王朝編


王朝編


 竜の頭を船首にすえた華やかな船が、さざ波の立つ池の上を優雅にすべっている。池のほとりには満開の桜がひしめき合う。どこからか糸竹しちく管弦のひびきが霞のように漂って来る。人工の極致をつくした日本庭園。のどかな自然を模してはいるが、すみずみまで手入れの行きとどいた贅沢な空間―――その青々とした芝生の上で、若者たちが何やら遊びに興じている。

 赤や緑、黄色や紫、桃色にだいだい色といった色鮮やかな衣装を身にまとい、頭の上に細長い帽子をかぶった彼らの出立ちは、平安時代の絵巻物から抜け出して来たようである。池のほとりの美しい芝生の上にまるくなって、まりのようなものを空に蹴り上げている。

「そーれ」

「も一つ」

「おっと」

 なるべくボールを落とさないように、足を使って相手に渡す「蹴鞠けまり」である。

 水際の岩の陰から、この光景を見ていた僕とチュン太のもとへ、蹴り損じたボールが転がって来た。

「お……」

 僕は、自分の方へ転がって来るボールを黙って見てはいられない性分しょうぶんだ。

 状況も分からないまま、反射的にボールの方へ駆け出すと、走る速度が増すにつれ、僕はいつの間にか雀から人間の姿に変っていた。しかも、若者たちと同じ烏帽子えぼし狩衣かりぎぬの姿だ。

「チュン太。ちょっと行ってくるよ。一度やってみたかったんだ」

 僕はそう言い残すと、あと先考えずに、皮でできた鞠を手で拾い上げ、若者たちの方へ向かった。

「ぼんちゃーん……」

 キョトンとした顔のまま、チュン太は後ろで小さくなる。

 若者たちは、何のわだかまりもなく、新参の僕をこころよく迎えてくれた。

佐倉助さくらのすけ!おそかったな。何やってたんだ」

 見ると、彼らは全員、僕のよく知っている顔だ。

 リョースケをはじめ、高校のサッカー部のいつもの面々と、それにケンゾーの姿も見える。

「ちょっとお役目が長引いてね。かたじけない―――」

 佐倉助と呼ばれた僕は、自然とそんな台詞セリフが口をついて出た。

 僕は蹴鞠についてはほとんどルールを知らないので、しばらく彼らのやることを観察することにした。

 僕が投げ返したボールを、器用に足で受けたリョースケは、そのまま落とさずに足元で小さく弾ませ、コントロールして次の人へ渡す。

 次の人間も、受け取った鞠を足元でととのえ、また別の人間へ大きくパスする。

 受ける、整える、蹴って渡す。合計三回、ボールにタッチするわけだ。

 なるほど。

 要領は分かったが、しかし最後、大きく人に渡すとき、背後に植えられた笹竹ささだけの、背の高さを越えるくらい、高く蹴り上げるというのが独特な決まりのようだ。四メートルくらいの高さの細い竹が、みんなのうしろに四本差されている。

 最初の人間がやわらかくトスをする。順番に鞠を蹴って渡す。渡す相手は誰でもよい。そのうち僕にも回ってきた。僕はどうにか次へつないだ。

 出だしの何回かは、それぞれ定位置をほとんど動かずにパスを渡すことが出来たが、一度乱れはじめると、だんだん正確に蹴るのも難しくなり、受けるのはもっと難しくなる。そしていつか制御不能となったボールは、ついに地面に落下する。それを何度も繰り返すゲームだ。勝ち負けはない。いかに優雅に鞠を蹴るか、そしていかに相手の取りやすいボールをパスしてやるかが、蹴鞠という遊びの醍醐味のようだ。単純だがなかなか面白い。

 リョースケは主将キャプテンだけあって、さすがに名手である。多少乱れたボールでも、うまく立て直し、きれいなボールを次へ渡す。こういった場合、回数は伸びる。

 また、ケンゾーは他のみんなと少し動きが違う。野性味にあふれ、決して優雅とは言いがたいが、アクロバチックにボールを受け止め、たとえうしろ向きでも何とかこちらへ蹴り返してくる。見ているだけで面白い選手プレーヤーだ。

 僕はと言うと、このメンバーの中では今のところ穴になっている。しかし、このままではくやしいので、ボールになるべく触れるよう、こちらへよこせと積極的にアピールし、何度も挑戦トライする。そのうちコツをつかんで、だんだん上達してきた。いちど、誰かが蹴り損じたボールを、僕が追いかけて行って、うまく輪の中に返したときには、大きな喝采を浴びた。

 体を動かすのは楽しい。失敗しても成功しても、みんなから白い歯がこぼれる。あざやかな服装の、みめうるわしい若者たちが、奇声を上げながら、一心に芝生の上を駈けまわる。うぐいすの啼くうららかな春の日に、今も昔も変わらない太陽のもとで、すがすがしい汗を流すひととき―――僕はいま、青春の真っ只中ただなかにいる―――

 夢見心地で息をつく僕の方へ、不意にまたボールが飛んで来た。軌道が高かったので、とっさに僕は烏帽子をぬいで、ヘディングでそれに応じた。ボールはどうにかフワリと輪に戻ったが、リョースケがそれをパッと手で受け止めた。

佐倉助さくらのすけ……はダメだよ」

 みんなは腹を抱えて笑っている。

 ヘディングはルールにないらしい。

「しかし、面白いからそれもにしようか」

 それからみんなは、ヘディングもルールに加え、一風変わった蹴鞠をしばし楽しんだ。

「……ちょっと休もうか。宮仕みやづかえばかりで、体力が落ちたようだ」

 リョースケがそう提案した。彼は心なしか、右肩を痛そうにしている。

 みんなはぞろぞろと、日影をしている松の木の下へ、こぞって腰を下ろした。

「やっぱり、日野丞ひののじょうにはかなわないな。遊技や武芸ではヤツの右に出る者はいない」誰かが言う。

 日野丞と呼ばれたケンゾーは、だまって汗をふいている。黄緑色の狩衣姿が、ひときわ目に眩しい。

「佐倉助もなかなかやるじゃないか。久しぶりなんだろ」

 リョースケが僕に話を向ける。

「うん。やってるうちに思い出したよ―――しかし、いったいここはどこなの?知らずに連れて来られたけど」

 僕はあたりを見まわしながら、二重の意味で、それとなく探りを入れた。

 渡り廊下でつながれた立派な建物。広く美しい庭。屋形船を浮かべた大きな池など、とても個人の住居とは思えない。

「右大臣のやしきだよ。俺の家内の父君ちちぎみの家だ」

「家内?って、まさか、リョースケ―――結婚したのか?」

 僕は目を丸くした。高校生なのに結婚……。いやはや、リョースケは相変わらず行動が早い。しかし他のみんなは別段驚いた様子はない。この時代としては普通なのだろうか。

「ま、政略結婚だよ。貴族の家に生まれた宿命だ。このたび領地を与えられて、豊田守とよだのかみに任命されたよ」

 リョースケは烏帽子をぬいで、照れたように笑う。

「王朝時代の貴族って、やっぱり、ヒマをもて余して遊んでばかりいるのかい?―――うらやましいな」

 僕は常日頃、思っていたことを口にした。

「―――とんでもない。遊びじゃないよ。詩歌のたしなみだって、管弦の遊びだって、また、こういった遊技だって、心身を磨くための大事な訓練なんだ。言ってみれば、仕事の一部だよ」

 リョースケ、いや豊田守は大きくため息をつく。

「自由なんかまるでないよ。ガンジがらめだ。結婚の話も、俺の知らないところで、勝手に決められてた」

「それで平気なのかい?君は自由が好きなのかと思ってたよ」

「平気じゃないさ。だけど、与えられたしばりの中で、やってくしかしょうがないだろう?この京の都に生まれ、朱雀帝の御世みよに生まれ、貴族の家に生まれたのだって、すでに運命だ。色恋いろこいにしても、すべての女性から相手を選べるわけじゃないし、出会う人がまさに運命なんだ。そんな中で物事を自分で決めるか、周りが決めるかは、あまり大した違いじゃない。よっぽどイヤじゃなきゃ、まず、よしとするさ」

 豊田守はあくまで前向きで明るい。

「ふうん……」

 僕はあまり納得がいかなかったが、それでも、彼のように柔軟に考えることが出来れば、どんな場所でも楽しく生きて行けるのだろうな、と思ってもみた。しかし、いざ自分がそういう立場に立たされたとき、そう簡単に割り切れるかどうかは自信がない。

「そういうもんかな……ところで、この家に人はいないのかい?さっきから僕ら以外、誰の姿も見えないようだが……」

「右大臣はいつも多忙で、ふだん家にはいないよ。その代わり、女房たちはちゃんと奥にいる。姿を見せないだけだ。ほら、あの格子こうしの方をごらん。着物のすそがちょっと見えてるだろう」

 豊田守は大きな屋敷の方をあごで示している。

 われわれのいる庭園を取り囲むように、渡り廊下で結ばれた建物がコの字型に連なっていて、その雨戸はすべて閉ざされているように見える。しかしその中央の、いちばん大きい正殿の方をよく見ると、すだれの掛かった格子の一部から、華やかな着物のすそが時折見えかくれしている。こちらから中の様子は見えないが、おそらく向こうからは、明るい庭の風景が丸見えなのであろう。

「ここだけの話……」

と、豊田守は声をひそめた。

姉娘あねむすめである俺の嫁より、ハッキリ言って『三の姫』の方がはるかに器量よしだ。あんな別品べっぴんは当節ちょっと珍しいな。今もきっと、あの寝殿の御簾みすのうしろからこっちを見てるはずだよ」

 僕はさりげなく御簾の方に目を凝らした。言われてみれば、何か人影が見えるような気もする。が、その表情はおろか、顔の輪郭さえもよく分からない。たしかこの時代の女人は、あまり人前に姿を見せなかったと聞いたことがある。

「しかし佐倉助、そう言っておいて何だが、残念ながらその三の姫は、すでに入内じゅだいが決まっている。もうみかどのものだ。間違っても、れちゃいけないよ」

 豊田守はいたずらっぽく笑った。

 僕は一度も見たことのない娘について、そういう風に言われても、とくに何の感慨もなかった。が、適当に、そうか分かった、と相槌を打っておいた。

「さあ、こんどは弓矢でもやろうじゃないか」

 豊田守がまた提案する。

 みんなも異論はなく、袴についた芝生をはたいてすぐに立ち上がる。

 弓道場は渡り廊下をくぐった先にあって、そこには四角い板のついたまとが三つ、白壁に沿って立っていた。

 豊田守は倉庫から弓矢を束ねて出してくる。

「……まとは三か所ある。どれを狙ってもよい。俺も入れて七人だから、二組に別れて試合をしよう。ただし、俺は右手を怪我してるから、今回は不参加だ。こないだ落馬してね」

 豊田守は右肩をさすりながら腕をグルグル回している。

「君たちだけでやってくれ。優勝者にはとっておきの褒美もあるぞ」 

 リョースケはなにか含んだような笑みを浮かべた。

「褒美、ってなんだ?」誰かがたずねる。

「それは、やってみてのお楽しみだ―――佐倉助、君もやるだろう?」

 僕は二つ返事で承諾した。弓矢というのも、やってみたかったことの一つである。こんな古風な時代に、こんな狩衣姿で、こんな素敵な庭で、本式の弓矢をやることなど、一生のうちに何回あるだろう。ただし、弓矢など、これまで一度も、持ったことも触ったこともないのであるが……

日野丞ひののじょう。教えてやってくれ」

 練習のために渡された弓矢を、どうしていいか分からず、マゴついている僕を察して、豊田守は横で見ていたケンゾーに言った。

「いいよ。オレはこっちが本職だ」

 ケンゾー、いや日野丞は、蹴鞠よりこちらの方が得手えてらしく、手短かに僕にやり方を教えた。

 まずは「かまえ」だが、的に向かって体を横向きにし、足を肩幅より少し広めに開く。

 つぎに左手に弓を持って腕をピンとのばし、右手に持った矢を弦にあてがう。

 そして大きく胸を張って、弦を力強く引くのだが、その時、右ひじは思ったより高い位置にくる。この姿勢を保つのが、やってみるとなかなかつらい。

 最後に、右手が頬にふれるくらい、視線に近い位置で矢をかまえ、タイミングよく指をはなす。それ。

 ピューッ。 

 矢は勢いを得て、一直線に的のほうへ飛んで行った。その反動で、弦のふるえがジンジン指に伝わった。

 爽快この上ない。

 惜しくも的には当たらなかったが、いままで手元にあったものが、一瞬ののちに数十メート先で生き物のように躍動するのを見るのは、たとえようもない快感である。

 そんな僕の上気した顔を見て、日野丞はかすかに微笑ほほえんでいる。

「今度はオレがやってみようか」

 日野丞は無造作に弓をかまえ、ゆっくりと弦を引く。そして一瞬止まって、ふいに矢を放つ。どこにも無駄な力が入っていない。しなやかで美しい動きだ。

 放たれた矢は、見事、的をとらえてドンと突き刺さる。

 みんなからどよめきと拍手がおこる。

 そして各人は、めいめいの弓矢を手に取り、弦の張り具合などを確かめている。それぞれ腕に覚えのある顔だ。

 それから一通り全員の練習が済むと、いよいよ試合開始となった。

 参加者は六人なので、三人ずつ、二組に別れて試合をする。ひとり三本ずつのチャレンジで合計点を競うらしい。サイコロで順番を決めた。

 まずはいきなり日野丞、それからサッカー部でセンターバックをつとめる男、そして僕の三人だ。

 日野丞がいちばん右の的を狙う。

 美しいフォームでかまえ、先ほどと同じく、しばらく静止する。まばたき一つしない見開かれた鋭い目は、獲物を狙う鷹のようだ。

 時間が止まったかと思った瞬間、矢は放たれた。

 シュルルーッ。 

 ドン!

 日野丞の美しい動きに見とれていたわれわれが、その音を聞いて的の方に視線を移したときには、矢はすでに的に描かれた四重しじゅうマルの、中央から少し右下の部分に突き刺さっていた。

 ため息とともに再び拍手がおこった。点数は二点だ。

 日野丞は表情をくずさず、ゆっくりと木陰の方へ退しりぞいて、どっかと腰を下ろした。

 次はセンターバックの番である。

 狙いは中央の的だ。足場をならし、大きく息を吸って、弓矢をかまえる。黄色い狩衣をつけた巨漢の彼は、負けん気そうな太い眉をキリリと引き締め、じっと的をにらんでいる。気負ったその顔は少し緊張ぎみだ。

 力を込めて放たれた矢は、惜しくも的にとどかず、地面に落ちてカラカラと転がった。

 苦笑いをしながら、センターバックはわれわれの輪の方へ戻ってくる。失敗してもあまり気にしないのが彼のいいところだ。点数はもちろん与えられない。

 そして次は、いよいよ僕の番だ。

 遊びとはいえ、勝負となると、やはり胸がドキドキする。みんなの視線を全身に浴びる感覚も、なんだか久しぶりだ。僕は緊張しているのを悟られないよう、つとめて堂々と、地面を踏みしめるように歩いた。いちばん左の的が目標だ。そしてはかまのすそをパンパンと払い、かるく二、三回ジャンプする。これは以前、サッカーの試合の前に、僕がよくやっていた仕草だ。こうすると何だか、うわついた心がストンと体の中へ入るような気がするのだ。

 教わった通りに足を開き、立ち位置を決める。弓を左手に持ち、少しそでをめくる。人差し指を前方へ向け、これからお前を狙うのだという攻撃的な視線を、遠くの的に投げかける。ちょっとカッコつけすぎたせいか、周りから冷やかしの声が上がる。しかし気にせず、心を集中させ、右手に持った矢を弦にあてがう。それをゆっくりと引き、目の高さに構える。少々腕がキツイが、ここがふんばり時だ。息を止め、静寂に耳を澄ます。そして、自分の納得のいくタイミングが見えたとき、すかさず指をはなした。

 シュルーッ。

 ドン!

 矢は的をとらえた。四角い板に突き刺さり、まだ余韻で震えている。

 拍手と歓声が起こった。

 僕はホッとして足場を下り、ふと日野丞のほうを見ると、彼は木陰からこっちを見ながら、物静かな中にもまるで自分のことのように嬉しそうな顔をしている。

 矢はいちばん外側の円に命中していたので、点数は一点だった。しかし僕としては充分満足のいく一点であった。

 それから二巡目がはじまる。

 ケンゾーは、先ほど少し右にれたのを意識してか、こんどは心持ち左を狙ってきた。しかし、矢は惜しくも的の中央からやや左に流され、またもや点数は二点だった。

 センターバックも、最初の試みに修正を加えたらしく、少し上を狙って、強めに放たれた矢は、こんどは的をとらえた。一番はじの白い部分なので、一点だ。しかし彼は会心の笑みを浮かべて拳を突き上げている。

 また僕の番になった。

 僕は、練習のとき、それから一本目と、徐々に調子が上がって来ている。ひょっとすると今度は、高得点を狙える番かもしれない。ようやく緊張もほぐれてきた。もちろん油断は禁物だ。平常心を心掛け、ゆっくりと的に向かう。足場を整え、気持ちを鎮める。先ほどのような冷やかしの声が上がらないのは、みんなも何かを期待しているのだろうか。むしろ怖いような沈黙である。僕は胸を張って弓をかまえる。

 そのとき、なぜかふと魔が差したように、心の中にあらぬ邪念がよぎり、急にみんなの視線が気になった。寝殿の方からも、誰かが見ているような気がする。

 どんなむすめだろう。三の姫というのは……

 近ごろめずらしい別品だと聞いたが……。

 いけない、いけない。集中、集中――― 

 心乱された僕は、一度弦をもとに戻し、あらためて深呼吸をした。みんなも一旦緊張をゆるめ、咳払いなどしている。

 少し意識しすぎたようだ。気楽にいこう。まだ二本目だ。あともう一本ある。

 気を取り直して、ふたたび弦を引く。思ったより軽い力で、弓を反らせることが出来た。

 今だ―――僕は集中力が途切れないうちにと、少し早いタイミングで指をはなした。一本目のときより勢いのある矢が、的に向かって飛んで行く。

 ところが、それはまるで迷走するいのししのように、途中から制御不能となって軌道をそれ、カランと白壁に当たって落ちた。

 しまった……完全に失敗だ。0点……

 勝利の神様のご機嫌をうかがうことは、とかく容易ではないようだ。

 日野丞はだまって弓をみがいている。僕は気持ちを立て直すため、彼からすこし離れた松の木の下に腰を下ろし、脚をのばして屈伸ストレッチをした。大丈夫、こんどはやれる。そして、何げなくまた横目で寝殿の方を見た。 

 あい変わらず、そのうす暗い御簾みすは閉ざされたままだ。しかしあの中に……。

 ん?いったい僕は何を期待しているのだろう。大事な試合中だというのに―――

 日野丞の三本目となった。いよいよ最後の一本である。

 すっくと立ち上がった彼は、落ち着き払ってゆっくりと的の方へ向かったが、その背中には並々ならぬ決意が感じられた。遊び事といえども、勝負には勝たなければならない。そんな声が聞こえるようだ。

 はかまのすそをちょっと持ち上げる仕草は、おそらく彼のクセなのであろう。たしか一本目も、二本目もそうやっていた気がする。そして、一度大きく弓で半円を描き、狩衣の肩を軽くつまんで、あごを引く。直接競技には関係のない動きだが、これをやらないと調子が出ないのかもしれない。大リーグの名選手のようだ。すべての動作が流れるように美しく、迷いがない。

 弦を引き、的をにらんで、息を止める。われわれも息を飲む。管弦の響きもいつしか止んでいる。キラキラした「黄金の静寂」とも言うべき一刹那せつなである。

 ―――ズドン。

 それは、あっと言う間だった。

 矢が刺さったのは、四重マルのいちばん外側の部分―――かろうじて一点だ。

 観衆からどよめきがもれる。日野丞はだまって下りて来る。

 このレベルになると、勝負はもう運命とのかけひきなのかもしれない。勝利の神様は、その常連である日野丞にそうそう甘くはないらしい。

 つづくセンターバックも、はなはだ凡庸な一本をくり返しただけで、みんなの失笑を買った。

 そしてまたもや、僕の番が来た。この最後の一本の出来次第で、この組の勝者が決まる。

 今のところ点数は、日野丞ひののじょう五点。センターバック一点。佐倉助さくらのすけ、つまり僕、一点だ。

 ほぼ勝負は見えているようなものだが、しかし、この結果によっては、僕の逆転勝利の可能性がないわけではない。

 すなわち、もし的のを射抜けば、一挙に五点加算されるので、最初の一点と合わせて六点、つまり僕の勝ちなのだ。 

 ほとんどあり得ない話だが、まあ、状況としては面白い―――

 足場から的までの距離を目で測ってみた。おおよそ三十メートルはありそうだ。

 こんな長い距離を、初心者の僕が、みんなの注目する中で、一発逆転を狙うという滑稽なシチュエーション……。僕は苦笑がこみ上げてきた。

 こんな苦境を制することが出来たら、それこそシンデレラボーイである。

 かつてサッカーに情熱を燃やしていたころ、実を言えば僕は、ケンゾーに負けないくらい勝負に対して貪欲で、体を動かすことそれ自体に、無上の喜びと生きがいを感じていた。いちばん調子のいいときは、ゴールまでの間に何人ディフェンダーがいようと、このコースに撃てば必ず入るという、一本の線のようなものが見えていたこともある。

 しかし、そんな魔法のような能力が僕に備わっていたのは、ほんの束の間だった。すぐに僕は、自らの限界を知ることになった。体がイメージについていかないもどかしさ。いくらシュートを放っても、わずかにゴールを外れる歯痒さ。しかも決定的だったのは、その理想をやすやすと具現している選手が近くにいたことだ。すなわち、ケンゾーである。僕に引導を渡したのは他ならぬケンゾーなのだ。バスケにおける彼のプレーを見たとき、僕は自分自身のサッカー人生に終止符ピリオドを打つことを決意した。僕の進退表明をいぶかしみ、惜しんでくれる仲間もあったが、僕にはそこが自分の分水嶺ぶんすいれいであることがはっきりと分かっていた。

 その僕が、である。

 この絶体絶命のピンチに立たされて、なぜか「恐れ」や「尻ごみ」ではなく、理由のない「勝利の予感」に胸が震えたのである。

 僕は、勝利の神様が気まぐれなのを知っている。いくらこっちのコンディションが万全であろうと、また勝ちたい気持ちが強かろうと、負けるときはきっと負ける。言ってみれば、神様は気まぐれで、わがままで、いたずら好きな「幼児」のようなものだ。かえってこちらがそっぽを向いているときに、ちらちらとこちらを見ていたりする。そして何より、好きだ。

 日野丞ひののじょうの矢が中心をれたとき、おそらく何かの流れが変わった。

 神様は今回、ケンゾーに微笑むのはおあずけにして、その代わり、誰に花束を渡そうかと、いまだ心を決めかねているようだ。

 僕はこの競技ではあくまで初心者―――失うものは何もない。しかし追えば逃げる。ならば、うしろからそっと近づいてみよう。

 ゆっくりと歩みを進め、何食わぬ顔で僕は的に向かった。あわてず、あせらず、肩の力を抜いて、いかにも堂々と見えるように心がける。そこまでは今までと変わらない。

 しかし、足場に辿りつくと、思いついたように僕は、うしろをふり返ってみんなの方を向いた。そして仁王立ちになり、不敵な笑みを浮かべながら、一人ひとりの顔をながめ回した。

 豊田守とよだのかみをはじめ、センターバック、サイドバック、ゴールキーパー、ミッドフィールダーなどサッカー部の面々と、少し離れて日野丞が、色とりどりの烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿でこちらを見ている。

 僕は袴のすそを払い、軽くジャンプして、それから歌舞伎役者のように的を睨んで大見得を切った。うしろから案の定冷やかしの声が湧き上がる。僕はもう一度ふり返り、ガッツポーズでそれに答える。みんなは大笑いしている。勝利の神様は、ときに傲慢ごうまんな人間を愛するのだ。

 そしてふたたび、的の方へ精神を集中する。大きく深呼吸―――余裕を見せながらも、一点曇りのない鏡のような静かな心を持つ。これが大事だ。

 弓を左手に持ち、腕をのばし、人差し指で照準を定める。春の日差しが僕の顔を照らす。まつ毛の影が頬に落ちるのを感じる。

 ゆるやかな風が吹いてきた。これから僕の放とうとする矢は、軽やかに春風とたわむれながら、何人もの天使たちによって的の方へ運ばれて行くだろう……

 そんなイメージを抱きながら弓を引く。僕の中にうず巻く青春のエネルギー―――誠実さも、性急さも、また勇敢さ、明朗さ、怠惰さや、強情さも、あるいは不完全なる完全さも―――そのすべてをこの一本の矢に注ぎ込むように……

 僕は弓を最大限に引いたまま、ふと何げなく寝殿の方を見やった。

 そのとき「チュン!」という切迫した鳥の鳴き声が聞こえた。寝殿の廊下の方が何やら騒がしいようである。

 人間の姿に慣れ切ってすっかり忘れていたが、その声は明らかにチュン太のものだ。チュン太を置き去りにして、僕は遊びに打ち興じていたのであった。

 目を凝らすと一匹の三毛猫が、雀を捕まえようとして寝殿の廊下で暴れまわっている。猫の首にはひもが付けられていて、御簾の中へとつながっている。飼い主はあの女人であろうか。

 必死に羽ばたいて追手をかわすチュン太―――格子から欄干らんかん、欄干から擬宝珠ぎぼし、擬宝珠から橋桁へと慌ただしく飛び回っている。無事に逃げおおせるだろうか。がんばれチュン太!僕は助けることも出来ず、弓を引きながら心のなかで祈った。

 そして猫の鋭い爪がまさしくチュン太の羽をとらえようとしたその瞬間、チュン太はひらりと身をかわし屋根の上へ飛び上がった。

 つられてジャンプした猫は、間一髪、雀の尻っぽを捕まえそこなったが、その拍子に、猫の首に結ばれた紐が一直線に伸び、閉ざされた御簾を大きく引き上げてしまった。

 色鮮やかな着物を幾重にも重ね着した女人の姿がとつぜん現れた。女人は驚いて目をみひらいている。

 そして不意に僕と目が合うと、女人はしばらく茫然とこちらを見ていたが、すぐにハッとした顔になり、持っていたうぐいす色の扇子で顔を覆った。その一部始終を見ていた僕は、一瞬でその若い女が誰なのかを悟った。毎朝、電車の中で顔を合わせる、あの八王子S校の彼女だ。

 僕は思わず、的も見ないで、弦から指をはなした。

 弓を出発した矢は、まるでスローモーションのように、尾羽おばねをはためかせながら、放物線を描いて上昇し、寝殿の屋根の高さまで達すると、そのまま明後日あさっての方角へ向かった。松の木の上空を過ぎ、ぼんやりと口を開けて見ている若者たちの頭上を過ぎ、的を目指すという目的を忘れた旅人のように、大きく軌道を外れて飛んで行く。

 するとそこへ、折から一陣の春風が吹いて来て、大挙して矢を白壁の方へ押し戻した。あれよあれよと言う間に、突風に流された矢は、四角い板の方へ向きを変える。そして描かれた四重マルの、どれに刺さろうかと迷った挙句、一番まん中の黒いマルを選び、やがてズブリと突き刺さった。

 一同はシーンとしている。

 何が起きたか分からないうちに、僕の「逆転勝利」が決まった―――

 大歓声に迎えられた僕は、肩を叩かれたり、背中を押されたり、烏帽子を取られたりしてもみくちゃにされる。日野丞も隅の方で苦笑を浮かべている。

 豊田守が近づいて来て、僕に握手を求める。差し出された手を握り返したとき、その力強さに、僕ははじめて勝利を実感した。

 ある意味それは、「予定通りの結末」ではあったのだが……。

 そんな中、ふとまた寝殿の方を見ると、先ほどの出来事は何もなかったように、すでにひっそりと御簾は閉ざされている。

 ひと組めの試合は、そういうわけで僕が勝者となった。そして二た組めは、サイドバック、ゴールキーパー、MFミッドフィールダーの三人で争われたが、これといった見せ場もなく、結局僕の六点が最高点で優勝と決まった。

 これがいわゆる初心者の幸運ビギナーズラックというものであろうか。

 勝利の神様の性格を知り、まんまとその裏をかいて、背後から王冠をうばった僕の、完全なる読み勝ちであった。

 ともあれ、その優勝の報酬が何なのか、われわれはまだ知らされていない。思えば誰もそれを知らないまま、真剣に勝負を戦っていたのだ。男子というのは何とも無邪気なものだ。 

「ところで、優勝した僕は何がもらえるんだい。火鼠ひねずみ皮衣かわごろもかい?」

 僕はこの時代に合わせた冗談を言ったつもりであったが、その冗談は通じず、かわりに豊田守は、思いのほか真剣な顔つきで言った。

「いや、じつはね、来月行われる『葵祭あおいまつり』の出し物で、青海波せいがいはまいを俺と日野丞でる予定だったんだが、このとおり俺の右手が使えないので、急きょ代わりに出てくれる人物を探してたんだ。もう練習する時間もあまりないから、よっぽど呑み込みが早く、しかも人間でなければならない。そこでだが、―――どうだろう、佐倉助。君なら正しくそれにふさわしい気がするんだが、ひとつ俺の代わりに出てはくれないだろうか……」

 僕は豊田守の意外な申し出に、はじめ何を言われているのか分からなかった。

 舞?踊り?スポーツなら多少覚えはあったが、ダンスとなると僕は完全に門外漢だ。第一、なぜそんなものが優勝の報酬になるのだ。どちらかと言うとバツゲームではないか。

 僕はその通りのことを豊田守に伝え、不服そうな顔をした。

「何を言ってるんだい、佐倉助。葵祭の舞と言えば、花形中の花形だ。みんなの憧れの的だ。出たくても出られるもんじゃない。それに、高貴な人もたくさん見に来るから、注目されるチャンスなんだぞ。ぜひとも出給え。いや、首に縄をつけてでもやらせるぞ」

 豊田守は僕の首にヘッドロックをかけた。 

 リョースケのこういう所が、みんなに愛される理由なのであろう。さりげなく人の背中を押すのがうまい。みんなを明るい方へ、明るい方へと引っ張っていく。

「見物人はお偉いさんたちだけじゃないぞ。春になって、これから咲くのを待ちわびているナデシコのような女の子たちもたくさん見に来る。どんな素敵な出会いがあるか分からないぞ。どうだ」

 僕は、気がすすまないながらも、豊田守の勢いに押されて、やってみようか、という気になった。どうせ乗りかかった船だ。もともと失うものは何もない。

「……分かった。やるよ」

 僕の返事に、豊田守はまるで夏の太陽のような笑みを浮かべた。

 うしろで見ていた日野丞も、さしずめ月の光のように微笑んでいる。たしか、彼も一緒に出演すると聞いた。そ知らぬ風をしているが、彼はすべてを知っていたわけだ。ということは、まさか試合にわざと負けた?

 もしそうだとすると、ケンゾーは誰にも気づかれないように、少しだけ的の中心を外して譲歩したことになる。

 おそるべし、日野丞の弓の腕前だ。

 そして葵祭に向けての特訓が始まった。

 青海波せいがいはの舞というのは、二人の演者がみやびやかな衣装を身につけ、双子のように息を合わせて華麗に踊る、伝統的な舞踊の演目らしい。その演者に選ばれるのは、将来を期待される有望な若者と相場が決まっている。つまり、それが豊田守と日野丞だったのだ。

 その豊田守が、自分の代わりに僕を選んでくれたからには、僕は当然、それなりに期待に答えなければならない。彼ならば当代きっての人気者なので、文句なく会場を沸かせることが出来るであろうが、その代役として出て来た無名の新人は、果たしてどんな演技をするのか、観客はよけいに注目するはずだ。がぜん、気持ちが引き締まる。

 日野丞の教え方は要領を得ている。自分が出来るからといって、むやみに途中を省略したりせず、初心者の気持ちになって丁寧に指導する。むずかしい箇所はゆっくりと、くり返しやらせる。ときには自ら手本となり、ひぃ、ふぅ、みぃ、と鮮やかに舞ってみせる。僕は教わっている立場も忘れて、その見事な演技に感心する。

 われわれは、全ての動きが、目をつぶってでもとどこおりなく出来るようになるまで、昼夜、稽古に汗を流した。

 そうこうするうち、早や時が過ぎ、五月十五日となった。いよいよ葵祭の当日である。

 京都下鴨神社ただすの森は、大勢の人出でにぎわっている。この日を待ちわびた貴族や庶民たちが、思い思いに着飾って、本日の目玉となる踊りの会場に集まって来る。仲間と連れ立って歩く者、知り合いとの再会を喜ぶ者、小さい子を肩車した親子、酒に酔った老人、しのび逢いの男女、老婆の手を引く孝行娘、よそ行きの服装に緊張ぎみの男衆おとこしゅう、あたりかまわず嬌声を上げる女衆おんなしゅうなど、見物人は様々である。

 そんな中で、身分の高い貴族たちは、気楽な町人たちのように大はしゃぎしたりせず、少し遠くから静かに見物する。とくに人前に顔をさらすのがはばかられるとうとい女人は、ずらりと並んだ牛車ぎっしゃの中に隠れて、御簾ごしに観賞するらしい。

 森の中央には、真新しいひのきの香る大きな舞台がしつらえられ、その足もとに、演技を盛り上げるための楽隊が控えている。たった今、大勢の子供たちがきつねの真似をして踊る稚児ちごの舞いが終わったばかりで、舞台はひっそりとしている。本日最後の演目である青海波の舞を早く見たいという民衆の熱気が、ざわめきの中に伝わってくる。

 客席から見えないように、周りを幕でおおわれた控え所のすき間から、僕はちらりとその様子を覗いてみた。思ったより沢山たくさんの観客が来ていて、その視線に気圧けおされそうになる。

 幕の内側では、世話役にまわった豊田守が、僕の着ている本番用の衣装―――ひときわきらびやかで派手な舞台衣装を、手でさわって点検しながら、しきりに感心している。

「なかなかよく似合ってるな、佐倉助。本当は俺が着るはずだったのに……くやしいな」

 いつものだいだい色の狩衣かりぎぬ姿の豊田守は、そう言いながら、誰よりも嬉しそうである。

「あとは練習どおり、楽しんでやることだ。ふだんの六割くらいの力でやるといいよ。本番はつい力が入るからね」

 僕はニッコリ笑おうとしたが、やはり本番前の緊張はかくせず、こわばった表情になってしまった。

 その向こうに座っている日野丞はさすがに堂々としたもので、絢爛けんらん豪華な衣装に気おくれすることなく、淡々と木靴の紐を結んでいる。しかし、何度も結び直しているところを見ると、やはり彼なりに気負うところがあるのかもしれない。

 しめやかな雅楽の演奏が始まった。いよいよ出番だ。

 日野丞につづいて、僕、こと佐倉助が、檜の階段を一歩一歩踏みしめて昇る。

 急に視界が開け、大勢の観客の顔が目に飛び込んで来た。―――よし―――僕は覚悟を決めた。キッと唇をへの字に結び、振り付けにはないジャンプを軽くんで、檜舞台を足の裏に感じた。

 演技はもう始まっている。

 右手をしなやかに上げて、まずはそれを中心に一回転し、トンと足を鳴らしながら首を振る。何度も練習したので、無意識に体が動く。上々のすべり出しだ。

 少し歩幅をせばめ、にじるように舞台を移動する。

 日野丞のうしろ姿がとても頼もしく見える。歩くたびに揺れ動く飾りのついた帽子、白地に青い波模様を描いたはかまに、銀色の刺繡をほどこした袖の長い上着を羽織って、鮮やかに舞っている。

 そして舞台の端まで行くと、ひらりと向き直り、低い姿勢を保ったまま、今度はこちらへ歩みを進める。 

 僕も全く同じタイミングでひらりと反転する。息もピッタリだ。もっとも、ここはさほど難しい箇所ではない。しかしここをきっちりとめることで、観客は舞台に引き込まれるのだ、と日野丞は言った。彼はわざと目を合わせないが、こちらを信用して舞ってくれているのが分かる。僕はそのことに―――あのケンゾーが僕を信頼してくれていることに、何だかジーンとしてしまった。

 舞台の中央に戻ると、こんどは意表をつくタイミングで、二人は右に移動し、また左に移動しながら、完璧にシンクロした複雑な動きを披露する。難易度の高い見せ場の一つだ。潮の流れにたゆたう海藻のイメージである。ここで会場は、いつしか広い海原に見え始める。

 右手を水平に伸ばしながらそろりと一回転すると、舞台をとり囲む森も一回転する。段上を見つめる観客の顔も一回転する。雅楽を奏でる音楽隊も一回転する。まだら模様の木漏れ日が、客席や舞台の上、日野丞や僕の顔の上に落ちて、水中にただよう泡のようだ。

 僕はいまこの瞬間、自分の体が完全に自分のものとなり、同時にその動きが完全に沿、という奇妙な感覚にとらわれた。 

 日野丞と僕の演技は、基本的には同期シンクロ左右対称シンメトリーで、双子のように息の合ったところが見所なのであるが、一か所だけこの演目の山場として、二人が別々の動きをする部分がある。左右に分かれて波を受け渡すシーンである。日野丞が波を投げ、僕が受ける。また僕が波を投げ返し、日野丞がそれを受ける。この動きをダイナミックに、真に迫ってやることで、観客は段上に荒れ狂う波を想像し、まるでここが果てしない大海原おおうなばらであるかのように錯覚するのだ。まさしく「青海波」のクライマックスである。

 日野丞と目が合い、いくぞ、という顔になった。

 大きな仕草でゆっくりと、大気中のエネルギーを掻きあつめるように、日野丞は力強い波をこちらに送って来た。

 僕は目に見えない波を全身で受け止め、その勢いに押されながらも、なんとかそれを制御し、のけぞった体の力を利用して、ふたたび波を送り返した。

 僕の送った波はさらに大きかったと見えて、日野丞はそれを受け止めるのに、うしろに三歩あとずさった。そして体勢を整えてからまた前かがみになり、二つ目の波をいっそう強くこちらへ投げた。

 エネルギーを増したその波は、岩場にたたきつける怒涛のように、僕に容赦なく襲いかかる。僕は波に翻弄されつつ、舞台の端でようやくそれを鎮めた。そして潮が満ちるのを待って、勢いをため込み、渾身の力で一気にそれを押し返した。

 波は大きくふくらんで彼方かなたへと向かい、二重三重ふたえみえの波頭をちらつかせて日野丞の姿を覆いかくした。日野丞がふたたび姿を現したのは、波のうねりが小高い丘を作り、それがまた谷底へ沈んだときであった。

 二人は沖を漂う小さな舟となった。

 下鴨神社ただすの森は、ここに荒れ狂う大海と化した。

 観客一人ひとりも、荒涼とした海の上でしくも巡り合わせた舟のように、ゆらゆら波間を漂いながら、舞台の上で繰り広げられる雄大な物語に酔いしれた。

 僕は役に入り込んで演じるかたわら、頭のどこか冷めた部分で、日野丞や観客の顔をはっきりと眺めていた。

 思えば、練習のときは一度も出せなかった躍動感が、この本番の大舞台でうまく出せたのは何故なぜであろう。まるでる者と演じる者の魂のエネルギーが寄り集まって、舞台全体に生命を吹き込んだような、そんな現象であった。

 そのとき、ふと何げなく、客席のいちばんうしろに停まっている牛車ぎっしゃの方へ目が行った。高貴な人が姿を隠しながら観劇するための乗り物である。その閉ざされた御簾の向こうに、おぼろげながら人影が透けて見える。誰かは分からないが、明らかにこちらを見ている様子が分かる。御簾の下からは、鮮やかな花模様の着物の裾がのぞいている。

 荒れ狂う波がようやくいで、物語は大団円に向かって加速する。日野丞と僕はお互いに手を伸ばし合いながら、舞台の上をぐるぐると移動する。水面に大きな渦が生まれる場面である。

 優雅に見える演技も、この段階まで来ると、しだいに体力勝負になる。衣装も汗だくだ。しかし観客にそれを悟られないよう、涼しげな顔で演じなければならない。日野丞はさすがに表情ひとつ変えない。僕の方は、今にも足がつりそうで、あと三十秒もつかどうか怪しい。ここへ来て、彼との実力の差を痛感する。だが、あと少しだ。頑張れ、佐倉助!

 渦に呑まれるような仕草で、だんだんと舞台の中央に寄り集まった二人は、なんども旋回しながら徐々に背中合わせになる。そして音楽の盛り上がりとともに、目にも止まらぬ速さで回転したかと思うと、トップスピンの最後にいきなり、掛け声に合わせて右手を高く天につき上げる。決めのポーズだ。

 音楽もそこでピタリとやむ。客席もしずかになる。

 日野丞と僕は、しばらくその格好のまま静止している。広大な糺の森から降りそそぐ木漏れ日がゆらゆらと会場をつつみ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。

 そのうち誰かが一つ拍手をすると、思い出したように、だんだんと大きな拍手が湧き起こった。そしてついには何も聞こえないような大喝采になった。

 舞台を取り囲む空間は、先ほどまでの鬼気迫る非日常から、しだいにまたもとの日常のなごやかさを取り戻した。

「よっ、日野丞!」

 そんな声が掛かる。

「日野丞さーん!」

「やんや、やんや!」

 さまざまな歓声とともに、なにやら紙に包んだおひねりも乱れ飛ぶ。

 もちろん、クールな日野丞は歓声に手を振ったりしない。

「そっちの新人も、よかったぞ!」

 だれかが僕に向かって叫ぶ。

「よっ、佐倉助!」

 観客の声にまぎれて、幕の中から僕の名前を呼んだのは、おそらく豊田守にちがいない。

 僕は口の動きで、みんな、ありがとう、とつぶやいて、すこし頭を下げる。

 盛大な拍手に見送られながら、僕らはゆっくりと降り口の方へ向かう。二人の演技が大成功であったことは、並み居る観客一人ひとりの表情を見て分かった。僕は声援に応えたかったが、舞台を下りるまでが演技であると思い直し、楚々そそとして日野丞のあとに続いた。

 そのとき、例の牛車の方をまたさりげなく見ると、閉ざされた御簾のすき間から白い手がのぞき、外で待つ侍女に何か手渡すのが見えた。受け取った侍女は、なぜか僕の方をちらと一瞥した。

 階段を下りると、興奮した豊田守が出迎えた。

「よかったぞ!最高だ!期待した通り、いやそれ以上だった!」

 彼は両手を広げて、飾りのついた派手な衣装の僕を抱きしめんばかりの勢いでそう言った。目には涙さえ浮かべている。

 ふう、やっと終わった……

 僕は幕の内で人心地ひとごこちつくと、ようやく身につけた衣装の重さを実感した。そして、いまだ冷めやらぬ会場のざわめきに、しだいに安堵と喜びが胸に湧いて来た。

「……右大臣も感心しててたぞ。何かいい話が舞い込むかもしれない。俺の言った優勝の報酬とはこういう事だ」

 豊田守は大得意で鼻をふくらませている。

 僕は内心、まあ、こんな時代で出世してもなあ……と思いながら、やはり成功の甘い蜜の味をまんざらでもなく感じた。

 日野丞はだまって衣装を着替えている。上気した顔には充足感がみなぎっている。ひと仕事終えた職人の顔だ。脱いだ衣装をきちんとたたむのも、見習うべきところだ。 

「日野丞さん、これ」

 世話役の男が日野丞に花束を届けに来た。ファンからの差し入れのようだ。日野丞は汗を拭きながら、一礼して受け取る。

「こっちもです」

「また来ましたよ」

 みるみるうちに、日野丞の前にはプレゼントの山が出来た。

「くそー。うらやましい限りだ」

 豊田守が本気でくやしがる。

 僕は日野丞の人気ぶりを微笑ほほえましく思いながら衣装の紐を解いていた。そりゃそうだ。彼は男がれる男である。女が惚れるのは当然だ。

 僕がぼんやり見ていると、隅のほうから世話役が、

「佐倉助さん、あなたにもお届けものが……」

と言って、大事そうに差し出したものは、藤の花の一房ひとふさを添えた瀟洒しょうしゃな扇子であった。

「……身分のあるお方の侍女らしき人が、あなたに、と渡して行きました。名は名乗りませんでした」

 僕は不意の出来事に思わず吃驚びっくりし、やがて赤面しながら、おずおずとあたりを見回した。冷やかされるのが苦手な僕は、こういう所を誰かに見られたくないのだ。さいわい豊田守は接待のため、さっき客席へ出て行った。日野丞は見て見ぬふりをしている。

 何かのまちがいではないか、と僕はまた疑ったが、ひとまず一礼してそれを押し戴いた。

 受け取った扇子は、軽くて丈夫な素材で出来ていて、手に心地よい重さであった。恐るおそる開いてみると、なんとも言えずよい香りが漂って来る。

 うぐいす色の和紙には、金箔や銀箔が細かくき込まれていて、落ち着いた色合いの中にも贅を添えている。うっすらと霞の中に描かれた月の気配は、きっと「幽玄」とでも言うのであろうか。

 その美しい絵柄の上に、大胆にも黒々とした文字で、なにか走り書きがしてある。草書体で書かれたうるわしい文字は、達筆すぎて判読がむずかしかったが、しばらく見ているうちに、ようやく意味がつかめて来た。

  おぼろ月夜の

  こよひ待つらむ

と、どうやらそういう風に読める。そして最後に、付け足したように、

  美しうございました

とある。

  朧月夜おぼろづきよ今宵こよひ待つらむ―――

 どういう意味であろうか。僕は何度も読み返した。

 そして隅の方でしばらく思案していたが、やがて豊田守が勢い込んで戻って来たので、あわてて扇子を閉じてうしろ手に隠した。

「佐倉助、よろこべ!右大臣が今夜、やしきもよおうたげに、ぜひお前も連れて来るようにとのおおせだ。きっといい話だぞ!」

 豊田守の顔は紅潮している。

 僕はさらに返答に困った。日野丞はこちらを見て、笑みを浮かべている。

「本日、とりの刻、右大臣邸のはなれにて、各方面の有力者がつどう。恒例の晩餐会だ。もっとも、格式ばる必要はない。ふだん通りの軽装でいいそうだ。日野丞や俺もいっしょだ。きっと来いよ、佐倉助!」

 リョースケはそう言い捨てて、僕の返事も聞かずに、ふたたび外へ出て行った。まったく忙しい男だ。

 しかし困ったことになった。僕はただ、蹴鞠がやってみたかっただけなのに、それが弓の競争になり、いつのまにか舞を踊るはめになって、あれよあれよと言う間に望外の立身出世をしそうになっている。

 僕は啞然としながら、また手にした扇子を開いてみた。

 ―――美しうございました―――

 見事でしたよ、あなたの演技は。―――これは分かりやすい。褒められていることには違いなさそうだ。

 その鶯色の扇子を、眺めたりかしたり、あおいでみたりしながら、僕は右大臣の邸の景色を思い出していた。

 舟を浮かべた大きな池。美しい芝生。遊びまわる若者たち。うららかな春の日に、夢のように過ごした輝かしい時間―――

 かるく閉じたまぶたのうらに、屋根の大きな寝殿の姿が浮かんだ。僕が勝利の矢を放ったとき、偶然めくれ上がった御簾みす。御簾の中から現れた美しい女人。僕と目が合って、あわてて彼女が顔をかくした鶯色の扇子―――

 鶯色の扇子?……

 僕はどきんとして、自分の手の中にあるものを見た。

 ―――そこですべてがつながった。

 僕は急いで白い垂れ幕のすき間から、客席に出てみた。

 観客はとうに帰途につき、人影はまばらであった。

 牛車が停まっていた場所にはすでに何もなく、樹木の間からこぼれ落ちる光だけが虚しく地面を照らしている。

 なんということだ。こんなことがあっていいのだろうか……

 右大臣の娘といえば、すでに入内じゅだいが決まっている、と豊田守が言っていた。つまり、みかどきさきとして、後宮に入るということだ。そんな高貴な女性が、どういう理由わけで僕なんかに、思わせぶりな贈り物をするのだろう。いたずらにしては度が過ぎる。

 あるいは僕の演技が、それほど素晴らしかったということだろうか。まさか。だって、日野丞もいっしょに踊っていたわけだし、ふつうは彼の方に目が行くだろう。彼ならば世に知られた伊達者だてものなので、結婚前の娘が熱を上げたとしても、一時のれごとで済むにちがいない。

 しかし、僕の場合はそうはいかない。どこの馬の骨とも分からない無名のやからに、貴い家柄の娘が贈り物をしたとなれば、身分の上下に厳しいこの時代、洒落や冗談では済まされない。もし発覚したりしたら、どんな処罰が下されるか分からない。女にすれば、命がけの冒険だ。

 僕は扇子に書かれた文字をもう一度読んでみた。

  おぼろ月夜の

  こよひ待つらむ

          美しうございました

「こよひ待つらむ」とは「今夜待っています」ということか……?

 僕は自分の顔が耳まで真っ赤になるのが分かった。心臓の鼓動が早くなる。死ぬかと思うほど呼吸が苦しい。

 しかしその苦しさの中に、どこか甘いような、切ないような、濃密な汁のしたたりを感じるのだ。僕の心は陶然うっとりとした。こんな感覚ははじめてである。

 異性に愛されることの喜び―――それはこんなにもすばらしいものなのか。僕は雲の上を歩いているような気がした。

 すべてのことはもうどうでもよい。このまま火の中をくぐってもきっと熱くないだろう―――

 しかし、もう一度気を落ち着かせて、こんなことはあり得ない、これは何かの間違いである、と自分に言い聞かせようとした。勘違いするな、佐倉助。世の中そんなに甘くはないぞ―――

 しかし、どんなに現実を疑ってみても、ただ一つ確かなのは、いい香りのする鶯色の扇子が、しっかりと僕の手の中にあるという事だった。

 そしていつしか僕は、藤の花房はなぶさがたわわに垂れ下がる右大臣邸にいた。

 夕刻の渡り廊下を、豊田守、日野丞とともに歩いている。

 池のほとりの芝生しばふは、先日僕らが蹴鞠を楽しみ、弓矢を競い合った場所である。いまはひっそりとして誰もいない。僕らは宴会場へ向かっているらしい。

 僕は気がすすまない心のうちを、正直に豊田守に打ち明けた。

「やっぱり、やめとくよ。こういうの、苦手なんだ」

「なにを言ってるんだ、佐倉助。またとないチャンスだよ。だれもこんなところ得意なやつなんかいないさ。しかし、ここを通過すれば新しい世界が広がるんだ。黙ってがれた酒を飲んでればいいよ」

 豊田守はあくまで僕を拉致らちするつもりである。

 渡り廊下を何度も折れ曲がり、太鼓橋を渡って突きあたりまで来ると、池に面した休憩所の横に、釣りの出来そうな欄干がある。宴会の催されるはなれは、ここからさらに草履をはいて少し渡ったところにあるらしい。

「もうぼちぼち、始まってるはずだ。母屋おもやのほうは女房たちが寝てるから、一番遠くでやるんだ。どんなに騒いでも迷惑にならない。どうだ、広い邸だろう」

 豊田守は自慢げに案内する。彼はこの家の「婿むこ」にあたるので、誇らし気に言うのも当然だ。僕の方は、まるで屠殺場とさつじょうに運ばれる豚のような気分である。日野丞はやはり平気な顔をしている。

「堂々としてればいいよ。みんな君たちに一目いちもく置いてるんだ。勝ちは見えてる。さあ、行くよ」

 暗い扉の向こうから笑いさざめく声が聞こえる。豊田守が大きくそれを開けると、すでに大勢の来賓が集まってめいめいに談笑していた。中にはすっかり酔って赤い顔をしている者もいる。くだけた雰囲気ではあるが、その服装や持ち物から、みな相当の身分の人たちであることが分かる。

「や、婿どの、よう来た……さ、こちらへ」

 広い会場の上座の方から、豊田守に気づいて声をかけた人物がいる。どうやら宴会の主催者のようだ。

「……あれが右大臣だよ」

 豊田守が僕に耳打ちする。五十格好の壮健そうな男の顔には、なまずのような髭がある。

「さあさ、君たちもよく来た。こちらへ来て座りたまえ。なあに、かしこまる場ではない。みんな身内の者ばかりだ。遠慮はいらぬ」

 右大臣は、僕と日野丞の肩に気安く手をかけ、席に着かせる。目の前に用意された御膳には、尾頭おかしらつきの鯛や京野菜の煮物、だし巻き玉子やわさびのえ物など、色あざやかな料理が盛りだくさんに並べられている。

「すばらしかったよ。君たちの舞う青海波は。……ところで、日野丞ひののじょう君は何度か見ているが、君ははじめて見る顔だね。名は何という」

「さ、佐倉助と申します」

 僕がおずおずと答えると、右大臣は僕の手に盃を握らせ、酒をなみなみとそそいだ。

「まあ一杯やりたまえ。いける口だろう。話はそれからだ」

 僕はもちろん、正式に酒をふるまわれるのは初めてだったので、いける口かどうかは分からなかったが、なるようになれ、という思いから、がれた酒をひと息に飲んだ。右大臣は、物ごしのやわらかさの反面、有無を言わせぬ押しの強さがあった。身分の高い人にありがちな性癖だ。酒は僕の舌に噛みつくような、なんとも強烈な味がした。

「さっそくお披露目ひろめといこう。ちょっとこちらへ」

 右大臣は僕を座敷の中央へ連れて行った。そして一同を静かにさせたあと、力強い声で僕の名を呼んだ。

 大きな歓声と拍手が起った。 

 やれやれ、こういうのがイヤなんだ―――

 僕はうんざりした気分で愛想笑いをし、仕方なくお辞儀をしたが、豊田守の忠告どおり、なるべく堂々と見えるよう、背筋だけはピンとしていた。

 席へ戻ると、僕は気になっていた御馳走を前に、ゴクリとつばを飲み込んだ。思えば、しばらく何も食べていない。

「さあさ遠慮なく食べなさい」

 右大臣は僕の心を察してか、笑顔で促すように言った。

 僕はさっそく、形のよい鯛の横腹に箸をつけた。こんがりと焼けた塩焼きの皮が破れ、白い身がやわらかくほぐれる。よい香りだ。それをこぼさないよう、そっと口に運ぶ。

 美味うまい!

 天然の素材が引き立つよう、ほどよくまぶされた粗塩あらじおまでが美味おいしい。

「どうだ、うまいか。明石の鯛だ」

 右大臣は上機嫌である。

 僕はぜいたくにも明石の鯛を乱雑に食べちらかし、ひっくり返して裏面も食べ、目玉までしゃぶった。

 あまりに見事な食べっぷりに、横で見ていた日野丞は、手をつけていない自分の鯛と、僕の汚い皿を交換してくれた。

「オレのも食えよ。魚はダメなんだ」

 ケンゾーは意外にも好き嫌いが激しい。しかし偏食でも、彼のように立派になれるということだ。

「そうか、遠慮しないぞ」

 僕はあっという間に、二つ目の皿も平らげた。

「……なかなかよい食べっぷりじゃ。男子おのこはこうでなくてはならぬ。佐倉助とやら、おぬしはどこの国の産まれじゃ」

 日野丞のとなりで、いままで黙って酒を飲んでいた小柄な老人が僕にたずねた。白い髭がほうきのように伸びている。

「はあ……、東国の産まれにございます」

 僕は少し考えて、嘘にならないよう、口を拭きながら答えた。

「なるほど―――東国というと、相模さがみか、武蔵むさしか」

「武蔵でございます」

 老人は右大臣を呼び、耳元に口を寄せて、何かひそひそ喋っている。

 豊田守はその様子を見て、ニンマリと笑っている。

「……ならば佐倉助、生国しょうごく武蔵国むさしのくにをお前に分け与えたいと思うが、いかがかな。来月からは武蔵守むさしのかみじゃ」

 老人はどうやら、右大臣と同じく、あるいはそれ以上に、この時代で権力を持った人物であるらしい。僕にきっぱりとそう言い渡した。

 僕は口に入れた茶碗蒸しを吹き出しそうになった。話はまた、とんでもない方向へ進みそうになっている。

 右大臣は一旦奥へ下がり、何か包みを持って来たかと思うと、僕の前で大事そうにそれを開いた。中から、黒光りのする笛が一本出て来た。

音曲おんぎょくのたしなみはあるか?」

「……ええ、まあ、人並には……」

「ならばこれを、就任の証しとして、そなたに進ぜよう」

 僕は、楽器には大いに興味があるので、珍しいその笛を有難く受け取ったが、しかし、ちょっと待ってくれ。話を勝手に進めないでくれ。

 僕に一国を任せる?武蔵守?政治家?仕事だ。

 だいいち、武芸にひいでて、運がよかったというだけで、なぜ僕なんかにそんな大事な仕事を任せるのだろう。このヒゲ爺さんたちに、僕の何が分かるというのだ。

 豊田守にそう囁くと、

「……政治というのは全人格的なものだ。人の上に立つものはそれ相応の魅力がなければならない。魅力のない人間に人はついて行かない。小手先では駄目なんだ。だからわれわれは、日々、和歌を詠んだり、楽器を練習したり、武芸を磨いたりと、一見無駄なような努力を積んでいるのだ。逆にそれらに優れていれば、そのほかの能力もだいたい予想がつく。君はその潜在能力を買われたんだよ」

と、目を細める。

 僕は、そろそろこの場を退散しなければ大変なことになる、と思った。このままグズグズしていれば、さらに奥からどんな長老が出て来るか分からない。三十六計、逃げるにかず―――

「ちょっと小用に……」

 僕は豊田守にかわやの場所を訊いて、にわかに立ち上がった。もちろん、そのまま逃げるつもりだ。

 立ち去る際、お猪口ちょこにもう一杯、手酌てじゃくで酒を注いで、ぐいと飲み干した。まるでおなかの中に太陽が落っこちたような、奇妙な感覚だ。しかし、この味はなかなかクセになる。

 宴会の盛り上がりの中、僕は豊田守と日野丞に心で別れを告げ、座敷の扉をそっと閉めた。

 外へ出ると、辺りはすでに真っ暗だった。時刻は何時ごろであろう。うっすらと霞のかかる夜空には、朦朧とした月が白く浮かんでいる。等間隔に並んだ渡り廊下の蝋燭ろうそくだけが、辿るべき道を示していた。

 僕は来た道のとおり、釣り殿へ渡って太鼓橋を越え、長くつづく廊下をひたひたと歩いた。庭の芝生は闇の底にしずみ、池のおもてはかすかな月を浮かべている。

 寝静まった右大臣邸は物音ひとつしない。

 おそらくは何十人もの女人たちが、この屋敷のどこかで、ひっそりと身を休めているのであろう。が、表向きはあくまでいだ湖のようである。

 僕はなおも足音を忍ばせて、しかし怪しい人物に見られないよう、ゆっくりと大股で歩いた。こちらが観察されている可能性もあるのだ。

 しばらく行くと、同じような廊下を何度も折れ曲がった先に、とつぜん見覚えのある建物が目に飛び込んで来た。大きな屋根を持つ、格子の閉ざされたその建物は、いつか弓矢の競争のとき、図らずもめくれ上がった御簾の中に、美しい女人を垣間見たあの寝殿であった。

 そう言えば、この狩衣の袖の中には、昼間、誰かからもらった鶯色の扇子がある。その贈り主があのときの女人だと、まだ決まったわけではない。しかし、僕はその扇子を取り出し、御簾のほうへかざしてみたとき、まざまざとその品物が、あの驚きにみちた女人の顔におおかぶさるのを想像できた。その途端、胸が苦しくなった。

 ゆっくりとその部屋へ近づいてみる―――廊下のきしむ音にドキリとする。なおも顔を近づけ、息を殺し、唾をのみ込む。そっと御簾の向こうに目を凝らす。

 いや、待て、佐倉助。これはきっと悪いことではないか―――

 僕は何をしようというわけではなかったが、しかし僕の理性は、うしろ暗い罪の意識と、あらがいがたい誘惑のあいだで揺れ動いた。

 知らない時代とはいえ、ゆめゆめ道義に反することをしてはいけない。しかし……

 そもそも豊田守に連れられて、こうして右大臣邸にやって来たのは、もともと何か心によこしまなものがあったからではないか。もしそうなら、その本当の目的を前に、何をためらうことがあろうか。自分の心に正直に生きる。それだけが僕の行動基準ではなかったか。思えば弓矢の勝負に勝ち、舞台で成功をおさめ、順風満帆でここまで来たのも、すべてここへつながる道ではなかったか。しかも、彼女の方から好意を寄せてくれているとしたら、それに答えないことこそ罪ではないか……

 僕の心はいつしか「都合のいい」方へ傾き、やがてそれが「信念」に転じた。あとは「勇気」を呼び起こすだけだ。

 そのとき、暗闇の中から、かすかな音楽らしきものが聞こえて来た。よく耳を澄ますと、それはことの音色のようである。

 そのうるわしい微細な音は、どうやら僕の前の御簾の向こうから聞こえて来る。いったい誰が弾いているのであろう。

 それは決して人に聞かせようというものではなく、どちらかと言えば独り言をつぶやくような―――心の中に移ろいゆく思いを、とりとめもなくなぞるような、そんなささやかな爪弾きであった。

 僕はしばらく目を閉じて、その琴の調べに聴き入った。弾く人の心がしみじみと表れているその音は、僕の胸の中に、おぼろに霞む春の夜のぼんやりとした空を想起させた。

 聞いているうちに、僕はふと、その霞の上に、はかなげな「月の光」を加えたくなった。しかもそのイメージを、なんとか音で表現したい。

 僕は左の袖の中に、さきほど右大臣からもらった笛があるのを思い出した。さっそくそれを取り出し、両手の指を穴にあててみる。心地よい手触りのつややかな横笛だ。

 たしか笛というのは、穴を多くふさげば低い音が、少なく塞げば高い音が出る。横笛は初めてだったが、あとは感覚でなんとかなるだろう。

 澄んだ月の光をイメージしながら、僕はそっと目を閉じ、うす紫の夜空に白い絵筆をふるうように、ゆっくりと唇から音を発した。

 御簾の中の霞の描き手は、新しく加わってきたかすかな光彩に、一瞬たじろいだ様子を見せたものの、調べを中断することなく、そのまま演奏をつづけた。

 そのうちに琴の音色と笛の音色は、お互いの呼吸をさぐるように、からみ合い、溶け合いながら、漆黒の闇の中に、幻想的な朧月夜おぼろづきよの水墨画を現出させた。

 心と心が通い合う合奏アンサンブルのよろこび―――言葉を介することなく、相手の顔さえ見えないのに、両者の思いは確実に結ばれている。思えば不思議なことだが、音楽にはそれが可能なのだ。僕はあらためて音楽の素晴らしさを実感し、感動と興奮にひたった。

 御簾の中では、すすり泣きの声が聞こえる。

 琴の音はいつか止んでいた。

 僕ははっとして、笛を吹くのをやめた。 

 そしてどぎまぎしながら、なすすべもなくその泣き声を聞いていると、それは決して悲しみの涙ではなく、どこか肯定的な響きのある甘い嗚咽おえつであるのが分かった。

 僕は、自分が、と感じた。

 と同時に、うっすらと透けて見える御簾の方へふたたび目を凝らした。

 女人は一人のようである。重ね着した着物の広がりが影絵のように濃く見える。

 僕は、今こそ何か話しかけるタイミングだと思ったが、即座にこの場にふさわしい言葉が浮かばなかった。音楽のように自在には、言葉は出てこない。ふと生身なまみの人間同士のぎこちなさが生まれた。

 僕はもう一方の袖の中にある扇子のことを思い出した。

 この鶯色の扇子の贈り主が、はたして御簾の向こうにいるこの人だという証拠はまだない。しかし、それを取り出したときにほのかに漂った香りが、さきほどから御簾の中から流れて来るよい香りとであることに、僕はいよいよその確信を深めた。

 そしてあの、あれから何度もくり返し眺めた扇子の文字をまた反芻した。

 ―――おぼろ月夜の

    こよひ待つらむ

 僕の心に、ふと思い当たるものがあった。

 これはひょっとして、なにかの和歌の「しもの句」ではないか。だとすれば、すでにどこかにかみの句があるのであろうか。

 それとも、もともと上の句などなく、女が僕になぞかけをしているのだろうか。

 あなたにこの上の句が分かりますか……と。

 僕は少ない知恵をしぼって、その上の句を想像してみた。おそらくはきっと、自分と彼女の置かれている立場を、すなおに詠めばいいはずである。

 ―――しのばるる……

 ふと、こんな句が頭に浮かんだ。

  忍ばるる

  道なき恋の

  かたみとて……

 (人目を忍ぶ道ならぬ恋の思い出に……) 

 僕はその上の句を小さな声でつぶやいてみた。

 すると、その声が聞こえたのか、御簾の中から、か細い声がした。

  朧月夜おぼろづきよ

  今宵こよひ待つらむ……

 (朧月夜の今夜、あなたを待っているでしょう……)

「来て下すったのですね!」

 こんどはハッキリとした声が中から聞こえた。

 僕は、意図が通じた喜びに、思わず御簾をたくし上げ、荒々しく中へ押し入った。

 驚いた女は、少しうしろへりぎみになり、逃げるような仕草をみせたが、どこへも逃げ場のないことを悟り、すぐに抵抗をあきらめたようだった。あの日のように、女は顔をかくそうともせず、恥ずかしそうにうつ向いていた。

「やはり、あなただったのですね」

 僕は扇子の贈り主に今ようやく辿り着いた。

 女は身を固くして震えている。

 僕は―――こんな一面が自分にあるのかと驚いたが、大胆にも、二人の間に横たわる琴を乗りこえ、女の脇に座って、その背中に手をまわした。長い髪がさらさらと着物の裾まで伸びている。

「どうか、お顔を……」

 はじめて触れる女の髪の、手触りとよい香りにうっとりしつつも、僕はそのうしろ頭に手をあてて、こちらを振り向かせようとした。

 僕の力が強すぎたのか、女はさらに身を固くし、背筋に力を入れた。

 そこで僕は、なるべく力を抜くようにして、女の呼吸を感じるくらいに、やさしくゆっくりとその髪を愛撫した。

 女は徐々に警戒心を解き、肩の力をゆるめるのが分かった。そして、ほの暗い行燈あんどんの光のもとで体を傾け、うつ向いた顔を少しこちらへ向けた。

 うす明かりの中で見る女の顔はぼんやりとして、その目鼻立ちまでははっきりと分からなかったが、しかし、その抜けるような肌の白さと、薄くべにをぬった小さな唇だけは、暗がりの中でもよく見てとれた。それはまさしく、僕の知っている彼女だった。

 僕はいとしさでたまらなくなり、半ば強引に彼女のあごをこちらへ向けて、その唇に自分の唇を押し当てた。彼女は小さく首を振った。

 そして唇のやわらかさを充分に堪能したあと、僕はさらに彼女の白い頬に唇を移動させ、耳もとにそれをつけた。

 彼女の口から吐息がもれた。が、それ以上あらがうことなく、彼女は静かに目を閉じて、僕のなすがままに身を任せている。

 僕はうまれて初めて、誰に教わったわけでもないのに、自分の手足が勝手に動くという経験をした。頭に血がのぼっていたので、どういう手順で、どういう振舞ふるまいをしたのかよく分からない。しかし、彼女を抱き寄せようとしたとき、袖の中にある横笛のつっぱりが邪魔になって、急いで着ているものを脱ぎ捨てたことは覚えている。その勢いで彼女の着ているものも全てぎ取り、僕はとうとう彼女の中へ入った。折り重なった彼女の肌はまるで温泉の水のように温かく、蝋燭のように滑らかだった。

 僕はそのとき、なぜ、何のために、この世に男と女が存在するのかということを、実感をもって深く理解した。

 ―――どれくらい僕らは結ばれていただろう。 

 事が果てたあと、僕は乱れた衣服を整えながら、ぼんやりと今日起きた出来事を思い返していた。下鴨神社の檜舞台で青海波を舞い、見知らぬ女から思いを告げられ、はからずも右大臣の目にとまって招きを受け、あやうく領主に取り立てられそうになり、ようやく逃げおおせたその先で、いま、心をかよわした彼女と寝床を共にしている。すべてが同じ日の出来事である。

 長かった一日を思いつつ、僕はふと全身に疲れを感じた。そして、髪をとかす彼女のとなりに身を横たえ、軽く目を閉じているうちに、いつしかまどろみの中で寝息を立てていた。

 しばらくして目が覚めると、彼女も白い単衣ひとえ姿で僕のかたわらに横になっていた。

 彼女は眠っているのではなかった。ただぼんやりと天井を見つめていた。

 僕はとっさに何と声をかけてよいか分からず、思い切って名前を呼んでみた。

「三の姫」

「……はい」

 彼女は小さく返事をした。

 僕はあらためて、自分が犯してしまった罪の深さを思いやった。

 彼女はすでに入内じゅだいが決まっていて、言わばみかど所有物もちものである。僕は帝の所有物に手をつけてしまった。どんな厳罰が下るか分からない。

 しかし、不思議と恐ろしさはなかった。なぜなら、僕が唯一ゆいいつ持っている確かなものは、「失うものが何もない」という自負だったからだ。

 それより、このさき立場が危ういのは彼女の方である。彼女は右大臣の愛娘まなむすめであり、のちの帝の母となる人であり、さまざまな政治的なしがらみを抱えて生きている―――一人の女であって、一人の女ではないのだ。場合によっては右大臣家そのものの失脚の原因ともなりべき汚点を、僕は彼女の上に落としてしまった。

 もっとも、そのことを彼女が自覚しないはずはなく、おそらくはそれを承知した上で、彼女は僕に「恋のかけひき」を仕掛けて来たのであろう。しかし、いったいなぜ……

「三の姫」

「はい」

「あなたはどうして、僕なんかにお声を掛けたのですか?」

 三の姫の唇が何か言いかけたが、一瞬のためらいののち、そのまま言葉を吞み込んだ。

「……あなたは将来、帝とともにこの国を治めるべき貴い人だ。それなのになぜ、その幸運を自分でぶち壊すようなことをなさるのですか」

 三の姫はなおも戸惑いの表情で、目を宙に泳がせている。僕はふと、その顔を美しいと思った。

「……あなたの自由がうらやましかったのです」

 ようやく姫は口を開いた。

 意外な答えに、今度は僕の方が言葉につまった。

「……わたくしは、生まれてこのかた、自分で物事を決めたことが一度もございません。すべては父上のおこころざしのまま、周りの者たちの思わくに添うように、つとめて自分の気持ちを押し殺して生きてまいりました。そしてこのたび、もったいなくも御殿へのお呼びがかかり、いよいよ自分の身がすっかり他人のものになる日が目の前に来たのです。そのことが、なによりも恐ろしゅうございました。わたくしはもっと、春の夢のなかで羽を伸ばしていたかったのです。そこへ、あなたさまが現れ、あの目覚ましい弓の腕前と、美しい舞を披露されたのでございます。わたくしの手を取り、救い出してくださるのはこの方だと、そのとき、わたくしは心に決めたのでございます……」

 僕はこのところ、たまたま偶然が重なり、幸運だった自分の姿を思い出して、すこし面映おもはゆかったが、なおも考えてこう答えた。

「それは僕が何も持たず、くすものがないからです。財産もないし、背負せおうものも何もない。そんな僕がうらやましいと言うのは、赤子の身がうらやましいと言うのと同じです。あなたの方こそ、このまま行けば天下を手中に出来るほどの恵まれたお立場なのに、どうしてそんなことを思われる。世の女性たちがみな、あなたのようになりたいと、あこがれる存在ではありませんか。それをみすみす棒に振るのは、いかにももったいない事ですよ」

 僕はいつもの自分に似ず、なぜか言葉がよどみなく出て来た。どことなく彼女には「話しやすい雰囲気」があった。

「本当にそうお思いでしょうか?わたくしがそれにふさわしい人物でないのに、いかに金銀財宝やきさきの位を与えられようと、何の値打ちがございましょう。わたくしはそんなもの、いっこうに欲しいとは思いませぬ。わたくしが欲しいのは、ただ、自らの欲するままに、気兼ねなく行動することの出来るでございます」

 彼女は単衣のうすい袖で涙をぬぐった。僕は不意の涙にまた狼狽ろうばいした。

「……いや、あなたは充分それにふさわしいお人ですよ。右大臣の家に生まれて、しかも、花も恥じらう美しさを我知らず備えていらっしゃる。それ以上、何をお望みになるのか。世の人々が耳にしたら、何ともったいないお姫様かと、さぞや恨みに思うことでしょう」

 僕はわざと大仰おおぎょうに、なじるような響きをこめて、そう持ち上げた。半分は本心であり、半分は彼女を励まし、なぐさめるためであった。彼女は下を向いたまま、

「しょせん他人ひと事だからそうっしゃるのです。わたくしの苦しみはわたくしにしか分かりません。他のすべてが得られたとしても、たった一つの大切なものが得られなければ、何の意味もございません。あなたはそれが分かるお人だと思っておりました……」

と、こんどは彼女が僕をなじるように言う。

 僕は、彼女の意外なしんの強さに戸惑いながら、すこしおざなりな意見を言ってしまったことを反省した。

 たしかに、自分のことを振り返ってみても、僕は彼女の言いたいことが、痛いほどよく分かるのだ。

 僕は、つかみどころのない現代の放縦ほうしょうさに飽き足らず、生きる手ごたえを探し求めている。

 彼女は、すべての栄華を手中に出来るにも関わらず、自由だけが足りないと嘆いている。

 立場は同じだ。

 そこで僕は、まるで自分に言い聞かせるようにこう言った。

「私は、あなたのお苦しみが少しは分かるつもりです。いちばん大事なものが得られないままで、われわれは生きて行くことは出来ない。それが出来るのは、いい加減に、自分を誤魔化しながら生きている人々だけでしょう。思えばわれわれは同類かもしれない。しかし、そんな風に感じるのは、あくまで特別な一にぎりの人間なのです。一にぎりのわれわれは、大勢の波にのまれてはいけない。われわれにはわれわれの生き方があります。性急になってはいけません。大切なものは、ゆっくりと追いつづけるのです。なるべくそれに気付かないふりをしながら、だんだんに周りから攻めて行くのです。そしてチャンスを待つ。気長にのんびりと、口笛でも吹きながら……」

 僕は実際に口をすぼめて、口笛を吹いた。彼女は思わず笑った。笑いながら、同時に涙も流している。

 彼女が笑ってくれたことで、僕は少し気が楽になった。まだ問題が解決したわけではないが、なんとなく先に進む元気が出て来たのである。

 彼女は涙でくしゃくしゃの顔を、隠しもせずに言った。

「なんだか心が楽になりました。やはり、あなたはわたくしが思ったとおりのお方でございました。大切なものは追えば逃げる。昔からの言い伝えでございますね―――しかし、わたくしが追いかけたにも関わらず、あなたは逃げずに、ここへ来て下さいました。それはどういうことなのかしら?」

 彼女はいたずらっぽく上目遣いをした。「つつしみのない女はお嫌いですか?」

「嫌いなわけがないでしょう」

 僕はすぐに否定した。そして「その証拠に……」とまた身を寄せながら、

「もう一度こうしてもいいですか?」

と、彼女の肩に手をまわした。

 彼女は僕の手を払いのけ、わざとらしく後ろを向いた。

「いやでございます。大切なものは追えば逃げます。わたくしはまだ、あなたの大切なものではないから……」

 部屋のうす暗い方へ、彼女は逃げる素振りをした。

 僕はすかさず追いかけ、また手を伸ばす。彼女はなおも身をかわす。まるで鬼ごっこだ。僕はついに彼女を几帳のそばへ追い詰めた。

 僕らは成り行き上、せっかく着た着物を、ふたたび脱ぐはめになった―――

 また数刻が流れた。

 今度こそ、二人は本当に寝入ってしまったらしかった。

 気がつけば、うっすらと夜が明けはじめていた。

 先に目を覚ました彼女は、鏡の前で唇にべにを引いている。僕が起きたのが分かると、鏡ごしにうるんだ瞳をこちらへ向けた。

 僕もだまって彼女の瞳を見つめ返した。

 二人はしばらく無言であった。無言だが、気づまりなことは何もなかった。とない幸福な時間がそこにあった。

 そのうちに彼女は、何かを思いついたらしく、ゆっくりとした口調で、歌うようにこうつぶやいた。

  かたぶけし

  君がなさけの

  さかづきに……

  (あなたが心をこめていでくれたさかずきの酒に……)

 そして、そこで口をつぐんだ。和歌の上の句のようである。

 僕はふたたびなぞをかけられているのを感じ、なんとかそれに答えようと、必死で下の句を考えた。

 目を閉じて、盃に注がれた酒を思い浮かべる。

 右大臣のうたげで、初めて飲んだ強烈な酒。あやうく手にしそうになった出世の道。逃げる途中、廊下から見上げた月。運命的な彼女との出会い。男と女の営み。永遠につづくかと思われる幸福な時間。そして……。

 僕は、ある悲しみの予感に胸を打たれた。

 そして、心に浮かんだ言葉を、そのまましずかに口ずさんだ。

  いざよふ月の

  影のはかなさ……

 (その盃に浮かんだ月の揺れるさまは、なんとはかないことでしょう)

 彼女も同じことを考えていたらしく、突然、はらりと涙をこぼした。

 二人はどちらからともなく手を伸ばし、しっかりと抱き合った。

 鳥のさえずりが聞こえた。

 いけない―――

 僕は自分の置かれた数奇な立場をいきなり思い出した。チュン太はどこだろう。チュン太がいないと、僕はこのまま、見知らぬ時代にとり残されてしまう。チュン太を探さなければ……。

 僕はあわてて身支度みじたくを整えると、はかまの乱れもそこそこに、御簾をめくり上げ、まだ明けやらぬ朝靄あさもやの庭へ裸足で駈け下りた。そして朝鳥あさどりの声のする方へ走った。

 うしろをふり返ると、朝日に照らされた正殿の御簾はつめたく閉ざされ、いつかまた湖のような静寂がそこにあった。 

 

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