者たちは動きやすいように着物ではなく洋服を着ていた。また彼らを指導するイギリス人らしい技師の姿もあった。

「まっことタマゲた……まるで別世界じゃ。薩摩はさしずめ独立国のようじゃのう」

 目を丸くする龍馬に、タカシに似た西郷は、

「……われわれもそう思うて、いつか無謀にもイギリスと戦争いくさをしたことがごわす。しかしまだまだ力の差は大人と子供、クジラとメダカ、こてんぱんにやられてしもた。それ以来、イギリスと仲直りして、彼らのやり方を学びよるところでごわす。国を富ますのは、一朝一夕にはいかん」

と、真剣な顔を向けた。

「それに坂本さん、あんたの作ったカンパニーにも大いに世話になり申しとる。お陰で宿敵長州と手を組むことが出来た。これは事によると、幕府を倒す力が早晩そうばん整うかもしれん。大きな声じゃ言えんがのう。わっはっは」

 西郷は冗談とも本気ともつかぬ顔で大笑いした。

 龍馬もだまって笑っている。

 お龍はと言うと、あまり興味のなさそうな表情で、ガラス細工などをさわっている。

「カンパニーって、海援隊のこと?」

 僕はおぼろげな知識をチュン太に確かめた。

「うん……この頃は『亀山社中』と言ったよ。勝海舟のもとで航海術を学んだ龍馬たちが、長崎で立ち上げた会社だ。ふだんは海運業を営みながら、いざいくさになったら戦うことも出来るナンデモ屋集団だ」

「その亀山社中カンパニーが、どう薩摩で役に立ったの?」

「薩摩はね、軍艦は持っていたけど、それを操れる人手がいなかった。その役目を、龍馬さんたちが受け持ったんだよ。しかしいちばんの功績は、薩長同盟の橋渡しをしたことだ。龍馬さんのアイデアで、長州へは武器を、薩摩へは米を、それぞれの欲しいものを送るという交換条件のもとに、彼らは手を結んだ。龍馬さんたちはせっせと薩摩と長州を往復した」

「龍馬さんは商売上手だね」

「そこが彼のユニークなところだよ」

 僕らはふたたび西郷と龍馬の話に耳を傾けた。

「……ところが坂本さん、幕府が再び長州攻めを始めたちゅう話はご存じか。ひょっとすると、われわれの同盟の動きを嗅ぎつけて、先手を打ったのかもしれん。薩摩はもちろん、幕府の出兵要請を断り申した。ここはなんとか、桂さんに耐えてもらわんといかん」

 龍馬は目を見開いた。

「なんと。わしがのんびりしちゅう間に、世の中はそんなことになっちょったか。ここでもし長州が負けたりしたら、せっかくの薩長同盟も水の泡ぜよ。それどころか、混乱に乗じて日本を乗っ取ろうとたくらんじゅう外国の思うツボじゃ……」

「まあ、そうやすやすと長州は負けはせんと思いもす。なにしろ、われわれが調達してやった武器の方が、幕府の武器より性能が上でごわす。オイは何ら心配はしとらん。しかし、それでも幕府は、腐っても鯛、数を頼んでどんな戦を仕掛けてくるか分からん」

「いや、こうしちゃおられんのう」

 龍馬は急にそわそわしはじめた。否応なく現実に引き戻された様子だ。

 そのとき、西郷のもとへ役人が駆け付け、ある知らせをもたらした。

「西郷どん。たったいまユニオン号が錦江きんこう湾へ到着しもした。長州からでごわす」

「わしの仲間じゃ!」

 龍馬の方が先に叫んだ。

 一行は港へと移動した。

 桜島を背景に、波打つ港には大きな軍艦が横づけになっていた。蒸気で動く大きな外輪や、甲板には大砲が数基、ものものしく装備されている。

 船から降りて来た船員たちに向かって、龍馬が両手を振る。

「みんな元気か?久しぶりじゃのう!」

 白い袴をはいた船員たちは龍馬の姿を見つけ、駆け寄って喜び合う。亀山社中の連中のようだ。

「龍馬!無事じゃったか。殺されかけたっちゅう話じゃが……」

「大丈夫。命拾いしたぜよ。ここにいる西郷さんに助けられた」

 一同は横に立つ西郷に向かって、深々とお辞儀をした。タカシも相好そうごうを崩す。

 しかしそのあとすぐに、彼らは龍馬を取り囲んで深刻な顔になり、小声で何かを告げた。

 僕らもそばへ寄って耳を傾けると、どうやら彼らの所有する帆船はんせんが嵐にって沈没したという話であった。

「なんじゃと!すると内蔵太くらたも小太郎も死んだいうがか……そんな……」

 龍馬は絶句した。

 聞くとはなしに聞いていた西郷も、話の内容をおおかた理解したようで、肩を落とす龍馬の姿を気の毒そうに見つめている。

 西郷はユニオン号へ歩み寄り、他の船員たちに声をかけた。

「みなさん。長旅、ご苦労でごわした。久しぶりの陸地で、ゆっくりして行きもせ」

 船員の一人が西郷に尋ねた。

「西郷さん。船の荷物はどこに置きましょうか。長州から贈られてきた米です……」

 西郷は大きな目をさらに大きくして積み荷を覗き込んだ。

 見ると、船の倉庫には何十俵もの米俵こめだわらが山積みになっている。

「なんと……桂さんは戦の最中にもかかわらず、律儀にも米を届けて来たか……こんな時に、そげんかこつせんでもよか!……あんぬしゃまったく……こん米は受け取れん!」

 西郷は桂の計らいが気に食わないようである。

「ですが、もう……」

 船員も困り果てた様子である。武器をもらうかわりに米を送るという薩長同盟の約束を、長州は戦時においても守ってきたのである。

 温厚そうな西郷も、へんなところで頑固さを見せる。

 考えてみれば、長州の桂も相当な意地っ張りであるが、こちらも負けず劣らず強情である。この時代の武士のいさぎよさとは、こういうものであろうか。

 どうしても西郷が首を縦に振らないので、米俵は船に積んだままになった。

 翌日、気を取り直した龍馬は米俵の山を見て西郷に言った。

「わしが言い出したことじゃ。薩摩がこれを受け取らんのなら、わしが責任をもって長州へ送り返してやる。それでええか。西郷さん」

「あんたに任せる。坂本さん」

 多くの言葉は不要であった。

 船員たちに十分な休息を取らせたあと、龍馬とお龍は仲間とともにユニオン号へ乗り込んだ。

「西郷さん、それにみなさん、有難うございました。またいつか必ずお会いしましょう」

 港を離れるユニオン号の甲板から、龍馬はいつまでもいつまでも、大袈裟なくらい手を振っている。港で見送る西郷たちも、船が小さくなるまでその場を離れようとしない。

「この時代の別れというのは、いつそれが一生の別れになるか分からないからね……」

 僕とチュン太もこっそりと船に乗り込み、大きな煙突の陰から港の様子を眺めた。

 蒸気船ユニオン号は一路いちろ長州を目指し、海を北上した。船の先頭に立ち、風を切って前方を見つめる龍馬の姿は、ほかのどの場所よりもそこが一番よく似合っていた。

 航海の途中、仲間の船が遭難した辺りで、眺めの美しい岬に立ち寄り、彼らは慰霊碑を立てた。不慮の死を遂げた同志をしのんで、みずからはからくも命拾いをした龍馬の胸中はどんなだったであろう。

 また長崎では、「月琴げっきん」を習いたいと言うお龍の意志をれ、彼女を一旦下ろすことにした。龍馬も、日ごろお世話になっている地元の豪商のもとへ、彼女を預けることに異論はなかった。

「お気をつけて行って来とおくれやす。戻って来たら、上手な琴、聞かせてあげますよってに」

 にっこりと笑いながら、お龍は気軽な調子で言った。

 彼女と別れたあと、龍馬は船の上で仲間につぶやいた。

「ことによったらいくさになるかもしれん。女はおらん方がええ」

 龍馬の表情はいつになく引き締まっていた。リョースケはやる時にはやる男だ。

 そして彼らが下関に着いたのは、その数日後だった。すでに戦闘は各方面で始まっていた。

 総大将の桂小五郎に面会した龍馬は、西郷が米を受け取らなかったむねを恐る恐る告げた。相手を刺激しないよう、そこは充分に言葉を尽くした。

 しかし、にも関わらず桂はやはり機嫌を損ねた。

「なんだと……西郷め、どこまでヘソ曲がりな奴だ。虫が好かぬ!」

 薩長同盟が成ったとは言え、まだまだお互い気心きごころの知れた仲ではないらしい。腹をさぐり合っている様子だ。

「いちど送ったものを送り返されて、はい、そうですかと、どの顔下げて言える!受け取れん!」

 こちらはこちらで、やはり堅ブツである。龍馬は弱り果てた。

「わしゃどうすればええがじゃ。素直にもろとったらええのに。二人とも大バカ者……」

と言いかけて、あわてて口をふさいだ。

 しかし龍馬は、ちょっと考えたあと、何かを思いついたようにてのひらを打った。

「……そうじゃ、桂さん。名案を思いついた!」

 桂は、またこの風変りな男が何を言い出すかという顔で龍馬を見た。

「なんだ。言うてみなさい。こんどはどんな名案だ」

 龍馬はうれしそうにまくし立てた。

「ここにうまそうな米がある。両人ともいらんと言う。見るともう一人、腹をすかせた男がおる……そいつにやったらええがじゃ!」

 桂は首をかしげる。「誰のことだ?」

「このわしじゃ!はは」

 龍馬はふんぞり返って笑った。

 桂は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

「その米をわしにくれたらええがじゃ。亀山社中もなかなかよう働きゆう。ここでご褒美をもろたら、さらによう働くぞ。どうじゃ、三方一両の名さばきじゃ。はは」

 一人で愉快そうに笑う龍馬を、桂はしばらくあきれ顔で見ていたが、そのうち思わず自分も吹き出してしまった。

「あんたにはかなわんな、坂本さん……よかろう。好きにしたらいい」

 かくして、まんまと漁夫の利をせしめた龍馬の、その屈託のない笑顔を、僕は感心して見ていた。

「なるほど―――笑わせて人を動かす。彼一流のやり方だ」

 僕に足りないのは、リョースケのこういう「明るさ」だ。 

 人は理屈ではなく、感情で動く生き物だ。気分さえよければ、多少の損得などどうでもいいのだ。人生の航海術をも、龍馬は生まれ持って身に着けていた。

 そうこうするうち、彼らのもとへ、よれよれの鎧兜よろいかぶとをつけた男たちがぞろぞろと入って来た。うす汚れたその格好は、戦闘を終えて引き上げて来た兵士たちの風体ふうていである。

「おう!戻って来たか、高杉。話は聞いたぞ。みんなもよくやってくれた!」

 戦勝の知らせはすでに耳に入っていたらしく、くたびれた顔の兵士たちを、桂は最大級の讃辞でねぎらっている。

 兵士たちは疲れ切った様子ではあるが、その表情は生き生きとした喜びに満ちている。

「なかなか手こずりました、桂さん。なんせ幕府は大群ですから意外にしぶとい。しかし、どうにかこうにか、大島を取り戻しました」 

 リーダー格らしい小柄な男は、総大将に誇らしげに報告した。するどい眼光とともに、口元には笑みが浮かんでいる。

「高杉さん!」

 龍馬が横から叫んだ。「ご無事じゃったか!」

 どうやら二人は知り合いであるらしい。

「高杉晋作しんさくだよ。長州の風雲児だ」チュン太がニッコリとした。

 高杉の方も龍馬の姿を認め、うれしそうに頬をゆるませた。

「坂本さんか?久しぶりです。あなたこそ、このたびは災難でしたね」

「いやあ、高杉さんに貰うたピストルがさっそく役に立ちました。お陰でまだこうして生きちゅう」

 龍馬は満面の笑みをたたえながら、襲撃のいきさつを語った。話によると、京都で襲われた際、応戦したときに使ったピストルは高杉がくれたものであるらしかった。

「そうでしたか。それはよかった」

 高杉も満足そうである。

「さあ、みんな!その格好じゃ落ち着かん。はよう着替えてこい!」

 桂が一同を見回して手を叩いた。

「戦いはまだまだこれからだが、しばしの骨休めだ。酒を用意してある」

 兵士たちは色めき立った。そして我さきにと、納屋のほうへ消えて行く。

 彼らがふたたび戻って来たときには、みんなそれぞれくつろいだ格好になっていた。

 農民の出立ちをした者もいれば、商人の格好をした者もいる。職人風の男もいれば、勤め人らしい男もいる。中には浴衣ゆかたを着た力士のような者までいる。

 みんな普段はそれぞれ別の仕事を持った、庶民の集まりであるらしかった。

 高杉はと言えば、飾らない着流し姿の、いきな若旦那といった格好で戻って来た。手には三味線まで持っている。

「なんだか、みんなふつうの人たちですのう」

 龍馬が桂に囁いた。桂は微笑んでいる。

「高杉が集めて作った『奇兵隊』の連中だ。身分もさまざま、いわば素人しろうとの集まりだよ。しかし、国を守りたいという思いはみんな一緒だ」

 彼らは互いに酒を酌みかわし、なごやかな笑いのうちに今日の戦いを振り返っている。身ぶり手ぶりをまじえ、互いの肩をたたき合うその姿に、桂は目を細める。

「……幕府軍の兵は、さむらいとは言え、しょせんやとわれ者の集団だ。そもそも士気がちがう。何のために戦っとるのか分かっとらん奴らも多い。それに比べてこの連中は、一つの目的に向かって迷うところがない。しかも功を上げれば報いがあることも知っている。どちらが強いかは明々白々だ」

 桂は誇らしげに語る。

「それはひょっとすると、民主主義デモクラチーちゅう奴ですか?」

 龍馬はとつぜん耳慣れないカタカナを口にした。桂は思わず苦笑した。

「君はいろんな言葉を知っとるな。そうだ、民主主義デモクラチーだ。しかも、そこに目を付けたのは、私ではなく高杉だ。まったくあの男の発想と実行力には目を見張るものがある。恐ろしいくらいだよ」

 見ると高杉は、みんなに交って愉快そうに酒を飲んでいる。リーダーなのに少しも気負うところなく、みんなも彼を仲間の一人として遇しているようだ。龍馬は感心すると同時に、うらやましそうな目でそれを見ている。

「あいつは吉田松陰しょういん先生の一番弟子でね……」

 桂は龍馬に酒を勧め、みずからも一杯口にしながら言った。

「松陰先生も、じつに変わったお人だった。むかし黒船がやって来たとき、亜米利加アメリカという国が見てみたいと言い出してね、自分を連れて行けと、ペリーに直訴じきそしたんだ。笑うだろう?はしけでミシシッピ号まで漕ぎつけて、深く頭を下げた。けっきょく、その夢は叶わなかったが、―――ペリーはその若者の勇気にいたく感心して、こんな青年がいる日本という国は、まちがいなく見込みがある、と側近に語ったそうだ。彼らの方が物事をよく分かってるよ。幕府はそんな松陰先生を、あろうことか、死罪にしたんだ。愚かなことだ……高杉も、松陰先生に輪をかけたような自由人だよ。少々破天荒なところが、危なっかしいがね」

 桂の話を、龍馬は杯を手に持ったまま、だまって聞いている。そして目を輝かせながら言った。

「上もなく、下もなく、こころざしのある者が国を引っ張って行く。日本もそんな国になったらええですね。わしの故郷の土佐でも、やれ上士じゃ、下士じゃ言うて、身分の違いにしばられてがんじがらめになっちゅう。まっこと愚かなことじゃ。わしの仲間も、何人もそのために殺された。もういいかげん、この国の古いしきたりを変えんといかんのう……」

 夕闇が深くなるにつれて、うたげはたけなわとなり、興に乗った高杉が三味線を抱えて唄いはじめた。一同はもみ手で手拍子をしながら聞いている。

 

  庭にいたる梅の枝

  咲けよ咲けよとうぐいすくに

  むすめ一輪咲きにけり……


 高杉はのど仏を上下させ、唇をなまめかしくとがらせながら、娘になり切った調子で唄う。一同はどっと笑う。なかなかの名演技だ。

 龍馬も微笑んで見ていたが、そのうち一同に分け入って、その中へどっかと腰を下ろした。奇兵隊の一人がそんな龍馬に酒をぐ。


  咲いた一輪わがものと

  二羽のうぐいすあらそひ合うに

  むすめ振り向く姥桜うばざくら


 高杉がこんどは老婆の目つきをしてみせる。一同はまたどっと笑う。


  梅が桜か 桜が梅か

  春はいづこと

  まどふ鶯

  春はいづこと

  まどふ鶯……


 三味線をベベン、ベン、と派手に鳴らして、高杉は唄をしめくくった。大喝采が巻き起こった。

 焚火に照らされた男たちの笑顔が、何とも言えずさわやかな表情だ。

 龍馬は高杉のもとへ歩み寄り、お猪口ちょこをわたして酒を注いだ。

「高杉さん、まっことええ声じゃ。聞きれてしもうた……」

 高杉は照れ笑いをする。

「坂本さんも一節ひとふしいかがですか。いけるでしょう」

 高杉は三味線を渡そうとするが、龍馬は辞退する。

「いや、止めとこう。あんたの後で、どいて恥をさらさにゃならん。になるのはとうにあきらめちゅう。あはは」

 龍馬は手酌で自分も一杯飲む。

 辺りを見回すと、奇兵隊の男たちはいい塩梅あんばいに酔いつぶれ、中には松の木にもたれながらいびきを掻きはじめる者もいる。

「高杉さん。あんたはええのう。あり余る才とよき友に恵まれちゅう。思いつきをすぐに実行して、誰にはばかる所もない。何にもまして、その気ままさがええ。あんたは年下じゃが、わしゃ学ぶところがまっこと多いき。さぞかし生きるのが面白うて仕方ないろう……」

 高杉は「ふふ……」と言って口の端に皮肉な笑みを浮かべた。

「そう見えますか、坂本さん。もしそうなら、それはぼくがそうしているからです」

 高杉の顔にふと影が差したように見えた。龍馬は意外そうな顔をした。

「ぼくは時々、どうしようもなくむなしい思いに襲われるんです。どうしてこんな下らない世の中に生まれてしまったのだろうかと。もっと別の時代の方がよほどマシだったかもしれない……」

 龍馬がもう一杯、手酌で飲もうとするのを、高杉があわてて徳利とっくりをうばい、注いでやった。龍馬はそれを口にしながら、高杉の次の言葉を待った。僕も気になって身を乗り出し、聞き耳を立てた。チュン太はそろそろ眠くなったらしく、自分の羽の中に頭をうずめるように目を閉じている。 

「……われわれはどの家柄に生まれたかで、ほぼ一生が決まってしまう。選択の余地などない。がんじがらめで、夢も希望もない。そんな虚しさを紛らすために、ぼくはあれこれともがいているだけなのです。坂本さん、この気持ち、分かりますか―――」

 高杉は思いのほか暗鬱な表情を見せる。人には裏の顔があるものだなと、思って見ていると、さらにつづけて、

「ぼくが考えた一句があるんです。

  面白き こともなき世を 面白く……

そのあとがまだ浮かばないんだが……」

 龍馬はしばらく黙り込んでいた。自由を謳歌しているように見えるこの勇者にも、そういう悩みがあるのかと、感じ入ったような顔をしている。そして、しばらく考えたあと、こう言い放った。

「高杉さん、そのしもの句を思いついたぜよ。

  住みなすものは 笑顔なりけり

 というのは、どうじゃ。世の中は気の持ちようでどうとでもなる。無理やりにでも笑ちょったら、そのうちだんだん本当に面白うなる、いう意味じゃ」

 高杉もしばらくキョトンとしたあと、ふいにせきを切ったように笑いはじめた。あまりに笑い過ぎて、目に涙をにじませ、途中からそれは咳に変わった。

「大丈夫か……高杉さん。そんなに可笑しかったか」

 龍馬は心配そうに覗き込む。

「いや、いや、大丈夫です、坂本さん。すみません。あなたと喋っていると、ついつい本音が出てしまう。しかし、本音を吐き出してしまうと、なんだかこう、気分がいいですね」

 高杉はうれしそうに龍馬の顔を見つめる。龍馬もつられて笑顔になる。

「……ときに坂本さん、一つ頼みがあるんだが、聞いてくれますか」

と、高杉は真顔になった。龍馬も真剣な目で見つめ返す。

「じつは、あすの朝、小倉方面へ出陣する予定なんだが、何をかくそう、ここがこの戦いの山場になると見ています。ここを攻め落とせば、幕府軍を完全に撃退することが出来る。われわれ奇兵隊だけでも、決して幕府に引けを取らないつもりですが、なにしろ敵は二万の大群、こっちはたかだか千人の無勢、うっかりしくじれば巻き返される恐れもある―――そこであなたと、亀山社中のみなさんに、ユニオン号で加勢してもらいたいのです。海戦の巧みさにおいては、われわれよりもあなた方のほうが一枚上手うわてだ。その援護があれば、確実に敵を倒すことが出来る。どうでしょう、坂本さん。一つ、力を貸して下さいませんか」

 龍馬はすでに、そういう展開を予想していたらしく、口をへの字に曲げて、大きく二度うなずいた。

「わかりました。高杉さん。われわれも実は、その心算つもりでここへ参ったのです」

 龍馬はもう一杯酒をあおると、多くを語らず、それでは今夜はもう寝ましょう、と言って、酔っぱらった奇兵隊の連中とともに地べたに雑魚寝ざこねをし、すぐに鼾をかき始めた。

 高杉はその気の早さと寝つきのよさに感心している。

 龍馬の見る夢は、はたしてどんな夢か―――きたるべき民主主義デモクラチーの時代に、大手を振って町を闊歩する、あるいはそんな夢であっただろうか。

 朝目を覚ますと、すでに奇兵隊の男たちは、起きて戦闘の支度したくをしていた。龍馬もあわてて身なりを整え、亀山社中の仲間をたたき起こして事のあらましを説明した。連中も龍馬の突拍子もない提言には馴れていると見え、そそくさと準備に取りかかった。

 作戦としては、高杉の率いる第一艦隊と、龍馬の率いる第二艦隊が、関門海峡の対岸に陣取る幕府軍の砲台を、両側から挟み撃ちにするというものであった。まだ夜が明ける前の、相手のすきを狙った奇襲作戦なので、何よりも手際のよさが肝心となる。

 奇兵隊の同志は高杉の草案に短くうなずき、統率のよさを見せた。

 亀山社中もひけをとらず、龍馬の指示をすみやかに理解した。

 さいごに高杉と龍馬は固く手を結んで、勝利を誓い合った。

「さあ、訓練の成果を見せる時ぜよ!」

 龍馬はわれ知らず武者ぶるいをした。亀山社中はつねづね演習を積んでいるとはいえ、実際の戦闘に参加するのはこれが初めてであるらしかった。僕とチュン太も、危険は重々承知の上で、こっそりユニオン号に同乗することにした。

 港を出発した船団はしずかに朝靄あさもやの海を進む。相手に気付かれずに近づくため、蒸気エンジンではなく帆走はんそうに切り替える。関門海峡は狭いので、敵陣との距離はさほどないはずであったが、夜明け前の暗さと立ちこめる霧のせいで、対岸は都合よく視界不良である。なるべく射程距離ぎりぎりで大砲を打つのが効果的なので、船隊は獲物を狙う狼のように音もなく海をすべる。そのうち夜が明けはじめた。まもなく視界が晴れて、うっすらと対岸の景色が見えはじめた。

 小高い丘の所どころに、幕府軍の砲台があるのが確認できた。その後方に陣幕を張って、大勢の兵が控えているらしい。港には軍艦が数隻係留されている。その寝静まった感じは、まだこちらの接近に気がついていない様子である。第一艦隊と第二艦隊が少しずつ横に広がり、相手陣地を取り囲む。

「撃て!」

 予想よりも早いタイミングで高杉の声がこだました。

 いきなり戦闘が始まった。

 すさまじい破裂音がしたかと思うと、ヒューという音がつづき、数秒ののちに丘の上で岩が砕け散るのが見えた。砲弾が炸裂したようだ。

「撃て!休まず撃て!」

 さらなる高杉の号令とともに、二発目、三発目が発射される。敵陣の数ヶ所で同時に黒煙が上がる。その中の一つが砲台をとらえ、粉々になって空中に吹き飛ばされるのが見えた。

 僕とチュン太は首をすくめた。

 雀が来る場所ではなかった、と後悔したが、時すでに遅しであった。

 敵陣ではようやく来襲に気づき、宿舎を飛び出した兵士たちがわらわらと反撃の準備にかかる。ある者は砲台につき、ある者は軍艦に乗り込んだ。

 その様子を見た龍馬は亀山社中の仲間に向かって叫んだ。

「われわれは港の船をねらうがじゃ!」

 ユニオン号の砲台がいっせいに敵艦を向いた。

「撃て!」

 龍馬も迷いがなかった。いつもの温厚さは影をひそめ、鬼のような形相になっている。

 ユニオン号から放たれた砲弾の一つが敵艦の横腹をとらえた。船は大きく揺らいだ。何発かは海に落ち、何発かはマストをかすめただけであったが、そのうち照準が合いはじめると、弾は連続して船体に命中した。みるみるうちに敵艦は戦闘不能の状態に陥って行った。

 龍馬はつづけて別の船を狙うよう指示する。白袴しろばかまの連中もよく心得ていて、きびきびと役目をこなす。ある者は大砲に弾をこめ、ある者は熱くなった砲台を海水で冷やしている。号令とともに次々に弾丸が補填される。

「それにしても……」

と龍馬は呟く。「さすがイギリス製の大砲は性能がちがうのう……」

 龍馬はあらためて自らの乗る船―――「ユニオン号」の能力に感心しているようである。

「勝先生のもとで訓練した成果が、今ここで発揮されちゅう。何事も無駄ではなかったのう」

 腕組みして満足気に立つ龍馬の頭の上を、そのとき何かヒヤリとするものが通過した。

 と同時にすさまじい音を立てて、ユニオン号のマストが砕け飛んだ。龍馬は思わず首をすくめる。

「敵の攻撃じゃ!」

 身を伏せながら恐る恐る見回すと、準備のととのった敵の砲台がいっせいに銃口をこちらへ向けている。ようやく幕府軍が反撃を始めたようである。

「油断するな!」

 龍馬はユニオン号を旋回させて、ひとまず防御の体勢をとった。もう一発食らえば、たちまちこちらが形勢不利となる。生死の分かれ目は紙一重―――それが戦争というものだ。

 しかし、幕府軍の次の弾が込められた瞬間、どこからか飛んで来た弾丸が敵の砲台をこっぱみじんに吹き飛ばした。

 見ると、第一艦隊の高杉がこちらを見て笑っている。援護射撃をしてくれたのだ。

「ありがとう、高杉さん!あんたに助けられるのは、これで二度目じゃ!」

 龍馬もそう叫びながら大きく手を振る。

 ユニオン号はふたたび体勢を立て直し、今度は陸上の敵陣へ向かって攻撃をはじめた。  

 右からの第一艦隊と、左からの第二艦隊が、いっせいに幕府の本陣へ砲撃をあびせる。

 海をはさんで、数十発の弾丸が飛びかう姿は、不謹慎な例えだが、まるで夏のロケット花火のようであった。

 砲台の大半を破壊された幕府軍は、やがて反撃する余力を失い、しだいに防戦一方になった。逃走する敵の様子を、望遠鏡をのぞきながら見張り番が報告した。

 奇襲作戦は功を奏した。

 高杉が龍馬にむかって何か合図をしている。

「なになに―――もうええから戻れ、あとはわれわれが何とかする、とな―――みんな、戦いはこれまでじゃ。すみやかに引き上げるべし!」

 ユニオン号の参戦はここまでとなった。

 高杉の第一艦隊はそのまま敵地へ上陸するようであった。船を岸につけ、乗組員がつぎつぎと陸地へ飛び移るのが見える。

「たのんだぞ、高杉さん。日本の夜明けはあんたにかかっちゅう」

 陸上ではかすかにポップコーンが弾けるような音がする。白兵戦が行われているらしい。龍馬は思いを高杉晋作に託し、戦地を引き上げた。

 聞く話では、このあと長州軍は小倉城を攻め落とし、みごと幕府軍を撃退したらしい。少数精鋭の奇兵隊が、寄せ集めの官軍を打ち負かした形である。そして、長州が幕府軍に勝ったというニュースは、たちどころに全国に広まった。高杉の面目躍如めんもくやくじょである。

「高杉さん、なんか、すごいね」

 僕は高杉晋作という人物がしだいに気になり始めていた。

 もちろん、戦闘家としての彼ではなく、生まれ持った繊細さと、行動力をともなう稀有けうな才能の持ち主として、僕自身の理想形のようなものがそこにあるような気がしたからだ。歴史上の人物と卑小な自分とを比べるのはむろんはなはだおこがましいけれども。

「うん……。だけど高杉晋作はこの戦争に勝利したあと、血を吐いてすぐに亡くなるんだよ。結核という病気でね……」

 僕も彼の早世についてはおぼろげに知っていた。

 幕末に活躍した人たちはみな、おおむね短命である。とくに彼のような、純粋で一途いちずな人ほど、先を争うように亡くなっている。そしてそれは、偶然ではなく必然のように思える。「純粋さ」は「短命さ」につながる―――もし彼のような生き方を理想とするならば、あるいはこの僕もまた……。

 ユニオン号は一足先に下関へと戻り、龍馬は桂小五郎に戦況を報告した。

「そうか!ありがとう、坂本さん。これで長州はなんとか生き延びることが出来る。あとは高杉を信じよう。そしていずれは、このいきおいで徳川を打ち破ろう!」

 桂の表情は安堵からしだいに「野望」へと変わった。

 龍馬は桂のうれしそうな顔を見て、いちど何か言いかけた言葉を呑み込んだ。どうやら彼にはまた別の考えがあるらしかった。しかし今はそれを言う時ではない、といった表情である。

 龍馬は宿舎へ下がると、役人に所望して紙とすずりを持って来させ、なにか手紙を書きはじめた。

 紙を大きく広げて、まず大雑把な「絵」をき、そのあいだにびっしりと細かい文字で説明のようなものを書き入れている。興奮して書いているので、ものすごい速さで仕上がって行く。

 僕らは木の枝からそれを見ていたが、ごちゃごちゃと書かれたその手紙は、どうやら本日の海戦の模様を、誰かに報告している様子であった。小さな書き損じは気にせず、その横に書き足していくところが彼らしい。

「絵はあんまり上手じゃないみたいだね……」

 僕とチュン太は苦笑した。

 出来上がった手紙を満足そうに眺めながら、ふーふーと息を吹きかけ、墨を乾かしたあと、龍馬はそそくさと手紙を封筒に入れた。

 そして最後に、黒々とした文字で、

  坂本乙女様

と宛名を書いた。

「……龍馬さんは、どんな大仕事のあとでも、姉のお乙女とめさんに報告するときは、見て、見てお姉ちゃん、という自慢げな弟の顔になったよ」

とチュン太が微笑んだ。

 僕は、なぜ一介の脱藩浪士に過ぎない龍馬が、西郷や桂や勝海舟などの大人物と知遇を得、共に活躍したか、その謎が解けたような気がした。

 彼の「無邪気さ」と「甘え上手」なところが、自然と人を笑顔にさせ、どんな人物の心をも開かせるのだ。

 それはあくまで個人の資質に過ぎないけれども、歴史を動かすのもまた人間である。その性質がうまく周囲に波及すれば、大きな流れを変えることも可能なのだ。

 ともあれ、一仕事終えた龍馬は、いったん下関を引き上げ、亀山社中の本拠地である長崎へ戻ることにした。ユニオン号はそのまま、本来の持ち主である長州藩へ返却した。

 長崎ではおりょうが月琴をかかえて待っていた。

 お龍は、身を寄せている豪商のやしきへ龍馬を呼び寄せ、広い座敷のまん中へ彼を座らせると、たどたどしい手つきで習いたての月琴を披露した。

 手入れの行きとどいた日本庭園の松の枝から、僕とチュン太はその様子をながめた。

 お龍の演奏はお世辞にも上手とは言えなかったが、好きな人に聞いてもらいたいという思いが一つ一つの音にあふれ、なかなか味わいのあるものであった。何より、月琴という楽器の音が、この街の空気に不思議なほどよく似合っていた。

「彼女は龍馬さんのことが好きなんだね」

 そのいじらしい姿に、はからずも僕とチュン太は同時にそう呟き、目を細めた。。

 しかし龍馬はというと、「見事じゃのう。なかなかの腕前じゃ……」とお愛想あいそを言いながらも、どこか心では別のことを考えている表情であった。

 お龍の演奏を聞き終えた龍馬は、一人盛大な拍手をしたあと、にわかに立ち上がり、「すまんのう。ちくと用があるき」と言い残して邸を出た。

 僕らは彼のあとについて長崎の街を飛んだ。しばらく行くと、道はだんだん細い登り坂になり、振り向けば港に停泊する船がはるかに見下ろせる高台にまで来ていた。一軒の家屋に『亀山社中』という看板が見える。どうやらここが龍馬たちの活動の拠点であるらしい。

「みんな。調子はどうじゃ」

 敷居をまたいで仲間に声をかけた龍馬に、社中の男たちがいっせいに注目した。

「龍馬!無事じゃったか」

 下関での活躍の知らせはすでに耳に入っていたらしく、男たちはひとまず龍馬の帰還を喜び合った。

 そして彼の土産みやげ話に一くさり耳を傾けたあと、ふいに沈黙が訪れ、彼らは何かを思い出したようにため息をついた。

「さて、われわれの今後のことじゃが、……これからどうするかのう……」

 話を聞くと―――

 薩長同盟が成って、長州が幕府軍を退しりぞけたいま、龍馬の目指す日本変革の夢は一歩近づいた訳であるが、それはそれとして、彼らの活動母体である亀山社中が、現在深刻な経営難におちいっているのであった。

「そもそも、乗る船がない……」

 思えば自前の船を海難事故で失くし、運航を任されていたユニオン号も長州藩へ返してしまったため、彼らには自由に使える船が一隻もなかった。

 海運業を営む彼らにとって、船がないというのは致命的なことである。

「とにかく、かすみを食うて生きちゃおれん。なんとか打開する道を探すんじゃ」

 早々はやばやと飛び出して行く龍馬を、社中の仲間たちは追いかけた。

「おい、どこへ行くんじゃ、龍馬!……」

 飛び出してはみたものの、龍馬にはこれといって行く当てはないらしかった。あっちの壁を叩いたり、こっちの井戸を覗いたりしている。

「それにしても……」

と龍馬は呟いた。

「このまま武力で幕府を倒してもええがじゃろか……」

 彼は先日から何かがに落ちない様子である。

 桂に対して口ごもった、あの件であろうか。

 やがて彼の足が向かったのは、異国情緒あふれるにぎやかな歓楽街であった。やっと追いついて来た仲間たちも、火の灯る提燈ちょうちんを見回し、思わず頬をゆるめる。

「まずは羽を伸ばさんと、よい考えは浮かばん……」

 龍馬の足取りは颯爽としている。まさに男の論理であった。

 龍馬を先頭に、彼らは行きつけらしい料亭の暖簾をくぐった。

 赤い手摺てすりのついた二階の窓から中を覗くと、白ぬりの芸者に酌をされて、男たちは上機嫌でどんちゃん騒ぎを始めている。

「散財するお金なんかあるのかな?」

「いちおう薩摩藩から給料は出てるようだけど、そんなに沢山じゃないはずだよ。まったく男どもといったら……」

 チュン太は案の定、機嫌が悪い。

 見ると、中でもいちばんはしゃいでいるのは龍馬らしく、頭に鉢巻きなどして真ん中で裸踊りを踊っている。打開策を考えている姿には見えない。

「そんな時間も必要なんだよ……」

 同情的な目で見る僕に、チュン太は耳を貸そうとしない。そのうちチュン太は、龍馬の横で面白そうに笑っている一人の芸者を指差して言った。

「あのひと、龍馬さんのことが好きみたいだね」

 見ると、たしかに、ちょっと小ぎれいな芸者が、龍馬のやることなすこと一々笑って見ているのであったが、厚化粧のせいもあって、僕にはそれが商売の笑いなのか、本心なのか区別がつかなかった。

「どうして分かるの?」

「分かるんだよ」

 龍馬のひっくり返した杯や皿を丁寧に片付ける女を眺めつつ、チュン太はそれ以上説明しなかった。僕もなんとなく、それ以上は聞かない方がいいような気がして口をつぐんだ。やぶ蛇は避けるべきである。

 一夜あけて、社中の男衆おとこしゅうがはだけた腹を出しながら料亭の座敷で鼾をかくうち、龍馬は一人だけ先に起き出して、朝日のあたる花街をあとにした。

 彼の足は自然と港の方へ向いた。港に停泊する大小さまざまな船を見ながら、うらやましそうに独り言をいう。

「とにかく船が欲しいのう。世の中にはこんなにようけ船があるのに、どいてわしらには一隻もないんじゃ」

 龍馬は波止場に落ちていた小石を蹴飛ばした。

 すると、小石の転がった先に、いつからそこにいたのか、一羽のカラスが、漁師の残していったらしい雑魚ざこを口にくわえ、飛び立とうとするところであった。カラスは勢いよく転がって来た小石に驚き、飛び立つ瞬間にうっかり魚を地面に落としてしまった。あっ、という顔をしながらも、龍馬を警戒してすぐには拾おうとしない。そこへ、どこからか野良猫がやって来て、天からの贈り物とばかりにその魚を横取りしかけた。カラスはそうはさせまいと、所有権を主張するように猫に襲いかかる。猫も応戦する。カラスが猫の頭を小突こづけば、猫はカラスの羽を引っ搔く。そのうち、肝心の魚そっちのけで、二匹の動物による取っ組み合いが始まった。

 龍馬は面白そうにその様子を眺めている。僕とチュン太は恐ろしくて物陰に隠れた。

 しばらく見ていると、何とも意外な結末が訪れた。

 愚かな二匹の争いをさらに上空から見ていたとんびが、大きな羽を広げて急降下して来たかと思うと、放置された魚を悠々と口にくわえ、そのまま上空へ飛び去ってしまったのだ。

 あっけにとられ、茫然と空を見上げる猫とカラスの表情がなんとも哀れである。

「あはは。愚かなもんじゃのう。しょせん畜生じゃ。人間ならばもっと賢いがのう。頭と尻っぽを二つに分けて、半分ずつもろたらええ。知恵がないのう。あはは……」

 大笑いする龍馬の表情が、途中からだんだん真顔になった。何かを思いついた男の顔だ。

「そうじゃ―――幕府は……」

 龍馬の口から全く予想外の言葉がれた。

「政権を朝廷に、返上すればええ……」

 彼の中で何かがつながったようである。

 龍馬は港をあとにして、曲がりくねった坂道を駆け足で登って行った。とかく長崎は坂の多い町である。

「しかし、その前に、社中の経営をなんとかせんといかん……」

 彼は日本の将来と、身辺の現実とを、二つ同時に悩んでいるようだ。大小二つの問題は、しかしながら、どちらが大でどちらが小なのか、たやすく決めることは出来ない。

 彼の足がつぎに向かったのは、長崎の街を一望できるような、風光明媚な丘の上に立つ洋館であった。僕はその風景を絵葉書で見たことがあった。

「グラバー邸だね……」

 南国風の美しい庭には、白人の紳士淑女たちがグラスを片手になごやかに談笑している。

 まさに異国と見まがう風景だ。

 そこへ、坂下からふと現れた怪しい男を彼らは振り返った。

 腰に刀をつけた龍馬の姿に、一瞬その青い瞳に警戒の色が浮かんだので、龍馬はあわてて刀をはずし、友好の笑みを浮かべた。

 その中の一人、イギリス風の髭をたくわえた男がにわかに歩み出て龍馬に声をかけた。

「オオ、サカモトサン!」

「久しぶりじゃのう、グラバーさん。その節はお世話になりました」

 二人は旧知の間柄あいだがらのようである。

「商売は繁盛しとるかのう?」

「マア、ボチボチデスネ。良カッタリ悪カッタリ……」

 グラバー氏はすっかり日本式の挨拶を心得ている。発音もなかなか流暢である。

「立チ話モナンデスカラ、トリアエズ中ヘ」

 グラバー氏に促されて、龍馬は邸宅の中へ入る。

 僕らは花瓶の置かれた出窓のところからその様子を覗いた。

「……アナタガココへイラッシャルトイウコトハ、何カタクラミガオアリトイウコトデスネ」

「あはは。すでにお見通しじゃ。いつもいつもお手を煩わせてすまんのう……」

 龍馬は単刀直入に亀山社中の窮状を訴え、まずは船を一隻用立てて欲しいことを願い出た。グラバー氏は腕組みをしながら、うん、うん、と頷いている。しかし、龍馬が言いにくそうに、船の賃料の話をすると、みるみる渋い顔になった。

「ソウデスカ……。助ケテアゲタイノハ山々デスガ、ソノ予算デハドウモ……チョット調ベテミマショウ」

 そう言って奥へ行ったかと思うと、帳面をめくりながら戻って来て、

「……ヤッパリソノ代金デ用立テラレル船ハ、今ノトコロ一隻モアリマセン。引キ続キ探シテミマスガ、アマリ期待シナイ方ガ……」

と言って帳面を閉じ、パイプに火を点けた。

「やっぱり駄目かのう。無理じゃったかのう。すまん、すまん」

 予想していたとはいえ、龍馬は落胆の色を隠せない様子でグラバー邸をあとにした。

 とぼとぼと歩くそのうしろ姿がなんとも切なかったが、立ち直りの早いのが彼の美点、路地うらで遊ぶ子供の輪にまじって遊ぶうちに再びいつもの笑顔になった。

 腰をかがめ、ビー玉を真剣に地面へ放っている。

 それからなん日も、なん日も、龍馬は金策と船の調達にかけずり回った。

 あまりにあちこち飛び回るので、僕とチュン太は追いかけるのにも飽きて、思い立ってお龍さんの寄宿する屋敷へ行ってみることにした。

 あい変らず月琴の稽古に忙しいお龍さんは、ふと庭に飛んで来た雀を見つけると、立ち上がって奥から、お盆にのせたカステラを持って来てちぎって投げた。

 空腹だった僕らは、むさぼるようにそれを食べた。甘い香りとやわらかな食感が、とろけるように口の中に広がった。とくにカリカリとした砂糖の部分が驚くほど美味で、僕たちは知らず知らず目をうるませていたらしい。

「雀の目に涙ね……」

 お龍さんは口に手を当ててコロコロと笑った。

 僕たちはそれに味をしめ、その後何度もお龍さんの庭へと足を運んだ。

 そのころ龍馬はというと、あちこち奔走したにも関わらずいまだ解決策は見当たらないようで、ただひげかみだけがぼうぼうに伸びていた。

「いっちょう、床屋へでも行くとするか。気分を変えよう」

 彼は坂の途中の小さな床屋へと入って行った。店からは港に停泊している船の様子が伺える。

「へい、いらっしゃい。今日はどのように……」

 それまでヒマそうに金魚鉢を覗いていた店主は振り返って言った。

「どのようにも、このようにも、さっぱりとしてくれたらええぜよ」

 龍馬は椅子にどっかと腰を下ろすと、どうにでもしろ、という顔で大人しく目を閉じた。

 主人は鏡と本人を見比べながら手際よくボサボサの頭を切り揃えていく。

「……ウチは日本人より、外国人のお客さんのほうが多いくらいです。お陰で英語もちょっと上手くなりました」

 主人は訊かれもしないのに、最近覚えたという英語をいくつか披露した。

「……外国のかたは、注文もなかなか細かくて……ま、その方がこっちもやりやすいが……男の人の方がお洒落なようですな……ヒゲの形にも一人一人こだわりがある。こないだ……」

 おしゃべりな主人の話に、龍馬はいちいち「ほう」とか「なるほど」とか、相づちを打っている。客の方が聞き上手なようだ。主人もつられて、延々と喋りつづける。

 よくもまあ、こんなに喋ることがあるものだと、僕は感心して見ていた。

 ヒゲを当たってもらっている龍馬は、鏡の中の主人に向かって言った。

「あんたらの商売はええな。なにより、元手もとでがかからんのがええ。客の髪を勝手に切り散らかして、おまけに金まで取る」

 主人は苦笑いをしながら答える。

「はは。ほんにそうですな。どんなに世の中が不景気になっても、わたしらは、まあ、食いっぱぐれがない。はさみ一つあればやっていける。元手はこの、腕だけですから」

と、腕まくりして調子を合わせる。

「お客さんはちなみに、どんな商売をされてるんですか?お見受けしたところ、刀はお持ちのようだが、どうやら本職のおさむらいではなさそうだ。なにかあきないをされていると拝見しましたが……」

 主人もなかなか遠慮がない。

「はは。さすがじゃのう。よう人を見ゆう。さよう、わしもおまんと同じようなもんじゃ。右のものを左に動かして、駄賃をもろて生きちゅう。人のフンドシで相撲を取りゆうだけじゃ。はは」

と龍馬は愉快そうに笑う。こちらも敷居の低さがさわやかだ。

「ん?」

 とつぜん龍馬はまた何かを思いついた人の顔になり、ぶつぶつと口の中で独り言を言っている。

「そうか―――事によると、かも知れん……」

 龍馬はありがとう、助かった、と最後の仕上げをしようとする主人を制して、席を立ち上がった。まだその顔にはシャボンの泡がついている。

「おかげでさっぱりした。釣りはいらんぜよ……いや、足りるかのう……」

 財布を覗き込んで、そそくさと店を出ようとする龍馬を、主人はキョトンとした顔で見送っている。

「なんか知りませんが、いい気分で帰っていただくのが私の喜びです。イッツ・マイ・プレジャアです。お気をつけて」

 床屋を出た龍馬はスタスタと亀山社中への坂を登る。頭はさっぱりとして、足どりも軽い。汗ばむ陽気にふうと息をつく。

「よう。龍馬。船は見つかったか?」

 帳面の整理をしていた仲間の一人が、龍馬に心づいて声をかける。

「いや、まだじゃ。しかし、あたらしいビジネスを思いついた」

「またか?船もないのに、もっと手を広げるつもりか?」

 はたき掛けをしていた別の男が訊いた。

 龍馬はどっかと腰を下ろし、やかんからお茶を飲みながら言った。

「まあ聞いてくれ。こういうことじゃ……」

 龍馬の話によると、知っての通りわれわれにはいま船がない、調達する金もない。しかし腕のある仲間が力を持て余している。ところが薩摩のように、船はあるが乗り手がいなくて困っている藩もあるし、長州のように、すぐれた発想を持ちながらそれを充分に生かしきれていない藩もある、また別の藩は、いい水路を持ってはいるが諸藩への伝手つてがない、またある藩は、豊富な特産物をさばききれずに腐らせている、かと思うと、売るものは何もない、金もないのに、敵がいないのが取り柄という藩もある、要するにみんな一長一短あって、独りでうまくやっている者は少ない、と言うのだ。それらをここに一堂に集めてみてはどうか、船のある者は船を出し、腕のある者は腕を出す、水路を持っている者は水路を提供し、産物のある者は少しずつ持ち寄る、伝手のある者がそれを流通させる、という風に、みんなそれぞれ得意なものを出し合って商売をうまく回し、利益は公平に分配する、参加者は多ければ多いほどよい、諸藩をまき込んだ『総合商社』を作ろう、と言うのであった。

「みんながみんな、他人のフンドシで相撲を取るがじゃ。どうじゃ、ええ考えじゃろう」

 龍馬は得意そうである。

「そんなにうまくいくかのう。だいいち、いったい誰がバラバラの諸藩をまとめるんじゃ」

 半信半疑の仲間たちに、龍馬は不服そうな顔で言う。

「誰がじゃと?そんなことが出来るがは、このしかおらんぜよ。エヘン、エヘン」

 龍馬は頬をふくらませる。

「おまんらは引きつづき船を探しちょってくれ、わしゃ、ちくと行ってくるき……」

「またどこへ行くんじゃ、龍馬。おい!」

 行く先も告げずに飛び出した龍馬のあとを、僕とチュン太が懸命に追いかけると、向かった先はおりょうの寄宿する豪商の屋敷であった。それにしても龍馬はよく飛び回る男である。

 この日は主人も在宅のようであった。龍馬はお龍にも手伝わせ、何通もの手紙を書いた。

「こんどは何を企んでおられますかのう、坂本さん」

 忙しそうに筆を動かす龍馬を、主人は面白そうに眺めている。筆まめの龍馬は、なかなかの達筆である。達筆すぎてよく読めない。

「なあに、ちくと愉快なことを考えましたき。ご主人、いつもお手をわずらわせて悪いが、これを各藩に届けたいがじゃ。頼めるかのう……」

 龍馬は出来上がった手紙の束を主人に見せる。

「お安い御用です。しかし、あまりわれわれの商売をおびやかしてもろては困りますな、ははは」

 そう言いながらも主人はむしろ余裕の表情である。この人物もまた、龍馬に対して全幅の信頼を寄せているらしい。

 久しぶりに龍馬に会ったお龍は、まとわりつかんばかりにあれこれ気を引こうとするが、龍馬はそんな彼女の手をそっと振りほどき、ふたたび出立しゅったつの準備にとりかかる。

「お龍。すまんのう。またちっくと留守にするき。商売を立て直したら、おまんをどこへでも連れて行っちゃる。日本一周でもええぞ」

「……ほんなら、世界一周がしとうございます」

 お龍はつとめて笑顔を作る。そして、あわただしく屋敷をあとにする龍馬を、門のところまで見送っているが、その背中がやはりどことなく寂しそうである。

「お龍さん、なんか可哀想だね」

 僕がそう言ってチュン太を見ると、彼はどうやら同情の涙さえ浮かべていたようで、あわててそれを羽で隠し、こちらもまた努めてニッコリとした。

 僕はなんだかいたたまれない気持ちになった。情に厚いチュン太に比べると、自分がまだまだ子供のような気がして、恥ずかしく思った。

 ともあれ、僕らはまた龍馬のあとを追った。彼はいつしか下関へ向かう船の中にいた。自分の会社が倒産寸前なのに、もっと大きな事業に手を伸ばそうとしているのだ。そのバイタリティーに僕は脱帽した。

「どのくらい集まるかのう。わしの考えは、みんなに伝わったかのう……」

 島々の間を抜け、一夜あけて、船は下関へ到着した。

 上陸した龍馬は、待ち合わせ場所らしいふぐ料理屋の暖簾のれんをくぐった。

 玄関に脱ぎ捨てられた草履の数からして、各地から集まって来た使者たちが十五、六人はいるようだ。

 料亭の周囲は白壁に覆われ、窓はあらかた閉じられていたので、あいにく中の様子は分からなかったが、一つだけ開いている窓を見つけて中を覗くと、それは龍馬たちの集まる部屋ではなかった。せまい座敷に浪人風の男が一人、ふぐ料理をさかなに手酌で酒を飲んでいる。

 仕方なく、僕らは外で待つことにした。はたしてうまく龍馬の計画はまとまるであろうか―――

 二時間ほど経ったころ、狭い部屋の向こう側の廊下を、龍馬らしい男がブツブツ独り言を言いながら歩いて来るのが分かった。小用にでも立ったのであろうか。

「……みんなの要求をすり合わせるのは、思ったより難しいのう。なかなか根気のいる仕事ぜよ……」

 その声に聞き覚えがあったのか、酒を飲んでいた男は大きく目を見開き、にわかに立ち上がって、廊下に面したふすまをバタンと開けた。

「龍馬!やっぱりおまんか!」

 鳩が豆鉄砲を食らったような龍馬の顔が見えた。

「し、慎太郎!こんな所へ来ちょったか。久しぶりじゃのう!」

 二人の間には友情というより、なにか同志だけが持つ打ち解けた親密さがあった。

「……薩長同盟のとき、いっしょに奔走した同郷の中岡慎太郎だよ」

 チュン太が耳打ちした。こんどは彼も、男の子のような凛々りりしい顔になっている。

「まあ中へ入れ。いっしょに飲もう」

「待っちくれ、小便が先じゃ」

 すぐに戻って来た龍馬は、料理の卓をはさんで慎太郎と差し向かいに座った。

「……ところで慎太郎、おまんは何しにここへ来ちゅう。何か企んどるがか。それとも急に、ふぐ刺しが食いたくなったか……」

 龍馬は慎太郎の食べかけのふぐ刺しを、勝手に箸ですくいながら訊いた。

「龍馬、じつはな、さっき桂さんに会うて来たがぜよ。いまは幕府を倒す、絶好の機会じゃ……」

 慎太郎はあたりをはばかって声をひそめたが、大丈夫、ここは長州じゃ、と龍馬は気にする様子もない。

「……おまんも下関の戦いに参加したそうじゃのう、龍馬。おかげでいま、幕府はほどんどていじゃ。この勢いで江戸に攻め上れば、幕府は必ず倒れる。薩長の力を合わせれば、おそらくまちがいない」

 慎太郎は興奮した様子で身を乗り出す。薩摩と長州を苦労して結びつけたのも、この日のためじゃ、と言わんばかりである。

 しかし龍馬はあいかわらず淡々たんたんとした顔で、ふうふう言いながらふぐ鍋などをつついている。慎太郎はなおも勢い込んで喋る。

「このまま押せばきっといける。しかし、ただ倒すのではなく、朝廷の許可を取り付けるんじゃ。われわれは逆賊としてではなく、正式な倒幕軍として幕府を討つ。その方があとの展開が有利になる。その勅許を取り付ける相談を、桂さんに持ちかけて来たところじゃ」

 目を見開いて喋る慎太郎は、当然、同志である龍馬も賛同してくれるものと思い込んでいる顔である。

 ところが龍馬は一向に話に乗ってくる気配がない。ふぐヒレを浮かべた酒を、美味そうに飲んでいる。

「どうじゃ、龍馬。あと一押しで幕府は倒れるぞ。世の中は変わるぞ」

 目を輝かせる慎太郎を、上目遣いに睨みながら、龍馬はようやく口を開いた。

「幕府が倒れるのはもう分かっちゅう。ほっといても倒れる。とどめを刺す必要はない」

 静かにそう言って、また酒を飲む。

 期待とは違った、そっけない反応に、慎太郎は驚きの声を上げる。

「な、何を言いゆうがか、龍馬。このためにわれわれは諸国を駆けずり回ったのではないがか。最後の仕上げをせんでどうする?」

 詰め寄る慎太郎に、龍馬はなおも平然と答える。

「力で倒すのは次善の策じゃ。。これが一番の勝ち方じゃ」

 その意をしかねる慎太郎に、龍馬ははっきりと告げる。

「幕府に、政権を、みずから返上させる―――」

 しばらく考えていた慎太郎は、ようやく龍馬の意図するところが呑み込めたようである。

「なるほど、大政奉還か―――それはわしも考えた。しかし龍馬、世の中はそう杓子定規にはいかんぜよ。幕府がやすやすと政権を手放すとは思えん。それよりも、古くなったものは一度きれいにしてしまった方がええ。情けは無用じゃ。おまんもそう考えて幕長戦争に加わったではないがか」

 たしかに、みずから兵を挙げ参戦した龍馬は、決して一貫した平和主義者ではなく、場合によっては男である。生来争いごとを好まないとはいえ、実力行使を完全に否定してはいない。そういう清濁併吞なところが彼の持ち味でもあり、また時代の空気でもあったのであろうか。あたかもわれわれの世代が「清き水」にこだわり過ぎるように。

「わしが戦に加わるがはあれが最初で最後じゃ。無用な血は流さん方がええ。それに、ここで幕府とがっぷりつで戦こうてみい。日本は目も当てられん火の海になるぞ。それを見ていちばん喜ぶのは誰じゃ。日本を乗っ取ろうと虎視眈々とねろとる異国の奴らじゃ。われわれは仲間同士争うとる場合じゃない。なるべく国力を残したまま、すきを見せんよう、すみやかに政権交代をする。そのための大政奉還ぜよ」

 龍馬はまばたきをせず、慎太郎を見つめる。

 慎太郎も負けずに唾をとばして反論する。

「甘いのう、龍馬。世の中が変わるときには多くの血が流れる。犠牲を恐れてはいかん。それが革命ちゅうもんじゃ。おまんは西洋の歴史を知らんのか。幕府はそれだけ悪いことをしてきたんじゃ。悪人を倒すのに遠慮はいらん。一挙にやれば隙も作らんですむ。だいいち、桂さんはもう乗り気じゃ。長州はさんざん幕府にいじめられて来たきのう。西郷も、これからわしが説得する。大政奉還などと、回りくどいことを言いゆうヒマはない。時は一刻を争うんじゃ」

「悪人、悪人言うがのう、人間はたいがいみんな、会うてみたらええヤツじゃ。まずは話をしてみる。力で押さえれば、必ず力で反発する。その繰り返しは、まっこと無益じゃ。血ィなんか流さんでも、世の中は変えられる。徳川も実のところ、なんとか生き延びる道を探しちょるんじゃ。幕府と刺し違えるのは、いよいよの時でええ」

 大政奉還か、武力倒幕か―――二人の勇士は互いに一歩も譲らない。聞けばこの中岡という男も、龍馬と同じく土佐の脱藩ものであるらしい。脱藩は当時、死罪に値したという。死をしてまで、この男たちはいったい何と戦おうとしているのだろうか―――

「……そんなら訊くが、龍馬、誰がその考えを将軍に伝えるんじゃ。そんな危険な役割を、誰が引き受けるんじゃ。誰にさとされれば、将軍は大人しゅう政権を手放すんじゃ。おまんか?お前のようなお尋ね者が、一歩お城に近づいてみい。とたんに真っ二つにされるぞ。大政奉還など、絵に描いた餅じゃ。言うてみい。誰がそれを幕府に進言するんじゃ?」

 龍馬はそう慎太郎に詰め寄られて、にわかに言葉に詰まってしまった。いままでの勢いが、急に力を失った形である。

「それを……それを今、考えちゅうところじゃ!」

 討論は平行線のまま物別れになった。龍馬は腹いせに、ふぐの天麩羅をむやみに頬ばる。慎太郎の目も、酔いのせいばかりでなく血走っている。

 夜も更けたので、龍馬たちの新事業の話し合いはお開きになった。再会を約し、使者たちは郷里へと帰って行った。龍馬もひとまず、長崎へ戻ることにした。ちなみにこの時の総合商社のアイデアは、結局立ち消えになってしまったらしい。

「龍馬さんといえども、思いついたことを実現させるのは、一筋縄ではいかないんだね」

「考える前に行動する人だから、それだけ失敗も多いんだね」

 僕らも急いで追いかけた。

 会社の経営と日本の将来。この二つの問題を抱えて、龍馬は亀山社中へと戻って来た。

「ただいま」

「よう、龍馬。どうじゃった?会合はうまくいったか?」

「……どうも、いかん」

 龍馬の浮かぬ顔を見て、社中の連中は少し心配そうな顔をしたが、彼らはなぜか、むしろ快活な様子である。

「そうか、いかんか……しかし龍馬、喜べ。船が見つかったぞ」

 龍馬は顔を上げる。

「オンボロの帆掛ほかけ船じゃが、この際ゼイタクは言うとられん。また仕事が出来るぞ」

 彼らは張り切った様子で、龍馬を尻目に、びた船の部品のようなものを磨いている。

 使える船が一隻もなかった亀山社中に、待望の船が手に入ったようである。

「それはまっことか……はは。ようやった。でかしたぜよ!」

 龍馬はとたんに笑顔になる。

「ひとまずは、地道に足固めといくか」

 渡された船の見取り図を眺めながら龍馬はうなずいた。

 その日から白袴の仲間たちは、生き生きとした表情で、これまで以上に懸命に働いた。彼らもまた龍馬と同じく、志を持って郷里を出て来た者たちなのであった。そしておそらく、その熱い思いとはうらはらに、つねに自分の将来について、一抹の不安を抱いていたにちがいない。

 チュン太は男たちを見渡しながら言った。

「土佐からの幼馴染みもいるよ。ずっと苦楽を共にして来た、縁の深い仲間たちだ」

 僕はふと、龍馬の故郷の土佐が見たくなった。

「土佐、ってどんな所だろう」

「わりと近いから、ちょっと行ってみるかい?まさにこの時分、龍馬さんたちの動きに呼応するように、土佐では潮の流れが変わりはじめるよ」

 僕らはしばし龍馬たちのいる長崎をはなれ、遠路四国へと飛んだ。途中、九州の阿蘇山あそさんの上空を通過するとき、大きなカルデラの中に一つの集落が見えた。かつて大噴火した火口が冷え切って外輪となり、今ではその中で人や馬が暮らしているのだ。地球の成り立ちを感じさせる珍しい風景である。

 太平洋のキラメキを下に見て、われわれは強風の吹きすさぶ桂浜上空から土佐へ入った。〝南国土佐〟というだけあって、陽光のまぶしさと海の美しさは格別であった。桂浜から見た海の眺めは、いったいその先に何があるのだろう、と夢を抱かせる何かがある。

 少し内陸部へ向かうと、いちばん見晴らしのよい高台に、青空に照り映えるようにお城の天守閣が見えた。「高知城だよ」

 まるで一段高い場所から、領地に睨みを利かせているようである。

「城主は山内容堂やまうちようどうという人だよ。覗いてみようか」

 当時の庶民には決して越えることの出来ない堅固な城壁を、われわれは鳥なので易々やすやすと飛び越え、城の中庭へと降り立った。

 松の根元の白砂にさかずきの酒をぶちまけて、機嫌の悪そうな殿様が家臣に向かって何かを叫んでいる。

「なんじゃと。幕府が長州に負けたじゃと!たわけたことを……うーむ。そうか。天下の徳川がついに敗れたか……」

 動揺をかくせない表情で、殿様は手に持った杯を力なく床に落とした。だいぶ酔っている様子だ。

「あの人が山内容堂だよ。土佐の最高権力者で、いつも酔っぱらってるけど、なかなか頭の切れる人だ……」

 チュン太が小声でささやく。どうせピーチクとしか聞こえないのに、こういう場所ではついつい僕らは小声になってしまう。

「おまんはどう思うか、後藤。このまま幕府にしたごうて沈みゆく船に乗りつづけるか、それとも……」

 殿様の前で平伏している家臣は、じっと頭を上げようとしない。その先を自分に言わせるのか、という苦しい思いがありありと伝わって来る。

「幕府を見限みかぎるか……」

 殿様は家臣の出方をうかがうように、言葉を投げる。

 家臣はピクリと肩を動かし、ゆっくりと顔を上げ、殿様の顔色を眺めている。大きな目が意志の強さを感じさせる。

「土佐の重臣、後藤象二郎だよ。山内容堂の右腕であり、キレ者だ」

「……恐れながら大殿様、このたびの長州攻めの失敗のみならず、徳川にはもう今までのように諸国をまとめ上げる力はございませぬ。幕府は言うなれば、ガタのきたボロ船にございます。早晩、沈みゆくは必定ひつじょう。お察しの通り、この際、見限るよりほかは……」

「何をぬかすか!」

 容堂は後藤を一喝する。後藤は縮み上がる。

 自分が言った言葉とはいえ、他人の口からそれが発せられると、やはり認めがたい気持ちになるのが人情のようである。

「おまんは誰のおかげで、今、ぬくぬくとおまんまを食いゆう思ちゅうか。かの関ヶ原の戦いで家康公に勲を報じられ、二十四万石をたまわったからこそ、いまの山内家の繁栄があるのだ。わしは一度たりとも江戸に足を向けて寝たことはないぞ。そのことを決して忘れてはならぬ!」

 容堂は顔を赤くしてまくし立てる。後藤はどうやら口が過ぎたらしいことを悔やんでいる。

「が、しかし、じゃ……」

と、ふたたびこの初老の殿様は声のトーンを落とし、側近に命じて新しい杯を持って来させる。

「……いつまでも潮の流れは同じではない。同じ場所で釣りをしちょったつもりが、いつの間にか船が流されちゅう場合もある。われわれは幕府という大船の陰にかくれて、ただやみくもに船を漕いじょったが、いまいったい幕府の船は、どこへ向かうがかのう……」

 顔を曇らせる容堂に、後藤はふたたび勢いづき、

「大殿様、古い船が沈もうとするとき、だまって一緒に沈む義理はありませぬ。おっしゃる通り、潮の流れはいずれ変わるのでごさいます。いまはむしろ、若い薩長の側についた方が、わが藩の将来にとっても得策かと存じます……」

と言って、また恐る恐る主君の顔を見た。

 しかし、今度は殿様の顔色が変わらないので、後藤は安心して先をつづける。

「幕府を助けるにしろ、薩長につくにしろ、いまわが藩にとって急務なのは、この土佐藩という船を、独力でも沈まぬよう充分安泰にしておくことです。もっと国を富ませ、兵力をたくわえるのが先決です」

「それはその通りじゃ、後藤」

 殿様は結局のところ、この有能な家臣に多大な信を置いているらしいのであった。

「なにか、よい案はあるのか」

 後藤はここぞとばかり、自分の構想を述べる。

「大殿様、どうかこのわたくしめを、長崎へ遣わして下さい。長崎ではいま、各国の商人たちが盛んに交易をくり広げております。さいわい、わが藩にも砂糖や紙などの特産品が豊富にございます。それを高値で売りさばき、かわりに最新式の軍艦や武器を手に入れて参ります。そして近い将来、かならずや薩長に劣らぬ大藩に、この土佐を変えてみせます。どうかわたくしめにお力を……」

 後藤は深々と頭を下げる。容堂は口の端で笑い、まんざらではない顔をする。

「頼もしいのう、後藤。そなたは商売の志も備えておるかのう」

「かたじけのうございます」

 後藤は痛み入った様子で、さらにつづける。

「それにもう一つ、わたくしには一度会うてみたい人物がございます。その男もいま、長崎におるという噂でございます」

 後藤は頭を下げたまま、そう進言する。

「ほほう。誰じゃ、それは」

「坂本龍馬という男にございます」

 後藤は頭を上げながら、はじめて殿様の顔を真っすぐに見た。

 僕とチュン太は興奮のあまり羽をバタつかせた。

「龍馬さんのことを話しているよ!」

 僕らはいつしか龍馬が身内のような気がしていた。

 容堂は聞き覚えのない名前に、小首をかしげている。

「坂本?……何者じゃ」

「土佐の下士にございます。かつて武市半平太たけちはんぺいたらとともに、勤王党で暗躍しておりました」

「なに、武市半平太?武市といえば、いたずらに世間を騒がせ、そなたの叔父の吉田東洋を斬った者ではないか。あのとき、他ならぬそなたの手で、みせしめに目障りな彼奴きゃつめらを一掃させたはずじゃが」

「さよう。しかしこの坂本という男、武市とは少々意見をことにしたと見え、ふとどきにもひそかに脱藩したあと、勝海舟のもとで航海術を学び、いまは長崎で海運業のまねごとをしております」

「その男がどうしたのじゃ」

「坂本は何をかくそう、薩摩と長州を結びつけた張本人ということでございます」

「な、なんじゃと!」

 容堂は驚きをかくせない。

「桂、西郷はもとより、越前の松平春嶽しゅんがく公ともつながりがあり、そうかと思うと、長崎の商人たちの信頼も厚く、掘り下げれば掘り下げるほど、坂本龍馬の人脈はとてつもなく広がっていきます。とすれば、われわれが薩長に近づくのに、もしや一助となるやも知れません」

「ふむ……」

 後藤は間髪を入れず畳み掛ける。

「が、あくまで噂に過ぎませんので、わたくしが長崎へ参りまして、その真相を確かめて参りとう存じます。もし、役に立ちそうな人物であれば、この土佐藩に取り込んで、思う存分働かせます。あるいはもし、つまらぬ人物であれば、その場で斬って捨てても何ら惜しくはありません」

「なるほど……得体の知れぬ男じゃのう。坂本龍馬か……」

 容堂は肘に手を当て、なにやら真剣に考えている。もはや酒の酔いはどこかへ消えてしまったようだ。

「よし、後藤。行って参れ。行ってその男と会うて来い。事によると……」

 鋭い目で後藤を睨みながら、土佐の最高権力者は口の中でつぶやく。

「使える男かも知れん……」

 御前ごぜんを退出した後藤象二郎は、数人の側近とともに早や出立しゅったつの準備を整え、高知城下をあとにする。

 駕籠かごに揺られながら港へ向かう後藤の一行を、僕とチュン太も追いかける。

 にぎやかな城下町では、町人たちが活気ある表情で、さまざまな商いを営んでいる。海産物や野菜、工芸品や織物など、地元の特産品が店先を彩っている。

 しかし、後藤を乗せた駕籠が往来を横切ると、町人たちは途端に顔をこわばらせ、道の両側にひれ伏して深々と頭を下げる。誰が乗っているかも分からないが、警固の様子から高貴の人物の行列であることは明らかなようだ。

「……江戸時代は士農工商という身分の区別があったけど、特にこの土佐では、その違いにうるさかったんだ。武士の中でも上士じょうし下士かしに別れ、下士はほどんど平民と同じ、取るに足りない身分だった。ちなみに龍馬さんは下士の出だよ」

「ふうん。なんだか窮屈な所だね。龍馬さんが飛び出したくなる気持ちも、分かるような気がする……」

 土佐の重臣たちを乗せた船は海を渡り、北回りで長崎へと向かった。僕らも、もはやお得意となった「密航」によって、労せずして帰還することが出来た。

 長崎へ着くと、後藤たちはさっそく、数日をかけて目抜きの場所に陣をかまえ、まもなく「土佐商会」という会社を設立した。その活動を見てみると―――

 土佐藩の資金をふんだんに使って、派手に商売を始めた彼らは、手当たり次第物品を売りさばき、かわりに軍艦や武器を購入した。龍馬たちと違って、金に糸目を付けない、思い切った交渉が功を奏し、土佐商会は着々と大きくなって行った。

「岩崎、なかなかおまんは駆け引きが上手いのう」

 後藤はある側近の一人を褒めている。

「へえ。子供の頃、さんざん苦労しましたき」

 賞揚されたその男は、四角い顔をさらに四角くして得意気である。

「……のちに三菱汽船を創業する岩崎弥太郎だよ。現在につづく三菱グループの創始者だ」

 チュン太の言葉に、僕は大きく感心した。

「いろんな若い才能が花ひらく時代なんだね……」

 僕は感心すると同時に、この時代のことを少しうらやましく思った。あらゆるものがすでに出来上がっている現代と違い、この時代は一つ一つ、すべてを自分たちの創意工夫で作り上げていく、いわば日本の青春時代のようなものだ。世の中の流れが、明らかに今よりダイナミックである。

 後藤たちはよく働き、よく遊んだ。夜は花街へも出かけた。

 白塗りの芸妓げいこを抱き寄せながら、後藤は訊いた。

「坂本ゆう男を知っちゅうか……」

 後藤は行く先ざきで、かならず龍馬の行方を問いかけた。

「坂本龍馬ゆうおとこじゃ」

 しかしこの、商人の町長崎では「信用」が第一と見え、商売人はおろか芸妓に至るまで、申し合わせたように口が固く、なかなか龍馬の居場所はつかめなかった―――

 そんな後藤たちの焦燥をよそに、僕らは久しぶりに、龍馬のいる亀山社中の様子を見に行った。

 社中では、龍馬が仲間たちを車座くるまざに集め、また新しいアイデアを開陳しているところであった。

「……そこでわしが目をつけとるのが、蝦夷地えぞちぜよ。蝦夷地はわしも行ったことはないが、まだまだ開拓の余地がぎょうさんある。海や陸の資源も豊富じゃし、うまく海路をつなげば、必ず一もうけ出来るぞ。いまこの国には、何かがしとうてうずうずしちゅう若者がごまんとおるき、人手にも事欠かん……」

 龍馬の生き生きとした表情がみんなに伝播でんぱする。みんなも顔を輝かせて聞いている。

 僕もなんだか、その子供のような情熱にジーンとしてしまった。

 元気があれば何でも出来る―――あるプロレスラーの言葉が思い出された。

 しかし、仲間のうちに一人、龍馬の意見に反対する者がいた。彼は車座から身をずらし、皮肉な笑みを浮かべて言う。

「そんなこと言うが、龍馬さん、蝦夷地は遠いぞ。もし失敗したら、わしらはまた大損じゃ。振り回されるモンの身にもなってみい。だいたい龍馬さんは、いつも大風呂敷を広げすぎる。もっと地に足のついた、手固い商売をやったらどうじゃ」

 男はどちらかと言えば人と交わるのが苦手そうな、ひとり我が道を行く性質のようである。うつむいて縄などを編んでいる。

「なんや、お前は!いつもいつも水を差すような意見ばかり言うて。いややったら、この社中から出て行けばええ。だあれも止めはせん!」

 どうやら龍馬の信奉者らしい一人が立ち上がって、掴みかからんばかりにこの男をののしる。

「お前ひとりで何が出来るちゅうねん。口ばっかりの奴めが!」

 拳をかざされても一向ひるまず、男の方も鋭い目で睨み返している。

「まあまあ、ええぜよ―――座れ」

 龍馬が二人をなだめる。

「……ちがう意見を言うてくれるのは有難いことじゃ。たしかにわしゃ、ちくと大きゅう出すぎるところがある。知らんうちに周りの人間に迷惑をかけることも多い。こうやっていさめてくれる奴も必要じゃ。ちがう立場の者どうしが、互いに意見を言い合うて、船を正しい航路へみちびく。これが民主主義デモクラチーちゅうやつぜよ。あはは」

 龍馬が小さないさかいを笑いとばしたお陰で、とたんに場の空気がやわらいだ。

 こういうところもリョースケの、いや、龍馬の、ふところの深さだ。

 しかしその時、またもや、社中に不穏な空気をもたらした者がいた。

「たいへんだ、みんな。聞いてくれ!」

 外から勢いよく飛び込んで来た男が、息を切らしながら言う。

「どうした、馬之助、落ち着け」

「後藤が、……後藤象二郎が、この長崎へ来ちゅうらしい……」

「なに!後藤じゃと!」

 土佐の重臣の名前を聞いて、何人かの男が色めき立った。

「どこで聞いて来た?」

「……ま、丸山の遊郭じゃ」

「お前、また一人でそんなとこ行っちょったんか?」

「それはええき!」

 男は呼吸を整えるために水を一杯飲んだ。

「その後藤が、何しに長崎へ?」

「理由は分からん……しきりに軍艦を買いあさっちゅう話じゃ」

「わしらを捕まえに来たのではないがか」

「後藤は武市たけちさんたちのかたきじゃ。龍馬、斬られる前に斬った方がええかも知らん」

 男たちがそれぞれの憶測のもとに、にわかに騒ぎ立てる。社中には土佐出身の者が多いようだ。

「まあ待ちいや……」龍馬はさすがに落ち着いて言う。

「もうそんな時代ではない。斬った、斬られたの世の中を終わらせるために、われわれは働きゆうがじゃないがか」

 龍馬に諭されて、仲間たちは平静を取り戻す。

「馬之助、ほかに何か聞いたか?」

「いや、それだけじゃ」

「ならば、しばらく泳がせておこう。やたらに動かん方がええ。相手の出方を待とう」

 その日はそれで落ち着き、社中の仲間たちはふたたび日々のなりわいへと戻って行った。

 亀山社中の経営も、ほそぼそとではあるが、体勢を立て直しつつあった。

 ある日のこと、商談の帰り道らしい龍馬が仲間とふたり、長崎の曲がりくねった坂道を歩いていた。

 傾いた午後の日差しが、並んで歩く男たちの顔を照らしている。

「ところで惣之丞そうのじょう、わしゃいま、大政奉還ちゅうことを考えとるがじゃ」

「何じゃ、それは、龍馬」

 となりの男も、どうやら龍馬に信頼の厚い社中の主要人物らしい。

「まあその前に、惣の字、この辺りに新しい写真館が出来たらしいき、写真でも撮りにいかんか。今日は商談がまとまって気分がええのう。歩きながら話そう」

 龍馬は歩く道すがら、この男に大政奉還のアイデアを語った。

「……大政奉還いうがは、幕府がみずから政権を朝廷へ返上することじゃ……」

 夢中でしゃべる龍馬の話に、男はときどきうなずいたり、腕組みをしたり、ほう、と歓声を上げたりして、熱心に耳を傾けている。男は土佐からの知り合いらしく、龍馬の歩んで来た道を知っているので、およそ理解が早いようだ。写真館へ着くころには、すっかり龍馬のアイデアに魅了されてしまったようである。

 写真館の門をくぐり、奥へ通されながら、二人はなおも語りつづける。僕らもこっそり中へ忍び込む。

「……しかし龍馬、そう首尾しゅびよく事が運ぶかのう。幕府は、はい、そうですかと、政権を返上するかのう」

「なあに、徳川も胸のうちでは、このままではいかん、打開策はないかと、右往左往しとるんじゃ。形勢が不利なことは、彼らが一番よう分かっちゅう」

 龍馬は写真館の店主に、台に肘をつけ、とか、もうちょっと右、とか注文をつけられながら、言われるがままにポーズを取っている。

「問題は誰がその考えを将軍に伝えるかじゃ。それにふさわしい人物が思いつかん……」

 はいそのまま、じっとしてて、動かないで……

 パシャリ。

 主人が合図するまでの間、龍馬はしばし口を閉じる。昔の写真は、技術の都合上、そのままの格好でしばらくじっとしていなければならなかった。

 黒い幕の中から顔を出した店主が、はい、いいですよ、と言ったのを機に、龍馬はまた喋り始める。

「……将軍に近い人物で、時代の流れを理解し、事を荒立てずに将軍を説得できる人物、そしてその進言が自らの利益にもなるような人物、そんなうまい配役が、どっかにおらんかのう……」

 龍馬に代わって、壇上でポーズを取る惣之丞は、思わず首を振って答えた。

「おらん、おらん。そんな都合のええ奴、どこにもおらんぜよ!」

 主人はあわてて黒幕から出て来て、動いてしまった被写体に苦言を呈した。惣之丞はすまん、すまん、と頭を下げている。

 撮影が終わり、亀山社中への道を辿りながら、二人はいつまでも世の中の変革について語り合った。野良猫が不思議そうに彼らの背中をじっと見ている。

 社中へ戻ると、なにやら来客のようであった。

 饅頭まんじゅうを頬張っていた三十格好の男が、帰って来た二人に心づき、苦しそうに喉を詰まらせながらようやく声を発した。

「りょ、龍馬に惣之丞。久しぶりじゃの……」

 日焼けしたその顔を、龍馬はしばらく不審そうに見ていたが、やっとそれが旧知の人物であることに気づくと、小さく叫び声を上げた。

溝渕みぞぶちさん!なんでここへ?どいて長崎におるがじゃ」

 二人は手を取らんばかりの勢いで、再会を喜び合っている。

 聞けばこの男は土佐からの知り合いで、龍馬の少し先輩格に当たる、縁の深い人物であるらしかった。ともに剣術修行をしたこともあるようである。

「龍馬。実を言うとな……わしは今、後藤さんのもとで働きゆう」

 男は周りを気にして小声になる。

 龍馬は「ほう、そうか」と言って、ざわつき始めた仲間たちを手で制する。

「ほいでな、後藤さんがおまんに会いたい言いよるんじゃ。手紙をあずかって来た」

 幾重にも畳まれた手紙を丁寧に開き、ざっと目を通すと、龍馬はもう一度男の顔を見た。

 男は何も言わず、饅頭をもう一つ口に入れる。

「そんなら、たしかに渡したぞ」

 男は立ち上がり、足早に社中を出て行った。

 龍馬たちは手紙を中心に集まり、あらためてじっくりとそれに目を通す。

 男たちの表情の変化からすると、それはただならぬ内容のものであるらしい。

 最後の部分を龍馬が声に出して読み上げた。

「……清風亭にてお待ち申し上げそうろう。坂本龍馬殿。土佐藩参政さんせい後藤象二郎……」

 仲間の一人が言う。

わなかもしれんぞ、龍馬。呼び出しておいて、おまんを斬る気じゃ」

 他の一人が言う。

「武市さんたちをなぶり殺しにした張本人じゃ。わしゃここで刺し違えても悔いはない」

 また別の男が言う。

「後藤ひとりのはずがない。大勢で取り囲んで、いたぶるつもりじゃ」

 みんなそれぞれ、勝手な憶測を立てて取り乱している。惣之丞が心配そうに龍馬の顔を覗き込んだ。

「どうする。龍馬」

 龍馬は腕組みをしたまま、しばらく考えている。口は真一文字に結ばれたままだ。

 しかしそのうち、低くて小さいけれども、しっかりした声で言った。

「行って来るき……」

 仲間たちは龍馬を取り囲む。

「行くがか龍馬!殺されるぞ」

 肩を揺すぶられながらも、龍馬は大きく目を見開いて言った。

「奴らはわしを斬らん。わしを気じゃ」

 男たちはとっさに意味が分からず、きょとんとした顔をしている。

「……後藤のうしろには必ず容堂公がおる。容堂公は潮の流れを読むのにけたお人じゃ。幕府がもう当てにならん言うことをとっくに見抜いておられる。だからこそ、武装を急いどるがじゃ。そしてあわよくば、薩長の側へ近づきたがっちゅう。容堂公はわしが薩長につながりがあることを知っていて、わしを仲立ちとして利用する気じゃ」

 龍馬は鋭い目で宙を見据える。惣之丞が強い口調で制止する。

「そこまで分かっちょって、なぜ行く。用が済んだら斬って捨てられるに決まっちゅうぞ」

「利用したければ、したらええ。こっちにもちくと考えがある」

 龍馬は不敵な笑みを浮かべる。

「惣之丞。わしはいつか大政奉還の話をしたのう……」

 惣之丞はだまって頷く。

「将軍と懇意こんいに話ができ、事を荒立てずに退位を促すことの出来る人物。徳川の逃げ道を作ってやり、生き延びさせたい思ちゅう人物。そしてそのことが徳川への恩返しにもなり、同時にその進言によって自ら優位に立つことのできる人物―――そんな奴おらん思ちょったが、惣之丞、ここに一人、おったぞ……」

 龍馬は静かにそう言って惣之丞を見つめた。そして、いたずらっぽくさかずきで酒を飲む真似をしてみせる。

「おまん、まさか……」

 あんぐりと口を開ける惣之丞に、龍馬は目くばせをしながら低い声で言った。

使殿様かも知れん……」

 約束の期日になり、龍馬は清風亭へと出かけて行った。

 巌流島の宮本武蔵よろしく、龍馬はわざと少し遅れて門をくぐった。僕らも無論あとに続く。

 仲居に案内されて廊下を歩く紋付姿の龍馬が見える。さすがに少し緊張した面持ちだ。しかし今のところ、すぐに斬りかかられるような様子はない。

 日当たりのいい十畳ほどの部屋へ通されると、仲居は「こちらでございます」と言ってそそくさと立ち去って行った。

 開け放たれた座敷のいちばん深い席に、後藤象二郎がどっかと胡坐あぐらをかいて座っていた。

 龍馬は一礼して中へ入る。

ふすまを閉めましょうか」

 警戒した声で龍馬が尋ねる。

「いや、そのままでよい」

 後藤の方は、張りのある、いい声だ。

 大きな座卓をはさんで、二人の土佐人が差し向かいに座った。

 僕らは中庭のつるんとした木の枝からその様子を見ていたが、落葉した枝には隠れる場所がなく、なんだかこちらまでがそわそわした気分であった。

 二人の男は、ぎこちない空気のまま、しばらく無言で対峙している。

 何から話そうか。どちらが先に口を切るか―――

 互いに牽制し合っている様子だ。

 沈黙に耐え切れなくなって、先に口を開いたのは後藤の方であった。

「わしはのう、この長崎へ来て、じつに美味うまいもんに巡りうた。それを今日は御主おんしにも食うてもらいたい思いゆう……」

 後藤の頬に愛想笑いが浮かんだ。何を言い出すかと思いきや、食い物の話であった。僕らは顔を見合わせた。

 龍馬は不意をつかれて、言葉につまった。

 後藤はすかさず手を叩く。

 それを合図に、二人の仲居がそれぞれの手に鉄鍋のようなものを抱えて、そろりそろりと入って来る。

 しずかに台の上に置かれた鍋の中身を龍馬が覗き見ると、それは白菜、長ねぎ、しいたけ、焼き豆腐、糸ごんにゃく、牛肉の赤身、それに春菊を盛りつけた「すき焼き」の材料であった。

 後藤と龍馬の、それぞれの目の前に鍋が一つずつ置かれる。龍馬は不思議そうに中を覗き込む。

 二人の仲居は鍋の下に火を点け、だし醤油をそそぎ、最後にお椀に生玉子を器用に割って、男たちのためにそれを箸でいてやる。

 シャカシャカという手付きを茫然と見ていた龍馬は、その時なにげなく、となりにいた仲居の顔に目をやり、あっ、と声を上げた。

「お、おもと!なんでここにおる……」

 女の顔をよく見ると、それはいつか龍馬たちが料亭に遊んだとき、甲斐々々しく龍馬の世話を焼いていたあの芸妓げいこであった。女はだまってニッコリとする。

 後藤もその様子を見て、ほくそ笑みながら酒を飲んでいる。

 どうやらお元というその芸妓は、後藤が会見にのぞんで龍馬をなごませるために、わざわざ呼び寄せたもののようだ。なかなか用意周到である。

 お元はぐつぐつと音を立てはじめた鍋の中で、食材を箸で並べ替えて馴染ませている。

「この料理のええところはのう……」

 後藤が龍馬の反応を見ながら口をはさむ。

「いろんな食材がそれぞれの味を出し合うて、お互いのうまみを吸い合うところじゃ。白菜は白菜、しいたけはしいたけ、牛肉は牛肉、おのおのの持ち味がだんだんからみ合うて、なんとも言えん旨みになる。そして、最後はみんな茶色くなって、とろとろのアツアツの御馳走になる……」

 後藤も鼻の下を伸ばし、湯気の立つ鍋の中を覗く。

「そして何より、わしが気に入ったのは……」

 後藤は待ち切れずに箸をのばし、すこし赤味の残る牛肉をつまみ上げて、椀の中にそれをつける。

「……こうやって玉子にくぐらせ、ちょっと冷まして一気に食うところじゃ!」

 と言うが早いか、後藤は遠慮のない音を立てて、やわらかそうな牛肉をすすり込む。

 モグモグと口を動かしながら、土佐藩の重鎮は何とも幸せそうな顔になる。

「……おんしも食うてみい」

 どうしてよいか分からない龍馬の代わりに、お元が食べごろの牛肉を箸でつまんで、同じようにヒタヒタと玉子にくぐらせ、汁のしたたりに手を添えながら龍馬の口元に持って行く。

 龍馬は、あーん、と口を開け、されるがままにそれを頬張る。モグモグと動かしていた口が、一瞬ピタリと止まる。目は大きく見開かれ、しだいにゆるんで細くなる。

「……うまいのう」

 龍馬は一言そう言って、うっとりとしている。

 後藤が愉快そうに笑う。

「ははは。そうか。うまいか。それはよかった……おまんらはもう、下がってよい」

 二人の仲居に席を外させる。お元も一礼して部屋を出て行く。

「白菜も食うてみい。こちらもええ味じゃ。……坂本、これは『すき焼き』いう料理じゃ」

 龍馬は言われた通り、白菜を箸でつまんで、玉子にくぐらせて口に運ぶ。

「……涙が出そうじゃ」

 あらためて感心している龍馬に、後藤は得意そうに言う。

「白菜も、しいたけも、牛肉も春菊も、だれがだれより偉いという訳ではない。だれがだれに遠慮することもない。みんなぐつぐつ煮られて、一緒くたになって、いい味になったところで、平等に玉子にくぐらせて食う。まっこと、これからの時代にふさわしい食べものじゃ」

 後藤はうす笑いを浮かべ、自分も焼き豆腐をふうふう言いながら食べている。

 二人の間に、すこし打ち解けた空気が漂う。

「……わしはこの長崎へ来て、少々考えが変わったんじゃ。土佐ではわしが通るたんびに、町人たちがかしこまって頭を下げる。居心地が悪いくらいじゃ。しかし、長崎の商人たちはちがう。かれらは一度握手をしたあとは、言いたいことを言い合う。そして、とんとん拍子に話が運ぶ。もし話が合わんかったら、とことん言い合うて解決する。だれもいきなり刀で斬りつけたりはせん。お主が腰に付けちゅうその刀、いや、わしも付けちゅうが、そんなもん振り回しちょったわれわれは、何ちゅう浅はかな蛮族じゃったことか。それさえなかったら、命を取られずに済んだ者が大勢おる……」

 後藤と龍馬はたがいの目を睨み合う。二人の間に、しばし不穏な空気が流れる。

「……まっこと愚かな時代じゃった。しかし、これからはではなくで勝負する時代じゃ。力の強いもんではのうて、考えの優れたもんが世の中を動かす。そういう時代にしていかんといかん……」

 龍馬は後藤の顔をまっすぐに見つめている。

「……日本はもう少しけっぴろげになって、外国のええ所をどんどん取り入れんといかん。口惜くやしいけんど、まだまだ奴らの方が一歩さきを行きゆう……」

 後藤はそう言って、手酌で酒を飲む。龍馬はだまって聞いているが、その目からはしだいに警戒の色が薄らいでいる。いままで敵だと思っていたこの男は、なかなか話せる人物のようだ。

「……それにしても、異国の商人たちは、だいぶしたたかじゃのう。わしは容堂公のめいで、船を買い付けに来ちゅうが、奴ら、こっちの足元を見やがって、なかなか船を売ろうとせんのじゃ。おかげでまだ蒸気船がたった七隻しか手に入らん。これでは容堂公に合わす顔がないのう。ははは」

 後藤は無邪気な笑顔を見せる。

 龍馬はむしろ驚いた顔になり、

「七隻か!……さすが土佐藩じゃのう」

と感心して、ため息をつく。

「わしらは帆船はんせん一隻、やっと手に入れたところじゃ……」

 龍馬はうっかり本音を漏らしてしまう。「もっとも、土佐藩とわしらとでは、そもそも財力がちがうが……」

 後藤はそんな龍馬の変化を察したようで、さりげない風を装いながらも、少しずつ本題に入る。

「おんしんところも苦労しちゅう様子じゃのう、坂本。もし何じゃったら、おまんら全員、わしとこで引き取ってやってもええぞ。いまは薩摩にやしのうてもろとるようじゃが、少しは多めに給金も出せる。どうじゃ」

 後藤は箸で椎茸をつつきながら、その目は上目遣いに龍馬を伺っている。 

 龍馬はすぐには答えず、こちらもゆっくりと手酌で酒を飲む。わざと下を向いたまま、目は合わせない。

 僕とチュン太は事の成り行きに胸をドキドキさせながら、しかし龍馬の思惑どおり、お殿様に一歩近づけることを喜び合った。「むこうから言い出してくれたね」

 ところが―――龍馬の答えは意外だった。

「ありがたいお話じゃが、お断り申します」

 僕らは驚いて目を丸くした。

「わしらは何より、しばられるのが嫌いじゃ……」

 そう言って龍馬は、糸ごんにゃくを玉子につけ、ずるずると音を立ててすすった。玉子の汁が龍馬の紋付にはねた。

 後藤はあっさり龍馬を落とせると思っていたらしく、そのつれない返事に、面食らった表情を隠せなかった。しかし、あくまで平静をよそおい、

「そうか。ひょっとして給金が足りんか。二倍の報酬でどうじゃ」

と、少し譲歩を見せる。

 龍馬は相変らず興味のなさそうな顔で、すき焼きの味ばかりを絶賛している。

 後藤はここで引き下がる訳にはいかない。

 少々ムキになって、さらに一歩あゆみ寄った。

「いくら欲しい。はっきり言うてみい」

 龍馬は言うまでもなく、後藤の本心を見抜いているので、ここで真顔になって言った。

「金じゃないがです。亀山社中はもはや薩長にとって、なくてはならん存在になっとります。勝手に引き抜かれたとなっちゃ、奴らが黙っちゅうかどうか……わしらは商人ですき、信用が第一です」

 後藤は「薩長」という名を聞いて、もはや駆け引きをするゆとりをなくしてしまったようだ。

「その話じゃがのう、坂本。これは、わしの考えのみならず、大殿様のご意向でもあるのじゃが、土佐もゆくゆくは薩長と仲良くしていかんといかん思いゆう。お主の生まれ故郷でもある土佐が、先頭に立って日本を動かすか、あるいは時代に取り残されるか、その瀬戸際に立たされちゅう訳じゃ。回りくどい言い方はよそう。聞けばお主は、薩長の仲を取り持って手を結ばせたいう話じゃが、それはまっことか」

 後藤はあからさまに物欲しげな目をする。

 龍馬はふと何を思ったか、ふところをまさぐったかと思うと、黒光りのするピストルを取り出し、銃口を後藤に向けた。ふすまの向こうからざわつく人の気配がした。

「……まっことです。これは薩摩の小松さんにもろうたピストルです。何かあったら身を守れと……」

 後藤はたじたじになったが、龍馬がすぐにそれをしまったので、ほっと胸をなで下ろす。しかしもう、話の主導権は完全に龍馬が握っている。

「そ、そこでお主に相談じゃが、なんとか薩長と口を聞いて、この土佐を仲間に加えてくれるよう頼んでくれんかのう。これからの土佐の命運はお主にかかっちゅう。この通りじゃ」

 後藤は下士である龍馬に、恥も外聞もなく頭を下げる。龍馬はさすがに恐縮して、後藤に頭を上げさせる。

「後藤さん、めっそうもない。……聞いてやってもええが、そんなコロコロと態度を変える土佐を、彼らが信用しますかのう。桂さんも、西郷さんも、気難しいお人じゃき……。やっぱり、ちくと難しいかのう……」

 後藤はほとんど泣きそうな顔になる。龍馬はそれを見て、少し態度をやわらげる。

「わしらが欲しいのは金じゃない。じゃ。わしらは思いついたことを、自由に実行に移す。好きな時に、好きな所へ行く。そしていつの日か、カンパニーを大きゅうして、世界に羽ばたくのが夢なんじゃ。土佐藩の操り人形にはならん。もし、そういう条件でええのなら、協力してもよい」

 後藤はとたんに顔を輝かせる。

「わかった、わかった。そんならこれでどうじゃ。お主らの自由は保証する。土佐藩の船も、好きな時に使うてよい。給料は三倍だす。それに……」

 後藤はここぞとばかり、ありったけの好条件を提示する。

「大殿様にたのんで、お主の脱藩の罪も許してもろてよい……」

 龍馬は思わず吹き出す。

「脱藩の罪なんぞどうでもええが、そんならもう一つ条件がある……」

 何を言われるのかと不安顔の後藤に、龍馬はどすの効いた声で言った。

「わしら亀山社中の仲間全員に……をたらふく食わせて欲しい」

 後藤はきょとんと目をしばたたいたあと、しだいに笑い顔とも、泣き顔ともつかぬ、しわくちゃな表情になった。そして立ち上がって龍馬のもとへ歩み寄り、杯に酒をついだ。龍馬はそれを一気に飲み干し、呵々かかと笑った。後藤も笑った。僕とチュン太は脱力して木から滑り落ちそうになった。酒の酔いも手伝ってか、かつての土佐のかたき同士は、肩を抱き合っていつまでも酒を酌み交わしている。

 こうして龍馬の計画通り、亀山社中は後藤ひきいる土佐商会と手を組むことになった。

「みんな聞いてくれ。土佐二十四万石を手に入れたぞ!」

 社中に戻った龍馬は、事のあらましを仲間に説明し、今後の方針を熱く語った。

「これからはもっともっといろんなことをやるぜよ。土佐藩のうしろだてがあれば、いままであきらめちょった事業にも手を出せる。めざすは世界の海じゃ」

 得意の大風呂敷を広げる龍馬を囲んで、社中の男たちも歓喜の雄叫おたけびを上げた。

「名まえも本日より、亀山社中から海援隊かいえんたいにあらためよう。土佐藩を海からたすける海援隊じゃ!」

 彼らはその日から、水を得た魚のようにきびきびと働いた。

 みんなそれぞれの能力を生かし、海援隊は活気ある集団となった。その明るい表情は、どこか高杉晋作の奇兵隊を髣髴ほうふつとさせた。 

 土佐商会の岩崎弥太郎とも親しくなった。彼らは互いに刺激し合い、技術と志を共有した。

 龍馬はハリキってあちこちを飛び回った。不精ぶしょう髭もいつのまにか綺麗に剃っている。

 またある日、龍馬は久しぶりにおりょうのもとを訪れた。

「お龍。おまんは下関へ行っちょれ。わしらは幕府に睨まれちゅうき、長崎におったら危ないがぜよ」

 久々の再会にもかかわらず、龍馬の言葉は用件だけで味気なく、いそいそと気忙きぜわしそうにまた立ち去って行った。

 お龍はここでも、け者にされる形となった。チュン太の消沈ぶりは言うまでもない。

 一方、後藤の方もその持ち前の大胆さを発揮し、思う存分辣腕らつわんをふるった。龍馬は後藤の活躍ぶりを見て「さすが大殿様の右腕じゃのう……」と呟いた。

 この二人は、かつてかたき同士であったことを忘れて互いに助け合った。あるいはそれだからこそ、ひとたび意気投合すると力強い味方になるのであろうか。

 しかし見たところ、龍馬はまだこの土佐藩の実力者に「大政奉還」の構想は話していないようだ。

「リョースケの天才的なところは、アイデアを持ち出すなんだよ」

 僕はチュン太に言った。

「いまは機が熟するのを待ってるのかもね……」

 後藤の土佐商会は海援隊の協力もあって、ぐんぐんと規模を拡大していった。軍艦や武器も大量にそろえ、計画通り土佐藩の近代化に大いに貢献した。

 分けても岩崎弥太郎はその才能を遺憾なく発揮し、のちの三菱グループのいしずえともなる活躍を見せた。

 ちなみに海援隊はというと、その志の高さにもかかわらず、企業としての進捗は順風満帆とはいかないようで、鳴かず飛ばずの状態がつづいた。つくづく商売というのは「時の運」に左右されるようである。

「あんなに海に憧れていたのに、彼らはどうも『船運』が悪いようなんだ……」

 チュン太が言うには、一度は嵐によって船を失くし、いま一度、衝突事故によって船を沈めているという。

「……いろは丸事件と言って、有名な海難事故の逸話があるよ。海援隊の船運のなさと、龍馬さんのしたたかさを示すエピソードだ……」

 話によると、あるとき、瀬戸内海を航行中の「いろは丸」―――龍馬たちが他藩から借りた船―――が、夜中に紀州藩所有の船と衝突し、沈没させられた。紀州は徳川御三家の大藩なので、ていよく事件をもみ消そうとしたが、一か八か龍馬は、当時学んだ国際法をたてに、まんまと多額の賠償金をせしめた。請求の内訳には、沈没した船の代金はもちろん、人件費、慰謝料、稼働時の利益の損失補填ほてん、それから、積み荷として申告したライフル銃四百ちょうの代金も含まれていた。「八万両」というその賠償の額は、現在のお金にして数億円にものぼるという。

「……ところが、近代になって瀬戸内海の海底を調査したところ、沈没したいろは丸の船内には四百挺の銃など、どこにも見当たらなかったらしいよ」

「ハッタリをかませたんだね。悪い人だね、龍馬さんは……」

 僕はあきれると同時に感心した。大きな事を成す人は、多少の悪事を働いても気にしない図太さが必要なのであろう。「清濁併吞」と言うが、そんなきたないものを呑み込んだら、僕なら消化不良を起こしそうだ。

 そんな最中さなか、土佐藩内のあらたな情報が後藤によってもたらされた。

「おんしの知り合いの中岡ちゅう男が、土佐の板垣退助いたがきたいすけとつるんで、大殿様を西郷に引き合わせたらしい。手柄てがらを先にとられた……」

 後藤は珍しく肩を落としている。

「……まあ、手間が省けてよかったが、大殿様はどうも、あまりすっきりとは喜んでおられんご様子じゃ。薩長とは手を結びたいが、武力倒幕には二の足を踏んでおられる。さっさと鞍替くらがえすればええもんを、心情として徳川に弓が引けんのが容堂公の弱みじゃ」

 歯痒そうに語る後藤の話を、龍馬は腕組みして聞いていたが、やがて目を輝かせながらしっかりとした口調で言った。

「そうか……そこまで進んだか……しかし、昔の御恩を忘れんところが、大殿様のええご気性じゃ」

 すべては初めから分かっていた、と言わんばかりの龍馬の胸中には、またなにか次の目論見がありそうである。

 それから何日も経たないうちに、帳面をっていた龍馬のもとへ、後藤が嬉々として入って来た。容堂公に呼び出された、今から京都へ行く、と言うのであった。

「大名会議で土佐の旗色が悪いらしい。やっぱり大殿様は板垣よりわしを頼りにしておられる。坂本、お主もついて来るか?いや、ぜひ一緒に来てほしい」

 後藤と龍馬は急いで旅支度をし、土佐藩の船「夕顔丸」に乗り込んだ。

 船中、後藤の話によると、京都で開かれている大名会議は、幕府の失策を追求すると同時に、その主導権を、有力大名の方へ移行する話し合いであるらしかった。しかもそれは合議制というより、ほとんど薩摩一藩への権力集中であるという。

「……これでは徳川に代わって島津が首座につくだけで、世の中は何も変わらない。土佐の頭ごしに物事が決められて、いよいよないがしろにされていく。なんとか土佐の発言権を強めるよい案はないか、と仰っしゃるのだ……」

 後藤は腕組みをしながら、流れゆく小島の風景をながめている。頼られてはみたものの、これといってよい考えは浮かばないらしかった。

「どうすればよいかのう。なにか名案はないか、坂本……」

 後藤はこの頃にはすっかり龍馬を、自分の補佐役として信頼している様子だ。

 そして龍馬はと言えば、心なしかいつもの気安さは消え、別人のように精悍な顔になっている。いよいよ機は熟した、と言わんばかりである。

 乱れた髪を風になびかせながら、彼は風の音に負けないくらい大きな声で言った。

「わしに一つ、考えがある。教えてやってもええが、それにはおんしに働いてもらわんといかん。その覚悟が出来ちゅうか、後藤さん」

 何でもいいから、早く話してくれ、と食らいつきそうな後藤に、龍馬はさらに勿体もったいをつける。

「もし失敗したら、事によると、大殿様の首が飛ぶかも知れん。一か八かの大博打ばくちじゃ。それでもええがか」

 脅かされておっかなびっくりの後藤は、それでも、うん、うん、と頷いている。

 龍馬はここではじめて、大政奉還のアイデアを、この土佐藩の重鎮に向かって話した。まるで子供にでも諭すように、ゆっくりと、おだやかに……

「……そうすれば徳川は生きのびることが出来る。薩長も労せずして政権を手中にできる。それを進言した土佐も、まずまずの地位を得られる。外国に隙を見せることなく、血を流さずに政権交代ができる。欧米の血なまぐさい革命より、よほど上策じゃ思うが、どうかの……」

 龍馬の言葉をだんだん噛みしめるたびに、後藤の目には輝きが増す。

 もともと頭の柔軟な後藤は、龍馬の意図をここで完全に理解したようである。

「なぜもっと早く言わん、坂本……」

 歓喜にむせぶ後藤に、龍馬はなおも沈着さを失わずに答えた。

「言う時機をまちがえたら、おんしは容堂公に一喝されただけじゃ。大殿様も、下手なことを言って徳川に睨まれたかも知れん。幕府が長州に負け、土佐が力をつけた今こそ、それを実行にうつす好機なんじゃ」

 龍馬ははじめてニヤリと笑った。

 そして後藤をうながし、船室におもむいた。僕とチュン太は丸い窓にへばりついてその様子を覗いた。

「謙吉、わしの言うことを書き留めてくれんか」

 一緒に連れて来た海援隊の仲間に筆をとらせ、龍馬は力強い口調で、将来への構想を語った。

「一つ、幕府は朝廷に政権を返上すること

 一つ、議会を設け、万事話し合いで決めること

 一つ、身分にかかわりなく、能力のある者を代表に選ぶこと

 一つ、外国とも仲良くすること

 ………………」

 よどみなく、そらんじるようなその口ぶりは、常日頃つねひごろから温めていた考えを、スラスラと吐き出すようであった。

「船中八策、と呼ばれる名場面だよ」

 チュン太は鼻を膨らませている。

「ぶらぶらしてるように見えて、龍馬さんはいろんなことを考えていたんだね」

 僕もなんだか、武者ぶるいがして来た。

「これがまさしく、日本が近代国家になる始まりだ。明治の『五箇条の御誓文』も、このときの龍馬さんの考えが元になってるらしいよ……」

 つづられた条文にあらためて目を通し、感心する後藤に龍馬は照れかくしのように笑いながら言った。

「なあに、全部いろんな人の受け売りじゃ。人のフンドシで相撲を取りゆうだけじゃ。ははは」

 数日後に入京した彼らは、その足で土佐藩邸へと向かった。

 しかし、出迎えた藩士から伝え聞いたのは、容堂公がすでに京をお立ちになったという意外な情報であった。

「……思うように会議が進まないので、つむじを曲げて土佐へお帰りになりました」

 後藤と龍馬はあんぐりと口をあけたまま、しばらく動けなかった。

 まったく、呼び出しておいて先に帰るとは、何ともわがままな殿様である。

「逆の立場だったら、打ち首だね」

「昔のタテ社会は、今とは比較にならないよ」

 僕とチュン太は、代わりにいきどおったり、なぐさめ合ったりした。

 しかし当の彼らは、案外落胆した様子もなく、寄り集まって次の策を考えている。こんな仕打ちには慣れっ子なのであろうか。

「仕方がない。まずは足固めといくか……」

 後藤は藩邸にいた土佐藩士たちを集め、頭を寄せ合って大政奉還のアイデアを説いた。まるで自分の思いつきのように、得意げにその利点を述べている。龍馬もとなりで聞いていたが、こちらは脱藩をくり返す身なので、どことなく居心地が悪そうである。

「……徳川を生かしながら体制を変えるこの案ならば、きっと大殿様も賛成して下さるに違いない。これからの土佐は、この大政奉還の路線で行くぞ。わしはさっそく、各藩を回って賛同票を集めて来る。そうなれば大殿様も心強いであろう」

 後藤の太い眉がいつになく凛々りりしく見えた。いつまでもくよくよせずに、あの手この手を考えるところが、彼の政治家として本領のようである。

 龍馬もそんな後藤の横顔をまぶしげに見ながら、また何かを思いついたように言った。

「そうじゃ。わしも慎太郎のところへ行って、武力倒幕の計りごとをしばらく思い留まるよう説得しよう。あいつも今、この京におるはずじゃ」

 いきなり藩邸を出て行く龍馬のあとを、僕らはあわてて追いかけた。こちらも相変わらずフットワークが軽い。

 京の街並みはにぎやかだった。

 僕は子供の頃に一度だけ、母につれられて夏の京都を訪れたことがある。当時、あまり神社仏閣などに興味のなかった僕は、したたる汗を拭いながら、必死で母のあとを追った。やたら太陽の眩しかったその景色と、いま目の前にあるこの風景とを重ねてみても、あまりの変貌ぶりにそれが同じ場所であることは想像できなかった。コンクリートは赤土に代わり、ビル群は瓦屋根に変わり、まるでその面影すらない。しかしただ一つ、空にそびえる五重塔と赤い大きな鳥居だけは、瞼の裏でぴったりと合わさった。やはり神社仏閣というものは、時の流れをもののようだ。

 しかし、行き交う人々のちょんまげ頭や、日本髪に差したかんざしを見ていると、ここが江戸時代であることを疑うべくもなかった。

「あ、龍馬さんはどこだ?」

 考えごとをしている間に、僕は龍馬の姿を見失っていた。

「あそこだよ……」

 チュン太の指さす方を見ると、龍馬は道の端っこをコソコソ隠れるように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、軒づたいにジグザグに歩いている。

「なんであんな歩き方してるの?」

「龍馬さんは京ではお尋ね者なんだよ。薩長を結びつけ、幕府の転覆を企てる奸物かんぶつとして、彼の名はもはや有名だったんだ。現に寺田屋で襲われたときに、かたを何人か殺傷しているしね。大手を振って歩けない身なんだよ。とくに京の都は警固が厳しく、新選組や見廻り組がうろうろしている。見つかったら、その場で斬り殺されてもおかしくない……」

 僕は八百屋の店先でしらじらしく京野菜を手に取っている龍馬の横顔を見た。

 それにしても、と僕は考えた。彼が命を賭けてやろうとしていることは、いったい彼にとってどんな得になるというのであろう。

 僕も含めて、あたかも生きる目的を見失い、保身に窮々としている現代の若者と、それは何という違いであることか―――

「ほら、さっそく来た……」

 チュン太がアゴで示す先には、路地の向こうから大股で闊歩するように、五、六人の男たちが周りを睨みながら近づいて来る。

 淡い水色のおそろいの羽織にはギザギザの模様がついていて、腰には大小二本の刀を差し、さかやきはサッパリ剃り込まれている。颯爽としたその風貌に、僕はどこかで見覚えがあった。

「新選組だね……」

 よく芝居などでは、彼らを主人公にしたものも多く、しばしば正義の味方として描かれる場合もある。じっさい、使命感に燃えるその眼差まなざしを、僕はすなおに、カッコいいと思った。

「……彼らは幕府にやとわれた用心棒だから、龍馬さんとは、言わば敵同士、あまり会いたくない存在だね」

 なるほど、物事は立場によって見方が変わるものだ。

 龍馬はと言えば、彼もちょうど今、新選組の接近に気づいた顔だ。

 しかし、あわてて逃げるとかえって怪しまれるので、何気ない風を装い、やり過ごそうとしているようである。

 新選組の方も、おそらく龍馬の風貌は見知っているはずであるが、こちらはまだ、この厄介な男に気づいていない。

 僕はふと、そのとき新選組の中の一人が、ケンゾーにそっくりであることに驚いた。

 しなやかですきのないその歩き方といい、物静かだが殺気に満ちたその表情といい、見れば見るほどますますケンゾーだ。

 いよいよ龍馬との距離があと数歩になったとき、他の隊士たちがそのまま通り過ぎようとするなか、ひとりケンゾーだけがこの不審な男に心づき、鋭い視線を投げた。龍馬は饂飩うどん屋の暖簾をくぐるフリをしている。

 しばらく凝視されて、さすがに龍馬も白ばっくれるのが不可能と見たのか、道端で寝ていた三毛猫のそばへしゃがみ込んだかと思うと、撫でる仕草をしながらそれを抱きかかえ、いきなりケンゾーの顔へ投げつけた。と同時に、一目散に駆け出した。

 猫を投げつけられたケンゾーは反射的にそれを手で受け止めた。そしてそっと地面に置くと、顔に付けられた引っ掻き傷を気にしながら、龍馬の逃げて行った細い路地を見据えた。

 路地には龍馬がガラガラと蹴散らして行った材木やたるが散乱している。逃げ足の早い龍馬の背中が、一本向こう側の通りへ出るのがチラリと見えた。

 空から見るとよく分かるが、この辺りの路地はすべてタテ横格子こうし状になっていて、一つ先の角から曲がっても同じ場所へ出る。

 ケンゾーはとっさに地面を蹴り、龍馬の逃げた方向へ、こちら側の道を平行に走った。その機敏な動きも、やはりバスケの試合を思わせる。俊足を生かして先回りする気らしい。

土方ひじかたさん!」

 なにが起きたのか、まだ気づいていない他の隊士たちが、ケンゾーにそう叫んだ。「どうしたんですか?」

「ヒジカタって、ひょっとすると……」

「うん。土方歳三としぞうだよ。新選組の副長だ。じっさいに隊を取り仕切っていたのは、彼だ」

 僕は走り去るケンゾーの背中を追いながら、白熱するスポーツの試合を観るように、彼らの大り物を眺めた。

 リョースケの足も決して遅い方ではないが、やはりケンゾーの身体能力にはかなわない。うまく逃げ切れるか―――僕は手に汗握った。 

 土方が一つ目の角から向こうを眺めたとき、龍馬はすでにその先の角を走り抜けたところであった。

 ケンゾーはさらに三つ目の角を目指してひた走る。僕らも必死で追いかける。

 三つ目の角から向こうを見ると、今度はリョースケの後ろ足が見えた。すこし距離をつめられた形だ。

 さらにその先の角では、龍馬の全身が見えた。かなり息が上がっている。

 いよいよ最後の角を過ぎた辺りで、リョースケはケンゾーの捕縛ほばく圏内に入った。

 ケンゾーもそれを見越して、いきなり直角にカーブを曲がる。おそろしい勢いだ。僕もやっとこさついて行く。チュン太はすこし遅れをとる。

 そしてついに向こう側の路地の風景がひらけた。

 道幅は同じくらいで、やはり商家や民家や旅館などが立ち並ぶ繁華な通りである。

 土方は辺りを見回した。この風景のどこかに、息を切らした龍馬がいるはずである。

 ところが、どこを見渡しても、それらしき人物の姿はなかった。日当たりのよい路地には、あわただしく行き交う町人や商人の姿があるばかりだ。

 ちょうどそこへ、一生懸命羽をバタつかせながら、チュン太が追いついて来た。

「龍馬さん、つかまった?」

 ハアハア言いながら僕に尋ねた。

「いや、まだだ……いないんだ」

 僕とチュン太は、羽織姿の土方歳三の頭上で、彼といっしょに龍馬の姿を探した。

 にぎやかな昼下がりの京の街は、そこだけ見ると激動の幕末とは思えないのどかさだ。

 花やかな芸妓げいこ衆をからかう商人、田舎から出て来たらしい大荷物の旅人、そこのけそこのけと先を急ぐ飛脚、てんびん棒におけをさげて金魚を売り歩く金魚売り、風ぐるまと風鈴に囲まれて自分もそこにうずまったような女主人、独楽こまで遊ぶ子供たち、乳飲み子を背中におんぶして面倒をみる女の子、長い楊枝を口にくわえ肩で風を切って歩くやくざ者……

 何の変哲もない初夏のみやこの風景―――

 しかし、どこを探しても、龍馬の姿はなかった。

「どこに隠れたのかな……」

 僕とチュン太は屋根づたいに周囲をうろついた。

 土方も、ゆっくりとした足取りで、一軒一軒、商家の暖簾を覗いている。

 そこへ、あとから駆けつけた新選組の隊士たちがやっと追いついて来た。

「土方さん、どうかしましたか?だれを追ってるんですか?」

 土方は不満そうな顔を浮かべたまま、彼らに答える。

「いや……何でもない。ちょっと見知った男がいたような気がしたんだ。人ちがいかも知れん……」

 しばらくその界隈を恨めしそうに睨んだあと、土方は追うのをあきらめ、はかまの乱れを手ではたいて、また隊士たちに合流した。

 彼は歩きながら、「ま・よ・い・み・ち……」と、なにか時数をかぞえるように、指を折っている。まさかこんな時に、和歌でも詠んでいるのであろうか。

 新選組が立ち去ったあとも、僕らは引きつづき龍馬を探したが、日の当たる街の様子は平和そのもので、龍馬の姿はやはり見当たらない。

 しかし、追手おってが完全に姿を消し、もう戻って来ないと思われたころ、普請ふしん中の家屋の壁を塗っていた職工の一人が急に道具を放り出し、持ち場をはなれて往来の真ん中へ歩み出た。パンパンと手をはたき、それを額にかざして遠くを見ている―――龍馬だ。

 彼は土かべを塗る左官に扮して、さっきからそこに隠れていたのだ。まんまと僕らも騙されてしまった。

 職人たちは、ペコリと頭を下げる龍馬をチラと睨んだだけで、また仕事に戻る。

 龍馬はふたたび路地を歩き出した。悪びれず、飄々としたその様子は、どこか楽しげにさえ見える。

 僕らは迷路のような街並みを、龍馬に従って右に左に飛び回り、ついにはある路地裏の、目立たない一軒のあばら家の前へ辿り着いた。

 龍馬は壊れた窓のすき間から中を覗き込み、辺りをはばかりながら、

「ああ、ふぐが食いたいのう。だれかわしに、美味いふぐを食わせる奴はおらんかのう……」

と、場違いな台詞せりふを、中に聞こえるように言った。

 しばらくすると、すべりの悪い木戸をガタガタと開けて、中から出て来た無骨な手が、ひらひらと龍馬をさし招いた。

「龍馬。入れ」

 龍馬は木戸のすき間から中へ入り、追手がいないのを確かめて、ピシャリと戸を閉めた。

 僕らは窓の方へ回って、中の声に耳を澄ませた。

「……慎太郎。おまんの活躍はわしの耳にも入っちゅう。いよいよ幕府も切羽詰まって来たのう……」

 二人は挨拶もそこそこに、いきなり本題から話しはじめる。聞かれてマズい部分は、やはり少し小声になる。

「……わしの方も、これから容堂公をつかまえて、建白書を書かせるところまで漕ぎつけた。ひとまず計画通りじゃ。……言うちょらんかったが、例の役は大殿様につとめてもらうことにした……」

 土佐の殿様を利用して、大政奉還を幕府に進言するという奇抜なアイデアを、そのとき初めて耳にする慎太郎は小さく叫び声を上げた。

「お、おまんはまた何ちゅう……。しかし、……なるほど……うまくいけばそれが最善の策じゃが……」

 慎太郎の困惑する顔が目に浮かぶ。

「そう、うまく事が運ぶとは思えん……」

「そうなんじゃ。さっそく大殿様に逃げられてしもた。これを実現させるがは、思ったほど容易じゃないかも知れん―――そこで相談じゃが、慎太郎、おまんが薩長に持ちかけちゅう武力倒幕の話を、いますこし、先延ばしにしてはもらえんかのう。わしが容堂公を説得するまでの間じゃ。もちろん、わしらの共通の目的は幕府を倒すことじゃき、いざとなったら手段を選びゆうヒマはない。大政奉還がいかんかったら、武力倒幕も辞さん思いゆう。しかし、いろんな好条件がそろちゅう今、血を流さずに世の中を変える絶好の機会なんじゃ。分かるか、慎太郎」

「……相変わらずじゃのう、龍馬……。分かった。そんなら、西郷や桂に、そのことを言うてみる。彼らも馬鹿ではないき、聞く耳は持っちゅう。しかし龍馬、世の中はおまんが思いゆうほどええ人ばかりじゃないがぜよ。わが身可愛さに、国全体をかえりみん奴らも仰山ぎょうさんおる。そいつらを一掃せんかぎり、世の中は変わらんことを薩長もよう分かっちゅう。彼らは最短の道で幕府を倒すつもりなんじゃ。大政奉還が成らんかったときは、わしらは遠慮なく武力を注ぎ込むぞ。そしてその時には、土佐藩にも出兵してもらう……」

「分かった、慎太郎―――恩に着る」

「それともう一つ、われわれはいま薩摩の大久保さんを中心に、正式な倒幕の勅令を出してもらうよう朝廷に働きかけちゅうところじゃ。もしおまんがぐずぐずしちゅう間に、その勅令が出てしもたら、そんときはもう、わしにも止められん。有無を言わさずいくさが始まる。しからず思うてくれ……」

「……よう分かった。ならば急がんといかんのう……」

 まもなく、僕らのいるところへ、龍馬が入口の戸をガタガタ言わせながら出て来たので、僕らはあわてて屋根の上にのがれた。

 ふたたび軒づたいに身を隠すように、龍馬はもと来た道を戻って行く。

 途中、道行く人々が口々に噂しているのが聞こえた。

「……いよいよ薩長が倒幕に乗り出したちゅう話や。もう軍備は整っとるそうな。薩摩のうしろには英吉利エゲレスがついとるさかい、ひょっとすると……」

「……幕府も負けじと、仏蘭西フランスと手を組んで兵力を増やしとるらしいぞ。もういくさは避けられんかも知れん……」

 それとなく会話に耳を傾けていた龍馬は、がぜん口元が引き締まり、心なしか急ぎ足になった。

 土佐藩邸へ戻ると、いきなり龍馬は藩士たちに囲まれ、驚きの事実を聞かされた。

「坂本、おんしの海援隊が長崎でおおごとになっちゅうぞ……」

 彼らの話では、長崎において、イギリス人水夫二名が何者かによって殺害される事件が起こった、その嫌疑が海援隊にかけられていると言うのであった。

「そんなバカな……。わしの仲間には、訳もなく人をあやめるような者は一人もおらん。なんかの間違いじゃ……」

 また新たな―――そして、決して小さくはない問題を抱えてしまった龍馬を、後藤は気の毒そうな目で見ている。

「坂本。おんしは早う長崎へ戻れ。容堂公の説得はわしが引き受ける。あんじょう事を運ぶき、大船に乗ったつもりでおれ。すでに広島藩や宇和島藩の同意も取り付けて来た……」

 そんなやり取りのあと、それぞれ、龍馬は長崎へ、後藤は土佐へと向かった。

「なかなかスムーズにはいかないね」

「龍馬さんの活躍は一見とんとん拍子に見えるけど、実際はその逆だね。大時化しけの中を行く小舟のようだ……」

 僕とチュン太はため息をついた。

 長崎での事件というのは、海援隊もよく出入りする丸山の遊郭で、酔った上でのいざこざから刃傷にんじょう沙汰になり、イギリス人水夫二名がとある侍に斬殺された、侍はすぐに逃げたが、目撃者によると犯人は白袴しろばかまをはき、海援隊の紋章の入った提燈ちょうちんを持っていた、という内容であった。

 龍馬が念のため仲間に問いただすと、彼ら全員があわてて首を横に振った。

「よし。……そんなら濡れぎぬを晴らさんといかん。わしらの手で真犯人をつき止めよう……」

「龍馬さん」

 若い隊士の一人が言った。

奉行所ぶぎょうしょは近ごろ、何かにつけを目のかたきにしよります。薩摩と縁故えんこのあるわてらを悪者にすることで、薩摩と英吉利エゲレスの仲を裂こうとする魂胆とちゃいますやろか。きっと裏には幕府がおります……」

 関西なまりのその若者は、他の隊士たちよりも一層ひいでた目付きをしている。

陸奥宗光むつむねみつだよ」

 チュン太が言った。

「……のちに明治政府で外務大臣となり、幕府が結んだ不平等条約の改正に力を尽くす人だ」

 海援隊の面々は手分けして方々ほうぼうを回り、目撃情報を探った。幕府の直轄地である長崎では、奉行所をはじめ役人たちの風当たりが強く、彼らは自らの手で真相をつき止めるしかなかった。

 結論を言うと、真犯人は所用で長崎へ来ていた福岡藩士で、龍馬たちが福岡藩邸にかけつけた時には、自らの窮地を悟ってすでに自害した後であったという。

「やれやれ、そういうことか……」

 海援隊の仲間たちはひとまず胸をなで下ろした。

 こうして彼らはどうにかこうにか嫌疑を晴らすことが出来たが、この騒動の間、いつしか貴重な二ヶ月が経過していた。

「急がんといかん」

 武力倒幕の勅命が出る前に大政奉還を実現させたい龍馬にとって、この二ヶ月の遅れは大きな痛手であった。さすがの龍馬の顔にも、すこしあせりの色が見える。

 しかしそんな折、土佐から駆けつけた後藤の口から、願ってもない知らせがもたらされた。

「坂本、喜べ。大殿様をついに説き伏せたぞ……」

 後藤は進退をかけた直訴じきそによって、山内容堂公に大政奉還の意図を納得させ、大殿様じきじきの筆による建白書を取り付けて来たというのであった。

「……死ぬかと思た」

 龍馬は後藤から受け取った建白書をおそるおそる広げ、ゆっくりとそれに目を通している。

 何が書かれているのか分からなかったが、黒々とした墨跡すみあとの文字は、いかにも土佐の最高権力者の手になるものであった。

「後藤さん……」

 龍馬は思いつめた声で、肩を震わせながら言った。その目には涙さえ浮かんでいるようだ。

「ようやってくれました……」

 手を取らんばかりの龍馬の感激ぶりに、後藤は少々照れながら答えた。

「まあ、待て。まだ大政奉還が成ったわけではない。を取り付けただけじゃ。あとはこれを、わしが将軍慶喜よしのぶ公へ届ける。そこまでがわしの役目じゃ……がしかし、坂本―――筆を置いたあと、庭を見ながら酒を飲む大殿様の背中は、寂しそうな内にも、どことなく嬉しそうじゃったぞ……」

 後藤も感慨深げに、一つの達成を喜んだ。その顔はじつに晴ればれとしている。

 龍馬はあらためて力強い口調で言った。

「おおきに、後藤さん。ここまで来たら、あとは慶喜公を動かすだけじゃ。……後藤さん、そのために……」

 彼はギロリと後藤を睨んだ。

「もう一ぺん、もらえますか……」

 後藤は恐々としながらも気を入れ直し、さっそく建白書をひったくるように上京した。

 龍馬はと言うと、こんどはどういうわけか、オランダ商人のやかたを訪れ、銃を大量に購入するための交渉をしているようだ。

「……なんで銃なんか、そんなに買うんだろう。大政奉還は無血革命のはずなのに」

「失敗したときは武力で戦うつもりなんだよ。中岡さんとも、そういう約束だった……」

 僕は、龍馬が完全な平和主義者ではないことを思い起こし、背筋にうすら寒いものを感じるとともに、こちらがダメならあちらの方法でと、なんとしてでも目的を達成させようとする執念の力を感じた。

 交渉が整い、購入したライフル銃千三百挺を船に積み込むと、龍馬は長崎を離れ、北回りに瀬戸内海を目指した。後藤のあとを追って京へ向かうのであるが、途中下関で桂とおりょうに会い、土佐へ寄って容堂公に銃を献上する段取りであるらしかった。

「ここから先は、出会う人、訪れる土地、すべてが最後の別れになるよ。ぼんちゃん―――もう分かってるよね」

 チュン太を見ると、いつになく真剣な顔になっている。

「うん……」

 僕は、坂本龍馬が暗殺された史実も知っていたし、今さら歴史は変えられないことも充分承知しているつもりなので、名残惜しさのかたわら、にわかに身が引き締まった。

 下関へ着くと、龍馬は桂小五郎のもとを訪れ、大政奉還の話を切り出そうとした。

「以前にも手紙でお伝えしましたが……」

 ところが、木戸と名を変えていた桂は、龍馬の話を半分も聞かず、立派に整備された武器と、訓練にはげむ兵士たちを指し示しながら上気した口調で言った。

「見給え、坂本君。もういついくさが始まっても大丈夫だ。われわれはどん底から這い上がってここまで来た。いよいよこれが本番だ。君には感謝の言葉もない……」

 見るからに武力倒幕のことしか頭になさそうな木戸を前に、龍馬はそれ以上何も言えなくなった。思えば薩長同盟を手引きしたのも、幕府の長州攻めに際して彼らに加勢したのも、他ならぬ龍馬なのであった。

「……おかげで薩摩との連携も上手く行っている。なあ、伊藤……」

「はい。昨日、薩摩から大久保さんがお見えになり、出兵についての綿密な打ち合わせをしました……」

 見ると、血気盛んそうな若者が、木戸の前で頭を低くしている。

「伊藤博文ひろぶみだよ。日本初の内閣総理大臣になる人だ……」

 チュン太が呟いた。

 またしても、錚々そうそうたる顔ぶれだ。いったいこの時代の人の配役はどうなっているのだろうか。

 龍馬は、とてもらちが明かないと見たのか、すみやかに彼らの面前を辞し、こんどは眺めのいい場所に立つ、とある屋敷へと向かった。

 入口の門をくぐると、庭手の方から何やら子供たちの黄色い声がする。

 その奥の、かすかに潮風の香る庭には、大きな葉に打ち上げ花火のような白い花をつけた植物が風に揺れていた。

「ハマユウ、というんだよ。彼岸花ひがんばなだ……」

 チュン太が先に立って、花とたわむれた。

 裏庭では浴衣ゆかた姿の子供たちが、風に舞うシャボン玉を追いかけて遊んでいる。

 よく見ると、その中心にいる着物姿の女性は、まぎれもないおりょうさんだ。そういえばお龍は、下関にいる龍馬の知り合いの家にあずけられているのであった。

 楽しそうにシャボン玉を吹くお龍は、いつもの男まさりの彼女ではなく、無邪気な少女の顔に戻っていた。まだ龍馬の来訪には気づいていない。

 大きなシャボン玉が庭の風景を映しながらクルクル回って龍馬の方へ飛んで来た。

 追いかけて来た女の子が、手を伸ばそうとした拍子に、龍馬の腰のあたりへドンとぶつかった。

「あっ……」

 ゴメンナサイ、と言えずにモジモジしている女の子の頭を、龍馬はやさしく撫でている。

「あら……」

 はじめて龍馬に気づいたお龍は、目も口も鼻もまん丸にして驚いている。

「龍馬はん!」

「久しぶりじゃのう、お龍。元気にしちょったか……」

 お龍はシャボンの入った壺を年かさの男の子に渡すと、脱兎の如く龍馬の方へ駆け寄ってその首に抱きついた。

 龍馬は照れくさそうな笑みを浮かべて、されるがままになっている。

「あんたらは、あっちへ行ってらっしゃい!」

 周りを取り囲んでジロジロ見ている子供たちに気づくと、お龍は睨むように追い払い、また改めて龍馬の胸に顔をうずめた。

「お会いしたかった……」

 二人は縁側へ腰かけ、積もる話に花を咲かせた。お龍はお盆にのせた餅菓子を持って来たり、月琴を聞かせようとしたり、龍馬を下へも置かぬ持てなしぶりである。

「……ところで龍馬はん、いつまでここにられるのどす。ひょっとして、これからずっと……」

 期待に目を輝かせるお龍に、龍馬のかけた言葉はやはり歯切れの悪いものであった。

「それがのう、お龍、下関へは二日しか居られんのじゃ。もう港で船が待っちゅう。わしゃ、京の都へ、ある大仕事をしに行く。それが済んだら、きっとおまんを迎えに来る。それからは、誰にはばかりのう、お前と二人、いつまでも一緒に暮らすがじゃ。ちくと待っちょってくれるか……」

 覚悟していたとは言え、やはり明らかに落胆した様子のお龍を、龍馬は必死で励ますように大きく手を広げながら、将来への夢を語っている。彼の話が希望に満ちていればいるほど、彼の表情が明るければ明るいほど、結果を知っている僕らにとっては、それは虚しく、そして切なく響いた。

 ちょうどそこへ、仕事を終えて帰って来たらしいこの家の主人がやって来た。

「坂本さん!」

三吉みよしさん!」

 同時にお互いを認めた男たちは、駆け寄って再会を喜び合っている。

「お元気そうじゃのう、三吉さん。わしの命の恩人じゃ―――」 

 この三吉という人物は、かつて龍馬が寺田屋で襲撃されたとき、一緒に奮戦して龍馬の逃亡をたすけたやりの名手ということであった。

「……ご無事でしたか、坂本さん。長州のために、いろいろお骨折りいただきました。あなたこそ、この長州の恩人です……」

 健闘をたたえ合う男たちの友情を、お龍は目を細めて見ている。

 そして、さっきまでの甘えていた表情とは一変して、いつもの強情そうな顔になり、屋敷の奥へと引っ込んで行った。裏手の方から何やら包丁で切るような音が聞こえてくるのは、酒のさかなでも用意しているのであろうか。

 二人の男は縁側に腰かけ、一くさり近況を報告し合った。やがて龍馬は少し声を低めて三吉に囁いた。

「……もし、わしに何かあったら、お龍を土佐へ送り届けてつかあさい。わしの家族が面倒見ますき……」

 三吉も神妙な顔になり、だまって頷く。このころには龍馬は、すでに自らの余命の短いことを予感していたのであろうか。

 そこへ、お盆に徳利とっくりをのせたお龍がしずしずと戻って来た。だまって二人の間にお膳を用意する。

「お龍。こうして見ると、おまん、なかなかええ女じゃのう。わしの妻にしとくのはもったいないのう……」

 龍馬が軽口をたたくと、お龍は少し睨みながら微笑んだ。そして、もう一度台所へ戻り、今度は何やらよい香りのする料理の皿を両手で持って来た。

「さあ、召し上がれ。京野菜の煮付けどす。醤油がうす口なのがわが家の味どす……」

 湯気の立つ皿に鼻を近づけ、「ほう!」と言って大げさに舌なめずりをしながら、龍馬はさっそく箸をのばそうとした。

 するとそこへ、門の方から騒がしい声がしたかと思うと、農民や町人、その他さまざまの格好をした男たちがドヤドヤと押しかけて来た。

「坂本さんがお見えになっとると聞きました」

「坂本さん!」

「龍馬さん!」

 男たちは口々に龍馬の名を呼び、われ先に顔を見せようとする。

「おお。みなさん、お元気じゃったか!」

 龍馬は一人ひとりの顔をながめ回し、なつかしそうな顔をする。どうやら幕長戦争をいっしょに戦った奇兵隊の連中のようだ。

「……高杉さんはいつもあなたのことを誇らしげに話しておられました。坂本龍馬こそが、この腐った日本に夜明けをもたらしてくれる男であると……残念ながらすでに亡くなられましたが……」

 三吉が遠い目をしてそう言うと、龍馬は少し吃驚びっくりし、そして自分の使命を思い出したような真剣な目になる。しかしすぐにまた表情を和らげ、

「まあ、ここじゃ何じゃき、いっちょう街へくり出すかのう。つもる話も山ほどある……」

と言って、お猪口ちょこを口にするマネをした。

 男たちは一斉に雄叫おたけびを上げた。

 龍馬が箸を付けようとした京野菜の煮付けはそのまま皿に残された。もう湯気は立てていない。

 三吉が心配そうにお龍の顔をうかがうと、お龍はやはり、顔には出さないが、寂寥せきりょうの色を額ににじませている。しかしすぐに気丈をよそおい、

「三吉さんも行って来て下さい。たまには羽目はめをお外しになって……」

と言いかけたが、途中から涙声になり、言葉が続かなかった。

 そんなお龍にはかまう様子もなく、龍馬はすでに男たちに囲まれ、歩きながら大笑いしている。

 僕はさすがにお龍が不憫ふびんになり、同時に龍馬に対して少々腹が立った。

「男って、いい気なもんだね」

「なかなか龍馬さんは、お龍さん一人のものになってくれないね……」

 チュン太も半ばあきらめたように、丸い肩を力なく落とし、しょんぼりしている。

「お龍!すぐ帰るき。とこを敷いて待っちょれ……」

 龍馬はふり返って軽い調子で目くばせをする。

 一行はぞろぞろと屋敷の門を出て行った。三吉はお龍の作った野菜の煮付けを一口くちにすると、大げさにその味を誉めた。「うまいのう。お龍さんは料理上手じゃのう……」

 お龍はそんな三吉に愛想笑いをするとともに、彼も早く一緒に行くようにと促した。三吉はしぶしぶお龍の方を振り返りながら、彼らのあとを追った。

 残されたお龍のそばに、チュン太がずっと寄り添っているので、僕も一緒に家で待つことにした。男たちのドンチャン騒ぎを見たところで、何も得るところはない。

 夜も更け、お龍は手なぐさみに月琴などをポロンと鳴らしている。物思いに沈むその横顔が、月光に照らされてつややかに美しい。コオロギが鳴いている。昼間はまだ夏の暑さなのに、夜になるとやはり少し冷え込んで、近づいて来る秋の気配を感じさせる。

 待てど暮らせど、龍馬は帰って来ない。時刻はすでに深夜である。お龍はきれいに敷かれた布団の横で、まんじりともせず畳の上に正座している。

 鳥である僕らは、朝には強いが夜にはめっぽう弱い。

「もう寝よう……」

 重たくなるまぶたに抗しきれず、どちらからともなくそう言って僕とチュン太は目を閉じた。

 それにしても、人を待つ時間の何と長いことか―――

 朝になって、僕らは不覚にもキジバトの鳴き声で目を覚ました。

「いけない、寝坊だ……」

 お龍はと言うと、朝日の差す畳の上で、昨夜と同じ格好のまま正座している。どうやら一睡もしていないようだ。

「……これは大変なことになったね……」

 僕らは、これから龍馬を待ち受ける修羅場を想像して、こわごわと顔を見合わせた。なにせ気性の激しいお龍のことだ。血を見るかもしれない。

 お龍は、ふと、何を思ったか、すくと立ち上がって台所の方へ向かった。つづいてショリショリと包丁を研ぐ音が聞こえた。

 そこへ折悪おりあしく、門の方から人の気配がした。泥酔した龍馬が、三吉に抱きかかえられながら鼻歌まじりに入って来る。

 見ると、その帯は乱れ、はだけた胸元には何やら口紅の跡がある。おまけに女物らしい香水の香りをプンプンと漂わせている。

「やばい!絶対にやばい!」

 僕とチュン太はあわてて羽をバタつかせた。

 龍馬は倒れ込むように誰もいない縁側に腰を下ろすと、介抱してくれた三吉に礼を言い、

「もうここでええき」

と、酒臭い息で言った。

 三吉はなおも龍馬を気遣いながら、やがて自分の寝ぐらにしているらしい離れの方へと消えて行った。

 手足をだらりとさせ、ひとり縁側に座る龍馬の顔は、だらしなくむくんでいる。無防備この上ない。

 そのうち、朝のしずけさの中、かすかに足袋たびが交互に畳をする音が聞こえて来た。台所の方からそれは近づいて来る。

 僕らは逃げるように軒下へ隠れた。

 ところが、縁側に姿を見せたお龍の手には、鋭利な刃物ではなく、白いご飯を盛りつけたお茶碗が掲げられていた。その頬には笑みさえ浮かんでいる。

 少しは糾問されることを覚悟していたらしい龍馬は、そのお龍の表情を見て、どうやら大過なきを得たことを悟り、大いに安心して茶碗に手を伸ばそうとした。

「お龍、待たせたのう。ちょうど腹が減ったところじゃ。京女は気が利くのう……」

 しかしお龍は、やさしげな笑みを顔に貼りつけたまま、伸ばされた龍馬の指の手前で、茶碗をポトリと床に落とした。茶碗は派手な音を立てて割れた。

 パリンという音につづいて、盛られたご飯がグシャリと形をくずす。

 お龍は笑ったままである。

 龍馬はその行為に込めれらたお龍の怨念を悟り、みるみる顔をこわばらせる。

 お龍の笑顔の向こうに般若の形相ぎょうそうが重なる。

 龍馬はあわてて居ずまいを正し、乱れた襟元を掻き合わせ、縁台から降りて地べたに土下座した。

「お龍―――すまん!」

 もはや酒の酔いはどこかへ吹き飛んでしまったようだ。

 その間、お龍は終始無言で、割れた茶碗を片付けようともせず、虚空こくうを見据えたまま、やがてくるりときびすを返してそっぽを向いた。座敷の奥に敷かれた布団がえと白い。

 このような場合、だまっていられるのがもっとも辛い。

 なにか叱言こごとの一つでも投げてくれれば、それに対する言い訳も出来て、しだいに状況を改善させることが出来る。

 しかしその機会さえも与えないのが、つまりはお龍の怒りの深さなのだ。

 龍馬はほとほと困り果てた。

 この氷のような時間を、どうやったらなごやかなものに変えることが出来るか―――

 どんなねんごろな言葉も役に立ちそうにない。

 その時ふと、龍馬は座敷の奥の暗がりの中に、何か気になるものを見つけたらしく、にわかに縁台を駆け上ると、床の間の方へ歩み寄った。

 戻って来た龍馬の手には、一さおの三味線があった。

 龍馬はどっかと縁台に腰かけると、うしろで化粧箱などをいじっているお龍を尻目に、慣れた手つきで調弦をはじめた。

 そして声の調子を確かめ、すこし試し弾きをしたあと、何やら即興の歌を歌いはじめた。

 

  あくがれづる蛍火ほたるび

  闇にさまよふ夏の夜……

 

 言葉の終わりを長く伸ばし、独特のこぶしを回して悠然と歌う。歌いながら次の歌詞を考えているようだ。お龍は無視するフリをしながら、背中でそれを聞いている。

  

  甘き水なら数々あれど

  ここにまされる水はなし……

 

 龍馬は調子づいて、声を高く張り上げる。高杉ほどいい声ではないが、なかなか堂に入っている。

  

  ここへ帰らで如何いかんせん

  まっこと甘き水なれば…… 

 

  ああ 如何せん

  如何せん


 こんどははっきりと、お龍の背中に訴えかけるように、龍馬はサビをくり返す。

  

  ここに勝れる水はなし

  ここに勝れる水はなし……

 

 ―――お龍さん。あなたよりいい女はどこにもいませんよ……

 そう言ったほどの意味であろうか。心なしかお龍の肩から力が抜けて行くのが分かった。

 龍馬が即興の歌に込めたメッセージを、どうやらお龍は受け止めたようである。ちらっと横目で龍馬を見ると、立ち上がってまた台所の方へ消えて行った。

 そして再度戻って来た彼女の両手には、大事そうに包まれた湯呑みの水があった。

 こんどはさっきのように、いじわるくそれを落としたりはせず、やさしく龍馬の手を包み込むように、目を見つめながら水を渡す。

 渡された湯呑みの水を、龍馬はゴクゴクと音を立てて飲んだ。水が通過するにつれて上下する喉仏のどぼとけを、お龍はじっと見つめている。

「……こっちの水は……甘いどすか……」

 龍馬が飲み終わるのを待って、お龍ははじめて口を開いた。

 龍馬はここぞとばかり、大げさに水の味をたたえた。

「うまい!こんなうまい水ははじめてじゃ……」

 このセリフを躊躇ちゅうちょなく、満面の笑みで言うことが、龍馬にとっては肝心である。

 お龍もニッコリとした。目は三日月のように細くなっている。こんどは本当の雪解けのようだ。

 おそらく、どんな言葉をついやしても成し得なかったであろう和解を、他愛もない一つの歌が、いとも簡単に成し遂げてしまった。

 やっぱり、歌の力ってすごい。

 二人は手を取り合うように座敷へと進み、真っ白な布団の中へ同時にもぐり込んだ。

「よう寝とらんのじゃろう、お龍。わしも、もいっぺん寝直すき……」

 頭からかぶった布団の中で、二人は大人しく寝るどころか、何やらいつまでもじゃれ合っている。

 僕らは邪魔をしないよう、屋根の上に飛び上がって、すでに高く上った太陽が関門海峡を照らすさまを眺めた。

 龍馬の下関での二日間はあっという間に過ぎた。

 これが一生の別れだとは知らずに、二人はまたすぐに会うことを誓い合って、いつも通りの別れを惜しんでいる。

 僕らの方こそ、お龍さんと会うのはこれが最後になるので、なかなか彼女と別れることが出来なかった。庭に咲くハマユウの白さが、心なしか切なく見える。

 ようやく思いを振り切って、僕らは龍馬といっしょに出立しゅったつした。

 人は、こんな思いで人に接すれば、もっと相手にやさしくなれるのかも知れない―――

 僕は少し感傷的になった。海に連なる荒波の模様が、僕をよけいにそうさせた。

 しかし、船に積まれたライフル銃の山が、また僕を現実に引き戻した。

「……これを、土佐の山内容堂に届けるんだったね……」

 僕はつぎの目的を思い出した。

 あとからあとから、龍馬にはやるべきことが目白めじろ押しである。このくらいの早さで、彼の人生の時は進むんだ、ということが、何となく実感できたような気がした。

 翌る日、船は桂浜へ到着した。

 土佐を訪れるのがわずか二度目の僕らでさえ、その風の匂いをなつかしく感じたくらいであるから、当の龍馬にとって、おそらくは脱藩以来数年ぶりに踏むであろう故郷の土は、どれほどの感慨だったであろう。波打ち際に立ち、羽織に風を孕ませながら、龍馬は波光きらめく太平洋に向かって大きく深呼吸をしている。

 かつて脱藩の身で逃げ隠れしていた頃とちがい、今回は故郷の危機を救う「英雄」として、大手を振って歩ける立場である。

 しかし、やがて城下町のにぎわいを抜け、青空にそびえ立つ天守閣が近づくにつれて、彼の表情はこわばって行った。

 守衛の立つ城門の前で来意を告げると、龍馬の一行はいともあっけなく中へ通された。銃を積んだ荷車は裏口の方へ回される。

 龍馬は玉砂利を踏みしめ、大きな石垣やいかめしい白壁を見上げながら、ふうと息をついた。

「どうも、こういうのは苦手じゃ……」

 以前の彼ならば逆立ちしても入れなかったお城の門を、いま晴れて堂々とくぐるにも関わらず、その、人を威圧するようなおごそかな雰囲気に、彼は生来せいらいなじめないものを感じているようである。

 役人に案内されて、手入れの行きとどいた庭へ辿り着いた。

 松の木の下に敷きつめられた白砂には、丁寧にほうきで掃き清められた跡がある。

 僕らはその庭に見覚えがあった。

 それはかつて、後藤象二郎が低頭して控えていた庭である。その白砂の上に、いま龍馬がうやうやしくひざまずいている。

 壇上にはまだ殿様の姿はない。

 しばらくその格好のまま、どれくらい待ったであろうか、僕らもゴツゴツした松の枝に止まって、いよいよしびれを切らしたころ、ようやく廊下の方から、派手な衣裳をまとった殿様が現れた。

 覚束おぼつかないその足どりは、例によって酒に酔っているようである。

「……ついに龍馬さんと容堂公の対面だね。どんな話をするのかな……」

 まるで自分が校長室に呼び出されたように、僕は胸がドキドキした。

 龍馬の頭上で殿様の声がした。

「そなたが坂本龍馬か……」

 龍馬は頭を上げずに答える。

「は」

「そなたの働きは、後藤からよう聞いちゅう。いろいろ大儀じゃったのう……」

「は」

「このたび、後藤の進言で、徳川に対し、ある申し入れをすることになった。それが上手く運べば、この土佐もますます栄えることになろう……」

「は」

「せっかくそなたが運んでくれた銃も、わしはなるべく使わんようにしたい思ちゅう」

「は」

「しかし、何はともあれ、ご苦労じゃった。褒美を取らせるぞ」

「は」

「下がってよい」

「は」

 龍馬は結局、最後まで頭を上げなかった。容堂公の顔すら見ていないようだ。

 殿様が廊下を立ち去るとき、龍馬は少しだけ顔を上げ、その鬢付びんつけ油の効いた後ろ頭をチラリと見た。

 そしてふすまがピシャリと閉じるのを見届けると、そそくさと立ち上がり、逃げるようにその場を退散した。

 城門をくぐり外に出たとき、龍馬は羽織の首元をゆるめながら呟いた。

「ふう……やっぱりこんな場所は性に合わん。これが最初で最後じゃ……」

 龍馬と仲間たちは集合の期日を決め、それぞれの用足しのために奔走する。

「わしゃ、ちくと家に顔出して来るき……」

 堅苦しい面会を終え、のびのびとした顔の龍馬は、慣れた足取りで土佐の街並みを歩いた。

 途中、きょろきょろと周りを見回したり、立ち止まったりしながら、故郷の風物をなつかしんでいるようだ。

「なんも変わっちょらんな。まあ、人の顔ぶれは少し変わっちゅうが……。遠回りして鏡川かがみがわでも見て来るか―――」

 城下町を抜けて辿り着いたのは広々とした川のほとりであった。

 しばらく川沿いに行くと、なにやらふんどし姿の少年たちがわいわいと川の中で遊んでいる。ときどき縦一列になって頭を水につけたり、また浮き上がったりしているのは、水練であろうか。

「おお、やっとるのう……」

 龍馬の顔に笑みが浮かぶ。

「……たしか、この橋の辺りから海水になるんじゃ。なつかしいのう。それにしても、も少し大きい川じゃ思ちょったが、こんなもんじゃったかのう……」

 龍馬もむかし、子供たちと同じように、ここで元気に水練をしたのであろう。泣き虫でやせっぽちの龍馬の姿が目に浮かぶ。

「わしゃ上手に泳げんで、よう乙女おとめ姉やんに叱られたのう。はは」

 龍馬はいちばんドンくさそうな男の子に向かって、岸から声援を送っている。

 しばらく上流へ歩いたところで、また土手を下り、民家の立ち並ぶ方へと向かった。

 土の香りのする日溜まりを抜け、龍馬はまもなく、ひときわ大きな門構えの家の前で立ち止まった。

 庭の内では、水のしたたる洗濯物が干された中に、家鴨あひるやニワトリが放し飼いにされている。

 しばらく黙ってその様子を覗いていたが、ふと、よちよち歩きの女の子がしきりに家鴨を追いかける姿を見つけ、つかつかと中へ入って行った。その遠慮のない様子は、ここがやはり龍馬の生家なのであろうか。

 羽をバタつかせるニワトリの間を縫って、赤いべべを着た女の子に近づくと、龍馬はいきなりその子を抱き上げた。

「つかまえた!」

 急に高い高いをさせられた女の子は、しばらくキョトンとしていたが、見知らぬ大男の顔をまじまじと見つめ、やがて顔を皺くちゃにして、火が点いたように泣き出した。

 龍馬は「すまん。すまん。堪忍かんにんじゃ……」と言いながら、あわてて女の子を下へ降ろす。

 外の騒々しさに気づいたのか、勝手口から若い女が、濡れた洗濯物を手にしたまま顔を出した。

「とみ。どうかしたかえ。家鴨はつかまったか」

 彼女は洗濯物を脇へ置き、濡れた手を前掛けで拭きながら、駆け寄ってくる女の子を抱きしめた。

「なにが悲しゅうて泣いちゅう……」 

 女の子のやわらかな頬を伝う涙を、母親らしいその女が指で拭ったとき、ゆっくりと歩いて来る大男の影がすっぽりと二人を包んだ。

 思わず見上げると、みるみるその瞳孔が開いた。

「龍馬兄やん!」

春猪はるい。すっかりお母さんじゃのう!おまんの子供の頃にそっくりじゃ。何という名かの……」

 龍馬は少しかがみ込んで、母親の腕の中で顔を背けている女の子を、無理やり笑顔で覗き込んだ。

兎美とみじゃ。うさぎに美しいと書いて、とみ。……父上!龍馬兄やんが帰って来た!」

 家の中へむかって叫ぶお母さんの嬉々とした様子に、女の子は少し警戒をゆるめたのか、はじめて龍馬の方を恐る恐る見たものの、その目付きはまだ不審そうである。

「兎美か。はは。干支えとが全部揃うたら、なんかええことあるがかのう」

 龍馬がふたたび顔を近づけると、女の子はまたあわててそっぽを向く。

 家の中から男の声がした。

「なに。龍馬が帰って来た?」

 しばらくして玄関から出て来たのは、龍馬より幾分年かさの、白髪の混じる初老の男性であった。

「兄上。ご無沙汰しちょります……」

 龍馬は背筋を伸ばして挨拶する。二人は兄弟であろうか。

「まあ中へ入れ」男性は胸を張って、龍馬を招き入れる。

 坂本家の家構えは大きく、かなりの大家族が暮らしているらしい。土佐では低い身分とは言え、決して貧乏ではなさそうだ。

 龍馬たちが中へ入りかけたとき、また二階からドタドタと階段を駆け下りて来る別の足音がした。と同時に、張りのある女の声が聞こえた。

「なに?龍馬?龍馬が帰って来たじゃと?……」

 勢いよく顔を出した女は、龍馬に負けないくらい背の高い、しかも恰幅のいい大女であった。

「や。まっことじゃ。このバカ面は、龍馬じゃ!」

 女は龍馬の頬っペたを無遠慮につねって、大はしゃぎしている。幕末の英雄も形無しである。

「い、痛いき……姉やん。夢じゃ思うんなら、自分の頬っぺたをつねりいや……」

 龍馬は手で払いのけながらも、まんざらイヤそうではない。

「……あれが有名なお乙女とめさんだね」

 言われなくてもすぐに分かった。

「早くして亡くなったお母さんの代わりに、弱虫だった龍馬さんを立派に育て上げた、女丈夫のお姉さんだよ」

 チュン太がニッコリとした。

 僕らは広い庭の方へ回り、開け放たれた大座敷の、日当たりのよい縁側でわいわいと語らう彼らの様子を微笑ましく眺めた。

 そこでは、世の中を変える偉業をつぎつぎと成しげつつある龍馬の顔が、大家族の中のひとりのやんちゃ坊主のように見えた。

 午後のが傾くと、また一人、ある痩せた青年が仕事から帰って来た。

「ただいま」

「あっ、兎美。お父ちゃん帰って来たよ」

 青年は女の子の父親のようだ。

「……ちなみに春猪さんは龍馬さんの妹ではなく、お兄さんの娘、つまりめいにあたるんだ。お兄さんと龍馬さんは年が二十才以上はなれていて、間に三人のお姉さんがいる。一人は他家よそとついで、一人はすでに亡くなっている。三人目がお乙女とめさんだ。お兄さんには男の子がなく、春猪さんのお婿むこさんを跡取りにしようと目論んでいる。春猪さんと龍馬さんは年が八つしか離れてなくて……」

 チュン太がいっしょうけんめい説明しようとするが、僕にはピーチク、としか聞こえない。

「要するに、大家族なんだね……」

 それから夕方になるにつれて、どこから聞きつけて来たのか、親戚や知人たちが大勢、龍馬に会うために三々五々集まって来た。みんなその手には、野菜や干物などの手土産を持っている。

 日が暮れる頃には、総勢三十名ほどのにぎわいになった。

 いつの間にか座敷には料理の皿が並べられ、一同はずらりと食卓を囲んだ。入り切れない者は好き勝手に庭先に円陣を組む。

「えー、本日はめでたくも龍馬が……えー……」

「兄さん!堅苦しい挨拶はええき。早う飲も、飲も!」

 立ち上がって宴会を仕切ろうとする長兄をお乙女が制し、兄はすごすごと頭を掻きながら腰を下ろす。

 春猪はるいがみんなの間を回って、さかずきに酒をそそぐ。来客たちはみんな、日に焼けた赤い顔をしている。

 子供たちは一箇所に集まって、すでに料理を頬ばり始めている。その中心には小さい兎美が、みんなに世話を焼かれている。

 龍馬も、久しぶりの郷土料理を前に、舌なめずりをしている。

「これじゃ、これ。これが食いたかった……」

 龍馬の箸の先には厚切りのかつおのタタキが、たっぷりとつけた生姜醤油をしたたらせて、つややかに光っている。

 口の方を下にして、舌先で受けるようにそれを口に入れた龍馬の顔が、みるみるとろけるように崩れてゆく。

「うーん、うまい!」

 龍馬の正直な一言に、一同はどっと笑った。

 それからみんなはガヤガヤと、酒を飲んでは喋り、料理をつついてはめいめい話に花を咲かせた。

 ここでは誰もムズカしい話をする者はいない。

 龍馬がいま何をしているかとか、何の目的で帰って来たのかなどと訊く者もいない。

 龍馬の方も、事業の進捗しんちょくや日本の将来のことなど、もちろん口にしない。

 ただ、まるで昨日まで彼がそこにいたかのように、何のわだかまりもなく受け入れてくれる人々の間で、どっかと腰を下ろしていられることの幸せを、ひたすら噛みしめているようである。

 そのうちうたげが盛り上がるにつれ、座の雰囲気は一層打ち解けていった。

「歌でも歌おか」

 お乙女がよく通る声で言った。

「よし。ほんなら、このわしから……」

 どうしても存在感を示したいらしい長兄が、乞われもしないのにヨッコラと立ち上がった。

 半ば目を閉じるように歌いはじめたのは、おそらく「詩吟しぎん」というのであろうか、うなり声に近い単調な念仏のようなものであった。

 いきなりのその場違いさに、人々はあっけに取られ、一様に白けた顔になった。ありがた迷惑、と言いたげである。

 歌が終盤に近づくと見るや、お乙女はわざとらしく拍手をして先を急がせた。

 歌い終わると長兄は一礼してまた胡坐あぐらをかいた。満足そうな顔である。

 お乙女が三味線を持って来て、みんなに愛想をふりまく。

「それでは、口直しにわたくしめが……」

 彼女が披露したのは、陽気な民謡の弾き語りであった。ばちさばきが手慣れていて、節まわしもしっかりしている。ドサ回りに出てもよいくらいの腕前だ。

 一同は大いに盛り上がる。子供たちも手をたたいて笑っている。歌い終わると、

「……龍馬。あんたも何か歌いィや」

 上機嫌で酒を飲んでいる龍馬に、お乙女は無理やり三味線をわたす。

「わしか……そうじゃの……そんなら……」

 龍馬は咳払いをする。

 すこし勿体もったいぶって衆目を集めたのち、彼がおもむろに歌い始めたのは、僕もどこかで聞いたことのある「坊さんかんざし」の唄であった。

 

  土佐の高知の

  はりまや橋で

  坊さんかんざし

  買うを見た……

 

 艶っぽい目付きで、龍馬が歌うのに合わせて、春猪が立ち上がり、座敷の中央で踊りを踊った。

 坊さんと娘の二役を面白おかしく演じるので、子供たちは大喜びである。

 兎美も機嫌よくみんなの間を駆け回っていたが、そのうち歌い終わって喝采を浴びる龍馬のもとへトコトコと近づいて来て、その小さな人差し指を龍馬の唇に押し当てた。

「お。兎美。小父おじちゃんと友だちになってくれるか……」

 龍馬はうれしそうに兎美を膝の間へ招き入れる。こんどは兎美もおとなしく抱っこされて膝の間で手遊びなどしている。

「龍馬さんに新しいがふえたね……それにしてもみんな芸達者だ」

「……この時代の娯楽といったら、歌と踊りくらいしかなかったからね」

 やがて夜も更け、ぽつぽつと帰宅する者や、酔いつぶれてその場でいびきを掻く者も現れ始めた。

 宴会はなしくずしにおひらきになる。

 子供たちは眠たい目をこすりながら、それぞれ寝床へと向かう。

 長兄も「明日早いき」と言って姿を消したので、座敷には龍馬とお乙女が残される形となった。

 二人とも、ほとんど顔色の変わらないところを見ると、相当に酒豪のようである。

「龍馬。二階へあがって飲み直そか。あんたの部屋はいま、ウチが占領しちゅうき……」

 聞くところによると、お乙女はいったん結婚して家を出たものの、嫁ぎ先で人々との折り合いが悪く、また実家へ戻って来ているらしかった。

 徳利を両手に二階へ上がって行く二人を見届け、僕とチュン太ももう寝ることにした。

 二階の部屋にはいつまでも明りが灯り、尽きぬ話に興じて笑い合う二人の影がぼんやりと透かし見えた。

 翌朝、僕とチュン太が目を覚ますと、二人はすでに起きていて、まだ薄暗い中、それぞれの手に竹刀しないを持って、駆け足でどこかへ向かっていた。

「どこへ行くんだろう」

「行ってみよう……」

 彼らが辿り着いたのは、朝日のまぶしい広々とした海岸であった。やわらかな陽光が二人の長い影をでこぼこの砂地に落としている。

「さあ、龍馬!北辰ほくしん一刀流がどんなもんか、ウチが確かめてやる。かかって来い!」

「姉やん。手加減はせんき。無手勝むてかつ流がどんなもんか、試してやる……」

 おそらく彼らは子供のころ、今と同じこの場所で、同じように、剣術の稽古をしたにちがいない。そしてその昔、今でこそ堂々とした龍馬の体は、大柄なお乙女に比べ、哀れなくらい小さかったことであろう。

 僕は、上目遣いにお乙女を睨む龍馬の表情に、ある種の「余裕」を感じた。いかに女丈夫のお乙女といえども、かずかずの修羅場をくぐり抜けて来た今の龍馬に、ゆめゆめかなうはずはない。

 いつまでもかかって来ない龍馬にしびれを切らし、最初に技を仕掛けて行ったのはお乙女の方であった。

「やあ!」

 掛け声とともに龍馬のふところに飛び込んで行くお乙女を、龍馬はヒラリとかわし、ふたたびスッと剣をかまえる。お乙女の脇には少し甘いところがあったが、龍馬は打とうとしない。

 お乙女はムキになって、今度は龍馬の右肩を狙おうとする。が、龍馬は飛んで来た竹刀をパチンをはたいて、それもかわす。

 少々息が上がってきたお乙女は、鬼のような形相になって、めちゃくちゃに竹刀を振り回す。龍馬はいちいちそれを全部はじき返し、心なしかうっすらと笑みを見せる。

 そして、竹刀のつかと柄が合わさったとき、腕にぐっと力を入れ、そのままお乙女をうしろへ突き飛ばした。

 砂浜にひっくり返ったお乙女は、龍馬を見上げ、悔しそうな顔をする。

 しかし、ふたたびすぐに起き上がり、また龍馬に挑みかかる。なかなか負けず嫌いだ。

「やあ!」

 お乙女は何度も何度も、斬りかかっては倒され、倒されてはまた起き上がった。

 しかし、一太刀たちとして彼女の剣は、龍馬の体をかすめることはなかった。

 龍馬はついに片手で竹刀を構え、力尽きたお乙女の頭上で、それを止めた。

 勝負は完全についた。龍馬は笑っている。

 海風が彼らを包んで涼々と吹いた。まるで遠い昔から吹いて来るそよ風のように……

「龍馬……」

 お乙女は倒れたままの格好で言った。その顔からは、すでに闘う意志は失せている。

「まっこと……強うなったのう」

 見ると、彼女の顔はしだいに崩れ、その目からは涙がこぼれた。

「姉やん……」

 龍馬は構えていた竹刀をゆっくりと下ろし、じっと立ち尽くした。

 何かかける言葉を探しているようであったが、適当な言葉が見つからず、ついにはこんなありきたりな言葉が口からもれた。

「姉やん、ほんに、ありがとう……」

 龍馬の目にも光るものがあった。

 土佐での滞在を終え、いよいよ出航の日となった。

 龍馬はお乙女と春猪はるい親子に見送られ、桂浜をあとにする。

「……これで家族ともお別れだね。つぎは京都だ」

「龍馬さんの仕事の総仕上げだね」

 僕らは身が引き締まった。

 大政奉還が成るか成らないか―――

 それを見届けに、龍馬は京都へ向かうのである。

 京都には、先に後藤象二郎が乗り込んでいた。

 後藤がすでに、山内容堂の書いた大政奉還の建白書を、時の老中板倉なにがしを通じて、将軍慶喜よしのぶ公に提出したという知らせを、龍馬は船の中で聞いた。

「後藤さん……」

 龍馬が見込んだ人物が、しっかりと活躍してくれている。

 龍馬に出来ることは、もう何もない。

 あとは運を天にまかせて待つだけである。

 京都へ到着すると、龍馬は海援隊の詰め所である「酢屋すや」という旅館に滞在した。相変わらず街には新選組の連中がうろうろしている。

 後藤はなおも根回しのため、将軍に影響力のある幕僚たちの説得に奔走していた。

 時代の流れが、おそろしい勢いで渦を巻いている。

 願わくは、武力倒幕の勅命ちょくめいが薩長に下りる前に、将軍慶喜公に大政奉還を決意させたい、さもなければ、日本中が火の海になる―――

 龍馬の思いが伝わって来た。

 大政奉還が早いか、倒幕の密勅が早いか。

 僕らは手に汗握る思いで、事の成り行きを見守った。

 街ではいろんな噂が、憶測とともに飛び交っている。

「……いよいよ薩長が大軍を率いて京に攻め上るそうやで」

「戦がはじまるんかなあ……」

 大きな時代の変わり目を敏感に察知した人々が、不安にかられてざわついているのが分かる。

 それかあらぬか、ある路地の一角を占領するように、お祭りのような集団が奇声を発しながら練り歩いているのが見えた。

「……ええじゃないか、ええじゃないか……」

「ええじゃないか!」

 しだいに大きくなるその声は、不安と焦り、あきらめと開き直り、そのほかいろんな感情を「ええじゃないか」という言葉に集約して吐き出しているようだ。

 どっちに流されても、ええじゃないか―――

 その姿はまるで、激流に翻弄される笹舟の哀しさをたたえている。……

 そして運命の日は来た。

 将軍慶喜が、在京四十藩の重臣を二条城に集めて、大政奉還に関する「諮問しもん」を行うという知らせが、龍馬のもとへ届けられた。

 土佐藩からはもちろん後藤象二郎が出席することになった。

 龍馬はさっそく後藤に激励の手紙を書いた。

「後藤さま……やるべきことは分かってるでしょうね……もし大政奉還が成らなかったら……そん時は……あなたは生きて帰って来なくてもよい……」

 ぶつぶつと呟きながら、龍馬の書く手紙はいつになく激烈である。

 それに対する後藤の返事が、まもなく返って来た。

「……もちろん命がけでやるけれども……場合によっては、事は長引くかもしれない……のこのこ帰って来た私を見て……すぐに斬りかかるのは、やめてくれ」

 龍馬は苦虫を嚙みつぶしたような顔になる。

 海援隊の仲間とともに、龍馬は一心に使者の知らせを待った。落ち着かない様子で辺りをうろうろしている。

 昼食に取り寄せたうどんをすする時も、全員が無言であった。カラのどんぶりが玄関先に積み上げられた。

 二時間たっても、三時間たっても、使者は戻って来ない。

「……そうだ、僕らが二条城へ行って、会議の様子を見てこようか……」

 僕とチュン太は、お城に近づくことの出来ない龍馬たちに代わって、歴史が動く瞬間をこの目で見届けることを思いついた。

 京の上空を連れ立って飛ぶと、ほどなく、ひときわ広大な敷地に悠々と横たわる徳川の居城「二条城」が見えた。

 当然のことながら警戒は厳重で、猫の子一匹入り込めぬよう、門扉は数百の護衛で固められている。

 僕らもひょっとすると鉄砲で撃ち落とされるのではないかと危ぶむくらい、あたりには緊張感がみなぎっている。

 それでも恐る恐る外濠そとぼりをこえ、城壁をまたいで、僕らは中へともぐり込んだ。さらに日本庭園を下に見て、会議の開かれているはずの本丸の座敷を目指した。

 長々とつづく廊下の曲がり角の一部屋で、うやうやしくこうべを垂れている重臣たちのうしろ姿が見えた。彼らは全員、かみしもというのか、肩幅の広い、武士の正装をして下座しもざに控えている。その中に、見覚えのあるがっちりとした後藤象二郎の背中もあった。

 僕らは、ねぎ坊主の並ぶ廊下の手摺りに陣取って中の会話に耳を傾けたが、ここからでは話はよく聞こえない。しかし、これ以上近づくことも出来ない。

 きらびやかな屏風の張りめぐらされた座敷は、昼間だというのにぼんやりと薄暗く、家臣たちから少し離れた一段高い上座の様子も、よく目を凝らさずには見えない。

 しかしその中心にひとりだけこちらを向いてぽつんと座る人物の姿がだんだん浮かび上がって来た。服装は誰よりも仰々しく、おごそかである。

「……あれが将軍徳川慶喜だよ」

 チュン太がピーチクと言った。

 正直な感想を言うと、僕にはその、のっぺりとした顔でちょこなんと座る小柄な男が、とても日本をべる偉い人物のようには見えなかった。

 しかし重臣たちは、文字通り、蛇に睨まれたかえるのようになっている。

 よく耳を澄ますと、話し合いとはいっても、将軍の方から一方的に何かを言い渡しているようであった。

 重臣たちはうなだれたまま、ときどき動揺したように肩を動かしたり、となりの男と顔を見合わせたり、ざわついたりしているが、頭はさらに上げようとしない。

 将軍慶喜は一通り話し終えると、一同を見回し、みんなに発言を促しているようである。

 扇子の先で指名された重臣のひとりは、困った顔で立ち上がり、一礼してすごすごと席を外す。おそらく、下手に意見をすれば自国の命運にかかわるという危惧からであろう。

 ほかの重臣たちもつぎつぎと、一礼して部屋から出て行く。

 ノーコメント、ということか。

 最後まで残ったのは、後藤象二郎とその他の有志、わずか数名であった。

 と、後藤が意を決したように立ち上がり、力強く何かを言った。そしてまた座り直し、深々と頭を下げた。耳の付け根まで真っ赤である。

 将軍は、うん、うん、とうなずく。

 そして、しばらくの沈黙ののち、ため息まじりに膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 将軍はしずかに廊下の奥へ消えて行く。その背中には、得も言われぬ哀愁が漂っていた。

 将軍がいなくなった広間では、後藤たちが頭を寄せ合って、こそこそと何かを話している。先ほどとは打って変わってなごやかな、生気ある表情だ。

 そして一斉に立ち上がり、座敷に一礼すると、同じくどこかへ消えて行った。

 ガランとした座敷には、やりを持った守衛だけが残された。

 僕らは、いま何が起きたのか、どんな結論が出たのか、後藤のあとを追って確かめようとしたが、広いお城の中で不覚にもその姿を見失ってしまった。

 しかし間もなく、お城の門から勢いよく飛び出して来た土佐藩の使者の姿があった。

 京の町を抜け、ようやく龍馬の居場所へ辿り着いた使者は、はあはあと息をつきながら、握りしめた手紙を龍馬に差し出した。後藤からの伝言のようだ。

 龍馬は封を解くのももどかしげに破るように手紙を開くと、しばらくは黙ったまま書かれた文字に目を落としている。

 しかし、やがてその手をだらりと下へ下ろし、そのままへたり込むように地面にひざまずいた。

 龍馬の目からポトポトとしたたり落ちる涙が、地面を黒々と濡らした。

「龍馬さん、どうでしたか?ダメでしたか?……」

 心配そうに覗き込む同志たちに龍馬は、ずいぶん経ってから、ゆっくりと顔を向け、頬を伝う涙を拭いもせずに答えた。

「慶喜公は、……大きな決断をされた。……大政奉還ぜよ」

「龍馬さん!」

 彼らは折り重なるように抱き合った。

 チュン太と僕もようやくホッとして、彼らと同じように羽を叩き合った。

「やっと龍馬さんの大願が叶ったね……」

 それにしても、まるで口笛でも吹くようにやすやすと事を進めていたかに見える龍馬の心中が、これほどまでに切実なものであったことをその涙から思い知り、僕は何とも言えない感慨に打たれた。

 男の偉業とはこういうことであろうか。

 ともあれ、こうして大政奉還は成った。

 チュン太の話で、じつは、しくも同じ日に、すこし遅れるようにして倒幕の密勅が薩摩に下されたことを知った。ほんとうに一足違いであったようだ。

 歴史の流れは分からないものである。

「これで龍馬さんは大手を振って土佐に帰れるね。いや、お龍さんを迎えに行くのが先かな……」

 僕は自分のことのように興奮して、チュン太の方を向いた。ところが、チュン太はどういう訳か、またぞろ暗い顔をしている。

「いや―――さっさとそうすればよかったんだけど、龍馬さんはその後の経過を見届けるために、危険の多い京都にもうすこし残るんだ。これがよくなかった……」

 僕はその意味を察し、ただ黙り込むしかなかった。

 龍馬は「近江屋」という旅館に移り、机に向かって白い紙に、考え考え筆を走らせている。

「関白

  三条実美(さねとみ)

 内大臣

  徳川慶喜

 次は大名たちじゃ。

 薩摩の島津

 長州の毛利

 もちろん、容堂公もここじゃ。

 参議には、西郷さんたちを入れんといかんのう。

 西郷、木戸、大久保、岩倉。

 それに、後藤さんもこのへんで働いてもらおう……」

 龍馬は楽しそうに宙を見上げながら、筆をなめなめ、紙に名前を書き連ねている。どうやら、徳川幕府にかわる新政府のメンバーを、独自に構想しているようだ。

「……龍馬さんはつねに先のことを考えてるんだね」

「しかも、自分の名前をそこに入れないのが彼らしいね」

 そう言えば、お前は何をするのか、と問われて、わしは堅苦しいのはキライじゃき、世界の海援隊でも目指しますかのう、と言って大笑いしたという逸話を、どこかで聞いたことがある。

 こんな風に、あっさりと爽やかに、人生を生きることはなかなか難しい。

 ふと龍馬は何かを思い出した顔になった。

「そうじゃ。福井の松平春嶽しゅんがく公を忘れちょった。ちょっくら福井へ行って、口説くどいて来よう」

 そう言って明くる日、さっさと福井へ旅立ってしまった。実にフットワークが軽い。しかもこの時代はどこへ行くにも行くのである。僕は、昔の人々が草花の名前をよく知っている理由がなんとなく分かるような気がした。

 ふたたび宿へ帰って来た龍馬は、めずらしく少し風邪気味のようである。

藤吉とうきち。なにかあったまるもんでも作ってくれんかのう。……そうじゃ。おまんの得意なちゃんこ鍋がええな」

 藤吉と呼ばれた青年は、でっぷりとした巨体に浴衣ゆかた姿で、すこし赤らんだ顔をニッコリと崩し、二つ返事で龍馬の望みを了承した。きっと彼はこの近江屋に住み込みで働いている相撲取りか何かであろう。

「お安い御用です」

 大きな体を思いのほか身軽に動かし、藤吉は台所へ行ってかまどの用意をした。

 テキパキとしたその動きからして、おそらく、根っからの料理好きなのであろう。鼻歌さえ混じっている。

「龍馬さん。少々時間がかかりますさかい、待ってもろとる間、わしがさっき作ったきなこ餅を味見してもらえませんやろか」

 彼は奥へ行って戸棚からお盆を取り出し、きれいに並べられた黄色い餅菓子を龍馬の前に差し出した。よい香りが僕らのいる裏窓のところまで漂ってくる。

「出来立てどす……」

 龍馬は差し出されたお盆から一つつまむと、上を向いて大きな口を開け、やわらかそうに垂れ下がる餅をそっと口の中へ放り込んだ。

「うん。うまい……こりゃ、いける」

 口をもぐもぐさせながらそう言って、龍馬はあっという間にそれを平らげ、なおも親指についたきなこを舐めている。

「おまんは道をまちごうたのう」

 藤吉ははち切れんばかりの笑みを浮かべる。おそらくその笑顔は、少年の頃から変わらない笑顔なのであろう。

「そうですか、うまいですか!……も一つどうぞ」

 龍馬は遠慮なく二コめを口の中へ入れる。

「ところで……龍馬さん」

「なんじゃ」

「大政奉還とは何ですやろか―――」

 龍馬は思わず、頬張っていたきなこを吹き出す。

 藤吉の顔がきなこだらけになる。

 むせて苦しそうな龍馬の背中を、藤吉が甲斐々々しくさすっている。ようやく落ち着いたところで龍馬は、

「さあ、どっから話そうかのう……」

と言って、差し出されたお茶を飲む。

 藤吉は顔に付いたきなこをそっと拭いながら、だまって龍馬が話し出すのを待っている。

 龍馬が遠い目になる。

「……あれはまだ、わしがはじめて江戸へ来たときのことじゃった。何年になるかのう。そのころの江戸は、それなりに賑おうてはおったが、凶作と年貢に苦しめられて、人々のあいだに幕府への不満の声が高まっちょった。幕府の方も、自らの失策を棚に上げて、ていよくやりくりしながら、なんとか民衆を押さえつけちょったんじゃ。そうそう。そこへとつぜん、黒船がやって来た。覚えちゅうか、藤吉。マシュー・ペリーじゃ」

「まんじゅう……ペロリ?」

じゃ。知らんか?わしの発音がいかんかな。とにかく人々は、日本が乗っ取られるゆうて、上を下への大騒ぎじゃった。

  太平の ねむりを覚ます 上喜撰……

というれ唄も流行った。今は昔のことじゃのう……」

「お茶でもてなしたんでっか?まんじゅうだけに……」

「上喜撰と蒸気船とをかけとるんじゃ。黒船のことじゃ!」

「知っとります。わざと言うただけです」

 藤吉の茶目っ気に、龍馬は苦笑いしている。

「……とにかく、たいがいの人間は異国を追っ払え、攘夷じゃ言うて、拳を振り上げたんじゃ。しかし、―――野次馬ならば無責任に、やれ、やれ言うだけでええが、幕府には一国を背負う責任がある。相手との力のちがいもよう分かっちゅう。まっこと情けない決断じゃったが、幕府はずるずると開国してしもうた……まあしかし、あれはあれで仕方なかった思うぜよ。わしに言わせれば、攘夷も開国も結局は同じことじゃ。要は外国の植民地になったらいかん―――そのための便がちがうだけじゃ……

 問題は、それ以上つけ入らせんためにどうするかじゃ。腕っぷしに自信のある奴は、無謀にも外国にいくさをしかけた。結果は言わずもがな、こてんぱんにやられてしもた。完敗じゃ。―――いや、むしろ早いうちに痛い目に合うてよかったのかもしれん。

 そうして、攘夷はとてもじゃないが無理じゃいうことが分かった。それでは何をするか―――まずは日本の国力をつけんといかん。清国のように好き放題にいたぶられんようにな。国力をつけるとは、勝先生のおっしゃったように、海軍を作って戦力を強くするいうことじゃ。……勝海舟かいしゅう先生の名は、さすがに知っちゅうじゃろう?いらん、いらん。よけいな冗談はいらん。

 で、兵隊は浪人でも何でも、やる気のある者を集めればええ。みんなそれぞれ得意なことで貢献するのが一番ぜよ。好きこそものの上手なれ、じゃ。そして、異国のやり方でも何でも、優れているところはどんどん取り入れる。そして、強い軍隊があるところを見せつければ、実際は戦わんでも、戦は避けられる。相手も迂闊うかつには攻めてこられんのじゃ。戦わずして勝つ。これが一番じゃ。

 最もいかんのは、力のあるもん同士がぶつかり合うて、互いに消耗し合うことじゃ。日本がくたくたになる。外国はそれを狙うちゅう。つぶし合うて日本が乱れたすきに、国を乗っ盗ろう思いゆう。その手に乗るのは大馬鹿者ぜよ。

 そして日本を強くするためには、幕府のおおもとの仕組みから変えんといかん。どんなに上等な服でも二百年も着ちょったらボロにもなる。いかに大事に着たとしても、がらも時代おくれになる。徳川幕府は、いわば、二百六十年乗り続けたボロ船じゃ。あちこち穴があいて、乗り手も古うなって、そろそろ交代してもええ時期じゃった。

 ならば如何いかなる国をめざすか、藤吉。能力のある者が、それにふさわしい仕事をする。生まれや家柄にかかわらず、すぐれた者が導き手になる。人々の身分に上も下もない。これからはそういう時代じゃ。亜米利加アメリカの大統領はみんなの入れふだで決まるというぜよ。なんという違いじゃろう。やれ上士じゃ、下士じゃ言うて、無益ないがみ合いをしちゅう国とは、比べもんにならんのじゃ」

「……龍馬さん。日本がそんな国になったら、わしのおっつぁん、おっさんも、少しは楽になりますやろか」

「もちろんじゃ、藤吉。今にそうなる。いや、そうして。そして、そんな自由で強い国にするには、まず何をするか。薩摩じゃ長州じゃゆうて、力のあるもん同士がケンカしちょるのが、そもそもいかん。大きな目的のために、二つの藩が協力して、幕府に代わる存在になる。しかも、ただ武力で倒すのではなく、むこうから白旗を挙げさせる。やはりここでも、戦わずして勝つのが大事じゃ。そうすれば、日本は国力を残したまま仕組みを変えられる。徳川もひとまず、その他大勢のひとりになって、話し合いに参加する。そのために、いったん政権を朝廷に返上する―――それが大政奉還ぜよ」

 藤吉は大きくうなずく。

「幕府にも賢い人はおる。勝先生や慶喜公のように……。徳川も、みすみすつぶされるより生き延びる道を選んだのは、ええことじゃった。

 もっともわしは、今、済んだことじゃきこんな風に簡単に話しゆうが、そん時そん時で、どの道が正しいか正確に判断するのはなかなか難しい。みんな自分の信じる道を、命がけで歩みゆうきのう。事実、わしの友人の何人もが、その信念のために命を落とした。彼らの一生をと、一言で片付けることはわしには出来ん。彼らの笑顔を思い出せばなおさらじゃ。

 たとえその目指すものが―――後の世からすれば間違いじゃったとしても、なにかを一生懸命にやりゆう人を、わしは悪く言う気にはなれん。沈みゆく船の上で取る相撲にも、やはり勝たんといかんじゃろ。そう思わんか、藤吉」

「その通りです」

「それを否定したら、人間のおこないのほとんどを否定することになる。

 しかしそんな中で、わしは一つだけ、どうしても譲れんことがあった―――

 平和を守るために命を犠牲にする、幸せになるために相手を傷つける―――これらはみな矛盾した考えじゃ。なぜなら、命を大切にすることが平和であり、人にやさしくすることこそが幸せだからじゃ。

 自分の正しさを主張したがる者は、どうしても相手を間違いじゃ言うてしまう。正しい者と正しい者の言い争いは、いつまで経ってもらちが明かん。ケンカになる。それがいくさいうもんじゃ。わしが思うに、真実は一つじゃない。それぞれの立場の、それぞれの真実がある。そうして、―――ここからが人間の面白いとこじゃが―――はのうても、はある場合があるんじゃ。水が低い方へ流れるように、いがみ合うとった二人が、いつのまにか仲ようなる。なんでか分からん。時が解決することもある。あるいは別の大きな問題が、小さな問題を呑み込んでしまうこともある。あるいは子供のケンカみたいに、途中でわろてしもて、なんや馬鹿らしゅうなってしまうこともある。しかし、それでええんじゃ―――笑かしてでも何でもええ。ケンカしちゅうのが馬鹿らしい思わせたら、こっちのもんじゃ。そしてそういうやり方なら、―――そう思たんじゃ……」

 藤吉の表情からは、目の前で気さくに喋っている、このみすぼらしい格好の龍馬が、とてつもなく大きな人物に見え始めているのが分かる。

「しかし、龍馬さん……」

 藤吉に、ある一つの不安がよぎったようだ。

「龍馬さんは、京にいては危ないのとちがいますか……」

「そんなのは、重々承知の上じゃ」

 龍馬は即答する。曇りのない目に、すごみさえ感じられる。

「藤吉、わしはいま、どんな顔ぶれで新しい政府を作るのがええか、考えちゅうところじゃ」

と、また表情を和らげる。

「龍馬さんも、そこに加わらはるのですか?」

「いや、わしはやめとく。わしゃ、回りくどいのが苦手じゃき。実際に世の中を動かすのは、西郷さんや勝先生のような、のある人たちじゃ。わしは思いつきで物を言いゆうだけで、の出来はそれほどでもない。さいわい、わしの名前はいろんな人に知られちゅうき、この人たちを結びつけるのがわしの役目じゃ思いゆう。みんなそれぞれクセはあるが、話せば分かるええ人たちじゃ」

「みんなが幸せに暮らせる世の中になるとええですね」

「その通りじゃのう、藤吉。―――それはそうと、ひとまず大政奉還までは漕ぎつけたが、いったい日本という船はどこへ向かうんかのう……ともあれ、百年先の日本がどうなっちゅうかは、わしにも分からんぞ。もしかしたら、また別のもめごとがあって、こんな日本に誰がした、元をただせばあいつのせいじゃと、わしのことを指さす奴がおるかもしれん。そこまではわしにも責任がもてん。そもそも、その時代ときその時代ときは、その世の中に住みゆう人たちのもんじゃ。せいぜい知恵を出し合うて、住みよい世の中へ変えて行ったらええ。そんときはな、眉間にシワ寄せて考えんと、やるこっちゃ。んなじことをやるにも、ケンカするより、仲ようやった方がええぜよ……」

 龍馬は垂れてくる鼻水を手で抑えながら、流しのところへ行って手洟てばなをかんだ。

 それを見て何を思い出したのか、藤吉は急に頭をかかえ、困惑した顔になる。

「龍馬さん……ほんにすみません」

「どうしたんじゃ」

「申しわけないっす」

 理由も言わず、謝罪を繰り返す藤吉の肩に、龍馬はやさしく手をまわし、先を促す。

「言うてみい。わしゃ器の大きい人間じゃき、たいがいなことで怒りはせん。何があったんじゃ」

 大政奉還の立役者は、柔和な笑みを浮かべる。

 藤吉は言いにくそうに、しぶしぶと小声でつぶやく。

「じつは……鍋に火ィが入っとりませんでした……」

 龍馬の口はあんぐりと開かれたまましばらく閉じることが出来なかった。

 そのとき、玄関の方で龍馬の名を呼ぶ声がした。

「龍馬。おるか。わしじゃ……」

 まず藤吉が立って窓から顔を確かめ、中へ招き入れたのは、僕らも見覚えのある中岡慎太郎であった。

「慎太郎!ようここが分かったのう」

 龍馬と中岡は再会を喜び合った。

「……それにしても龍馬、ほんとに大政奉還が実現するとは思わんかったぜよ。ひとまずわしの負けじゃ。が、しかし、問題はこれからじゃ。だらだらと、慣れ合いの世の中になってはいかん……」

「そこをわしも考えちゅうところじゃ。よっぽど賢い人を招いて、新政府に入れんといかんのう。こないだわしは、福井へ行って松平春嶽公に打診してきた……」

「春嶽公?あの人は徳川方ではないか!……」

 会話はとたんに険悪な空気になる。

「慎太郎。ここじゃ何じゃき、二階へ行って話そう……藤吉、鍋が出来たら持って来てくれ」

 龍馬と慎太郎は木造の急な階段を二階へと消えて行く。

 ここから先は―――実のところ僕とチュン太にとって、もっとも見たくない場面であった。

 ほんとうに、人の命というものは、かくもあっけなく終わってしまうものかと思う。

 幕末という激流の中を、それぞれ必死に漕いできたの舟―――龍馬、慎太郎、それに藤吉という小さな舟が、ここで転覆し、波間に消えることになる。

 犯行の間じゅう、僕らはほとんど目を開けることが出来なかった。

 台所で藤吉が鍋の準備をしているところへ、玄関からまた新たな来客の声がする。藤吉が行ってみると、何やら五、六人の男たちが来意を告げている。藤吉は何かを聞いて警戒の色を解いたらしく、彼らを中へ入れる。

 来客を玄関に待たせて、藤吉が階段を昇って行くと、男たちは顔を見合わせ、やがて土足のままその後を追う。まもなく、「あっ」という叫び声がすると当時に、ガラガラとすさまじい音がし、血まみれの藤吉が階段を転げ落ちて来た。

 そのあと二階ではさらに激しい物音がしていたが、それもすぐにおさまり、静かになる。

 さっきの男たちが、次々に階段を降りて来る。そして、動かなくなった藤吉を踏みこえ、血のついた刀をさやに収めながら、足早に玄関から出て行くのであった。

 僕らのいる台所では、出来上がった鍋がむなしく湯気を立てている。

「チュン太……」

「ぼんちゃん……」

 僕らはなすすべもなく肩を落とし、しだいに人が集まって来る近江屋の暗い屋根に上って、これから「明治」へと変わろうとする京の街を眺めた。

 もし、龍馬がもっと長く生きていたら……

 想像しても仕方のないことだが、僕はそんなことを思わずにはいられなかった。しかし、どんなに偉大な人物でも、ひとりの人間が永久に生きつづけることは出来ない。龍馬が藤吉に語ったように、その時代その時代はそこに生きている人たちのものなのだ。

 それは幕末という、すでに過ぎ去った時代の、すでに起きてしまった出来事である―――そう思い直して、僕は前へ進むことにした。

 同時に僕は、ケンゾーとタカシのその後がふと気になった。

「行ってみようか」

 チュン太にうながされて、僕らははるばる函館へと飛んだ。

 新政府軍に追われる形で、旧幕府の残党はしだいに北上し、函館にまで来ていた。彼らを守る役目である新選組の土方歳三も、同じく背水の陣を敷いていた。

「……途中で方針を変える人々が多いなかで、土方さんは徹頭徹尾、幕府を守る立場を貫いたんだよ」

 函館山から五稜郭方面を見下ろすと、半島のくびれたあたりで、さかんに銃撃戦が行われていた。馬上から仲間を鼓舞するケンゾーの勇姿が見える。そのうち一発の銃弾が彼のわき腹に命中した。まるで人形が倒れ落ちるように、ケンゾーは馬から落下した。

「きっと彼は最後までルールを守りたかったんだと思うよ……」

 僕はなんとなく、土方の気持ちが分かるような気がした。

「真っすぐな人だってこと?」

 チュン太は小首をかしげる。

「いや、それもあるけど、きっと彼は人生そのものを、ゲームのように戦ってたんじゃないかな。スポーツマンらしく、あくまでルールは守る。途中でルールが変わるゲームなんて面白くないだろ?どんな立場に立つかは、ある意味偶然なんだけど、立場が決まったら、最後までその条件のもとで戦う。それがケンゾーの美学なんだ」

 多くを語らないケンゾーの横顔が浮かんだ。

「……その証拠に、土方歳三は和歌も詠むよね―――五七五は、字数を守って知恵をしぼるから面白いんだ。その方が、制限なくダラダラ書くより、引き締まったいい表現が出来る。その醍醐味が分かっていたから、彼は迷いなく、自分の人生を存分に生きられたんだと思う……」

 僕は血にまみれて倒れ伏す土方歳三の横顔を見つめた。

「ただ、こういうタイプの人間はおそらく長生きできないけどね。いかにも危なっかしい。じつは僕にも、ちょっとそういうところがあるから、何となく分かるんだよ」

「ぼんちゃん……」

「なに?」

 チュン太は顔を曇らせ、なにかを言いかけたが、なぜかそれっきり口をつぐんでしまった。彼はなにかを知っているようである。

 一方、タカシはどうだろう。

 僕らはつぎに鹿児島へと向かった。

 幕府方である勝海舟との取り決めにより、江戸城を戦わずして得たまではよかったが、そのあと新政府に参加したタカシは、同郷の大久保利通ほど上手うまくは立ち回れず、さっさと辞表を叩きつけて、鹿児島へ帰って来ていた。

「ずる賢い役人は好かん……」

 そして自らの理想とする国家の雛型ひながたを作ろうと、鹿児島で奮闘していたところ、かつての士族たち、とくに維新に功績があったにも関わらず、不当な扱いを受けていた者たちの訴えを受け止め、西郷は反乱軍を挙兵することになった。

 とても勝ち目はないことは分かっていたが、頼まれたらイヤとは言えないタカシのこと、すでに時代おくれになりつつある刀剣を振り回して必死に戦った。

 そして鹿児島の「城山」というところで進退きわまり、自刃じじんに至った。

「もうこの辺でよか」

 衣服の前をはだけ、短刀の先を腹に当てる。彼のこれまでの人生の歩みにくらべ、その最期の何とあっけないことか。

 自分のことより、人のために捧げられたような彼の一生は、こうして見ると、決して大成功であったとは言い難い。しかし、はたしてであったと言えるだろうか。

 思えば、刀を振り回す時代に終止符を打ったはずの幕末の志士たちは、ことごとくみなその終止符を打たれている。ある者は凶刃に倒れ、ある者は自刃によって……。命の舟の寿命はとかく短い。

「みんな若いんだね」

 その享年を見ればよく分かる。

  吉田松陰 二十九歳。

  高杉晋作 二十七歳。

  坂本龍馬 三十三歳。

  中岡慎太郎 三十歳。

  土方歳三 三十五歳。

  西郷隆盛 四十九歳。

 僕は山肌に折り重なる兵士たちの亡骸なきがらを見ながらしみじみと思った。

 ―――それを支えた者たちの若さのためだけでなく、世の中全体に夢と理想があふれていたことといい、かずかずの達成と同じくらいの挫折にまみれながら、いつの間にか駆け抜けていたことといい、また後からふり返って、甘さとにがさの入り混じった感傷に胸が締めつけられることといい、龍馬たちの生きた幕末という時代は、じつに「青春」によく似ている。

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