長城編


長城編


「おい!大丈夫か!しっかりしろ!目を開けるんだ!」

 気を失いかけている男を、となりの男が揺さぶっている。

「もう少しで休憩のはずだ。それまで我慢しろ。ここでくたばったら殺されるぞ!」

 あたりをはばかるように、しかしのっぴきならぬ形相で、今にも倒れそうな男の頬をひっぱたく。

 しかし、半死半生の男の目は魂が抜けたようにうつろである。

「―――やめとけ。お前までられるぞ。あいつらにとっちゃ、俺たちなんか牛や馬同然なんだ。他人ひとのことはかまうな」

 土を運びながら別の男が忠告する。どの男も、裸に近い格好で、手足は傷だらけだ。

 そのとき、見張り番らしき役人が彼らのうしろを通りかった。役人は古めかしい意匠いしょう鎧兜よろいかぶとに身を固めている。

「そいつはもう使い物にならんな。ラクにさせてやる」

 彼は持っていた刀で、動けなくなった男を微塵みじん躊躇ためらいもなくバッサリとる。血しぶきが地面をぬらす。

 斬られた男は、うっ、といううめき声とともに、土の上へ崩れ落ちた。

「そいつを突き落せ。役立たずはこうなるところを見せてやるんだ」

 別の役人が二人がかりで、すでに息絶えた男の体をかかえ、深い谷のほうへ放り投げる。

 崖から転がり落ちる死体を横目で追いながら、人足にんそくたちはまた労働にもどる。

 見ると崖の途中には、何人もの遺棄された死体が、古びた人形のように引っかかっている。

「いきなりひどいところへ来たね―――ここはどこなの?」

 僕は岩陰で、朦朧もうろうとした頭を振りながら、近くにいたチュン太にたずねた。

「やっと目を覚ましたね、ぼんちゃん―――空から見れば分かるよ」

 チュン太は待ちかねたように、そそくさと上空へ飛んだ。古代ギリシャに引き続き、今度はどんな場所に連れてこられたのだろう。僕もついて行く。

 上空へ来ると、あたりは見渡すかぎり黒々とした山また山で、白い雲がところどころ地平線にまだらに浮かんでいる。眼下には、連山の尾根を辿るように、細長い壁が延々とつづいている。どこまで行っても終わりが見えない。目を凝らすと、壁の両側には小さな人間たちが、蟻のように群がって作業をしている。その壁は、ちょうど僕らの真下でぷっつりと途切れている。

「……万里の長城だ!しかも、今まさに造ってるところだ……」

 ギラギラとした太陽のもと、編み笠をかぶった男たちが根気よく、高くて堅固な壁を築いていた。

「そう。―――あの、地球上で最も大きな建造物と言われている城壁だよ。当り前だけど、長城は宇宙人が作ったのでも、自然に出来たのでもなく、こうして少しずつ、人間が作ったものなんだ。気の遠くなるような話だね」

 僕はあらためて、その山肌にへばりつく細長い蛇のような城壁を見渡した。

 すると、ここは古代中国―――たしか「しん」の時代―――ということか。

 ふたたび地上へ降りて作業を見ていると、壁の両側に板を組み立てる者、土砂を運び入れる者、盛られた土を突き固める者、岩石を積み重ねる者、水を流し込む者―――さまざまな工程があるようだ。もちろん、すべて手作業である。炎天下で行われる労働は、およそ並大抵ではない。みんな滝のような汗を流しながら、苦しそうに働いている。ときどき、急にバタリとその場に倒れる者もある。と、すぐに例の役人が近づいてきて、棒で叩いて生存を確認し、動かなければ、そのまま崖から突き落される。まさに使い捨ての命だ。

「ほんとうに虫ケラ以下の扱いだね。労働者の人格なんてあったもんじゃない」

「この時代になんて言葉はないよ。という価値観さえない。しかも彼らの上に立つのが、あの悪名高き暴君だからね」

「万里の長城は―――たしか『秦の始皇帝』が作ったんだよね。中国を初めて統一した皇帝―――もっともその国は、長くはつづかなかったけれど……」

 僕は歴史で習った知識をすばやくぐり寄せた。しかし、目の前の出来事は決して架空の出来事ではなく、まぎれもない「現実」であった。

 男たちは息も絶え絶えに、死にもの狂いで働いている。いや、働かなければ容赦なく殺されるので、必死にならざるを得ないのだ。僕はそのすさまじい光景にショックを受けるとともに、自分はこれまでの人生の中で、何かを死ぬ気でやったためしがあっただろうか、と自問した。

 ところがチュン太は意外なほど平気な顔で、だれに臆する様子もなく、大胆にもこう言い放った。

「……外敵の侵入を防ぐために延々と壁を作るなんてのは、どちらかというと子供の発想だね。単純というか、馬鹿々々しいというか……」

 ムチを持った番人が僕らのうしろを通る。僕はチュン太の物怖ものおじしない発言に肝を冷やす。

「シッ―――チュン太。そんなに大きな声で喋ったら、役人に聞こえちゃうよ。鳥を殺すのなんて朝飯前だ……」

「大丈夫だよ。ぼくらの喋る声は、人間にはピーチクとか、パーチクとしか聞こえないんだから」

 チュン太は体は小さいくせに、肝っ玉は僕より一回り大きいようだ。一度死んだ者は怖いもの知らず、ということか。僕の方は、まだ自分が鳥だということに完全には慣れていないせいか、おっかなビックリ羽をばたつかせた。 

 そんな中、土工たちが役人の目を盗んでヒソヒソと話をしている。

「おめえはどんな罪でしょっぴかれた?」

 編み笠をかぶった別の男が答える。

「年貢が払えなかった。凶作なのに、取り立ては同じときたもんだ。ひでえ話だ……」男は土くれを放り投げる。「お前はなんの罪だ?」            

「なあに、主人あるじの奥さんと、ちょっと立ち話をしてただけさ。指一本触れちゃいねえよ。それを誰かが言いつけやがった。もっとも役人にとっちゃ、理由なんかどうでもいいんだ。頭かずさえそろえば、なんだってしょっぴいてくるさ」

「泣く子もだまる始皇帝さまの命令だ。歯向かったら命はねえ……」

 そんな調子のところへ、よく見ると、泥まみれで働く男たちの中に、ひとりだけ呑気のんきそうにあくびをしながら、仕事の手を休めている者がいる。

男はふところにかくし持った小壜を取り出し、みんなに見えないように、その液体をグビリグビリと飲む。すこし赤い顔をしているところを見ると、壜の中身は酒であろうか。そして形ばかり、片手で土をたたくフリをしている。

「変な人がいるよ」

 僕がチュン太にささやく。

 言いながら僕は、実はその顔にどこか見覚えがあったのだが、とっさに誰だかは分からなかった。しかし、ときどき下唇をつき出すその仕草に、ふと思い当たる節があった。僕の家によく配達にくる、酒屋のジュンペイさんである。

 ジュンペイさんは、やがて、さっきの男たちの会話に口をはさむ。

「へん!お前たちはまだマシな方だぞ。オレなんか、酔っぱらって立ち小便しただけで捕まった―――この世に小便しない奴がどこにいる!たまたまそこに便器があったか、なかったかだけの話だ……ムニャムニャ……」

 最後の方は呂律ろれつが回っていない。

 酔っ払いにかかわりたくなかったのか、二人の男たちは互いに押し黙った。

 さいわい番人はどこかへ行っていて、このやりとりには気づいていない。

 どうやらここにいる者は皆、何かの罪を着せられて、強引に連れて来られた人々のようである。

 僕はひとつ勘違いをしていた。 

 万里の長城は、決して公明正大な国家的事業などではなく、奴隷をこき使ってムリヤリ行われた悪業の賜物たまものであるらしい。

 かように奴隷たちは、登って来るだけでも大変な、こんな山深い場所に、重たい材料を一つひとつ運び上げ、自分の背丈よりも高い頑丈な壁を作ろうとしている。しかもそれが何キロも、何十キロもつづくのである。まさに想像を絶する作業だ。

 そんな過酷な労働を、命令する方もする方だが、実際やってのける「人間」というものもつくづくたくましいものだと、僕は妙に感じ入った。いや、だからこそ出来たのかもしれない。もし自由意志であれば、かりに構想を思いついたとしても、こんな計画をよもや実行には移さないであろう。そしてそれは、ある意味、新宿のビル群を建てるよりも、莫大な手間と時間と費用を要するであろう。

 目の前にそびえ立つ圧倒的な建造物を眺めながら、僕はさらに考えを進めた。

 ということは、大きな仕事をするためには、自主性にまかせるより、ある程度強制された方がうまくいく、ということだろうか―――くやしいけれど。

 やがて太陽は中天にのぼり、ようやく昼飯の時間が来た。土工たちにそれぞれ食料が与えられる。食料といっても、乾燥させたっ葉や塩づけの肉、ったトウキビなど、まるでニワトリのエサのようである。

 みんなは一斉にすきくわを投げ出し、日影に座り込む。しかし誰一人として、笑顔を浮かべる者はいない。中には配られた芋を手にしたまま、いつか息絶えている者もある。ほかの男たちは、そんな光景は見慣れているのか、死人にかまわず平気で飯を食う。

 そこへ、馬に乗った現場監督のような男が現れた。勲章の付いた軍服を身に付け、誇らしげに胸を反らしている。分隊長といったところか。

 僕は、その男にも見覚えがあった。小太りで、目が丸くて、眉の下がったその顔は、まさしくバイト先の店長だ。図体のわりにカン高い声もそのままである。

「―――お前たち、よく聞け!作業は非常に遅れている。予定より五日分の遅れだ。このままだと、お前たち全員の首がとぶぞ。始皇帝さまの治めるわが秦国は、天下に並びなき大帝国である。お前たちの代りはいくらでもあるのだ。命が惜しければ遅れを取り戻せ。午後からは、あの頂きのところまで工事を進めるぞ。分かったな!」 

 そんな一方的な言い方も、これまた店長そっくりだ。ねぎらいの一言もない。

 隊長は馬から下りようともせず、そのまま立ち去りかけたが、その時、なんとも意外なところから声が掛かった。酒屋のジュンペイさんが呼び止めたのだ。

「ちょっと、カントク―――カントクさん、これ……」

 番人の二人が、刀に手をかける。

「この方は監督ではない。わが隊の隊長だ!」

 ジュンペイさんは悪びれもせず、手まねきをしている。

 周りの人々は冷や冷やしながらこの様子を見ている。奴隷の分際ぶんざいで管理者に声を掛けることさえ無謀なのに、あろうことか、手まねきなどしているのだ。あいつ、殺されるぞ……誰もがそう思った。

 ところが、どういうわけか隊長は、いったん腰の刀を抜きかけたものの、酔っ払いの顔を見るや、何を思ったか、すぐに刀をおさめ、彼に近づいて小声で何かを告げた。そして馬を下りると、二人は連れ立って、みんなから離れた壁の裏側へ歩いて行った。

「どうしたんだろう。行ってみよう……」

 僕とチュン太は岩を飛びこえ、彼らのちょうど真上の壁に止まって、聞き耳をたてた。ここからは酔っ払いと隊長の姿がまる見えである。酔っ払いが隊長の顔を下からのぞき込む。

「隊長さんだっけ。あんた、ひょっとして、王敏ワンミンじゃないか?」

「……」

「やっぱりそうだ。その顔は王敏だ。ああ、なつかしい!―――?」

 隊長は無言のままである。苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。

「オレんこつば忘れたとか。ほら、こん顔!」

 酔っ払いは両手を自分の頭とアゴにあて、猿のような顔をしてみせる。隊長は木に馬をつなぎながら、ちらとその顔を見る。

「分かってるよ。李平リーピン。久しぶりだな……」

 会いたくないヤツに会った、と言わんばかりの渋面である。

「お前こそ、こんなところで何をしている。あい変わらずブラブラしているのか。おや、なんだか酒くさいぞ。まさか、そのふところのものは……この現場の責任者は俺だ。ふざけたマネをすると……」

「このアホづらはやっぱり王敏ばい。ほら、ほら」

 酔っ払いはお構いなく、隊長の顔をタテに引っぱったり、横に引っぱったりしている。

「どうやら二人は友だちのようだね……」

 僕はチュン太の顔を見る。 

 李平リーピンと呼ばれた酔っぱらい―――つまりジュンペイさんは、ひとしきり再会を喜んだあと、かくし持った酒を取り出し、王敏ワンミンという隊長―――つまり店長にすすめる。ややこしいが、そういうことだ。

「そら。一杯やらんか。こげんかとこで、お前と飲む日の来るとは思わんやった」

「と、とんでもない。俺はいらん。職務中だ―――」

 王敏はあわてて顔をそむける。何だかやりづらそうである。 

 上機嫌な李平は、ふと木のかげに、上官のために用意された仮設の食卓テーブルを見つけ、並べられた料理を勝手に食べはじめる。

「たまにはハメばはずさんかやん―――まあよか。ねえちゃんは元気にしとってか?いつも後ろばついて回りよったろが」

「―――元気だ……。嫁に行ったよ」

「あの鼻たれのションベンたれのお前が、ずいぶん立派になったのう。勲章ばジャラジャラつけて―――そしたら、家は御両親だけか?」

親父おやじは死んだ。おふくろは病気で寝たきりだ。俺の嫁が面倒みよる」

「お前、―――嫁ゴばもろたとか?―――ようお前んごたる奴に来る嫁ゴのおったな。ワハハ」

「……秋には子供も産まれる予定だ。だから、俺がガンバらんと

 王敏もつられて、しだいにお国言葉になる。

「始皇帝んとこで働きよるとか。あんひたぁ、どげな人か」

「いや、実際にうたことはない。俺たちが会わるるような人やなかぜ」

「あん人が天下ば取って、初めんうちはたしかによかったばい。道は広うなったし、咸陽かんようの都もにぎおうた。―――ばってん、ちった強引すぎらしゃったごたるぜ。気に入らん奴がおると、すぅぐ首ばねらすやろが」

気性きしょうの荒か人のけん―――ニラまれたらおしまいばい。そん代わり、気に入られたら出世も早か―――」

「お前もそん片棒ばかつぎよるとか?出世のために―――」

 李平リーピンは旧友を睨む。

 王敏ワンミンは少しひるんだが、負けずに言い返す。

、ち言うてくれ。天下ば治むるには温情主義じゃムツカシカぜ。切り捨てるところは切り捨てんといかん。―――自分のためだけやなか。結局それがみんなのためにもなる。ばするためには、それなりの犠牲も必要ばい。―――李平、お前こそ酒ばっかり飲みよると、ろくな人間にならんぜ」

「……いつからそげんか奴になったかね……姉ちゃんのかげに隠れとったときのほうが、可愛げのあった……」

 李平は憎らしげに、王敏の軍服を上から下まで眺めまわす。

 王敏はまた襟を正し、

「人間は成長するとばい。いつまでも餓鬼大将にビビッとる俺やなかぜ」

と胸の勲章をちらつかせる、が、その表情はまるで、見栄っ張りの子供のようである。

「お前はいったい何がしたいとか。お前の言うちゃ、どけな暮らしか」

 李平は上目遣いに王敏を問いただす。

「がんばって働いて出世する」

「そいで」

「人の上に立って、人を働かせる」

「そいで」

「金も時間も、余裕ができる」

「そいで」

「ま、昼寝でもしながら、左うちわで酒を飲む」

 王敏は照れたように、しかし誇らしげに高笑いをした。

 李平はあけすけな軽蔑のまなざしを旧友に向け、つき放すように言った。

「ほう、そうか―――ばってん、その酒ばして、いま飲みよるのがこのオレばい」

 そして下唇をつき出すと、これ見よがしにグビリグビリと酒を飲んだ。

「……人を殺す必要がどこにあるとか?そげなこつせんでも、充分楽しゅう暮らせるとぞ」

 李平はさらに何かを思い出したように言う。

「子供ん時のこつば覚えとるか?―――いつかお前が、しゃがんで何かをじっと見よると思たら、ありの行列やった……」

「……知らん」王敏はそっぽを向く。

「そん蟻たちが、おおっか巣を作りよるのを、お前は夢中で眺めよった。日の暮るるまで。そげんかお前のうしろ姿ば見よったら、オレは急にお前ばイジメとうなって、水ばんできて、蟻の巣の上からジャバジャバ流した」

「ひどか奴やね」

「お前は案の定、メソメソ泣き出して、姉ちゃんのとこへ言いつけに行ったばい。そいで、姉ちゃんが飛んで来て、オレはエライガラれたぜ。エスかった……」

「そげんこつもあったかね。お前はそん時と、いっちょん変わらんな」

「お前はすっかり変わってしもたな……」

 李平は幼なじみを再びギロリと睨む。今度は本当に恐そうな目だ。

「……だいだい何のため無理して国ば大きゅうする必要があるとか。楽しゅう暮らすのが目的やったら、今のままでも充分やろが。それに、始皇帝が警戒しとる匈奴きょうどちゅうヤツも、じっさいは襲って来んちゅう噂ぞ……」

 王敏はしばらく李平の言葉を聞いていたが、ふと真顔になると、ゆっくりとした低い声で言った。

「……お前も知っとるように、俺のウチは昔から、目も当てられんくらい貧乏やった。その貧乏から抜け出すために、俺は一生懸命働いた。そして何とかここまで来た。今では千人の分隊を任されとる。この地区の責任者たい。―――それのどこが悪いとや」 

 ひらき直る王敏に、李平の方も真剣なまなざしで答える。

「お前に悪気わるぎがないのはよう分かる。ばってんオレにはお前が、どうも得体の知れんにあやつられよるように見ゆっとたい」

「始皇帝さまのことか」

「いいや―――始皇帝本人も、その怪物にあやつられとる。そいつは大飯食いで、お前たちみんなを食いものにして、無限に大きゅうなろうちたくらんどる。その正体が何かは、よう分からんが……」

 僕らは二人の会話をよそに、ふと空腹であることを思い出し、何か食べものがないか探した。

 見るとチュン太は、その辺の木の枝をくちばしで突っつき、中から器用に小さな虫をほじくり出して、それをうまそうに食べている。僕もマネをして何とか虫を捕まえ、すこし躊躇ためらったすえ、思い切って食べてみた。雀である今の僕にとって、その虫はまるでステーキのように美味であった。

 李平はいつか酔いが覚めたらしい。

「……始皇帝はたしかに、大した人物ばい。七つに分かれとった国を一つにまとめて、だれも成し遂げられんやった統一国家ば作った。そばってん、一人の人間が神様のマネをして、この世を支配しようち思うのがそもそもの間違いぜ。どっかで必ず行き詰まりが来る。初めのうちは、橋を作ったり、法を作ったり、道を整備したり、よかこつもいっぱいせらしゃった。けど、その野望を貫くために、どんだけ多くの犠牲ばはろたか、お前の方がよう知っとるやろが」

「それは世の中をようするために、通らんといかんやった道ばい。なんばするにしても、犠牲なしには出けん。お前んごつ、酒ばっかり飲んで、遊んで暮らしよる奴が何ば言いよるとか。負け惜しみにしか聞こえんぞ。努力した人間が勝ち残って、ぐうたらした人間が負け犬になる。あたりまえの道理ばい。こんど俺は、さらに三つの部隊を任されることになった。ぜ」

 王敏は役人の顔に戻って、李平を見下ろした。

「ふーん。役職についたら、なかなか家にも帰られんやろね。家で待っとるお前のかあちゃんはどげん思うかね。そげんか暮らしを望んどるやろか。お前がエライ将軍になろうが、しがない門番やろうが、元気に毎日帰って来る方が、うれしかとやなかろかね。ちったぁ、その辺のこつば考えてやらんかね」

「せっかくイジメられっ子を抜け出して、貧乏を抜け出して、ここまで這い上がって来たとぞ。今さらどげんせろち言うとか!それに、正直いうと、俺が任務を下りるときは俺が時たい。そげんか仕組みになっとったい。ほかに選ぶ道はなか!」

「……ま、その小さい脳ミソでせいぜい考えて、!人間ば大事にせんこの国に未来はなか!」

「なんちや!」王敏は刀を抜きかける。

「オレば斬ったところで何が変わるか?お前の胸の勲章がひとつ増えるだけやろ。秦がうなったら、その勲章もただのガラクタばい」

「……」

「だいたい始皇帝ちゅう人は、お前が思いようごたる人やなかぜ。どげんか理由があっても、国のために人を殺すたぁ、本末転倒ばい。国があるとばい。知っとるか?あん人ぁ家来けらいだけやなし、自分の親兄弟でさえ平気で首ば刎ねらすげなやんか。畜生でもそげなこつせん。動物以下ばい……」

 王敏は刀を握りしめたが、少し思い当たる節があるのか、そのまま動きを止めた。

「……誰が言うた」

「みんな知っとる。知らんたぁお前だけたい。それに、このごろはちっと頭んおかしゅうなって、『不老不死の薬』ば探しよってげな。そげなもん、この世にあると思うか?」

「……」

「人のことは平気で殺すくせに、自分が死ぬたぁエスかげな。子供より勝手な人ばい。子供の下で働くお前が可哀かわいそか」

「……」

「それだけやなし、あんまりいっぱい人を殺さしゃったけん、その怨霊おんりょうが恐ろしゅうなって、自分のお墓に兵隊の人形ば並べよってげな。それも一人二人やなし、何百も何千もちゅう話ばい。兵隊だけやなし、山とか河まで作って、死んだあともそこで王様ば続くうち思とらっしゃるげな。正気の沙汰やなかぜ」

「……なんか聞いたことがあるような気がする。たしか俺の姉ちゃんの亭主も、地下で働かされて毒にあたって死んだっちゅう話やった。姉ちゃんが泣きよった……」

「……始皇帝をいさめる学者もおるにはおったが、それら全員、あなに埋められて殺されたげな。こつば言おうとすると口ば封じらるる。とんでもなか世の中たい―――ここだけの話、民衆の中には団結して蜂起する動きもあるげなぞ。お前もはよう目を覚ませ。始皇帝にとっちゃ、お前んごたる奴ぁ、捨て駒ばい。だいいち始皇帝本人がもう自分を見失みうしのうとらっしゃる。何かにち言うたつは、そげんか意味ぜ。みんな怪物にあやつられとる。怪物ばかり大きゅうなって、お前どんなみーんな、それにしよるとぜ」

 そこへ、長城建設の見張り番がふいに駆けつけて来た。なんでも、人足にんそくの妻と称する者が訪ねてきて、夫に会わせて欲しいと懇願しているらしい。

 王敏は上官の顔になった。

「夫の名は何という?」

杞梁きりょうとかいう男だそうです」

「杞梁なら、もう死んだぞ―――」

 王敏はその名前に心あたりがあるのか、腕組みをしている。

「女に言うべきでしょうか」

 番人と隊長は顔を見合わせる。

「……とにかく、その女に会おう」

 王敏は身支度を整える。

「李平。すまんが、仕事に戻ってくれ。そろそろ休憩も終わりだ」

 李平は空になった酒壜を谷底へ放り投げる。

 王敏と見張り番はそれぞれの馬に乗り、長城の壁に沿ってどこかへ向かった。僕らもそのあとを追う。ふり返ると李平は、木の根元で昼寝を始めている。

 丘を二つ越え、三つ越え、見張り台のある広い場所へ来ると、二人はあいついで馬を下りた。広場の脇では、あい変らず人足たちが、息も絶え絶えに働いている。

 やりを持った番人の前に、粗末な身なりの女がひざまずき、こうべを垂れている。

 かぶとを脱ぎながら王敏は、しばらく黙ってその女を見つめていたが、その目はなぜか驚きに見開かれている。まるで、知り合いに会ったような顔である。

 女は、王敏が現場の責任者らしいことを見て取ると、近寄って叫ぶように訴えた。

「……夫はどこでしょうか。もう三月みつきも音沙汰がなく、心配でたずねて参りました。会わせて下さい。もし会えないのであれば、せめてこの靴だけでも届けて頂きとうございます。夫の靴は、もうボロボロになっている頃でございます。お役人さま、どうかわたくしの願いをお聞き届け下さいませ。お役人さま!」

 女はひたすら王敏の軍服に取りすがろうとする。王敏は困った顔のまま何も答えない。

 その拍子にふと、女のふところから短刀が地面へ転がり落ちた。

 警護の番人がすかさず刀を抜き、ふりかぶって女の頭上に狙いを定めた。もしや女は刺客であろうか。

「待て……」

 王敏が制止する。番人はやむなく、いまいましそうに刀を収め、腹いせに女を蹴り倒す。

「隊長!このまま生かして帰せば、あらぬ噂が広がります。きっとこの女は、ここの現状をしざまに言いふらすでしょう。われわれの任務の進捗しんちょくにも差し障りがあります。殺してしまった方が……」

 番人は隊長のはからいに不服らしく、語気を強めた。

「……俺にまかせてくれ」

 王敏は居ずまいを正すと、倒れた女に近づき、自らもしゃがみ込んだ。

「女、よく聞け。お前がここまで登って来る間に、累々るいるいたる死人の山を見たであろう。ここはお前のような者が来る場所ではない。すでに察しがつくと思うが、お前の夫は残念ながら、もうこの世にはいない。ただし、野垂れ死んだのではなく、立派に役目を果たして死んだのだ。見よ。夫はあの中に埋まっている―――」

 王敏の指さす方には、見張り台の高い塔があった。

「……お前の夫は人一倍よく働いてくれた。しかし二た月ほど前、竜神の怒りともおぼしき悪天候がつづいた折、人柱ひとばしらを立てる必要があって、まずは一番元気な若者をということで、申し訳ないがその役を引き受けてもらった。だからいま、あの壁の中に安らかに眠っている。―――許せ。女よ」

 女は大きく目を見開き、ゆっくりと壁の方へ近づく。

 そして、力なく崩れ落ち、しずかに慟哭する。

 王敏はうつ向いたまま、顔を上げることが出来ない。

 ふたたび番人が王敏に進言する。

「隊長、やはり斬ってしまいましょう。恨みの種を残せば、いつかわざわいが返ってきます。いらぬ情けは命取りです」

 王敏はしかし、なぜか拳を握りしめて震えるばかりである。

「―――私には、この女がどうしても斬れないのだ。斬りたくば―――私のいない所でお前が斬れ」

 そう言うなり王敏は、自らも地面にうずくまった。

「―――お前は笑うかもしれないが、……何をかくそうこの女は―――この女はに生き写しなのだ……」

 番人は、ようやく隊長の逡巡しゅんじゅんの理由に心付き、あわれむような視線を王敏に向ける。王敏はあふれる涙をあわてて隠す。

「……それに、恨みの種はこの国の中で、もうすでに大きくなり過ぎてしまった。おそらく誰にも止められまい……」

 見張り台の前でひざまずいていた女は、隊長と番人のやりとりの間もずっと、手を前に組んで何かを祈っていたが、やがて天をふり仰いだかと思うと、あっという間もなく、落ちていた短刀を拾って自分の胸に突き刺した。

「あっ、何を……!」

 王敏と番人があわてて駆け寄る。しかし、女は前のめりに倒れ、その勢いで短刀は根元まで深く、女の胸に突き刺さってしまった。

 おそらく短刀は、はじめから自決用だったのかもしれない。

 そして次の瞬間、それまで快晴だった空に、むくむくと暗雲が立ちこめた。太陽は隠れ、あたりは夕闇の暗さである。その場に居合わせた者たちは全員、あんぐりと口をあけ不吉な空を見上げた。すると、魍魎もうりょうの如く形を変える雲の間に、とつぜん鋭い稲妻が光った。稲妻は地をつんくような轟音ごうおんとともに、見張り台の上に一直線に落ちた。閃光のほとばしる中、すべてのものが白く透けて見えた。

 それから数秒ののち、人々が恐る恐る目を開けると、見張り台の頑丈な壁は、雪崩なだれのように崩れ落ちていた。

 折から、大粒の雨が王敏の額にぽつりと落ちた。思うまもなく雨は激しくなり、したたかに世界を濡らした。土や石が流れて、山肌にいくつもの筋を作る。土工たちはたまらず頭をかかえ、鬱蒼とした森の中に逃げ込んだ。

 積木のように壊れた見張り台の中から、瓦礫や土砂がみるみる流れ出す。そしてそれは、傍らで打ち伏す女の体をしだいにうずめて行く。女はすでに息絶えて青白かった。

 王敏は、自らの姉によく似たその女を―――その死顔しにがおがだんだん濁流に呑まれて行くのを―――なすすべもなく見守っていた。

 そのとき、雨に洗い出されたように、一つの白い頭蓋骨が土砂の中から転がり出た。そのたくましいあごの形は、おそらく男のものであろう。いや、きっとそれは彼女の夫―――杞梁のものに違いない。

 生前の、その頑健でやさしい表情を彷彿とさせる美しい髑髏しゃれこうべは、ほとばしる濁流に乗って転々とし、女の顔の近くまで来ると、額と額を合わせるようにコツリと止まった。女の腕には愛する夫のために用意された新しい靴がしっかりと抱かれている。

 なぐさめ合うような格好のまま、少しずつ土砂に埋もれて行く夫と妻の最期を、王敏は雨と涙にまみれながらいつまでも見つめている。

 僕とチュン太は、降りやまない雨を避けるため、崖からせり出した大きな岩の下まで飛んだ。そのくぼみからは、延々と蛇のようにつづく長城の姿をはるかに見渡すことが出来た。豪雨にさらされて逃げ惑う人々の様子は、まるで巣に水をかけられた蟻のようである。

 ふたたび雷鳴が真っ暗な世界にとどろいた。

 あらたに産み落とされた稲光りは、収まりきれない憤怒ふんぬの形相でしばらく空に張りついていたが、やがてするすると動き出し、小さな竜の姿に変わった。そして、仲間と戯れるように長城の上を飛び回っている。

 山の稜線にまとわりついていた万里の長城は、何人もの命を吸って巨きくなったもう一頭の竜の如く、稲光りに誘われて忽然こつぜんと頭をもたげ、流れるようななめらかさで天空に飛翔した。

 

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