長城編
長城編
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!目を開けるんだ!」
気を失いかけている男を、となりの男が揺さぶっている。
「もう少しで休憩のはずだ。それまで我慢しろ。ここでくたばったら殺されるぞ!」
あたりを
しかし、半死半生の男の目は魂が抜けたように
「―――やめとけ。お前まで
土を運びながら別の男が忠告する。どの男も、裸に近い格好で、手足は傷だらけだ。
そのとき、見張り番らしき役人が彼らのうしろを通りかった。役人は古めかしい
「そいつはもう使い物にならんな。
彼は持っていた刀で、動けなくなった男を
斬られた男は、うっ、という
「そいつを突き落せ。役立たずはこうなるところを見せてやるんだ」
別の役人が二人がかりで、すでに息絶えた男の体をかかえ、深い谷のほうへ放り投げる。
崖から転がり落ちる死体を横目で追いながら、
見ると崖の途中には、何人もの遺棄された死体が、古びた人形のように引っかかっている。
「いきなりひどいところへ来たね―――ここはどこなの?」
僕は岩陰で、
「やっと目を覚ましたね、ぼんちゃん―――空から見れば分かるよ」
チュン太は待ちかねたように、そそくさと上空へ飛んだ。古代ギリシャに引き続き、今度はどんな場所に連れてこられたのだろう。僕もついて行く。
上空へ来ると、あたりは見渡すかぎり黒々とした山また山で、白い雲がところどころ地平線に
「……万里の長城だ!しかも、今まさに造ってるところだ……」
ギラギラとした太陽のもと、編み笠をかぶった男たちが根気よく、高くて堅固な壁を築いていた。
「そう。―――あの、地球上で最も大きな建造物と言われている城壁だよ。当り前だけど、長城は宇宙人が作ったのでも、自然に出来たのでもなく、こうして少しずつ、人間が作ったものなんだ。気の遠くなるような話だね」
僕はあらためて、その山肌にへばりつく細長い蛇のような城壁を見渡した。
すると、ここは古代中国―――たしか「
ふたたび地上へ降りて作業を見ていると、壁の両側に板を組み立てる者、土砂を運び入れる者、盛られた土を突き固める者、岩石を積み重ねる者、水を流し込む者―――さまざまな工程があるようだ。もちろん、すべて手作業である。炎天下で行われる労働は、およそ並大抵ではない。みんな滝のような汗を流しながら、苦しそうに働いている。ときどき、急にバタリとその場に倒れる者もある。と、すぐに例の役人が近づいてきて、棒で叩いて生存を確認し、動かなければ、そのまま崖から突き落される。まさに使い捨ての命だ。
「ほんとうに虫ケラ以下の扱いだね。労働者の人格なんてあったもんじゃない」
「この時代に人格なんて言葉はないよ。人命という価値観さえない。しかも彼らの上に立つのが、あの悪名高き暴君だからね」
「万里の長城は―――たしか『秦の始皇帝』が作ったんだよね。中国を初めて統一した皇帝―――もっともその国は、長くはつづかなかったけれど……」
僕は歴史で習った知識をすばやく
男たちは息も絶え絶えに、死にもの狂いで働いている。いや、働かなければ容赦なく殺されるので、必死にならざるを得ないのだ。僕はその
ところがチュン太は意外なほど平気な顔で、だれに臆する様子もなく、大胆にもこう言い放った。
「……外敵の侵入を防ぐために延々と壁を作るなんてのは、どちらかというと子供の発想だね。単純というか、馬鹿々々しいというか……」
ムチを持った番人が僕らのうしろを通る。僕はチュン太の
「シッ―――チュン太。そんなに大きな声で喋ったら、役人に聞こえちゃうよ。鳥を殺すのなんて朝飯前だ……」
「大丈夫だよ。ぼくらの喋る声は、人間にはピーチクとか、パーチクとしか聞こえないんだから」
チュン太は体は小さいくせに、肝っ玉は僕より一回り大きいようだ。一度死んだ者は怖いもの知らず、ということか。僕の方は、まだ自分が鳥だということに完全には慣れていないせいか、おっかなビックリ羽をばたつかせた。
そんな中、土工たちが役人の目を盗んでヒソヒソと話をしている。
「お
編み笠をかぶった別の男が答える。
「年貢が払えなかった。凶作なのに、取り立ては同じときたもんだ。ひでえ話だ……」男は土くれを放り投げる。「お前はなんの罪だ?」
「なあに、
「泣く子もだまる始皇帝さまの命令だ。歯向かったら命はねえ……」
そんな調子のところへ、よく見ると、泥まみれで働く男たちの中に、ひとりだけ
男は
「変な人がいるよ」
僕がチュン太にささやく。
言いながら僕は、実はその顔にどこか見覚えがあったのだが、とっさに誰だかは分からなかった。しかし、ときどき下唇をつき出すその仕草に、ふと思い当たる節があった。僕の家によく配達にくる、酒屋のジュンペイさんである。
ジュンペイさんは、やがて、さっきの男たちの会話に口をはさむ。
「へん!お前たちはまだマシな方だぞ。オレなんか、酔っぱらって立ち小便しただけで捕まった―――この世に小便しない奴がどこにいる!たまたまそこに便器があったか、なかったかだけの話だ……ムニャムニャ……」
最後の方は
酔っ払いに
さいわい番人はどこかへ行っていて、このやりとりには気づいていない。
どうやらここにいる者は皆、何かの罪を着せられて、強引に連れて来られた人々のようである。
僕はひとつ勘違いをしていた。
万里の長城は、決して公明正大な国家的事業などではなく、奴隷をこき使ってムリヤリ行われた悪業の
かように奴隷たちは、登って来るだけでも大変な、こんな山深い場所に、重たい材料を一つひとつ運び上げ、自分の背丈よりも高い頑丈な壁を作ろうとしている。しかもそれが何キロも、何十キロもつづくのである。まさに想像を絶する作業だ。
そんな過酷な労働を、命令する方もする方だが、実際やってのける「人間」というものもつくづく
目の前に
ということは、大きな仕事をするためには、自主性にまかせるより、ある程度強制された方がうまくいく、ということだろうか―――
やがて太陽は中天にのぼり、ようやく昼飯の時間が来た。土工たちにそれぞれ食料が与えられる。食料といっても、乾燥させた
みんなは一斉に
そこへ、馬に乗った現場監督のような男が現れた。勲章の付いた軍服を身に付け、誇らしげに胸を反らしている。分隊長といったところか。
僕は、その男にも見覚えがあった。小太りで、目が丸くて、眉の下がったその顔は、まさしくバイト先の店長だ。図体のわりにカン高い声もそのままである。
「―――お前たち、よく聞け!作業は非常に遅れている。予定より五日分の遅れだ。このままだと、お前たち全員の首がとぶぞ。始皇帝さまの治めるわが秦国は、天下に並びなき大帝国である。お前たちの代りはいくらでもあるのだ。命が惜しければ遅れを取り戻せ。午後からは、あの頂きのところまで工事を進めるぞ。分かったな!」
そんな一方的な言い方も、これまた店長そっくりだ。ねぎらいの一言もない。
隊長は馬から下りようともせず、そのまま立ち去りかけたが、その時、なんとも意外なところから声が掛かった。酒屋のジュンペイさんが呼び止めたのだ。
「ちょっと、カントク―――カントクさん、これ……」
番人の二人が、刀に手をかける。
「この方は監督ではない。わが隊の隊長だ!」
ジュンペイさんは悪びれもせず、手まねきをしている。
周りの人々は冷や冷やしながらこの様子を見ている。奴隷の
ところが、どういうわけか隊長は、いったん腰の刀を抜きかけたものの、酔っ払いの顔を見るや、何を思ったか、すぐに刀をおさめ、彼に近づいて小声で何かを告げた。そして馬を下りると、二人は連れ立って、みんなから離れた壁の裏側へ歩いて行った。
「どうしたんだろう。行ってみよう……」
僕とチュン太は岩を飛びこえ、彼らのちょうど真上の壁に止まって、聞き耳をたてた。ここからは酔っ払いと隊長の姿がまる見えである。酔っ払いが隊長の顔を下からのぞき込む。
「隊長さんだっけ。あんた、ひょっとして、
「……」
「やっぱりそうだ。その顔は王敏だ。ああ、なつかしい!―――こげんとこでなんばしょっとか?」
隊長は無言のままである。苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。
「オレんこつば忘れたとか。ほら、こん顔!」
酔っ払いは両手を自分の頭とアゴにあて、猿のような顔をしてみせる。隊長は木に馬を
「分かってるよ。
会いたくないヤツに会った、と言わんばかりの渋面である。
「お前こそ、こんなところで何をしている。あい変わらずブラブラしているのか。おや、なんだか酒くさいぞ。まさか、その
「このアホ
酔っ払いはお構いなく、隊長の顔をタテに引っぱったり、横に引っぱったりしている。
「どうやら二人は友だちのようだね……」
僕はチュン太の顔を見る。
「そら。一杯やらんか。こげんかとこで、お前と飲む日の来るとは思わんやった」
「と、とんでもない。俺はいらん。職務中だ―――」
王敏はあわてて顔をそむける。何だかやりづらそうである。
上機嫌な李平は、ふと木のかげに、上官のために用意された仮設の
「たまにはハメば
「―――元気だ……。嫁に行ったよ」
「あの鼻たれのションベンたれのお前が、ずいぶん立派になったのう。勲章ばジャラジャラつけて―――そしたら、家は御両親だけか?」
「
「お前、―――嫁ゴばもろたとか?―――ようお前んごたる奴に来る嫁ゴのおったな。ワハハ」
「……秋には子供も産まれる予定だ。だから、俺がガンバらんといかんとぜ」
王敏もつられて、しだいにお国言葉になる。
「始皇帝んとこで働きよるとか。あん
「いや、実際に
「あん人が天下ば取って、初めんうちはたしかによかったばい。道は広うなったし、
「
「お前もそん片棒ば
「現実主義、ち言うてくれ。天下ば治むるには温情主義じゃムツカシカぜ。切り捨てるところは切り捨てんといかん。―――自分のためだけやなか。結局それがみんなのためにもなる。よか暮らしばするためには、それなりの犠牲も必要ばい。―――李平、お前こそ酒ばっかり飲みよると、ろくな人間にならんぜ」
「……いつからそげんか奴になったかね……姉ちゃんのかげに隠れとったときのほうが、可愛げのあった……」
李平は憎らしげに、王敏の軍服を上から下まで眺めまわす。
王敏はまた襟を正し、
「人間は成長するとばい。いつまでも餓鬼大将にビビッとる俺やなかぜ」
と胸の勲章をちらつかせる、が、その表情はまるで、見栄っ張りの子供のようである。
「お前はいったい何がしたいとか。お前の言うよか暮らしちゃ、どけな暮らしか」
李平は上目遣いに王敏を問い
「がんばって働いて出世する」
「そいで」
「人の上に立って、人を働かせる」
「そいで」
「金も時間も、余裕ができる」
「そいで」
「ま、昼寝でもしながら、左うちわで酒を飲む」
王敏は照れたように、しかし誇らしげに高笑いをした。
李平はあけすけな軽蔑のまなざしを旧友に向け、つき放すように言った。
「ほう、そうか―――ばってん、その酒ば前借りして、いま飲みよるのがこのオレばい」
そして下唇をつき出すと、これ見よがしにグビリグビリと酒を飲んだ。
「……人を殺す必要がどこにあるとか?そげなこつせんでも、充分楽しゅう暮らせるとぞ」
李平はさらに何かを思い出したように言う。
「子供ん時のこつば覚えとるか?―――いつかお前が、しゃがんで何かをじっと見よると思たら、
「……知らん」王敏はそっぽを向く。
「そん蟻たちが、
「ひどか奴やね」
「お前は案の定、メソメソ泣き出して、姉ちゃんのとこへ言いつけに行ったばい。そいで、姉ちゃんが飛んで来て、オレはエライ
「そげんこつもあったかね。お前はそん時と、いっちょん変わらんな」
「お前はすっかり変わってしもたな……」
李平は幼なじみを再びギロリと睨む。今度は本当に恐そうな目だ。
「……だいだい何のため無理して国ば大きゅうする必要があるとか。楽しゅう暮らすのが目的やったら、今のままでも充分やろが。それに、始皇帝が警戒しとる
王敏はしばらく李平の言葉を聞いていたが、ふと真顔になると、ゆっくりとした低い声で言った。
「……お前も知っとるように、俺のウチは昔から、目も当てられんくらい貧乏やった。その貧乏から抜け出すために、俺は一生懸命働いた。そして何とかここまで来た。今では千人の分隊を任されとる。この地区の責任者たい。―――それのどこが悪いとや」
ひらき直る王敏に、李平の方も真剣なまなざしで答える。
「お前に
「始皇帝さまのことか」
「いいや―――始皇帝本人も、その怪物にあやつられとる。そいつは大飯食いで、お前たちみんなを食いものにして、無限に大きゅうなろうち
僕らは二人の会話をよそに、ふと空腹であることを思い出し、何か食べものがないか探した。
見るとチュン太は、その辺の木の枝を
李平はいつか酔いが覚めたらしい。
「……始皇帝はたしかに、大した人物ばい。七つに分かれとった国を一つにまとめて、だれも成し遂げられんやった統一国家ば作った。そばってん、一人の人間が神様のマネをして、この世を支配しようち思うのがそもそもの間違いぜ。どっかで必ず行き詰まりが来る。初めのうちは、橋を作ったり、法を作ったり、道を整備したり、よかこつもいっぱいせらしゃった。けど、その野望を貫くために、どんだけ多くの犠牲ば
「それは世の中をようするために、通らんといかんやった道ばい。なんばするにしても、犠牲なしには出けん。お前んごつ、酒ばっかり飲んで、遊んで暮らしよる奴が何ば言いよるとか。負け惜しみにしか聞こえんぞ。努力した人間が勝ち残って、ぐうたらした人間が負け犬になる。あたりまえの道理ばい。こんど俺は、さらに三つの部隊を任されることになった。役職付きぜ」
王敏は役人の顔に戻って、李平を見下ろした。
「ふーん。役職についたら、なかなか家にも帰られんやろね。家で待っとるお前の
「せっかくイジメられっ子を抜け出して、貧乏を抜け出して、ここまで這い上がって来たとぞ。今さらどげんせろち言うとか!それに、正直いうと、俺が任務を下りるときは俺が首をはねられる時たい。そげんか仕組みになっとったい。ほかに選ぶ道はなか!」
「……ま、その小さい脳ミソでせいぜい考えて、どげんなっとんよかごつせろ!人間ば大事にせんこの国に未来はなか!」
「なんちや!」王敏は刀を抜きかける。
「オレば斬ったところで何が変わるか?お前の胸の勲章がひとつ増えるだけやろ。秦が
「……」
「だいたい始皇帝ちゅう人は、お前が思いようごたる人やなかぜ。どげんか理由があっても、国のために人を殺すたぁ、本末転倒ばい。人のために国があるとばい。知っとるか?あん人ぁ
王敏は刀を握りしめたが、少し思い当たる節があるのか、そのまま動きを止めた。
「……誰が言うた」
「みんな知っとる。知らんたぁお前だけたい。それに、このごろはちっと頭んおかしゅうなって、『不老不死の薬』ば探しよってげな。そげなもん、この世にあると思うか?」
「……」
「人のことは平気で殺すくせに、自分が死ぬたぁ
「……」
「それだけやなし、あんまりいっぱい人を殺さしゃったけん、その
「……なんか聞いたことがあるような気がする。たしか俺の姉ちゃんの亭主も、地下で働かされて毒にあたって死んだっちゅう話やった。姉ちゃんが泣きよった……」
「……始皇帝を
そこへ、長城建設の見張り番がふいに駆けつけて来た。なんでも、
王敏は上官の顔になった。
「夫の名は何という?」
「
「杞梁なら、もう死んだぞ―――」
王敏はその名前に心あたりがあるのか、腕組みをしている。
「女に言うべきでしょうか」
番人と隊長は顔を見合わせる。
「……とにかく、その女に会おう」
王敏は身支度を整える。
「李平。すまんが、仕事に戻ってくれ。そろそろ休憩も終わりだ」
李平は空になった酒壜を谷底へ放り投げる。
王敏と見張り番はそれぞれの馬に乗り、長城の壁に沿ってどこかへ向かった。僕らもそのあとを追う。ふり返ると李平は、木の根元で昼寝を始めている。
丘を二つ越え、三つ越え、見張り台のある広い場所へ来ると、二人はあいついで馬を下りた。広場の脇では、あい変らず人足たちが、息も絶え絶えに働いている。
女は、王敏が現場の責任者らしいことを見て取ると、近寄って叫ぶように訴えた。
「……夫はどこでしょうか。もう
女はひたすら王敏の軍服に取りすがろうとする。王敏は困った顔のまま何も答えない。
その拍子にふと、女の
警護の番人がすかさず刀を抜き、ふりかぶって女の頭上に狙いを定めた。もしや女は刺客であろうか。
「待て……」
王敏が制止する。番人はやむなく、いまいましそうに刀を収め、腹いせに女を蹴り倒す。
「隊長!このまま生かして帰せば、あらぬ噂が広がります。きっとこの女は、ここの現状を
番人は隊長のはからいに不服らしく、語気を強めた。
「……俺にまかせてくれ」
王敏は居ずまいを正すと、倒れた女に近づき、自らもしゃがみ込んだ。
「女、よく聞け。お前がここまで登って来る間に、
王敏の指さす方には、見張り台の高い塔があった。
「……お前の夫は人一倍よく働いてくれた。しかし二た月ほど前、竜神の怒りとも
女は大きく目を見開き、ゆっくりと壁の方へ近づく。
そして、力なく崩れ落ち、しずかに慟哭する。
王敏はうつ向いたまま、顔を上げることが出来ない。
ふたたび番人が王敏に進言する。
「隊長、やはり斬ってしまいましょう。恨みの種を残せば、いつか
王敏はしかし、なぜか拳を握りしめて震えるばかりである。
「―――私には、この女がどうしても斬れないのだ。斬りたくば―――私のいない所でお前が斬れ」
そう言うなり王敏は、自らも地面にうずくまった。
「―――お前は笑うかもしれないが、……何をかくそうこの女は―――この女は私の姉に生き写しなのだ……」
番人は、ようやく隊長の
「……それに、恨みの種はこの国の中で、もうすでに大きくなり過ぎてしまった。おそらく誰にも止められまい……」
見張り台の前でひざまずいていた女は、隊長と番人のやりとりの間もずっと、手を前に組んで何かを祈っていたが、やがて天をふり仰いだかと思うと、あっという間もなく、落ちていた短刀を拾って自分の胸に突き刺した。
「あっ、何を……!」
王敏と番人があわてて駆け寄る。しかし、女は前のめりに倒れ、その勢いで短刀は根元まで深く、女の胸に突き刺さってしまった。
おそらく短刀は、はじめから自決用だったのかもしれない。
そして次の瞬間、それまで快晴だった空に、むくむくと暗雲が立ちこめた。太陽は隠れ、あたりは夕闇の暗さである。その場に居合わせた者たちは全員、あんぐりと口をあけ不吉な空を見上げた。すると、
それから数秒ののち、人々が恐る恐る目を開けると、見張り台の頑丈な壁は、
折から、大粒の雨が王敏の額にぽつりと落ちた。思うまもなく雨は激しくなり、したたかに世界を濡らした。土や石が流れて、山肌にいくつもの筋を作る。土工たちはたまらず頭をかかえ、鬱蒼とした森の中に逃げ込んだ。
積木のように壊れた見張り台の中から、瓦礫や土砂がみるみる流れ出す。そしてそれは、傍らで打ち伏す女の体をしだいに
王敏は、自らの姉によく似たその女を―――その
そのとき、雨に洗い出されたように、一つの白い頭蓋骨が土砂の中から転がり出た。そのたくましい
生前の、その頑健でやさしい表情を彷彿とさせる美しい
なぐさめ合うような格好のまま、少しずつ土砂に埋もれて行く夫と妻の最期を、王敏は雨と涙にまみれながらいつまでも見つめている。
僕とチュン太は、降りやまない雨を避けるため、崖からせり出した大きな岩の下まで飛んだ。その
ふたたび雷鳴が真っ暗な世界に
あらたに産み落とされた稲光りは、収まりきれない
山の稜線にまとわりついていた万里の長城は、何人もの命を吸って巨きくなったもう一頭の竜の如く、稲光りに誘われて
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます