革命編


革命編


 鳥のさえずる声を追って、僕はどれだけ走っただろうか。林を抜け、野原を越えて地面を疾走するうち、いつかふたたび雀の姿に戻っていた。羽ばたいてみると、ふわりと宙を飛ぶことが出来た。 

 そして、知らず知らずのうちに迷い込んでいたのは、ひなびた農村の風景の中だった。

 朝日ののぼる雑木林。林に囲まれた池。池のほとりに立つ風車小屋。風車小屋はまるで、絵本から飛び出して来たおもちゃのように、丸みを帯びて可愛らしく、淡い色合いをしていた。池の周りには幾筋かの畦道あぜみちがあり、その向うに畑が広がっている。畑には何の作物だか、いくつもの赤い実をつけている。そのれ具合の一つひとつを確かめる農夫の姿もある。さらにその向こうは牧草地になっていて、ヒツジやヤギ、にわとりや牛、ウサギや家鴨アヒルなどが放し飼いにされている。

 お伽話とぎばなしのような牧歌的な風景だ。

 あまりののどかさに、僕は思わずあくびが出た。 

 なおも耳を澄ますと、けたたましい鶏の声に混じって、野鳥のさえずりも聞こえる。

「チュン太はどこだ……」

 僕は声のする方へ、草むらをかき分け、林の中を進んだ。すると鶏にエサを与える中年女性の姿が目に入った。日焼けしたその顔は、どことなくバイト先のオオトリさんを思わせる。

「オードリー。こっちもたのむよ。ヒツジたちも腹ペコだ」

 うしろの畑から男性の声がする。

「……ほら、ほら。ケンカせずにお食べ。いっぱい食べて、王妃さまのために、たくさん卵を産むのよ」

 そのしわがれた快活な声は、やっぱりオオトリさんだ。

 エサのおこぼれにあずかろうと、たくさんの野鳥たちが集まって来ている。

 あの中にチュン太もいるのだろうか。

 僕は目を凝らして鳥たちの顔を一人ひとりよく確かめた。しかし、そこにチュン太はいなかった。

「どこへ行ったんだろう……」 

 仕方なく上空を飛んでみた。

 しばらく行くと、池から少し離れた林の中に、ドーム状の丸い屋根をギリシャ風の柱で支えたような、白い建物があるのが見えた。建物の両側は水路になっていて、小さな橋がかかっている。

 こんな田園風景の中に、いきなり、なんと上品で貴族的な建物があるものかと思いつつ、僕はひとまずそこへ向かうことにした。ふと鳥の影が見えた気がしたからだ。

 その白亜の建造物は、近くで見ると、想像した以上に贅沢な造りで、至るところに精緻せいちな彫刻がほどこされている。

 屋根の下はすずしげな空洞になっていて、すき間から見える青空と太陽のほか、邪魔するものは何もなかった。その場所にいると、まるでロマンチックな恋人の逢引きの姿が目に浮かぶようである。

 その足もとの階段のところに、案の定、小さな鳥の姿があった。どうやらチュン太のようだ。

 僕はすぐに声を掛けることはせず、そうっと後ろへ回って様子をうかがった。

 見覚えのある、その茶色と白の後ろ姿はまちがいなくチュン太だ。やっと見つけた。しかし僕はなんとなく、声を掛けるのがためらわれた。

 小さな丸い肩に、言いようのない寂しさが漂っている。

 人がひとりになりたいときに背中から放つその哀愁は、僕も身に覚えがあった。

 しばらく躊躇していると、その気配を感じたのか、チュン太はすこし体を傾け、目の端でチラリとこちらを見た。

 しかしまた元の通り、背中を向けてしまった。

 僕は、どうせ声を掛けるなら今しかないと思い、なるべく明るい声をよそおって、その背中に話しかけた。

「チュン太!こんな所にいたのかい。待たせてごめんね!おなかいてないかい?」

 チュン太はうしろを向いたまま、黙って首を振った。

 僕は取り付く島がなく、なんとか言葉のを探した。

 チュン太はいっこうに、自分から口を開こうとはしない。

 明らかに何かがおかしい。どう見ても、いつものチュン太ではない。

 困り果てた僕は、なるべく当たりさわりのない話題を選んで、探りを入れることにした。

「チュン太。ほら、太陽はどこにでもついて来るね」

「……」

「朝日と夕日は、どっちが綺麗だろうか」

「……」

「たまには露天風呂にでも入りたいね」

「……」

「寒い国の人は、どうして暖かい国に引越さないのかな」

「……」

「砂漠の町では、太陽は悪者わるものなんだってね」

「……」 

 チュン太の冷えついた心をあっためるために、僕は出来るだけ温かい話題を選んだつもりであった。しかしそれでも、チュン太は心を開かなかった。

 あるいは悲しい気分の時には、明るい話題ではなく、その悲しみに寄り添うような、しんみりとした話題の方がいいのではないか―――僕はそう思い直し、また話しかけた。

「月はどこへでもついて来るね……」

 僕は喋っているうちに、いろんな考えがとりとめもなく心に浮かび、自分自身が上の空になった。太陽はいつ見ても丸い。しかし、月はその時々で、さまざまに形を変える。丸い月もあれば、三日月もある。太った月もあれば、細い月もある。煌々こうこうとまぶしい月もあれば、あるかなきかのかすかな月もある。思えば人の心は、月に似ているかもしれない……

 おぼろ月。ゆれるさかずき。いとしい女性との夢のような一夜―――

 僕の連想は、いきおいあの時の記憶へと導かれた。そして我知らず、恍惚こうこつの表情を浮かべていたにちがいない―――

 そんな遠い目をしている僕の顔をちらりと見て、チュン太ははじめて口を開いた。

「ずいぶん楽しそうだったね……」

 僕は無表情のまま、しばらく突っ立っていたが、次の瞬間、みるみる自分の顔が赤くなるのが分かった。

 ―――いったいどこまで見ていたのだろうか、チュン太は!

 寝殿の廊下で猫に襲われ、屋根に飛び上がった姿までは覚えている。そしてそのあと、神社の舞台で踊りを披露したときにも、たしか森の向こうに、小鳥のさえずりが聞こえていた。

 しかしまさか、その夜、右大臣の宴に招かれて、そのまま彼女の部屋へ忍び込んだところまでは……。 

 まさか……。

 いや、チュン太の様子からすると、どうやらしっかりと見ていたとしか思えない。

 さっきからチュン太が不機嫌だったのは、そのせいだったのか!

 しまった―――という僕の表情を見て取ったのか、チュン太はあからさまに、ぷいっ、とそっぽを向いた。あちゃちゃ……僕はまた天を仰いだ。

 それにしても―――こう言っては何だが、そのねたような素振そぶりは、かえって、どこかしら可愛げさえ感じられる。

 ん?……ということは、ひょっとすると……

 チュン太は……女⁉

 僕はチュン太の丸い肩をもう一度見つめ直した。

 そういえばたしかに、チュン太は僕よりもひと回り小さく、体つきも華奢だし、しばしば連れ立って空を飛ぶとき、僕の速度が彼を追い越してしまうこともある。

 思えば、傷ついたヒナの状態で拾った当時、オスかメスかも分からないまま勝手に『チュン太』と命名し、それ以来、てっきりオスだとばかり思い込んでいたのだ。

 僕はおそるおそる訊いてみた。

「チュン太は……ひょっとして、女なのかい?」

 チュン太は下を向いたままつぶやく。

「……ボクにもよく分からないよ。生まれてすぐに死んじゃったから……」

 祖母といっしょに、死にかけたチュン太を拾って、僕は一生懸命その命を救おうと努力した。子供ながらに、出来ることは何でもやった。そして結局死なせてしまったのだが、そのとき僕は生まれて初めて、命ある者と心を通わせる体験をした。悲しみの涙さえ流した。

 そのことを、何年も経ったいま、チュン太がずっと恩義に感じ、僕のことをそんな風に思ってくれていたとは……。

 僕はチュン太のことが無性むしょうにいとおしくなった。

 そしてチュン太のそばへ寄り、小さな背中にそっと手を置いた。

 それから―――何を言っても言い訳になると思いながらも―――チュン太がオスであれメスであれ、僕らの友情は変わらないこと、いつかの彼女との思い出は、美しいけれども既に過去のものとなりつつあること、いま目の前にいて、こうして触れ合っているのは他ならぬチュン太であること、少なくとも僕の方は、いつまでもチュン太と一緒にいたいと思っていること、などを切々と説き、なんとか彼の機嫌を取り持とうとした。

 チュン太はだまって聞いていたが、しばらくするうちに、僕の真剣な顔付きが可笑おかしくなったのか、肩をゆらしてクスッと笑った。

 やっと心を開いてくれたようだ。

 人の感情というものは、むずかしいものだ。

 僕ら二人は、西洋の伝統を感じさせる重厚な屋根の下で、やわらかな朝の光を浴びながら、石段にちょこんと腰かけている二羽の雀であった。そのありさまは、仲のよい恋人がむつみ合っている姿に見えなくもない。

 たまにはこんなのもいいかもしれない―――そう思いながら、僕はチュン太に、いったいここがどこなのか、と訊いた。

「……マリーアントワネットと、恋人のフェルゼンが密会した場所だよ。ベルサイユ宮殿の庭園の一部なんだ。今回はボクのわがままで、前から行きたかったところへ来てみたんだ。いいよね、いいよね!」

 いつもの元気なチュン太に戻ってくれたことが、僕もうれしかった。

「ベルサイユ宮殿?こんな田舎がかい?」

 僕の声にも張りが出た。

「マリーアントワネットは宮廷生活のわずらわしさに辟易へきえきして、このプチ・トリアノン離宮でのんびりと過ごすのが好きだったんだ。ここでは堅苦しい儀礼やめんどうな公務から、いっとき逃れることができるからね」

「一種のサボリだね」

 僕は冗談っぽく言った。

「うん。やっとさずかった三人の子供と一緒に、仲のよい友人だけを招いて、ゆったりとした時間を楽しんだんだ」

「そういうことも必要だね」

「……それで建物もきらびやかさを避けて、わざと質素な感じにした。田園風景だって、お金をかけて造った模造品ミニチュアだよ。農民もエキストラだし……。さっきの池、もう一度見てみるかい?」

 僕らは風車小屋のある池のほとりへ連れ立って飛んだ。

 言われてみれば、先ほどぼんやりと眺めたこの牧歌的な風景にはどうも不自然な点が多い。

 藁葺わらぶき屋根の納屋なやにはおしゃれな螺旋らせん階段が付いているし、古めかしく見える壁のひび割れも後からペンキで精巧に描いたものだ。動物がたくさんいるわりには家畜臭い匂いもしないし、道ばたにふんも落ちていない。すべてが小綺麗である。

「一種の『テーマパーク』だね、これは……。よく出来てる。だまされるところだった」

 苦笑しながらも僕は、この手の込んだ道楽のために、いったいどれだけ国民の税金をつぎ込んだのであろうと心配になった。

 マリーアントワネットといえば民衆をかえりみない贅沢な暮らしぶりと、国家財政を破綻はたんさせただらしない王妃というイメージであったが、なるほどこれは人々に憎まれるわけだ、という印象をあらたにした。

 それにしても、数奇すうきな運命の美貌のプリンセスと、白馬の貴公子の禁断の恋に憧れるところなど、やっぱりチュン太は女の子なんだなと僕はほほえましく思った。

 するとチュン太は、僕の心を読んだかのように、

「それだけじゃないよ。フランス革命の時代は世の中が大きく揺れ動いた時代だ。今の日本じゃ考えられないような出来事がたくさん起きる。ぼんちゃんにとっても、きっと興味のある時代だと思うよ」

と、凛とした口調で言った。

 やっぱりチュン太は男なのだろうか……

 結局、僕はこれまで通り、チュン太を男として接することに決めた。

「なるほど……。ところで、マリーアントワネットはどこにいるのかな。僕も会ってみたい気がする」

 僕は怖いもの見たさでチュン太に訊いた。

 二人はプチ・トリアノンの林を越えて、王妃のみ家である邸宅をめざした。

 ほどなく見えてきたベージュ色の建物は、小ぢんまりとしてシンプルではあるが、さすがに王家の離宮らしく、気品のある重厚さをたたえていた。

 窓辺に近づいてみると、中に人影が見える。

 飾り気のない水色のドレスを着た女性が、椅子にふかく腰を掛け、なにか裁縫のようなものをしている。顔はよく見えないが、その清楚なたたずまいといい、あれがマリー王妃であろうか。

 日当りのよい部屋はすっきりと片付けられ、金いろの刺繍のついたソファ以外、余計なものは何もない。

 しかし、貴族のやかたらしく壁には立派な燭台しょくだいが設けられ、部屋の四隅には花束が飾られている。

 そしてソファの横には小さな揺りかごが置かれていて、針仕事の合間に、女性はちらちらとそちらへ目を配っている。赤ん坊が眠っているようだ。

 ただ一つ、この質素な部屋に不釣合いなほど人目をひくのが、二階へつづく豪華な階段であった。

 ゆるやかな曲線を描くその階段には、ロココ調というのか、おそらくは優れた職工の手による優雅な手摺てすりがついていて、どんなに隠そうにも、輝かしい王室の威容を隠しきれていない。ここがやはりベルサイユ宮殿の一部であることを、その光沢はまざまざと物語っている。

 その華やかな階段を、まるで公園のすべり台のように使って、かくれんぼをして遊んでいる二人の子供がいる。

 姉と弟であろうか、女の子の方が少し背が高く、フリルのついた黄色いドレスが鮮やかだ。美しく編み上げたブロンドの髪を揺らしながら、女の子は階下の弟にむかって叫ぶ。

「ルイ・ジョゼフ!見ぃつけた。こんどはあなたが鬼よ!」

 名を呼ばれた弟はふくれっ面をして、小さな手で手摺りを掴みながら、よちよちと階段を昇ってくる。

「マリーテレーズ。ずるいよ。十まで数えるのが、早すぎるよ!」

 弟の方は、襟元にレースのついた白いシャツに、黒い吊りズボン、足にはハイソックスを穿いている。髪はおかっぱで、女の子のようだ。

「ルイ、ってことは、ルイ王朝の跡継ぎってことかな、あの男の子が……」

 開け放たれた窓際のスミレの花の陰で、僕はチュン太に尋ねた。

「その通り。あの子が、結婚十年目にしてルイ十六世とマリーアントワネットとの間に授かった、はじめての男の子だよ。生まれたときは国を挙げてのお祭り騒ぎだった。マリーもようやく王妃としての勤めを果たせて一安心だったらしい」

 無邪気に遊ぶ二人の子供を、僕は、たとえ王家に生まれても、あるいは市井しせいに生まれても、子供は子供なのに、という感慨で眺めた。

 しばらくして、かくれんぼに飽きた姉と弟は、バタバタと我先われさきに階段を降りて来て、縫い物をしている女性の膝へまとわりついた。

「ママンレーヌ。お外で遊んで来てもいい?」

「ママンレーヌ。にわとりが卵を産んでるかどうか、見て来たいんだ」

 マリーテレーズとルイ・ジョゼフは口々に、その母親らしい女性にせがんだ。

「レーヌ、というのは、王妃、という意味―――母親のことをこう呼ぶように、彼らは教わったんだよ」

 チュン太が目を輝かせながら言った。やはり、その水色のドレスを着た大人しそうな女性が、すなわち王妃マリーアントワネットであった。

 王妃は子供たちの頭を抱きよせ、交互に目をのぞき込むようにして言った。

「お池に近づいては駄目よ。こわいお化けに足を引っぱられますよ……」

「わかってるよ、ママン」

「わかってるよ、ママン」

 二人は大喜びで外へ飛び出して行く。立ち去りぎわに男の子は、

「……お化けなんて、本当はいないよ!」

と言い捨て、背丈の三倍以上もある大きな扉をバタンと閉めた。

 二人の様子を目を細めて見ていたマリーは、見送ったあともしばらく幸福そうな笑みを浮かべていたが、その微笑ほほえみはどことなく―――いや見れば見るほど、なぜか僕の母親にそっくりであった―――

 一人になると、マリーは窓辺に歩み寄り、外の景色をながめた。

 林の上に昇った太陽が、やさしくマリーの顔を照らし出す。娘と同じブロンドの美しい髪、抜けるような白い肌、吸い込まれそうな青い瞳―――そして意志の強そうなキリリとした眉は、さっき出て行った息子のルイ・ジョゼフに受け継がれている。

 季節は秋であろうか、木々の葉がまだらに色づき始めている。流れる雲をしばらく眺めたのち、マリーは軽く目を閉じ、なにか物思いに耽っている様子である。

 心に飛来するのは、ルイ王朝の統治するフランスのことであろうか。それとも、密かに逢瀬をねがう恋人のことであろうか。

「ああ―――ここでこうして過ごす時間は、何ものにも代えがたいものです。ありがとう、オーギュスト。わたくしにこの場所を与えてくれて……」

 手を前に組み合わせたマリーの唇がそう呟いた。

「……オーギュストというのは、夫のルイ十六世のことだよ」

 チュン太が小声で付け足す。

 彼はさっきから、興奮のあまり身を乗り出さんばかりの勢いで、目に涙さえ浮かべている。僕はいさめるように、

「チュン太。僕らは小声でなくてもいいんだよ。どうせピーチクとか、パーチクとしか聞こえないんだから」

と言ってチュン太をからかった。

 マリーアントワネットは何かを思い出したように小さく手の平を広げ、きびすを返した。

「あら、たいへん。もうすぐオーギュストが来る時間だわ。こうしてはいられない。昼食の仕度したくをしなきゃ」

 マリーがあわてて向かった部屋の方へ、僕らも急いで外から回ってみた。

 向かった先は、まん中に大きな白いテーブルがあり、壁ぎわに食器棚のあるダイニングルームであった。

 マリーは戸棚から真っ白なお皿を取り出し、テーブルの上に並べはじめた。金ぴかのスプーンやフォークも並べる。どうやら四人分あるようだ。そして奥の方からハムやソーセージ、サラダやチーズを持ってきて、きれいにお皿に盛り付ける。さらに、切り分けたパンにオリーブオイルを垂らし、最後は卵を器用に片手で割って、さっと目玉焼きを作る。

 なかなかの手際のよさだ。

「王妃が自分で食事を作るのかい?」

 僕はチュン太の肩をつついた。

「マリーが初めてだよ、こんなことをする王妃は……。ほかにも彼女は、なにかと型破かたやぶりな行動が多かったんだ。劇場で芝居を見ても、貴族は手を叩いたり、笑ったりしてはいけなかったんだが、マリーは大きな声で笑ったり泣いたりして、付き人によくたしなめられた。奔放な少女みたいに……」

「情感が豊かだったんだね」

「それが結局、マリーを苦しめることになるんだけどね……」

 牛乳壺を両手でかかえ、少し頭をかしげて、こぼさないようコップにそそぐマリーの横顔を、僕はささやかな同情の目で眺めた。王家にさえ生まれなければ、どこにでもいるお転婆てんばな女性だったのかもしれない。

「やっと出来た。間に合ったわ」

 四人分のコップを並べ終えたとき、庭先で子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。誰かを見つけた様子である。

 マリーは銀の手水桶ちょうずおけで手を洗い、少し髪を整えてから玄関の方へ歩みを進めた。

 玄関を出たところには、いつのまにか二頭立ての馬車が停まっていた。そして中から下りて来た男の両腕に、マリーテレーズとルイ・ジョゼフがしがみついている。

 威厳に満ちたその男の風貌は、どこをどう見てもフランス国王のものにちがいなかった。白いタイツに、頭は横巻きにカールされている。ルイ十六世である。チュン太に確かめるまでもない。

「……オーギュスト。よくお越しくださいました。ちょうどお食事の準備が出来たところですわ」

 マリーが笑顔で出迎える。

 子供たちにまとわりつかれ、歩きにくそうにしていたルイ十六世は、困った顔をしながらも、むしろそれが無上に嬉しそうであった。

「おい、おい。おチビさんたち。かんべんしてくれ。お父さんの手は祖国フランスを支えるだけで精一杯だ。お前たちを抱っこする余裕はないよ……それにしても大きくなったね」

 玄関に向かって並んで歩く王と王妃。―――はしゃぎまわる二人の子供たち。―――そこだけ切り取ってみれば、それは誰の目にも幸福そうな家族そのものの姿であった。

「父上。鶏が卵を産んだよ。ぼくが二つで、マリーテレーズが一つ拾った」

「あら、そうじゃなくてよ。みんなで分けるんだって言ったじゃない」

 王の手をつかんだままケンカを始めそうになる姉と弟を、マリーは軽くたしなめながら二人の小さな背中を押した。

「さあさあ、お父様をはなしてお上げなさい。おうちに辿り着くまえに日が暮れてしまうわ」

 ルイ十六世と子供たちは、なおもじゃれ合いながら、三々五々ダイニングの席につく。マリーは居間で眠っている赤子の揺り籠をテーブルの横まで移動させる。

「よく眠ってるようだね。ルイ・シャルル。やっと人間らしくなってきた」

 顔を近づけて覗き込む王の脇の下から、もぐり出るように姉と弟も顔をのぞかせる。

「あなたたちはまず手を洗って来なさい。汚い手でルイ・シャルルを触ってはだめよ。卵は給仕長に渡しなさい」

 王妃の強めの口調に、子供たちは慌てて奥の部屋へ駈けて行った。

 彼らが戻って来たときには、恰幅かっぷくのいい給仕係の男と一緒であった。男は白い山高帽をかぶり、料理をのせたワゴンを押している。

「ようこそいらっしゃいました、国王陛下。本日は油ののったローストチキンをご用意いたしました」

 本職の料理人も奥に控えていたようだ。

 こんがり焼けたローストチキンがそれぞれの皿に取り分けられる。マリーの用意した昼食の最後の仕上げである。よい香りが僕らのいる窓辺の方まで漂ってくる。

「うまそうだね……」

 僕はつばを吞み込んだ。

「……トリは苦手なんだ」

 チュン太はしかめっ面をした。

 王家の面々はしばらく一家団欒のひとときを楽しんだ。

 子供たちはよく喋った。めったに会えない父親に自分たちのことを聞いてもらおうと必死である。なかなか食事の手が進まないので、王妃はなんども眉を逆立てた。

 国王はおおむね口数が少なかった。問われてはじめて口を開く感じであった。王という立場がそうさせるのか、あるいはもともと大人しい性格なのかは分からない。

 おおかた食事を終えたとき、ナプキンで口を拭いながら国王はふと王妃に言った。

「マリー。ときどき宮廷の方へも顔を出してくれないか。みんながあなたのことを待っているよ」

 本当はもっと強い口調で言いたいのだが、それが出来なくて、仕方なく台詞せりふの棒読みをしている印象であった。国王とはいえ、王妃には弱い彼の立場が伺われた。

 マリーはナイフの動きを止め、にわかに顔を曇らせた。

「分かってますわ……。でも、もう少し、子供たちが大きくなってからでは駄目かしら」

 その歯切れの悪さは、なにかそこに、複雑な事情がありそうである。

 そのとき玄関の方で、また別の馬車の車輪の音が聞こえた。

「ポリニャック夫人たちだわ!」

 マリーはにわかに顔を輝かせ、立ち上がって窓辺でそわそわと爪先立ちをしている。

「これからこのやしきで、お昼の演奏会が始まりますのよ。オーギュストも折角だから、お聞きになっていらっしゃったら?」

 マリーは王の顔も見ずにそう言った。

 王は音楽にはあまり興味がないらしく、疲れた表情で大きく伸びをした。

「いや、やめておくよ。ロシア大使との面会があるんだ。もう戻らなければならない」

「まあ。狩りのお誘いならば喜んでいらっしゃるくせに……」

 小さな声でそう呟き、マリーは唇をつんと尖らせた。

 あわただしく席を立ち去りかけた王の手を、子供たちが不満そうに両方から引っぱる。

「もう行っちゃうの、父上?二階のお部屋を見せたかったのに……。積み木でお城を作ったんだよ」

 ルイ・ジョゼフにつづいて、マリーテレーズも、

「お父様、ママン王妃レーヌに教わって、ハンカチにお花の刺繍をしたの。見て行って下さるでしょ」

と、上目遣いをする。

 ルイ十六世は持ち前のやさしさを見せて、二人の子供たちの頭をなでながら、

「そうかそうか。それはぜひ、見せてもらうことにしよう。どこかな」

と、鷹揚おうように問いかけた。

 三人は連れ立ってロココ調の階段をのぼって行った。

 ダイニングに残されたマリーが食べ残しの皿を片付けはじめると、奥の部屋からあわてて給仕人たちが飛び出して来る。

「それはわたくしどもがやります。王妃はどうかお席にお座りになったままで……」

と、冷や汗をかいている。

 王妃はじっとしていられない性分しょうぶんらしく、何やら今度は一人そそくさと玄関の方へ歩いて行く。ノックの音がする前に来客を出迎えるつもりか、あるいはノックと同時に扉を開け、友人たちを驚かせるつもりであろうか。

 マリーが勢いよく扉を開けると、玄関には思い思いに着飾った貴婦人たちが四、五人、集まって談笑していた。 

「まあ。みなさん!ようこそおで下さいました。ポリニャック夫人、いつもに増して素敵なお召し物で。さりげなく高価なものを着こなすのがお上手だわ。わたくしの目は誤魔化されませんことよ。あら。ルブラン夫人。またお腹が大きくおなりになって?段差にお気をつけ遊ばせ。また今度、子供たちと一緒のところをいて下さいね。あら、めずらしい……」

 マリーは友人たち一人ひとりの名前を呼びながら如才ない挨拶をする。宮廷での社交に疲れているとはいえ、仲のよい友人たちと会うのはやはり何よりの楽しみであるらしい。

 ちょうどそのとき、ルイ十六世が子供たちを連れて玄関から出て来た。来客たちはうやうやしくこうべを垂れた。国王は子供たちと手をつないだまま、

「おや、みなさん、お集まりで……。どうぞ楽しんで行って下さい。私は本日は、これにて失礼いたします」

と言い残し、待機していた専用の馬車に乗り込もうとする。子供たちは名残り惜しそうに見送る。

 マリーも馬車の近くまで歩いて行って、甲斐々々しい言葉をかける。

「あなた。またいらして下さいね……お気をつけて」

「あなたもぜひ、宮殿の方へ……」

 王はマリーにだけ聞こえるようにそう呟き、早々そうそうとプチ・トリアノンを後にした。

 残った一同は大きな扉を開け、邸の中へぞろぞろと入って行った。

 居間へ通されると、女たちはひとしきり世間話に花を咲かせる。

 ファッションのことから育児の話、亭主の悪口から色めいた恋の噂へと、話題は次から次へとりとめもなく移って行った。

「いつの時代も女性はお喋りが好きだね。僕にはピーチクとかパーチクとしか聞こえないよ……」

 あまり興味の持てない、どうでもいい話に退屈した僕は、頬杖をつきながらかたわらのチュン太をふり返った。

 するとチュン太は意外にも、食い入るようにその話を聞いている。

 そうか、チュン太はこういう華やかな世界が好きなんだ……

 言われて見ればこの様子は、一幅の絵になる光景である。王妃をとり囲む貴婦人たち。無邪気に遊ぶ子供たち。大きな窓から差し込むやわらかな午後の光……。その構図は、正にそのまま西洋画のモチーフになってもおかしくない。

 と、そのとき、さらに一台の大きな馬車が庭先へ到着した。

 見ると馬車から下りて来たのは、年齢はまちまちであるが、おそろいの黒い衣装を着た、七、八人の男女である。それぞれの手に、大小さまざまな楽器ケースを抱えている。

「楽団が到着したんだ!」

 今度は僕が興奮して彼らを凝視した。

 一見したところ、彼らはあまりぱっとしない、決して美男美女でもない、ちぐはぐで奇妙な集団である。

 ボサボサ頭のおじさん。眠そうな顔の青年。黒ぶちメガネのおばさん。青白いやせっぽちの少女。遠い目をした白髪のお婆さんに、ニコニコした禿げ頭のお爺さん―――

 しかしそんな彼らが、これから数分後、ある素晴らしい魔法を見せてくれることを僕は知っている。なにげない日常の時間を、めくるめく夢の世界に変えてくれる人たちなのだ!

 僕とチュン太は窓枠を横にずれながら、いちばん演奏のよく見える席へ移動した。

 リビングの半分がステージにしつらえられ、椅子は壁ぎわに寄せられる。貴婦人たちはめいめいに、ドレスの裾を気にしながら着席する。マリーアントワネットと子供たちも隅の席に行儀よく腰を下ろす。

 やがてざわついた会場が静かになると、満を持したように、準備のととのった楽団員たちが姿を現した。

 拍手に迎えられた彼らは、それぞれの楽器を抱えて席に着く。

 その中のひとり―――バイオリンを手にした背の高い女性が、立ったまま客席に一礼すると、すぐさま後ろ向きになり、音合わせを始めた。

 長く伸ばされたバイオリンの音に向かって、全員が焦点を合わせるように、それぞれの楽器を響かせる。

 その美しい調弦の音を聞いただけで、もう音楽が始まったかのように、客席はうっとりとする。

 彼女が席に着くと、すこし間があって、メンバー同士目くばせをしたのち、いきなり演奏が始まった―――

 一瞬にして会場の空気が変わった。

 天使がたわむれるような美しいメロディー。躍動するリズム。色とりどりのお花畑のような均整の取れたハーモニー。それらが相俟あいまって大きなうねりとなり、疾走感のある音楽が聞いている者を天上の喜びへと導く。 

 僕はその美しさに圧倒され、胸がしめつけられるような気がした。まるで彼らの信じる女神ミューズの姿がかし見えたようにも思われた。

 客席では貴婦人たちが、それぞれに微笑を浮かべて聞いている。マリーテレーズとルイ・ジョゼフも、口を結んで大人しく聞いている。彼らの背中に手をまわし、マリーアントワネットはいかにも幸福そうである。

 第一楽章が終わり、第二楽章がはじまった。先ほどとは打って変ってかげりのある曲調。世の中が決して明るい側面ばかりでないことを、この曲の作者はある諦観ていかんをもって描いているようだ。しかし暗いテーマを表現するのにも、あくまで美しさを失わない。

 そして第二楽章も終わり、静まりかえった場内にとつぜん響いてきたのは、僕にも聞き覚えのある旋律であった。

 ゆったりとした三拍子のその曲は、たちまちみんなの心をなごませ、曇った眉を開かせる軽やかさと優雅さに満ちていた。

「なんだっけ、この曲?」

 僕はチュン太にたずねてみたが、チュン太は答えるかわりに、ほら、と王妃の方を指さした。どうやら娘のマリーテレーズが、僕と同じ質問を母親に投げているようだ。

「ママンレーヌ。わたしこの曲、好き。何という曲なの?」

 母親は誇らしげに答える。

「モーツァルトのメヌエットよ。素敵な曲でしょ」

 娘はうっとりとため息をつきながら、

「わたし、こんな曲を書く人と結婚したいわ。そうすれば毎日、楽しく踊って暮らせるもの……」

 それを聞いた王妃は、娘の方へ向き直り、両肩に手をのせて言った。

「あら、マリーテレーズ。ママンはね、昔、モーツァルトに求婚されたことがあるのよ。ちょうどあなたくらいの歳だったわ」

 王妃は夢見る少女のように、屈託のない笑みを浮かべた。

 娘は目も鼻も口もいっぱいに開けて驚いてみせる。

「えっ、ママン!ほんと?モーツァルトに求婚されたって。どうして結婚しなかったの?」

 マリーアントワネットは唇に指をあてて考えた。

「そうね……、でもそうすれば、今あなたたちは、ここにいないわ」

「あっ、そうか……」

 マリーテレーズもすぐに思い当たり、そしてニッコリとした。

「やっぱり、お父様でよかった。ありがとう、ママン。お父様と結婚してくれて」

 王妃は娘の髪に口づける。同じブロンドの髪が親子ともに美しい。

「わたしにもいつか、素敵な王子様が現れるかしら……」

 うっすらと上気した娘の頬をマリーは両手で包み、澄んだ瞳をのぞき込む。

「それは誰にも分らないわ―――ケ・セラ・セラよ」

 マリーは何かをひらめいたように、にわかに立ち上がり、小さな息子ルイ・ジョゼフの手を取って、人目ひとめも気にせずステップを踏みはじめた。

 優雅な手つきでくるくると、可愛いパートナーを自在にエスコートする。

 奔放なマリーの面目躍如だ。

 貴婦人たちの間をすべるように、でこぼこのカップルが部屋の中央に躍り出る。

 楽団員たちも、ほほえましい母子おやこの姿をちらちらと眺めながら、演奏をつづける。

 ルイ・ジョゼフは、大好きなママンに乱暴に振り回されるのがうれしくて、きゃっ、きゃっと声を上げている。

 だれにも真似のできない、こういう天真爛漫なところが、きっと王妃マリーアントワネットの、数々の欠点を補ってあまりある、最大の魅力なのであろう。

「いいお母さんじゃないか―――」

 僕はチュン太にささやく。

 ふとチュン太を見ると、なぜかポロポロと涙をこぼしている。

 僕が見ていることに気づくと、彼はすぐにそれを隠すように言った。

「この時期がいちばんマリーにとって幸せな時期だったんだ。ずっと悪口やかげ口も言われてたけどね。でもけっきょく、その幸福は一瞬だった……」

「悪口?」

 僕はチュン太の涙には気付かないフリをした。

「そう。マリーはその奔放な性格と、人目をはばからない振舞いとで、知らないうちに敵を多く作っていた。離宮に招かれなかった貴族たちなど、やっかみから、いろんな醜聞しゅうもんを、あることないこと言いふらしたんだ」

「ふうん―――見たところマリーに悪気わるぎはなさそうだけどね」

「悪気がなくても、反感を抱く人はいる。たしかに、王妃という立場であれば、もっと自覚をもって、国民のことを考えてもよかったかもしれないね。彼女はあまりにも、無垢な少女のままでありすぎた」

 僕は淡々と喋るチュン太の顔を見た。

 その真剣な様子は、どうやら、たんに少女歌劇の世界に憧れているだけのミーハーではなさそうだ。どこか別のところに、彼の本当の関心があるのかもしれない。僕はそれとなく訊いてみた。

「マリーといえば、放蕩三昧の仮面舞踏会のイメージだけど、どうかな?」

「そうだね―――じゃあ、こんどはそっちへ行ってみるかい?ちょっと時空をさかのぼるから、ボクの体のどこかに触れてみて」

 僕は言われるがままに、彼の背中に自分の羽を重ねた。

 そそくさと飛び立つチュン太。振り落とされないよう身構える僕。彼の体が一瞬七色に光ったとき、その光が僕の体にも伝播でんぱした。

 行った先はいきなり夜だった。いや、夜というより、人々が寝静まるのようだ。都会風の街並みがうっすらと暗闇に浮かんで見える。民家の灯りはすでに消えている。

 その向こうに、一か所だけ煌々こうこうと光に照らされた、大きな劇場のような建物があった。真っ暗な中で見るせいか、恐ろしいような威容である。

「パリのオペラ座だよ」

 チュン太はそう言って、屋根にほど近い、明かりの漏れる窓のところへ僕を導いた。

 中を覗くと、息を呑むようなきらびやかな空間が広がっていた。僕はまぶしさで目を細めた。

 天上から吊るされた、いくつもの豪華なシャンデリア。赤い絨毯を敷きつめた幅広の階段。光沢のある寄木細工のダンスフロア―――僕らは窓の隙間からその光景を眺め、そっと天井桟敷の暗がりの中へ忍び込んだ。

 そこで笑いさざめく何百人もの人々は、この時とばかり着飾って、衣装の派手さを競い合っている。それは派手さというよりむしろ、奇抜さを見せびらかしている風情だ。 

 前後にとがった帽子を頭にのせた男性。わざとボロボロの服装をしているのは、海賊を気取っているのだろうか。また、孔雀くじゃくの羽根の扇子せんすを持った女性は、大きく開いた胸元に猫の目のような宝石を光らせている。口元のホクロは付けボクロのようだ。

 別の男性は、道化師の格好で原色の服をまとい、白塗りの顔に水色の涙まで描いている。先の丸まった靴はトランプのジョーカーを模倣まねているのか。

 ピンクや黄色、緑やむらさきの髪はまだ地味な方で、中にはうず高く盛り上げた髪を帆船はんせんの形にした、デコレーションケーキのような女性もいる。それらがみなカツラであることは、眉毛だけ色がちがうことで分かる。

 そのほか、どう見ても男性なのに女性に扮した者、反対に、男装の麗人になり切った女性など、思い思いに倒錯した気分を楽しんでいるようである。

 そして彼らのほぼ全員が、顔に不気味ぶきみなマスクをつけている。自分が誰だか分からないようにして、変身願望を完成させているのであろう。

「異様な風景だね―――」

 僕は少し気おくれしながら言った。

「貴族たちのささやかなうっぷん晴らしだよ」

「貴族たちは、ふだんは何をやっているの?」

「何もやっていない」

「何もやっていないのに、うっぷんが溜まるの?」

「誰だって、何かしら身の上に不満はあるものだよ」

 皮肉屋の僕に比べ、チュン太はずっと大人である。

 パリのオペラ座といえば何となく芸術の殿堂のように思っていたが、ここで繰り広げられている乱痴気らんちき騒ぎは、とても芸術とは程遠いものであった。むしろその対極にあるものといってよい。芸術から大切な何かを引いた、その残りかすのようなものだ。一つの文化が爛熟すると、こんな風になるのであろうか―――

 鼻白はなじろんで見ていると、やがて大衆的な音楽に合わせて、仮装した人々によるダンスが始まった。みんなそわそわと、ペアを組むための即席のパートナーを探している。場内はまるで、乱雑にペンキをぶちまけたようである。

「この中に、マリーアントワネットもいるはずだよ。探してごらん」

 チュン太に言われて、僕は目を凝らした。

 このごちゃごちゃした中から、王妃を探すのはなかなかむずかしい。

 ふと見ると、料理が盛り付けられたテーブルのそばに、リボンのついた大きな帽子をかぶり、裾の広がった黄色いドレスを着た女性がいる。お菓子の塔に手を伸ばし、何かをつまもうとする指先が、もしや王妃のものかとも思われたが、ふり返ってそれを口に運ぶ顔は、王妃とは似ても似つかぬ別人であった。

 また、魔法使いに扮した黒いマントで、星のついた長い杖をもち、みんなにちょっかいを出して回っている女性が、いたずら好きなマリーを想起させたが、しかし、髭の男にからかわれて下品に笑うその様子は、これまた王妃ではなかった。

 シャンデリアの灯りにはどうしてもかたよりがあり、中央が明るく、ホールの隅に行くに従って暗くなっている。その暗がりを利用して、柱の陰で女性を口説いている男性ならいくらでもいた。

 僕が探しあぐねていると、二階から降りてくる階段の途中に、何げない花売り娘の格好をした、年若い女性の姿が目に入った。娘は抜けるように色が白く、その庶民的な変装の割には、うやうやしく三人もの侍女がかしずいている。白いマスクで顔をおおってはいるものの、その勝気そうなつんとした唇、青い瞳からにじみ出る高貴さは隠しようがない。

「……あれがそうじゃないかな」

 僕は目を離さずにチュン太に言った。

「よく分かったね―――十八歳のマリーアントワネットだ。オーストリアのハプスブルク家からフランスのブルボン家にとついで来て間もない頃だよ……」

 僕はあらためて、この初々しい王妃プリンセスの姿をまじまじと見た。

 ほんのりとピンク色に上気した肌の白さは、ほかの女性とは比べようもない。どんな格好をしていても、おのずとあふれ出る物腰の上品さは、天性のもののようだ―――僕は自分が雀であることを忘れて、うっかりこの少女に恋をしそうになった。しかし……いや、どうも目の錯覚だろうか―――王妃の顔は、やはりどことなく僕の母に似ているのだ!

 恍惚うっとりしている僕を見て、チュン太はまた不機嫌になる。

「ぼんちゃん!またぼんやりしてる!まったく!……でも、まあ、しょうがないよね。フランス中が恋をしたといわれる若き王妃プリンセスだからね……」

 マリーはしばらくの間、楽しそうに踊る人々の輪をじっと眺めていた。まだうまく雰囲気になじんでいないようである。と、まもなく、中世の騎士の格好をした小太りの男性が、うやうやしく彼女を踊りに誘った。なかば強引に彼女の腕を取る男の勢いに負けて、マリーは踊りの輪の中へ引きずり込まれて行った。引きずられながら、彼女は侍女たちの方を振り返ったが、侍女たちはただ笑っているばかりである。

 マリーを呑み込んだ踊りの輪は、オペラ座の広いホールの中を、大きな渦のように移動した。いつしか先ほどの男とは別れ、何度かパートナーを替えながら、マリーの顔が渦の中に見え隠れする。そしてだんだんと、彼女もその動きに慣れ、自らこなれたステップを踏むうちに、自然と白い歯もこぼれ始めた。その姿はまるで、流れにたゆたう一輪の花のようであった。しかしそこにいる誰一人として、それが王妃マリーアントワネットだと気づく者はいなかった。隅に置かれたテーブルには、空のワイングラスやシャンパングラスが無数に並んだり、倒れたりしている。

 曲調が変わったのを機に、マリーは流れから抜け出し、ふたたび侍女たちの待つ階段の方へつかつかと戻って来た。紅潮した顔に満足の笑みを浮かべ、息を切らしている。

「ああ、楽しいわ!こんなに楽しい気分は初めてよ!」

 マリーは黒服の男に差し出されたグラスを口に運ぶ。

 三人の侍女は顔を見合わせて笑っている。彼女たちも昔はかなり遊んだ口なのであろう。王妃を監視する役目は形ばかりのようである。

 グラスを片手に、息を整えている花売り娘のマリーは、十八歳の若さの放つかぐわしい香気を全身から立ちのぼらせている。それは開きはじめたつぼみが、すべての昆虫を引きつけるために発する強烈な芳香であった。

 そして蜜蜂が花に誘われるように、一人の若い男性がマリーの方へ近づいて来た。背の高い端正な顔立ちの彼は、羽根飾りのついた緑の帽子、短いチョッキに吊りズボンという、チロルの山男風の出立ちであった。目元には黒いマスクをつけている。

「私と一曲、踊っていただけませんか?……」

 男はさっきからマリーがお目当てだったたらしく、その口調は、緊張と興奮のために少し上ずっていた。

 上目遣いに男性を見つめるマリーの瞳は、この上もなく可憐であった。ためらいのそぶりを見せながらも、心は決まっているかのように、そっと片手を差し出した。先ほど踊り終わって大胆になっていたのと、彼女の方もこの若者を一目見て、心惹かれるものを感じたのかもしれない。

「わたくしでよろしければ……」

 二人は手を取り合って、踊りの輪の中へ入ってゆく。

 しかし心なしか、それを目で追う侍女たちの顔からは、笑みが消えているようであった。何か不吉な行く末を、本能的に察知したのであろうか。

 しがない町娘に扮しているとはいえ、十八歳のマリーの美しさは際立っていた。男性の方も、マリーと同じ年頃かと思われる若々しい出立ちと軽やかな身のこなしで、自然と人目を引いた。チロルの山男と、パリの花売り娘―――この、メルヘンの世界から抜け出して来たような可愛らしいカップルは、どちらかといえば控え目な衣装にもかかわらず、派手さを競う幾多の人々の中で、特別な光彩を放っていた。

 二人は初めてペアを組んだとは思えないほど、息が合っていた。ふつう、慣れないコンビは足と足がぶつかったり、回転ターンの際、無理な力が入ったりするはずだが、彼らはまるで旧知の友がくつろいだ会話をするように、緩急を自在に使い分けて踊った。体と体の相性のよさは、心と心を自然と結びつけるのであろうか、互いの目を見つめ合う二人の顔は血色よく汗ばみ、折にふれて親しい笑みがこぼれた。誰の目にも、彼らがこの日一番のカップルであることは明らかだった。

 その波長がおのずと周囲に伝播したのか、すれちがう人々はみな彼らを目で追った。そのうち誰かが、この愛らしい花売り娘の正体に気が付いたようである。

「……王太子妃?」

「マリーアントワネットさま?」

 ざわついた空気はあっという間に場内に広がり、気が付くと若い二人は、ホールの中央で、居合わせたもの全員の視線に囲まれていた。

 その異様な雰囲気を察して、チロルの山男ははじめて、自分のパートナーがほんとうは誰なのかを、悟ったようであった。

「……王太子妃とは存じ上げず、ご無礼を……」

「かまいませんわ。とっても楽しかったわ」

 山男は、これ以上みんなの視線にさらされることに耐えられなくなったのか、深々とお辞儀をしてこの場を立ち去ろうとした。

「待って……お名前を」

 王妃の方から尋ねた。

「……ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンと申します」

 低い声でそう呟き、もう一度顔を上げた男の目を、マリーはうるんだ瞳で見つめた。

 僕はチュン太がどんな顔をしているか、見なくても分かった。

 彼をオスとして扱うことに決めていた僕は、わざと勢いよく、チュン太の肩をポンとたたいた。

「あれがマリーの恋人になる人だね」

「……うん。フェルゼンとの運命的な出会いだよ」

 チュン太の茶色い羽は興奮のあまり、いつもよりふくらんでいるように見えた。

 時空を何度も行き来しているとはいえ、このような名場面に出くわすと、チュン太はそのたびに心を動かされるらしかった。

 舞踏会は宴たけなわとなり、やがてれすぎた果実のように乱れて行った。泥酔する者も多く現れた。酒の壜がころがり、卑猥な言葉が乱れ飛んだ。窓から差し込む光はしだいに朝の色を帯びはじめ、そろそろ帰り支度をはじめる者もいた。魔法がとけないうちに、そして、甘い思い出が消えないうちに、夢見心地のマリーもオペラ座をあとにするようであった。

 王妃と侍女たちを乗せた四頭立ての馬車が朝靄あさもやに包まれたパリの街をひた走る。

「ベルサイユ宮殿に戻るのかい?」

「うん。パリの中心からベルサイユまでは馬車で二時間くらいだ―――ところでぼんちゃん、少しおなかが空いたね」

 言われてみれば、貴族たちの晩餐をただ眺めていただけの僕らは、かなりの空腹をがまんしていた。特にチュン太の方は、以来、しばらく何も食べていなかったはずだ。

 僕らはマリーの馬車を見送ったあと、何か食べ物にありつける場所を探した。

 パリの街はまだうすもやの中で眠っている。僕にとって初めてのその街は、早朝という時刻のせいか、肌寒さとともに、ノスタルジックな哀愁を感じさせた。セーヌ河にかかる古い橋、荘厳なノートルダム寺院、芸術家たちの集まるという小高い丘―――チュン太に導かれて、僕らはあちこち飛び回ったが、どこを見回しても、人っ子ひとりいない。

 そんな中、ある小さな通りに面した家屋の軒先で、すでに忙しく立ち働いている人影があった。おそるおそる近づいてみると、小さなパン屋のようである。白いエプロンをつけた一人の娘が、店の前をはき掃除したり、バケツの水を運んだりしている。大人びて見えるが、まだあどけない少女であろう。

「ここなら何か食べ物がもらえるかも」

 僕とチュン太は、路地を隔てた石畳へそれとなく舞い降りた。カーテンの半分ほど開いたショーケースには、おいしそうなパンが並びはじめている。僕らは警戒しながらも、派手に羽をバタつかせて、わざとらしく少女の動かすほうきのあとを追った。

 彼女はようやく僕らの存在に気づくと、やさしそうな笑みを浮かべた。

「おなかが空いているのね」

 そして箒を壁に立てかけ、いったん店の裏側へ姿を消した。

 すぐに戻って来た彼女の両手には、一握りのパン屑が包まれていた。

「こんなものしかないけど、お食べなさい」

 そう言いながら、彼女は自分が掃除したばかりの石畳の上へそれを静かに並べた。そして、少し離れた場所へ行き、しゃがんで僕らの様子を見ている。

「いい子だね―――それでは、遠慮なく頂こうか」

 僕とチュン太はパン屑を争ってついばんだ。笑って見ている少女の顔は、化粧ひとつしていないが、まるで天使のように純真で愛らしく見えた。

 たらふく食べて満足した僕らは、いつしか眠気を覚え、路地裏の物陰で身を寄せ合って眠った。パリの街に朝日が差しはじめた。

 マリーのあとを追って、ふたたび僕らがプチ・トリアノンに辿り着いたときには、王妃は子供たちと一緒に池のほとりの鶏小屋へ来ていた。

 ママン王妃レーヌもぜひにと、卵拾いにかり出された様子である。

 ルイ・ジョゼフが得意気に母親の手を引っ張る。

「ママンレーヌ。こっちだよ。鶏が卵を産んでる場所があるんだ。マリーテレーズに見つかる前に、ママンに拾わせてあげる」

 男の子は服が汚れるのも気にせず、柵の下をくぐり抜け、近道をして「秘密の場所」へひとり駆け出す。

 白樺の林の上にのぼった太陽が、まぶしく家族三人を照らしている。

「まあ、ジョゼフ。そんなに急いだら、鶏さんたちがびっくりするじゃない」

 母親と並んで歩くマリーテレーズは、すっかり大人びた口ぶりだ。

 麦わら帽子をかぶった王妃は、あの十代の頃の、花も恥じらう少女の面影を残しつつも、いくぶんふくよかになったあごのあたりに、さすがに母親らしい貫禄をたたえている。

 鶏小屋では、背の高い庭師の男性が、鶏たちにエサを与えている。

「あら。フランクル。今朝はあなたがエサをあげる役目なの?」

 男は王妃が一緒であることに気づき、帽子を取る。

「おはようございます。マリー王妃。じつは飼育係のオードリーが、ここ二、三日お休みをいただいておりまして……」

「あら。どうしたのかしら……」

 マリーは農民役のスタッフの顔や名前まで、いちいち覚えているようだ。

「じつはその、……オードリーの一人息子がこのところ病気でして……」

 フランクルと呼ばれたその男は、はじめ言いにくそうにしていたが、やがてぽつぽつと事情を語りはじめた。

 マリーは、夢中で卵をさがす子供たちを横目に、男の話に耳を傾けた。

 フランクルによると、飼育係のオードリーには十二歳になる息子がいて、ここしばらくやまいにふせっている、その病いというのが栄養不良による脚気かっけという病気で、かなりの進行具合から、あるいは命にかかわるかもしれないとの医者の判断である、オードリーの夫は職探し中でずっと家にいない、しかたなくオードリーが仕事を休んで、つきっきりで看病している、おそらく彼女の家には今日きょう食べるものも残っていないであろう、と言うのであった。

「なぜもっと早く言わないの!フランクル。しかも栄養不良だなんて……」

 マリーは美しい眉をゆがめて、泣きそうな顔をした。

「あなたたちには充分なお給金が支払われているはずです。財務係がそう言っていたわ。もっとも、ずいぶん前の話だけど」

 フランクルは下を向いたまま、何も言わない。しかし唇はへの字に結ばれ、両手はしっかりと握られている。なにか、言いたくても言えない本心があるようだ。

「しかたないわ。フランクル。パンと牛乳を、オードリーの家まで届けてちょうだい。今すぐよ。急いで!」

 マリーは、わいわいと近寄って来た子供たちに、深刻な様子を悟られないよう、あわてて笑顔を作った。

 マリーが用意した馬車に乗って、庭師の男はいったんプチ・トリアノンをあとにし、何時間かのち、また同じ馬車で帰って来た。マリーは離宮の玄関で出迎えた。

 馬車から降りて来たフランクルの顔には、固い表情が浮かんでいる。

「マリー様。悲しいお知らせです。オードリーの息子が、三日前に亡くなりました。私が到着した時には、もう葬儀が終わった後で、出棺されるところでした」

 マリーは言葉を失って、しばらく茫然とした。そして天を仰ぎ、大きく溜息をついた。フランクルは頭を下げ、小屋の方へ戻って行く。

 ひとり残されたマリーは、邸内の祭壇の前にひざまずく。

「ああ、神さま。それがあなたのおぼし召しなのでしょうか。小さな子供の命を奪って、親を悲しませるということが……。それとも、あなたは子供の命とひきかえに、わたくしたちに何かを示そうとされているのでしょうか……」

 マリーは手と手を組み合わせ、祈った。

 僕とチュン太は、のっぴきならぬ状況にただ息を呑んだ。

 時刻はいつの間にか黄昏たそがれに近づいている。

 マリーはひとり池のほとりに立ち、林に沈む夕日に照らされながら、さざ波を眺めている。

「……わたくしたちにいったい何が出来るというのでしょう。世の中はひとりでに、誰も望まない方向へ進んで行きます。一人ひとりの力は小さくて、大きな流れを変えることは出来ないわ。それでもわたくしたちは、自分のなすべきことを精一杯やるしかないと思うの。わたくしは、貧しい人々のために、働き口を与えました。オードリーの子供のためにも、パンを分け与えました。それなのに、人々はわたくしのことを悪く言います。パンがなければお菓子を食べればいい……そんな台詞セリフをわたくしが言うはずはないわ。ああ、わたくしがどんな悪いことをしたと言うのでしょう。神さま!」

 頬に流れる大粒の涙を、マリーは拭おうともしなかった。

 日の落ちた池のほとりから、水鳥の群れが飛び立つ。

 生い茂ったあしにかくれて、チュン太と一緒にこの様子を見ていた僕は、マリーの頬にさした暗い影を思い、これから迎えるべき彼女の厄難やくなんを思った。

「やっぱり、ふつうの家庭に生まれればよかったのにね……」

 しかし、チュン太は意外なほど冷静に、その不運な境遇のあらましを述べた。

「うん―――しかしこのころ、さらにマリーの評判を落とす事件がたてつづけに起きるんだ。名高い『首飾り事件』というのもその一つだよ。この事件で、マリーはむしろ被害者だったんだが、まるで王妃が宝石をめぐる詐欺事件に関与したような印象を残して、彼女の立場をいっそう悪くした。それ以来民衆は、何かよくないことが起きるたんびに、ことごとくマリーのせいにするようになった。うっぷんのはけ口を求めていたんだね」

 チュン太は残念そうに足で池の水を蹴った。

「……また貴族のほうも、民衆の不満の矛先ほこさきが自分たちに向かないように、この風潮をひそかに歓迎するような有様だった。味方だと思っていた婦人たちや取り巻き連中でさえ、結局、自分の保身しか考えていなかった。マリーは孤独だったと思うよ」

「信じられるのは家族だけ、といったところか」

「それと、恋人のフェルゼンだ」

「フェルゼンとはまだ続いていたのかい?あの舞踏会から、もう十年が経つんだろう?」

「とかく困難な恋は燃えやすいと言うからね……そうだ、ちょっとそっちを覗いてみようか」

 チュン太は真顔のまま飛んで行く。

 僕もだまってついて行く。

 目的地はすぐそこだった。

 それは、僕がこの国へ来てはじめてチュン太を見つけた場所、すなわち円いドーム状の屋根を持つ、ギリシャ風の列柱に囲まれた白亜の聖堂だった。あの時はすがすがしい朝だったが、今回はしっとりとした夜だ。月明りだけが皓々こうこうと輝き、建物を闇に浮かび上がらせている。

「『愛の殿堂』と言うんだよ」

 チュン太は鼻の下をこすりながら言った。

 そそり立つ柱の向こうに、互いに下を向いたまま、だまって寄り添う二つの影がある。

 女のほうは、誰あろう、人目を気づかいつつも、愛する男のためにあでやかに着飾った、白いドレス姿のマリーであった。ときどき男の顔を見上げては何かを呟き、また眉を寄せて伏し目がちになる。

 男のほうは、その長身に華麗な軍服をまとい、颯爽と黒いマントを羽織った年来の恋人フェルゼンである。舞踏会のときに見せた初々しい純情さは消え、人生の荒波を越えてきた者の持つたくましい精悍さをひたいに宿している。そして言葉少なに、マリーのかかえている苦悩をあたたかな抱擁で受け止めている。

 月明りの「愛の殿堂」に、静かで濃密な時間が流れる。

「……スウェーデンの名門貴族の出身で、しかも軍人であるフェルゼンは、ちょうどアメリカの戦争から帰ったばかりなんだ。まさに命がけの恋だね」

「恋人の愛と家族の愛―――王妃マリーが手にしたのは、わずかにこの二つだけだったんだね」

 二つの影が一つになるのを確かめながら、僕らはドームの上にかかる月を横切ってこの場を離れた。彼らに残された短い時間を、無粋ぶすいな鳥のさえずりで邪魔しないように……。

 マリーの行動を追って、僕らが次に向かったのは、プチ・トリアノン離宮からしばらく飛んだ、ベルサイユ宮殿の本殿であった。

 日はすでに高く、抜けるような青空が広がっている。上空から見る左右対称シンメトリックな庭園は色とりどりの花に覆われ、まるで巨人の家の床に敷かれたペルシャ絨毯のようであった。あちらこちらの噴水には、人や馬や伝説の神々が寝そべったり沈んだりして、エキゾチックな情趣を添えている。それはこの偉大な王宮の歴史を、無言の荘重そうちょうさで物語っているようである。

 太陽に照らされた宮殿には延々とつづく無数の窓があり、端から端まで視界に収めるのに、首を大きく左右に動かさなければならない。プチ・トリアノンがショートケーキだとするならば、このベルサイユ宮殿はさしずめ三百人分のウエディングケーキといったところか―――

「どこから入るのかな」

 その広大さに呆然とする僕を、チュン太が先導する。

「こっちは裏側だから、表に回ってみようか」

 宮殿の屋根を飛び越え、われわれがともに舞い降りたのは、三方を建物に囲まれた、コの字型の中庭のような場所であった。紋章のついた正面の部屋には立派なバルコニーがあり、足下には真新しい大理石が幾何学模様に敷かれている。ふり返ると、何やら馬に乗った人物の像がある。ここから見上げる宮殿の威容は、まさに絶対王政の権力の象徴のようであった。

「この建物のどこかに、王と王妃はいるはずだよ」

 われわれは宮殿の窓を一つ一つ覗いてみることにした。

 大きな窓から覗く室内は天井が高く、幾人もの貴族たちが動き回るのが見える。寄木細工を組み合わせた廊下、金箔を施した壁面、無造作にあちこちに並べられた彫刻、昼をあざむく無数のシャンデリア。さらに天井を見上げると、荘厳な宗教画の世界が果てしなく広がっている。中世の油絵から抜け出したような風景は、茫洋ぼうようとしてつかみどころがない。

「こんな中から、マリー王妃を探せるかな」

「大丈夫だよ。彼女はどこにいても特別だから」

 しばらく行くと、重厚な扉の前に、十人ほどの貴族たちが列をなしている部屋があった。

 開け放たれた部屋の中央には大きな椅子が置かれていて、そこに座っているのは、横向きにカールした頭に王冠をかぶり、国王らしい正装をしたルイ十六世であった。

「領主たちが国王に謁見えっけんしているところかな」

 僕とチュン太は中を伺う。

 がらんとした部屋にマリーの姿はない。

 扉の前で順番を待つ男たちはひとりずつ部屋に呼ばれ、王の前に来ると、うやうやしく一礼する。そして、おもむろに熱弁をふるい始める。

 ここからはよく聞こえないが、それぞれ何か差し迫った事情を訴えているらしい。地元の有力者や行政官たちであろうか。

 王は眉間に皺を寄せ、額に手を当てて聞いている。

 そして男たちが部屋を出ていくたびに、うなだれて溜息をつく。

「……大変そうだね。なにか困ったことでも起きたのかな」

「この年は例年にない凶作で、それまでの赤字財政がいよいよ切羽詰まってたんだ。しかも運悪く、王の側近たちが相次いで病に倒れたから、王は一人で対応に追われてたんだよ」

「ふーん」

 僕は同情と憐みの目でルイ十六世を見た。「大変なんだね、国王って」

「……この時代はあらゆる権力が国王一人に集中していたからね。絶対王政とはそういうことだ」

 僕はふと頭の中で考えてみた。すなわち、コンビニが乱立する世の中―――見かけは平等だが、どこか殺伐として平板な、たとえば現代の日本―――と、ベルサイユ宮に代表される、文化は豊潤だが、いびつで偏りのある世の中―――のどちらがいいか。王の渋い顔を見ていると、一概にどちらとも言えなかった。

 ルイ十六世の困惑を尻目に、僕らはふたたびマリー王妃を探すことにした。

 僕とチュン太は大胆にも、いている窓から宮殿の室内に侵入した。天井が高いので、よもや捕まることはあるまい。

 見事な彫刻や絵画を眺めながら、やがて僕らが辿り着いたのは、これまでの部屋がかすんで見えるほど、豪華できらびやかな大広間であった。

 立ち並ぶ楕円形の窓からは、先ほど僕らが飛んで来た大庭園の眺望が開けている。反対側の壁には、窓と同じ形にくり抜かれた大きな鏡が、万華鏡のように連なっている。目もくらむようなその美しさに、僕はあんぐりと口を開けた。

 差し込んだ外の光は、この空間からすべての曖昧さを消し去り、数々の調度品に反射して隅々までその姿を際立たせている。あたかも、何げない会話に入り込んだ、どんな沈黙をも恐れるかのように……。

 アーチ型の天井は極彩色の絵画で埋めつくされ、そこに吊るされたシャンデリアが、天国からさかさまに咲いた花のようである。天然の光と人工の光―――それらは溶け合い、混ざり合って、めくるめく幻想の世界を現出している。

「鏡の回廊、というんだよ」

 チュン太の目にもシャンデリアが映る。

 そして、磨き抜かれた床の上には、着飾った貴族たちが数百人、グラスを片手に気ままにたむろしている。盛大な宴会が開かれているようだ。

 カツラをかぶり、分厚いジャケットを着て、足には白いタイツをはいた男たち。

 髪を盛り上げ、コルセットで締めつけた腰に、スカートをふくらませた女たち。

 ここ一番の晴れの舞台に、贅と上品さを競い合う紳士淑女の姿を、僕たちは天井の燭台に止まって眺めていた。

 その中で、とりわけ人だかりのしている一角があった。

 ざわめきに耳を澄まし、人混みに目を凝らすと、その中心にいるのはまぎれもない、王妃マリーアントワネットであった。

 正装したマリーの出立ちは、プチ・トリアノンでの質素な姿とも、オペラ座で見た軽やかな格好ともまたちがう、さすがにフランス王妃の威風を感じさせる濃紺のドレス姿であった。

「おほほ……」

 王妃は口に手を当てて笑いながら、左右を眺め回し、一度に複数の紳士や淑女を相手にしている。

 話の内容はここからは分からない。

 マリーは絶えず口元に笑みを浮かべながらも、ときどき真剣な顔になったり、大きく目を見開いたりして相手の話を聞いている。その緩急の使い分けが、人をらさない感じである。

「あれで王妃は、ちゃんと外交をやってるんだよ」

 チュン太が耳打ちする。

 ルイ十六世の、苦虫を噛みつぶしたような表情とは対照的な、マリー一流の「微笑み外交」とでも言うべきか、人を惹きつけることにおいては特別の能力を発揮するこの女性の姿を、僕はしばらく感心して眺めていた。

「……貴族たちも、マリーが国王に影響力のあることを知っていて、王よりも王妃のほうに働きかけたんだ」

 チュン太の観察はするどい。

 まもなく午前中の謁見は散会となり、国王と王妃はそれぞれに衣装直しをして、昼食のテーブルに着いた。

 と言っても、水入らずのくつろいだ席ではなく、―――信じられないことだが―――公衆の面前で、仲よく食事をしている所を見せる一種の儀式のようであった。

 二人はお内裏だいりさまとおひなさまのように、長いテーブルに横並びに、いくぶん距離を置いて着席する。

 王家の人物の肖像画が何枚も掛けられた部屋には、壁ぎわにずらりと椅子が並べられ、見物人たちが談笑しながら、遠まきに国王夫妻の食事を眺めている。

 次々に運ばれて来る料理に、あまり気のすすまない顔をしたマリーが形だけ手をつける。

 ここ宮廷においては、何をするにも一人で出来ないマリーの窮屈さを、僕は少々気の毒に思った。

「逃げ出したくなる気持ちも分かるよ……」

 それに引きかえ、さっきまで苦悩の表情を浮かべていたルイ十六世は、胃袋だけは元気と見えて、出された料理をすべてきれいに平らげ、次の皿を待っている。

 マリーは横ざまに身を乗り出すように国王に囁く。

「……あなた。みんなが揃って口にするのは、銀行家のネッケルの名前よ。きっとネッケルならば、人々の意をんで、うまく事を治められるかもしれない。われわれには少々、耳の痛い進言もしますけど」

 国王は、動かしていた口を一瞬とめて、なるほど、という顔をした。

「そうか。ネッケルか……。それは思いつかなかった。あなたの勘はよく当たるからね。では、ネッケルを財務大臣に任命するとしよう」

 国王はマリーの思いつきを、二つ返事で承諾する。

 なんともあっさりと、昼食のテーブルにおいて、かくも大事な取り決めがなされるのであった。

「二人とも、あまり政治には向いてなさそうだね」

 僕とチュン太は肩をすぼめた。

 国王はその日の午後、楽しみにしていた狩りに出かけると言って、従者とともに宮殿をあとにした。

 一方、フランスの危機的な財政状況を、ネッケルという人物にゆだねることに決め、一つ肩の荷を下ろしたマリーの元へ、またしてもかんばしからぬ知らせがもたらされた。マリーの顔面は蒼白となった。

「急いで馬車を……」

 僕たちがマリーのあとを追って、次に辿り着いたのは、郊外のムードンという場所にある王家の別荘であった。

 林に囲まれた別荘にはすでに宵闇が迫り、わずかに開いたカーテンの隙間から光が漏れている。

 チュン太は何も言わずに僕を窓辺に呼び寄せると、険しい顔つきで中を見るように促した。

 そこで僕が見たものは、ある病人の姿―――白いベッドに横たわる少年の姿であった。

 少年ははげしく咳き込み、苦痛に顔をゆがめながら、ベッドの上で身悶えしている。そのおかっぱの髪型に、僕はどこかで見覚えがあった。プチ・トリアノンで元気にはしゃいでいた、あの腕白な王太子ルイ・ジョゼフである。

「どこか悪いのかな……」

 僕は眉根を寄せた。

脊椎せきついカリエスという病気なんだよ。七歳になったルイ・ジョゼフは、一年ほど前から、とても治りにくい難病に苦しんでるんだ……」

 おそるおそるもう一度見ると、ベッドの横では母親のマリーが、なすすべもなく息子の手を取り、今にも泣き出しそうな表情である。

「……結核菌が背骨に入り込んで、細胞を壊してしまう。ひどくすると背骨や腰が彎曲わんきょくして動けなくなる病気だ……」

 かくれんぼをしたり、卵を拾ったり、母親と楽しそうにダンスを踊る少年の姿がまぶたに浮かんだ。

 王家の人間といえども、病気の前では無力な母と子だ。どんなに大金をはたいたところで、医療の技術にも限界がある。人間とは、いかに弱い存在であることか―――

 顔をそむけた僕を見て、チュン太は何を思ったか、わざと快活な声を作り、「さあ、ちょっと街の様子を見に行こうか」と言った。彼の中で、何かがふっ切れたのであろうか。

 僕らは連れ立って、宵闇に包まれたパリの上空を飛んだ。家々かられる明りが、まるで散りばめた星屑のようである。

 こんなにも平和そうに見える街の中で、いったいどんな不幸が日々繰り返されているのだろうか―――

 僕の心は沈んだままだった。しかしパリの夜景そのものは、やはり陶然うっとりするほど美しかった。

 降り立ったセーヌ河沿いの街角で、ふと僕らの目に飛び込んで来たのは、怖気おぞけを覚えるような荒涼とした風景であった。

 うす暗い外燈に照らされた一帯は、見渡すかぎりさびれ果てたスラム街であった。路上には生気がなく、どこにも人影が見えない。しかし目を凝らすと、壁の色に同化した浮浪者が、死んだように土塀に凭れかかっている。その足元をとつぜん大きな鼠が横切る。僕は寒気とともに身震いがした。

 いったいチュン太は、僕に何を見せようというのだろう。

 さらに進むと、じめじめとした路地裏の一角に、うす汚れた子供の姿があった。ゴミ箱のふたを開け、中をあさっている。

 少年はじきに母親らしい女に腕を掴まれ、家に連れ戻される。

 彼らが姿を消したバラックには、窓辺からわずかな蝋燭の明りが漏れているものの、やがてそれも吹き消される。ひしめき合うように立ち並ぶ家々の窓から、同じように灯火ともしびが消えて行く。

 静寂の中に聞こえるのは、さらさらと流れるセーヌの水音だけである。

「ゴーストタウンだね……」

 僕は思わず呟く。

「庶民の暮らしはこんな感じだよ。宮廷とは天と地の差だ」

「オードリーの家がお葬式を出せたのは、まだいい方だったんだね―――」

 僕らは荒れ果てた街をさまよううちに、またもや空腹であることを思い出した。どんな状況でもお腹が空くのは、生き物の悲しいさがだ。

「こんな場所で、何か食べるものが見つかるかな……」

 廃墟のような街を、僕らはあらためて見回した。

「そうだ……いつかのパン屋さんに行ってみよう。やさしい少女が働いていた、あの路地裏の……」

 どちらからともなくそう呟くと、僕らはすぐに夜空へ羽ばたいた。寒々とした心に、わずかな希望の光が灯った。

 たしかあの店はオペラ座の近くの、裏通りに面した場所だったはずである。しかし、あれから十年を経たこの街で、同じ店をうまく見つけ出せるかどうか。そもそもあの店はまだ存在しているのだろうか―――

「たしかこの辺りだった気がするけど……」

 記憶の中の風景と、現実の風景とを照らし合わせながら、僕らはそれらしい一角に舞い降りた。

 石畳の向こうにショーケースのあるお店が見える。古びた看板にはフランス語で、パン屋を意味するであろう文字が書かれている。

「あれだ……」

 近づいてみると、お店はまちがいなくあの時の、可憐な少女が働いていたパン屋であった。

 ところがなぜか、カーテンは閉じられ、ショーケースの中は空っぽである。しかもガラスはひび割れている。

 ほこりをかぶった看板といい、ボロボロのカーテンといい、割れたままのショーケースといい、お店が廃業して久しいことは明らかであった。

 僕らは途方に暮れて立ち尽くした。

 空腹もさることながら、僕らはあの時の、天使のようにやさしい少女の行方が気になった。

「あの子はどうしてるだろう。十年経って、今頃いい娘さんになっているかな……」

 空き家の前で、僕らはそう囁き合っては深く溜息をついた。

 うしろ髪を引かれる思いでその場を立ち去ると、僕らは思いがけず、漆黒の闇の中に、この界隈ではめずらしく華やいだ一角を見つけ出した。

 きらびやかで猥雑な歓楽街である。

 貧しい暮らしの中でも、人々は快楽を求め、さを忘れるために街へと繰り出すものらしい。酒場、ダンスホール、賭博場、安ホテル―――けばけばしい明りのついた店々が軒を連ねている。

「ここなら食べ物くらいあるだろう」

 僕らはおそるおそる、寝そべっている酔っ払いの足元をすり抜け、裏通りを覗いて回った。

 なにげなく街灯に止まって、辺りを見回していた時であった。

 十字路が開けたところに、派手な衣装で真っ赤な口紅を引き、一目で安物とわかる金ピカのアクセサリーをつけた女性が、道行く男にしきりに声を掛けている。厚化粧のため年齢がよく分からないが、その身のこなしは見た目より若そうである。

 女はぎこちない笑みを浮かべ、思い切ったように男たちに近づき、わざとらしくその腕を取る。そして断られると、半ば肩を落とし、半ばほっとした様子で、また元の暗がりに戻って行く。それを辛抱にくり返している。

 僕はその、不慣れで場違いな様子に、あるいやな予感がした。男の腕にすがる彼女の白い指先は、かくしきれない純情さと哀れなほどのやさしさを残している。

 チュン太を見ると、やはり同じことを考えているらしかった。

「あの子だね……」

 僕はどうしようもなく暗鬱な気分になった。

 そしてしばらくこの様子を見ていると、やがて太った中年男が娘の顔を覗き込み、下品に笑いながら毛むくじゃらの腕を肩に回して、彼女を暗がりの方へ連れて行った。

 無力な雀の身の上を、この時ほど恨めしく思ったことはなかった。

 すっかり食欲をなくし、食べものを探す気力さえ失った僕らは、魂を抜かれたように力なく上空へ飛び立った。

 誰かのではなく、どうにも動かしがたい現実がこの世にはある。

 歓楽街のにぎわいはしだいに後方へ遠ざかり、やがておぼろげな夜景の一部となった。空から見るパリは何事もなかったように、また元の静けさの中で眠っている。

 やりきれない思いを胸に、われわれが次にやって来たのは、夜の街に威風堂々と浮かび上がる大邸宅であった。

「ぼんちゃんにもう一か所、見せたいところがあるんだ」 

 チュン太に導かれて辿り着いたその屋敷は、ベルサイユ宮の豪華さには比ぶべくもないが、明らかに貴族のものと思われる豪奢ごうしゃな住居であった。

「……ここで進歩的な若者たちが集まって、遊戯に耽ったり、議論をたたかわせたりする『サロン』が開かれてるんだよ。ちょっと覗いてみよう」

 チュン太が率先して窓の方へ飛んでいく。元気をふりしぼっているのがよく分かった。僕もやむなくあとに続く。

 窓枠に止まって中を覗くと、広々とした居間には十数人の若者が、それぞれに腕組みをして、お茶を飲んだり、談笑したりしている。中には下手なピアノを弾いている者もある。

「……彼らはみな、身分はまちまちだが、志に燃えた青年たちだよ。この腐敗した世の中をなんとかしなければ、という問題意識をかかえている。そんな空気を敏感に察して、場所を提供する貴族もいたんだ。あの人がこの家の主人だよ」

 見ると、部屋の隅に置かれたソファーに深々と腰を下ろし、ワイングラスを揺らしながら若者たちの様子を満足げに眺めている初老の男がいる。

 青年たちは、まるで主人の存在を忘れたかのように、勝手気ままに、滔々とうとうとお喋りに興じている。

「……すべての束縛そくばくから自由になれた時、その時はじめて、よりよい社会や芸術が生まれるんだ」

「束縛とは、身分や育ちのことかい?」

「身分もそうだし、年齢や性別もそうだ。男だからこう、女だからこうって言うのは、すでに時代遅れだ」

「たしかに、生まれた時にすべての運命が決まってるなんて、おかしいよ」

「教会や学校だって、行きたくない者は行かなくていいんだ。立派なことを言っている坊さんや先生たちも、陰でやってることは、さして庶民と変わらないよ」

 若者たちはしきりに口角泡を飛ばしている。

「世代間の断絶も救いがたいね。うちの親父なんか、二言めには昔はよかった、近ごろの若い者は……のくり返しだ。このセリフが出るようじゃ、老いぼれた証拠だね」

「しかし文明を作り上げてきたのは親たちの世代であり、そのまた親たちの世代だよ。彼らの功績も忘れてはいけない」

「いや、その時その時のご都合主義で作り上げた文明は決して長続きしないよ。いずれはわれわれの手かせ足枷となる。人間は生まれながらにして自由なんだよ。ジャン・ジャック・ルソーを読んだかい?」

「あれは、すばらしいね!」

「僕らの言いたいことを、代弁してくれてるね」

「では自由で平等な社会の実現には、どうすればいい?」

「古い習慣をとにかく叩きつぶすことだ。そして新しいものを一から作り直す。大きな理想の前には、小さな犠牲はやむを得ない」

「革命かい?」

「そう呼ぶことも出来る―――しかし、われわれは決してテロリストではない。あくまで困っている人たちの味方だ。大事なのはいかに弱者に力を貸すかだ」

「そのためには、われわれがもっと強くなる必要がありはしないか」

「権力を持った人間は必ず横暴になるよ」

「自由主義者のつもりが、じつは独裁主義者だった、ってこともある……」

 早口にまくし立てる青年たちの雄弁さに、僕は目を白黒させた。

 また別の青年が言う。

「……だから法律が必要なんだ。だれにでも等しく適用される法律―――盗みを働けば、みな同じように罰せられる。貧乏人でも貴族でも、あるいは王族でも、だ。例外はない」

「そう言えば貴族なんて、まるで泥棒みたいなもんだな。庶民から取れるだけ取って、自分たちは税金も払わずに……」

「おいおい、主人に聞こえるぞ」

 みんなは急に思い出したように、初老の男性の顔色をいっせいに伺う。

「わしはかまわんよ。大いに議論してくれ給え」

 うっすらと笑みを浮かべた主人は、さっきから大きな葉巻を愉快そうにくゆらせている。

「……貴族にも、時代を生き延びるための打算があったんだよ」

 チュン太がまた穿うがった意見を言う。

 青年たちはみな、それぞれ、次の世代をになう学者や法律家、ジャーナリストや実業家の卵であるらしい。

「彼らがやがてフランス革命を引っ張っていくんだ」

 僕は漠然と、彼らが欲してやまない自由を、曲りなりにも自分がいま手にしていることを思い、また僕が憧れるところの豊饒な文化を、彼らが空気のように享受していることを思うと、お互い無い物ねだりの愚を犯していることに苦笑を禁じ得なかった。

 夜の更けるのも忘れて、サロンは若者たちの熱気であふれかえった。

 そのとき、窓外で不穏な物音がした。

 僕らのいる屋敷からそう遠くない場所のようだ。急ブレーキの音とともに「ドン!」という鈍い音がした。馬のいななき声が夜空に響く。

「……行ってみよう」

 サロンの喧噪をあとに、僕とチュン太は事故現場と思われる方角へ飛んだ。

 うす暗い路地の角を曲がると、広くなった十字路の真ん中に、二頭立ての馬車がしずかに停まっている。馬は落ち着かない様子で、前足を蹴り上げたりしている。

 見ると、車輪の下にうずくまるように、ぐったりと横たわる人影があった。かたわらには小さな女の子が呆然と立っている。

 御者ぎょしゃが降りて来て、倒れた人物をしきりに起こそうとするが、三十格好のその女性はピクリとも動かず、腕をだらりとさせたままである。

 女の子はやがて火がついたように泣き出した。

 その泣き声を聞いて初めて事態を察したかのように、馬車の中から立派な身なりの女性と、すこし遅れて男性が降りて来た。

「いったいどうしたの?大丈夫?」

 羽根飾りのついた大きな帽子の女性は、ドレスの裾を押さえながら倒れた女の顔を覗き込んだ。

 御者は肩をすぼめて天を仰ぎ、困った顔で主人の顔を見た。天鵞絨ビロードのコートを着た恰幅のいい主人は、倒れた女のつぎはぎだらけの服装をじっと見下ろしている。

「こんな時間じゃ、医者もやってないだろうな。仕方がない。少し多めに心付けを渡しなさい」

 そう言い残すと、主人はろくに親子の顔も見ずに、ふたたび馬車に乗り込もうとした。

 帽子の婦人は泣きじゃくる女の子に歩み寄り、いくばくかの金銭を握らせようとする。が、女の子は泣いたまま、受け取ろうとしない。

「早くしなさい。人に見られると、厄介な事になる」

 男性にせかされて、婦人は女の子のふところにお金を無理にねじ込むと、ちらちら後ろを振り返りながら、つづいて馬車に乗り込んだ。

「このまま行っちゃうのかな。ひき逃げだね」

 僕は眉を逆立てた。

「貧しい人のことなんて、虫ケラほどにも思っちゃいないよ。そんな時代だ」

 チュン太も静かに肩をいからせる。

 御者は倒れた女性を引きずって脇へ移動させると、そそくさと御者台へのぼり、馬にムチを入れた。

 金色の装飾のついた馬車がガラガラとその場を立ち去りかけた。

 そのとき―――

 不審な物音を聞きつけて様子を見に来た住民たちが、どこからともなく、三人、五人と、路上に集まって来た。男の一人が、泣いている女の子と母親のそばへ駆け寄り、みんなの方を振り返ってこう叫ぶ。

「マリアンヌがねられた!」

 人々からざわめきが起った。と同時に、そのうちの何人かがすかさず、動こうとする馬車の前に立ちはだかった。

「貴族の馬車だ。逃げるつもりだぞ!」

「逃がすな!」

 しだいに数を増した住民にとり囲まれ、馬車は身動きがとれなくなった。

「かまわん!早く出しなさい!」

 馬車の中から男性の声が聞こえた。御者はさらなるムチをあてた。

 しかし馬は狂ったようにその場で跳ね上がるばかりで、それ以上動こうとしない。

 群衆の一人が御者台へ飛び乗り、いきなり御者に殴りかかった。そのまま首根っこを掴んで地面へ引きずり下ろそうとする。

 僕とチュン太は息を呑んだ。

 また別の男がこん棒を振り上げ、御者に一撃を加える。たまらず頭をかかえて倒れ込んだ御者は、さらに別の男に踏みつけにされる。人だかりに埋もれ、御者の姿はやがて消えて行った。

「中の貴族ヤツらも引きずり出せ!」

 勢いの止まらなくなった群衆は、さらに馬車に襲いかかった。何人かがステップに足を掛け、鍵のかかったドアを無理やりこじ開けようとする。何人かは待ちきれずにこん棒やくわで窓を叩き割る。やがて壊れたドアがバタンと開き、中からおびえ切った婦人の白い手が出て来た。一人の男が座席に体を突っ込み、抵抗する婦人の髪を乱暴に掴んでドアから引きずり出す。婦人の大きな帽子は羽根飾りが取れて車輪の下へ転がった。婦人はまたたく間に毛をむしられた鶏のようになった。

 反対側のドアから連れ出された主人はしばらく懸命に応戦していたが、太った腹を強打されるとあっけなく倒れ、そのまま立てなくなった。人々は気を失った主人の上着に手をかけ、内側のポケットをまさぐった。そして見つけた金品を自分の懐ろにしまった。

 民衆の怒りはそれでも収まらず、今度は誰もいない空っぽの馬車を打ち壊しにかかった。それぞれの手に鋤や鍬を持った男女が、四方から馬車をめった打ちにする。みるみるうちに哀れな馬車はドアがはずれ、屋根が落ちて、ぐしゃぐしゃになった。そしてすでに乗り物の形をとどめていない木の塊に、誰かが火を放った。火はめらめらと燃え上がり、悪魔の舌のような炎が夜の街を照らした。

 ふとチュン太を見ると、彼はいつの間にか女の子のそばへ飛んで行き、足元でしきりに何かを訴えている。きっとなぐさめの言葉をかけているらしいが、悲しいかな、小さな雀の羽ばたきに女の子は気づかない。

 僕は、危ないから人だかりから離れるようにチュン太を説得し、近くのあばら家の軒下まで連れ戻した。女の子は知り合いと思われる女性に保護された。

 燃えさかる炎をうつした暴徒たちの眼はギラギラと輝いている。

「……人間はこんなにも残酷になれるんだね」

 僕はなすすべもなくそう呟いた。

 炎に照らされた家々の壁には、よく見ると、様々なグロテスクな落書きがしてあった。その中に、明らかにマリーの似顔絵と思しきものがあった。毒々しい笑顔の下に、フランス語で乱暴な文字が書かれている。おそらく、口にするのもおぞましいののしりの言葉であろう。しかもその顔には、どす黒い悪臭をはなつ汚物のようなものがこすりつけてあった。

「行こう……」

 僕らは気を取り直して、ふたたびベルサイユの様子を見に行くことにした。

 国王と王妃がたたずんでいたのは、がらんとした控えのであった。部屋にはもう一人、背筋をぴんと伸ばした、痩せた白髪の紳士が立っていた。話の内容からすると、どうやら彼は新しく財務大臣に任命されたネッケルという人物らしい。

「国王陛下―――保守的な貴族たちはなかなか首を縦にふりませぬ。彼らの特権を廃止するのは、やはり至難の業であります。わたくしがどう説得しても『三部会を通せ』の一点張りです。三部会に持ち込めば、かならず勝てると目論んでいるようですな。それに平民の方も、自分たちの意見を国王に訴えるチャンスとばかり、三部会開催に意欲を示しております。どうせ貴族に丸め込まれるのがオチだというのに」

 国王は顔を曇らせる。

「どうすればよいだろうか。ネッケル……」

「いずれにしろ、三部会の開催は避けられません。かくなる上は、わたくしめがなんとか、議席数の調整に努めてみましょう。それが双方への圧力になるかもしれませぬ」

 王妃が口をはさむ。

「あまりやり過ぎると恐いわ。平民たちは何を考えているか分からないんですもの。暴動にでもなったりしたら……」

 三人は日が暮れるのも忘れて、しきりに何かを議論している。

「三部会って、なに?」

「三部会を開催するということは、つまり、それまで国王の思うままだった政治に、国民が口を出し始めるということだよ」

 現代ではごく当たり前のことだ。

 僕はあらためて、絶対王政というものの窮屈さを思った。

 国王たちの狼狽あわてぶりを見ていると、世の中の中心がしだいに王侯貴族から庶民の方へ傾いているのが僕の目にも分かった。まるでセーヌの水が高いところから低いところへ流れるように……

 そして三部会が開かれる当日、開会に先立って盛大なセレモニーが行われるというので、僕とチュン太は式場を覗いてみることにした。

 式場には多くの群衆がつめかけていた。

 客席を見渡すと、左右のブロックごとに、華美な衣装をまとった貴族の集団、おそろいの黒いマントを新調した平民の集団がそれぞれ陣を構えていた。

 やがて満を持して、正面の壇上に国王ルイ十六世が登場すると、貴族からも平民からも嵐のような拍手が巻き起こった。

「けっこうな人気なんだね」

「うん。彼はじっさい、国民のことを本気で心配してたからね。それが双方にも伝わった。ちょっとおっとりして頼りないけど」

 国王が着席すると、つづいて王妃マリーアントワネットが舞台の袖から現れた。

「いよいよマリーの登場だね」

「うん……」

 僕とチュン太は会場がどんな反応を示すか、興味深く見守った。

 すると、あれほど鳴り響いていた歓迎の拍手が、マリーの登場とともにピタリと止んだ。お愛想あいそほどの拍手すらない。水を打ったように静まりかえった会場に、コトコトと歩くマリーの足音が響いた。

「なんだか、かわいそうだね……」

 僕はマリーの不人気ぶりが気の毒になった。チュン太も口を結んでいる。

 屈辱に耐えながらやっと中央に辿り着いたマリーは、出迎えた国王に支えられて、ようやく自分の席に腰を下ろした。

 うなだれるマリーの背中を、国王が両手で抱えている。

 しかし、やがて意を決したように顔を上げたマリーは、いつになく毅然とした表情になり、大きな青い目で会場を見据みすえた。その眼差しには、世界中を敵に回しても自らの尊厳を守りぬくという気迫さえ感じられた。

 国王の開会宣言に始まり、因襲にのっとった形で式典は粛々と進められる。

 そのあいだ中ずっと、マリーはまばたきもせず、宙をにらんだままだった。

「マリーの胸中はどんなだろうね」

「じつはね、マリーの心配事はこの三部会より、もっと別のところにあったんだ。ほんとうは心ここにあらずなんだよ」

「え?」

「ルイ・ジョゼフの容態がいよいよ悪化したんだ。瀕死の状態だ……」

 式典が済むと、多忙な国王を残して、マリーはいそぎ息子のもとへと向かった。

 われわれも遅れないよう後を追った。馬車に揺られているあいだ中ずっと、マリーは胸の前で手を組み、目を閉じて神に祈りを捧げていた。

 ムードンの別荘へ到着すると、彼女は自分で馬車の扉を開け、門番へのねぎらいもそこそこに、ルイ・ジョゼフの部屋へと駆け込んだ。

 ベッドに横たわる王太子は、大汗をかきながらうめき声を上げている。悪夢にうなされているようだ。そしてマリーが部屋へ入る気配を感じたのか、ハッとして目を開けた。

「ママン。ママン。恐かったよう。ぼく、どこかへ連れて行かれるところだった……」

「もう大丈夫ですよ、ルイ・ジョゼフ。ママンがここに居ますよ。あなたはどこへも行かせません」

 マリーは息子の手をしっかりと握りしめ、目を潤ませた。そばに付いていた医者が一服するために席を立った。

 王妃は看護婦の手からおしぼりを奪い取り、自らの手で息子の汗を拭いてやった。

 おびえたように天井を見つめるジョゼフは、まだ半分、夢の中にいる表情であったが、母親がそばにいるのが現実だと分かると、哀訴あいそするような顔で喋りはじめた。

「ママンレーヌ、ごめんなさい。ぼく、言いつけを破って、プチ・トリアノンのお池に舟を浮かべて遊んでたんだ。自分一人で漕げるようになったからね。マリーテレーズはずっと岸から見てた。もちろん、いつでも帰れるように、橋の見えるあたりを漕いでたんだよ。ほんとだよ」

 その顔は、いつかの幼ない頃の彼を彷彿とさせた。

「……でもいつの間にか、お池は海につながってて、だんだん舟がそちらへ流されて行くんだ。漕いでも漕いでも、あと戻りできない。そのうち、空が真っ暗になって、なんにも見えなくなった。海も真っ暗で、すぐ前も見えないくらいだ。ぼく、恐かったよ。マリーテレーズを呼ぼうとしたけど、うまく声が出せないんだ。暗闇の中で、ただゆっくりと、舟がどこかへ動いて行く。舟はいつか大きな船に変わってて、もう、ぼくの力ではどうすることもできないんだ。ぼくはただ、舳先へさきに立って、おそろしい荒波を見ていた。船の輪郭が白く光って、大きなお城のようだったよ……」

 息子の狂気じみた訴えに、マリーは顔をゆがめてポロポロと涙をこぼした。三部会で屈辱にさらされても決して見せなかった涙を、息子の前ではためらいもなく流した。このとき彼女は、フランス王妃ではなく、一人の母親になっていた。

「大丈夫ですよ、ルイ・ジョゼフ。そのとき、あなたの隣には、ママンもいたでしょう?思い出して―――あなたの行くところには、きっとママンも一緒です」

 マリーは涙でぐしゃぐしゃになった頬にどうにか笑みを浮かべて言った。

 ルイ・ジョゼフも、すこし考えたのち、ようやくかすかな笑顔を見せた。

「……そういえば、そうだった気がする。たしかにママンもいたよ。ありがとう、ママン王妃レーヌ。そばにいてくれて。もういたずらはしないよ……」

 美しい髪の母親と、おかっぱ頭の息子は、お互いを二度と離さないというように、しっかりと抱き合った。

 窓辺で見ていたチュン太の目にも涙があふれている。

 この日は小康を取り戻したルイ・ジョゼフであったが、そのなん日も危篤状態がつづいた。

 苦痛に顔をゆがめる息子の顔が見ていられなくなると、マリーは奥の祭壇へ行き、神さまの前にひざまずいた。ドレスの裾はいつかボロボロになっていた。

「神さま。あまりにむご過ぎます。十まで数えるのが、早過ぎます。この子に隠れる場所をお与え下さい。この子はまだ七年しか生きていません。運命の扉を閉めないで下さい。この子の命が助かるのなら、このフランスなんて、どうなってもいいわ。どうか我が最愛の息子ルイ・ジョゼフをお助け下さい!」

 うなだれるマリーの前で、哀れなるかな、十字架にかけられた聖人は、やはり無言のまま、しずかにうなじを傾けていた。ステンドグラスを通して差し込む光が鮮やかに床を照らした。

 そして何日かして、マリーにルイ・ジョゼフの死が告げられた。

 マリーはいく日もいく日も、悲しみに泣き暮らした。腫れ上がった目が、まるで別人のように人相を変えていた。

「運命は、残酷だね……」

 僕はおそるおそるチュン太を見た。他者ひとの悲しみに共鳴しやすいチュン太が、どんなに落胆しているか心配だったからだ。

 ところが、彼はひとしきり涙を流したあと、ふっ切れたように爽やかな表情を浮かべていた。そしてブルっと身を震わせながら、

「もう大丈夫だよ」と元気に言った。

「ボクは、幼くして死んだルイ・ジョゼフが、ちゃんと母親のマリーに愛してもらったかどうか、確かめたかったんだ。生きているうちに少しでも誰かに愛された者は、死んだあと、からね。ボクは『お母さん』てものを知らないから、その辺のことがよく分からなかったんだ―――でも、もう大丈夫だよ」

 僕はチュン太の意外な気丈さに一安心したものの、彼が言ったその不思議なセリフのことが気になった。

 時間旅行?―――パスポート?―――愛された者だけに与えられる?―――

 一体なんのことだろう。

 きょとんとした顔でチュン太を見ているうちに、僕はふと、ある考えが頭に浮かんだ。

 ひょっとして、ここにいる僕はもう死んでいるのだろうか。あの時、電車に轢かれて―――

 こうしてチュン太と旅をしているということは、僕らはいわゆる『冥界』という所に来ていて、そして彼が言うように、僕は生きているうちにのだろうか―――

 チュン太はそのパスポートをすでに持っているようである。とすると、母親の愛情を知らない彼を、いったい誰が―――彼の短い一生のうちで「愛した」のだろうか。

 思案顔の僕の背中を、チュン太の翼がパタパタと叩いた。

「そろそろ、三部会のつづきが始まるよ」

 僕らはふたたび会場へ舞い戻った。

 そのころ、三部会は大いにもめていた。

「……人口の大半を占めるわれわれ平民が、こうしていつまでも飢えに苦しんでいる状況を、貴族の皆さんはどう思われますか。しかも、何の発言権もないなんて……」

「……だからわれわれが、お前たちにうまく収穫を分配しているではないか。今年は、まれにみる凶作でそれが出来なかっただけだ……」

 お互いの主張はいつまでも平行線で、話し合いはらちが明かなかった。

 いらだちを募らせた双方から、ひそひそと実力行使の声が上がった。

「……けっきょく暴力がものを言うのかな」

 僕は眉を曇らせた。

「ここから先は展開が早いよ。さあ次へ行こう」

 チュン太が案内を急ぐ。

 僕とチュン太は、あるときは宮殿の屋根の上から、あるときはセーヌ河の橋桁に止まって、きな臭い社会の動向を観察した。

 支配階級と被支配階級はたがいに譲らず、事あるごとに激しい攻防をくり返す。

 平民たちは自発的に「国民議会」を創設し、世に名高い「人権宣言」をかかげた。王室側は軍隊をもってそれを牽制した。ときおり銃撃の音が街にひびき渡った。

 もはや歴史という川は、大きく流れを変えようとしていた。

 そしてついに、王侯貴族と庶民との間の、勢力の逆転をしめす象徴的な出来事が起こった。

「バスティーユが陥落しました!」

 ルイ十六世のもとへ、不穏な知らせがもたらされた。

「暴動か?……」

 国王はお茶のテーブルから問うた。

「いえ、でございます!……」

 事態はさらに切迫して行く。

 僕とチュン太は、ベルサイユ宮殿のバルコニーに止まって、王の寝室に身を寄せ合うマリーと子供たちの姿を覗き見た。

「ママン王妃レーヌ。この国はどうなるの?わたしたちは殺されちゃうの?」

 マリーテレーズは小さな弟の肩をしっかりと抱きながら、母王妃にたずねた。少年はいつか揺りかごの中で眠っていた第二王子のようである。

「大丈夫ですよ。フランスは何も変わりません。わたしたちはどんなときも堂々としていればいいのです。めそめそしてはいけません。日ごろお父さまがお前たちによくよく言い聞かせていらっしゃったのは、ここのことですよ」

 マリーは子供たちを、そして何よりも自らを鼓舞するように言った。ドレスの肩が少し震えている。

 窓の外には、しだいに押し寄せてくる群衆の姿が見える。

 武器を持った数百人の市民たちが、四方からベルサイユの門を破りはじめる。その多くは女性たちのようである。鎌や鍬のほか、どこで調達したのか、四人がかりで大砲を引きずる者もある。彼女たちは口々に、食料を要求する声を上げている。

「パンをよこせ!ミルクをよこせ!」

「あたしたちを飢えさせる気か!」

「マリーを出せ!バルコニーへ出て来い!」

「メス豚め!姿を見せろ!」

 暴徒と化した民衆の勢いは止まらなかった。寝室の下の、幾何学模様に組まれた大理石の庭は、叫び声を上げる女たちで埋め尽くされた。仕事を終えた男たちも続々と駆けつけた。

「恐いよう。ママン。恐いよう……」

 子供たちは母親にしがみつく。やがて国王も部屋に合流した。

「マリーは姿を見せろ!」

「赤字夫人!罪をつぐなえ!」

「バルコニーへ出て来い!」

「王妃!出て来い!」

 人々の非難の声は、ひとえにマリーの上に集中している。

 国王は王妃を抱き寄せ、彼女を守ろうとする。

 僕らはバルコニーから、双方の様子を伺った。

 そのとき、王妃マリーアントワネットはふいに顔を上げ、唇をしっかりと結ぶと、思い切ったように王の腕を振りほどいた。そして、心配そうなルイ十六世と泣きじゃくる子供たちに向かって、そっと微笑んでみせた。 

 彼女はくるりと身をひるがえし、ふたたび毅然とした表情になって、ゆっくりと窓辺に近づくと、やおらカーテンを開け、バルコニーに歩み出た。

 日の光がまぶしく差し込み、寝室の床を照らした。

 ワーワー……

 バルコニーの下には、怒りに満ちた群衆がひしめき合っていた。手に持った鎌やこん棒を振り上げ、怒号をあびせる市民たち。その数は数百とも、数千とも見える。その光景を目の当たりにして、マリーは一瞬足がすくんだ。こちらへ銃口を向ける者もいた。

 しかし、彼女は大きく目を見開いて、手摺てすりの際まで歩みを進めた。

 僕らは固唾かたずを飲んだ。

「出て来たぞ!王妃だ!」

「王妃が出て来た!このメス豚め!」

「憎たらしい!っちまえ!」

 怒号は最高潮に達した。まるで岸壁に打ち寄せる荒波のように。

 しかしそのとき、マリーは何を思ったか、この場に最もふさわしくない表情、すなわち、柔らかなを浮かべたのである―――

 民衆はあっけに取られた。

「あの女、気でも狂ったか」

「自分の立場が分かっているのか……」

 罵声はしだいにどよめきに変わった。

 そして次の瞬間、マリーはひらりとドレスの裾をつまんで腰をかがめ、民衆に一礼した。

 その優雅な身のこなしは、かつてオーストリアからフランスへ嫁いで来た若き日のマリーの姿を―――歓迎する民衆に彼女がふりまいた愛嬌あいきょうと気品を彷彿ほうふつとさせた。

 市民たちはまるで子守唄を聞かされた赤ん坊のように大人しくなった。

 遠い昔、王室とともに繁栄を謳歌したフランス―――そして、若き王妃を迎え、明日あすへの希望に満ち満ちていた市民たち―――押しかけた人々の胸には、どんな清冽で美しい記憶が呼び覚まされたのであろうか―――

 そして誰かが、思わず叫んだ。

「フランス万歳!マリーさま、万歳!」

「フランス万歳!王妃さま万歳!」

 その興奮はすぐさま周囲に連鎖した。

「マリーアントワネットさま、万歳!」

「われらが祖国に祝福を!」

 民衆はいつの間にか手にしていた武器を放り出し、諸手もろてを上げて万歳の叫びを口にした。歓喜の声は宮殿の壁に反射して広場中に響き渡った。……

 寝室の中では国王と子供たちが一とかたまりになって抱き合っていた。

 やがてバルコニーからゆっくりと戻って来たマリーは、しなだれるように彼らの腕に倒れ込んだ。

 マリーの美しい眉は、恐怖と苦しみ、そして安堵とやすらぎでゆがめられていた。

 夫に抱きしめられて、マリーは初めてわれに返り、さめざめと泣き崩れた。

「……さすがだね」

「市民も心を動かされるはずだね」

 しかし、この印象的な名場面のあとも、やはり大局は変わらず、国王の一家は馬車に乗せられ、群衆にとり囲まれながらパリへと連行されることになった。まるで捕えられた小禽ことりたちが哀れにも人々の前へさらされるように……

 向かった先のパリでは、チュイルリー宮という幽霊屋敷のような古い建物へ幽閉された。そして外出も許されない隔離された生活が始まった。

「……世の中の中心は『国民議会』へと移って行くよ。平民たちが事実上政治を乗っ取ったんだ。貴族たちは沈みゆく船から逃げ出す鼠のように、相次いで国外へ逃亡した……」

 議会を覗いてみると、どこかで耳にした文言もんごんが高らかに読み上げられていた。

「……人は生まれながらにして自由かつ平等であり……」 

 その中には、いつかサロンで議論を闘わせていた青年たちの顔ぶれもあった。

 しかし議会の進行は決してスムーズではなかった。これまで政治とは無縁に過ごしてきた彼らの発言は、計画性とまとまりに欠けていた。

 そんな中、ひときわ大音声おんじょうで周囲を圧倒し、ずんぐりした体とみにくいあばた顔で異彩を放つ男がいた。諸君、まあ聞きたまえ……

「ミラボーだね。貴族なのに平民議員として立候補した変わり者だよ」

 男は何かをがなり立て、大汗をかき、コップの水を飲んでは再びがなり立てる。そして大汗をかき、また水を飲む。―――一人で忙しい男だ。

 しかし論旨は明晰で、人をらさない説得力がある。いきおいだけかと思えば、意外に計算ずくのところもある。

「豪快な人物だね……だけど、僕はちょっと苦手なタイプだ……」

 僕は子供のころに、こういう酔っ払いにからまれてイヤな思いをしたことがある。がさつでデリカシーがなく、つまらぬ冗談を言って一人で笑っているタイプ―――アイスクリームを箸で食べても平気、という人種だ。しかし、仕事の出来る種族であることもまちがいない。

「ミラボーは革命派でありながら、王室とも通じていたんだよ。優柔不断なことに、王室に有利に革命を運びます、とルイ十六世にもちかけて、賄賂わいろを要求したりした。しかし、王妃には嫌われていたみたいだよ」

「マリーのしかめっ面が目に浮かぶね」

「だけど、もしこのとき、ミラボーの提言を受け入れていたら、フランス王室はもう少し長続きしたかもしれない」

「逃亡が見つかって、ついに断頭台に送られるんだよね。そのあたりは何となく知ってる」

 フランス革命といえばギロチン台のイメージ―――ルイ十六世もマリーアントワネットも、結局死刑宣告を受けて首を落とされることになるのだ。

「……その逃亡をそそのかしたのが、他でもないマリーの恋人フェルゼンなんだよ。彼は王室をしばらく国外へ避難させて、体制を整えてから機を見て捲き返す計画を立てた。いわば時代の流れに、あくまであらがおうとしたんだね」

 僕の頭の中で、ある連想が働いた。

 美貌の王妃マリーアントワネットとその恋人フェルゼン。命がけの逃避行の末に待ち受ける死。そもそもマリーは、美しいフェルゼンではなく、実利をもたらしそうな醜男ぶおとこのミラボーを選ぶという手段もあった。しかしそうはしなかった。恋愛においてはよくある選択である。そしてその結果、自身の死のみならず、王家の滅亡という最悪の事態を招いてしまった。人生のある局面において、われわれは時に「美」よりも「実利」を取ることが必要なのかもしれない……

 ぼんやりとする僕をチュン太が引っぱる。

「逃亡の様子を見に行こうか……」

 計画はフェルゼンの献身的な努力によって綿密に仕組まれ、いよいよその決行の日が訪れた。

 国王一家は、とある貴婦人の親子とその従僕になりすまして、パリを出発した。

 途中、道に迷ったり、予定時間に遅れたりしてマゴつく場面もあったが、長い旅路の末、ようやく彼らは国境まであと少し、という場所まで辿り着いた。

 これで一安心、われわれは自由だ、と油断したそのとき、密告によってつかわされた役人に正体がバレて、馬車は捕らえられた。

 万事休す。

 あわれな国王一家は、村人の冷たい視線にさらされながら、パリへ連れ戻されることになった。

 王室の裏切りを知った民衆は、口々に罵声を浴びせたり、武器を持って馬車に襲いかかろうとする。このときの恐怖で、マリーの美しいブロンドの髪は一夜のうちにすっかり老婆のような白髪になってしまった。

 ひとたびは王室との共存―――立憲君主制―――をも考えた国民の意識は、これで一気に『共和政』へと傾いた。

「市民たちはうまくやっていけるのかな。自分たちだけで……」

 国民議会はやがて『国民公会』と名を変えた。

 しかし、沈みゆく船に代わって新たに出航した急ごしらえの船は、たしかな航海もままならず、船頭多くして船山に上るような迷走をくり返した。志の高さはいつしか空回りし、自らの意に染まぬ者をためらいなく「粛清」するような残虐性へと変貌した。パリの街は精肉工場の裏庭のようになった。僕はその血なまぐささに辟易へきえきした。

「なんて世の中だろう……」

 そしていよいよ、国王への処罰が下される。判決は死刑―――

「これが史実だから、仕方ないよね……」

 僕とチュン太はため息をつき、身を寄せ合った。

 国王ルイ十六世はしずかに国民の判断を受け入れた。ただし、自らが何の罪なくして死すこと、そして自らの血が将来のフランスの発展のいしずえとならんことを、高らかに宣言することを忘れなかった。

 切り落とされたルイ十六世の首は、興奮した民衆によってやりに刺され、高々と空にかかげられた。

 僕とチュン太は、つづいて起るべき出来事を思い、どちらからともなく無口になった。

 僕は自分の母に似ているマリーのことを、なるべく赤の他人だと思うように努めた。フランス財政を悪化させ、人々を貧苦の底に陥れた張本人、この世にいない方がいい憎むべきメス豚であると……

 そして……

 瘦せ衰えたマリーのもとへ、容赦のない判決がもたらされた。

 フランス王妃マリーアントワネット。死刑。

 家族とも引き裂かれ、独房で暮らしていたマリーを、ある日役人が連れ出し、リヤカーに乗せて刑場へと運ぶ。

 うしろ手に縄でしばられた白装束のマリーが、沿道で待つ民衆の前にさらされる。白髪になった髪は、斬首のとき邪魔にならないよう短く切りそろえられている。

 かつて八頭立ての馬車に乗って疾駆したパリの街―――その街並みはいまも変わらない。しかし、華やいだマリーの衣装や宝石も、美しいブロンドの髪も、明日あすにはもはや見ることが出来ない。

 人々の目に映るのは、荷車にぐるまに乗せられ、ギロチン台へと運ばれる、あわれな罪人の姿であった。

 革命広場にはたくさんの群衆が、悪政の象徴ともいうべき女傑の最期を一目見ようと、群がる蟻のようにつめかけていた。耳を覆いたくなるような罵声が王妃に浴びせられる。中央に据えられたギロチン台には、大きな斜めのやいばが光っている。

 階段まで辿り着いた荷車から、マリーが乱暴に下ろされる。

 役人がマリーの体を支えようとするけれども、王妃はそれを断り、自分で歩く意志を示す。自由を奪われたその姿が痛々しい。

 僕は、母を彷彿とさせるマリーがこれから斬首される様子を、もうこれ以上見ている気になれなかった。チュン太は「……そうだね。分かった」とうなずいた。

 しかし、不思議にも晴れやかな顔で、

「でも、ぼんちゃん。マリーの最後のふるまいを見れば、ぼんちゃんはもっとマリーのことが好きになるよ」

と、意味ありげに微笑んだ。

 処刑台の階段をのぼるマリーの足取りはしっかりとして、いかにも王室に生を受けた者の威厳と誇りを感じさせた。

 胸苦しさに耐えながら見ていると、マリーはふと何かの拍子に、傍らに立っていた役人の足を、まちがえて踏んでしまったようである。

 彼女は、思わずいつもの快活な調子で、

「あら。ごめんなさいね。わざとじゃありませんのよ」

と、首をかしげてみせた。

 僕はなぜか涙が出そうになった。

 これから死刑になろうという人が、自らのちょっとした非礼を詫びずにはいられない、その気品と朗らかさを、僕はとても尊いものに感じた。

 僕らは群衆のざわめきをあとにし、パリの上空へと飛び立った。もうこれ以上、結末を見る必要はない。

 革命広場では一瞬の静寂のあと、歓喜のどよめきが湧き起こった。そして「フランス万歳!共和政万歳!」という叫び声がこだました。

 僕らはうしろを振り返らなかった。

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