開拓編


  開拓編


「さっさと歩け!これ以上キズ物にしたくないんだ。お前たちは商品だからな」

 日に焼けた男はヨレヨレの帽子にくわえ煙草で、言葉の通じないいら立ちを、手にしたムチの空鳴らしで紛らしている。

 歩かされているのは、ほとんど裸同然の黒人たちである。腕をうしろ手にしばられ、逃げ出せないようたがいの首を鎖で数珠じゅずつなぎにされている。黒い肌にはところどころ血が滲み、さんざん抵抗してきた跡が見える。しかし、それが無駄だと悟ったのか、しぶしぶと力なく、せき立てられる方向へ歩みを進める。

 その先の海岸には、動物を閉じ込めるようなおりが立てられ、すでに捕まった黒人たちが中でひしめき合っている。檻のそばには銃を持った白人が、何かしきりに帳面に記入している。

「九匹つれて来ましたぜ。あとどれぐらい必要ですかい?」

「うん、ちょっと待て―――すこし多過ぎるな。百五十人の予定だから、もう二十人のオーバーだ……まあ仕方ない。そいつらも全部、詰め込もう」

 銃の男はノートに書いた四本線に、ななめの棒を一本加える。

「……途中で死ぬ数を考えると、それくらいが妥当だろう……しかしお前も、抜け目がないな」

「わざとじゃありませんぜ。船長の計算じゃ、どれくらい減るんですかい?」

「三分の一は死ぬ。これまでの経験ではな」

「それでも儲かるんですかい?ボロい商売だな」

「なんせ元手がゼロだからな。エサ代もせいぜい、奴らを死なせない程度だ……おっと、あんまり喋るとライバルを増やしちまうな」

「オレはそんなワルい商売には手ェ出さねえよ。小遣いが欲しいだけだ」

 帽子の男はいくばくかの報酬を受け取ると、また元の道を引き返して行った。

 銃の男は白い頬ひげを撫でながら檻のまわりを一周し、いきなり空に向けて一発放った。

 驚いた黒人たちが一斉に首をすくめる。

「……歯向かうとどうなるかは、もう分かってるな。大人しく従うのが身のためだ」

 やがて檻の扉が開かれ、鎖につながれた黒人たちがぞろぞろと外へ連れ出される。波打ち際で待っているのは、十人乗りほどの手漕ぎのボートである。

はしけ、というんだよ」

 チュン太が耳打ちした。

 僕らは草の生えた丘の上から、海岸の様子を眺めていた。

「……砂浜には大きな船は入って来れないから、艀という小さなボートであそこまで運ぶんだ」

 見ると沖合には、波光きらめくなぎさに、ウイスキーのラベルにあるような立派な帆船はんせんが不気味に停泊している。

「分かった……奴隷船だね」

「ここは中世アフリカの西海岸だよ」

 僕らはまたしても、なにか一悶着ありそうな時代へと放り出されていた。

 黒人たちは無理やりボートに乗せられ、数回に分けて奴隷船まで運ばれて行く。抵抗する者は容赦なくムチで打たれる。

 男ばかりでなく、女も混じっている。乳房がむき出しの者もいる。

 その中に、何やら、ある一組の若い男女が、恋人なのか兄妹きょうだいなのか、別の艀に分かれてしまったことを今生こんじょうの別れのように嘆き悲しんでいる姿があった。先に乗せられた女が、男の方へ手を伸ばし、「チャド!」と叫んでいる。男も、あらんかぎり手を伸ばし「ルルー!」と叫ぶ。男は背中をムチで打たれた。

「心配するな。どうせ同じ船に乗るんだ。もっともその先、どこへ売られて行くかは分からんがな」

 白人の男はうす笑いを浮かべ、泣き叫ぶ女をボートの中へ蹴り入れた。

「ヒドイことするね。女の子を蹴飛ばすなんて」

「人間とは思ってないんだよ。下等な動物くらいに思ってる……」

 僕とチュン太は一足先に奴隷船まで飛んでみた。

 船の甲板には、束ねられたロープや掃除道具、備品を格納するための木箱などのほか、その中央にガラス張りの操舵室があった。一見ふつうの船のようであるが、ちょっと異様なのは、船尾の一角に、頑丈そうな格子でふさがれた入口があることであった。船底へつづいているらしい。

 到着した艀からつぎつぎと引き上げられた黒人たちは、鎖をつけられたまま、その入口の方へ追い立てられる。都合百人以上の黒人たちが船底に投げ込まれた。そろそろいっぱいになったかと思うと、まだまだ入るようで、そのあとさらに二十人ほどがギュウギュウ詰めにされる。

「満員電車よりひどいね」

「どんなふうに折り重なってるんだろうね……」

 僕とチュン太は穴の中へは入れないので、マストの上に止まったまま、船底の様子を想像した。

 やがて船は海岸を離れ、みるみる陸地が遠ざかった。僕らもしばし同行してみることにした。

「どこへ連れて行かれるのかな」

「大西洋をこえて、アメリカへ向かうんだよ」

 積み荷のいたる所に、横文字で色濃く焼印が押されている。その無機質で乾いた文字が、日の当たる甲板に言いようのない寂しさを与えていた。

 そのうち日が沈み、夜になった。

 さしあたり波は静かである。

 操舵室にランプが灯され、白人たちが中で雑談をはじめた。

「このままの天気がつづけばいいが、なかなかそうはいかねえだろうな」

「目的地まで六週間はかかる。嵐の日もあるだろうよ。なるべく彼奴あいつらを生かしたまま運びてえもんだな」

 固そうなパンをかじり、トランプをしながら、そんな会話を交わしている。船の舵取りは交代で行うらしい。

 夜が更けても、船底の黒人たちにはまだ食事らしきものは与えられていない。文字通り、「餓死しない程度」の、最低限のそれしか与えないつもりであろう。

 星空がきれいである。

 東京の夜空とは、まず星の数がちがう。星と星のあいだに、さらに小さな星が無数にまたたいていて、奥行きを感じさせる。空だけ見ていれば、ここがまるで何事もない平和な世界だと錯覚しそうになる。

 僕らはいま、奴隷船の上にいる。

 それを思い出させるきっかけとなったのは、格子の奥から漏れてくる異様なであった。

 船底の空間ではおそらく、やむを得ず糞尿は垂れ流しのはずで、黒人たちはお互いの血と汗と汚物にまみれながら、辛うじて呼吸しているのであろう。鼻の曲がりそうな悪臭から、中の悲惨な光景が思いやられた。

 出航から二日たち、三日たち、四日目にはじめて食事が与えられた。食事といっても、豚のエサのような泥状のものがバケツに何杯か運び込まれただけである。鎖につながれた状態で、黒人たちはどうやってそれを食べるのだろうか。しばらくすると、とにかくバケツは空になって戻って来た。

 その夜、格子の中から何やらうめき声が聞こえた。ときどき狂おしい叫び声も混じった。

 ウォーン……

「肉体的にも精神的にも、限界なんだろうね」

「おかしくなってしまうね」

 日照りつづきの航海が一週間もつづいたころ、白ひげの船長は操舵室のどこからか鍵を取り出し、見張り番の男に渡した。

「そろそろ天日干しにでもするか。臭くてたまらん」

 鍵を受け取った男はズボンのベルトにそれをしっかりと結び付け、鼻をつまみながら格子の方へ向かった。

「十五人ずつぐらい、踊らせましょうか」

「気を付けろよ。あいつら、力だけは強いからな」

「大丈夫でさあ。いざとなったら、これで嚇かせばいい……」

 男は腰につけた拳銃をくるくると回した。

「馬鹿野郎!奴らは商品だということを忘れるな。キズ物にすれば値が下がる」

 格子が開けられ、しばらくすると、見張り番の男につづいて黒人たちがぞろぞろと連れ出された。久しぶりに仰ぐ太陽に、みんな眩しそうに目を細めている。よろよろと倒れ込む者もある。

「手間をとらせるな。ちゃんと食事は与えているはずだ。立て。歩け。ほら、ほら」

 乱暴な扱いに、黒人たちはだまって耐え忍んでいる。抵抗できないよう、縄は付けられたままだ。しかし、互いに結ばれた鎖だけは今は外してある。運動をさせるためであろう。

 別の男が、ロープのついたバケツで海水をくみ上げ、いきなりそれを黒人たちにぶちまけた。

「まずはシャワーだ。きれいにしてやる」

 塩水をかけられた黒人たちは、身にった生傷なまきずにしたたかにみるらしく、苦痛に顔をゆがめ、叫びながらのたうち回っている。

 乗組員たちはそれを見て笑っている。

「心配するな、殺しゃしねえよ」

「それにしても、こいつら、なんだかバーベキューのイカみてえだな。り方がな……」

 悪質な冗談に、さらに哄笑が起こる。

 そのうち黒人の一人が、倒れたまま本当に動かなくなってしまった。

 見張り番がゆっくりと近づき、黒人の髪をつかんで顔をのぞき込む。黒人は白目をむいたままダラリとしている。

「……やっちまった。百ポンドの損失だ―――」

 船長は舌打ちを一つすると、部下に命じてその男の体を海に捨てさせた。

 二人がかりで放り投げられた遺体は大西洋の波間にゆらゆらと沈んで行った。

「ヒドイことを……」僕は眉をひそめた。

 しかし白昼の出来事のせいか、あまり悲壮感はなかった。さらに船長は格子を指差し、

「すでに中で死んでる奴がいるかもしれん。そいつらを片付けるのが先だ。ほっとけば、他の者も病気になってしまう」

 乗組員がふたたび船底にもぐり込み、一人また一人と、息絶えた黒人を運び出した。合計九人の男女が、つぎつぎと海に捨てられた。

「なんだか感覚がマヒしてしまうね」

「人間がたんなるモノに見えてくるね」

 僕とチュン太は辟易へきえきした。

 船長は損失を出した苛立いらだちを眉間ににじませながら、居並ぶ部下たちに言った。

「死人が出るのは勘定かんじょうの内だが、もう少し、大切に扱ってもらいたいな」

「しかし、あんまりチヤホヤ扱うと、こいつら反乱を企てますぜ。じっさい、それで乗っ取られた船もあるんだ。生かさず殺さず、その加減がむずかしいんで……」

 見張り番の男は皮肉な笑みを浮かべながら、手にしたムチを鳴らした。

 甲板に残された黒人たちの胸中はいかばかりだろうか、立ち尽くして身じろぎ一つせず、ただ海中に捨てられた仲間の行方ゆくえを目で追っている。その表情はどことなく、冷たい憤怒ふんぬの形相を隠しているようにも見える。

 その中に一人、ひときわ眼光の鋭いたくましい青年の姿があった。乗船のとき、女と別れるのを嫌がったあの青年である。たしか「チャド」と呼ばれていた。

 やがて太鼓を手にした白人の男が、ヒョイと物置の上によじのぼった。風をはらんだ帆が男のうしろで音を立てる。

「さあ、お前たち!ジャンプするんだ。得意のはだか踊りを見せてみろ!ジャンプ、ほら、ジャンプ!」

 男はみずからも飛び跳ねながら、拍子をとって太鼓を打ち鳴らす。

 船長と見張り番はうす笑いを浮かべ、何かを囁き合っている。

 こいつら太鼓さえあればすぐにご機嫌になる、しょせんバカな奴らだ―――

 そんなふうに口が動いているようだ。

 男の鳴らす太鼓は不規則でリズム感がなかった。原住民のリズムを真似ている風ではあるが、こんなデタラメな太鼓で踊れるはずがない。僕はしだいに腹が立って来た。黒人をバカにしているのがありありと分かる。

 しかし黒人たちは、ここは反抗する場面ではない、と判断したのか、しぶしぶステップを踏みはじめた。

 チャドも片足ずつ、形ばかりジャンプしている。

 しかし彼の視線の先にあるものは、見張り番の男が腰に付けている足枷あしかせの鍵であった。

 一組目の運動が終わると、次のグループが連れて来られた。

 やはり洗礼として海水が浴びせられ、甲板に叫び声がひびく。

 その中に、海岸で泣き叫んでいた若い女の姿があった。チャドの連れ合いである。

 女はチャドを見つけ、ハッとした顔で駆け出しそうになる。

 船底へ戻りかけたチャドも、思わず振り向き、何かを叫びそうになったが、二人の関係を知られるのは得策でないと思ったのか、かろうじて出掛かった言葉を呑み込んだ。彼らの表情を見るかぎり、やはり二人は恋人同士のようである。

 太鼓の音が響き、黒人たちはまた踊らされる。しかし、なぜかその娘だけは、ためらって踊ろうとしない。

「ルルー……」

 チャドが心配そうに呟いた。

 一人だけ突っ立ったまま動こうとしない娘に気が付き、見張り番の男が近づいて来る。

 彼女は困惑した表情を浮かべ、もじもじと下腹部を押さえながら何かを訴えようとした。

 見張り番はすぐに事情を察したようであったが、そのまま鼻で笑っただけで、ふところからムチを取り出し、大きな音を立てて甲板を打った。

 娘は怯えてしゃがみ込んだ。しかし、やがてゆっくり立ち上がると、仕方なく小さな足踏みをはじめた。

 ところが心配した通り、女の腰巻にはみるみるうちに赤いシミが広がって行った。娘は顔をゆがめて泣いている。

 ―――あいつら、みんな殺してやる!―――

 怒りに震えるチャドの目がそう叫んでいた。

 その夜、しのび寄る霧のように、格子の隙間からかすかに、哀愁を帯びた静かな歌声が聞こえて来た。僕とチュン太は耳を澄ませた。

 おそらくアフリカの部族の歌であろう、その不思議な音階のメロディーは、か細いけれども力強く、満天の星空にいつまでも響いていた。

 それからまた一週間が経った。

「もうそろそろ大西洋の真ん中あたりかな」

「まだまだだよ。六週間はかかるはずだから」

 僕とチュン太は三六〇度、見渡す限りの大海原をうんざりと眺めた。

 そのときふと、上空から冷たいものがポツリと落ちて来た。

「雨だ……」

 思う間もなく、空いちめんに黒雲が立ち込め、風が吹きはじめた。

 乗組員たちはあわててマストによじ昇り、掛けてあった帆をすべて外した。船が風に流されるのを防ぐためであろう。

 船長はさすがに落ち着いていて、空を見上げながらてのひらを広げている。

 と、何かを思いついたらしく、見張り番の男に声を掛けた。

「あいつらを丸洗いするチャンスだ。ついでに甲板もきれいにしてもらおう」

 見張り番の男は例によって操舵室から足枷の鍵を持って来た。そして腰のベルトに結ぼうとしたが、たまたまベルトがり切れて結ぶ所がなかったので、仕方なくそれを首から無造作にかけた。

 男は船底へ降りると、やがて黒人たちを引き連れて戻り、一人一人にデッキブラシや箒を持たせて甲板に立たせた。

 折から雨は激しくなり、辺り一面をしたたかに濡らした。

「さあ、始めてくれ!ピカピカにするんだ!お前たちが汚したんだからな!」

 男は大声でそう言い捨て、頭を隠しながら、自らはそそくさと操舵室に避難した。船長はすでにガラスの向こうでパイプをくゆらせている。僕とチュン太は用具箱の陰に隠れて様子を見ていた。

 黒人たちは揺れる甲板の上でなんとかバランスを保ちながら、デッキブラシで床をこすっている。散らばったゴミを箒で海に掃き出す者もいた。足枷をしているため、その動きは思い通りではない。

 そうこうするうちに風はさらに激しくなった。船の揺れにあわせて水平線が上下する。曇天がむくむくと邪悪な表情を募らせる。

 女たちも駆り出されたが、激しい揺れの中で立っているのがやっとで、柱にしがみついておろおろするばかりである。

 チャドの姿もあった。デッキブラシを動かしながら、ときどきちらちらと操舵室の様子を伺っている。

 すると突然、操舵室の扉が開き、中からふらついた足取りで見張り番の男が飛び出して来た。雨に濡れるのもかまわず、甲板を横切って船べりにしがみつくと、何やら海に向かってうつむいている。嘔吐しているらしい。

 僕とチュン太は憐みの目でその姿を見た。

 男はしばらくそのまま苦しみに耐えているようであったが、よく見ると、首にぶら下げた足枷の鍵が無防備に背中の方へ回っている。

 大きく見開かれたチャドの目が、その鈍く光るものに集中した。

 操舵室のガラス窓が白く曇っているのを確かめると、いきなりチャドは持っていたデッキブラシを振りかぶり、一心不乱に男の背中に降り下ろした。電光石火であった。

 不意打ちを食らった男は気を失ってバタリとその場に倒れた。

 居並ぶ黒人たちは色めき立ち、思わぬ出来事にしばらく声を失ったが、最早もはやこうなったらチャドに加勢するしかない、と思ったのか、持っていた道具をいっせいに投げ捨て、倒れた男をいそいで取り囲むと、暴れ出さないよう手足を押さえ付けた。

 そのすきにチャドは、男の首に絡みついた紐を必死でほどき、鍵を奪い取った。

 操舵室の白人たちが黒人たちの異変に気づいたのは、ようやくそのときである。

「あいつら、何をしてやがる!……」

 彼らはあわてて拳銃やライフルを手に取り、どしゃぶりの中を甲板へ飛び出した。

 黒人たちは数人がかりで見張り番の体をかかえ上げ、そのまま海に放り投げるところだった。

「お前たち、何のつもりだ!」

 白人たちはがむしゃらに銃を黒人たちの群れに向けて放った。しかし、時すでに遅く、見張り番の体は荒れ狂う大西洋の波に呑まれて行った。

 銃弾の数発は黒人たちに命中し、ある者は血まみれになった。またある者は倒れ込み、ある者は負傷した足を引きずっている。

 銃声を尻目に、チャドは奪い取った鍵で仲間の足枷を必死に外そうとする。

 足枷がとれて自由になった者は、デッキブラシやバケツなど、手当たりしだい武器になりそうなものを掴んで白人たちに反撃する。

 かなりの者は被弾した。しかしかなりの者は雨で足を滑らせた白人たちに馬乗りになって彼らを打ち据えた。

 船の大きな揺れは黒人たちに有利に働いた。狙撃手の銃の手元は狂い、弾丸たまの補填にも時間がかかった。船が右へ傾くと右へぞろぞろと、左へ傾くと左へぞろぞろと全員が揺り動かされる。甲板には倒れた敵味方の死体がごろごろと転がった。雨と血しぶきで辺りは赤い川のようになった。

 チャドは倒れた白人が息を吹き返さないうちにと、渾身の力で彼らを抱え上げ、つぎつぎに海へ投げ捨てた。

 そして女たちを物かげに避難させつつ、奪い取った銃をかまえて彼女たちをまもった。銃の扱いには不慣れなようであったが、試みに引き金を引いてみると、弾丸たまは操舵室のガラスをこなごなに砕き、中の白人を驚かせた。その威力に、チャド本人がビックリしている。

 しかし、やがて勝負はあっけなくついた。

 甲板にとどろく大砲の音を最後に、辺りは静かになった。

 見ると、いつの間にか砲台に回った船長が、軍事用の大砲を甲板の黒人たちに向けて放ったのだ。

 黒人たちは一たまりもなかった。

 生き残った白人たちはようよう立ち上がり、戦う気力をがれた黒人たちに再び足枷をかけ自由を奪った。

 女たちのたてになっていたチャドも、砲台を向けられると、銃を捨てて両手を上げるしかなかった。

 チャドはうしろ手に腕をしばられ、顔が変形するほどひどく殴られた。

 雨はようやく上がり、荒れ果てた甲板は再びおだやかになった。

 翌朝―――

 強風も止んで、船上には雲間から太陽がのぞいた。

 黒人たちの遺体はつぎつぎに片付けられた。互いにロープでつながれ、重石おもしをつけてズルズルと海に沈められる。

「かなりの人数が死んじゃったね」

「白人の被害は五、六人といったところか……」

 甲板には血糊ちのりの臭いと、糞尿の臭いと、そのほか魚の腐ったような悪臭がないまぜに漂っていた。

 僕とチュン太はかなり馴れっ子にはなっていたが、互いの羽にしみついた臭いを嗅ぎあっては顔をしかめた。

 操舵室の前では、乗組員たちが船長を取り囲み、何か話し合いをしている。チャドの処分についての協議らしい。

「あの男はどうしますかい」

「ほうっておくと危険ですぜ」

「見せしめに八つ裂きにしましょう」

 仲間を殺された怒りと、自らに及ぶかもしれない危険への怖れとで、船員たちは血相を変えている。

 船長はぼうぼうに伸びた頬ひげをさすりながら、

「まあ待て。あいつは体もいいし、知恵もある。にするにはもってこいだ。かなりの高値で売れるはずだ」

と、あくまで商人としての打算を忘れない。

「せいぜい指をつぶす程度にしよう。反抗できないようにな」

 チャドが甲板に連行され、つづいて残りの黒人たちも全員集められる。

 猿ぐつわのチャドが木箱の前にひざまずく。白人が二人がかりでチャドの右手を木箱の上に押しつける。何をするのだろう。

「さあ、黒ンぼたち!よく見るがいい。よからぬ考えを起こすとどうなるか、とくとその目で見ておけ!」

 刑の執行役がなにやら木製の道具を取り出し、みんなの前に高くかかげる。

 不思議な形をしたその道具には、ちょうど指が入るくらいの小さな穴が、側面にいくつも開いている。

「指のギロチンだ……」

 僕はすぐに察しがついた。奴隷船にはこんな道具まで用意されているのだ。

 チャドの指がその中へ差し込まれる。

 黒人たちは心配そうに見ている。顔をそむける者もある。

 恋人のルルーは顔をしわくちゃにしながら天を仰ぎ、何やら祈りを捧げている。

 執行係がちらっと船長の顔を伺うと、船長は小さく頷く。

 時が止まったような静寂ののち、チャドの叫び声が甲板にこだました。

 ザクリという音とともに血しぶきが執行役の顔にかかる。切断された指がパラパラとデッキに散らばる。

 チャドはそのまま気を失って横倒れになった。

 同じく気絶したルルーを周囲の者が抱きかかえる。

「いいか!黒人ニガーども!お前たちは奴隷なんだ!ようく覚えとけ!おとなしく命令に従うのがお前たちのこれからの仕事だ!」

 船長は睨みを利かせてそう宣言すると、ムチで甲板を一打ちした。

 それから数日間―――あるいは数週間であろうか、代わり映えのしない航海の日々がつづいた。

 僕とチュン太は何日も飲まず食わずであるにも関わらず、不思議と食欲を感じなかった。

 黒人たちは船底で寝ては起き、たまに食事を与えられ、ときどき甲板で運動させられた。病気で何人かが死に、発狂して何人かが海に飛び込んだ。

 乗船したときに比べて、かなりの人数が減っていたが、幸か不幸かそのお蔭で、チャドとルルーが顔を合わす機会も多くなった。

 そんなとき二人は、白人の目を盗んで二言三言、言葉を交わした。チャドはルルーの肩にふれ、ルルーはチャドの失った指にふれた。

 ふれ合うことがどんな言葉よりも互いの心を伝え合った。

 ―――いつの日かかならず、かつて謳歌した自由を取り戻し、だれに遠慮のない幸せを築こう、いまはその時ではない、けれど、いつかその日はきっと来る、離ればなれになったとしても、いつの日かかならず、かならずまた巡り合おう―――

 見つめ合う二人の目は、そう誓い合っていた。

 夕日の沈んだ空に、爪痕のような細い月がかかっている。

―――寂しい時には月を見上げよう。遠く離れていても、二人で見る月を通じて、心はいつもつながっているよ……

 二人はそう囁き合った。

 それからまた数日が経ち、帆に風をはらんだ船は着々と新大陸に近づいた。

 マストのてっぺんにじ登った男が、双眼鏡をのぞきながら叫んでいる。

「陸地が見えて来たぞぉ!」

 水平線の向こうに、かすかにふくらんだのような大地が見える。

 船上の人々はみなそちらを見た。昼寝をしていた番人は飛び起き、舳先へさきへ向かう。掃除をさせられていた黒人たちも、その手を休め、目を凝らす。

「ようやく辿り着いたみたいだね……」

 僕らの胸にもわずかな希望が湧いた。

 陸地はしだいに近づいて来て、山や港や街の様子が、肉眼でも見えるようになった。

 いよいよ岸辺きしべに接近し、桟橋のある港に錨を下ろす。

 渡された板の上を、黒人たちはぞろぞろと、鎖でつながれたまま下船させられる。

 港の人々は、珍しい動物でも見るように彼らを見ている。

 山高帽に短いチョッキ、口髭をたくわえ革靴をはいた男たち。リボンのついた帽子を顎で結び、ふくらんだスカートに日傘をさした女たち。どこかヨーロッパの香りのする様々な風物が、船着き場にひしめいている。

 黒人たちはそのまま、場末ばすえに設けられた大きなテントに連れて行かれた。

 僕らはにわかに空腹を覚え、しばらくその界隈をうろついた。そして路地裏で見つけたたトウモロコシの粒をむさぼるようについばんだ。少々固かったが、ひとまず腹の足しにはなった。久しぶりに踏む大地の感触は、足に心地よかった。

 テント小屋の前で黒人たちは順番に水を浴びせられ、体を清められたあと、ケガをした箇所に黒い油のようなものを塗られている。それが傷口にしみるらしく、大の男が顔をゆがめてのた打ち回っている。きっと商品としての彼らを、なるべく立派に見せるよう「化粧」をしているのであろう。

 また同じ理由から、テントの中には黒人たちが食べるための、少しはマシな食事が並べられている。しばらくぶりの人間らしい食事である。充分えさせて、血色のいいところを見せたいのであろう。

 街のあちらこちらに、奴隷競売のポスターが貼られている。

きたる〇月×日―――

 中央広場にて、アフリカ人販売。

 参加費用〇〇ポンド。売切御免。

 ふるってご参加を!」

 まるでうお市場のセリのようである。

 競売の日が来た。

 せっかく過酷な旅を生き延びた黒人たちは、見る見るうちに値段がつけられ、買い手がつくと首輪のまま引き渡されて、すぐにその人の所有物となる。

 買い手というのはたいがいが大農園の農場主のようである。アメリカ各州からはるばるやって来た、身なりのいい紳士たちだ。

 中央に設けられた壇上にひとりずつ黒人が乗せられ、みんなで品定めをする。

「まるで生け花の品評会だね……」

 生け花の品評会とちがうのは、取引される商品がきわめて粗雑に扱われることである。ムチで脅され、手を縛られたままクルクル回され、体の大きさやケガの具合などを丹念に調べられる。黒人たちはどんな屈辱にさらされても、抵抗する術がない。

 順番に買い手が決まり、奴隷たちはつぎつぎと荷馬車に乗せられて行った。

 壇上にルルーが呼ばれた。

 女の奴隷は総じて男よりも値段が安い。力仕事に向かないからであろうか。しかしその代わり、器量のよさや骨盤の大きさなどが評価の基準となっているようだ。身も蓋もない話だが、子供をどれだけ産めるかで商品としての価値が決まる、という発想だ。

「完全に女性蔑視だね」

「今よりもっとあからさまだったんだね」

 壇上の司会者はルルーの胸を指さしたり、お尻を叩いたりしながら、買い手に上物じょうものであることを誇示している。口上の巧みさに客席から笑い声が起こる。

 檻の中で順番を待っているチャドは、いたぶられるルルーを見て、怒りに唇が震えている。今にも飛び出して行きそうな勢いである。

 ルルーは二百ポンドという値でセリ落とされた。

 二百ポンドが高いか安いかは分からなかったが、それが「男性並み」の評価であることは確かだった。

「ジョージア州のウォーカー様、お買い上げ!いい買い物したね!」

 ルルーは壇上から下ろされ、荷馬車へ連れて行かれた。チャドの方をしきりに振り返る目が哀しげで痛ましい。二人はさよならを言う暇さえなかった。

 そしてチャドの番が来た。

 彼はほかの黒人男性よりも一回り体が大きく、見るからに頑丈そうなので、買い手たちも身を乗り出して興味を示している。

 背中にはムチのあとがあり、右手の指はつぶされていたが、司会者は巧みな話術で彼を荒馬あらうまに例え、将来の名馬だとして値をつり上げた。

 三百八十ポンドで買い手がついた。

「アラバマ州ランパード様、お買い上げ!お目が高いね!」

 チャドは馬車に乗せられるとき、最後まで暴れて抵抗したが、農場主の付き人らしい黒人男性によってなだめられ、やっと観念したようであった。

「とんだ名馬を仕入れたもんだな。あはは」

 買い手のランパード氏は、恰幅のいい六十格好の英国風紳士で、決して悪意のもとに人身売買をするような人物には見えない。かえってその、きれいに整えられた白い口髭が、善良そうな人柄をうかがわせるほどだ。

「……当時、黒人奴隷を使った農場経営はごくごく当たり前の話で、今われわれが想像するような悲愴感や罪悪感はなかったんだよ」

「牛や馬やトラクターを買う感覚だったのかい」

「どちらかと言えば、野蛮なアフリカの土地から彼らを救い出して、文明国に導いてやっているという意識だったらしい……」

 僕らはチャドを乗せた馬車のあとを追うことにした。

 馬車は砂ぼこりを上げながら、荒涼としたアメリカの大地をひたすら内陸へと進んだ。

 途中、小さな町に何度か宿をとりつつ、二、三日かけて、一行は農場に辿り着いた。

 ランパード農園―――

 門に吊り下げられた木の看板にそう刻まれている。

 しかし、どこからどこまでがランパード氏の土地だかよく分からない。

 見渡すかぎりの殺風景な原野に、ただポツンとその門が立っているだけなのだ。

 両側から覆いかぶさるような、鬱蒼とした木陰の道を、馬車はさらに五分ほど走り、やがて白く塗装された大きな邸宅の前に停まった。

 馬車の音を聞きつけて、中から三人の娘が飛び出して来る。人形のようなドレスを着た、可憐な娘たちである。

「お父様、お帰りなさい!」

「港の様子はどうだった?」

「今、どんな服が流行はやりなの?」

「お父様、お話を聞かせて!」

 馬車から下りたランパード氏を下へも置かない調子で、娘たちがまとわりつく。

 家の中からつづいて出て来た年配の女性は、その母親であろうか、お転婆てんばな娘たちを軽くたしなめている。

「ほら、ほら。お父様は疲れていらっしゃるのよ。休ませてお上げなさい。メアリー、水を一杯くんで来てちょうだい」

 いちばん年かさらしい娘にそう命じると、母親はゆっくりと主人に歩み寄り、抱擁してキスをする。

 運ばれて来たブリキのコップから、ランパード氏は咽喉のどぼとけを上下させながら美味うまそうに水を飲んだ。そして、

「今日は収穫があったぞ。三人分は働きそうな男を連れて来た。まだ危険だから、あまり近づかないように」

と、誇らし気にみんなに報告した。

 庭で洗濯ものを干していた黒人の娘がこちらを一瞥いちべつした。

 十五人分はありそうな白いシーツを庭一面に干している。その裸足はだしの足元には大きなたらいが水をたたえている。

「……教育係はこのフレッドに任せよう。まずは言葉を覚えないとな。いや、それよりも何よりも、大切なのは礼儀作法だ。最初が肝心だぞ」

 フレッドと呼ばれたのは、港からずっとお供をして馬車に乗っていた四十格好の黒人男性である。彼はよほど主人の信頼を得ているのか、白人の従僕がそうするように、縄をつけたチャドを車から下ろし、歩くよう促している。

 シーツを干していた娘がフレッドを認め、白い歯を見せてニッコリする。フレッドも微笑みを返す。父と娘といったところか。

 ランパード氏は、鶏や家鴨あひるのいる庭をぬけて吹き抜けのテラスに辿り着くと、ロッキングチェアにどっかと腰を下ろした。そしてウィスキーを持って来させ、パイプに火を点ける。

「名前は何がいいかな―――ジョン……。そうだ、ジョンがいい。お前は今日からジョンだ。みんなの言うことをよく聞くんだぞ」

 ジョンと名付けられたチャドは、言葉が理解できないのと、いまだ消えない警戒心とで、辺りをおどおど見回している。つかまったばかりの野生動物のようである。

 さらにフレッドに導かれてチャドが到着したのは、雨漏りのしそうな家の前であった。

「今日からここが、お前の住むところだ。他のみんなはいま畑に出ている。気の毒だが、その鎖はしばらくそのままだぞ。お前が自分のなすべきことを呑み込んだら、いつでもはずしてやるからな」

 言葉が通じないにも関わらず、フレッドはこまめにチャドに話しかけた。なにかと甲斐甲斐しい世話焼きぶりだ。

 チャドの両足には足枷がかけられ、右足と左足は鎖でつながれている。鎖は心持ち短く、歩けるけれども走れないようになっている。逃亡を防ぐためであろう。

 フレッドはこの新参の奴隷を小屋の中へ押し込むと、外から鍵をかけ、どこかへ立ち去って行った。

 チュン太が見つけた側面の窓から、僕らは中を覗いてみた。

 うす暗い小屋の中はがらんとして、床いちめんにわらが敷かれている。

 ひとりになったチャドは、しばらく小屋の中を歩き回ったり、ドアを叩いてみたりしていたが、やがて藁の上に倒れ込むと、天井を見上げながら放心し、いつかそのまま眠ってしまった。

「疲れてたんだね」

「ひとりになるのも、かなり久しぶりだね」

 フレッドが食事を持って戻って来たときには、チャドは死んだように熟睡していた。ゆすっても起きなかった。

 仕方なく食事の皿をドアの内側に置くと、フレッドはまた鍵をかけ、母屋おもやの方へ戻って行った。

 翌朝、まぶしい光が顔に当たるのを感じて、チャドは目を覚ました。かれこれ十五時間ほど寝ていたようである。

 表で何やら騒がしい声が聞こえるので、チャドは起き上がって、少し開いていたドアの隙間から覗いてみた。すると、黒人の男女が十数人、身支度をしたり、リヤカーに何かを積んだりしている。

 これから農作業に出かける様子である。

 ドアの陰に、チャドの顔を見つけたフレッドが、大きな声で呼びかけた。

「おい、ジョン!いつまで寝てる!もう出かける時間だぞ。早く準備しろ!」

 チャドは、自分が「ジョン」と呼ばれていることや、何かをかされているらしいこと、ひとまずは従っておいた方がよさそうなこと等々を悟ったようで、そのまま恐る恐るドアを開け、みんなの方へ寄って行った。

 男たちはチャドに一瞥いちべつをくれただけで、とくに挨拶するでもなく、黙々と作業をつづけている。女たちの中には、かすかにチャドに笑いかける者もあった。

「さあ、ジョン。みんなと、同じように、やるんだ。これから畑へ出かけて、さとうきびを刈る。できるだけ手早く、たくさん、刈るんだ。それがお前の、仕事だ。分かるか?」

 麦わら帽子をかぶったフレッドは、大げさな口の動きに身ぶり手ぶりを交えてチャドに教えている。ちょっとユーモラスな仕草だ。

「なかなかいい人みたいだね」

「敵ではなさそうだね」

 僕らは世話役のフレッドに好意を抱いた。

 一行が向かったのは、ゆるやかな丘を越えて二十分ほど歩いた、背丈よりも高いさとうきびが林のように茂った畑であった。

 すこし上空から見ると、広大な農場が延々とつづいていて、地平線までずっと同じ風景である。

「やっぱりアメリカは広いね……」

 僕らは嬉々として戯れるように辺りを飛び回った。

 畑へ来てみると、手慣れた男たちが早々とさとうきびを刈りはじめている。彼らの仕事ぶりはと言えば―――

 まず根元に鎌を入れ、何度か揺さぶったのち、うまく切り離したかと思うと、畦道へそれを投げる。そして女たちがそれを集め、きれいに向きを揃えてリヤカーに積み込む。やがて積み荷がいっぱいになると、一度納屋なやへ運ぶために、娘たちが三人がかりでリヤカーを押して帰る。空になったリヤカーが戻って来たときには、また新たなさとうきびの山が畦道に積まれている、といった具合であった。

 みんなは自分の与えられた役目を淡々とこなした。

 日が高くなり、少しペースが落ち始めたころ、男たちは低い声で何かを歌いはじめた。一人が呼びかけるように一節ひとふしを歌うと、それに応えるように、他の男たちが声を合わせる。歌いながらリズミカルに鎌を動かす方が、ただ黙々と作業をするよりも、能率がいいようである。

 チャドはと言えば、慣れない鎌が上手に使えず、何度も根元に刃を立てるものの、うまく切り離すことが出来ない。ひたすら悪戦苦闘している。そしていら立ちのあまり、まだつながっているさとうきびを力まかせに引き抜こうとする。が、それでも抜けない。

 フレッドが仁王立ちになって笑っている。

 チャドは歯を食いしばり、さらに満身の力で引っ張った。すると、さとうきびの根元の土がみるみる盛り上がり、しまいに大きく張った根っ子ごと、それを引き抜いてしまった。チャドはその勢いで、根っ子を手にしたまま尻餅をついた。

 フレッドは真っ青になった。

「なんて強情なヤツだ……しかも馬鹿力ときてる」

 あきれるフレッドの顔を見て、チャドは思わず白い歯を見せた。

 僕らはチャドが笑うのをはじめて見た。

 それは動物ではなく、人間の顔であった。

 昼過ぎになった。

 女たちが歌をうたいながら、リヤカーを引いて丘の畦道を戻って来る。朝から数えて四度目の往復である。

 しかし今回の便は空ではなく、みんなの「食事」が入っていた。

 フレッドが畑じゅうに響くような大声で仲間を呼び寄せると、男たちは作業の手を休め、のそのそと集まって来た。

 女たちが笑顔で迎える。そして、へこんだブリキの器にスープをぎ分け、パンと一緒に一人ひとりに手渡す。

 食べものが行き渡ると、みんなは思い思いに草むらや赤土の上に腰を下ろした。

 チャドにも与えられる。彼は昨日の夕食と今朝けさの朝食を食べ損なったうえ、慣れない労働のために相当飢えていたと見えて、パンを手にするなり、いきなりかぶりつこうとした。

 しかし、ふと周りを見回すと、まだ誰も食べはじめる者はいない。

 みんなは与えられたパンと野菜スープを前に、まだ大人しくしている。チャドも仕方なく、かじりかけたパンを自分の前に置いた。

 フレッドが真ん中に立ち、胸の前で十字を切って目を閉じると、何か祈りの言葉を唱えはじめた。

 みんなは手を組み合わせ、うつむいてそれを聞いている。

 長いお祈りが済んでから、フレッドはアーメン、と言ってようやく目を開けた。

 それを合図に、みんなは初めて食事に手をつける。

 チャドも横目でその真似をして、やっとパンを口にすることが出来た。

 そこからは自由であるらしく、みんなはガヤガヤとお喋りをしながら食事を楽しんだ。

 チャドに話しかける者もいた。お前はどこから来たのか、もとの名前は何というのか、このアメリカに知り合いはいるのか、などと尋ねる男があったが、チャドは何と答えていいか分からず、だまってパンをかじり、スープをすすった。

 自分がどこから来たのか、彼は知らない。どこへ連れて来られたのかも分からない。ただはるばる海をこえて、命ぜられるままに、ここへ来たのである。知り合いなどあろうはずもない。わずかな望みがあるとすれば、別れ別れになった恋人のルルーに会うことだけだ……

 チャドの胸中にはきっとそんな思いが去来したにちがいない。そしてこれからどうやって生きて行けばいいのか。しかも両足には、自由をうばう足枷がかけられたままで……。

 チャドの顔が一瞬曇ったように見えた。

 しかし、彼の瞳はあくまでつややかに輝き、指の短い手は黙々とパンを口に運んでいる。そのたくましい生命力が一体どこから来るのか、僕には不思議でならなかった。

 ランチタイムが終わり、ふたたび作業がはじまった。

 男たちは労働歌とともにさとうきびを収穫する。単純だが根気のいる作業だ。午後にはさすがに疲労の色が濃くなり、大粒の汗をぬぐってはアゴを突き出した。

 それに比べて、女たちはいつまでも陽気である。なにか数え歌のようなものを歌いながら、積み荷を整え、はつらつとリヤカーを押して行く。

 女性というものは、どんな状況に置かれても、それなりに人生を楽しめる生きものなのかもしれない、と僕は思った。そして何より、男にしろ女にしろ、折ふしに世のうれいを晴らし、人生にいろどりを添えるものは「歌」であると。

 ふとチュン太を見ると、彼は道ばたに散らばったさとうきびのくずをつつき、ひとり悦に入っている。そして、

「ぼんちゃんもおいでよ。これ、おいしいよ」

と目くばせをする。

 僕はチュン太の真似をして、さとうきびの繊維をほぐすように噛んでみた。

 甘い汁が口中に広がった。

「ほんとだ、おいしい!デザートみたいだ」

 さとうきびがなぜ「砂糖きび」というのか、僕はやっと意味が分かった。

 そのくきにはたくさんの糖分が含まれていて、それをしぼって「黒糖」を作る―――それが彼らの従事する仕事の目的なのであった。

 僕らは争ってさとうきびをついばんだ。

 もっとも、チュン太はなぜか途中で、ぱったりと食べるのを止めてしまった。「これ以上食べると、太るから……」と言うのがその理由であった。やっぱり彼は女の子?……

 女たちの押すリヤカーは、畑の畦道を抜け、丘を越えてゴトゴトと進む。太陽に照らされた彼女たちの姿は、まるで一幅の絵のようである。

 しかしそのとき、突然、女たちの歌声が止んだ。

 見ていると、栗毛の馬に乗った白人の男性が、荒々しくリヤカーに近づき、その横で足を止めた。カウボーイのような帽子をかぶった、赤い顔の男である。腰のベルトには拳銃が揺れている。

「……作業の進み具合はどうだ?計画どおりはかどってるか?食わせてもらってる分、きちんと働けよ。おままごとじゃねえんだぞ」

 男は馬に乗ったまま、おどかすようにそう言うと、ふたたび鞭を当てて畑の方へ馬を走らせた。

 女たちは顔をしかめている。僕らもイヤな気分になった。

「なんだろう、あの人」

「見張り番みたいだね」

 馬が畑へ到着すると、労働者たちはチラリと視線を投げた。が、そのまま気づかないふりをして作業をつづけた。へたり込んでいた者も、慌てて飛び起き、手を動かしはじめる。

「フレッド!どこまで進んでる?甘い顔をすると、こいつら、すぐ手を抜くからな。ビシビシやってくれ!」

「へえ。大丈夫でさあ、ジェームズさん。この通り、厳しくやってます」

 フレッドはわざと大きな音を立てて、地面をムチで打ってみせた。驚いたトカゲが赤土の中へ逃げてゆく。

「……うむ。その調子だ。お前自身の首も、オレの手にかかってるんだ。見てないと思ったら大間違いだぞ」

 フレッドは神妙にしている。

「―――ときに、今日は新しい奴隷が入ったそうだが、どいつだ?」

 フレッドは、しゃがみ込んで作業をするチャドのところへ歩み寄り、立つように命じる。

 チャドの両足には、鎖のついた足枷が付けられている。

「なるほど。この男か。体はデカいな。言葉は分かるか?」

「ほとんど分かりません」

 フレッドが答える。

「名前はなんだ」

「ジョンです」

「おい、ジョン!」

 見張り番はチャドに向かって叫ぶ。 

 チャドは返事をしない。ただ攻撃的な鋭い視線を、ジェームズという男に向けるだけである。

「よく聞け。お前は人間じゃない。なんだ。言われた通りにやるのがお前の仕事だ。余計なことは考えるな。そうすれば、このフレッドみたいに、いつか家庭だって持てるようになるんだ」

 世話役のフレッドはやはり黙っている。

「その代わり、逃げようなどと思ったら、ほら、あいつみたいになるぞ」

 ジェームズが指さした方向には、刈り取ったさとうきびの束を運ぶ年老いた男性の姿があった。ひょこひょこと歩くその足は、片方が短く、ズボンの裾がダラリと下がっている。

 僕はその男に起こった出来事を想像してゾッとした。

 ジェームズはニヤリと笑う。

「いいか、ジョン。大人しくしていれば悪いようにはしない。お前には元手がかかってるんだ。たっぷり働いてもらうぜ!」

 ジェームズはこれ見よがしに地面につばを吐くと、手綱を引いて、またもと来た道を引き返して行った。

 そのうしろ姿を、黒人たちは憎々しげに見送っている。つばを吐き返す者もいた。

 フレッドはチャドの肩を抱きながら言う。

「ジョン……くやしいけどあいつの言う通りだ。ここのやり方には逆らわない方がいい。過去のことはすべて忘れろ」 

 チャドは、言葉の意味は分からないけれど、置かれた立場についてはおおよそ理解したようであった。ふるえる肩がそれを物語っていた。

 日が暮れるまで働いて、男たちは小屋へと戻って行った。

 みんなくたくたに疲れて、だれ一人、余計な口をきく者はいなかった。

 女たちは一足さきに帰っていて、丸木を半分に切った細長いテーブルに、せっせと食事の準備をはじめていた。帰って来た男たちは、焚火たきびの炎に照らされた料理の皿を見ると、ふたたび元気を取り戻した。

「おっ、うまそうだな」

「オレたちゃ、毎日、このために働いてるようなもんさ」

 口々にそんなことを言い合っては、顔を輝かせている。

 並べられた料理は、色とりどりの献立―――ニンジンなどので野菜に、形のそろわないパン、丸鶏の蒸し焼きに、スパイスの香るスープ、それに自家製のピクルスといった、至って質素なものであったが、量だけは充分にあるようである。ランチのときと違って、フレッドの祈りの言葉も手短かに、餓えた獣のような男たちが料理に食らいつく。スプーンやフォークもあるにはあったが、みんなほとんど手づかみである。

「ほら、ジョン。遠慮してると食いっぱぐれるぞ。半分食え。ほら」

 おせっかいな男が、自分の皿に取り分けた肉を、指でちぎってチャドの皿に載せる。

 チャドは嬉しそうな顔をしたが、なんと返事してよいのか、お礼の言葉が分からない。

「サンキュー、と言うんだ。言ってみろ。サンキュー」

 男はどこまでもおせっかいである。

「サン……キュー……」

 相手の口元を見ながら、たどたどしく発音したその言葉が、チャドの覚えた最初の英語であった。

 このやり取りを見ていたフレッドは、自らもフォークで肉をつつきながら、しずかに笑っている。

「パパ、今日はどうだった?」

 一人の痩せた娘がフレッドに歩み寄った。今朝けさ方、大量の洗濯ものを一人で干していたあの娘である。やはり親子のようだ。

「なかなかいい日だったよ、マチルダ。一本松の向こうまで刈り進んだ。このジョンがけっこうな働き手でね。最初はモタついてたんだが、コツをつかむと、人一倍よく働くんだ」

 料理に食らいついているチャドを見て、フレッドは誇らしげに笑い、チャドは上目遣いに娘を見た。

「ジョン。わたしの娘だ。このピクルスはこの子が漬けたんだ」

 娘は恥ずかしそうにチャドを見ただけで、何も言わずにクルリとあちらへ駆けて行った。

「おい、マチルダ!おかわりをついでくれよ!……まったく、しょうがない奴だ」

 フレッドはうまそうにピクルスをポリポリとかじる。

 その娘―――マチルダが走って行った方を見ると、女たちが別のテーブルに集まってみんなで食事をしていた。給仕が終わり、やっとくつろいだ表情である。

 しかしマチルダは食事には手を付けず、女たちに小さく手を振っただけで、そのままランパード邸の方へ向かった。振り向きざま、

「今度はあちらの夕餉ゆうげの仕度よ」と言って、白い歯を見せた。

「親子ともに主人に気に入られているみたいだね」

 僕はほほえましい気持ちになった。

 大きなやしきからは、宵闇の中に、ランプの灯る窓明かりが漏れている。大樹に囲まれたその洋館は、奴隷たちの質素な暮らしとは対照的な、豊かさと幸福を象徴している。そこだけ別世界のようだ。

 黒人たちは焚火たきびを囲みながら、しばしなごやかな時を過ごした。ともに働いた仲間たちと、楽しく過ごす団欒の一とき―――こちらはこちらで、わびしい中にもささやかな温もりがあった。

「どんな環境でも、慣れればなんとかなるものだね」

 僕が伸びをしながらそう言うと、

「いや、そうとも限らないんだよ……」

と、チュン太がけわしい顔で目くばせをする。

 見ると林の中の暗がりから、怪しい人影がだんだん庭の方へ近づいて来た。カウボーイのようなそのシルエットは、昼間見た、あのジェームズとかいう白人の男であった。腰に付けた拳銃をむやみにチラつかせながら、うすら笑いを浮かべている。

 黒人たちが一瞬、息を飲むのが分かった。

 ジェームズは男たちのテーブルには目もくれず、落ち葉を踏みしめながらゆっくりと、女たちの集まる一角へと向かった。

 女たちは身を固く寄せ合っている。

 ジェームスはその中の一人、下を向きながら震えている女の腕をつかむと、無理に立ち上がらせようとした。リヤカーを楽しげに押していた娘の一人である。

 娘は仲間の腕にしがみついて離そうとせず、仲間も必死でその体を引っ張る。

「大丈夫。ちょっと借りるだけだ」

 やはり男の力は強く、娘をかかえ上げるようにして仲間から奪い取った。

 娘は顔中くしゃくしゃにして泣きわめいている。

「大人しくしろ!オレがお前たちに一度でも傷をつけたことがあるか?きれいなまま借りて、きれいなまま返すんだ。抵抗すればするほど、余計にケガをするぞ!」

 ジェームズは嫌がる娘を引きずるように、連れ立って林の中へ消えて行く。

 男たちは見て見ぬふりをした。かつて歯向かった者がどうなったか、互いの心に思い浮かべたのか、あきらめを含んだ表情であった。一同は言葉少なになった。

 しかし、ジェームズが去ったあと、テーブルに拳を打ちつけて悔しがる男がいた。その背中や肩から、炎のような怒りが立ち昇っている。男は仲間になだめられて、やっと興奮を沈めたようだ。

 おそらく、娘の恋人か何かであろう。

 チャドもさすがに事情を察したらしく、一人立ち上がってジェームスを追おうとしたが、となりにいたフレッドに制され、ようやく思い止まった。が、やはり、どうしても怒りが収まらず、朽ちた切り株を力まかせに蹴飛ばした。

「落ち着け!」

 フレッドは首を横に振る。

彼奴あいつはランパードさんのおいで、この農園のあと取りになる男だ。ランパードさんには息子がいないから、彼奴に白羽の矢が立った。逆らわない方がいい。くだらない男だが、従っている分には害はない。いいか、オレたちは奴隷なんだ。人間の数じゃない。そこをよくわきまえるんだ」

 フレッドはそう言うと、何事もなかったかのように、また下を向いてスープをすすっている。彼はそうやって長いものに巻かれることで、現在の小さな幸せを築いてきたのであろう。その生き方を責めることは出来ない。家族がいればなおさらだ。

 しかしチャドの目には、どうしても抑えきれない憤怒ふんぬの炎が燃えていた。

 彼は若い。しかも、これ以上失うものは何もない。

「いつか、何かやらかしそうだね……」

 僕は自分の身を振り返って思い当たる節があり、しずかにそう呟いた。

 チュン太は何かを言おうとしたが、なぜかそのまま押し黙った。

 それから、来る日も来る日も、判で押したような日々がつづいた。朝起きては作物の収穫に出かける。夕方、帰って来ては、飯を食う。夜寝て、朝また起きる。来る日も来る日も、朝も昼も夜も、春も夏も秋も冬も、さとうきびの成長にあわせて、黒人たちは働いた。そして一つずつ年を重ねていった。月日が目まぐるしく過ぎ去るうちに、女たちは子供を産み、男たちの髪には白いものが混じった。成長した子供たちは鶏を追いまわし、ある日、大人たちと一緒に畑へ出るようになった。

 はじめはリヤカーの荷台で遊んでいた子供が、やがて仕事の手伝いをはじめ、そのうちすぐに立派な働き手の一人となった。

 チャドはずいぶんと言葉を覚えた。今のところ、言われるがままに、何とか過酷な労働に耐えていたが、変わり映えのしない日常への憤懣ふんまんはしだいに募り、ときどきため息をもらすこともあった。

 ある年の冬、年老いたランパード氏が天寿を全うし、農園はジェームズのものとなった。

 黒人たちはさらに過酷な労働を強いられた。

 ある者は畑で野垂れ死に、ある者はムチで打たれた傷がもとで、納屋で冷たくなっていた。

 そんな様子を苦々しく見ていたチャドであったが、彼自身は誰よりも人一倍よく働き、さらにたくましく成長していた。

 そして、フレッドの信頼も勝ち得、いつかその娘マチルダと結婚し、男の子を一人もうけた。

 チャドは妻の手作りのピクルスを齧りながら、赤ん坊の頬っぺたをいとおしそうに人差し指でつついている。マイケルというのが、その子の名前であった。

「かわいいな、マイケル。お前をいつか、お父さんの故郷のアフリカへ連れてってやるぞ。海を越えて、何日もかけて、そこへ行くんだ。とてつもなく遠い場所だが、いつの日か、きっと行けるさ。アフリカには、ここにはない自由があるんだ」

 息子を高くかかげるチャドの目は遠い光を宿した。折にふれ、彼は息子にアフリカの話を聞かせた。

 いつもは陽気な妻のマチルダは、なぜか夫がその話をするたびに、決まって美しい眉を曇らせた。

 彼女はこの土地に生まれ、この土地で育ち、やさしい父親のもとで生きてきて、農場の生活にとくに不満はないらしかった。父親ゆずりの保守的で堅実な性格が、あえて危険を冒すことをためらわせたのかもしれない―――

 と僕がそんな想像を巡らしていると、

「彼女の本当の心配はそんなところにはないんだよ」

と、チュン太がわけ知り顔で言った。

「……意気揚々としゃべるチャドの瞳の中に、別の女性の存在を感じてるからなんだ……」

 思いも寄らぬチュン太の指摘に、僕は面食らった。

「そんなことまで分かるの?」

 そういう事情にはまるでうとい僕は、あらためてチュン太の慧眼けいがんに感服した。

「……男の人って、いつまでも初めて好きになった人の面影を追ってるだろ?本人はそれに気が付いていないかもしれないけど」

 チュン太が睨むように僕を見たので、僕は思わずたじろいだ。彼はふとした拍子に、急に意地悪になる。

 チャドとマチルダ夫婦は、ときどき喧嘩したり、ときどき流儀のちがいに衝突したりしたが、それでも、言いたいことの言い合える、つまりは夫婦であった。

 フレッドも孫のマイケルをたいそう可愛がった。チャドが働きに出ている間、引退した彼は一日中孫のお守りをした。夕方、疲れて帰って来たチャドが、祖父の手から子を奪い返し、肩に乗せてそこらじゅうを歩き回った。

 はた目には、とても幸せそうな家族に見えた。

「無理やり連れて来られたわりには、まずまずいい結果になったね」

 それは盾の両面ではあるけれども―――僕はチャドのこれまでの苦難を祝福したい気分になった。

 ところが、世の中はそう単純ではなかった。

 もしこの世に神さまというものがいるとしたら、彼はわれわれの浅はかな思惑おもわくとは違った、一見理不尽に思える、遠大な計画を立てておられるにちがいない。

 そう考えるしかあきらめがつかないほど、突然の出来事が人々を襲うようである。

 ある冬の日、夕食を終えて小用に立ったチャドは、奴隷小屋と庭つづきになっているやしきのテラスで、主人のジェームズと来客の紳士が、農場経営の在り方について話をしているのを立ち聞きした。

 山高帽をかぶった紳士は、ジョージア州のアトランタから商談に来た、タバコ農園を営むウォーカーという老人であった。

「……いやぁ、奴隷ひとり買うにしても、少なく見積もって百五十ポンドはかかる。それでも、期待通り働いてくれればいいが、途中で死んだり、逃亡する者もいる。まったく当たりはずれが大きいねえ。そのうえ、タバコの値段がこの不景気で倍増ときたもんだ。これじゃ、とてもやっていけないよ。あんたんとこは安定してるからいいが、うちはいつも綱渡りだ。おかげで頭もこの通り、真っ白になったよ。あはは」

 ウォーカー氏は杖で床をトンと鳴らしながら笑った。が、その目は決して笑ってはいなかった。深刻な立場を思い、ため息がもれる。

 ライフルを一度分解して、部品を磨きつつそれを組み立てていたジェームスは、話に相槌あいづちを打ちながらも、あくまで他人ひと事らしく、乱暴な持論を繰り返すだけであった。

「なあに、しょせん奴隷は動物と同じでさあ。言うことを聞かなければムチをくれてやる。よく働いたらエサをやる。それだけですよ。ヘタに同情しない方がいい。ボロになったらさっさと捨てる。それでいいんだ。オレはずっとその方針でやって来たし、これからもそのやり方で行きますよ」

と、強気の姿勢がさも好調の原因とばかりに豪語する。

 ウォーカー氏はやれやれという顔で苦笑いをし、

「まあ、あいつらには悪いが、いったん他の農場へ引き取ってもらうことにしよう。また景気が戻ったら買い戻すつもりだがね。ただ、私の身の回りの世話を焼いてくれるあの女だけは、掘り出し物だった。あいつだけは、いくら金を積まれても譲れんよ。あの女は置いとくつもりだ」

と、最後はひとり言のように言った。

 聞いていたチャドは何か思い当たるものがあったようで、話に釘付けになり、さらに聞き耳を立てた。

「……たしか二百ポンドで買ったんだが、最初は言うことを聞かなくてね。何を言っても返事すらしない。ただ、チャド、チャド、と叫ぶばかりで手に負えない。そのうち女は自分を指さし、ルルー、ルルーと言った。そしてルルーと呼べば大人しくなることが分かった。それが彼女の名前だったんだな。まんまとこちらが調教されたようなもんだよ」

と、なつかしそうに笑う。

「……意地っ張りな女でね。こっちが理不尽なことを言うと梃子てこでも動かない。その代わり、まっとうなことを言えば素直に従う。考えてみたら、それが物の道理だがね。とにかく、芯の強い女だった」

 ルルーだ!―――

 チャドの目が大きくみひらかれた。

 納屋のかげに隠れて息を殺していた彼は、ふとした拍子に、立てかけてあったスコップにつまずき、倒れそうになるのを危うく手で受け止めた。

「……それ以来、私は、奴隷たちに接するときの姿勢を変えたんだよ。私は、黒人たちも人間だと思う。自分がされたくないことをすれば嫌がるし、して欲しいことをしてやれば喜ぶ。決して牛や馬なんかじゃない。ルルーがそのことを教えてくれた―――こんな考え方が、少なくとも経営者向きでないことは分かっているがね」

「ウォーカーさんは人が好過ぎるね」

 口の半分で笑いながら、ジェームスが言った。

「まあ確かに、そういったやからもいるにはいるが、大多数の奴らはムチで脅すにかぎる。甘い顔をすると、ろくなことはねえ。こっちが決めたことを、だまってやらせる。シンプルなもんさ。その方がお互いのためだ」

 ジェームスは組み立て終わったライフルに、カチャリを弾丸たま装填そうてんした。

「……こんど、ウチんところの馬丁ばていに孫が生まれたんですがね、ちょうどテネシー州に黒人の子供を欲しがっている家があるから、そこへ高く売りつけてやろうと思ってるんですよ。父親は体がデカいし、母親は従順だから、その一粒種とくれば、きっと先方も気に入るはずだ。奴らの幸福を、オレが御膳立てしてやる。願ったり叶ったりですよ」

 チャドははじめのうち、何のことか分からずに聞いていたが、しだいにそれが自分の息子を売り飛ばす話だと心付くと、みるみる顔が赤くなった。そして、たくましい肩を怒らせ、スコップを持つ手に力が入った。

 ウォーカー氏はパイプに火を点けながら言った。

「そんな事をして大丈夫かね。黒人だって子供は大事だ。勝手に売りとばされたりしたら、黙っちゃいないだろう。相談はしたのかね」

「相談なんかするもんかね。なあに、既成事実にしてしまえばいいんだ。実はもうほとんど話はついてる―――ある日、子供がいなくなる。しばらくはうろたえる。しかし、そのうちに諦める。あいつら根がバカだから、幽霊にでもさらわれたと思うだろうよ。喉元のどもと過ぎれば熱さ忘れる、だ。あはは」

 ジェームスの赤ら顔が無慈悲な鬼のように見えた。

 そのとき、一陣の風がサーッと林の枝を揺らした。まるでチャドの天をく怒りが突風に変わったかのように……。と同時に、納屋の壁にかかったバケツがからりと落ちた。

「誰かいるのか?」

 ライフルをかまえたジェームスが立ち上がって近づいて来る。

 僕らは青ざめた。

 そっと納屋の角を回って、ジェームスが見つけたのは、落ち葉を踏みしめて呆然と立つチャドの姿であった。

 その手には大きなスコップが握られている。

貴様きさま、なにを!」

 とっさにジェームスは、銃口をチャドの顔に向ける。奴隷の謀反むほんだと思ったのであろう。

 チャドはしばらく、その成り行きに困惑顔であったが、ここで迷っていたらられてしまう、と思ったのか、持っていたスコップを振り上げ、夢中でジェームスの持つライフル銃をはたき落とした。

 ライフルは少し離れた地面へシュルシュルと転がった。ジェームスはチャドの顔を睨みつける。二人の間に緊張が走った。

 転がった銃をどちらが先に拾うか―――

 考えるひまもなく、奴隷とその主人は、同時にライフルに飛びついた。 

 落ち葉と泥にまみれながら、一本の銃を二本の腕が奪い合う。双方ともに決死の形相である。手を離した方が、命を落としかねない。

 パーン―――

 そのとき、一発の乾いた銃声が林にこだました。

 僕とチュン太は首をすくめた。

 気がつくと土の上には、首から血を流した男がうつ伏せに倒れている。ピクリとも動かない。どうやら即死のようだ。

 しばらくして、もう一人の男がむっくりと起き上がった。その大きな体と黒い肌は、泥にまみれたチャドであった。

 一瞬の出来事に何が起きたか分からず、倒れたまま動かない主人をじっと見下ろしている。しかし、やがて自分のしでかした事の重大さに気がつくと、彼はうしろを気にしながら一目散に駆け出した。

 テラスでは足の不自由なウォーカー氏がしきりに右往左往している。

「大変なことになったね……」

「奴隷がやとい主を殺したら、死刑はまず間違いないね」

 僕らは、奴隷小屋の方へ消えて行ったチャドの運命を哀れみ、深くため息をついた。

 銃声を聞いて駆けつけて来た親族や奴隷たちで現場は騒然となった。

 犯人はどいつだ。どこへ逃げた?

 あいつだ。ジョンだ!ジョンがいない!

 そんな声が飛び交った。 

 フレッドの姿もあった。彼はひと目ですべてを理解し、天を仰いだ。

 人々の喧噪をよそに、僕とチュン太は奴隷小屋の方へと飛んだ。

 窓枠から中を覗くと、チャドと妻のマチルダがしっかりと抱き合っている。

 マチルダは泣きじゃくり、チャドの腕にしがみつく。チャドは妻の背中に手を回し、虚ろな目を泳がせている。

 無言の長い抱擁ののち、やがてチャドは意を決したように立ち上がると、寝ているマイケルの額に小さくキスをして、ゆっくりと扉の方へ向かった。

 そしてしばらく、夜空にかかる細い月を見上げながら何かを考えているようであったが、ふいに勢いよく外へ駆け出した。マチルダはどうすることもできない。

「逃げるんだね」

「早くしないと、捕まってしまうね」

 チャドはそれから、夜明けまで林の中に隠れて追手の目をくらまし、翌朝、ウォーカー氏の馬車が帰途につくのを待って、そのあとを追った。行く当てのない彼は、きっとルルーに会いに行くつもりなのだと、僕は直観した。

「アトランタまでどれくらいあるのかな」

「歩いたら何週間もかかると思うよ」

 彼は懸命に馬車のうしろを追いかけたものの、やはりそのスピードにはついて行けず、やがて道端に取り残されてしまった。目の前には広大なアメリカの大地が広がっている。

 次の追手はまだ来ないようであったが、チャドの行く手は砂ぼこりが立ち、文字通り五里霧中であった。食料も地図もなく、アトランタまでの行き方も分からない。誰かに尋ねようにも、ひと目で逃亡奴隷と分かるそのでは、かえって怪しまれてしまう。なるべく人目につかないよう、かくれた道を選ばなければならない―――

 右も左も分からないまま、彼はあてずっぽうに歩いた。ときどき冬空を見上げては、太陽の位置をたしかめ、大まかな方角の見当をつけた。

 そうして何日も何日も、野を越え山を越え、谷川の流れをザブザブと歩いて、彼はがむしゃらに進んだ。腹が減ると、何の実だか分からない、のような実を引きちぎっては口にした。

 僕らは何の手助けも出来ないことを残念に思いながらも、せめて精一杯の声援を送った。

「がんばれ、チャド!しっかり!」

 しかしチャドの耳には、悲しいかな、僕らの声はピーチクとか、パーチクとしか聞こえようがなかった……。

 やがて僕らは上空から、はるか後方の地平線に、チャドの追手らしい、馬に乗った二人の白人の姿を見つけた。

「いけない!チャド、かくれて!」

 チュン太がチャドの前へ飛び出し、羽をばたつかせた。

 チャドもほどなく追手の存在に気がつくと、あわてて林の中へ分け入り、側面の丘をかけ登った。そして中腹につき出た大きな岩の、苔むした陰にかくれた。

 追手はしだいに近づいて来る。林の道に、ひづめの音が荒々しく響いた。

「ここを通ったにちげえねえ。しばらくは一本道だからな」

「ヤツは徒歩あるきだから、そう遠くへは行っちゃいねえはずだ」

 そんな声が聞こえる。

 馬は岩の下を通り過ぎた。

 肩で息をしながら岩にもたれていたチャドは、追手が通り過ぎたあとも、しばらくは疲労のため動けなかった。

 見ると、両足からダラダラと血を流している。裸足の彼は、丘をかけ登ったとき、何かにつまずいて怪我をしたらしい。そしていつしか、精も根も尽き果てたように、目を閉じて眠り込んだ。

 夕方になり、夜になった。木枯らしが林の中を吹き抜けた。

 やがて白いものが空から落ちて来た。雪であった。

 岩の上にも、木の枝にも、山の斜面にも、そしてチャドの肩にも、アフリカでは見ることのできない雪がうっすらと降り積もった。

 チャドは死んだように動かない。

 僕らは小さな枝や落ち葉をたくさん集めて来て、チャドの上から懸命にばら撒いた。チャドの体を木の葉でうずめることで、凍えるのを防ぐためだ。

 僕はふと子供のころ、巣から落ちたチュン太を助けるために必死で温めた時のことを思い出した。いま彼は一心不乱に、落ち葉や小枝を口にくわえてチャドのもとへ運んでいる。

 やがて夜が白み、朝になった。

 降り積もった雪で、チャドの体は半分見えなくなっている。しかしその口元からは、かすかな寝息が聞こえて来る。

 まだ生きている!

 僕らは、あらん限りの声を振りしぼって、チャドの耳に朝の到来を告げた。

「チャド!起きて!体を動かして!」

「そのままだと死んじゃうよ。ルルーに会えなくなるよ!」

 チュン太がわざとチャドのひたいに荒々しく枝をぶつけた拍子に、チャドはピクリとまぶたを動かした。林の上には灰色に曇った冬空が見える。

 チャドはようやく目を見開き、歯をくいしばって、うなり声とともに起き上がった。

 彼の寝ていた場所には、白い雪がすっぽりと人のかたちになっている。チャドは両手を広げ、雄叫おたけびを上げた。

「がんばれ、チャド!その調子!」

「大丈夫!歩けるよ!」

 雪のかたまりを体中につけたまま、チャドは重たい足を一歩一歩持ち上げるように歩いた。

 こんもりとした雪の上に、彼の引きずる足跡が点々とつづいて行く。斜面を下りた先には、道らしきものが見えている。それはアトランタへつづく希望の道である。

 しかし、五、六歩歩いた所で、彼はとつぜん立ち止まり、まるで切り倒された巨木のように、バタリと前のめりに倒れた。

 すでに意識はなかったらしく、両手は脇に添えられたままであった。

「チャド!―――」

 僕らはいっせいに声を上げ、彼の傍らに舞い降りた。

 しかしその大きな体を、僕らの力ではどうすることもできなかった。雀であることの無力さを、僕はあらためて実感した。チャドはもうそれ以上動かなかった。

 チュン太はチャドの肩の上にいつまでも止まっている―――

 空からまた白いものが降って来た。結晶が見えるくらい大きな雪は、羽毛のようにゆっくりと降り積もり、静かにチャドの体をうずめて行った。

 奴隷船で運ばれて来て以来、農作業のあいだも、家族に囲まれてからも、ずっとアフリカに帰ることばかり夢みて来たチャドの、これがはかない最期さいごであった。

 春になった。木々の枝々は新芽を吹き出し、川の水はきらきらと輝いた。

 チャドが非業ひごうの死を遂げた辺りにも陽光が満ちあふれ、まるで何事もなかったかのように、野山は蒸気を立ち昇らせた。

 一台の馬車が林の道へさしかかる。

 荷台には、鍋やフライパンなど少しの家財道具とともに、毛布にくるんだ赤ん坊を抱く一人の黒人女性の姿があった。マチルダであった。

 雇い主が撃たれ、犯人のチャドが脱走したあとも、約束どおり赤ん坊はテネシー州の農場へ貰われて行くらしかった。

「お母さんも一緒なんだね」

「よかったね……」

 おそらく、先方が善良なマチルダを気に入ったか、あるいは彼女が息子のマイケルを手放そうとしなかったか、そこには何かしらのいきさつが想像された。

 僕らはうなずき合い、ゴトゴトと揺れる馬車のあとを追った。

 数日をかけて一行が辿り着いたのは、大きな川が近くを流れる広大な農園であった。

 エリオット綿花農園コットンプランテーション―――

 古い看板の文字はそう読めた。

 見渡すかぎり左右に広がる綿花畑は、収穫の時期にはまだ早いらしく、黒人たちが横一列に並んで、荒れた土地を耕していた。額の汗を拭いながら鍬を打ち下ろすその姿は、まるで少しずつ、見えない何かをたぐり寄せるようであった。

「……この土地に育つ綿花は、肥料がいらないくらい早く成長したんだよ。ミシシッピ・デルタと呼ばれる肥沃な土地だ。そして、当時、急速に工業化が進んだヨーロッパへ大量に輸出された。衣類などの原料としてね。ただし、同じ場所で何度も栽培すると土地が痩せてくるので、開墾しては収穫し、収穫してはまたその先へ、つぎつぎと新しい農地を広げていく必要があったんだ……」

 多くの黒人奴隷がこの土地に集められたのはそのためだ、とチュン太が言った。

 黒人たちはひたすら、終わりのない過酷な労働に従事し、日々のかてを得るためにほとんど一生を費やした。

「デルタ・ブルースはこうやって生まれたんだね……」

 僕は、これまでなんとなく、ただカッコいいという理由だけで聴いていたブルース音楽が、そんな彼らのしいたげられた歴史の中で生まれたことを思い、鍬を打つ黒人たちの背中をしみじみと眺めた。

 マチルダとマイケルを乗せた馬車は、樹齢を重ねた巨木の茂るした道を抜け、やがて美しい芝生に囲まれた白亜の大邸宅の前に停まった。ランパード氏のやしきより、さらに一回り大きい豪華な住宅であった。

「ここでマチルダ母子おやこは従僕として暮らすのかな」

「ずいぶん立派なおうちだね」

 僕らは近くを一周したあと、その邸の二階のバルコニーを覗いてみた。窓の中では、さっそくマチルダが仕事の説明を受けている。

 どうやら彼女は、炊事、洗濯をはじめ、部屋の片づけから庭の手入れに至るまで、家事全般を一人で取り行うらしい。自分から選んだ道とは言え、子育てをしながらこれらの仕事をこなすことの大変さを、彼女はあらためて噛みしめている顔であった。

 赤ん坊のマイケルは、小さな部屋のベッドに寝かされている。レースのついた、なかなかお洒落なベッドである。

 僕はある連想から、父親のチャドが奴隷船の船底で寝起きしていた姿を思い出し、その境遇のちがいに隔世の感を抱いた。

 主人のエリオット氏はここ数日、商用のため不在であったが、今晩帰宅する予定であるらしかった。

 マチルダに仕事を教えているのは、でっぷりと太った年配の黒人女性であった。歩行がままならず、片足を引きずるように歩いていたが、口だけは達者に動いた。

 彼女は早口で怒ったように喋るけれども、悪い人でないことは一目で分かった。

 僕らは並んで窓辺から中を覗いた。何やら料理をしているらしい。

「ほんとに不器用なだね。あー、ちょっと貸して。こうやるんだよ。いいかい?」

 マチルダから包丁を取り上げ、手際よくまな板の上でオクラを刻む。小気味よい音とともに、ねばりけのあるオクラがしだいに山になっていく。

 あらかじめ用意された大鍋の中に、たまねぎ、人参、ニンニク、とうがらしや胡椒こしょう、鶏肉や魚貝類などとともに、切ったばかりのオクラが放り込まれた。ごった煮のスープのようである。火にかけられ、しばらく経つと、コクのあるよい香りが部屋中に漂ってきた。

「うまそうな匂いだね……」

 窓辺にまで立ち込める香りに、僕とチュン太は鼻をクンクンさせた。

「さあ、出来上がり。うちのは辛口だから、火傷やけどしないように気をつけて。ほら、味見してみな」

 差し出された小皿に口をつけると、マチルダの顔が輝いた。

「……おいしい!」

 太ったおばさんは満足そうに笑う。

「これがエリオット家の『ガンボスープ』の味だ。これからはお前がこの味を守っていくんだよ。もっとも、慣れてきたら多少の手ごころを加えてもいいがね」

 主人の帰宅にあわせて、夜はガーデン・パーティーが開かれるらしかった。ガンボスープのほかに、野菜サラダやカボチャのパイ、インゲン豆の煮物、とうもろこしパン、甘辛く煮たポーク・スペアリブ、山盛りのフライドチキンなどが次々と用意された。その手際のよさに、マチルダは舌を巻いている。

 夕方になった。

 近くを流れるミシシッピ川の水面みなもに夕日が落ちるころ、エリオット家の庭にはたくさんの角燈ランタンが灯された。料理が並べられたテーブルの周りへ、だんだんと人が集まって来る。英国風のくたびれた背広の男たち、おめかししたドレスの女たち、孫に手を引かれ、よろよろと歩く老婦人もいる。みんなエリオット家の親類縁者なのであろう。

 また、カウボーイの格好をした使用人や、古参らしい黒人たちなど、農作業に従事する労働者も招かれていた。大規模な家族経営による農園プランテーションの様子がうかがわれる。

 会場が整ったころ、一台の馬車が巨木の陰から姿を見せた。主人が到着したらしい。

 降りて来たのは、ステッキを持ってはいるが、まだ四十格好の、いかにも颯爽とした紳士であった。口にたくわえた髭と同じく、ステッキは伊達だてのようである。

「やあ、みんな待たせたね。さっそく始めようじゃないか」

 紳士は被っていた山高帽を御者にあずけると、そのままパーティーの輪に参加した。

「エリオットさま、お帰りなさいませ」

 みんなはそれぞれの手に、お酒やジュースの入ったグラスをかかげ、主人の帰宅を祝って乾杯した。

「なかなか商談が終わらなくてね。ウチの綿花をぜひ欲しいという相手が列をなす始末だ。みんなには申し訳ないが、もう少し精を出してもらうよ。いまが書き入れ時だ。いや、私がこうして忙しくしていられるのも、みんなのお蔭だな。今日は君たち労働者のためのパーティーだ。大いに楽しんでくれ」

 そう言ってエリオット氏は、もう一度グラスを高く突き上げた。

「いい主人みたいだね……」 

 僕とチュン太は囁き合った。

 みんなは料理のテーブルを囲み、それぞれ好きなものを自分の皿によそった。子供たちはチキンの丸焼きの前でぴょんぴょん飛び跳ねている。

「ナンシー、いつもご馳走ありがとう。お前の料理を見ると、うちに帰って来た気がするよ」

 主人に労をねぎらわれ、頬を赤らめた太ったおばさんは、ナンシーという可愛らしい名前であった。もっとも、その発音が「ネーンスィ」という風に聞こえるので、僕とチュン太は何度かそれを真似し合った。

 エリオット氏は、赤ん坊を抱くマチルダの姿に目を止めると、うやうやしく右手を差し出した。

「君がランパードさんのところの、よく出来た娘さんだね。どうぞよろしく」

 マチルダは、握手という習慣に慣れていないのと、主人が気安く話しかけてくれたことに狼狽し、弱々しく手を握り返した。

「男の子の名前はなに?」

「……マイケルです」

 エリオット氏は赤ん坊の顔を覗き込み、小さな頭を撫でながら言った。

「どうぞよろしく」

 うたげはしだいに盛り上がりを見せ、場の雰囲気は打ち解けて行った。

 テーブルの料理はみるみる減って行った。したたかに酒に酔う者も現れた。中には腕相撲を始める男たちもいる。

 エリオット氏はグラスを片手に、ざっくばらんにみんなの話の輪に加わった。ときには自らが一番大きな笑い声を上げた。

 マチルダも、ナンシーに背中を押され、遠慮がちに料理を口にする。

 みんながそろそろ満腹してきたころ、どこからともなくバイオリンを持った男と、バンジョーを持った男が現れ、陽気な音楽をかなではじめた。バイオリンは大衆音楽では「フィドル」と呼ばれるのを僕は知っていた。

 のっぽのフィドル弾きが曲芸のように踊りながら音を出すと、太っちょのバンジョー弾きが即興のフレーズでそれに応える。

 最初ゆっくりしたメロディーが、手拍子とともにしだいに早くなり、酔いも手伝って会場は興奮の渦に巻き込まれて行った。

 そのうち、お調子者の夫婦が芝生の中央に歩み出て、腕を組んで軽やかに踊りはじめた。みんなから笑い声が起きる。子供たちは庭のすみで満腹したおなかを比べ合っている。

 僕らも、テーブルからこぼれ落ちた料理のかけらを、まるで行儀の悪いカラスのようにむさぼりあって食べた。

 見るとマチルダは、眠りについたマイケルを毛布にくるみながら、パーティーの様子を端からぼんやりと眺めていた。その胸にはどんな思いが去来していただろうか。

 テネシー州のにぎやかな夜は更け、森の上には満月がかかっている。どこからかふくろうの声が聞こえる。

 翌朝から、マチルダのてんてこまいの生活が始まった。

 鶏よりも先に起き、裏の井戸で水を汲む。朝食の支度したくをしながら、エリオット家の子供たちを起こす。シーツをベッドからはがし、洗濯して干す。足の悪い老人の部屋へ朝食を運ぶ。赤ん坊にミルクを与え、おむつを替える。食事の後かたづけ、キッチンの清掃。自分の食事は立ったままである。それから、遅く起きて来たエリオット氏にコーヒーをれ、新聞を届ける。寝室の掃除、階段や手りの雑巾がけ、バルコニーのほうきがけ。家畜の餌やり、庭の草むしり。そうこうするうちにお昼になり、昼食の準備にかかる。そして、また後かたづけ。赤ん坊を背負いながら乾いた洗濯ものを取り込み、アイロンをかける。シーツをそれぞれの部屋にもどし、ベッド・メイキング。それが済んだら、ナンシーと近くの市場へ買物に出かける。食材や日用品を買って帰宅。すぐに夕食の準備にかかる。まとわりついてくるマイケルを押さえつけながら、手早く料理をする。学校から帰って来たエリオット家の子供たちを着替えさせ、風呂に入れる。夕食をテーブルに並べ、みずからは皿を洗いながらキッチンで食事をする。そこまで終わると、やっと一と息つけるが、最後にエリオット氏の書斎にバーボンウイスキー、老婦人の部屋へシナモンティーを届け、やっと一日が終わる。

 自分に与えられた小部屋で、ベッドの上に大の字になったマチルダは、くたくたに疲れて、ものの三分もしないうちに寝息を立てはじめる。

 しかし、そのまま朝まで寝られればよいが、途中でマイケルの夜泣きが始まると、もう寝てはいられない。眠たい目をこすりながら、赤ん坊を背中にしばりつけ、主人たちを起こさないよう、夜の庭を散歩することもあった。

 しかし、そんな慌だしい生活にも、しだいに身体からだは馴れて行った。二年が過ぎ、三年が過ぎて、やがてマチルダはエリオット家の立派な一員となった。

 そんな中、これと言って楽しみのないマチルダの暮らしに、ただ一つだけ楽しみと呼べるものがあった。それは教会へ行くことであった。

 親しくなった奴隷仲間や、年老いたナンシーと連れ立って、日曜日ごとに、メンフィスの近くの黒人教会へと出かけた。「日曜日」は、奴隷たちに与えられた唯一の休日であった。

 黒人教会はその名の通り黒人のみが集まる教会で、白人のそれとは異なる独特の雰囲気があった。

 ふだん仕事にしばりつけられている奴隷たちや、奴隷を免除された「自由黒人」たちも集まり、老若男女とりまぜてくつろいだ時間を過ごす。

 僕らも高い窓から覗いてみたが、そこには、滅多めったにみられない黒人たちの生き生きとした表情があった。

 朝早くから集まって来た聴衆は、説教が始まるまでの時間、思い思い、仕事のことや家庭のこと、楽しかったことやつらかったこと、悩みや愚痴などを朗々と語り合っている。ときには顔をしかめたり泣いたりする者もあったが、おしなべて彼らの表情は、積もり積もった鬱憤うっぷんを発散させて清々すがすがしかった。

 そこへ登場したのは、一人の若い黒人の牧師であった。牧師は靴音高らかに壇上へあがり、咳払いを一つしてみんなに語りはじめた。

「みなさん、ようこそお集りいただきました。今日のひと時をみなさんとともに過ごすことを、天の神様に感謝いたします。アーメン」

 一同は静かになった。目をきらきらと輝かせて壇上を見つめている。

「……今日は先週のつづきから始めましょう。神の使者モーゼがとらわれのたみを率いてエジプトを脱出する場面でしたね。覚えてますか?」

 牧師の語り口は、くだけていながらも人をらさない不思議な魅力に満ちていた。

 マチルダも、大きくなったマイケルを膝にかかえ、小さな手足を持ってあやしながら話を聞いている。

「……モーゼは二百万人もの奴隷たちを率いて、エジプトをはなれ、約束の地カナンを目指します。エジプトの王ファラオは、そうはさせまいと軍隊を差し向ける。軍隊が彼らに追いつきそうになった時、モーゼたちの前に立ち塞がったのは、荒れ狂う海でした。さあ絶体絶命。彼らの運命もここまでか……」

 若い牧師の名調子に、聴衆は身を乗り出す。はるか昔のエジプトの奴隷の話を、人々は自らの境遇に重ね合わせて聞いているようである。

「しかしその時、モーゼが高らかに右手を上げると、目の前の海が割れ、波間に大きな道が現れます……」

 客席に、おおっ、というどよめきが起こる。

「……モーゼと奴隷たちは悠々とその道の真ん中を通って、向こう側へ渡ります。そして、すべてのヘブライ人が渡り切ったとき、海はまた元に戻り、追いかけて来た軍隊を波に押し流します」

 黒人たちから歓声が上がる。立ち上がって拍手をする者もいる。

「……語り上手だね。まるで映画のクライマックスみたいだ」

「学校の授業もこうだといいね」

 若い牧師は聴衆の反応を見ながら、ときどきを置いたり、抑揚をつけたりして、しだいにそれはふしのついた歌へと発展して行った。

「あなたがたは日々、どんな困難につつまれようとも、ときに神の声に耳をすまし、つねに未来を見つめなければなりません。そうすれば、かならず聞こえてくるでしょう。誰かがあなたを呼ぶ声が……

 Hush, hush, Somebody’s calling my name ....

 耳をすませば 誰かがわたしを呼んでいる

 Hush, hush, Somebody’s calling my name ....

 耳をすませば 誰かがわたしに話しかける……」

 聴衆は陶然と目を閉じている。そして牧師の歌声に合わせ、自然と体を揺らし、自らも唇が動きはじめる。

 だれも知らない 私の悲しみ

 神さまだけが知っている オー、ハレルヤ!

 だれも知らない 私の苦しみ

 神の愛に栄えあれ オー、ハレルヤ!

 うしろに控えていた聖歌隊が足でリズムを取り、牧師の呼びかけに応えるように、重厚なコーラスを響かせる。しだいにテンポは上がって行く。

 いい時も 悪い時も

 晴れの日も 雨の日も

 私にふりかかるすべての苦しみを 

 神さまだけが知っている オー、ジーザス!

 やがて澄んだ音のオルガンが鳴り響き、礼拝堂は異様な雰囲気に包まれる。いつのまにか総立ちになった聴衆は、しだいに早くなるリズムに合わせ、手を叩き、足を踏み鳴らす。体は自然に動き、うらはくで手拍子が入る。あたかもそれは、遠い故郷、遠い先祖の血が騒ぐといったふうに。独唱者ソリストが叫ぶような声で自由なアドリブを加えると、興奮はさらに高まる。牧師の声はしだいにコーラスにうもれ、いつしか大勢の一人となり、最後は客席も一緒になって教会中が割れるような大合唱となった。

 僕とチュン太は、互いの声が聞こえないので、耳元で叫び合った。

「……まるでロック・コンサートみたいだね」

「ここからブラックミュージックの歴史が始まったんだね」

 それからさらに一時間ほど、みんなが知っているレパートリーが数曲かなでられ、興奮のうちに集会は幕を閉じた。

 黒人たちは晴れやかな顔でぞろぞろと教会を出て行く。牧師はニコやかにそれを見送っている。

 マチルダも、よちよち歩きのマイケルの手を引いて帰路につく。

 そのとき、牧師がふと追いかけて来て、マイケルに何か銀色に光る小さなものを握らせた。ハーモニカであった。

「……楽器は一生の友だちだからね。決して君を裏切らないよ」

 牧師の微笑みを、マイケルは大きな瞳で見上げた。

 黒人たちはつかの間の安息を得て、またそれぞれの過酷な労働の日々へと戻って行く。

 秋になった。綿花農園は収穫の季節である。

 エリオット農園プランテーションでも、黒人奴隷数百人による綿花摘みの大作業が始まった。

 僕は初めて知ったのだが、綿花というのは花ではなく、腰の高さくらいの木に本物の花が咲いたあと、できたがポップコーンのようにはじけて、まるで花のように枝にくっついているのであった。それをなるべく夾雑物きょうざつぶつが混じらないよう、一つ一つ丁寧に手で摘み取ってゆく。単純だけれど、とても手のかかる作業であった。

 黒人たちの黒い指で、白い綿花が摘み取られてゆく。あるいは中腰のまま、あるいはしゃがみ込んで、整然と一列に並び、労働はつづけられる。彼らのかごはしだいに綿わた菓子のような綿花でいっぱいになって行った。そのうち作業のペースが落ちると、誰かが自然と歌を口にした。あとの者がそれに続く。黒人たちの唇には、思えばどんなときにも、常に「歌」があった。

 綿花が

 つまれるのを待っている

 まっ白なおべべを着て

 かわいい綿花が

 つまれるのを待っている

 まっ白におめかしをして

 綿花たちは

 いつかお姫様になる

 オレたちの

 まっ黒な手でつまれて……

 奴隷たちが、ときにユーモアを交えて明るくふるまうのは、そうでもしないと気が滅入ってしまうからなのだと、僕は思い至った。そして、歌のもつ力をあらためて実感した。

 彼らに摘まれるのを待っている綿花たちが、傾きかけた夕日の中で、まるでお姫様のように、しとやかに地平線まで並んでいる。

 二年が経ち、三年が経ち、マイケルはたけのこのようにすくすくと成長した。ときには大人たちに混じって、畑を耕したり、綿花摘みの手伝いをした。彼の楽しみは、仕事のあと、牧師にもらったハーモニカを、ひとり木陰で吹くことであった。僕とチュン太はミシシッピ・デルタで一番のかしの木に止まって、マイケルの成長を観察した。

 彼の背丈が母親を追いこす頃、マイケルは農場専属の御者ぎょしゃを任されるようになった。エリオット氏のお伴をして、メンフィスやセントルイス、ナッシュビルやシカゴの街まで馬車を走らせた。

 そしてアメリカを二分して戦われた南北戦争をはさんで、リンカーンの奴隷解放宣言が出されたあとは、黒人も通行証さえあればどこへでも単独で旅行することが出来るようになった。彼は、頭に白いものが混じるようになった母親のマチルダを連れて、彼女の故郷のアラバマや、父親のチャドがついに辿り着けなかったアトランタへの道を馬車で飛ばした。

 多くの奴隷たちは、解放されたあとも、けっきょく希望するような職を得られず、もとの農場で小作人として働きつづける者が多かった。その暮らしぶりは、実のところ解放前とあまり変わらない「赤貧洗うが如き」ものであった。

 マイケルは御者としての経験を生かし、メンフィスに独立事務所をかまえ、運送業を起こした。人なつっこい性格の彼は、取引先でもよく先方の気に入られ、事業は軌道に乗った。

 そしていつしか、契約先で知り合った娘キャサリンと結婚し、一児をもうけた。サニーと名付けた。

 祖母のマチルダと彼マイケル、妻のキャサリンと赤ん坊のサニーは、ミシシッピ川を見下ろす丘の上の家で平凡に暮らした。 

 マイケルはひょろひょろと背が高く、いつも笑っているような顔が、どことなく僕の友達の信ちゃんを思わせた。

 気のやさしい彼は、息子のサニーを特別に可愛がった。休みの日はいつも息子を外へ連れ出し、鬼ごっこや輪投げをして遊ばせた。

 僕とチュン太はまっすぐに伸びた庭の木に止まって、その光景に目を細めた。

 長身のマイケルがサニーを肩車すると、ぐっと視界がよくなった。曲がりくねったミシシッピも、はるか遠くまで見渡せた。サニーは手を叩いて喜んだ。

 おそらくサニー坊やにとって、父親のマイケルは、この庭の木と同じくらい、大きく見えたに違いない。

 マイケルの作った運送会社『アリゲータ商会』は、地元では知らない者がいないほど繁盛し、支店を二つ構えるようになった。所有する馬車も二十台に増えた。しかし、マイケルが「黒人」であるという理由で、暮らしの上での風当りは相変わらず強かった。

 あるとき、四歳になったサニーを連れて、マイケルは息子に専用のハーモニカを買い与えるため、ナッシュビルにある楽器店を訪れた。

 手ごろなハーモニカを選んでやり、カウンターに向かったところ、白人の店主はちょうどピアノの楽譜を買いに来た白人の家族につきっきりになり、マイケルとサニーを無視した。

 マイケルはしばらく待ったが、いっこうに応対される気配がない。「エクスキューズ・ミー!」彼は大きな声で店主を呼んだ。店主はマイケルを睨みかえし、明らかに侮蔑ぶべつ的な態度でしぶしぶ応対した。この緊張したやり取りをこわごわ見ていたサニーは、無事ハーモニカを手にして店を出ると、父親の顔を見上げ、その大きな手をしっかりと握った。マイケルはニッコリと笑って息子の頭に手を置いた。

 マイケルは商用で各地を旅するとき、きまって息子のサニーを御者台へ乗せてやった。そして、自らも横に座ってハーモニカを教えた。

「いいか、サニー。こういう風に、吸ったり吹いたりすると、音が出る。やってごらん。……そう、そう、上手だ。右へ行くほど音は高くなり、左へ行くほど低くなる。これでどんな曲でも吹ける。むずかしいのは、ねらった音を出すことだ。なるべく口をすぼめて、舌で当たりをつけ、細く、強い息を吹き込むんだ。分かるか」

 サニーは言われた通りやろうとするが、出て来る音はいくつかの音の混じった、しまりのない広がった音であった。

「……こうやるんだ。いいかい」

 マイケルが自分のハーモニカを掌で包むように構え、一呼吸おいて吹きはじめたのは、美しく澄んだ、哀調を帯びたメロディーであった。

 僕らはほろの上で耳を澄ませ、流れゆくアメリカの風景を見つめながら、その音色に聞き入った。二人を乗せた馬車はゴトゴトと、土煙りを上げて田舎道を走る。

「……こんな感じだ。いい気分だろう。でもサニー、ときにはお前みたいに、自由気ままに吹いてもいいんだよ。リズムに乗って吹けば、それなりの曲になる。やってみようか、こうだ」

 マイケルは体を揺らしながら楽しそうに、即興で陽気な曲を奏でた。広がった音も自然な和音になり、そこから流れ出るのは、軽快でご機嫌なメロディーであった。

「それならボクにも出来るよ!」

 サニーはうれしそうに自分のハーモニカを口にあて、可愛い唇を尖らせながら、父親にあわせて体を揺らした。

 二人は御者台に並んで座り、いつまでもいつまでも、まるで会話をするように、ハーモニカを吹きつづけた。

 マイケルが忙しく各地を飛び回っているあいだ、丘の上の家では妻のキャサリンが、年老いたマチルダを助け献身的に家事をこなした。マチルダは足を悪くして以来、家に閉じこもることが多かった。晴れた日に、家族全員分の洗濯ものを干すキャサリンの姿は、まるで若いころのマチルダを思わせた。

「いつも悪いねえ。お前が働き者でよかったよ」

 何も出来ないマチルダは、せめてものお返しにと、かつてナンシーに教わったガンボスープの味をキャサリンに伝えた。

「うちのは辛口だから、火傷しないようにね。さあ、飲んでごらん」

 一口味見をしたキャサリンは目を丸くした。

「お義母かあさん、おいしい!」

 マチルダはシワのふえた顔を満足そうにほころばせた。よい香りが庭の木のところまで漂ってきて、僕らは鼻をクンクンさせた。

 そんな若妻のキャサリンに、ある日、悲しみが訪れた。

 夕食のあと、マチルダの部屋へダージリン・ティーを届けに行ったキャサリンは、揺り椅子にもたれたまま眠っているマチルダを見つけた。起こさないよう、膝かけを掛けてやり、そっとテーブルにお茶を置いて立ち去ろうとしたが、マチルダの様子がいつになくおかしい。ふたたび近寄って顔を覗き込むと、マチルダはすでに息絶えていた。

 夫のマイケルはその日留守で、息子のサニーは就寝中であり、家族にマチルダの死が知らされたのは翌日だった。

 キャサリンは帰宅した夫に抱きつき、泣きながら事の成り行きを伝えた。マイケルは帽子を脱ぎながら「そうか……」とつぶやき、とくに取り乱す様子はなかったが、やがて力なく肩を落とした。

 小さいサニーは何がどうなったのか理解できず、柱の陰で呆然と父母のありさまを見ていた。生まれて初めて親しい者の死に遭遇する彼は、その大きな喪失感をうまく呑み込めていない様子であった。僕はチュン太が冷たくなった時のことを思い出していた。

 チュン太もじっとその光景を見つめている。

「いろんなことが、もう、どうでもよくなって、いい思い出だけが残るんだよね……」

 チュン太はおだやかに鼻をすすっている。

 よくいたずらをして祖母に叱られたサニーは、そんなすべてをも今は水に流して、一つの火が消えてしまった寂しさに、唇を噛んで耐えているようであった。

 葬儀の日は雨であった。傘をさした一行が、マチルダのひつぎをかついでぞろぞろと墓地へ向かう。葬列にはトランペットや鼓笛隊などの楽団も加わった。彼らの奏でる音楽は、どちらかと言うと悲しみの日にふさわしくない「陽気」なものであった。

「……ずいぶん明るい感じだね」

「天国へ送り出すことを喜んでるみたいだね」

 墓地へ辿り着いた一行が、深く掘られた穴を取り囲み、年老いた牧師が祈りを捧げはじめる。

 白髪の混じるその牧師は、よく見ると、かつて小さかったマイケルに、ハーモニカを与えたあの歌の上手な牧師であった。

 立派に成人したマイケルは、母の死にも気丈さを見せ、集まった人々に笑顔で挨拶をした。しかし、いざ棺の蓋が閉じられ、深い穴の底へ沈められる段になると、まるで子供のように棺に取りすがって泣いた。

 サニーは母親に手を引かれながら、おそらく生まれて初めて見るであろう父親の涙を、少し驚いた顔で見つめている。

 一つの灯火ともしびが消え、寂しくなったマイケルの家に、やがてまた一つ、新たな蝋燭ろうそくの光が灯った。明くる年、サニーに妹が生まれた。

 七歳になったサニーは、同い年の白人の子供のように学校へは通わず、母親の家事を手伝いながら妹の子守りをした。

 寝ている妹の顔を覗き込み、起きるのが待ちきれないように、やさしくハーモニカの音を聞かせる。妹は兄のハーモニカで目を覚ました。母親はサニーをたしなめながらも、そのきらきらした音色に頬をゆるませた。

「いい家庭じゃないか……」

 チャドが見たらどんなに喜ぶだろう、と僕は想像した。アフリカから連れて来られ、この地に骨を埋めたことが、結果としてよかったようにさえ思えた。

「いや、いや、ぼんちゃん。そう上手くはいかないんだよ。黒人の幸せを素直に喜ばない人々がいる」

 チュン太は沈んだ顔でため息をついた。

「……白人の中には、自分たちが苦労して作って来た文明の中に、黒人が進出するのを嫌がる連中がいる。かつて奴隷だった彼らと、肩を並べるのが面白くないんだね。何かにつけイヤがらせをしたり、暴力をふるったり、ときには殺害したりしたんだ。人間のどうしようもなく醜い部分だね」

 僕はいつかケンゾーが言った言葉を思い出した。

 人にやさしくするためには、自分は強くならなければならない―――

 雨の中、彼はひとり黙々とトレーニングに励んでいた。「強さ」を「やさしさ」にかえることの難しさを、僕はあらためて思った。

 チュン太の目はさらに真剣であった。

「……暴力を取り締まる法律も整備されていないから、ほとんど、白人たちのやりたい放題だったんだ。いまだ平等な社会にはほど遠かったんだね。ちょっとその様子を見てみようか」

 僕らは曲がりくねったミシシッピに映る太陽を見下ろしながら、一路メンフィスの町へと飛んだ。

 夕闇せまる街角には、そろそろ店じまいを始める家々が軒を並べていた。マイケルの経営する運送会社『アリゲータ商会』は、目抜き通りから少し離れた路地の一角に事務所をかまえていた。稼働を終えた馬車が十台ほど、うらの敷地に並んでいる。事務所の窓を覗くと、マイケルが一人残って、机の上でなにか作業をしている。カレンダーを睨みながら、しきりに帳面に書き込みをしているようだ。その余白にはびっしりと今後の予定が書かれている。

「ダグラスさんのところへは、二台用意しないとダメか。そうすると、ヘンリーさんのところへ持って行く馬車がなくなるぞ。いや待てよ、時間をずらしてもらえば何とかなるか……」

 鉛筆を舐めながら、マイケルは独り言をつぶやいている。

 とそこへ、人のいないはずの車庫の方から何か激しい物音がした。

 僕らはもう一度、車庫の方へ回ってみた。

 暗闇に目を凝らすと、いつ、どこから集まって来たのか、無気味な白装束の男たちが大勢、馬に乗ってマイケルの事務所を取り囲んでいる。とんがり帽子に覆面をつけ、顔が分からないよう目だけを出したその姿は、まるで古典的な幽霊のようである。総勢二十人はいるだろうか。松明たいまつを手にした者もある。

「KKKだ」

 KKKクー・クラックス・クラン―――

 チュン太が言うには、「白人至上主義」を掲げるその集団は、おもに羽振りのいい、目障めざわりな黒人たちを狙って、見せしめに乱暴狼藉ろうぜきをはたらくテロリストたちであった。

 中の一人が目くばせをすると、棍棒を持った男が停まっている馬車に近づき、思い切りそれを振り下ろして荷台を壊しはじめた。ほろには穴があき、金具は飛び散り、木材はこなごなになった。はずれかけた車輪にさらに一撃を加えると、馬車はしだいに傾き、支柱が取れてぐしゃりと横倒しになる。別の男が崩れ落ちた屋根に飛び乗り、ところ構わず鉄棒でメッタ打ちにする。馬車はすでに乗り物の形を留めず、あっという間に、見るも無惨なスクラップにされてしまった。

 取り囲んでいた男たちは互いに目を見合わせ、一斉に残りの馬車に襲いかかった。ある者は金槌かなづちを振り上げ、ある者はくわを突き刺し、つぎつぎと馬車を打ち壊して行く。暗闇に砂ぼこりが舞い、馬車の崩れ落ちるバキバキという音が夜空にこだました。

 ただならぬ物音に気づき、マイケルが窓辺に駆け寄ってカーテンを開けると、そこには目を疑うような光景があった。

「あっ……」

 マイケルは思わずドアを開けて飛び出し、そこにいた無法者たちの所業を呆然と眺めた。

 リーダー格の男がマイケルの姿に気づき、仲間たちに合図をする。一味は武器を手にしてマイケルの方を振り向いた。

「あぶない。逃げて!」

 僕たちはマイケルの周りを飛び回って騒ぎ立てた。

「な、なにをしている!」

 マイケルがふるえる声でそう叫んだとき、白装束の男たちはゆっくりとこちらへ歩みを進めた。そして彼を取り囲むと、それぞれの武器を構えた。

 リーダーが一歩あゆみ出て、二つ折りにした鞭をパチパチと鳴らしながらマイケルに近づく。

「なかなかの繁盛ぶりだな、黒ん坊ニガー。しかし、そろそろ身のほどをわきまえる頃合ころあいかもな……」

 二人の男がマイケルを強引に両脇から押さえ、柱のもとへ連れて行って後ろ手にロープでしばりつけた。マイケルははりつけにされる格好となった。

 辺りに人影はなく、青い月だけがメンフィスの夜空にかかっている。

 月明りに照らされたマイケルの顔は、やはり幼なじみの「信ちゃん」によく似ていた。しかし、持ち前の人なつっこい微笑は、彼の顔から消えている。

「お前らには昔から、これがよく似合うな」

 リーダーは大きくしならせた鞭を、いきなり柱めがけて振るった。ビュンという音を立てて、太い鞭はマイケルの方へ飛んで来たが、目標をわずかにれ、となりにあった椅子をこなごなにした。男は鞭の威力を確信し、ニヤリと笑った。僕らはどうすることも出来ず、ただただ歯噛みした。

「今度ははずさないぞ。覚悟しろ」

 さらに大きな動作で振りかぶり、男は力を込めて二発目の鞭を振るった。うなりを上げる鞭は、刃物のような獰猛さでマイケルの顔面をとらえた。血しぶきが地面に飛び散り、マイケルはがくりと項垂うなだれた。僕は思わず目をそむけた。

 長身のマイケルは柱に縛りつけられたまま、ぐたりと崩れ落ち、しゃがみ込む姿勢で気を失った。

 覆面の男はそれでも容赦なく、動かなくなったマイケルに二の鞭、三の鞭を加えた。何度目かにグシャリと鈍い音がして、マイケルは仰向けに白目をむいた。どこかの骨が折れたのかもしれない。

「……思い知ったか、黒ん坊。あまり大きなツラするんじゃねえぞ。ふん、アリゲータ商会だ?お前がワニのエサになれ」

 男はとどめとばかり、ワニのかたちをした事務所の看板をハンマーで叩き割り、仲間を率いてようやくその場をあとにした。お化けのような集団はめいめい馬にまたがり、ひづめの音高らかに夜の闇に消えて行く。

 気を失ったマイケルが死んではいないか、僕らは周りを飛び回って必死に声をかけた。

「しっかり、マイケル!」

「聞こえるかい!」

 僕らの呼びかけに、マイケルは答えない。

 それから数時間後、夜回りの保安官が負傷した彼を発見し、急いで縄をほどいてやった。マイケルはかろうじて自宅の住所を口にすることが出来たので、保安官の馬に同乗し、丘の上の家まで運ばれた。

 家から出て来たキャサリンは血まみれの夫を見てあやうく失神しそうになった。しかし、保安官から彼を引き取ると、長身のマイケルの肩を支え、やっとのことで寝室まで導いた。

 彼女はマイケルの血と汗を拭いてやり、傷口に薬を塗った。マイケルの右目は閉じられたまま開かず、左腕はだらりと垂れ下がって動かなかった。

「……ありがとう、キャサリン」

 マイケルはようやくそう呟くと、そのままベッドに倒れ込み、意識を失った。

 ドアの陰では、まだ起きていたサニーが、まるで金縛かなしばりにあったように、身を固くして見ていた。

 彼は父親に何が起こったのか、はたして理解できたであろうか。ただ彼にとって、あんなに大きな存在であった父が、見るに耐えない、こんな姿で戻って来たことは、はかりしれないショックであったに違いない。サニーはしくしくと泣き続けた。

 夜更けになっても寝られないらしく、サニーはハーモニカを持って月明りの庭へ飛び出した。そして木の下にしゃがみ込み、寂しくそれを吹いた。

 サニーの奏でるハーモニカのメロディーは、かつて父親が馬車の上で吹いてみせた、あの物哀しい曲であった。それは、この狂った社会の、ゆがんだ夜の闇に、この上なく切なく響いた。

 サニーが十二歳になったとき、マイケルのアリゲータ商会は、その輸送手段を、馬車からすべて自動車に切り替えた。ただし、マイケル本人は、右目を失明したのと、左腕が思うように動かないのとで、自ら飛び回ることは断念し、もっぱら経営に専念した。支店はすでに四つに増えていた。

 従業員はおもに農場あがりの黒人たちであったが、中にはあまり裕福でない白人の子息もいた。サニーは幸いにして、快活な少年に成長していた。

 あいかわらず父親にくっついて仕事場を訪れ、事務所を遊び場にしていた彼は、ときどき洗車の手伝いをして小遣いを稼ぐこともあった。

「サニー。おつかれさん!」

 ある夏の日、サニーがバケツの水を派手にぶちまけ、いたずら半分ボンネットに虹が出来るのを楽しんでいると、仕事を終えたらしい白人の青年が、その様子を見つけて声をかけた。

「おや、サニー。虹を作って遊んでるのかい?オレの車もたのむよ。こっちはもっと大きな虹が出来るぞ」

 サニーは青年の顔を見るとすぐに笑顔になった。年は離れているが、どうやら仲の良い友人といったところか。いたずらを見つけられた照れもあり、

「おかえり、ジミー。いいよ!ただし、僕は腕がいいから、洗車代は高くつくよ」

と、目くばせをした。

 ジミー青年は、おおげさに額にシワを寄せながら答えた。

「うーむ。オレはいま慢性的な金欠病だから、サニー商会に頼むのはムリかな。そうだ。そのかわり、こういうのはどうだ。オレが材木でこしらえたギターが昨日完成したんだ。それを見せてやろう。傑作だぞ。見に来るかい?」

 サニーは顔を輝かせた。

「行く、行く!……ようし、そうと決まったら、さっさと終わらせちゃおう。ジミーも手伝って」

「それじゃ取り引きにならないじゃないか」と不平を言うジミーは、それでも気取らない調子で、サニーと一緒に洗車を始めた。

「サニーは、この青年のことが好きなんだね」

と、僕が言い終わらないうちに、チュン太は羽を使って僕の顔に水しぶきをかけた。

「あっ、なにをする」

 僕も負けずに、チュン太の羽に水をあびせた。

 サニーは事務所にいた父親に、遊びに出かけることを告げた。

「早く帰るんだぞ」

 そう答えたマイケルの頭はすっかり白髪になっていた。目には傷跡をかくすための黒眼鏡がかけられている。

 ジミーの家はミシシッピ河畔にあり、材木商を営むらしい家屋の裏手には、そのまま船が発着できるような船着き場があった。

 青年は納屋の鍵をあけ、中から何やらヘンテコなものを取り出して来た。

 僕らも近寄って覗き込んだ。

 丸く切り抜いた木の板に太い釘が打ちつけられ、はりがねのような弦が三本張られている。弦の下に差し込まれた三角の木は、張力を保つためのものであろう。音の高さを変えるフレットはなく、その代わり目印になる貝殻がところどころに貼り付けてある。不格好だが、どうやらギターのつもりであるらしい。

 サニーはひと目見て大笑いした。

「なかなかいい音なんだぞ。こうやって弾くんだ」

 ジミーは笑われてもいっこう気に留める様子はなく、自作の楽器を膝の上にのせ、両手を使って弾きはじめた。

 それは、ビヨンビヨンとも、ボーンボーンとも、クワンクワンとも、なんとも曰く言い難い不思議な音を発した。まるでヒキガエルがヘンなものを呑み込んで思わず吐き出したような音だ。

 それでもジミーはご機嫌らしく、足でリズムをとりながら、デタラメな曲を喜々として弾きまくる。そのうち興に乗ってくると、うなるような声で歌も歌いはじめた。

 サニーは笑い転げて立てなくなった。

 青年が思いつくかぎりのレパートリーを披露していると、母屋おもやの向こうから、サニーと同い年くらいの白人の少年が現れた。ワイシャツにネクタイ、手にカバンを下げているところを見ると、学校の帰りであろうか。

「なんだ。カエルとナマズが喧嘩してるのかと思ったら、兄キのコンサートか……おや、そこで死にそうになっているカエルは、サニーじゃないか」

 サニーは少年を見ると、いきなりふざけて四つん這いになり、ピョンと大きくジャンプした。そして襲いかかるように少年を追い回す。

「やめろ、やめろ。ほら、エサをやるから」

 少年はその辺に落ちていた棒っ切れをサニーの前へ放って寄こす。サニーはそれを手に取り、不思議そうに眺めたり、口にくわえたりしていたが、マズくて食えないという仕草のあと、今度はそれを頭にあて、牛の角に見立ててまた少年を追い回した。

 調子よく歌っていたジミーは、もうだれも注目していないことが分かると、歌うのを止めて少年たちに叫んだ。

「おーい、サニーにテディー。珍しいもの見せてやるぞ。ついて来い!」

 ジミーは自慢のギターを乱暴に放り出し、すたすたと母屋の方へ歩いて行く。こんどは何を見せるつもりであろう。

 サニーは慌ててついて行く。テディーと呼ばれた少年も、投げ捨てておいた鞄を拾い、二人のあとを追った。少年はジミーの弟のようである。

 母屋では、庭に面した一角にジミーの部屋があった。つぎはぎの当てられたガラス窓から中を覗くことが出来たので、僕らは軒下につるされたトウモロコシの陰から、彼らの様子を伺った。

「……ニューオリンズからの船がメンフィスへ着くと、そりゃあ町じゅう大騒ぎさ。いろんな珍しい品物がぞくぞくと水上げされる。こんどオレが手に入れたのは、これだよ」

 そう言ってジミーが少年たちの鼻先で見せびらかしたのは、真鍮しんちゅうでできたベルトのバックルであった。少し大きめの、にぶく光るその金属の表面には、二頭の馬の図柄が彫ってある。

「カッコいいだろう。けっこう高かったんだぞ。でも、オレは字が読めないから、何て書いてあるのか分からない。おいテディー、読めるか?」

 ジミーがバックルを弟の顔の前につき出す。テディーは寄り目をしながらそれを読んだ。

「……スピードを制する者は……アメリカを制する、って書いてあるよ」

 青年とサニーは、おおっ、と声を上げた。三人の中で字が読めるのは、テディー一人であるらしい。

 ほかにも、台の上に並べられたジミーの宝物は、少年たちの心をくすぐるものばかりであった。

 海賊のようなナイフ、外国のコイン、紙まきタバコ、とがったサングラス、皮製の札入れ、スフィンクスの絵柄の酒壜、三段式の望遠鏡、鈍く光るチェーン、そのほか、外国の匂いのする様々な物品の数々が、机上に散りばめられた。それらはみな、ニューオリンズ経由で手に入れたものであるらしかった。

「ふーん、すごいなあ。ニューオリンズか……行ってみたいなあ。どれくらい遠いのかな……」

 少年たちは宝物を一つ一つ手に取って眺めながら、憧れをにじませた。

「蒸気船だと四日はかかる。ミシシッピは曲がりくねっているから、途中までは汽車で行ったほうが早い。南へ南へ、どこまでも進むんだ。もっとも、何をかくそう、このオレも、一度も行ったことはない。どっちみち金のかかる話さ。お前たちには到底無理だよ」

 ジミーは弟からバックルを奪い返しながら、年長者らしくさすがに分別のあることを言った。

 少年というものは、無理だと言われると、余計に憧れが募るものである。しかし、どう逆立ちしても、サニーとテディーにそんなお金があるとは思えなかった。二人はまた深呼吸のあと、うなだれて深いため息をついた。

 すると突然、奥の方から、明らかに酔っ払っているらしい中年男が、部屋のドアをバタンと開けて入って来た。

「……なんだぁ、おめえたち。またガラクタ遊びか。ふん、ばかばかしい。世の中、そんなに甘かぁねえぞ。おい、ジミー。ちょっと、酒買って来てくんねえか……」

 ろれつの回らない男は兄弟の父親であろうか、伸び放題に伸びた髭にうす汚れたシャツ、ベルトの垂れ下がったズボンには小便のシミの跡がある。酒臭い匂いが、僕らのいる窓際まで漂って来た。 

「テディー……お前は立派になってこの家を継ぐんだ。そのために学校に行かしてやってる。なんせ世の中はだ。兄貴の方は、誰に似たんだか、からっきし出来が悪い。お前だけはせめて……」

 そこまで言うと、酔っ払いは座ろうとした椅子にうまく座れず、ガラガラと腰から床に転げ落ちてしまった。ジミーがあわてて駆け寄り、男を助け起こす。

「オヤジ……。あんまり飲み過ぎるといつか大怪我するぞ。おふくろが逃げ出すのも道理だな。世の中甘くないのは分かったから、まずは地道に借金を返そうじゃないか。まったく、どうしようもないな……。テディー、代わりに街へ行って酒を買って来てやってくれ」

 ジミーは父親が握りしめていたしわくちゃのお札をその手からもぎ取ると、弟と年若い友人にそれを託し、自分は酔っ払いの肩をかついで、もと来た部屋の方へ連れて行った。

 サニーとテディーは用を任される形となり、仕方なく表へ出た。テディーの持たされたお札がいくらに相当するのかは不明であったが、二人はそれを広げてみたり、日に透かしたりしながら、川沿いの土手をぶらぶらと歩いた。僕らもあとを追った。

 広い川の水面は茶色く濁っている。

 そのうちテディーはあることを思いついたらしく、いたずらっぽい目でサニーを見た。

「さて―――こいつをどうするかだ」

 サニーもすぐにたくらみを察したようだ。

「……大丈夫かい?」

 酒代に持たされたお金は、少なくとも少年たちにとって、ある程度まとまったお金には違いなかった。

「それがオヤジのためでもある」

 心配そうに見つめるサニーをよそに、テディーはすでに心を決めたようである。「とりあえず町へ出てみよう」

 二人はしばらく、きらきらと西日に輝くミシシッピを眺めながら、長くつづく土手を歩いた。遠くには翳りゆくメンフィスの町が見える。

「学校は面白いかい?」

 サニーがふいに尋ねた。

「面白くなんかないさ」

「じゃあ、なぜ行くんだい?」

「オヤジが行けって言うんだ」

「親父さんは何をやらせたいのかな」

「知らないよ。これからの材木屋は、読み書きが出来なきゃダメだって、口癖のように言ってる。どうだかね……」

 テディーは小石を拾って、川へ放り投げる。

「兄貴のジミーはどうなんだい?材木屋を継がないのかい」

「兄貴は、何というか、とっても親孝行な人間なんだよ。おふくろがまだ家にいたころ、よく夫婦ゲンカの声が聞こえてた。兄貴が割って入るだろ。おふくろは必ず泣き出すんだ。けっきょく金の話さ。オヤジは怒って物に当たり散らす。そんな場面ばっかりだった」

 テディーはさびしそうに微笑む。

「……最初オヤジは、兄貴を学校に行かせようとした。しかし兄貴はガンとして、自分はすぐに働くと言った。そして勝手に働き口を見つけて来た。それがサニーの親父さんのところだ」

 サニーは黙っている。

「……オヤジは、言うことを聞かない兄貴を鼻で笑って、井の中のカワズだと言った。兄貴は何も言い返さなかった……その辺がエライと思うよ」

「カワズって、カエルのことかい?」

 サニーが的外れな質問をした。

「カワズはカエルだ」

「井の中のカワズは、自由がなくて可哀想だけど、ミシシッピのカワズは、とっても自由だ。僕はミシシッピのカワズのようになりたいよ」

 サニーは両手を広げて大きく伸びをした。そして雲を見上げた。

「……うちの父さんがよくお祖父じいさんの話をするんだよ。お祖父さんはアフリカから奴隷として連れて来られて、いつもアフリカに帰ることを夢見てた。しかし結局、帰ることは出来なかった……でも、なにかにつけて『自由』を欲しがったそうだよ。父さんは赤ん坊だったから顔は覚えていないらしいけど、父さんのお母さんがその話をするとき、いつも目がキラキラと輝いてたという。僕に言わせれば、その話をするときの父さんの目が、いつもキラキラ輝いてた」

 サニーの瞳を、テディーは覗き込んだ。サニーはわざとあっかんべえをする。

 白人と黒人の二人の少年は、夕日に照らされた自分たちの影が長く伸びているのが面白くて、かわるがわるカエルのようにジャンプしている。彼らの細長い影も、すばらしく遠くまでジャンプする。

「サニーは運送会社を継ぐのかい?」

 テディーが尋ねる。

「まあ、それもいいかなと思ってる。僕は父さんを尊敬してるんだ―――」

 サニーが土手に伸びた雑草をつぎつぎと手で撫でながら答える。

「しかし、本当のことを言うと、僕は『音楽』がやりたいんだ。黒人の中にも、音楽で食べている人たちがいる。メンフィスのブルースマンたちもそうさ。父さんに連れられてあちこち旅するうちに、僕は路上で演奏する彼らの姿を何度も見た。それほどチップは多くないけれど、道行く人々がみんな立ち止まって聴いている。その顔がとても幸せそうなんだ。音楽はすばらしいよ。日々のイヤなことを忘れさせてくれる」

 サニーはポケットから取り出したハーモニカを口にくわえ、両手でつつんで器用にビブラートをかけながら、軽快なフレーズを吹いた。

 その音はなめらかで堂に入っていた。

「そうか、音楽か……。そう言えば、ウチの兄貴のは、どう見ても下手へたの横好きだけど、サニーにはきっと才能があるよ。いつかチャンスがあるといいね。……実を言うと、僕にも一つささやかな夢があるんだ、笑っちゃだめだよ。僕は将来、作家というものになってみたい」

 テディーは下を向いて照れ臭そうに、しかし思い切って告白したという風に、そう言って上目遣いにサニーの顔をうかがった。サニーは少しも笑わない。

「学校へ行っていろんな本を読むうちに、世界には僕たちの知らない、さまざまな出来事が起きていることが分かった。おやじのセリフじゃないけど、井の中に住んでいる自分の小ささを思い知らされたんだ。かといって、自分に大したことが出来るなんて思っちゃいないよ。おやじに聞かれたら、なんてドヤされるか分からない。だけど、広い世界を見てみたいという気持ちは変わらない。そこに何かが待っているような気がするんだ」

 それからしばらく、二人は無言で土手を歩いた。互いの夢を語り合いながらも、自分たちの置かれている厳しい現実を思い、途方に暮れている様子であった。

 そのとき、メンフィスを目指す彼らとは逆の方向に、川の流れを下って行く船の汽笛が聞こえた。見ると、茶色く濁る水の上を、三階建ての豪華な客船が白い煙を吐きながら滑って行く。後方についた大きな水車でバシャバシャと水を掻くその様子は、その名も高い『蒸気船』であった。

「デキシー・クイーン号だ!」

 テディーがそう叫んで大きく両手を振った。船の方でも乗客たちがデッキから手を振り返している。サニーはハーモニカを口にくわえ、汽笛の音をまねて吹いた。

 ブォォーッ……

 そして船はみるみる小さくなり、やがて川下へと消えていった。

 二人はその姿をいつまでも見送っている。

「……ニューオリンズへ行くのかな」

「どんな所だろう。行ってみたいな、ニューオリンズ……」

 少年たちはため息をつきながら、ふと、互いの顔を見合わせた。そしてほとんど同時に、こう叫んだ。

「そうだ!ニューオリンズへ行こう!」

 彼らはとたんに元気を取り戻し、ぴょんぴょん飛び跳ねながら土手を走った。

 まもなく辿り着いたメンフィスの街は、すでに宵闇に沈んでいた。

「駅はどっちだ」

 繁華街をぬけ、めざす酒屋の前を通り過ぎ、船着き場も越えて、彼らは鉄道の駅を目指した。ジミーに言われた通り、汽車で大陸を縦断するという目論もくろみなのであろう。

 持たされたお金の使い道が決まったようである。

 空から見ると、鉄道の線路ははるかかなた、ミシシッピ・デルタを貫いて南の方へつづいている。うっすらと地平線がかすんで見える。

「二人とも、着のみ着のままで行くのかな?」

「そんな勢いだね……」

 僕とチュン太は少年たちの突飛な思い付きを憂慮した。

 二人は停車中の列車の出発時刻を調べ、まだ定刻まで時間があることを知ると、再び繁華街へ引き返し、一軒の腸詰ちょうづめ屋の前に佇んだ。そしてしわくちゃのお札を広げ、思い切ってソーセージパンを二つ買った。腹ごしらえのつもりであろう。もらったお釣りを掌の上に並べ、丹念にそれを数えて今後の計画を立てる。

「食事以外は節約しよう」

 テディーがパンをかじりながら言った。

「乗り物に払うお金はない」

 つまるところ彼らの計画は、貨物列車に忍び込み、無賃乗車をしながら何とか所持金だけでニューオリンズまで辿り着こうというものであった。

 やがて出発時刻となり、駅員が各車両を点検している。どうやら少年たち以外にも密航者がいるらしく、怪しげな男たちが数人、乱暴につまみ出されていた。

 発車のベルが鳴り、車輪がゆっくりと回り出す。二人は駅員がうしろを向いたすきに物陰から飛び出し、コンテナ車のステップを踏んで鼠のように車両へ飛び乗った。大きな汽笛にまぎれて、駅員に気づかれることなく、列車に乗り込むことが出来た。

 僕とチュン太も、はじめは屋根の上に止まって、一緒に行くつもりであったが、動き始めた汽車の風圧が思いのほか強く、また煙突から吐き出されるすすで体が真っ黒になってしまったので、仕方なく少年たちの乗った車両に無理矢理まぎれ込んだ。真っ黒な体がかえって身を隠すのに好都合であった。

 乗り込んだ列車は殺風景な貨物車両で、中身の分からない大きな木箱がぎっしりと積まれていた。窓はなく、どこからか差し込んで来る弱い光で、かろうじて互いの存在が分かる程度であった。しかし目が慣れてくると、だんだん物の輪郭がはっきりとしてきて、ついには木箱に押された焼印の文字も読めるようになった。〝クラークスデイル行き〟と至るところに書かれていた。

 少年たちは木箱の隙間にしゃがみ込み、しばらくじっと息を殺していた。が、もう大丈夫だと分かると、やがてポツポツと話をはじめた。

「……この列車に乗っていれば、ニューオリンズへ着くのかい?」

 サニーが尋ねる。

「ちがうよ。この列車はクラークスデイルまでしか行かない。ここに書いてあるだろう?」

 テディーは木箱の焼印を指さし、文字の読めないサニーに、その頭文字「C」を教えた。

「この、丸くて切れている文字が〝C〟だ。クラークスデイルの『ク』だ。少しずつ覚えるといいよ」

 サニーは言われた通り、空中に指で「C」という文字を書いた。

 それから二人は、暗闇で互いの顔が見えないのをいいことに、ふだんは話さないような突っ込んだ話―――家族のこととか、将来のこと、好きな女の子の話とか―――を、とりとめもなく喋りつづけた。

 そして自分たちが、鼠のように窮屈な木箱の隙間に折り重なっていることも忘れて、いつしかぐっすりと寝入ってしまった。

 気がつくと朝であった。

 列車は止まっている。

 僕らはなにぶん鳥なので、彼らよりも少し早く目を覚まし、暗い車内から光の差す表へと出てみた。朝の光がまぶしく列車を照らしている。

 広い構内には何本もの線路があり、同じような貨物列車がしずかに並んでいる。どうやらここは、野ざらしの車庫のようだ。僕とチュン太は煤だらけの体をきれいにするため、線路わきのペンペン草に体をこすりつけて朝露のシャワーを浴びた。

 ふと向こうから駅員らしき人間が近づいて来た。帽子を目深まぶかにかぶり、何やら独り言をいいながら、一台一台車両のドアを開けて中を覗いている。後方の車両から順々に点検しているようだ。僕らはあわてて羽をばたつかせた。

「サニー!テディー!早く起きて!つかまっちゃうよ!」

 しかし、僕らがいかに騒ぎ立てても、人間の耳には爽やかな鳥のさえずりにしか聞こえない。

 駅員が一つ前の車両を降りて、いよいよ少年たちの乗る車両のステップに足をかけた。

 少年たちはまだ起きる気配がない。よほど熟睡しているのであろう。駅員がすべりの悪いドアを、思い切り力をこめてガラガラと開けた。

 差し込んだ光に照らされて、木箱と木箱のあいだに、まるでハムスターのように折り重なって寝ている少年たちの姿が現れた。

 サニーがまず目を覚まし、まぶしそうな顔を驚きに変えてテディーの体を揺さぶっている。テディーはなかなか起きようとしない。

 駅員は深くかぶっていた帽子のつばを上げて、この闖入者たちの姿をまじまじと眺めた。

「やあ、なんだ、なんだ。鼠っ子が二匹、こんなとこに紛れこんでやぁがる。しかも白い鼠と黒い鼠だっぺ。どーこから入り込んだがや」

 駅員は人のよさそうな丸い目をパチクリさせた。そして、白い眉毛を上下に動かしながら、ゆっくりとした、ひどくなまりのある口調でそう言った。

「家出でもしてきたがか。ご苦労なこった」

 テディーがやっと目を覚まし、とたんに慌てふためく。

吃驚びっくりせんでもええ。取って食やしねえ。おめえたち、どっから来た?メンフィスの鼠か?」

 二人が身を寄せ合って震えていると、この六十格好の、やせた老犬のような駅員は、のんびり帽子を脱いで汗をぬぐっている。どうやら悪い人物ではなさそうだ。

「はるばるやって来て、どこさ行くつもりだ。金はあんのか。どうせ大して持っちゃおるめえ。まったくこの年頃のガキどもときたら、あと先考えず無茶すんだもんな。親の忠告なんぞ聞きゃしねえ。ウチのガキも、おめえらみたいな頃があったな」

 そう言って一人感慨に満ちた顔をしている。

「……結局、自分が痛い目に合うまで納得せんのがおめえたちだ。しょうがねえな。こっちは金だけ出して、成り行きを見とるしかなかろうが。さあ、さあ、逃げろ、逃げろ。これ持って逃げろ。さあ、さあ」

 駅員はポケットをまさぐって硬貨を何枚か取り出すと、サニーの手にそれを無理やり握らせ、少年たちを追い立てるように列車から降ろした。

 そして、草むらの向こうに続いている金網を指さし、

「ほら、あすこが少し破れとるから、あすこから逃げろ。捕まらんよう、気ィつけるんだど」

と言って、少年たちの背中をポンと押した。

 はじめは躊躇ためらっていたサニーとテディーも、老人の好意をありがたく受け取ることに決めたらしく、示された方向に向かって一目散に駆け出した。

 振り返りながら、「ありがとう、おじさん!」と叫んだが、老人は耳が遠いのか、そのまま何もなかったように、背中を向けてき掃除をつづけている。

 少年たちは、さあ行け、と背中を押されたものの、どの方角へ進んでいいか分からず、しばらくは草むらに立ってキョロキョロしていたが、ひとまず線路のつづいている方へ枕木を辿って歩き始めた。南へ、南へ……。見知らぬ町の朝の風景は、空気がキーンと冷たく、期待と不安でそわそわする感じであった。

 荒涼とした風景の中に線路はどこまでも伸びている。

 次の列車はまだやって来る気配がない。少年たちは日焼けした枕木を踏みしめ、鈍く光るレールの上に乗ったり降りたりして、かれこれ一時間ほど歩きつづけた。

 やがて森の入口に差しかかるところで、彼らはある一つの困った事態に直面した。見張り小屋をはさんで、線路が二又に別れているのだ。行き先を示す看板も出ていない。

「どっちだ」

「どっちだろ」

 少年たちは途方に暮れた。

 線路の上にしゃがみ込み、そのままじっと思案していたが、そのうちサニーが何かを思いついたように言った。

「そうだ!線路を辿るのはあきらめて、川沿いに進もう。川の流れる方へ行けば、遠くてもいつか必ずニューオリンズへ辿り着けるよ。水は低い方へ流れるからね」

 なるほど―――と僕とチュン太もうなずき合った。

 窮地に立たされれば、何かといい知恵が出るものである。

 二人は、そんな当然といえば当然の真理にやっと気がつくと、ふたたび顔を輝かせて立ち上がった。

 線路を降りて土手をくだり、レールと直角に交わる道の上に躍り出る。でこぼこの一本道が畑中はたなかをつづいている。二人は意気揚々と歩いて行く。

 冒険の高揚した気分が伝わって来る。

 しかしまた、サニーが立ち止まってつぶやいた。

「ところで……」

 テディーはサニーの背中にぶつかった。

「川はどっちだ?」

 彼らは辺りを見回し、なるべく民家のありそうな方へ見当をつけて歩くことにした。まずは住人を見つけて道を尋ねるつもりであろう。

 しばらく行くと、いつのまにか田舎の盛り場のような一角へ迷い込んでいた。道の両側には酒壜のマークのついた店が数軒立ち並んでいる。まだ昼間だというのに、中からは音楽が聞こえてくる。営業中のようだ。


  もうこりごりだ

  あの女とはおさらばさ マイ・ベイブ

  もうこりごりだ 

  あの女とはおさらばさ オー・マイ・ベイブ

  でも気が付けばいつも

  俺はあいつのために

  ギターを掻き鳴らしている……


 サニーが背伸びをして窓から中を覗こうとした途端、入口の観音扉がバタンと開き、中から店主に蹴飛ばされた酔っ払いが転がり出て来た。酔っ払いは力なく地面に倒れ込み、立ち上がることが出来ない。

「この野郎!何度いや分かるんだ!金もねえのに、のこのこ来るんじゃねえ。とっとと消え失せろ!」

 店主はそう吐き捨てると、けがらわしい物でも追い払うようにパチパチと手を叩き、また店の中へ戻ろうとした。そのときサニーと目が合ったが、フンと鼻を鳴らしただけで、そのまま勢いよく扉を閉めた。

 少年たちはあっけにとられて立ち尽くした。とても道を訊けるような雰囲気ではない。

 仕方なく次の店を訪ねてみると、ちょうどギターケースを抱えた男が入口から中へ入るところであった。男は長身の黒人で、スーツ姿にネクタイをしめ、頭にダンディーな帽子をかぶっている。

 テディーがすかさず歩み寄り、道を尋ねた。この人なら大丈夫そうだ。

「あの、すみませんが、道を教えて下さい。川の方へ行くには、どう行けばいいでしょうか?」

 学校に通っているテディーは、さすがに礼儀正しい言葉遣いが出来た。

 サニーはうしろで見ていたが、この颯爽としたミュージシャンの出立ちにただならぬ迫力を感じたのか、うっとりと視線を注いでいる。

「坊やたち。悪いがオレもこの町は初めてなんだ。この辺りにいるのは、流れ者のブルースマンか、酔っ払いのどちらかだ。まともな奴は働いてる。店主はたいがい不機嫌だ。どっかよそへ行って訊いてみな」

 男はそう言うと、白い歯を見せてニッコリと笑い、店の中へ消えて行った。少年たちは肩を落とし、とぼとぼと盛り場の界隈をあとにした。

 僕はさっきのブルースマンにどこかで見覚えがあったので、気になってふとチュン太を呼び止め、窓から店の中を覗いてみた。

 うす暗い店内のステージでは、さっきの男がギターを構え、ライトを浴びながらしぼり出すような声で歌を歌っている。

 注意して聴いていると、その曲はなんと、僕がいま練習している「ウォーキング・ブルース」であった!「ロバート・ジョンソンだ!」

 僕はとたんに狂喜して羽をばたつかせた。

 それは、あのエリック・クラプトンが少年の頃に憧れた、ギターの腕前と引きかえに悪魔に魂を売り渡したという、伝説のブルースマンであった!

 さらに耳を澄ますと、歌声と生のギターが、ほんのすぐ近くで聞こえる。


  朝起きて

  靴を探す

  昔ながらの

  ウォーキング・ブルースさ

  朝起きて

  靴を探す

  変わり映えのしない

  ウォーキング・ブルースさ

  気がつけば

  すべてがなくなってた

  なにもかも全部

  おれの彼女も

  みんなそっくり……


 彼の演奏は、型にとらわれない自由奔放なもので、僕が練習しているフレーズとはかなり違った、おそらくは本人がもう一度やったとしても決して同じにはならないであろう、即興性と創意工夫にあふれていた。

 食い入るように見ている僕の背中を、チュン太がパタパタとつついた。

「……ぼんちゃん、そろそろ行こうか?サニーとテディーを見失っちゃうよ」

 うしろ髪を引かれる思いで安酒場をあとにし、すでに見えなくなった少年たちの背中を追った。

 少年たちは荒野の道を歩いていた。

 小一時間ほど歩いたところで、二人は砂埃りの舞う大きな十字路へと辿り着いた。

 だだっ広い殺風景な場所である。

 道の脇には無気味な木が一本、曲がりくねった枝を四方へ広げている。

「どっちへ行く?」

 彼らはふたたび進むべき方向に迷った。

 一方の道は、荒野の先につづいている。

 一方の道は、鬱蒼とした森の中に伸びていて、その先は見えない。

 僕らはその、うす気味の悪い枝に止まるのが何となくためらわれ、少し離れた場所から彼らを見ていた。

 二人が呆然と立ち尽くしていると、いつの間にそこにいたのか、十字路の木の下に、黒いタキシード姿の男が一人立っていた。

 男はシルクハットをかぶり、煙草を二本口にくわえ、埃っぽい場所に似合わず、その靴はピカピカに光っていた。よく見ると、足元には影がない。

 明らかに怪しい男の出現に、少年たちは初めの方こそいぶかしがっていたが、背に腹は代えられず、意を決して男に近づくと、一緒に道を尋ねた。

「あの、ミシシッピ川へはどう行ったら……」

 二人が最後まで言い終わらないうちに、男は耳まである大きな口を開けて豪快に笑い、まるで初めから質問の内容が分かっていたかのように、二人をさえぎってこう言った。

「それはお前たちが、どちらを好むかによる。早いほうがいいか、長い方がいいか」

 サニーとテディーは顔を見合わせ、ほとんど同時に叫んだ。

「早い方が!」

 男はさらに豪快に身をよじって、ようやく笑い終わるとまた少年たちに言った。

「それでは森の道を行くがいい。驚くほど早いぞ」

 二人の少年は近道を教えてくれたことに感謝し、半ば駆け出しながら男を振り返って手を振った。

「助かったよ!おじさん、ありがとう!」

 タキシードの男はねじ曲がった木の下で、しばらくは煙草をふかして笑っていたが、やがて残念そうにこうつぶやいた。

「早い方を選んだか……。あまり急ぎすぎるなよ。お前たちのの話だ……」

 僕らは少年たちのうしろ姿と、木の下に立つ男の微笑をかわるがわる眺めた。少年たちはいさんで森の方へ駆けて行く。男は二人が見えなくなると、やれやれという表情で大きなカバンを開き、無気味に広がった木の枝を、まるで傘を畳むように小さく折り畳んでその中にしまった。そして忽然と空へ浮かび上がり、姿を消した。あとには砂埃りの舞う十字路が茫漠と残るばかりである。

 僕らは寒さに身ぶるいした。

 少年たちの分け入った森は意外にうすっぺらな森で、木と木の間にすでに向こう側が見えていた。明るい陽光のさす方へ、二人が意気揚々と飛び出すと、そこには一見海のように見える、茶色く濁った川が現れた。大きな魚がパシャンと跳ねた。

「ミシシッピ川だ!こんな近くにあったんだね」

 二人は遠くにかすむ対岸の景色を眺めながらバンザイをした。

 ふと見ると、彼らの足元には焚火の跡があり、食い散らかされた魚の骨が無造作に捨ててある。その辺りはちょっとした入り江になっていて、流木や倒木の吹き溜まりであった。さらによく見ると、水面から突き出た立木にひっかかるように、大きないかだが流れついている。

「……なぜこんな所に?」

 二人は顔を見合わせた。

 子供の遊びにしては立派な筏であるし、かと言って漁師が使うには少々つくりが雑である。ひょっとすると誰かが逃亡に使ってここから上陸し、そのまま乗り捨てたものであろうか―――

 いずれにしろ、きちんと係留されていないところを見ると、所有権を放棄されたものであることは確かなようであった。

「よし。この筏で川を下ろう」

 二人は黙ってうなずき合い、つづいてさおかいに使えそうな形のいい流木を探しはじめた。

 そして乗船の準備が整うと、力を合わせて筏を立木から引き離し、川底を蹴るようにして順々に飛び乗った。

 少年たちを乗せた筏はゆっくりと動き始め、しばらくは入り江の中をうろついていたが、やがて安定した流れを掴むと、しだいに速度を増して本流の方へ進んだ。

 二人の顔が輝いた。

「やったぞ!」

 自分たちの乗り物がその本領を発揮し、大いなるミシシッピの上で堂々の勇姿を見せていることに、二人はいい知れぬ感動を覚えているようであった。そして何よりも、それぞれの夢に向かって一歩踏み出したことが、彼らをかつてないほどの興奮で包んだ。

「このまま行ける所まで行こう!」

 少年たちはどこまでもつづく大河の流れを遠く見据え、櫂を動かした。

 僕とチュン太は、川沿いの土手や林の上を移動しながら彼らのあとを追った。

 上空から見るミシシッピはくねくねと折り曲がって、原野に横たう蛇のようである。周囲に高い山がなく、流れは日本の川ほど急ではない。筏が大きくカーブを描き、迂回してまた戻って来るのを、僕らは近道をして待つことも出来た。少年たちが冒険の喜びを味わうように、僕はあらためて自分が鳥であることの自由さを満喫した。

 それにしても、なぜ人間には羽がなく、ひとりで空を飛ぶことも出来ないのであろう。

 僕はふと、そんなことを考えた。

 万物の霊長を誇りながら、鳥のように飛ぶことも出来ず、また魚のように泳ぐことも出来ず、走るのは馬や犬よりも遅い。飛行機や船といった動力の力を借りなければ自分では何も出来ない無力な存在である。神様はなぜ人間を、こんなにも不完全に造り上げたのであろう。あらゆる生き物は、その必要性があってその能力を与えられているはずだ。人間に飛ぶ能力が与えられていないのは、そのということであろうか。

 とすれば、空を飛ぶために飛行機を作り、海を渡るために船を作り、陸上を速く走るために車や列車を作ったのは、すべてことであろうか。もっと言えば、人間の文明そのものが、宇宙の摂理に反する不自然な行為なのではないか―――

 かつて恐竜が滅びたように、神にそむいた人間もまた、いつか滅びる日が来るのであろうか。しかも、そう遠くない将来に。自らが手にした、大き過ぎる力によって―――

 そんなことを考えながら、僕は緑豊かなミシシッピの上空をゆらゆらと飛んだ。

 頭でっかちの悩める鳥―――になっていた僕は、うっかり羽ばたくのを忘れて、いつのまにかチュン太よりも三十メートルほど下の方を飛んでいた。

 あわててバタバタと羽を動かし、また上空まで戻ると、いつの間にか少年たちの筏は豆粒のようになっていた。

 二人は順調に大河を下り、森を抜け、林を越えて、綿花畑の広がるデルタ地帯を南下した。たまに僕らは、彼らのすぐ近くまで降りてみたが、水上から見る岸辺の景色は驚くほど爽快であった。ふだんは端から端まで行くのに数十分もかかる綿花畑が、一瞬のうちに後方に過ぎ去る。水辺で農作業をしている人々が、立ち止まってこちらを見ているのも気分がよかった。自分たちはいま、異次元の別世界にいる。スピードを制し、かつての英雄たちと肩を並べている―――そんな誇らしい気分が、少年たちの胸を満たした。

「みんなこっちを見てるよ」

「知らない顔してれば、家出だってバレないさ」

 彼らは手にした櫂でお互いに水をかけ合ったり、わざと筏を揺らしたり、飛び跳ねたりして楽しんだ。初夏の太陽は、彼らの濡れたシャツをすぐに乾かした。

 水流もおだやかで、いまのところほとんど櫂や棹を使う必要がなかった。大きな流れに任せていれば、いつのまにか違った風景の中にいる。まるで貸切の遊覧船に乗っているような快適さであった。

「あの黒服のおじさんに道を訊いてよかったね」

「神様の使いだったかもね」

 少年たちは自らの計画の順調さに満足した。そして満足すると、今度はしだいに退屈してきた。

「おなか空いたね……」

 思えば、メンフィスの駅で腹ごしらえをして以来、二人は何も口にしていない。

 テディーがふとポケットをまさぐり、所持金を確かめようとした。汽車賃を節約したおかげで、まだ十分の残金と、それに駅員からの小遣いもあるはずであった。

 しかしすぐに、ここが誰もいない大河の上であることに気づき、顔をしかめて舌打ちをした。金はあっても、買い物をする場所がない。

 二人は川の流れを見回し、なにか食べ物を得る方法はないかと思案した。

 いま筏が進んでいるのは雑木林のつづく田園地帯で、飲食店はおろか人家の影もかたちも見えない。

「こんなことなら何か買っときゃよかったね」

「そもそも筏に乗るなんて、考えてなかったじゃないか」

 少年たちは空腹のせいか、いさかいを始めそうになった。

 しかし、言い争っても仕方がないので、さらに目を凝らしてみると、雑木林の切れたところに、何か作物を栽培している畑のような土地があるのが見えた。

「……あそこへ上陸しよう」

 二人は懸命に櫂をこぎ、筏を岸に近づけた。

 ちょうど二本の木の突き出した、筏を停めるのに好都合な場所があったので、棹を使ってうまく着岸し、木にからまったつたで乗り物を固定した。

 筏が流されないのを確かめたあと、二人はつぎつぎと木の枝を伝って畑に上陸した。

 見渡したところ畑は小規模な「菜園」のようで、なにかの作物がごろごろと地面に転がっている。ラグビーボールくらいの大きさのそれは、近づいてよく見ると、細長い形をした西瓜すいかであった。

 少年たちは目を輝かせた。

「しめた!ここはフルーツ王国だ!」

「僕らはフルーツ王だ!」

 辺りに人がいないのを見届けると、めいめいに大きめの西瓜を選び、まずその重量感を味わった。そしてさっそくひじや拳でそれを割ろうと試みた。が、固くてなかなか割れない。そのうち、川べりに転がっていた小ぶりの岩を見つけ、それにぶつけて丸い果実を割った。

 西瓜はぐしゃりとにぶい音を立てて砕け、中からみずみずしい赤い実が顔を出した。

「やった!人間が道具を使い始めた最初だ」

 彼らは互いに喜び合い、そして一心不乱それにかぶりついた。顔をうずめるようにむしゃぶりつくその姿は、まるで獲物に襲いかかるワニのようであった。服が汚れるのも気にせず、二人は顔じゅうたねだらけにしながら、赤い実をむさぼり食った。

「うまーい」

「たまんねえ―」

 一個の西瓜を食べ終わるのに、ものの数秒もかからない。投げ捨てられた皮にはまだ赤い部分が残っているにもかかわらず、次の実にゼイタクに食らいつく。それもまた一瞬で平らげる。たてつづけに二個、三個と彼らは食べ尽くした。よほど腹が減っていたと見える。

 少年たちの食べ散らかした皮のところへ舞い降りて、僕とチュン太は残っていた赤い実をついばんでみた。甘い汁がのどをうるおす感覚が、まさに神の恵みのようであった。思えば僕らもまた、しばらく何も食べていなかった。

 サニーとテディーは、あっという間に西瓜を四個ずつ平らげ、ようやく腹がなると、やわらかそうな草むらに寝そべってぼんやりと空を見上げた。午後の日差しはわずかに傾きかけている。

「ああ、食った、食った」

「うまかった」

 僕らも頭上の木の枝から、大の字になって寝そべる西瓜泥棒たちの様子を微笑ましく眺めた。畑には食い荒らされた西瓜の皮が散乱し、狼藉ろうぜきのあとが生々しかった。

 二人はしばらく放心したあと、むっくりと起き上がり、辺りを見回した。そこには自分たちによって荒らされた畑の無惨な姿があった。

 その光景を見てさすがに気がとがめたのか、二人は困惑した顔で「どうする?」と囁き合った。

「お金を置いていく訳にもいかないし……」

 そして腕組みをして、自分たちの影の映る菜園をまじまじと眺めた。

 そのうちテディーが、「そうだ、思いついた!」と、拳を打った。

「来年もまた実をつけるように、タネをまいておこう。土の中にめて水をかけるんだ」

 サニーもこの名案に賛成した。

 二人は棒っ切れを探し出して適当な場所に穴を掘り、食べ散らかした西瓜からタネを抜き集めてそこへ埋めた。そして、その上に注ぐための水を汲みに岸辺へと向かったが、腹這いになって両手ですくう水はすぐに指の隙間すきまからこぼれ落ちてしまう。

 今度はサニーが名案を思いついた。

「そうだ。人間の糞尿はやしになると聞いたことがある。それならほら、ここにあるじゃないか。ホースまでついてる」

 サニーは自分のへそのあたりを見下ろした。

 二人はわれ先にと畑へかけ寄り、ズボンを下してタネを埋めた土の上にジョボジョボと放尿をはじめた。養分たっぷりの水をかけられた土は、あわれにもブクブクと白い泡を立てている。

 かなりの長い時間、二人は「放水」をつづけたが、やがて勢いも弱まり、最後のしずくを振り落すと、それぞれの小さなホースをズボンにしまった。

 さらに何を思ったか、サニーはうしろを向いて尻を丸出しにしたかと思うと、いきなりしゃがみこんで脱糞をはじめた。テディーの陰になって、ここからは詳しい様子は見えないが、やがて背中ごしにフワリと湯気が上がり、かぐわしい匂いが木の上まで漂って来た。サニーはその辺の葉っぱをむしり取って汚れた出口を拭いた。

 テディーもマネして同じことをする。

 少年たちは満足そうであった。

「今日はいいことをしたね」

「神さまもきっと褒めてくれるよ」

 二人は悪びれずに肩など組んでいる。

 その一部始終を見ていた僕らは、しばらく言葉がなかった。

 いや、正確に言うと、ちょっと前まで彼らと同じ年代であった僕は、彼らほどではないにしろ、かつて似たような悪事を働いた覚えがあるので、男子のバカさ加減に苦笑しただけであったが、チュン太を見ると、彼は少し違った感想を持っているようであった。チュン太は顔をしかめて、やれやれといった表情でドキリとするようなことをつぶやいた。

「ほんとにもう、男の子はしょうがないな。こういうことのつぐないのために、残りの人生を過ごすんだってこと、分かってるのかなあ……」

 チュン太が何げなく言ったその言葉は、だんだん効いてくる毒薬のように、僕の心にじんわりと戦慄をもたらした。

 西瓜泥棒をしたうえ、ふとどきな土産物みやげものまで残してきた二人は、至極満ち足りた顔で筏に乗り込み、ふたたび雄々しく大河へ漕ぎ出した。棹の先で土手を押すと、たちまち筏は流れに乗った。

 西日の反射するミシシッピの川面かわもを、筏はすべるように進んだ。あい変わらず櫂がいらないほど流れはおだやかで、満腹した二人はのんびりと空を見上げ、大きな欠伸あくびをした。そのうち大胆にも、彼らは櫂を放り出し、めいめい筏の上にごろりと寝そべった。頭上にはオレンジ色に照らされた雲が立体感を際立たせ、ゆうゆうと空に浮かんでいる。

 心地よい揺れも手伝って、いつのまにか二人は、どちらからともなく寝入ってしまった。

 少年たちを乗せた筏は、大河の流れに沿って、曲がりくねったミシシッピをゆっくりと南下する。

 僕は子供のころ、蟻ンコを乗せた葉っぱの舟を、近所を流れる玉川上水へ流して遊んだことがある。ふだんは土の上を歩くことしか出来ない彼らを、舟に乗せて旅をさせるという思いつきが、ある優越感を伴って僕をわくわくさせたものだ。舟が波に揺られ、川を下って行くあいだ、僕は林の中の遊歩道を歩き、舟を追いかけた。はじめのうち舟はゆっくりと、僕の歩みと同じ速さで進んだが、そのうち流れが速くなると、いつしかその速度について行けなくなった。そして、走っても追いつけないことが分かると、僕はあきらめて立ち尽くし、小さくなる舟の行方を目で追った。舟はやがて視界から消えた。僕はどうしようもなく憂鬱な気分になった。―――あの舟はどこへ行ったのだろう。ざわざわと流れる川の音だけを耳に残して……

 ミシシッピの上空から、筏に乗って流れて行く少年たちを見て、僕はふとそんなことを思い出した。

 川が右へ曲がれば右へ、左へ曲がれば左へ、流れに逆らわず、まるで木の葉の舟のように、筏は流れて行く。それは流れて行くと言うより、という言葉が近かったかもしれない。なぜなら、何千年も前からそこにある大河の水は、おだやかな表情の中にも、ひとたび機嫌を損ねたら手がつけられないほど、獰猛どうもうな一面をを秘めていたから―――人間が築いた堤防など、訳もなく押し流してしまう圧倒的な力がそこにはある。ちょうど一生懸命築いた蟻の巣を、人間がいともたやすく踏みつぶしてしまうように。

 少年たちが眠りこけている間、川の水は「茶色」から「黒」になり、空は「夕方」から「夜」になった。夕焼けていた雲はほがらかさを失い、分厚く折り重なって不出来な絨毯じゅうたんのようになった。

 上空から見る夜のミシシッピは、まるで暗闇に横たわる大蛇のように無気味にのたうっていた。僕とチュン太はふと「危うさ」を感じ、少年たちを起こすために筏の近くまで降りて行った。旅の疲れから二人は泥のように眠ったままである。そのうち風も出て来た。雲はむくむくと逆巻さかまいている。

 明るい昼間ならまだしも、夜の大河の上を、にわかづくりの筏で、しかも少年たちだけで旅をするのは、やはり無謀な行為であった。僕らは筏に飛び移って羽をばたつかせた。

「サニー!テディー!起きて!」

「大雨が来そうだよ!」

 それでも少年たちは起きようとしない。

 やがて雲の間から稲妻いなづまが光ったかと思うと、数秒おくれて地をとどろかすような破裂音がひびいた。空はいよいよ憤怒ふんぬの形相となった。

 テディーが目を覚ましたのは、大粒の雨がポツリとその頬に落ちた時である。

 彼は辺りを見まわし、いつのまにか立ち込めた雨雲の下で、自分たちがいま筏の上にいること、その筏はまるで何かにあやつられるように、無抵抗に大河の上を流されていることに気づいた。

「サニー!起きろ!まずいことになった」

 少年は友人の体を揺さぶり、事態の急を告げる。

「筏を岸に着けよう。大雨が来そうだ」

 むりやり起こされて寝ぼけまなこのサニーは、「うーん……」と変な声を上げながらムックリと起き上がった。そして不審そうに辺りを見まわした。

「ここはどこ?岸ってどっち?」

 明かり一つない夜の大河は、どっちを向いても漆黒の闇である。二人はにわかに焦りの色を濃くした。

 その上さらに悪いことが起きた。岸を探してキョロキョロするうちに、足元に寝かせてあった二本の櫂のうちの一本を、サニーがあやまって蹴飛ばしてしまったのだ。櫂はボチャリと川へ落ちた。

「あっ!」

 あわててサニーが手を伸ばしたときには、櫂はすでに遠くを流れていた。

 茫然とそれを見送る二人は、仕方なく残る一本の櫂と、長い棹をそれぞれの手にしっかりと握りしめた。

 よく目を凝らすと、暗闇の中にうっすらと陸地の影のようなものがある。

「あっちへ漕ぐんだ!」

 同時にそう叫んだ二人は、それぞれの道具を懸命に動かしはじめた。サニーが櫂をこぎ、テディーが棹をさす。

 しかし、彼らの乗り物はなかなか思う方向に進まない。一本の櫂でバランスをとるのは難しいらしく、同じ所をくるくる回るような動きになってしまうのだ。二人は死にもの狂いで両手を動かした。

 降りはじめた雨が少年たちの苦境に追い打ちをかけた。水面を叩く雨粒が、はじめはパラパラと、のちにボタボタと波紋を広げる。

 濡れたシャツがピタリと痩せた体に貼りつき、思いのほか華奢きゃしゃな二人の体つきを際立たせた。

「くそっ!」

 筏が思いどおり動かないことにいら立ち、テディーは力まかせに棹を川へ突き刺した。

 するとその拍子に、弓なりに曲がった棹はついにボキリと折れてしまった。

 テディーの顔から血の気が引いた。サニーも振り返り、目を見開いている。

 役に立たなくなった棹を投げ捨て、テディーは手で水を掻いたり、足で水を蹴ったりしている。が、もちろん無駄なあがきである。

 雨はさらに激しくなった。水かさが増し、流れが速くなった川の水は、もはや少年たちが制御できるものではなくなっていた。

 濁流に流され、激しく揺れる筏の上で、サニーとテディーは振り落とされないようにするのがやっとであった。立っていることもままならず、しがみつくように四ツん這いになる。筏の上にまで覆いかぶさってくる波は、まるで二人をもてあそぶように、急上昇と急降下をくり返した。僕とチュン太はどうすることも出来ず、雨で重たくなった翼をひたすら動かすのがやっとであった。

 荒れ狂う濁流には色々なものが流れて来る。折れた木の枝や畑の作物はもちろん、物置小屋のトタン屋根のようなものまでが水面に見え隠れしている。これがあの、昼間のおだやかだったミシシッピと変わらぬ同じ川であろうか―――

 お互いの声も聞こえないほど激しい雨の中、僕とチュン太は筏の行く手に、ある黒い大きな物体が立ち塞がっているのを発見した。それは岩であろうか、島であろうか。ふだんは川でない部分にまで広がって流れるミシシッピは、もはや茫洋とした海のようである。

 少年たちの筏はなんとか小さな障害物をすり抜けながら猛スピードで流れて行ったものの、もしこのまま行けば、いずれはあの大きな物体に正面からぶつかってしまうのは明らかだ。そうなったら、にわか作りの筏など一たまりもない。

 僕とチュン太はただ祈るしかなかった。少年たちもきっと、この船旅の思いつきを今ごろ後悔しているにちがいない。あるいは、そんなことを考える分別すらなかったかもしれない。

 筏は刻一刻と、黒い物体へ向かって突進する。

 そしてあと十数メートルというところで、僕らはそれが、岩を積み上げた船着き場の防波堤であることに気がついた。

 しかし時すでに遅く、いよいよ衝突の瞬間が近づいた。僕らは自分たちの安全のために、一気に上空へ飛び上がるしかなかった―――

 バッキーン。

 筏はそのまま防波堤に激突した。すさまじい音とともに空中に舞い上がり、裏側を見せながらひるがえった。少年たちは無力な蟻のように投げ出された。時が止まったように見えた。筏を縛っていたロープは断ち切れ、バラバラになって、ふたたび水面に落下したときには、ただの数本の丸太ン棒になっていた。

 水しぶきを上げて次々と落下する材木の間から、しばらくして少年たちの頭が浮かび上がった。両手を挙げてもがいているところを見ると、幸い命は無事なようである。二人はお互いの姿を見つけ、あらん限りの声で呼び合う。

「サニー!」

「テディー!」

 僕らも、彼らの生存を確認してひとまず安心したが、しかし何ら事態が好転した訳ではない。少年たちと丸太は濁流の中を、同じスピードで流れて行く。二人とも川育ちらしく、泳ぎの心得はあるようであったが、それでも大きな波をかぶるとき、数秒間、体が水の下にもぐって見えなくなることもあった。サニーが辛うじて叫んだ。

「あの丸太に……つかまるんだ!」

 とぎれとぎれに声を掛け合いながら、二人は同じ一本の丸太を目指し、懸命に泳いだ。

 二人の真ん中を流れる大きな丸太に、まずテディーが手をかけた。ゴロリと水の中を回転する丸太を何度か掴みそこねたが、彼はなんとかそれにしがみつき、上半身を水面から出すと、数メートル先を流されている友人の方へ手を伸ばした。

「サニー!もう少しだ。がんばれ!」

 しかし彼自身も、友人の体を引っ張ってやるほど余裕がある訳ではなく、自らのバランスを保つのがやっとであった。サニー自身の奮闘に期待するしかなかった。

 サニーは必死で手をバタつかせ、少しずつ丸太の方へ近づく。ようやくその端に手が届くところまで来ると、渾身の力でそれに飛びついた。テディーが一方の端を押さえていたお陰で、サニーは一度で丸太につかまることが出来た。

 二人がしがみついている丸太は、なおも衰えぬ勢いで流れて行く。もはや誰にも手がつけられなくなった大河は、俯瞰ふかんして見ると、あらゆるものを吞み込んで暴れ回る「竜」のようであった。

 夜はその暗さを増して真の「闇」となった。轟々ごうごうと響く水の音だけが世界にこだまし、まるで自分自身の耳鳴りの音か、あるいは完全なる静寂を思わせる不思議な錯覚へとわれわれをいざなった。

 少年たちを見失わないよう、僕とチュン太は必死に羽を動かしていたつもりであったが、ここへ来てそろそろ自分たちの体力にも限界が来ていた。

 濡れた羽で空を飛ぶのは普段の倍以上の力を要し、ともすれば失速しそうになる。チュン太を見ると、彼は顔をまっ赤にして息を切らし、苦しそうな表情で後方を飛んでいた。

 僕はひとまず少年たちを追うのをあきらめ、チュン太を助けるためにスピードを落として低空へと導いた。見ると濁流の中にそそり立つ鬱蒼とした大樹があり、休養のため一旦そこへ避難することに決めた。

「チュン太、あそこで休もう。これ以上飛ぶのは無理だ」

 意識が朦朧となったチュン太をなんとか木の枝まで連れて行き、安定のいい場所を選んですぐ横にならせた。チュン太は寒そうにぶるぶる震えている。

「ちょっと待ってて。何か栄養になるものを探して来るから」

 僕はジャングルのように枝を広げた木の内側を飛び回りながら、エサのありそうな場所を見つけ、いつか彼に教わった方法で樹皮をつついて中から小さな虫を掘り出した。それを口にくわえ、チュン太のところまで戻る。チュン太は目を閉じてじっとしている。

「さあ、これを食べて。元気になるよ」

 僕はチュン太を促し、口移しに虫を食べさせた。

 チュン太ののどの奥の赤い部分を見たとき、僕は子供のころ、死にそうになったチュン太に必死でエサを与えたときのことを思い出した。

 チュン太はだまって口を動かし、やがて安心したのか、そのまま眠り込んだ。僕はチュン太の肩に羽を被せるように、自分の体温で彼を温めた。チュン太の体はとても小さく、もろい存在に思われた。そしていつしか僕自身も眠り込んでいた。

 大樹の葉を打つ雨音が、夜の間じゅう激しく鳴り響いていたが、翌朝、目を覚ますと、それは打って変わって静かになっていた。うす暗い木の内側には、どこからか日の光が差していた。逆光の中で見ると、僕らと同じように避難して来た鳥たちが、枝のいたるところで身を寄せ合っていた。まるで小鳥のマンションさながらであった。彼らの朝の挨拶が、心地よい大合唱となって、新しい一日の到来を告げている。

 チュン太はどうやら僕より先に目を覚ましていたようである。が、なぜかそのまま、僕の腕の中で軽く眼を閉じ、僕が起きるまでじっとしていた。その頬には心なしか、幸福そうな笑みが浮かんでいる。僕の視線に気がつくと、上目遣いにこちらを見てニッコリとした。

「ありがとう、ぼんちゃん……」

 もうすっかりよくなった顔だ。

「大丈夫、チュン太?元気になった?」

 彼は力強くうなずいて、大きく羽ばたいて見せた。その羽がちょっと僕の顔にぶつかった痛さが、なんとも言えず心地よかった。

 チュン太はなぜかいつまでも、夢見るように頬を赤らめていた。

「さあ、少年たちを探そう!」

 僕らはお世話になった枝に別れを告げ、そそり立つ大樹をあとにし、ふたたび太陽のまぶしいアメリカ南部の空へ飛び立った。

 雨はすっかり上がって、雲一つない晴天であった。しかし洪水のあとのミシシッピは暴れ回った竜の爪痕が生々しく、森林はなぎ倒され、陸地の大部分は泥水にひたされていた。見渡すかぎりのマディー・ウォーターズ(泥水)の世界であった。

「この中からサニーとテディーを見つけるのは、なかなか大変だね……」

 僕らは重たい気分になり、ため息をついた。

 しかしとにかく彼らを探さなければならない。ひとまず、もともと川であったはずの部分を辿って少しずつ南下することにした。

 雨上がりの大地はキラキラと光って、物の判別がつきにくかった。茶色一色の世界の中で、泥まみれの少年たちを見つけるのは困難を極めた。どこか途中で見落としてはいないだろうか。二人は一緒ではなく、バラバラになってはいないか。あるいは、障害物に引っかかって、見えない場所に隠れているのではないか。そもそも見つかったとしても、無事生存しているだろうか。もしかすると、すでに変わり果てた姿になっているのでは……

 と、様々な暗い憶測を振り払って、僕はなるべく少年たちが、二人そろって、元気な姿で見つかることを想像するように努めた。

 もし丸太につかまって一晩流されたとすれば、この辺りまで来ているだろうか、と思われる場所の見当をつけ、僕らは目を皿のようにして探し尽くした。

 そして、かれこれ二時間ほど捜索するうちに、チュン太が何か気になるものを見つけたらしく、僕に向かって叫んだ。

「ぼんちゃん。あれ見て!あんなところに、女の子がいるよ……」

 チュン太の指さす方を見ると、大河の流れが大きく淀み、小さな入り江になっている場所があったが、そこへ向かって赤い服を着た五歳くらいの女の子が、とことこと歩いて行くのが見えた。林のうしろは草の生えた土手になっていて、女の子はいかにも歩き慣れた道という風に、畦道を下りて行く。

「何かあるのかもしれない。行ってみよう」

 僕とチュン太は急降下した。

 増水のあとの川はまだ危険なはずなのに、女の子はためらいもなく、むしろワクワクした調子で、川の方へ近づいて行く。僕らはその小さな背中を追った。

 おさげにした黒髪と、浅黒い肌、刺繍の入った赤い民族衣装は、どうやらインディアンの娘のようである。

 生い茂ったあしの間を抜けると、半月のかたちになった沼地が広がり、水はけのよさそうな砂洲さすには、ところどころ水溜まりが残っていた。川からは少し距離があるが、増水のときにはそこまで水が来ていたであろうことが覗われた。

 女の子は薄い革でできた靴が濡れるのもかまわず、パシャパシャと水溜まりの中へ入って行く。そして急にしゃがみ込んだかと思うと、両手を水の中に入れ、押さえつけるように何かをつかんだ。黒い物体がバシャバシャと跳ねた。女の子はそれを落とすまいと必死に抱きかかえる。どうやら黒い物体は髭の生えたナマズであった。

 見渡すと、周囲の水溜まりには、水が引いたあとに取り残された魚たちが、しきりにその背びれや腹をバタつかせていた。

「分かった!ここは洪水のあとに魚がよく獲れる場所なんだ!」

「それを目当てに来たんだね!」

 僕とチュン太はようやく女の子の意図が呑み込めた。

 大きなナマズを両手にかかえた女の子は、満足げに沼地を横切り、もと来た道へ戻ろうとする。

 しかしそのとき、ふと不思議そうに、水草の茂みの方へ目をった。僕らもつられてそちらを見た。

 すると、大人の背よりも高く伸びた葦の根元に引っかかるように、魚よりもさらに大きな物体が、だらりと横たわっていた。草陰でよく見えなかったが、それは折り重なった人間のようである。

「まさか……」

 僕とチュン太は女の子よりも早く、先にそちらへ向かった。

 茂みの向こうへ回って見ると、それはやはりサニーとテディーであった。二人はピクリとも動かない。生きているのか死んでいるのかも分からなかった。テディーの白い頬には濡れた葉っぱが貼りつき、サニーの黒い腕には赤い血が滲んでいた。ただ二人の手と手は、決して離すまいと誓ったように、しっかりと握られていた。

 僕らより少し遅れて、女の子がトコトコと砂地を歩いてやって来る。そしてしばらくは突っ立ったまま少年たちを見下ろしていたが、やがて二人の顔の近くにしゃがみ込むと、自分の顔を近づけるように覗き込んだ。その表情は少し笑っているようにも見える。少年たちは女の子の気配に気づき、どちらからともなくうっすらと目を開けた。

 女の子は彼らのつないだ手と手の上に自らの小さな掌を置き、それをそっと撫でた。もう大丈夫だよ、離してもいいよ、と言わんばかりに。

 少年たちはゆっくりと体を起こし、辺りを見まわした。自分たちが無事だったこと、まだ生きていることを初めて悟った表情である。僕らもやっと彼らの生存を確認し、ほっと安心した。

 この珍しい漂流者の前で、女の子は少しも臆する様子はなく、ずっと前からの友達のような顔をしている。

 と、そこへ、さっきの畦道を下りて来る、また別の人間の姿があった。僕らは草むらへ隠れた。恐る恐る覗いてみると、それは女の子よりさらに色の黒い、彫りの深い精悍せいかんな顔立ちをした男性であった。その顔のシワは、むしろと呼んでもよかった。しかし老人とは言え、背すじはピンと伸び、その体つきはがっしりとしていた。

「ジャスミン。ひとりで沼へ行ってはいけないよ。わにがかくれているかもしれない」

 そう言いつつも、男性のゆったりとした動きからは、女の子への大きな信頼がうかがわれた。年齢からすると「父親」ではなく、女の子の「祖父」であろうか。

 女の子はナマズを抱えたまま、少年たちの傍らにポツンと立っていた。

 ナマズと少年たちを交互に見比べ、老人はあわてる様子もなくこう呟いた。

「おや、おや。今日はまた、大きな獲物を見つけたもんだ。しかも、人間のかたちをしている……」

 少年たちは老人のいかつい姿を見て、はじめは少し怯えた様子であったが、女の子のおだやかな顔つきから、危険な人物ではないことを悟ったようであった。老人の方もまた、何らかの確信をもって、少年たちが怪しい存在でないことを感じ取ったらしい。

「それにしても、服がずぶ濡れじゃないか。うちへ来なさい。焚火でかわかそう」

 老人は先に立って坂道をのぼり始めた。女の子もうしろをついて行く。少年たちは互いの顔を見合わせ、だまって頷くと、すこし猫背になりながら、とぼとぼとそのあとにつづいた。

 雑草の繁茂する畦道をしばらく行くと、丘の上は見晴らしのいい高台になっていて、ふり向けばミシシッピの流れが一望できた。昨夜、あんなに荒れ狂っていた凶悪な蛇は、何ごともなかったかのようにすっかり機嫌を直していた。太陽がギラギラと夏の空に輝いている。

 見ると、草むらの奥に一軒のあばら家があった。広い庭にはゆうゆうと洗濯物が干してある。庭の向こうは林につながっている。林の近くに、何かを栽培しているらしい畑のようなものがあったが、それが作物なのか雑草なのかは見分けがつかなかった。

 町の中心から少し離れているらしいその場所には、たいがいのものは自給自足で暮らしていけるような豊かさとたくましさが感じられた。庭の隅には錆びた井戸もあった。その横に大きな犬が寝そべっている。

 一行が草むらから姿を現すと、犬はふいに目を開け、舌をハアハアさせながら近寄って来て、女の子にじゃれついた。女の子はナマズを落とさないよう、頭の上に高くかかげた。

「……まずは焚火の準備といこう。ジャスミン。お婆さんを呼んで来てくれ」

 言われて女の子は、ナマズをかかげたその格好のまま家の方へ走り出した。犬もついて行く。

 しばらくすると、家の裏手から、女の子に促されて、痩せた年輩の女性が出て来た。前掛けで手を拭いているその姿は、やはり彫りの深い顔立ちで、遠くを見るような目付きをした老女であった。女の子の手にはもうナマズの姿はなかった。

「今日は珍しい客がいるよ。ミシシッピからやって来た、少年ボーイズだ」

 所在なげに立っている少年たちを一瞥し、お婆さんはかすかに微笑んだだけで、何も言わずに畑の方へ歩いて行った。畑のわきにはいつもそこで焚火をするらしい、まきを積み重ねた場所があった。彼女は小さくしゃがみ込み、前掛けのポケットから取り出したマッチを擦って、木材の根元に火をともした。やがて白い煙が上がり、赤い炎がかすかに揺れた。

 お爺さんとお婆さん、サニーとテディー、ジャスミンと犬、そして遠くから僕とチュン太が、それぞれ黙って炎を見つめた。頭上には太陽が輝いている。ゆったりとした、不思議な時間が流れた。幸福感のある沈黙であった。

 お婆さんは火の勢いを確かめると、また家の裏手の方へ引き返して行った。少年たちがなぜここにいるのか尋ねようともしない。

「さあ、着ているものを全部脱ぎなさい。火にあてて乾かそう」

 お爺さんに言われて、少年たちは体に貼りついたシャツを眺め、争ってそれをひっぺがした。そしてズボンも脱ぎ、パンツに手をかけようとしたとき、傍らに立っているジャスミンと目が合い、少しだけ躊躇した。ジャスミンは面白そうにケラケラと笑って、お婆さんのあとを追って走って行った。

 火のそばには、インディアンのお爺さんと裸ん坊の白人と黒人の少年たちが残された。思えば不思議な取り合わせの三人である。犬はいつのまにか、また井戸のところへ戻って目を閉じていた。

 お爺さんは二人の名前さえ訊こうとせず、ただ黙々と焚火に薪をくべている。少年たちは濡れたシャツやズボンを、裏にしたり表にしたりして火にかざす。

 ふと老人は、サニーの腕に生々しいケガがあるのに気づき、「ちょっと待ってなさい」と言ってどこかへ消えて行った。

 残された少年たちは言葉少なに、昨夜の遭難のことを語り合った。テディーが、何か覚えてるか、と訊くと、サニーは、何も覚えていない、と答えた。

 そのうちテディーが思い出したように「あっ」と叫ぶと、乾かしていたズボンのポケットを必死にまさぐった。中から硬貨が数枚出て来た。「あった……よかった」

 サニーもそれを見て、同じくポケットをまさぐり、ハーモニカが無事なのを確認した。しかし、口に当てて鳴らしてみると裏返った変な音がしたので、それもよく乾かした。

 林の方から戻って来たお爺さんの手には、茶色い液体の入ったビンがげられていた。

 お爺さんは何も言わずにそれを口に含むと、いきなりサニーの腕をつかんで、ぶうっと霧のように傷口に吹きかけた。

 何をされるのかと、少し驚いた顔のサニーは、辺りに漂う香りをクンクンと嗅いでニッコリとした。「お酒だね……」

 甘美で芳醇ほうじゅんな香りが、僕らのいる所まで漂って来た。

「ワシのこしらえたウィスキーだ。味も上等だが、ケガにもよく効く」

 お爺さんは得意げにニヤリとした。はじめは恐そうに見えたその顔も、このころには目が慣れて、いろんな表情が読み取れるようになった。

 少年たちも打ち解けた様子で質問した。

「お爺さんの仕事は、ウィスキー作りなの?」

 テディーが興味を示す。

「まあ、仕事というわけでもないさ」

 老人は曖昧に答える。

「いや、やっぱり仕事かもしれんな。大きな声じゃ言えんがな」

と、また一人ほくそ笑んでいる。

 シャツとズボンがかなり乾いたので、少年たちは再びそれを身につけた。やっと人心地ついたらしく、晴れやかな顔になった。

「さあ。向こうからいい匂いがして来たぞ。昼めしが出来たらしい。一緒に食べよう」

 お爺さんはひとまず、井戸からバケツに水をくんで来て、焚火の後始末をした。赤い火はジュッと音を立てて消え、最後のけむりが細く立ち昇った。

 少年たちが案内されたのは、まるで「海の家」のような、屋根のついた吹き抜けの小屋であった。涼しげなその空間で、インディアンの一家は食事を取るらしい。僕とチュン太もあとにつづき、こっそりひさしの下へもぐり込んだ。しばらくは光の具合で何も見えない。目が慣れると、暗闇の中に浮かび上がって来たのは、切り株の椅子、一枚板のテーブル、その他さまざまな木製の調度品であった。こういった物品の数々も、おそらくはお爺さんの手作りなのであろう。

 少年たちは促されるままに席につく。お爺さんも真ん中の椅子にどっかと腰を据える。

 ジャスミンが、皿に乗せた料理を、両手で大事そうに運んで来た。

 大きな皿には、大根やほうれん草、とうもろこしやキャベツなど、新鮮な野菜があふれんばかりに盛りつけられていた。ジャスミンが往復するたびに、テーブルの上には料理の皿が増えて行く。かぼちゃのスープ、白インゲンの煮物、タマネギの酢漬け、胡椒をまぶした干し肉、そして最後に、ひときわよい香りを立てて、何かの揚げ物が運ばれて来た。それぞれの目の前に置かれた揚げ物の皿に、少年たちは顔を近づけて匂いを嗅いでいる。

「……揚げ立てのナマズだよ。神の恵みだ―――さあ、頂こうじゃないか」

 四人分の料理を並べ終えたジャスミンは、やがて専用の高い椅子によじ登り、足をぶらぶらさせた。そして鼻の下をのばしてテーブルの皿を覗き込んでいる。

 お爺さんがナマズのフライに手を伸ばし、手づかみでそれを口にした。豪快にザクリとかぶりつく。

「うん。うまい」

 それを見ていた少年たちも、真似して手づかみでフライを口へ運ぶ。そして一口噛んだあと、うっとりと上を向いて幸せそうにニンマリとした。

 僕らはその表情を見て、思わず唾を吞み込んだ。

 ジャスミンは、はじめフライには手を付けず、おとなしくスープをすすっていた。ナマズは嫌いなのかと思って見ていると、そうではなかった。それには理由があった。

 お婆さんが焼きたてのトウモロコシパンを皿に載せて運んで来たとき、ジャスミンは誰よりも先にあつあつのパンに手を伸ばし、手の中で転がしながらそれを半分に割った。そして湯気を立てるパンのやわらかい部分にキャベツをはさみ、スプーンで白いソースをべったりと塗って、最後にナマズのフライをそこへ乗せた。そして両手でそれを押さえて大きな口を開け、お爺さんに負けないくらい豪快にガブリと食らいついた。

 ジャスミンは満面の笑みで口をモグモグさせている。彼女はこういう食べ方が好きなのであった。

 お爺さんとお婆さんはそれを見て微笑んでいる。

 サニーとテディーも真似をして、すかさずパンを手に取り、ジャスミンと同じようにキャベツとフライをはさんで思い切りガブリとやった。二人は目を丸くして、ふたたびニンマリとした。

 ジャスミンはコロコロと笑い転げた。その拍子に口から食べ物がこぼれたので、お爺さんに軽くたしなめられた。

 テディーがジャスミンに話しかけた。

「こうやって食べるとおいしいね」

 ジャスミンは何も答えない。パンを頬ばりながら、じっとテディーの口元を見ているようだ。

「この子は、耳が聞こえんのだよ」

 お爺さんが言った。

 少年たちは真顔になった。ふたたびジャスミンを見ると、相変わらずおいしそうに口を動かしている。

「この子は白人とチェロキーの混血なんだが、ワシらよりももっと、インディアンらしい心を持っとる。ときどきこの子に教えられることも多いよ。ワシらは、ともすれば目の前の出来事に惑わされて、目が曇りがちだが、この子は魂の目で世界を見とるんだよ」

 お爺さんはふしくれだった大きな手でジャスミンの頭をなでた。

「この子を言葉でだますことは出来ん。この子の方も、表面で人を判断したりはせん。だから、この子に気に入られたということは、お前たちがだということだ。だからこそ、こうやって歓迎しとるんだ」

 老人は愉快そうに笑った。少年たちは何と答えてよいか分からず、照れ臭そうな、困ったような顔をしている。

 サニーが訊いた。

「お婆さんも、そうなんですか?なんというか、耳が聞こえないというか、その……」

「いや、この人はたんに、無口で恥ずかしがり屋なだけだ。ちゃんと耳は聞こえとるよ」

 老人はお婆さんの方を見て笑った。お婆さんは自分が話題になりそうな気配を察すると、そそくさと立ち去ろうとした。サニーはバツが悪そうに下を向いて、手持ち無沙汰にインゲンの煮物に手をのばした。とたんにサニーの顔が輝いた。

「おいしい!」

 彼は自分の失言を取りつくろうためか、わざと大げさな明るい声でお婆さんに言った。

「お婆さん。料理が上手ですね!この煮豆も、とってもおいしいです!」

 お婆さんはちょっと振り向いて、はにかみながら何かを言ったようであったが、よく聞こえなかったので、サニーはお爺さんに尋ねた。

「いま彼女、何て言ったんですか?」

 お爺さんはスープを飲みながら答えた。

「それは缶詰だ、と言ったんだよ」

 サニーは両手で顔をおおって天を仰いだ。

 テディーが大笑いしている。

 ジャスミンも話の内容は分からないはずなのに、一緒に楽しそうに笑っている。

 それからしばらく、少年たちは料理に舌鼓を打ちながら、お爺さんの昔話や珍しい体験談などに耳を傾けた。お爺さんは真顔で面白いことを言う人であった。てっきり人間のことかと思って聞いていたら、じつは狐の話だった、というふうに。

 食事がすむと、老人はサニーとテディーに、これからどこへ行くつもりか、と訊いた。

「ニューオリンズへ行きたいんです!」

 少年たちは同時に答えた。この人の前ではなぜか、素直に気持ちを吐き出せるようであった。

「ふうん……それなら、途中のナッチェスまで乗せてってやろうか。午後からウィスキーを納めに行くんだ」

 サニーとテディーは一度に顔を輝かせた。「ぜひお願いします!」

 それからお爺さんとジャスミンが皿を片づけ始めたので、少年たちも手伝った。

 テーブルがきれいになると、テディーはちょっと迷いながら、ズボンのポケットをまさぐり、お金を取り出そうとしている。サニーはそれに気づき、手を取って友人を制した。

 表へ出てみると、夏の日差しがいよいよ眩しかった。

 お爺さんは犬が寝そべっている横を通って、井戸の向こうの小屋へと歩みを進めた。小屋の中には一頭の馬がいた。ふつうの馬よりずんぐりと背の低い、耳の長いロバのような馬である。チュン太は「ラバだね」と言った。

 お爺さんは手綱たづなを引いてラバを表へ連れ出し、慣れた手つきでそれに荷車をくくり付けた。そして、用意していたウィスキーを一箱、荷台に積んだ。ウィスキーのラベルには、インディアンの矢が二本組み合わされたような絵柄がついていた。さらに、大きなすきを手にしたかと思うと、納屋の中から乾いた干し草を持って来て、木箱が見えなくなるようにした。

「なんで隠すんですか?」

 テディーがニヤニヤしながら訊いた。

「なあに。隠すわけじゃない。途中で割れないためのだ」

 お爺さんも、とぼけた調子で答えた。

「たった一箱だけ?もっと売ればいいのに……」

 サニーはそう言ったあと、しまった、という顔で口を押えた。また失言したかもしれない、という表情だ。

 老人はちょっと考えて、

「作りすぎると何もいいことはないんだ。必要なだけ作っていれば、いつまでもその仕事を続けることが出来る」

と、気にする様子もなく答えた。サニーはほっと胸をなで下ろした。

 どこかにいなくなっていたジャスミンが、そのとき息を切らして飛んで来た。自分も一緒に行くつもりらしい。よく見ると、その髪には少し大きすぎる、大人用の花柄のくしが差してあった。よそ行きのおめかしであろうか。

「お母さんの形見かもしれないね……」

 チュン太がまたうがった見方をした。

 準備が整うと、一行はラバのく荷馬車へめいめい乗り込んだ。お爺さんとジャスミンが御者台へ、サニーとテディーが荷台へ乗った。お見送りの犬が大きな声で吠えている。お婆さんはだまって見守っている。

 馬車が動きはじめると、うしろ向きに座っているサニーとテディーは、お婆さんに別れの言葉をかけた。

「お婆さん、ありがとう。お料理、おいしかったです!」

 大きく手を振る少年たちに応えて、お婆さんは初めて白い歯を見せて笑い、恥ずかしそうに小さく手を挙げた。

 一行を乗せた荷馬車は、太陽の照りつける田舎道をゴトゴトと進んだ。綿花畑を抜け、トウモロコシ畑を過ぎて、陽炎かげろうのゆれる一本道が延々とつづいた。ところどころ、川の流れが垣間かいま見える林の道を抜けたりしたが、ほとんど視界をさえぎるものは何もなく、見渡すかぎりの大平原であった。

 雨上がりの道にはまだ水たまりが残っていて、立ちのぼる湿気しっけがムンムンと体にまとわりつく。しかし、ほどよいスピードで走る荷馬車が巻き起こす風は、したたる汗をすぐに乾かした。少年たちは干し草の上に寝転んで空を見上げた。

 ふと、サニーがポケットからハーモニカを取り出し、思いつくままにメロディーをかなで始めた。軽快な曲もあれば叙情的な曲もあった。テディーはそれに合わせて手拍子を打った。お爺さんは手綱を取りながら黙って聞いている。ジャスミンも、なにかの気配を感じてうしろを振り返り、目を閉じて耳を傾けるような表情をした。僕は耳の聞こえないジャスミンの胸に、どんな音楽が響いているだろうかと想像した。

 出発して二時間ほど、なにごともない快適な旅がつづいたが、荷馬車がデコボコ道にさしかかったとき、ある困った事態が生じた。水たまりをうまく避けながら慎重に走っていたはずの馬車が、うっかりぬかるみに入り込んで動けなくなってしまったのだ。

 お爺さんは御者台から降りて、深く泥水につかった車輪をじっと見つめている。ラバは申し訳なさそうに力なくいなないている。少年たちも、水に濡れないよう荷台から降りて、お爺さんのとなりで腕組みをしている。

「どうしたもんかな」

「みんなで押したら動くかな」

 サニーとテディーが荷台の両端を持って力を合わせて押してみた。車輪はすこしだけ動いたが、すぐまた元に戻った。ジャスミンはすまし顔で、馬車に乗ったまま、揺れに身を任せている。

 こんどはお爺さんが片方を持ち、少年たちがもう片方を持ってグイと押した。すると、さらに大きく車輪は動いたものの、やはりまた後戻りする。

「うまくジョンと力を合わせれば、いけるかもしれない」

 ジョンというのは、ラバの名前らしい。

「だれか、手綱たづなを取れる者はいないかね。ジョンに合図をして、それと同時に、あとの二人がうしろから押す。タイミングが大事だ。乗る人間は軽い方がいい」

 サニーが名のり出た。彼は痩せている上に、小さい頃いつも、父親の運転する馬車の横に座っていたので、なんとなくやり方は分かっているつもりらしかった。

「たぶん、やれます」

 サニーは馬車の前方へ回ると、ジョンの鼻面はなづらをかるく撫でて「よろしくな」と挨拶をし、御者台に上った。ジャスミンがとなりで嬉しそうな顔をしている。

「いつでも大丈夫です!」

 サニーは太い手綱を握りしめながら、うしろを向いて言った。

 お爺さんの「一、二の、三」のかけ声とともに、サニーが手綱をパチンと鳴らす。ジョンが地面を蹴る。うしろの二人が荷台を押す。

 みんなの力が一つに合わさって、車輪は半分ほどぬかるみから脱したかに見えた。

 しかし、次の瞬間、わずかに力およばず、馬車は後退してまた始めの位置に戻ってしまった。

 一同はため息をついた。想像よりもぬかるみは深く、荷馬車は重かった。

 がっかりしているテディーに、お爺さんは「いや、頑張ればいけるぞ」と静かに言った。「もうすこし下を持って押してみよう」

 それから御者台のサニーに向かって、

「一、二の三ではなく、二でジョンに合図してくれないか」

と、やり方を提案した。

 ふたたび一同は気合を入れ直した。ジャスミンも四角い顔になっている。

「いいか、いくぞ。一、二の……」

 サニーが言われた通り、すこし早めに手綱を鳴らす。ジョンが動きはじめる。

「三!」

 お爺さんとテディーが力を込める。さっきよりも低い姿勢から押すので、ふんばりが効くようだ。 

 荷馬車はグラリと動き、かなり上まで上がった。あと一押しでぬかるみから脱出できる。

 そう思った途端、車輪はそれ以上動くのを止め、うしろの二人は後退しないよう食い止めるのがやっとになった。テディーはやがて力尽き、尻餅をついた。

 荷馬車はずぶずぶと元に戻る。

 テディーはその場にへたり込んだ。お爺さんは腰をさすっている。ラバのジョンも、まるで人間のように口惜くやしそうに歯をいている。 

 チュン太がジョンのそばへ行って声を掛けた。「がんばって、ジョン!」

 ジョンの長い耳がクルリと動いた。

「聞こえてるのかい?」僕はチュン太に訊いた。

「もちろんさ」チュン太はすまし顔である。

 一同は気を取り直して、三回目のチャレンジに臨んだ。テディーは口をへの字に結んで気張っている。

「さっきと同じようにやればいい」お爺さんはおだやかに言った。「三度目の正直だ」

 合図とともに、一同はそれぞれの役割に集中する。サニーが手綱を鳴らす。ジョンが荷馬車を引っ張る。お爺さんとテディーが力を合わせる。こんどは息もピッタリだ。

 馬車はゆっくりと進み、車輪はその全貌を水上に現した。一回目よりも、二回目よりも、さらに上まで来ている―――あと少しだ。

 しかしまたしても、もうちょっとで山が動くというところで、頑固な車輪はその動きを止めてしまった。重苦しい空気があたりを支配した。

 だが今度は、テディーは手をゆるめなかった。下を向いたまま歯を食いしばり、渾身の力で荷台を押しつづける。お爺さんも同じく、顔をゆがめながら勝負をあきらめない。

 太陽がみんなの汗を照らした。

 そのときである。男たちの奮闘をただ見ていただけのジャスミンが、何を思ったか、ピョンと座席から飛び降り、やがて地面にすっくと立つと、その小さな両手で、テディーの背中を押し始めた。

 ジャスミンの力と体重の分、わずかに軽くなった荷馬車は新たな動きを見せた。

 水につかっていた車輪がピクリと動いた。

「今だ!そーれ!」

 一同から声が出る。

 車輪はしっかりと乾いた地面をつかみ、もう一まわりゴロリと回って、うまくぬかるみから脱した。テディーはその勢いで前のめりに倒れた。

 馬車の動きは自由になり、ついに泥水の呪縛から解放された。

 力くらべに勝利した男たちは、ぐったりと地面に倒れ込んだ。

「やったね……」

「よくやった」

 汗だくの顔からようやく笑みがこぼれた。

 目を輝かせているジャスミンの頭を、お爺さんは大きな手で撫でた。「お前のおかげだ」

 サニーは座席から降りて、ジョンをねぎらっている。「ご苦労さん、相棒!」

 テディーは地面に大の字になって、いつまでも笑っている。

 僕たちも喜んだ。いつのまにかサニーとテディーが一回り大きくなったように見えた。

 一難を脱した一行は、ふたたび荷馬車に乗り込んで旅をつづけた。

 太陽はややさかりを過ぎ、午後の日差しに変わっている。

 しばらくはのどかな風景がつづいた。ゴトゴトという心地よい揺れにまかせて、少年たちは干し草の上で居眠りをした。ときどき荷台からずり落ちそうになり、驚いて目を覚ます様子を、ジャスミンが面白そうに眺めている。

 また一時間ほど走ったころ、辺りにはちらほらと民家が見えはじめた。上空からは、はるか前方に、大河を中心に発展した町が一望できた。

「あれがナッチェスだよ」チュン太が言った。

 少年たちが目を覚ますと、いきなり風景は一変していて、荷馬車は民家や商店の立ち並ぶ大通りを走っていた。教会や時計台もあり、集会所や銀行らしきレンガ造りの建物もある。二人の少年はもの珍しそうに街並みを眺めた。

「オレあ、メンフィスの町以外、出たことがなかったが、他にもこんな大きな町があったんだなあ」

 テディーが感心してつぶやいた。

「やっぱり、オヤジの言う通り、井の中のカワズだったよ」

 感慨深そうな少年たちを振り返って、お爺さんが言った。

「港の近くが盛り場だ。その中の一軒に酒を納める。あとしばらくだ」

 夕方の日差しが街並みを包んでいる。

 路地をいくつか曲がって、ゴトゴトと荷馬車は進む。お爺さんは馴染みの道らしく、慣れた手綱さばきで馬車を走らせる。しかし、噴水を回ったところで、馬車は少し速度を落とした。

 お爺さんが何かを発見したらしい。

「保安官だ」

 路地の向こうからゆっくりとした足取りで警備の馬が近づいて来るのが見えた。

 お爺さんは小声で少年たちに言った。

「悪いがお前たち、すこし降りて歩いてくれないか。なあに、知らん顔をしていれば、大丈夫だ」

 考えてみると、密造酒を運ぶインディアンと、白人と黒人の家出少年という取り合わせは、いかにもで不自然な集団であった。出来ればそのまま怪しまれずにやり過ごしたいところだ。

 少年たちは荷台を降りて、すこし距離を置き、そ知らぬ顔で路地をついて行く。

 お爺さんも、なにもやましいところはない、という風に、だまって荷馬車を走らせる。ジャスミンはそんな事情はつゆ知らず、風景を眺めている。

 荷馬車と保安官がすれ違うとき、案の定、保安官はジロジロと干し草を積んだ荷台の方を凝視した。

 そして一旦は立ち去りかけたものの、やがて思い直し、もう一度立ち止まると、馬から下りて荷馬車を呼び止めた。

「ちょっと荷台を拝見させてもらおう」

 僕らの心臓は早鐘を打った。

「……バレたらお爺さん、捕まっちゃうね」

「下手すれば少年たちの計画も、ここでおしまいかもね」

 体格のいい保安官は長い棒のようなもので干し草をつつき始めた。何度か場所を変えて差し込んだとき、棒の先に何かがコツンと当たる音がした。

「まずい!」息が止まりそうだった。

 お爺さんは顔をこわばらせる。

 ジョンも不安そうな目付きをしている。

 その時だった。

 後方の路上で、少年たちのののしり合う声が聞こえた。見ると、サニーとテディーが互いの胸ぐらを掴んでいる。

「なにしやがる!」

「悪いのはそっちだ!謝れ!」

「こいつ、生意気な!」

 二人はいまにも殴りかかりそうな勢いでもみ合っている。そして、なぜかチラリと保安官の方を盗み見た。

 僕とチュン太は彼らの意図を察した。保安官の気をそらすつもりなのだ。

 干し草をかき分け、中をあらためようとしていた保安官は、騒動に気づいてうしろを振り返った。

 少年たちは保安官の注意をさらに引きつけるために、迫真の演技をつづけた。

「もう一ぺん言ってみろ!」

「何度でも言うぞ!お前の母ちゃん、×××だ!」

 二人はもみ合ううちに、地面に倒れて転がった。サニーが下になり、テディーが馬乗りになる。

 辺りには人だかりがしはじめた。いいぞ、その調子だ、もっと集まれ……。二人の心の声が聞こえた。

 そのとき、下になったサニーがテディーにそっと耳打ちするのが分かった。

「テディー、ボクを本当に殴れ。思いっ切り殴っていいよ。それから、もっと汚い言葉を使って!」

 テディーは一瞬ためらったが、やがて意を決したように、目をつぶって、張り裂けるような声で叫んだ。

「この黒ん坊ニガーめ!」

 テディーの拳がサニーの頬を打った。

 人々はどよめいた。保安官が近づいて来た。

 保安官が止めに入るまで、テディーはさらに二、三発、サニーの頬を打った。サニーの口からは血が流れている。チュン太が顔をそむける。

「やめなさい!そこまでだ」

 保安官のたくましい腕が少年たちの細い腕を軽々とねじ上げて、彼らを引き離した。二人はそれでもいがみ合い、互いに掴みかかろうとする。

「やめろと言うんだ!」

 人だかりの輪の中で、首根っこを掴まれた少年たちはまるで捕まった鼠のようであった。

 しかしながら―――少年たちにとっては幸いなことに―――保安官はこの騒ぎを、たんなる子供同士の喧嘩とみなしたようで、あまり根掘り葉掘り事情を尋ねようとはしなかった。白人と黒人のもめごとが、さらに大きなトラブルに発展するのを恐れたのかもしれない。ただ行きがかり上二人を並ばせて、一くさり説教を垂れている。

 うなだれながらもサニーは、荷馬車の方を横目で見て、お爺さんに目くばせをした。

 お爺さんは「うむ」とうなずいて、静かに荷馬車を走らせた。

 サニーは保安官が馬車の音に気づかないように、さらに大声を上げてテディーに殴りかかる演技フリをした。二人は重ねて一喝されながら、荷馬車が角を曲がるのを見送った。

 騒ぎは収まり、人ごみはしだいに消えて行った。

 保安官もようやく馬にまたがり、やれやれという顔でその場をあとにした。少年たちは裏道から荷馬車のあとを追った。

 荷馬車は角を曲がった先で待っていた。お爺さんとジャスミンが心配そうにこちらを見ている。

「ありがとう。助かったよ」

 お爺さんは少年たちの頭を二人いっぺんに抱き寄せた。

 ジャスミンは目に涙をためている。少年たちが本気で喧嘩を始めたと思ったのであろう。

 お爺さんの手からゆっくりと顔を上げたテディーも、どうやら泣いているらしかった。

「ごめんよ。サニー。痛かっただろ……。しかも、あんなひどいこと言って……」

 後悔に心を痛めている様子である。

 サニーはニッコリと笑い、テディーの肩を抱いた。殴られた顔がすこし腫れている。「うまくいったね……」

 それでも立ち直れずに号泣するテディーに、お爺さんが言った。

「大丈夫……。人を助けるためにつく嘘は嘘ではないのだ。お前たちは真に勇気ある若者だ」

 一悶着のあと、一行はふたたび馬車を走らせた。ジャスミンもまた穏やかな顔に戻っている。

 しばらくして辿り着いたのは、バーや飲食店の立ち並ぶ繁華な一角であった。その中の一軒の店の前で、お爺さんは荷馬車を停めた。「さあ、着いたぞ……」

 お爺さんは御者台から降りてうしろへ回り、干し草の中からウィスキーの木箱を取り出した。「ちょっと待ってなさい」

 ジャスミンと少年たちに言い残し、木箱をかかえて店の中へ入って行く。入口のドアは真ん中を押すと両側に開く古びた観音扉であった。手のふさがった老人はドアを肩で押した。

 店の中からはとぎれとぎれに小粋で郷愁的ノスタルジックなピアノ演奏が聞こえて来た。ラグタイム音楽だ。看板が中にしまってあるのは、まだ準備中なのであろうか。

 しばらく待つと、お爺さんが戻って来た。なぜか浮かない顔をしている。

「どうやら、世の中不景気なようだ。支払いは来月まわしにしてくれ、だとさ」

 そう言いつつお爺さんは、さっさと荷台にロープをかけ、帰り支度を始めた。

 そして準備がすむと、少年たちの正面に立ち、両手を腰に当てて言った。

「さあ、ずぶ濡れ少年ボーイズ。お前たちともそろそろお別れだ。われわれは夜が更けないうちに帰らねばならない。行く当てはあるのか?」

 二人は不意に別れを言い渡され、覚悟はしていたものの、やはり名残惜しそうな顔になった。しかしそれでも、努めて明るい口調で答える。

「大丈夫です。いろいろお世話になりました」

 お爺さんは「そうか」とだけ言うと、ゆっくりと御者台にのぼり、席に深く腰をかけた。

 ジャスミンがちらっと少年たちを見た。

「ジャスミン。またいつか会おうね。……さよなら」

 サニーとテディーが手を振る。ジャスミンはだまっている。だまったまま、また正面を向き、荷馬車が動き出すのをじっと待っている。

 少年たちは少し物足りなさを感じながらも、笑顔を絶やさなかった。

 お爺さんが手綱を鳴らし、ジョンが走り出す。だんだん遠ざかる荷馬車を、サニーとテディーは小さくなるまで見送っている。

「ジャスミン、手を振ってくれなかったね……」

 テディーがポツリともらす。

「うん……」サニーは答えながら、

「でも、あの背中をごらんよ」と、あごで指し示す。

 荷馬車にゆられ、遠ざかる女の子の小さな背中には、なんとも言えない哀愁が漂っていた。

 少年たちはまたニッコリとした。

「言葉がなくても、心は伝わる、ってことだね」

「あの子もボクたちと同じ気持ち、ってことだ」

 いつしか荷馬車が夕暮れの大地に消えて行った。少年たちはその反対方向へ、トボトボと歩き始めた。

「さて……」

と、呟いたその瞬間、二人のお腹がグウと鳴った。またしても、育ち盛りの男の子たちは腹ペコなのであった。

「まずは腹ごしらえといこうか」

 盛り場の路地を徘徊するうちに、いろんないい匂いが鼻先に漂って来た。焼きたてのパンを並べたお店、ローストチキンを丸ごとぶら下げたお店もある。二人は鼻をピクピクさせながら歩いた。

 サニーが尋ねる。「お金はどれくらいある?」

「大丈夫。まだそっくり残ってるよ。それに、駅員さんがくれた小遣いもあるから、ちょっと贅沢してもいいくらいだ」

 テディーが自慢げに言いながら、片手でポケットを叩いたが、その瞬間、彼の顔が見る見る青ざめた。

 テディーはポケットをまさぐり、反対のポケットもまさぐり、下を向いたまま自分の体中をペタペタと手で触っている。その表情はしだいに焦りに変わった。

「どうしたの?」

 サニーが尋ねても、しばらくは無言で目を泳がせていたが、ようやく、白状するような目で言った。

「……ない」

 サニーも状況を悟って慌てはじめた。「どっかで落としたのかな?」

 少年たちはそこら中の地面を這いまわって探した。しかし、それらしきものは見当たらない。二人は立ち止まって腕組みした。

「どこで落としたんだろう……」

 僕とチュン太も、これまでの二人の行動を思い出してみた。最後にお金を確認したのは、ずぶ濡れの服を焚火で乾かしていたあの時である。テディーがポケットから硬貨を取り出し、掌に並べていた。それから、小屋で食事をして、荷馬車で旅立った。途中、ゴトゴト揺られながら干し草の上で昼寝をしたが、その振動でポケットから落ちたとは考えにくい。可能性があるとすれば、車輪がぬかるみにはまって、お爺さんと一緒に奮闘したときだ。荷馬車の救出に夢中になって、お金が落ちたことに気がつかなかったのかもしれない。しかし、今さらあの場所へ引き返すには、遠くへ来過ぎてしまった。

 もう一つ考えられるのは、―――そしてこれがいちばん有り得る話だが、保安官の気を引くために路上で取っ組み合いをした時だ。あの最中なら、ポケットから不意に転がり落ちたとしても不思議ではない―――

 少年たちもちょうどそのことに思い当たったらしく、急いできびすを返し、さっきの方向へ駆け出した。

 路地を曲がって噴水のところへ来ると、とうに人影はなく、辺りは何事もなかったかのように静かであった。

 二人はまた地面の匂いを嗅ぐように這い回ったが、やはりお目当てのものはなかった。もし仮に、ここで落としたとしても、きっと誰かがそれを見つけ、持ち去ってしまったに違いない―――

 少年たちは肩を落とした。

 そしてしょんぼりと見知らぬ町の夕暮れの中を歩いた。もちろん行く当てはない。一文無しであるという不安が、少年たちの足取りを重くさせた。野良犬が鋭い目で睨み、唸り声を上げている。

「これからどうしよう」

「腹へったなあ」

 ニューオリンズへ行くという夢が、ここへ来てにわかに遠のいたような気がした。もはや冒険もこれまでかもしれない―――

 と、少年たちが絶望に包まれたその時……。

 さっきお爺さんたちと別れた盛り場のさらに向こうの、おそらくはミシシッピに面した港のある方角から、「ボーッ」という聞き覚えのある汽笛の音が聞こえた。サニーは思わずポケットからハーモニカを取り出し、その音を真似まねた。

「蒸気船だ!行ってみよう」

 少年たちは一も二もなく、汽笛のする方向へ走った。空腹ではあったが、あらたな希望が彼らに力を与えた。

 明かりのともりはじめた路地を右へ、左へと曲がって、盛り場を過ぎると、どこからともなく水の匂いがしはじめた。買い物客で賑わうマーケットを抜けた辺りで、急に視界が開けた。

 少年たちの目の前に忽然こつぜんと現れたのは、まるできらびやかなホテルのような豪華な遊覧船であった。

「デキシー・クイーン号だ!」

 ふたりは同時に叫び声を上げた。

 いつかメンフィスではるばる見送ったあの船である。

 三階立ての客船のそれぞれの階には、白い手摺りの向こうで乗客やクルーたちがわらわらと歩き回っている。着飾った紳士淑女の姿や、トレーに載せた飲み物を運ぶボーイの姿も見えた。

 夕暮れの港に停泊する遊覧船の向こうには、オレンジ色の太陽を浮かべた広大なミシシッピが広がっている。その名の通り、濁った水の上に君臨する女王のようなデキシー・クイーン号―――彼女はその優雅さと気品にみちた威厳を周囲に知らしめるような大きな汽笛を、もう一度水面みなもに響かせた。

 桟橋では多くの人々が船の近くに集まっていた。見送りの人々、船に乗り込む人々、それぞれが楽しげに会話を交わし、うきうきと目を輝かせている。

 人々の話に耳を傾けてみると、どうやらデキシー・クイーン号は、嵐を避けて出航を延期し、一日遅れでこれから出航するところであるらしかった。目的地はもちろんニューオリンズである。待たされた人々の、期待と興奮がひしひしと伝わってくる―――

「やっぱりカッコいいなあ」

「一度乗ってみたいなあ」

 少年たちはあんぐりと口を開けて、憧れの船をうっとりと眺めている。

「お金持ちになったら、いつか乗ってやるぞ!」

 テディーが叫んだ。兄のジミーの顔も浮かべていたにちがいない。

 ところがサニーは、意味ありげなふくみ顔でテディーを見つめた。

「……一文無しでも乗れるかもしれないよ」

 悪だくみをする時の、サニーの三日月みかづき型の目を見て、テディーもピンと来たようであった。

「もしや、密航かい?」

女王クイーンは僕らを待っててくれたんだ。期待に答えない訳にはいかないさ。一か八か、最後の賭けだよ」

 うまく行けば、あすはニューオリンズだ、というサニーの言葉に乗せられて、テディーもなんだかその気になった表情である。

「でも、どうやって?」

 船に乗り込むための渡し場は一つしかなく、そこには監視員が、しっかりと乗客一人ひとりをチェックしている。

「いい考えがある……」

 サニーはテディーに耳打ちした。

 蒸気船が三度目の汽笛を鳴らすと、桟橋にはあわただしい雰囲気が漂った。出航時間が迫っているようだ。船から下りて買い物などを楽しんでいた乗客たちは、少しずつ船に戻りはじめる。

 チュン太がつぶやいた。

「あそこをどうやってすり抜けるつもりかな」

「たぶん、知らない客のうしろから、お父さーん、って、とか言いながらついて行くんだろう」僕は推測した。

「あんなみすぼらしい格好でかい?」チュン太がもっともなことを言う。

 少年たちは着のみ着のまま家出して来たうえ、遭難したり取っ組み合いをしたりで、シャツやズボンはボロボロになっていた。

「うーん……」

 僕らが観察していると、サニーとテディーは何を思い付いたのか、渡し場から少し離れた、桟橋の突端とったんを目指して小走りに走った。そしてそこに据え置かれている見送り用の白いベンチを二人がかりで運びはじめた。ベンチはかなり重そうである。

「どうするんだろう」

 見ていると、彼らは正規の乗客に混じって、何食わぬ顔で渡し場を渡りはじめた。白いベンチをエッチラオッチラと運びながら。

 案の定、監視員が呼び止めた。

「おいおい、お前たち、それをどうするつもりだ」

 二人は作業に没頭する様子をよそおって、監視員の顔も見ずに言った。

「搬入でーす」

 監視員は不審そうな顔をしている。少年たちがあまりに年若いので、やはり不自然な感じはいなめない。

「お前たちだけでか?」

「人手が足りないんで、社長に駆り出されました!」

 サニーとテディーは一旦ベンチを下に置き、額の汗を拭きながら満面の笑みで答えた。

 監視員はその笑顔を信用したのか、「そうか」とつぶやき、「若いのにエライな」と、むしろ感心さえしている。

「世の中、不景気なもんで」

 サニーが調子に乗って、どこかで聞いたようなセリフを言った。

 監視員はチラッと腕時計を見て渋面を作り、「手伝ってやる」と言った。

 思わぬ展開に少年たちは、

「いや……大丈夫です」

と、あくまで拒んだが、監視員は強引に、「いいから、そっちを持て」と、少年たちに一方を持たせ、自分はもう一方の端を持って後ろ向きに運びはじめる。

「どっちへ運ぶんだ?」

 監視員が訪ねると、少年たちはキョロキョロして、「あっちです」と、デッキの方を指さした。吹き抜けのデッキには同じような白いベンチがたくさん並んでいる。

 監視員は手際よく後ずさりしてデッキまで来た。

「どこへ置く?」

「あとは僕たちでやりますから、大丈夫です」

「おじさん、ありがとう!お客さんが待ってるよ」

 テディーが渡し場を指さすと、監視員は慌てて下へ戻って行った。

 立ち去りながら彼は、ふり返って少年たちに「頑張れよ!」と声をかけた。

 少年たちは片手を挙げて笑顔で答える。そして監視員が見えなくなると、互いに顔を見合わせ、その手をパチンと合わせた。

 まんまと乗船に成功した二人のあとを追って、僕とチュン太もデキシー・クイーン号に乗ることにした。しかし、なにぶん船に乗る雀というのはあまり聞いたことがないので、なるべく目立たない場所に身を隠すのに骨を折った。

 船の後方に取り付けられた巨大な赤い水車が力強く回りはじめ、波を盛り上げて船体を大きく方向転換させる。船はゆっくりと岸壁から離れ、桟橋をあとにする。桟橋で見送る人々の方へ、乗客たちが手を振っている。

 さきほどの監視員も桟橋からこちらを見守っていたが、乗客に混じって船上から手を振る二人の少年の顔を認めると、急に啞然とした表情になり、歯噛みして口惜くやしがるのが分かった。何かを叫んでいるようだ。しかしその姿もやがて小さくなって行った。

 何はともあれ、まずは腹ごしらえだと思ったのか、二人は広い船内をあちこち歩き回り、ディナー会場となっている大きなホールを見つけると、相次いで中へ入って行った。会場はビュッフェ形式スタイルになっていて、大きなテーブルにさまざまな料理が並んでいる。乗客たちは手にした白い皿に、それぞれ好きな物を取り分けている。

 サニーとテディーも、彼らの間をまるで小鼠のように走り回って、いろんな料理を皿に盛りつけた。見たこともないようなメニューが目白押しであった。そして、あっという間に満腹すると、幸せそうにお腹をさすった。途中、飲み物を運ぶボーイにぶつかりそうになったが、とくに見咎とがめられる様子もなかった。

 ふたたびデッキへ戻ると、ちょうど太陽が西の空へ沈むところであった。

 乗客たちはロマンチックな気分に浸って、美しい日の入りの風景を眺めている。抱き合ってキスをする老夫婦もいた。世界中どこへ行っても、日の入りの風景というものはいいものだ。僕とチュン太も仲良くひさしに止まって、日が沈むまで、無言のままうっとりとそれを眺めた。

 日没と同時に、デッキに設けられたステージに煌々とライトが灯された。ステージ上にはいつのまにそこにいたのか、楽器を抱えたミュージシャンたちがスタンバイしていた。

 ドラマーが小さくカウントすると、トランペットやトロンボーンなどの楽器がいっせいにイントロを吹いて曲が始まった。それまで静かに夕日を眺めていた乗客たちはみな振り返ってステージに注目した。

 総勢十五名ほどのミュージシャンたちが奏でる音楽は、いかにもこの場にふさわしい、陽気なデキシーランド・ジャズであった。はじめはそれぞれの楽器がお決まりのテーマを辿っていたのが、しだいにアドリブを加えはじめ、最後は楽器どうしが対話するような楽しい掛け合いになった。白人の奏者もいれば、黒人の奏者もいた。

 ミュージシャンたちは譜面は見ずに、互いの表情を見ながら演奏している。時には興が乗って本当に笑い出す者もいた。その楽しげな雰囲気はたちまち観客に伝染し、客たちは体を揺らしながら手拍子を打っている。  

 楽団は一瞬にして人々の心をつかみ、船上の空気を変えた。

 一曲目が終わって、さらに畳みかけるように二曲目がはじまった。今度はクラリネットを先駆さきがけに、しだいに一つずつ楽器が重なっていくような構成の曲であった。それぞれの楽器がそれぞれの役割に徹し、全体として一枚の絵を描くような観があった。僕はふだん、性格的に、弾き語りのようなシンプルな音楽を好んで聴くが、こういった、ミュージシャン同士の信頼に基づく、アンサンブルの妙も捨てがたいなと、あらためて思った。

 そして三曲目になると、それまで脇役のようなトランペットを奏でていた黒人のミュージシャンが、ふいに自分の楽器を小脇にはさみ、いきなり歌を歌いはじめた。

 それは興奮のあまりどうしても歌い出さずにはいられないといった風情で、歌詞のあいだにデタラメなスキャットも混じっていた。その声はダミ声であったが、それが不思議と曲調にマッチして味わい深い音楽になっていた。

 僕はそのギョロ目のミュージシャンにどこかで見覚えがあった。しかし、名前が思い出せない。

「ルイ・アームストロングさんだよ」

 チュン太が教えてくれた。

 しだいに集まった観客たちの中には、ライトに浮かび上がるサニーとテディーの顔もあった。二人は口を半開きにし、ステージに釘付けになっていた。

 それから楽団は、スローな曲やムーディーな曲、煽情的な曲や蠱惑こわく的な曲、哀愁のあるエキゾチックな曲やユーモラスな曲、そしてまたアップテンポの曲に戻るなど、十曲あまりを惜しみなく披露し、最後は打ち上げ花火のような大合奏でしめくくって、ステージは最高潮のうちに幕を閉じた。

 夢のような一夜に満足しながら、乗客たちはそれぞれの部屋へ戻って行く。

 にぎやかだった船上は急に静かになり、祭りのあとの物さびしさが漂った。バサバサと水を掻くパドルの音だけが闇夜に響いた。ステージを照らしていたライトもすっかり消え、いままでとは打って変わって、ほとんど真の暗闇となった。楽しい時間が駆け足で過ぎて行く切なさを僕らも背筋に感じた。少年たちは余韻にひたりつつ、手摺りに凭れては、しばらく真っ暗な水面を眺めていた。

 だんだん目が慣れてくると、真っ暗だと思っていた川面かわもにはいろんな情景が浮かび上がって来た。向こう岸に延々と連なる林のシルエット、ほの白い夜空、満天の星、頭上から船をかすかに照らす月、その月の光を無数に散りばめた大河のさざ波……。少年たちは放心したまま、デッキを吹き抜ける風に身を任せていた。

 どれくらいそうしていただろうか、夜も深まり、風が少々肌寒く感じはじめたころ、少年たちはどちらからともなく階段を降りて行った。寝る場所を探しているのであろう。

 ボイラー室の横の辺りが蒸気の熱で温かかったので、二人はその隙間に身を隠した。そして子ぎつねのように固まって、膝を抱えて目を閉じた。明日あすはいよいよニューオリンズだね、と囁き合う声が聞こえた。

 一夜明けると、船内はふたたび活気であふれていた。あわただしく朝食の準備をする給仕たちの足音で目を覚ました二人は、そっとその間を抜け、階段を上ってデッキの方へ向かった。デッキから差し込む外光は、キラキラとした朝の光であった。すでに何組かの乗客が、手摺りのきわで朝の空気を楽しんでいた。

 やがて船の前方、はるか遠く、川幅の広くなったミシシッピが大きくカーブする辺りに、白く照らされた街並みが見えた。乗客の一人が指差した。

「あれがニューオリンズだよ」 

 少年たちは手摺りに駆け寄ってそちらを眺めた。

 白い街並みはそこはかとなく、底知れぬ活気を立ち昇らせている。

 おそらくは今までに見たこともない、大きな生き物のような街である。

 彼らが夢にまで見たニューオリンズの街がすぐ目の前にある。船を迎えるように飛び回るカモメたちが、海の近さを教えてくれる。井の中の二匹のカエルが、大海へ泳ぎ出るのはもうまもなくだ。希望に満ちた少年たちの顔を朝日が照らした。

 乗客たちは朝食の準備のととのったホールへ、三々五々集まり始めた。昨夜の豪華なディナーよりはシンプルな、しかし色とりどりのサラダやハムや卵料理などが用意されていた。少年たちもそこへもぐり込み、腹ごしらえのためのパスタを腹に収め、それから非常食用のパンを、ポケットやシャツの間に詰め込んだ。

 それからふたたびデッキへ戻ると、ニューオリンズの街並みはさっきより二倍くらい大きく近付いていた。

「ついに来たね……」

 二人は上陸を待ちきれない様子で、デッキの上をあっちへ行ったりこっちへ行ったりした。

 いよいよデキシー・クイーン号は速度をゆるめ、着岸の体勢に入った。そして出迎えの人々が見守る桟橋へゆっくりと横付けになり、やがて動きを止めると、渡し板が下ろされ、船と陸地が一つになった。乗客たちはめいめい、快適な旅に満足した顔で下船しはじめた。

 紳士淑女に混じって、サニーとテディーも渡し口へ歩みを進めた。彼らだけが場違いな手ぶらであったが、もう誰も見咎める者はいなかった。いざ上陸のとき、二人は両足をそろえてピョンと岸へ飛び移った。二匹のカエルが大海へ泳ぎ出た瞬間であった。

 船の発着所はまぶしい光に包まれ、人々の笑顔であふれていた。少年たちは大きく伸びをした。遊覧船に別れを告げ、人々の流れに沿って歩いて行く。僕らもさわやかな陸地の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 港のすぐそばには見晴らしのいい広場があって、馬にまたがった誰かの銅像が立っていた。その頭ごしに、三つの塔を持つ大きな教会が見えた。広場の脇にはカフェのテーブルが居並び、おしゃべりを楽しむ人々や、新聞を広げコーヒーを飲む人の姿があった。

「これからどこへ行こうか」

 二人は立ち止まって思案している。

「ひとまず、町の中心部を歩いてみよう」

 教会の高い塔を見上げながら路地の奥へ進むと、その向こうから人々のにぎやかな声が聞こえて来た。角を曲がった沿道には、さまざまな物品を売る店や飲食店などが立ち並び、まだ午前中だというのにかなりの人出である。

 二人は目に付いた雑貨の店をのぞいてみた。派手な色合いの服飾品に混じって、奇抜なアクセサリーや舶来ものらしい煙草などが並んでいた。テディーはその一つ、ナイフや栓抜きなどが組み合わさった折りたたみ式の道具を手に取り、目を輝かせた。兄の部屋にあった珍品の数々は、きっとこの辺りからやって来たのであろう。

 すれちがう人々も、さまざまな肌の色が入り混じっていた。

 白人もいて、黒人もいて、浅黒い肌の人や、東洋系の顔立ちの人もいて、男もいて女もいて、老人もいて子供もいた。休暇を楽しんでいる水兵たちも連れ立って歩いていた。

 二人が家出少年だということは、何の問題でもなかった。サニーとテディーは大手を振って道の真ん中を歩いた。

 往来にはどことなく、いろんな外国の匂いが少しずつ混じっているように思われた。僕はニューオリンズの歴史については皆目かいもく無知であったが、大きな川によって大陸の内部とつながり、海をはさんで遠くヨーロッパやアフリカと結ばれているその地理的条件を思うと、この街がさまざまな民族や文化が出会う融合点であるという推測は、おそらく間違ってはいないだろう。

 路の両側に並んだ建物の、ほとんどの二階にはバルコニーがついていて、その手摺りの模様がいつかフランスで見たロココ文化を想起させた。

 チュン太にそのことを言うと、チュン太は「ご名答!」と言った。

「ニューオリンズは昔フランスの植民地だったんだよ。ルイジアナ州のルイってのは、ベルサイユ宮を造ったルイ十四世のルイだ。フランスの雰囲気が残っているのはそのためだよ」

 僕はプチ・トリアノン離宮でくつろぐマリーの姿を思い出した。

 少し上空から見ると、この街がたてよこ格子状の路地から出来ているのが分かった。それぞれの路地は、いずれ甲乙つけがたい活況を競い合っていた。快楽や欲望を肯定する人々のエネルギー、商業がもたらす豊かさと洗練を、僕はあらためて実感した。そのバイタリティーは人間の本能に基づくものであり、生命本来の営みを思わせ、決して嫌な感じはしなかった。

 二人の少年は、あちこち寄り道しながら、陽の当たる路地を歩き回った。見るものすべてが目新しく、ときどき歓声を上げたり手を打ったりした。その喜びと興奮が彼らの全身から伝わって来た。

 繁華街の終わりまで来ると、また大きな広場になっていて、その至る所に人だかりがしている。輪の中をかき分けて覗いてみると、それはアコーディオンやギターの演奏であったり、似顔絵描きであったり、手品師であったり、アクロバットを披露する大道芸人であったりした。大きな管楽器をかかえて練り歩くマーチングバンドの姿もあった。

「メンフィスにもストリート・ミュージシャンはいるけど、こんなにたくさん、しかもこんなに派手なのは初めてだなあ」

 サニーが身を乗り出し、かぶりつきでそれらを眺めている。それぞれの演者の前には、ひっくり返した帽子や空き缶が置かれていて、心付けを入れるようになっている。観客たちは物見遊山ゆさんの気分からか、みんな気前よくチップをはずんでいる。

 昼過ぎになって腹が減ったと見え、少年たちはポケットに詰め込んだパンを齧りながら、それらの出し物を見て回った。

 僕たちも、色とりどりの風船を浮かべたポップコーン売りの方へ近づいて行って、子供たちの食べこぼしたポップコーンをついばんだ。そして噴水を見つけたので、水浴びをして楽しんだ。夏のニューオリンズはとても暑かった。上半身裸の人も多く見られた。白人、黒人いり乱れて広場でくつろぐ姿は、なんとなくアメリカ南部のほかの地域より、差別や偏見が少ないように思われた。これだけ外国人が大勢いれば、肌の色なんか気にしていられないのか、それともこだわりのない若者が多いせいなのか、あるいは偏見を持たない芸術家たちの姿勢がそのまま街の雰囲気になっているのか、おそらくその全てが混じり合って、自由な空気を醸し出しているのであろう。

 よく観察していると、やはりいいパフォーマンスをしている芸人の前には人が集まり、そうでない演者の前には観客はまばらであった。ここではおのずから、芸の「質」による序列が存在しているようだ。

 僕たちはいつのまにか少年たちを見失っていたので、あわてて探してみると、彼らが足を踏み入れていたのは、少し雰囲気のちがう猥雑な区域であった。

 そこは繁華街の中心を少しはずれた、子供が足を踏み入れてはいけない種類の場所であった。まだ昼間なので人通りは少なかったが、ジメジメとした路地には紙屑や生ゴミが散らばっていたり、酔っ払いが倒れていたり、夜の街のあやしげな雰囲気の名残なごりがあった。

 少年たちはそわそわした様子で、しかしこわいもの見たさの好奇の目で、その界隈をうろついた。しかし、ふと二階のベランダに洗濯物を干す下着姿の女性と目が合うと、あわてて逃げ出すように走り抜けた。水商売らしいすっぴんの女性は少年たちの後ろ姿を見てケラケラ笑っている。

 裏道を抜けてしばらく行くと、こんどはいつの間にか、空気のヒンヤリとした、林に囲まれた寂しい場所に迷い込んでいた。薄気味の悪い石造りのくらがたくさん立ち並ぶその界隈は、死者を埋葬する共同墓地の一角であるらしかった。サニーとテディーはお化けの真似をしながら互いを追い回し、キャーッと叫び声を上げてそこを駆け抜けた。じつに愉しそうな様子である。

 またしばらく行くと、大きな裏通りに出て、馬車や自動車がひしめく中に、路面電車の姿があった。そこから先は閑静な住宅街がつづいている。二人は所持金もないので、路面電車のレール沿いに、歩いて港の方へ戻ることにした。文字の読めるテディーが電車の行く先を確かめ、サニーを頼もしく導いた。

 そうこうするうちに時刻は夕方に近づき、街にはポツポツと明かりが灯りはじめた。何度目かに見るミシシッピの夕日はやはり赤々と大きかった。昼と夜の境目は、だんだんと夜の方へ傾いた。

 しかし不思議なことに、初めて訪れる街のよそよそしさはそこにはなく、まるでサナギが蝶に変わるように本領を発揮しはじめたこの街の雰囲気は、両手を挙げて二人の少年を歓迎する親しさにあふれていた。

 昼間いちど通った繁華街をふたたび歩く彼らは、ガラリと雰囲気の変わったその景観にあらためて目をみはった。

 立ち並ぶバーやレストランの看板が赤や黄色や紫に輝き、われこそはこの街一番だと、そのあでやかさを競っていた。大きなトロンボーンの形をした立体的な看板や、ショーガールが手招きをするように点滅するネオンサインもあった。人ごみに押され、二人の少年は圧倒された顔でそれらを見上げた。二階のバルコニーから、ビールジョッキを持った人々がこちらを見て笑っている。しかしそれよりも何よりも、この街にはさまざまな「音楽」があふれていた。

 開け放たれた店々のドアからは、表からもチラリと中の様子を伺うことが出来た。観客の取り囲むステージの上でサックス奏者が派手なパフォーマンスを見せていたり、躍らせるのが目的のお店ではきらびやかなミラーボールが回転していたり、音楽の種類もジャズ、ラグタイム、ブルース、ソウル、カントリー、ラテンなど、まさに色とりどりであった。通りを歩く人々は、漏れてくる音を聞きながら、自分の気に入った店を見つけると、吸い込まれるように中へ入って行った。お店によって、入口で入場料を払うところや、見るだけなら無料フリーの店もあった。もちろん、すべての店は娯楽のためのものであったが、趣向はピンキリで、正統派の音楽を聞かせる店から猥褻わいせつすれすれのいかがわしい店まであった。 

 僕は、上半身裸の女性が露わな胸を揺らして踊っている店を見つけ、思わず立ち止まって食い入るように見ていると、チュン太に羽を強く引っ張られてしまった。

「ぼんちゃん!何してるの!サニーとテディーを見失っちゃうよ。早く!」

 うしろ髪をひかれる思いで、しぶしぶ先を急ぐ。少年たちはいつの間にか人ごみをすり抜け、ある古びたライブハウスの前で釘付けになっていた。サニーが率先して中を覗いている。しだいに聞こえて来たのは、重厚な泥臭いブラックミュージックであった。

「ボク、このお店に入ってみたいな。いいかい、テディー」

「ダメなわけないさ」テディーが肩をすぼめる。

 二人は大人たちの間にもぐり込み、立ち見席へと進んで行った。さいわいこの店は出入り自由なスタイルの、ドリンクの注文によって収入を得ている店であった。観客たちは皆ビールやウィスキーのグラスを片手に、いい塩梅あんばいに酔っぱらってステージに熱狂している。少年たちがもぐり込んでも勿論もちろんだれも気にしなかった。店内にはアルコールと煙草の匂いが充満している。 

 僕とチュン太も、大きな音響と人々の喧騒にまぎれて、すんなりと中へ入り込むことが出来た。そして天井からステージを照らしているライトの陰にかくれ、ステージを見物した。

 ステージ上には左からドラム、ベース、エレキギター、オルガン奏者がそれぞれどっしりと構えていた。みな年季の入った黒人ブルースマンたちで、演奏している曲はスローで骨太なブルースであった。客席には、いい場所に陣取った少年たちの後ろ頭が見えた。

 僕はテレキャスターというギターを弾くギタリストの、太くて黒い指が器用にフレットを押さえるところを注目して見ていた。チョーキングという、弦を押し上げて音を変える場面では、それに合わせて奏者の顔もくしゃくしゃになり、観客の気分を盛り上げた。僕も思わずうっとりとその甘く鋭い音に聴き入った。

 ドラマーの乱打で一曲が終わり、シンバルの響きが鳴り止まないうちに、客席からは歓声や口笛が飛びかった。客席とステージは一体となって異様な熱気に包まれていた。

 ギタリスト兼ボーカルの、バンドリーダーらしいがっしりとした男が、拍手の間をぬって客席に呼びかけた。

「みんな、ハッピーかい?」

 客席からは、それに答える歓声が上がった。

 男は満足しない様子で耳元に手をあて、

「みんな、ハッピーかい?」

と、さらに大きな声で問いかけた。

 観客はさっきより大きな声で答えた。

「みんな―――ハッピーかい?」

 最大の呼びかけに、客席も最大の熱狂で答えた。

 男は観客をあおるように、

「もっと欲しいかい?」 

 客たちはトーンを落とさずに叫び返した。

「もっと欲しいかい?」

 この応酬が何度かくり返されたのち、なだれ込むように次の曲が始まった。観客は興奮と狂おしさで陶然となった。

 こんどの曲は、ドラムとベースとギターが同時にリフレインを奏で、その合い間に小気味よいタイミングで、問いかけるような歌が入るというスタイルの曲であった。ボーカリストはときに小さな声になったり、ときに叫び声になったりして、巧みに観客の心をつかんだ。観客はわれ知らず恍惚となって身を震わせている。

 ふと、サニーを見ると、彼はいつの間に取り出したのか、自分のハーモニカを口にくわえて、いま聞き覚えた曲のフレーズをバンドと一緒に客席から吹いていた。

 その演奏があまりに曲になじんでいるので、まわりの客たちは少年が吹いていることにしばらく気がつかなかった。テディーは横目でおっかなびっくりサニーの顔を覗いている。

 ステージで歌っているバンドリーダーは、演奏に集中しながらも、さすがにバンドにない楽器の音が分かったようで、客席でハーモニカを吹くサニーの顔を、半ばあきれながら見つめている。そしてそのまま演奏をつづけ、曲が終わると同時に客席へ降りて行って、盛大な拍手の中サニーの腕をつかんだ。サニーはそのとき初めて我に返り、自分が演奏の邪魔をしていたことに気がついたようであった。彼にとってはほとんど無意識のふるまいであったが、たしかにマナー違反には違いなかった。

 腕をつかまれたサニーは、なんとそのままステージに引っ張り上げられ、バンドリーダーの横に並ばされた。テディーが客席からハラハラと見つめている。

「みんな!」

 バンドリーダーが客席に呼びかけた。

「今日はスペシャルなゲストがいるよ。俺もすっかり忘れていた……」

 リーダーが大きな手をサニーの頭の上に乗せた。サニーはたれるのかと思い、一瞬首をすくめた。

「……坊や、名前はなんと言う?」

 リーダーが耳打ちするようにサニーに訊いた。

「サ、サニーです」

 リーダーはふたたび客席に向かって声を張り上げた。

「レイディーズ・アンド・ジェントルメン!紹介しよう。サニー坊やボーイだ!」

 観客たちは調子を合わせて拍手喝采した。しかしその歓声の中には、このやせっぽちの黒人少年を、せいぜい笑い者にしてやろうという悪意も含まれているように思われた。

 リーダーはまたサニーに耳打ちをし、「ブルースは吹けるかい?」と訊いているのが、口の動きで分かった。サニーはこわごわと二度うなずいた。

 バンドのメンバーたちは、うっすらと笑みを浮かべながら、ハーモニカを持つ少年を眺めている。やがてリーダーは、軽く打ち合わせをしたあと、カウントに合わせて小気味よいリズムギターを刻みはじめた。アップテンポの軽快な曲であった。

 僕とチュン太は、思わぬ展開に互いの顔を見つめ「大丈夫かな……」と囁き合った。バンドはどうやら名の通った大御所たちの集まりのようである。

 リーダーは比較的地味な感じでワンコーラスめを演奏し、ちらっとサニーの顔を見た。こんな感じだぞ、ということを、サニーに教えているようであった。サニーは手にしたハーモニカをまだ口に構えてはいなかったが、その足元は曲に乗って小さくステップを踏み始めている。

 やがてリーダーはリズム・キープをオルガンに任せて、少々派手めのギターソロを弾いた。観客はとたんに盛り上がった。リーダーはマイクに向かって叫ぶ。

「♪オレの名前を知ってるかい……♪」

 曲は単純な、分かりやすい内容の歌詞であった。

「♪オレの名前を知ってるかい?

  ミシシッピのド田舎に生まれて

  はるばるニューオリンズまでやって来た

  オレの名前を知ってるかい……」

 歌の合い間に弾くギターが、身ぶるいするほどカッコよかった。僕は思わず尻っぽでリズムを取った。

 そしていよいよ、サニーがハーモニカを口にくわえ、演奏に参加するようである。マイクとハーモニカを同時にてのひらで包み、リーダーの歌に合いの手を入れるように、ブルージーなフレーズを奏でた。

 はじめは遠慮がちに吹いていたが、その短いフレーズの中にも、サニーの独特のセンスが光っていた。きらびやかなハーモニカの音色ねいろは、バンドの音にまるで金色の粉をふりかけたような彩りを添えた。リーダーはご機嫌な顔で、いいぞ、その調子、とサニーに目くばせをする。

 ホールに響く自分の音に気をよくしたのか、サニーの出す音はだんだんと力強くなった。リーダーのギターにからむように、あるいは追いかけるように、またときには一気に追い越して羽ばたくように、サニーのハーモニカはホールを駆けめぐった。バンドのメンバーたちも感心して少年のパフォーマンスを見つめている。

 サニーがみんなの意表を突くようなタイミングで、ひずんだロングトーンを鳴らした時には、観客たちは大喜びで歓声を上げた。

 バンドリーダーは愉快そうにサニーを見て笑っている。

 そして、負けじとばかり、ギターのボリュームを上げ、本気のギターソロを弾きはじめた。アタックの効いた歯切れのよい音が、ホールの空気をするどく切り裂く。こういう、明るい曲調なのにドスの効いた感じが、ブルース音楽の特徴である。リーダーの太い指は縦横無尽にフレットの上を移動し、魔法のようなメロディーをつむぎ出す。ときにチョーキングを交えたり、ときにスライドさせたり、またトリッキーなフレーズで観客をけむに巻いたり、彼自身が楽しんでいる様子がひしひしと伝わってくる。サニーはしばしハーモニカを吹くのを止め、リーダーの名人芸を味わっている。見ている間も、首をニワトリのように動かしてリズムを取る表情がなんともいえずカッコいいのだ。

 いつの間にか会場は一体となって興奮の渦の中にいた。自然と湧き起こる手拍子が、メンバーたちの演奏をさらに盛り上げる。

 リーダーはソロの締めくくりをトリルによって伸ばしながら、サニーの顔を見た。サニーはすでに自分の出番であることが分かっていたようで、そのトリルにかぶせるように高い音を思い切り鳴らした。息の合った二人のバトンタッチに、僕は音楽の「魂」のようなものを感じ、鳥肌が立った。

 サニーのハーモニカは、なにより「リズム感」が抜群であった。早いテンポにもかかわらず、逆にそれを手玉に取るように、あるいはもてあそぶように、軽快なメロディーを見事に曲に乗せた。バンドのメンバーたちも、思わず笑い声を上げている。

 とても初めてバンドに合わせているとは思えない、圧巻のパフォーマンスであった。

 もっともこの少年は、人と合わせて演奏するのが決して初めてではないのである。

 思えば幼い頃、いつも父親と一緒に馬車に乗ってハーモニカを合奏していた。父親のマイケルに手ほどきを受け、はじめは歯切れの悪い広がった音しか出せなかったが、しだいに美しい澄んだ音が出せるようになった。そしていろんな技術を一つ一つ父親に譲り受けながら成長した。彼はふだんから、どんなときもハーモニカを手放さず、うれしい時も哀しい時も、その思いをハーモニカで表現した。

 父親から教わった「ベンド」の技術も、いまでははるかに父親を凌駕りょうがする腕前になっていた。「ベンド」というのは、ここぞというタイミングで、わざとらすように、ひずんだ音をねばり強く伸ばす奏法である。その待たされた思いがいろんな感情を呼び覚まし、観客の心にかげりのある気分を生じさせるのだ。そしてそれが一気に解決に向かうとき、人々は言いようのないカタルシスを味わう。ブルースの真骨頂である。観客はサニーのハーモニカに、我を忘れたように恍惚こうこつとなった。

「すごいよ、サニー……」

 客席ではテディーが目に涙を浮かべながら、感動して聴いている。

 演奏はさらなる盛り上がりを見せ、すこし猫背の格好でハーモニカを吹くやせっぽちの少年は割れんばかりの拍手と歓声を浴びた。そして、ちょっと遊び心のあるフレーズでソロ・パートを締めくくろうとしたとき、リーダーが「まだまだ」という顔でサニーを煽った。

 リーダーはサニーの遊び心に刺激されたように、切れ味のいいギターでそれに絡んできた。サニーもそれを察して、ふたたび攻撃的な音をぶつける。リーダーが顔をゆがめながら渾身のビブラートを効かせる。サニーが手をひらひらさせてそれに応える。演奏はさしずめ、互いに譲らぬ、魂と魂がぶつかり合う合戦バトルの様相を呈した。

♪オレの名前を知ってるかい……♪

 リーダーが歌をくり出す。

  オレの名前を知ってるかい?

  ミシシッピの真ん中に生まれて  

  はるばるニューオリンズまでやって来た……

 観客は総立ちになって、彼らの生み出す音楽に酔いれている。

 リーダーとサニーが、はからずも同じフレーズを同時に奏でたとき、興奮は最高潮に達した。サニーも思わず笑みをもらした。

 ―――オレの名前は……

 リーダーがアドリブの歌詞でしめくくった。

 ―――サニー・ボーイだ!

    覚えとくがいい!

 演奏はブルースの常套句のようなフレーズでエンディングを迎えた。ドラムロールに合わせ、それぞれの楽器が余韻をもてあそぶ中、客席からの大喝采がそれを搔き消した。

 リーダーはハーモニカを持つサニーの右手を高々とかかげ、客席に向かって叫んだ。

「サニー・ボーイ!大した仲間ヤツだ。小さなミュージシャンに大きな拍手を!」

 観客はすっかりこの少年のことが好きになり、惜しみない拍手で彼を迎え入れた。中には、拍手だけでは気がすまず、サニーの足元におひねりを投げる者もいた。すると他の客からも、つぎつぎと硬貨やお札が飛んで来た。ステージ上はまるで、お正月の神社のように、ばらまかれたチップでいっぱいになった。

「これでメンフィスへ帰るお金が出来たね……」

 僕はチュン太にそう呟きながら、サニーの成功を祝福した。

「ところがね、ぼんちゃん。サニーはメンフィスどころか、このあとアメリカ全土に羽ばたく人気者になるんだよ。ミシシッピに泳ぎ出た自由なカエルのようにね……」

 チュン太がいたずらっぽく含み笑いをした。

「えっ、どういうこと?」

「ちょっとそっちへ行ってみようか」

 僕らはここでサニーとテディーに別れを告げ、煌々と夜の闇に浮かび上がるニューオリンズをあとにした。

 辿り着いたのは、見渡すかぎり荒涼としたミシシッピの原野であった。家出少年たちがニューオリンズを目指してさまよい歩いた辺りである。綿花畑やトウモロコシ畑のほか、視界をさえぎるものは何もない。真っ青な空に雲が悠々と浮かんでいる。

「ここがどうしたの……」

 僕がキョロキョロとあたりを見回すと、そこには一つだけ、かつての風景とちがうものがあった。

 それは、平野を貫く一本道が、砂ぼこりの舞うデコボコ道から、舗装されたアスファルトに変わっていることであった。産業用のきれいな道路がどこまでもまっすぐに伸びている。道路脇の青い標識には「ルート61」とあった。

「……あれから何年か経って、アメリカ南部も工業化が進んだんだよ。畑にはトラクターが導入され、輸送手段も馬車から大型トラックへと変わった。のどかな風景と人々の貧しさは相変わらずだけどね……」

 チュン太が言った。

「ふうん。時代は変わるんだね……しかし、それとサニーの活躍と、どういう関係があるの?」

「あれをごらん……」

 チュン太が指さした先には、道路沿いの草深い空き地に横付けるように、一台のトラックが停車しているのが見えた。

 近くへ寄ってみると、エンジンはかけっぱなしで、中からカーラジオの音楽が聞こえて来る。運転席をのぞいてみたが、誰も乗っていない。

「なんだろう?」

「……よく音楽を聞いてごらんよ」

 言われて耳を澄ますと、それまでシャカシャカとしか聞こえなかったカーラジオの音が、だんだんはっきりと聞こえて来た。それはノリのいいブルース系の曲であった。軽快なリズムからは、ロックの萌芽のようなものが感じられた。そして歌の合い間に聞こえて来るきらびやかな音色ねいろは、まさに聞き覚えのあるサニーのハーモニカであった。

「まさか……!」

 チュン太はニッコリと笑っている。

 そのとき、トラックの向こう側の草むらから何か物音がした。僕らはとっさに隠れるようにトラックの下にもぐり込んだ。そして、車輪の下から向こう側を観察すると、茂みの辺りでジョボジョボという放尿の音がした。その音はしばらく続き、やがて止んだ。

 水音のぬしは、トラックの運転手らしい若い男であった。男はジーンズのチャックを上げながら、こちらへ戻って来る。スタイルのいい、なかなかハンサムな白人の若者だ。

 そしてドアを開け、ステップを踏んで運転席に乗り込んだ。

 男はすぐには走り出さず、カーラジオから聞こえて来る曲に耳を澄ませ、ボリュームを上げた。

「……やっぱり、サニー・ボーイのハーモニカは最高だな……」

 そうつぶやきながら男はリズムに合わせて、ハンドルを軽快にタップした。僕はその、み上げの長い、端正な顔立ちにどこかで見覚えがあった。

 それが誰だか分かったのは、男がサニーの吹くハーモニカに合わせて、思わずハミングをした時であった。その甘くて深い声色こわいろは、ロックの元祖とも言うべき、あの大スターであった。

「エルビス・プレスリーだ!」

 チュン太は、さすがぼんちゃん、という顔で僕を見た。

 ロックの歴史をさかのぼるとき、かならずき当たる最も重要な人物がエルビス・プレスリーだ。彼がいなければ、ビートルズも、ローリングストーンズもなかったと言っていいくらい大きな存在である。白人なのに黒人の感性をあわせ持つこの若者によって、黒人の精神スピリットと白人のポピュラリティーが融合され、ロックという若い音楽が世界へ広められることになった。それは奇跡でもあり、また必然でもあった。そしてそのエルビスの感性に、少なからずサニーのハーモニカも影響を与えたわけである。

「歴史の流れは、すべてつながってるんだね……」

 僕はあらためて感慨を深くした。

「……さらに面白いのは、リンカーンの奴隷解放宣言から百年経った一九六〇年代に、いまだ黒人差別が根強く残るアメリカ南部において、黒人の市民権獲得をめざして立ち上がった公民権運動の指導者たちの中に、ポピュラー音楽の愛好者が多いことだよ」

 チュン太の言葉に、僕は大きくうなずいた。思えば黒人たちの唇にはつねに歌があった。とくに彼らの音楽が、弱者の心をなぐさめ勇気づけるものであることを思うとき、その結び付きはきわめて当然の成り行きであった。

 チュン太は「もうすこし時代をくだってみようか」と言った。「そう遠くない所だから……」

 僕らが次に降り立ったのは、其処彼処そこかしこに南部の香り漂うアラバマ州の黒人教会であった。アラバマと言えば、かつてサニーのお祖父じいさんにあたるチャドが、アフリカから奴隷として連れて来られた町である。

 教会は見渡したところ、もよおしのない平日と見えて、来訪者の姿は一人もない。おそるおそる裏から窓を覗いてみると、一人の若い牧師が、どうやら説教の練習をしているようである。

「うーん……ここはもう一度くり返した方がいいかな。その方がみんなの印象に残る。しかし、あまりくどくど言うのもどうだろう。聴衆はくどいのが嫌いだ。もっとも、説教というのは元々くどいものだけれど……」

 などと独り言を言いながら、壇上から誰もいない客席に向かって、ずんぐりとした牧師が台本を辿っている。張りのあるいい声だ。しかし、少し緊張ぎみの様子は、まだ牧師になって日も浅く、経験も少なそうである。

「誰だと思う?」

 チュン太が訊いた。

 僕は思い当たる名前が浮かばず、小首をかしげた。「誰だろう?」

「マーティン・ルーサー・キング牧師だよ。神学校を出て、この教会へ赴任して来たばかりだ。初々しいね」

「なんか名前は聞いたことあるな。たしか、公民権運動のリーダーだっけ、黒人の権利のために闘って、最後は暗殺された人だろう?」

 僕はいつかテレビで見た、聴衆を前に演説するキング牧師の勇姿を思い出した。その堂々とした喋りっぷりは、人々の心を捉えて離さない様子であったが、目の前にいるこの牧師からは、まだそれほどの貫禄は感じられなかった。どちらかと言うと、どこかたよりない印象さえ与えた。

「初めっから立派な人間はいないよ。だんだんと時代が人を作っていくんだ」

 チュン太が僕の表情を見てそう言った。

 キング牧師は何度か声を張る練習をしたものの、いまだ納得のいかない様子で、ため息をつきながら演台を降り、とぼとぼと控室の方へ向かった。

 僕らも裏庭へ回って控室を覗くと、だらりと椅子に凭れた牧師が不安そうな目で天井を見つめていた。明日あしたまでに間に合うかな、と小さく呟いている。

 控室には、つけっ放しのラジオから音楽が流れていた。

 軽快な曲の中で歌っているのは、やはり聞き覚えのある声であった。

 ―――ザッツ・オール・ライト・ママ

    大丈夫さ

    ザッツ・オール・ライト!

 甘くて深い、しかし若者らしい荒々しい声のぬしは、あのエルビス・プレスリーであった。

「エルビスの、たしかデビュー曲だよ、これ……」

 僕は思わず尻っぽの羽を振った。チュン太も同じく小さな尻っぽを振っている。

 キング牧師は、椅子に凭れて目を閉じたまま、聞くともなくそれを聞いている。

 ―――ザッツ・オール・ライト

    大丈夫さ

    何をやってもいいんだ

    君の好きなようにやればいいさ

    ザッツ・オール・ライト!

 しばらく黙って耳を傾けていたキング牧師は、いつか眉間みけんのシワが伸びて、だんだんとなごやかな表情になるのが分かった。そして最後には白い歯を見せてニッコリとした。牧師は大きく目をみひらき、「よし!」と言って椅子を立ち上がった。

 気分が変わり、元気が出たようである。

 音楽の力おそるべし、である。

「……そんな風にして、牧師の仕事もようやく板に付いたころ、彼のもとへ一本の電話がかかってくるよ。黒人に対して差別的な態度をとるバス会社を、ボイコットしようというものだった」

 チュン太が早口に言った。

「えっ、どういうこと?」

 僕は訊き返した。

「……そのころ南部の諸州では、町のいろんな場所が白人用と黒人用とに分かれていたんだ。水飲み場やトイレ、待合室やレストランの席に至るまで、いろんな所に〝ホワイト〟〝有色人カラード〟と貼り紙がされていた。黒人と同じものなんか使いたくない、という白人の差別意識だね。黒人への暴力行為も日常茶飯事だった」

「人間ってのは幼稚だね」

「……バスの座席も、前から何列は白人用、うしろから何列は黒人用、真ん中あたりは共用だけど、もし白人が乗って来たら黒人は譲らなければならない、という決まりだった。それが州の法律だったんだ」

「バカな……」

「ところがある時、混んだバスで、真ん中あたりに座っていた黒人女性が、白人が来ても席を譲らなかった。彼女は思うところあって、世の中の間違った風潮に一石を投じようとしたんだ」

「勇気ある女性だね」

「案の定、彼女は運転手に引きずり降ろされ、そして結局、逮捕されてしまった。しかし、これはやはりおかしいと、仲間の運動家たちが立ち上がることになった。で、そのころ地元で人望を集めていたキング牧師に協力を求めたんだ」

 僕らはふたたび教会の窓を覗いてみた。

 控室にはバス・ボイコットのための準備をすすめる人たちが大勢集まっていた。その中心にキング牧師がいた。

「みなさん―――リンカーンの奴隷解放宣言からそろそろ百年が経とうというのに、われわれ黒人の暮らしぶりはどうでしょうか。手かせ足枷はとれたと言うものの、いまだわれわれの生活は半ば奴隷のような服従をいられています。おそらく白人の中にも、人間は平等に造られていると信じる人々はいるのでしょう、彼らもキリストの御子みこだからです。しかし、彼らの弱い心がそうさせるのか、あるいは利己心がそうさせるのか、そのことを態度をもって示すことの出来る人は、悲しいかな非常に少ない。川の流れを変えることは、さようにむずかしいのです。しかし、われわれはそれを変えなければならない。そしてそれは変わるのです。先人たちの足跡そくせきが、われわれに力強くそのことを示してくれています」

 みんなに語りかける牧師の目は真剣であった。いつかの不安そうな目とは明らかに一線を画していた。周りの人々はテーブルの上でチラシを折りながらそれを聞いている。ボイコットの内容を黒人住民に知らせるための広告を、手分けして作成しているようだ。

「……一人ひとりの力は小さくても、その力が多く集まったときに、川の流れは変わるのです。それには、変わるという希望を持つことです。そしてほんの少しの忍耐力を。―――なんじの敵がほんとうは敵ではなく、いつか味方に変わるのだということを、われわれは愛の力をもって示しましょう」

 人々はキングの話に引き込まれて、大きくうなずいている。牧師はいつのまにか押しも押されぬ強力なリーダーに変貌している。

 やがて何千枚かのチラシが出来上がると、人々は顔を輝かせながら、それぞれの手にチラシの束を持って、受け持ちの地区へと散って行った。

「……ボイコットを成功させるには、綿密な事前準備が必要だよ。みんながタイミングよく、一斉にやらなければ効き目がないからね……」

 それはある意味、無関心が主流の平成の日本と、もっとも遠い時代かもしれない、と僕は思った。

 そのころ牧師はというと、さっそく、協力してくれるタクシー会社に電話をかけ、ボイコットの期間中、バスと同等の料金で黒人たちをタクシーで運んでくれるよう交渉していた。根回しも周到である。

 ふと、だれかが落として行ったチラシを見つけ、僕は覗いてみた。

 ―――十二月五日、月曜日、朝。ボイコット決行――― 

 僕らは十二月五日へと飛んだ。

 そこはキング牧師の自宅前であった。すぐ目の前の大きな道路沿いにはバス停がある。

 窓からはキング牧師とその奥さんが、外の様子を心配そうに眺めている。バスはまだ来ない。それは今のところ、ごく当り前の静かなバス停の風景である。

 はたして、今日の行動の趣旨を、黒人住民たちにうまく伝えられたであろうか。

 自分たちがバスに乗らないというささやかな抵抗が、全体としてバス会社に大きな打撃を与え、変化を促すきっかけになるという、その狙いを――

 キング牧師の不安そうな表情からは、期待やいら立ち、あきらめや焦りなど、いろんな思いが読み取れた。

 そしてバスが来た。

 いつもは黒人労働者で満席のはずのバスに、もし人が成功である。

 僕とチュン太も身を乗り出した。はたして結果は……?

 近づいて来たバスの窓からは、向こう側の空が透けて見えた。ガランとした客席には誰も乗っていない!

 キング牧師と奥さんがカーテンの陰で抱き合って喜んでいるのが見える。 

 さらによく見ると、リュックを背負しょって沿道を歩く人や、みずから調達した馬車で職場へ向かう人、ヒッチハイクをする人、それから乗り合いのタクシーを利用する人と、黒人たちはそれぞれ、バス以外の手段で、各々おのおのの目的地へと向かっているのだ。

 ボイコットは大成功であった。

 黒人の住民たちはみな、その行動の意味を十分に理解していた。

 あるいはおそらく、彼らは誰かがそれを言い出してくれるのをずっと待っていたのかもしれない。歩く人々の表情は明るく誇りに満ちている。 

 期待した以上の成果に、キング牧師は大いに自信を得た表情である。

「……それから次の日も、また次の日も、住民たちはボイコットをつづけるよ。この町はとくに黒人労働者が多いから、みんないっぺんに行動に出ると、バス会社も相当の痛手をこうむる。いままで経営に胡坐あぐらをかいていたのが、そうもいかなくなる」

「暴力を使わない、うまいやり方だね」

「……そしてキング牧師は、ある程度効果があったと見るや、バス会社に改善要求を突きつけるんだ。もちろんバス会社の方も、かんたんには折れない。キングたちはさらに抵抗をつづける」

「持久戦だね」

「持久戦には気力と体力が必要だ。みんなが団結してやらないと、なし崩しになってしまう。ところが黒人たちにはそれを続けるだけのがあった……」

 チュン太の顔も情熱に満ちている。

「……それは何世代にもわたって差別されてきた人々の、積もり積もったエネルギーだったのかもしれない。ぼんちゃん、あの老婦人をごらんよ」

 チュン太が指さす方を見ると、歩道の上を歩く一人のお婆さんが、杖をつき、足を引きずりながら、ゆっくりとした足取りで歩みを進めているのが分かった。

 その歩き方の痛々しさに、見かねたキング牧師がお婆さんに駆け寄り、背中を支えながら言っている。

「あなたはもういいですよ。もう充分すぎるほど歩いた。どうか車に乗って下さい」

 ところが老婦人はキング牧師の手をさえぎり、歩くのをやめようとしない。まるでそのたどたどしい一歩一歩で、何かを手繰たぐり寄せようとしているかのように。

「とんでもない。私も歩きますよ。歩かせて下さい。私は愉しいのです。たしかに私の足は痛むけれど、私の心は晴れ晴れとしています。私は私のために歩いているのではない。私の子供たちや孫たちのために歩いているのです。孫たちの、希望に満ちた将来のために……」

 キング牧師は目に涙を浮かべた。

 こんな弱々しいお年寄りにいたるまで、自分たちの意図は伝わっていたのだ―――

 キングたちの行動は新聞にも取り上げられ、心ある人々の中に多くの賛同者を生んだ。運動は一つの「潮流」を成した。しかし、急進的な白人の中には、彼らの行動を快く思わない者もあった。

「……キング牧師の家には、爆弾が仕掛けられるよ。そのとき彼は不在だったけれど、奥さんや子供たちが危うく大怪我しそうになった。帰宅した牧師は、惨状を見て絶句しつつも、集まって仕返しを企てる黒人たちに、こうさとしたんだ」

 ―――みなさん。暴力に暴力を以て報いたのでは、何も生まれません。さらに大きな暴力を生むだけです。右の頬を打たれれば、左の頬を差し出せ。キリストの愛を実践するのは、今まさにこのときです。汝の敵はほんとうの敵ではない。彼らにも良心はあります。その良心に訴えるのです。ほんとうの敵は、彼らの中にある「弱い心」です。「弱い心」は暴力をエサに、さらに成長します。彼らに手を上げてはなりません―――

 集まった群衆は、キング牧師の冷静なまなざしと力強い言葉に諭されて、振り上げた拳をしずかに降ろした。自分の家を破壊され、家族が危険にさらされても、さらに揺るがない牧師の信念に、人々はこうべを垂れざるを得なかった。

「……キング牧師は神学校時代に、インド独立の父マハトマ・ガンジーの『非暴力思想』に学んだんだよ。それがキリストの愛の教えとも重なって、彼は意を強くした。そして『非暴力』を、彼の一生を貫く信条として掲げ、以後迷うところがなかった」

 僕はいつだったか、信ちゃんが校庭でいじめられていたとき、彼を助けるためとは言え、安易な考えから暴力で解決しようとした自分の愚かさを恥じた。そしてふたたび、キング牧師の目の輝きを見た。それはすでに歴史上の人物の目であった。

 しかしそれと同時に、僕は非暴力を掲げる牧師が、最後はあえなく凶弾に倒れるという、暴力の前に屈するかたちで死を遂げた史実を思い出した。

 理想と現実はちがう。往々にして善は悪に駆逐される。世の中は必ずしも正義が勝つとは限らない―――そんな気弱な思いにかられ、僕は暗澹とした。

 しかしチュン太を見ると、彼は意外に明るい顔をしている。

 思えば、チュン太といっしょにいろんな時代を旅して来て、僕はいろんな時代の暴力の姿を見た。人間は問題解決の手段として、手っ取り早く暴力を使う。川の流れを変えるのに、暴力は一つの有効な手段だからだ。しかし、き止められた川がいずれ他の場所から氾濫するように、暴力による強引なやり方では、かえって問題を大きくしてしまう。暴力の炎はさしずめ、同時代的に横に広がり、一気に勢力を増す、火事場の「赤い炎」のようなものだ。

 それに対して非暴力の炎は、静かにめらめらと燃えつづける小さな「青い炎」と言えよう。それは時代を超えて、心ある人々の胸から胸に飛び火する。あたかもマハトマ・ガンジーの思想がキング牧師の胸中に宿ったように……。たとえキングの肉体が滅びても、彼の抱く思想は次の時代の良識ある人々に受け継がれ、縦につながって行く。そしていつか、川の流れは向きを変え、人々の望む自然な方向へ、おだやかに導かれて行くのだ……

 僕はそう気を取り直し、チュン太の方を見ると、彼は「その通り!」という顔で微笑んでいた。

 キングたちのしずかな抵抗運動は数ヶ月に及んだ。住民たちも、貧しい生活をやりくりしながら、出来るかぎりそれに協力した。

 攻防は一進一退をくり返し、キングは何度も投獄され、また釈放された。

「……留置所のキング牧師は、形勢の不利を憂いながらも、ふとあることに気付くんだ」

 チュン太が言った。

「まだ打つ手があるのかい?」

「新聞やテレビなど、マスコミの発達したこの時代ならではの作戦だよ。マスコミはアラバマ州でのこの小さな衝突を全国的に大きく報道した。国民は自分たちにも関係のある、決して無視できないこととして、この問題を取り沙汰した。キングたちにとっては、人種差別の現状を全国に訴える大きなチャンスになったんだよ。『投獄』という事実も、そう考えると彼らにとって有利になる」

「なるほど。逮捕投獄を逆手さかてに取ったのか―――」

 僕は合点した。

 そしてある日、おそらくは世論の後押しもあったであろうか、連邦最高裁がようやく出した判決は、『アラバマ州の差別的な法律は合衆国憲法に反する』というものであった。

 キングたちは勝利した。

 州の条例は改められ、バス会社は人種による座席の区別をやむなく撤廃した。

 そして、この一連のボイコット運動の勝利を記念して、キングと友人の白人牧師が、並んでバスの座席に座るというパフォーマンスをマスコミの前で行った。

「時代は変わりつつあるね……」

 僕は胸を熱くした。

「ただし、そう平坦な道のりではない……」

 チュン太がまた険しい顔つきになった。なかなか一筋縄ではいかないようだ。

 バス・ボイコット運動で一躍有名になったキング牧師は、それ以降、各地の講演会に呼ばれたり、市民団体の代表をつとめたりと、多忙な日々を迎えることになった。

 黒人の地位向上をめざす運動は「公民権運動」と呼ばれ、かつての奴隷制容認の州であったアメリカ南部を中心に盛り上がりを見せた。

 黒人たちはそれまで、さまざまな虐待に対して耐え忍ぶ一方であったのが、しだいに団結して抵抗する姿勢を見せはじめた。また理想に燃える学生たちも、いろんな場所でまかり通っていた差別的なルールを、わざと破ってみせる示威行動に出た。

「みんなでやれば心強いね……」

 しかし、保守的な白人層からの反発も強かった。

 彼らにしてみれば、それまで従順であった飼い犬が、急に牙をむき始めたようなものである。生意気な黒ん坊ニガーに対して、陰におもてに、暴力を振るったり、残虐な殺人にまで発展したりした。目を覆いたくなるような事件も相次いだ。

 キングに対するいやがらせもエスカレートした。

「家に爆弾を仕掛けた」とか「家族を殺す」といった脅迫電話が、一日に何十本もかかって来た。講演会で暴徒に襲撃される事件も起こった。

 キングは心身ともに疲労困憊した。

 息づまるような時代の緊張の中で、見ている僕も身がこわばる思いであった。

「……どうしてこう、世の中というのは、うまくいかないんだろうね……」

 僕は、バスが爆破されるシーンや、学生たちが小突き回され頭にケチャップをかけられるシーン、黒人たちの死体がたくさん木にぶら下がっているシーンなどを立て続けに見て、大きなショックを受けた。

 チュン太も困惑の表情を隠せない。

 かたや奴隷としてさげすまれ、世の中の潮流に乗り遅れた黒人たちと、かたやいち早く文明を築き、繁栄を謳歌してきた白人たち。彼らが社会的に肩を並べる時代はもうすぐそこに来ているのに、その変化はいらだたしいほど遅々ちちとしていた。進んでは後戻りをくり返し、また多くの犠牲を払った。

 時代は東西冷戦の時代―――世界はアメリカを中心とする資本主義の国々と、ソ連を取り囲む社会主義の国々が、どれだけ核兵器を多く保有しているかによって、力比べをするという、実にバカげた時代であった。人間というのはほとほと愚かなものである。飛行機を発明してわずか六十年で月に到達した人間―――その賢いはずの人類が、その一方で、いったい何をやっているのであろうか。

 おそらく、一人ひとりの人間はまっとうな生活を営み、ささやかな幸福を追求しているつもりなのであろう。

 ある者は神を支えとし、ある者はそれに代わる「善良なもの」を信じて、よりよい社会を目指しこそすれ、ゆめゆめ意図的に「悪」をそうとする者など一人もいないに違いない。それなのに、一人ひとりは善良なはずの人間が、寄り集まるととたんに判断力をなくし、利己的で排他的な集団と化すのはなぜであろうか。そして自分たちがいつのまにか造り上げた幻想のモンスターに、知らず知らずのうちに足元をからめとられている。しかもそのモンスターがどこへ向かうのか、何をゴールとするのか、そこから先はいっさい関心を持たないらしいのだ。あるいは持ったとしても、肥大化しすぎたモンスターを、もはや自分たちの力ではどうにも制御できないでいる―――

 僕は人間という存在が蟻のように小さく思えた。

 そしてその蟻のような人間たちがいかに寄り集まったところで、はたして川の流れを変えることが出来るであろうかという絶望に、ふたたび襲われた。

 時は一九六三年八月―――うだるような夏の暑い日―――リンカーンの奴隷解放宣言からちょうど百年目にあたる年を記念して、首都ワシントンで大きな集会が開かれた。僕は重たい心を抱えつつ、チュン太とともにそちらへ飛んだ。路上を走る車の型式を見ながら、一九六三年は僕の父が生まれた年であることを思った。

 会場はざっと数万の人で埋め尽くされていた。リンカーン記念堂前の大きな広場には、文字通り蟻のような群衆が大挙して詰めかけていた。これだけの人数が一堂に会する光景を、僕はいままで見たことがなかった。

「……ワシントン大行進は公民権運動の一つの頂点クライマックスだよ。黒人だけでなく、心ある白人が四分の一を占めていた。キング牧師たちの運動が、いまやこれだけ全国に浸透していたということだね……」

 チュン太の表情は思いのほか明るかった。

 僕は人々のエネルギーに圧倒されると同時に、ややもすれば悲観的になりがちな自分の思いグセを反省した。やはり、人間は捨てたものではないのだ。

 集会は公民権運動のリーダーたちや、宗教界の代表、労働団体の指導者などの情熱的なスピーチに始まり、途中ゴスペル歌手のうたなども交えて、なごやかな中にも活気あるムードを創り出していた。

 そして日が傾き、人々の盛り上がりが最高潮に達したころ、満を持してマーティン・ルーサー・キング牧師が壇上に上がった。

「いよいよだね」僕とチュン太も前の方に陣取った。

「みなさん……」

 彼はゆっくりとした口調で、しずかに喋りはじめた。

「ちょうど百年前、偉大なる先人たちの、たゆまぬ努力によって、この国が形づくられました。しかしそのとき、この国が、われわれと交わした約束―――その約束が、いまだ果たされていません」

 彼は一語一語はっきりと、力強く、みんなにしっかり伝わるように話した。ときどき原稿に目を落とす表情も、たかぶりを抑え、落ち着いた様子である。しかしその鋭いまなざしには、一歩も引かない迫力を滲ませている。

「その約束が果たされるのは、今このときです!」 

 彼は顔を上げ、力を込めて言った。聴衆からは拍手と歓声が湧き起こった。教会での説教を思い出させた。「若いころの経験が生きてるね……」チュン太が呟いた。

 広場の中央には大きな四角い池が横たわり、それを取り囲んで集まった数万の群衆が、一心にキングの演説に耳を傾けている。プラカードを持つ人々も、このときばかりはいっとき大人しく聴いている。キングの視線の先には、池の向こうにそびえ立つとがった記念塔オベリスクがある。彼の胸には、その風景に重ねて、どんな思いが去来していたであろうか。

「……ならば君たちは、いつになったら満足するのか。彼らは問いかけるでしょう」

 彼の言葉はしっかりと聴衆の心をつかみ、しだいにそのボルテージを上げて行く。心臓の鼓動が伝わって来るようである。詩的な表現やリフレインを巧みに用いながら、キングはさらにつづける。

「われわれは、正義の小川が滔々とうとうとした大河になるまで、決して満足しないのです」

わが友よマイ・フレンド」彼はこう呼びかけた。

「私には夢がある」

 彼の視線は、すでに原稿から離れていた。言葉はほとばしる清流のように唇から流れ出た。

「私には夢がある

 いつかジョージアの赤土の丘で

 かつて奴隷だった者たちの息子と

 かつて主人だった者たちの息子が

 同じ兄弟愛のテーブルにつくという夢が……

「私には夢がある

 私の四人の子供たちが

 いつかその肌の色によってではなく

 その人間性によって評価される 

 そんな時代が来るという夢が……

「私には夢がある

 あらゆる谷は高められ

 あらゆる山は低められ

 凸凹でこぼこは平らになららされ

 曲がった道は真っすぐにされて

 いつか神が見給うたその風景を

 われわれが共に立って眺めるという夢が……」

 キングの圧倒的な説得力に、人々は雷に打たれたように粛然としている。僕には彼が、天から使わされた吟遊詩人のように見えた。

「われわれは自由の鐘を鳴らそう。すべての山々から―――ニューヨークから、ジョージアから、テネシー、ミシシッピ、アラバマから、あらゆる町や村から、いつか自由の到来を信じて、高らかに鐘を打ち鳴らそう。そしてそのあかつきに、われわれはみな神の子として、黒人もなく、白人もなく、カトリックもプロテスタントもなく、ともに同じ人間として、その歌を口遊くちずさむことが出来るのだ!

 われわれは自由だ

 われわれは自由だ

 神の御心みこころに感謝を

 われわれはついに自由だ!」

 キングがそう叫んだとき、会場は思わず総立ちになり、割れんばかりの拍手と歓声が周囲にこだました。

 そして、燃え尽きたように演台を下りるキングの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。会場はいつしか、肩を組んだ人々による「我ら、打ち勝たんウィ・シャル・オーバー・カム」の大合唱となった。

 興奮と熱気が真夏の夕暮れを包み込む。僕とチュン太は互いの声も聞こえないくらいの歓声の中で、人々のエネルギーに揺さぶられた。それは崩れかかった防波堤に打ち寄せる大きな波のようであった。

 ―――しかし、この一大イベントが終了してわずか三か月後、われわれは別のショッキングな映像を目にすることになる。各家庭に普及しはじめたカラーテレビに映し出されたのは、公民権法の設立に積極的であったケネディー大統領が、遊説先のテキサス州ダラスにおいて、パレードの最中、凶弾に頭を打ち抜かれるというシーンであった。

「なんでこんな……」

 僕は言葉を失った。

 われわれがともに願い、理想とする社会の実現は、なぜこんなにも難しいのか。善意の人間同士が集まって、なぜそこに悪意が生まれるのか。暴力は動物としての人間に備わった本能なのか。それを克服することは永久に不可能なのか―――

 僕はいろんな思いに押し潰され、ムシャクシャした気持ちを抑えきれず、その辺りの空を自暴自棄やけくそに飛び回った。

 チュン太は心配そうな顔付きで、必死に僕について来た。

 そして、僕が息を切らしたところへ、やがて追いついて来て、僕の肩に小さな羽をのせながら言った。

「……ぼんちゃん。世の中はゆっくりと、ゆっくりと先に進むんだよ。頭がこんがらがったら、何も考えずに休めばいいんだよ。そのうちまた元気が湧いてくるから」

 チュン太に慰められて、僕はようやく心が落ち着いてきた。もしも僕一人であったら、立ち直るのにもっと時間がかかったかもしれない。やはり持つべきものは友である。

 僕とチュン太はふたたびキングたちの運動のその後の成り行きを追った。

 牧師と仲間たちは、さらに逮捕と釈放をくり返しながら、非暴力による運動をつづけた。

 しかしそのうちに、活動家の中にも、彼らと意見をことにする者たちが現れた。ある者はキングたちのなまぬるいやり方にしびれを切らし、正義を貫くには暴力も辞さないという、新たな方針でグループを結成し、独自の活動を展開した。

 また政府の抱える問題はひとり人種差別問題にとどまらず、国と国との勢力争いの方にも多くの時間と予算がそそがれた。

 ベトナムに手を伸ばそうとするソ連に対抗して、アメリカ政府は多くの若者を兵力として注ぎ込み、結果、莫大な国家予算と人命が失われた。

 なお、当時キング牧師の考えの中には、人種差別の問題には大きく「貧困」が関わっているという実感があったようだ。生活の貧しさが心の貧しさを生み、いさかいを広げる原因になる、と彼はそう考えた。

 その貧困問題をなおざりにしたまま、その何十倍もの予算をベトナム戦争に費やすジョンソン政権をキングは強く批判した。

 政府の方は、みずからの政策に異を唱えるキング牧師をやがてはうとましく思いはじめ、ついにはFBIを使って彼の行動を監視するようになった。

「政府は敵なのか味方なのか、よく分からないね」

「ぼんちゃんの言うモンスターが、政府の中にもいるのかもしれないね……」チュン太は珍しくそんなことを言った。

 そんな中、喜ばしいニュースもあった。

 キング牧師は十数年に及ぶその活動の功績が認められ、ノーベル平和賞が贈られることになった。友人や家族は、つかのま朗報を喜び合った。

 しかし、敵味方あい半ばする彼の不安定な立場はなおも変わらず、その命が危険にさらされることも再三であった。この頃の彼はおそらく、私人としての幸福の追求をすでにあきらめ、公人としての社会的使命に一生を捧げることを誓っていたのかもしれない。

 運動の分裂に加え、白人至上主義者たちの嫌がらせも彼の心を悩ませた。サニーの父親マイケルを襲った白装束の集団KKKは、いまだ脈々とその勢力を保ち、連邦各所に暗躍していた。

 また、差別撤廃には賛同していた人々も、彼の「反戦活動」に対しては「共産主義への傾倒」とみなし、祖国へのうらぎりとして糾弾する側へ回ったりした。

 キング牧師はもはや、誰も制止できない時代の渦に呑まれつつあった。ときに彼は一人で教会へ足を運び、十字架の前にひざまずいた。

 ある日のこと、キングは疲れた足を引きずりながら、メンフィスへと飛んだ。

 労働者たちに乞われてストライキを支援し、集会に参加するためである。ひっぱりダコの彼は、いくつあっても足りない体を、あまたたび酷使した。

 到着するなり、休む暇もなく打ち合わせのテーブルにつくと、労働者たちの熱い視線に囲まれて、期待に応えるべく下腹から声をふりしぼった。

「お集まりのみなさん……」

 会合がすみ、牧師は微熱を帯びた額に手をあてながら、宿泊先のロレーン・モーテルへと向かった。道すがら、激しい雨が降り出した。ワイパーが左右に揺れ、雷鳴もとどろいた。

 僕とチュン太も濡れ鼠になりながら、ようやく二階の窓辺へと辿り着いた。白いバルコニーのある瀟洒なホテルでは、キング牧師がネクタイをゆるめ、着のみ着のまま、ぐったりとソファーに脚を伸ばしている。

「……やっぱり今日は無理かな……ラルフ、夜の集会では君が僕のかわりに演説してくれないか?」

 彼はかたわらに立つ友人の牧師に、哀切な目でそう訴えた。

「どうやら風邪を引いたみたいだ……」

 ラルフと呼ばれた長身の黒人牧師は、めったに弱音を吐かないキングがそんな風に言うのを余程のことと思ったのか、ためらいながらも快い返事をした。

「わかったよ、マーティン。ほんとうのところ、聴衆は君の声を聴きたいんだと思うけど、なんとか頑張ってみるよ。今日はゆっくり休み給え」

 そう言い残して、さっそく出かけて行く友人のうしろ姿に返事も出来ないまま、キング牧師は固く目を閉じた。

 外では雨が降りつづいている。

 うす暗い部屋に電気も点けず、キングはソファーに凭れながら、見るともなくの壁の色を見つめている。

「……そう言えばしばらく、彼の笑顔を見ていない気がするね……」

 僕はチュン太に囁いた。

 キング牧師はふいに立ち上がり、窓際に置かれていた黒いラジオのスイッチをひねった。せめて好きな音楽を聞いて、疲れた心を慰めようというのかもしれない。

 チャンネルを数回まわし、ふと聞こえてきたのは、甘く切ない、聞き覚えのある若者の声であった。キング牧師はボリュームを上げた。

 ―――アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?

    今夜、寂しくないかい―――

 それはあの、いつかミシシッピの荒野でいみじくもすれちがったトラック運転手―――エルビス・プレスリーの歌声であった。

 ―――アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?

    寂しくないかい?

    今夜、君はひとりぼっちで

    平気なのかい?

    今夜君は、たったひとりで……

 キング牧師はだまって目を閉じ、ソファーに深く腰かけて音楽に聞き入った。

 ゆっくりとしたテンポのその曲は、元々は男女の恋愛についての歌なのであろうが、別の意味でキングの琴線に触れるものがあったのか、彼は身じろぎもせず、しばらく涙をにじませながらそれを聴いていた。

「歌の力って、やっぱりすごいね……」

 僕はかたわらのチュン太に言うと、チュン太も目を潤ませている。

 どれくらいの時間そうしていたであろうか、キングが我知らずうとうととまどろみ始めたころ、部屋に備え付けてある電話のベルがけたたましく鳴った。

 彼は飛び跳ねるように立ち上がった。つねに命の危険にさらされているせいか、いろんな物音に敏感になっているようだ。

「あ、もしもし、……ラルフか。……うん……うん……そうか……うん……分かった。すぐ行くよ」

 友人に呼び出されたことは明らかだった。キングは雨具がわりのうすいコートを羽織って、身支度もそこそこに、急いで部屋をあとにした。

 相変わらずの土砂降りの中、僕らは彼の乗ったタクシーのテールランプを追った。

 辿り着いたのは人々の多く集まる演説の会場であった。

 楽屋口に車を乗りつけたキングを、ラルフ牧師が迎える。

「すまないね、マーティン。具合の悪いのは分かってるんだが、どうしても君でないと収まりがつかないみたいなんだ。この天気なのに、すごい数の人が集まって来ている。あれをごらんよ」

 カーテンの隙間から会場を覗くと、満員の客席には詰めかけた人々の頭が、岸壁に打ち寄せる波のようにうごめいている。キングの肖像のついたプラカードをかかげる人もいる。後方にはテレビカメラの用意もあった。

「みんな君の演説が聴きたくて、わざわざ遠くからやって来たんだ。マーティン、大丈夫かい?やれるかい?」

 キングの体調を気に掛けながらも、なんとかもう一ふんばりして欲しいという、友人の切実な本音がそこに見えかくれしていた。

「平気だよ、ラルフ。もちろんやれるさ―――僕はまさしくこのために生まれて来たんだからね……」

 キングの表情がにわかに引き締まった。しかし、やはり顔色は悪く、その足元はふらついている。

「それじゃ、そろそろ時間だ。よろしく頼むよ。僕が名前を呼んだら出て来てくれ」

 僕とチュン太も演説を聴くために正面の入口へまわり、ドアをくぐって会場にまぎれ込んだ。

 ラルフ牧師の紹介につづいて、ステージの脇からキング牧師が颯爽と姿を現した。その頑健な足どりからはもう体調の悪さなど微塵みじんも感じられない。

 会場から割れんばかりの拍手が湧き起こった。

「……彼はこのころ公民権運動の象徴的存在シンボルとして、全米の国民にスターのように祭り上げられていたんだ。その重圧も相当なものだったと思うよ……」チュン太がステージを見ながら呟いた。

 演説が始まった。

「……みなさん、雨の中、ようこそお集まりいただきました。みなさんの情熱を背中に感じるとき、私は、もうダメだと思う場所から、さらに一マイルは歩けそうな気がします……」

 ときにユーモアを交えながら、キングの口から流れ出る言葉はふだんに増して力強く、気迫に満ちたものであった。

 黒人たちの歩んで来た道がいかに不当でしいたげられたものであったか、政府の対応がいかに日和見ひよりみ的でたよりないか、人々の偏見がいかに愚かでかたくななものであるか、それを変えるのは「暴力」ではなく「愛」であること―――さまざまな主張を朗々として雄弁に物語った。

 その額にはじんわりと汗が浮かんでいた。やはり高熱があるようである。

「大丈夫かな……」

 僕とチュン太は、彼の演説に感銘を受けながらも、その病状を心配せずにはいられなかった。牧師の言葉や眼光の中に、情熱とともにわずかな狂気が感じられた。

 会場を巻き込んだ盛り上がりがクライマックスに達したころ、彼はこう言い放ってスピーチを結んだ。

「……しかしもう、そんなことはどうでもいいのです。なぜなら、私はすでに山の頂きに来てしまったのですから。そして、その向こうにある、あの約束の地の風景を、私はこの目で見ました。神は私に、そのことをお許しになりました。私はおそらく、みなさんと共に再びそこへは行けないかも知れない。しかし、みなさんは必ずいつか、その約束の地を踏むことが出来ます―――

 私はいま、とても幸せです。何も心配していません。何もおそれてはいません。私はこの目でしっかりと栄えある神のお姿を見たのですから!」

 ほどんど絶叫するようにそう締めくくり、大歓声のステージを降りるキングの体を、運動員の仲間が抱きかかえるように出迎えた。

 興奮のうちに一夜は過ぎた。

 翌日の天気は打って変わって快晴となった。

 さわやかな陽光がロレーン・モーテルの白壁を照らした。

 昨夜、キングたちの部屋の明かりはいつまでも消えず、僕らも興奮のあまりうまく寝つかれなかった。

 キングたちがようやく目を覚ましたのは、すでに昼過ぎであった。僕とチュン太も、鳥であるのにうっかり朝寝坊をして、恥ずかしながら他の鳥のさえずりによって起こされた。名前の分からない青い美しい鳥が、ホテルの屋根の辺りでしきりに戯れていた。

 体調が回復したらしいキングが晴ればれとした顔で言った。

「……きょうはカイルズ家のディナーに呼ばれてるんだったね。何を御馳走してくれるのかな。ラルフ、ちょっと電話して訊いてみてくれないか。こっちの腹ごしらえの都合もある」

「マーティン、だいぶ調子がよくなったみたいだね。よし、分かった。確かめてくるよ」

 友人の牧師が電話している間、キングはバスローブ姿のまま大きく伸びをしている。寝起きで声はしわがれているが、その表情はどことなくすっきりとして見える。なにかき物が取れたような、すがすがしい顔つきだ。

 受話器を置くと友人の牧師は、

「……喜べ、マーティン。大ごちそうだ。ローストビーフにアスパラガスのグリル、ジャンバラヤにザリガニのパイ、魚のフィレにガンボスープ……」と自らもうれしそうに報告した。

 聞いている途中からキングの顔がみるみる輝いた。久しぶりに見る彼の笑顔だ。

「よかったね―――食欲が出るのはいいことだ」

 チュン太が言った。「最後に元気になって、よかった……」

 僕はチュン太の言葉がひっかかった。

「最後に、ってチュン太、まさか!……」

 僕はとつぜん、動かしがたい歴史上の事実を思い出し、胸騒ぎがした。

 いくら僕らが時空を超えて旅が出来るからといって、すでに起きてしまった史実を変えることは出来ない。川の流れはもとには戻らない。

 うろたえる僕を見て、チュン太が言った。

「それは仕方のないことだよ、ぼんちゃん。ボクらはキングさんに、ありがとう、と言うことしか出来ない。彼は命をかけて、ボクらの世の中の在り方を示してくれたんだ。彼の肉体は滅びても、彼の魂は生き続ける。ぼんちゃんも知っての通り、ボクらはそれを信じるしかないんだ……」

 キング牧師は、自らを待つ悲しい運命をも知らずに、大はしゃぎで身支度を整え外出の準備をしている。まだのんびりしている友人を部屋において、待ち切れない様子で革靴をはき、先にバルコニーへと歩み出た。

 バルコニーから下をのぞくと、中庭では若手の活動家たちが集まっていた。

「おーい。君たちも早く準備をしなさい。ぐずぐずしていると、置いていくぞ!」

 若者たちの中に知り合いの音楽家を見つけたらしく、キングは彼に向かって叫んだ。

「おや!ベンじゃないか。君も一緒かい?それなら今夜、食事の席で、私の好きなあの曲をってくれないか!」

 黒人霊歌のタイトルらしき言葉を大声で言うと、キング牧師は上機嫌そうに笑った。よく通るいい声がモーテルの中庭に響いた。

「ぼんちゃん。もう見なくてもいいよね……」

 チュン太の言葉に僕はうなずき、つとめて他のことを考えようとした。

 ふとホテルの屋根の方を見ると、さきほどの美しい鳥がテラスのところで、まるで煙草の灰を落とすように、その長い尻尾をチョンチョンと動かしていた。

 世の中には祝福された存在がいるものだな。美しさに理由はいらないな。できればその美しさが永遠につづくといいな―――

 そんなことを考えているうちに、中庭に爆竹のような音が響いた。

 僕は耳をおおった。

 おそるおそるバルコニーを見ると、手すりの足元のところに、仰向けに倒れたキング牧師の靴の先が見えた。廊下にはみるみる、どす黒い血糊ちのりが広がって行く。

 かけつけたラルフ牧師が、キングの体を抱きかかえている。集まった人々は冷酷な運命を悟り、辺りをキョロキョロと見回している。

「あそこだ!」

 誰かが叫んだ。全員がホテルの向かい側の建物を指さした。

 そこには、一つの部屋の窓の向こうに、ライフル銃を持った男の立ち去る影があった。

 まもなく救急車が到着し、キングの体は運ばれて行った。

 僕らの長かったアメリカの旅は、なんとも後味の悪い結末で幕を下ろすことになった。

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