王朝編
王朝編
竜の頭を船首にすえた華やかな船が、さざ波の立つ池の上を優雅にすべっている。池のほとりには満開の桜がひしめき合う。どこからか
赤や緑、黄色や紫、桃色に
「そーれ」
「も一つ」
「おっと」
なるべくボールを落とさないように、足を使って相手に渡す「
水際の岩の陰から、この光景を見ていた僕とチュン太のもとへ、蹴り損じたボールが転がって来た。
「お……」
僕は、自分の方へ転がって来るボールを黙って見てはいられない
状況も分からないまま、反射的にボールの方へ駆け出すと、走る速度が増すにつれ、僕はいつの間にか雀から人間の姿に変っていた。しかも、若者たちと同じ
「チュン太。ちょっと行ってくるよ。一度やってみたかったんだ」
僕はそう言い残すと、あと先考えずに、皮でできた鞠を手で拾い上げ、若者たちの方へ向かった。
「ぼんちゃーん……」
キョトンとした顔のまま、チュン太は後ろで小さくなる。
若者たちは、何のわだかまりもなく、新参の僕をこころよく迎えてくれた。
「
見ると、彼らは全員、僕のよく知っている顔だ。
リョースケをはじめ、高校のサッカー部のいつもの面々と、それにケンゾーの姿も見える。
「ちょっとお役目が長引いてね。かたじけない―――」
佐倉助と呼ばれた僕は、自然とそんな
僕は蹴鞠については
僕が投げ返したボールを、器用に足で受けたリョースケは、そのまま落とさずに足元で小さく弾ませ、コントロールして次の人へ渡す。
次の人間も、受け取った鞠を足元で
受ける、整える、蹴って渡す。合計三回、ボールにタッチするわけだ。
なるほど。
要領は分かったが、しかし最後、大きく人に渡すとき、背後に植えられた
最初の人間がやわらかくトスをする。順番に鞠を蹴って渡す。渡す相手は誰でもよい。そのうち僕にも回ってきた。僕はどうにか次へつないだ。
出だしの何回かは、それぞれ定位置をほとんど動かずにパスを渡すことが出来たが、一度乱れはじめると、だんだん正確に蹴るのも難しくなり、受けるのはもっと難しくなる。そしていつか制御不能となったボールは、ついに地面に落下する。それを何度も繰り返すゲームだ。勝ち負けはない。いかに優雅に鞠を蹴るか、そしていかに相手の取りやすいボールをパスしてやるかが、蹴鞠という遊びの醍醐味のようだ。単純だがなかなか面白い。
リョースケは
また、ケンゾーは他のみんなと少し動きが違う。野性味にあふれ、決して優雅とは言いがたいが、アクロバチックにボールを受け止め、たとえうしろ向きでも何とかこちらへ蹴り返してくる。見ているだけで面白い
僕はと言うと、このメンバーの中では今のところ穴になっている。しかし、このままではくやしいので、ボールになるべく触れるよう、こちらへよこせと積極的にアピールし、何度も
体を動かすのは楽しい。失敗しても成功しても、みんなから白い歯がこぼれる。あざやかな服装の、みめ
夢見心地で息をつく僕の方へ、不意にまたボールが飛んで来た。軌道が高かったので、とっさに僕は烏帽子をぬいで、ヘディングでそれに応じた。ボールはどうにかフワリと輪に戻ったが、リョースケがそれをパッと手で受け止めた。
「
みんなは腹を抱えて笑っている。
ヘディングはルールにないらしい。
「しかし、面白いからそれもありにしようか」
それからみんなは、ヘディングもルールに加え、一風変わった蹴鞠をしばし楽しんだ。
「……ちょっと休もうか。
リョースケがそう提案した。彼は心なしか、右肩を痛そうにしている。
みんなはぞろぞろと、日影を
「やっぱり、
日野丞と呼ばれたケンゾーは、だまって汗をふいている。黄緑色の狩衣姿が、ひときわ目に眩しい。
「佐倉助もなかなかやるじゃないか。久しぶりなんだろ」
リョースケが僕に話を向ける。
「うん。やってるうちに思い出したよ―――しかし、いったいここはどこなの?知らずに連れて来られたけど」
僕はあたりを見まわしながら、二重の意味で、それとなく探りを入れた。
渡り廊下でつながれた立派な建物。広く美しい庭。屋形船を浮かべた大きな池など、とても個人の住居とは思えない。
「右大臣の
「家内?って、まさか、リョースケ―――結婚したのか?」
僕は目を丸くした。高校生なのに結婚……。いやはや、リョースケは相変わらず行動が早い。しかし他のみんなは別段驚いた様子はない。この時代としては普通なのだろうか。
「ま、政略結婚だよ。貴族の家に生まれた宿命だ。このたび領地を与えられて、
リョースケは烏帽子をぬいで、照れたように笑う。
「王朝時代の貴族って、やっぱり、ヒマをもて余して遊んでばかりいるのかい?―――うらやましいな」
僕は常日頃、思っていたことを口にした。
「―――とんでもない。遊びじゃないよ。詩歌の
リョースケ、いや豊田守は大きくため息をつく。
「自由なんかまるでないよ。ガンジがらめだ。結婚の話も、俺の知らないところで、勝手に決められてた」
「それで平気なのかい?君は自由が好きなのかと思ってたよ」
「平気じゃないさ。だけど、与えられた
豊田守はあくまで前向きで明るい。
「ふうん……」
僕はあまり納得がいかなかったが、それでも、彼のように柔軟に考えることが出来れば、どんな場所でも楽しく生きて行けるのだろうな、と思ってもみた。しかし、いざ自分がそういう立場に立たされたとき、そう簡単に割り切れるかどうかは自信がない。
「そういうもんかな……ところで、この家に人はいないのかい?さっきから僕ら以外、誰の姿も見えないようだが……」
「右大臣はいつも多忙で、ふだん家にはいないよ。その代わり、女房たちはちゃんと奥にいる。姿を見せないだけだ。ほら、あの
豊田守は大きな屋敷の方をあごで示している。
われわれのいる庭園を取り囲むように、渡り廊下で結ばれた建物がコの字型に連なっていて、その雨戸はすべて閉ざされているように見える。しかしその中央の、いちばん大きい正殿の方をよく見ると、
「ここだけの話……」
と、豊田守は声をひそめた。
「
僕はさりげなく御簾の方に目を凝らした。言われてみれば、何か人影が見えるような気もする。が、その表情はおろか、顔の輪郭さえもよく分からない。たしかこの時代の女人は、あまり人前に姿を見せなかったと聞いたことがある。
「しかし佐倉助、そう言っておいて何だが、残念ながらその三の姫は、すでに
豊田守はいたずらっぽく笑った。
僕は一度も見たことのない娘について、そういう風に言われても、とくに何の感慨もなかった。が、適当に、そうか分かった、と相槌を打っておいた。
「さあ、こんどは弓矢でもやろうじゃないか」
豊田守がまた提案する。
みんなも異論はなく、袴についた芝生をはたいてすぐに立ち上がる。
弓道場は渡り廊下をくぐった先にあって、そこには四角い板のついた
豊田守は倉庫から弓矢を束ねて出してくる。
「……
豊田守は右肩をさすりながら腕をグルグル回している。
「君たちだけでやってくれ。優勝者にはとっておきの褒美もあるぞ」
リョースケはなにか含んだような笑みを浮かべた。
「褒美、ってなんだ?」誰かがたずねる。
「それは、やってみてのお楽しみだ―――佐倉助、君もやるだろう?」
僕は二つ返事で承諾した。弓矢というのも、やってみたかったことの一つである。こんな古風な時代に、こんな狩衣姿で、こんな素敵な庭で、本式の弓矢をやることなど、一生のうちに何回あるだろう。ただし、弓矢など、これまで一度も、持ったことも触ったこともないのであるが……
「
練習のために渡された弓矢を、どうしていいか分からず、マゴついている僕を察して、豊田守は横で見ていたケンゾーに言った。
「いいよ。オレはこっちが本職だ」
ケンゾー、いや日野丞は、蹴鞠よりこちらの方が
まずは「
つぎに左手に弓を持って腕をピンとのばし、右手に持った矢を弦にあてがう。
そして大きく胸を張って、弦を力強く引くのだが、その時、右
最後に、右手が頬にふれるくらい、視線に近い位置で矢をかまえ、タイミングよく指をはなす。それ。
ピューッ。
矢は勢いを得て、一直線に的のほうへ飛んで行った。その反動で、弦の
爽快この上ない。
惜しくも的には当たらなかったが、いままで手元にあったものが、一瞬ののちに数十メート先で生き物のように躍動するのを見るのは、たとえようもない快感である。
そんな僕の上気した顔を見て、日野丞はかすかに
「今度はオレがやってみようか」
日野丞は無造作に弓をかまえ、ゆっくりと弦を引く。そして一瞬止まって、ふいに矢を放つ。どこにも無駄な力が入っていない。しなやかで美しい動きだ。
放たれた矢は、見事、的をとらえてドンと突き刺さる。
みんなからどよめきと拍手がおこる。
そして各人は、めいめいの弓矢を手に取り、弦の張り具合などを確かめている。それぞれ腕に覚えのある顔だ。
それから一通り全員の練習が済むと、いよいよ試合開始となった。
参加者は六人なので、三人ずつ、二組に別れて試合をする。ひとり三本ずつのチャレンジで合計点を競うらしい。サイコロで順番を決めた。
まずはいきなり日野丞、それからサッカー部でセンターバックをつとめる男、そして僕の三人だ。
日野丞がいちばん右の的を狙う。
美しいフォームでかまえ、先ほどと同じく、しばらく静止する。
時間が止まったかと思った瞬間、矢は放たれた。
シュルルーッ。
ドン!
日野丞の美しい動きに見とれていたわれわれが、その音を聞いて的の方に視線を移したときには、矢はすでに的に描かれた
ため息とともに再び拍手がおこった。点数は二点だ。
日野丞は表情をくずさず、ゆっくりと木陰の方へ
次はセンターバックの番である。
狙いは中央の的だ。足場をならし、大きく息を吸って、弓矢をかまえる。黄色い狩衣をつけた巨漢の彼は、負けん気そうな太い眉をキリリと引き締め、じっと的をにらんでいる。気負ったその顔は少し緊張ぎみだ。
力を込めて放たれた矢は、惜しくも的にとどかず、地面に落ちてカラカラと転がった。
苦笑いをしながら、センターバックはわれわれの輪の方へ戻ってくる。失敗してもあまり気にしないのが彼のいいところだ。点数はもちろん与えられない。
そして次は、いよいよ僕の番だ。
遊びとはいえ、勝負となると、やはり胸がドキドキする。みんなの視線を全身に浴びる感覚も、なんだか久しぶりだ。僕は緊張しているのを悟られないよう、つとめて堂々と、地面を踏みしめるように歩いた。いちばん左の的が目標だ。そして
教わった通りに足を開き、立ち位置を決める。弓を左手に持ち、少し
シュルーッ。
ドン!
矢は的をとらえた。四角い板に突き刺さり、まだ余韻で震えている。
拍手と歓声が起こった。
僕はホッとして足場を下り、ふと日野丞のほうを見ると、彼は木陰からこっちを見ながら、物静かな中にもまるで自分のことのように嬉しそうな顔をしている。
矢はいちばん外側の円に命中していたので、点数は一点だった。しかし僕としては充分満足のいく一点であった。
それから二巡目がはじまる。
ケンゾーは、先ほど少し右に
センターバックも、最初の試みに修正を加えたらしく、少し上を狙って、強めに放たれた矢は、こんどは的をとらえた。一番はじの白い部分なので、一点だ。しかし彼は会心の笑みを浮かべて拳を突き上げている。
また僕の番になった。
僕は、練習のとき、それから一本目と、徐々に調子が上がって来ている。ひょっとすると今度は、高得点を狙える番かもしれない。ようやく緊張もほぐれてきた。もちろん油断は禁物だ。平常心を心掛け、ゆっくりと的に向かう。足場を整え、気持ちを鎮める。先ほどのような冷やかしの声が上がらないのは、みんなも何かを期待しているのだろうか。むしろ怖いような沈黙である。僕は胸を張って弓をかまえる。
そのとき、なぜかふと魔が差したように、心の中にあらぬ邪念がよぎり、急にみんなの視線が気になった。寝殿の方からも、誰かが見ているような気がする。
どんな
近ごろめずらしい別品だと聞いたが……。
いけない、いけない。集中、集中―――
心乱された僕は、一度弦をもとに戻し、あらためて深呼吸をした。みんなも一旦緊張をゆるめ、咳払いなどしている。
少し意識しすぎたようだ。気楽にいこう。まだ二本目だ。あともう一本ある。
気を取り直して、ふたたび弦を引く。思ったより軽い力で、弓を反らせることが出来た。
今だ―――僕は集中力が途切れないうちにと、少し早いタイミングで指をはなした。一本目のときより勢いのある矢が、的に向かって飛んで行く。
ところが、それはまるで迷走する
しまった……完全に失敗だ。0点……
勝利の神様のご機嫌をうかがうことは、とかく容易ではないようだ。
日野丞はだまって弓をみがいている。僕は気持ちを立て直すため、彼からすこし離れた松の木の下に腰を下ろし、脚をのばして
あい変わらず、そのうす暗い
ん?いったい僕は何を期待しているのだろう。大事な試合中だというのに―――
日野丞の三本目となった。いよいよ最後の一本である。
すっくと立ち上がった彼は、落ち着き払ってゆっくりと的の方へ向かったが、その背中には並々ならぬ決意が感じられた。遊び事といえども、勝負には勝たなければならない。そんな声が聞こえるようだ。
弦を引き、的をにらんで、息を止める。われわれも息を飲む。管弦の響きもいつしか止んでいる。キラキラした「黄金の静寂」とも言うべき一
―――ズドン。
それは、あっと言う間だった。
矢が刺さったのは、四重マルのいちばん外側の部分―――かろうじて一点だ。
観衆からどよめきがもれる。日野丞はだまって下りて来る。
このレベルになると、勝負はもう運命とのかけひきなのかもしれない。勝利の神様は、その常連である日野丞にそうそう甘くはないらしい。
つづくセンターバックも、はなはだ凡庸な一本をくり返しただけで、みんなの失笑を買った。
そしてまたもや、僕の番が来た。この最後の一本の出来次第で、この組の勝者が決まる。
今のところ点数は、
ほぼ勝負は見えているようなものだが、しかし、この結果によっては、僕の逆転勝利の可能性がないわけではない。
すなわち、もし的の真ん中を射抜けば、一挙に五点加算されるので、最初の一点と合わせて六点、つまり僕の勝ちなのだ。
ほとんどあり得ない話だが、まあ、状況としては面白い―――
足場から的までの距離を目で測ってみた。おおよそ三十メートルはありそうだ。
こんな長い距離を、初心者の僕が、みんなの注目する中で、一発逆転を狙うという滑稽なシチュエーション……。僕は苦笑がこみ上げてきた。
こんな苦境を制することが出来たら、それこそシンデレラボーイである。
かつてサッカーに情熱を燃やしていたころ、実を言えば僕は、ケンゾーに負けないくらい勝負に対して貪欲で、体を動かすことそれ自体に、無上の喜びと生きがいを感じていた。いちばん調子のいいときは、ゴールまでの間に何人ディフェンダーがいようと、このコースに撃てば必ず入るという、一本の線のようなものが見えていたこともある。
しかし、そんな魔法のような能力が僕に備わっていたのは、ほんの束の間だった。すぐに僕は、自らの限界を知ることになった。体がイメージについていかないもどかしさ。いくらシュートを放っても、わずかにゴールを外れる歯痒さ。しかも決定的だったのは、その理想をやすやすと具現している選手が近くにいたことだ。すなわち、ケンゾーである。僕に引導を渡したのは他ならぬケンゾーなのだ。バスケにおける彼のプレーを見たとき、僕は自分自身のサッカー人生に
その僕が、である。
この絶体絶命のピンチに立たされて、なぜか「恐れ」や「尻ごみ」ではなく、理由のない「勝利の予感」に胸が震えたのである。
僕は、勝利の神様が気まぐれなのを知っている。いくらこっちのコンディションが万全であろうと、また勝ちたい気持ちが強かろうと、負けるときはきっと負ける。言ってみれば、神様は気まぐれで、わがままで、いたずら好きな「幼児」のようなものだ。かえってこちらがそっぽを向いているときに、ちらちらとこちらを見ていたりする。そして何より、新しもの好きだ。
神様は今回、ケンゾーに微笑むのはおあずけにして、その代わり、誰に花束を渡そうかと、いまだ心を決めかねているようだ。
僕はこの競技ではあくまで初心者―――失うものは何もない。しかし追えば逃げる。ならば、うしろからそっと近づいてみよう。
ゆっくりと歩みを進め、何食わぬ顔で僕は的に向かった。あわてず、あせらず、肩の力を抜いて、いかにも堂々と見えるように心がける。そこまでは今までと変わらない。
しかし、足場に辿りつくと、思いついたように僕は、うしろをふり返ってみんなの方を向いた。そして仁王立ちになり、不敵な笑みを浮かべながら、一人ひとりの顔をながめ回した。
僕は袴のすそを払い、軽くジャンプして、それから歌舞伎役者のように的を睨んで大見得を切った。うしろから案の定冷やかしの声が湧き上がる。僕はもう一度ふり返り、ガッツポーズでそれに答える。みんなは大笑いしている。勝利の神様は、ときに
そしてふたたび、的の方へ精神を集中する。大きく深呼吸―――余裕を見せながらも、一点曇りのない鏡のような静かな心を持つ。これが大事だ。
弓を左手に持ち、腕をのばし、人差し指で照準を定める。春の日差しが僕の顔を照らす。まつ毛の影が頬に落ちるのを感じる。
ゆるやかな風が吹いてきた。これから僕の放とうとする矢は、軽やかに春風とたわむれながら、何人もの天使たちによって的の方へ運ばれて行くだろう……
そんなイメージを抱きながら弓を引く。僕の中にうず巻く青春のエネルギー―――誠実さも、性急さも、また勇敢さ、明朗さ、怠惰さや、強情さも、あるいは不完全なる完全さも―――そのすべてをこの一本の矢に注ぎ込むように……
僕は弓を最大限に引いたまま、ふと何げなく寝殿の方を見やった。
そのとき「チュン!」という切迫した鳥の鳴き声が聞こえた。寝殿の廊下の方が何やら騒がしいようである。
人間の姿に慣れ切ってすっかり忘れていたが、その声は明らかにチュン太のものだ。チュン太を置き去りにして、僕は遊びに打ち興じていたのであった。
目を凝らすと一匹の三毛猫が、雀を捕まえようとして寝殿の廊下で暴れまわっている。猫の首には
必死に羽ばたいて追手をかわすチュン太―――格子から
そして猫の鋭い爪がまさしくチュン太の羽を
つられてジャンプした猫は、間一髪、雀の尻っぽを捕まえそこなったが、その拍子に、猫の首に結ばれた紐が一直線に伸び、閉ざされた御簾を大きく引き上げてしまった。
色鮮やかな着物を幾重にも重ね着した女人の姿がとつぜん現れた。女人は驚いて目を
そして不意に僕と目が合うと、女人はしばらく茫然とこちらを見ていたが、すぐにハッとした顔になり、持っていた
僕は思わず、的も見ないで、弦から指をはなした。
弓を出発した矢は、まるでスローモーションのように、
するとそこへ、折から一陣の春風が吹いて来て、大挙して矢を白壁の方へ押し戻した。あれよあれよと言う間に、突風に流された矢は、四角い板の方へ向きを変える。そして描かれた四重マルの、どれに刺さろうかと迷った挙句、一番まん中の黒いマルを選び、やがてズブリと突き刺さった。
一同はシーンとしている。
何が起きたか分からないうちに、僕の「逆転勝利」が決まった―――
大歓声に迎えられた僕は、肩を叩かれたり、背中を押されたり、烏帽子を取られたりしてもみくちゃにされる。日野丞も隅の方で苦笑を浮かべている。
豊田守が近づいて来て、僕に握手を求める。差し出された手を握り返したとき、その力強さに、僕ははじめて勝利を実感した。
ある意味それは、「予定通りの結末」ではあったのだが……。
そんな中、ふとまた寝殿の方を見ると、先ほどの出来事は何もなかったように、すでにひっそりと御簾は閉ざされている。
ひと組めの試合は、そういうわけで僕が勝者となった。そして二た組めは、サイドバック、ゴールキーパー、
これがいわゆる
勝利の神様の性格を知り、まんまとその裏をかいて、背後から王冠をうばった僕の、完全なる読み勝ちであった。
ともあれ、その優勝の報酬が何なのか、われわれはまだ知らされていない。思えば誰もそれを知らないまま、真剣に勝負を戦っていたのだ。男子というのは何とも無邪気なものだ。
「ところで、優勝した僕は何がもらえるんだい。
僕はこの時代に合わせた冗談を言ったつもりであったが、その冗談は通じず、かわりに豊田守は、思いのほか真剣な顔つきで言った。
「いや、じつはね、来月行われる『
僕は豊田守の意外な申し出に、はじめ何を言われているのか分からなかった。
舞?踊り?スポーツなら多少覚えはあったが、ダンスとなると僕は完全に門外漢だ。第一、なぜそんなものが優勝の報酬になるのだ。どちらかと言うとバツゲームではないか。
僕はその通りのことを豊田守に伝え、不服そうな顔をした。
「何を言ってるんだい、佐倉助。葵祭の舞と言えば、花形中の花形だ。みんなの憧れの的だ。出たくても出られるもんじゃない。それに、高貴な人もたくさん見に来るから、注目されるチャンスなんだぞ。ぜひとも出給え。いや、首に縄をつけてでもやらせるぞ」
豊田守は僕の首にヘッドロックをかけた。
リョースケのこういう所が、みんなに愛される理由なのであろう。さりげなく人の背中を押すのがうまい。みんなを明るい方へ、明るい方へと引っ張っていく。
「見物人はお偉いさんたちだけじゃないぞ。春になって、これから咲くのを待ちわびているナデシコのような女の子たちもたくさん見に来る。どんな素敵な出会いがあるか分からないぞ。どうだ」
僕は、気がすすまないながらも、豊田守の勢いに押されて、やってみようか、という気になった。どうせ乗りかかった船だ。もともと失うものは何もない。
「……分かった。やるよ」
僕の返事に、豊田守はまるで夏の太陽のような笑みを浮かべた。
うしろで見ていた日野丞も、さしずめ月の光のように微笑んでいる。たしか、彼も一緒に出演すると聞いた。そ知らぬ風をしているが、彼はすべてを知っていたわけだ。ということは、まさか試合にわざと負けた?
もしそうだとすると、ケンゾーは誰にも気づかれないように、少しだけ的の中心を外して譲歩したことになる。
そして葵祭に向けての特訓が始まった。
その豊田守が、自分の代わりに僕を選んでくれたからには、僕は当然、それなりに期待に答えなければならない。彼ならば当代きっての人気者なので、文句なく会場を沸かせることが出来るであろうが、その代役として出て来た無名の新人は、果たしてどんな演技をするのか、観客はよけいに注目するはずだ。がぜん、気持ちが引き締まる。
日野丞の教え方は要領を得ている。自分が出来るからといって、むやみに途中を省略したりせず、初心者の気持ちになって丁寧に指導する。むずかしい箇所はゆっくりと、くり返しやらせる。ときには自ら手本となり、ひぃ、ふぅ、みぃ、と鮮やかに舞ってみせる。僕は教わっている立場も忘れて、その見事な演技に感心する。
われわれは、全ての動きが、目をつぶってでも
そうこうするうち、早や時が過ぎ、五月十五日となった。いよいよ葵祭の当日である。
京都下鴨神社
そんな中で、身分の高い貴族たちは、気楽な町人たちのように大はしゃぎしたりせず、少し遠くから静かに見物する。とくに人前に顔をさらすのが
森の中央には、真新しい
客席から見えないように、周りを幕で
幕の内側では、世話役にまわった豊田守が、僕の着ている本番用の衣装―――ひときわきらびやかで派手な舞台衣装を、手でさわって点検しながら、しきりに感心している。
「なかなかよく似合ってるな、佐倉助。本当は俺が着るはずだったのに……くやしいな」
いつもの
「あとは練習どおり、楽しんでやることだ。ふだんの六割くらいの力でやるといいよ。本番はつい力が入るからね」
僕はニッコリ笑おうとしたが、やはり本番前の緊張はかくせず、こわばった表情になってしまった。
その向こうに座っている日野丞はさすがに堂々としたもので、
しめやかな雅楽の演奏が始まった。いよいよ出番だ。
日野丞につづいて、僕、こと佐倉助が、檜の階段を一歩一歩踏みしめて昇る。
急に視界が開け、大勢の観客の顔が目に飛び込んで来た。―――よし―――僕は覚悟を決めた。キッと唇をへの字に結び、振り付けにはないジャンプを軽く
演技はもう始まっている。
右手をしなやかに上げて、まずはそれを中心に一回転し、トンと足を鳴らしながら首を振る。何度も練習したので、無意識に体が動く。上々のすべり出しだ。
少し歩幅をせばめ、にじるように舞台を移動する。
日野丞のうしろ姿がとても頼もしく見える。歩くたびに揺れ動く飾りのついた帽子、白地に青い波模様を描いた
そして舞台の端まで行くと、ひらりと向き直り、低い姿勢を保ったまま、今度はこちらへ歩みを進める。
僕も全く同じタイミングでひらりと反転する。息もピッタリだ。もっとも、ここはさほど難しい箇所ではない。しかしここをきっちりと
舞台の中央に戻ると、こんどは意表をつくタイミングで、二人は右に移動し、また左に移動しながら、完璧にシンクロした複雑な動きを披露する。難易度の高い見せ場の一つだ。潮の流れにたゆたう海藻のイメージである。ここで会場は、いつしか広い海原に見え始める。
右手を水平に伸ばしながらそろりと一回転すると、舞台をとり囲む森も一回転する。段上を見つめる観客の顔も一回転する。雅楽を奏でる音楽隊も一回転する。まだら模様の木漏れ日が、客席や舞台の上、日野丞や僕の顔の上に落ちて、水中にただよう泡のようだ。
僕はいまこの瞬間、自分の体が完全に自分のものとなり、同時にその動きが完全に神様の意志に沿っている、という奇妙な感覚にとらわれた。
日野丞と僕の演技は、基本的には
日野丞と目が合い、いくぞ、という顔になった。
大きな仕草でゆっくりと、大気中のエネルギーを掻きあつめるように、日野丞は力強い波をこちらに送って来た。
僕は目に見えない波を全身で受け止め、その勢いに押されながらも、なんとかそれを制御し、のけぞった体の力を利用して、ふたたび波を送り返した。
僕の送った波はさらに大きかったと見えて、日野丞はそれを受け止めるのに、うしろに三歩あとずさった。そして体勢を整えてからまた前かがみになり、二つ目の波をいっそう強くこちらへ投げた。
エネルギーを増したその波は、岩場にたたきつける怒涛のように、僕に容赦なく襲いかかる。僕は波に翻弄されつつ、舞台の端でようやくそれを鎮めた。そして潮が満ちるのを待って、勢いをため込み、渾身の力で一気にそれを押し返した。
波は大きくふくらんで
二人は沖を漂う小さな舟となった。
下鴨神社
観客一人ひとりも、荒涼とした海の上で
僕は役に入り込んで演じるかたわら、頭のどこか冷めた部分で、日野丞や観客の顔をはっきりと眺めていた。
思えば、練習のときは一度も出せなかった躍動感が、この本番の大舞台でうまく出せたのは
そのとき、ふと何げなく、客席のいちばんうしろに停まっている
荒れ狂う波がようやく
優雅に見える演技も、この段階まで来ると、しだいに体力勝負になる。衣装も汗だくだ。しかし観客にそれを悟られないよう、涼しげな顔で演じなければならない。日野丞はさすがに表情ひとつ変えない。僕の方は、今にも足がつりそうで、あと三十秒もつかどうか怪しい。ここへ来て、彼との実力の差を痛感する。だが、あと少しだ。頑張れ、佐倉助!
渦に呑まれるような仕草で、だんだんと舞台の中央に寄り集まった二人は、なんども旋回しながら徐々に背中合わせになる。そして音楽の盛り上がりとともに、目にも止まらぬ速さで回転したかと思うと、トップスピンの最後にいきなり、掛け声に合わせて右手を高く天につき上げる。決めのポーズだ。
音楽もそこでピタリとやむ。客席もしずかになる。
日野丞と僕は、しばらくその格好のまま静止している。広大な糺の森から降りそそぐ木漏れ日がゆらゆらと会場をつつみ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。
そのうち誰かが一つ拍手をすると、思い出したように、だんだんと大きな拍手が湧き起こった。そしてついには何も聞こえないような大喝采になった。
舞台を取り囲む空間は、先ほどまでの鬼気迫る非日常から、しだいにまたもとの日常の
「よっ、日野丞!」
そんな声が掛かる。
「日野丞さーん!」
「やんや、やんや!」
さまざまな歓声とともに、なにやら紙に包んだおひねりも乱れ飛ぶ。
もちろん、クールな日野丞は歓声に手を振ったりしない。
「そっちの新人も、よかったぞ!」
だれかが僕に向かって叫ぶ。
「よっ、佐倉助!」
観客の声に
僕は口の動きで、みんな、ありがとう、とつぶやいて、すこし頭を下げる。
盛大な拍手に見送られながら、僕らはゆっくりと降り口の方へ向かう。二人の演技が大成功であったことは、並み居る観客一人ひとりの表情を見て分かった。僕は声援に応えたかったが、舞台を下りるまでが演技であると思い直し、
そのとき、例の牛車の方をまたさりげなく見ると、閉ざされた御簾のすき間から白い手がのぞき、外で待つ侍女に何か手渡すのが見えた。受け取った侍女は、なぜか僕の方をちらと一瞥した。
階段を下りると、興奮した豊田守が出迎えた。
「よかったぞ!最高だ!期待した通り、いやそれ以上だった!」
彼は両手を広げて、飾りのついた派手な衣装の僕を抱きしめんばかりの勢いでそう言った。目には涙さえ浮かべている。
ふう、やっと終わった……
僕は幕の内で
「……右大臣も感心して
豊田守は大得意で鼻をふくらませている。
僕は内心、まあ、こんな時代で出世してもなあ……と思いながら、やはり成功の甘い蜜の味をまんざらでもなく感じた。
日野丞はだまって衣装を着替えている。上気した顔には充足感がみなぎっている。ひと仕事終えた職人の顔だ。脱いだ衣装をきちんとたたむのも、見習うべきところだ。
「日野丞さん、これ」
世話役の男が日野丞に花束を届けに来た。ファンからの差し入れのようだ。日野丞は汗を拭きながら、一礼して受け取る。
「こっちもです」
「また来ましたよ」
みるみるうちに、日野丞の前にはプレゼントの山が出来た。
「くそー。うらやましい限りだ」
豊田守が本気で
僕は日野丞の人気ぶりを
僕がぼんやり見ていると、隅のほうから世話役が、
「佐倉助さん、あなたにもお届けものが……」
と言って、大事そうに差し出したものは、藤の花の
「……身分のあるお方の侍女らしき人が、あなたに、と渡して行きました。名は名乗りませんでした」
僕は不意の出来事に思わず
何かのまちがいではないか、と僕はまた疑ったが、ひとまず一礼してそれを押し戴いた。
受け取った扇子は、軽くて丈夫な素材で出来ていて、手に心地よい重さであった。恐るおそる開いてみると、なんとも言えずよい香りが漂って来る。
その美しい絵柄の上に、大胆にも黒々とした文字で、なにか走り書きがしてある。草書体で書かれた
おぼろ月夜の
こよひ待つらむ
と、どうやらそういう風に読める。そして最後に、付け足したように、
美しうございました
とある。
どういう意味であろうか。僕は何度も読み返した。
そして隅の方でしばらく思案していたが、やがて豊田守が勢い込んで戻って来たので、あわてて扇子を閉じてうしろ手に隠した。
「佐倉助、よろこべ!右大臣が今夜、
豊田守の顔は紅潮している。
僕はさらに返答に困った。日野丞はこちらを見て、笑みを浮かべている。
「本日、
リョースケはそう言い捨てて、僕の返事も聞かずに、ふたたび外へ出て行った。まったく忙しい男だ。
しかし困ったことになった。僕はただ、蹴鞠がやってみたかっただけなのに、それが弓の競争になり、いつのまにか舞を踊るはめになって、あれよあれよと言う間に望外の立身出世をしそうになっている。こんなはずではなかった。
僕は啞然としながら、また手にした扇子を開いてみた。
―――美しうございました―――
見事でしたよ、あなたの演技は。―――これは分かりやすい。褒められていることには違いなさそうだ。
その鶯色の扇子を、眺めたり
舟を浮かべた大きな池。美しい芝生。遊びまわる若者たち。うららかな春の日に、夢のように過ごした輝かしい時間―――
かるく閉じた
鶯色の扇子?……
僕はどきんとして、自分の手の中にあるものを見た。
―――そこですべてがつながった。
僕は急いで白い垂れ幕のすき間から、客席に出てみた。
観客はとうに帰途につき、人影はまばらであった。
牛車が停まっていた場所にはすでに何もなく、樹木の間からこぼれ落ちる光だけが虚しく地面を照らしている。
なんということだ。こんなことがあっていいのだろうか……
右大臣の娘といえば、すでに
あるいは僕の演技が、それほど素晴らしかったということだろうか。まさか。だって、日野丞もいっしょに踊っていたわけだし、ふつうは彼の方に目が行くだろう。彼ならば世に知られた
しかし、僕の場合はそうはいかない。どこの馬の骨とも分からない無名の
僕は扇子に書かれた文字をもう一度読んでみた。
おぼろ月夜の
こよひ待つらむ
美しうございました
「こよひ待つらむ」とは「今夜待っています」ということか……?
僕は自分の顔が耳まで真っ赤になるのが分かった。心臓の鼓動が早くなる。死ぬかと思うほど呼吸が苦しい。
しかしその苦しさの中に、どこか甘いような、切ないような、濃密な汁のしたたりを感じるのだ。僕の心は
異性に愛されることの喜び―――それはこんなにもすばらしいものなのか。僕は雲の上を歩いているような気がした。
すべてのことはもうどうでもよい。このまま火の中をくぐってもきっと熱くないだろう―――
しかし、もう一度気を落ち着かせて、こんなことはあり得ない、これは何かの間違いである、と自分に言い聞かせようとした。勘違いするな、佐倉助。世の中そんなに甘くはないぞ―――
しかし、どんなに現実を疑ってみても、ただ一つ確かなのは、いい香りのする鶯色の扇子が、しっかりと僕の手の中にあるという事だった。
そしていつしか僕は、藤の
夕刻の渡り廊下を、豊田守、日野丞とともに歩いている。
池のほとりの
僕は気がすすまない心のうちを、正直に豊田守に打ち明けた。
「やっぱり、やめとくよ。こういうの、苦手なんだ」
「なにを言ってるんだ、佐倉助。またとないチャンスだよ。だれもこんなところ得意なやつなんかいないさ。しかし、ここを通過すれば新しい世界が広がるんだ。黙って
豊田守はあくまで僕を
渡り廊下を何度も折れ曲がり、太鼓橋を渡って突きあたりまで来ると、池に面した休憩所の横に、釣りの出来そうな欄干がある。宴会の催される
「もうぼちぼち、始まってるはずだ。
豊田守は自慢げに案内する。彼はこの家の「
「堂々としてればいいよ。みんな君たちに
暗い扉の向こうから笑いさざめく声が聞こえる。豊田守が大きくそれを開けると、すでに大勢の来賓が集まってめいめいに談笑していた。中にはすっかり酔って赤い顔をしている者もいる。くだけた雰囲気ではあるが、その服装や持ち物から、みな相当の身分の人たちであることが分かる。
「や、婿どの、よう来た……さ、こちらへ」
広い会場の上座の方から、豊田守に気づいて声をかけた人物がいる。どうやら宴会の主催者のようだ。
「……あれが右大臣だよ」
豊田守が僕に耳打ちする。五十格好の壮健そうな男の顔には、なまずのような髭がある。
「さあさ、君たちもよく来た。こちらへ来て座りたまえ。なあに、かしこまる場ではない。みんな身内の者ばかりだ。遠慮はいらぬ」
右大臣は、僕と日野丞の肩に気安く手をかけ、席に着かせる。目の前に用意された御膳には、
「すばらしかったよ。君たちの舞う青海波は。……ところで、
「さ、佐倉助と申します」
僕がおずおずと答えると、右大臣は僕の手に盃を握らせ、酒をなみなみと
「まあ一杯やりたまえ。いける口だろう。話はそれからだ」
僕はもちろん、正式に酒をふるまわれるのは初めてだったので、いける口かどうかは分からなかったが、なるようになれ、という思いから、
「さっそくお
右大臣は僕を座敷の中央へ連れて行った。そして一同を静かにさせたあと、力強い声で僕の名を呼んだ。
大きな歓声と拍手が起った。
やれやれ、こういうのがイヤなんだ―――
僕はうんざりした気分で愛想笑いをし、仕方なくお辞儀をしたが、豊田守の忠告どおり、なるべく堂々と見えるよう、背筋だけはピンとしていた。
席へ戻ると、僕は気になっていた御馳走を前に、ゴクリとつばを飲み込んだ。思えば、しばらく何も食べていない。
「さあさ遠慮なく食べなさい」
右大臣は僕の心を察してか、笑顔で促すように言った。
僕はさっそく、形のよい鯛の横腹に箸をつけた。こんがりと焼けた塩焼きの皮が破れ、白い身がやわらかくほぐれる。よい香りだ。それをこぼさないよう、そっと口に運ぶ。
天然の素材が引き立つよう、
「どうだ、うまいか。明石の鯛だ」
右大臣は上機嫌である。
僕はぜいたくにも明石の鯛を乱雑に食べちらかし、ひっくり返して裏面も食べ、目玉までしゃぶった。
あまりに見事な食べっぷりに、横で見ていた日野丞は、手をつけていない自分の鯛と、僕の汚い皿を交換してくれた。
「オレのも食えよ。魚はダメなんだ」
ケンゾーは意外にも好き嫌いが激しい。しかし偏食でも、彼のように立派になれるということだ。
「そうか、遠慮しないぞ」
僕はあっという間に、二つ目の皿も平らげた。
「……なかなかよい食べっぷりじゃ。
日野丞のとなりで、いままで黙って酒を飲んでいた小柄な老人が僕にたずねた。白い髭が
「はあ……、東国の産まれにございます」
僕は少し考えて、嘘にならないよう、口を拭きながら答えた。
「なるほど―――東国というと、
「武蔵でございます」
老人は右大臣を呼び、耳元に口を寄せて、何かひそひそ喋っている。
豊田守はその様子を見て、ニンマリと笑っている。
「……ならば佐倉助、
老人はどうやら、右大臣と同じく、あるいはそれ以上に、この時代で権力を持った人物であるらしい。僕にきっぱりとそう言い渡した。
僕は口に入れた茶碗蒸しを吹き出しそうになった。話はまた、とんでもない方向へ進みそうになっている。
右大臣は一旦奥へ下がり、何か包みを持って来たかと思うと、僕の前で大事そうにそれを開いた。中から、黒光りのする笛が一本出て来た。
「
「……ええ、まあ、人並には……」
「ならばこれを、就任の証しとして、そなたに進ぜよう」
僕は、楽器には大いに興味があるので、珍しいその笛を有難く受け取ったが、しかし、ちょっと待ってくれ。話を勝手に進めないでくれ。
僕に一国を任せる?武蔵守?政治家?いちばんやりたくない仕事だ。
だいいち、武芸に
豊田守にそう囁くと、
「……政治というのは全人格的なものだ。人の上に立つものはそれ相応の魅力がなければならない。魅力のない人間に人はついて行かない。小手先では駄目なんだ。だからわれわれは、日々、和歌を詠んだり、楽器を練習したり、武芸を磨いたりと、一見無駄なような努力を積んでいるのだ。逆にそれらに優れていれば、そのほかの能力もだいたい予想がつく。君はその潜在能力を買われたんだよ」
と、目を細める。
僕は、そろそろこの場を退散しなければ大変なことになる、と思った。このままグズグズしていれば、さらに奥からどんな長老が出て来るか分からない。三十六計、逃げるに
「ちょっと小用に……」
僕は豊田守に
立ち去る際、お
宴会の盛り上がりの中、僕は豊田守と日野丞に心で別れを告げ、座敷の扉をそっと閉めた。
外へ出ると、辺りはすでに真っ暗だった。時刻は何時ごろであろう。うっすらと霞のかかる夜空には、朦朧とした月が白く浮かんでいる。等間隔に並んだ渡り廊下の
僕は来た道のとおり、釣り殿へ渡って太鼓橋を越え、長くつづく廊下をひたひたと歩いた。庭の芝生は闇の底にしずみ、池の
寝静まった右大臣邸は物音ひとつしない。
おそらくは何十人もの女人たちが、この屋敷のどこかで、ひっそりと身を休めているのであろう。が、表向きはあくまで
僕はなおも足音を忍ばせて、しかし怪しい人物に見られないよう、ゆっくりと大股で歩いた。こちらが観察されている可能性もあるのだ。
しばらく行くと、同じような廊下を何度も折れ曲がった先に、とつぜん見覚えのある建物が目に飛び込んで来た。大きな屋根を持つ、格子の閉ざされたその建物は、いつか弓矢の競争のとき、図らずもめくれ上がった御簾の中に、美しい女人を垣間見たあの寝殿であった。
そう言えば、この狩衣の袖の中には、昼間、誰かからもらった鶯色の扇子がある。その贈り主があのときの女人だと、まだ決まったわけではない。しかし、僕はその扇子を取り出し、御簾のほうへかざしてみたとき、まざまざとその品物が、あの驚きにみちた女人の顔に
ゆっくりとその部屋へ近づいてみる―――廊下の
いや、待て、佐倉助。これはきっと悪いことではないか―――
僕は何をしようというわけではなかったが、しかし僕の理性は、うしろ暗い罪の意識と、
知らない時代とはいえ、ゆめゆめ道義に反することをしてはいけない。しかし……
そもそも豊田守に連れられて、こうして右大臣邸にやって来たのは、もともと何か心に
僕の心はいつしか「都合のいい」方へ傾き、やがてそれが「信念」に転じた。あとは「勇気」を呼び起こすだけだ。
そのとき、暗闇の中から、かすかな音楽らしきものが聞こえて来た。よく耳を澄ますと、それは
そのうるわしい微細な音は、どうやら僕の前の御簾の向こうから聞こえて来る。いったい誰が弾いているのであろう。
それは決して人に聞かせようというものではなく、どちらかと言えば独り言をつぶやくような―――心の中に移ろいゆく思いを、とりとめもなくなぞるような、そんなささやかな爪弾きであった。
僕はしばらく目を閉じて、その琴の調べに聴き入った。弾く人の心がしみじみと表れているその音は、僕の胸の中に、おぼろに霞む春の夜のぼんやりとした空を想起させた。
聞いているうちに、僕はふと、その霞の上に、はかなげな「月の光」を加えたくなった。しかもそのイメージを、なんとか音で表現したい。
僕は左の袖の中に、さきほど右大臣からもらった笛があるのを思い出した。さっそくそれを取り出し、両手の指を穴にあててみる。心地よい手触りのつややかな横笛だ。
たしか笛というのは、穴を多く
澄んだ月の光をイメージしながら、僕はそっと目を閉じ、うす紫の夜空に白い絵筆をふるうように、ゆっくりと唇から音を発した。
御簾の中の霞の描き手は、新しく加わってきた
そのうちに琴の音色と笛の音色は、お互いの呼吸をさぐるように、からみ合い、溶け合いながら、漆黒の闇の中に、幻想的な
心と心が通い合う
御簾の中では、すすり泣きの声が聞こえる。
琴の音はいつか止んでいた。
僕ははっとして、笛を吹くのをやめた。
そしてどぎまぎしながら、なす
僕は、自分が拒まれているのではない、と感じた。
と同時に、うっすらと透けて見える御簾の方へふたたび目を凝らした。
女人は一人のようである。重ね着した着物の広がりが影絵のように濃く見える。
僕は、今こそ何か話しかけるタイミングだと思ったが、即座にこの場にふさわしい言葉が浮かばなかった。音楽のように自在には、言葉は出てこない。ふと
僕はもう一方の袖の中にある扇子のことを思い出した。
この鶯色の扇子の贈り主が、はたして御簾の向こうにいるこの人だという証拠はまだない。しかし、それを取り出したときに
そしてあの、あれから何度もくり返し眺めた扇子の文字をまた反芻した。
―――おぼろ月夜の
こよひ待つらむ
僕の心に、ふと思い当たるものがあった。
これはひょっとして、なにかの和歌の「
それとも、もともと上の句などなく、女が僕になぞかけをしているのだろうか。
あなたにこの上の句が分かりますか……と。
僕は少ない知恵をしぼって、その上の句を想像してみた。おそらくはきっと、自分と彼女の置かれている立場を、すなおに詠めばいいはずである。
―――しのばるる……
ふと、こんな句が頭に浮かんだ。
忍ばるる
道なき恋の
かたみとて……
(人目を忍ぶ道ならぬ恋の思い出に……)
僕はその上の句を小さな声でつぶやいてみた。
すると、その声が聞こえたのか、御簾の中から、か細い声がした。
(朧月夜の今夜、あなたを待っているでしょう……)
「来て下すったのですね!」
こんどはハッキリとした声が中から聞こえた。
僕は、意図が通じた喜びに、思わず御簾をたくし上げ、荒々しく中へ押し入った。
驚いた女は、少しうしろへ
「やはり、あなただったのですね」
僕は扇子の贈り主に今ようやく辿り着いた。
女は身を固くして震えている。
僕は―――こんな一面が自分にあるのかと驚いたが、大胆にも、二人の間に横たわる琴を乗りこえ、女の脇に座って、その背中に手をまわした。長い髪がさらさらと着物の裾まで伸びている。
「どうか、お顔を……」
はじめて触れる女の髪の、手触りとよい香りにうっとりしつつも、僕はそのうしろ頭に手をあてて、こちらを振り向かせようとした。
僕の力が強すぎたのか、女はさらに身を固くし、背筋に力を入れた。
そこで僕は、なるべく力を抜くようにして、女の呼吸を感じるくらいに、やさしくゆっくりとその髪を愛撫した。
女は徐々に警戒心を解き、肩の力を
うす明かりの中で見る女の顔はぼんやりとして、その目鼻立ちまでははっきりと分からなかったが、しかし、その抜けるような肌の白さと、薄く
僕はいとしさでたまらなくなり、半ば強引に彼女の
そして唇のやわらかさを充分に堪能したあと、僕はさらに彼女の白い頬に唇を移動させ、耳もとにそれをつけた。
彼女の口から吐息がもれた。が、それ以上
僕はうまれて初めて、誰に教わったわけでもないのに、自分の手足が勝手に動くという経験をした。頭に血が
僕はそのとき、なぜ、何のために、この世に男と女が存在するのかということを、実感をもって深く理解した。
―――どれくらい僕らは結ばれていただろう。
事が果てたあと、僕は乱れた衣服を整えながら、ぼんやりと今日起きた出来事を思い返していた。下鴨神社の檜舞台で青海波を舞い、見知らぬ女から思いを告げられ、はからずも右大臣の目にとまって招きを受け、あやうく領主に取り立てられそうになり、ようやく逃げおおせたその先で、いま、心をかよわした彼女と寝床を共にしている。すべてが同じ日の出来事である。
長かった一日を思いつつ、僕はふと全身に疲れを感じた。そして、髪をとかす彼女のとなりに身を横たえ、軽く目を閉じているうちに、いつしかまどろみの中で寝息を立てていた。
しばらくして目が覚めると、彼女も白い
彼女は眠っているのではなかった。ただぼんやりと天井を見つめていた。
僕はとっさに何と声をかけてよいか分からず、思い切って名前を呼んでみた。
「三の姫」
「……はい」
彼女は小さく返事をした。
僕はあらためて、自分が犯してしまった罪の深さを思いやった。
彼女はすでに
しかし、不思議と恐ろしさはなかった。なぜなら、僕が
それより、このさき立場が危ういのは彼女の方である。彼女は右大臣の
もっとも、そのことを彼女が自覚しないはずはなく、おそらくはそれを承知した上で、彼女は僕に「恋のかけひき」を仕掛けて来たのであろう。しかし、いったいなぜ……
「三の姫」
「はい」
「あなたはどうして、僕なんかにお声を掛けたのですか?」
三の姫の唇が何か言いかけたが、一瞬のためらいののち、そのまま言葉を吞み込んだ。
「……あなたは将来、帝とともにこの国を治めるべき貴い人だ。それなのになぜ、その幸運を自分でぶち壊すようなことをなさるのですか」
三の姫はなおも戸惑いの表情で、目を宙に泳がせている。僕はふと、その顔を美しいと思った。
「……あなたの自由がうらやましかったのです」
ようやく姫は口を開いた。
意外な答えに、今度は僕の方が言葉につまった。
「……わたくしは、生まれてこのかた、自分で物事を決めたことが一度もございません。すべては父上のお
僕はこのところ、たまたま偶然が重なり、幸運だった自分の姿を思い出して、すこし
「それは僕が何も持たず、
僕はいつもの自分に似ず、なぜか言葉が
「本当にそうお思いでしょうか?わたくしがそれにふさわしい人物でないのに、いかに金銀財宝や
彼女は単衣のうすい袖で涙をぬぐった。僕は不意の涙にまた
「……いや、あなたは充分それにふさわしいお人ですよ。右大臣の家に生まれて、しかも、花も恥じらう美しさを我知らず備えていらっしゃる。それ以上、何をお望みになるのか。世の人々が耳にしたら、何ともったいないお姫様かと、さぞや恨みに思うことでしょう」
僕はわざと
「しょせん
と、こんどは彼女が僕をなじるように言う。
僕は、彼女の意外な
たしかに、自分のことを振り返ってみても、僕は彼女の言いたいことが、痛いほどよく分かるのだ。
僕は、つかみどころのない現代の
彼女は、すべての栄華を手中に出来るにも関わらず、自由だけが足りないと嘆いている。
立場は同じだ。
そこで僕は、まるで自分に言い聞かせるようにこう言った。
「私は、あなたのお苦しみが少しは分かるつもりです。いちばん大事なものが得られないままで、われわれは生きて行くことは出来ない。それが出来るのは、いい加減に、自分を誤魔化しながら生きている人々だけでしょう。思えばわれわれは同類かもしれない。しかし、そんな風に感じるのは、あくまで特別な一にぎりの人間なのです。一にぎりのわれわれは、大勢の波にのまれてはいけない。われわれにはわれわれの生き方があります。性急になってはいけません。大切なものは、ゆっくりと追いつづけるのです。なるべくそれに気付かないふりをしながら、だんだんに周りから攻めて行くのです。そしてチャンスを待つ。気長にのんびりと、口笛でも吹きながら……」
僕は実際に口をすぼめて、口笛を吹いた。彼女は思わず笑った。笑いながら、同時に涙も流している。
彼女が笑ってくれたことで、僕は少し気が楽になった。まだ問題が解決したわけではないが、なんとなく先に進む元気が出て来たのである。
彼女は涙でくしゃくしゃの顔を、隠しもせずに言った。
「なんだか心が楽になりました。やはり、あなたはわたくしが思ったとおりのお方でございました。大切なものは追えば逃げる。昔からの言い伝えでございますね―――しかし、わたくしが追いかけたにも関わらず、あなたは逃げずに、ここへ来て下さいました。それはどういうことなのかしら?」
彼女はいたずらっぽく上目遣いをした。「つつしみのない女はお嫌いですか?」
「嫌いなわけがないでしょう」
僕はすぐに否定した。そして「その証拠に……」とまた身を寄せながら、
「もう一度こうしてもいいですか?」
と、彼女の肩に手をまわした。
彼女は僕の手を払いのけ、わざとらしく後ろを向いた。
「いやでございます。大切なものは追えば逃げます。わたくしはまだ、あなたの大切なものではないから……」
部屋のうす暗い方へ、彼女は逃げる素振りをした。
僕はすかさず追いかけ、また手を伸ばす。彼女はなおも身をかわす。まるで鬼ごっこだ。僕はついに彼女を几帳のそばへ追い詰めた。
僕らは成り行き上、せっかく着た着物を、ふたたび脱ぐはめになった―――
また数刻が流れた。
今度こそ、二人は本当に寝入ってしまったらしかった。
気がつけば、うっすらと夜が明けはじめていた。
先に目を覚ました彼女は、鏡の前で唇に
僕もだまって彼女の瞳を見つめ返した。
二人はしばらく無言であった。無言だが、気づまりなことは何もなかった。そこはかとない幸福な時間がそこにあった。
そのうちに彼女は、何かを思いついたらしく、ゆっくりとした口調で、歌うようにこうつぶやいた。
君がなさけの
さかづきに……
(あなたが心をこめて
そして、そこで口をつぐんだ。和歌の上の句のようである。
僕はふたたびなぞをかけられているのを感じ、なんとかそれに答えようと、必死で下の句を考えた。
目を閉じて、盃に注がれた酒を思い浮かべる。
右大臣の
僕は、ある悲しみの予感に胸を打たれた。
そして、心に浮かんだ言葉を、そのまましずかに口ずさんだ。
いざよふ月の
影のはかなさ……
(その盃に浮かんだ月の揺れるさまは、なんとはかないことでしょう)
彼女も同じことを考えていたらしく、突然、はらりと涙をこぼした。
二人はどちらからともなく手を伸ばし、しっかりと抱き合った。
鳥のさえずりが聞こえた。
いけない―――
僕は自分の置かれた数奇な立場をいきなり思い出した。チュン太はどこだろう。チュン太がいないと、僕はこのまま、見知らぬ時代にとり残されてしまう。チュン太を探さなければ……。
僕はあわてて
うしろをふり返ると、朝日に照らされた正殿の御簾はつめたく閉ざされ、いつかまた湖のような静寂がそこにあった。
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