七つの夢 神話編


  神話編


 目が覚めると、僕は地面すれすれの場所で、行き交う人々の足元を眺めていた。 

 何本もの足が、あわただしく往来を行き来する。

 人々はそれぞれの足に、草鞋わらじと靴の中間のような、なめした皮の履き物を穿いている。中には裸足はだしの者もいる。

―――ここはどこだ。

 視線を上に移すと、人々は体に白い布を巻き、それを数ヶ所で留めただけの服装で、男たちは一様に右肩を露出している。水瓶みずがめを頭にのせた女もいる。 

 真上からの太陽が、沿道に立ち並ぶ建物の白壁や、踏み固められた道の一つ一つの小石にまで濃い影を落としている。 

 どうやらここは日本ではないらしい。

 ゴトゴトゴト……

 釈然としない僕の頭上に、とつぜん大きな黒い影が覆いかぶさった。荷車にぐるまの車輪のようだ。

「ぼんちゃん、あぶない!」

 何者かが僕を突き飛ばすように追い立てる。

 僕は思わず、うしろへ三メートルばかりジャンプする。一瞬、宙を羽ばたいたような気がした。

 石材を積んだ荷車が勢いよく通り過ぎると、あとに残る砂けむりの中に、一羽の雀がじっとこちらを向いて立っていた。 

 僕と同じくらいの大きさの雀だ。しかも、その顔にどこか見覚えがある。右目の横の、人間でいうなら眉毛にあたる部分に、平安時代の貴族のような、丸くて白い斑点がある。

「……チュン太?」 

 僕は久しぶりに会ったにも関わらず、その紛れもない懐かしい顔をすぐに認め、思わず名前を叫んでいた。 

「ぼんちゃん!」

 チュン太のほうも、まるで僕がここに来るのが分かっていたかのように、元気に羽ばたいてそう叫んだ。

「チュン太、無事だったのかい?」

 大きく成長した雀は、僕がむかし、柿の木の下で拾った雀である。しかしあの頃の、赤はだかの弱々しいヒナではない。しかも人間の言葉を喋っている。待てよ、よく見るとだ。

「もうとっくに死んだのかと思ったよ」

 僕は、自分が雀であることはさておき、チュン太の立派になった体をしみじみと眺めまわした。

「ボクの肉体はね―――だけど、ぼんちゃんがボクを忘れないかぎり、ボクは死なないんだ。心の中で生きている。それはつまり、ボクが生きているのとおんなじだ。分かる?」 

 分かったような、分からないような、そんなチュン太の説明もそこそこに、僕はうれしさのあまり、地面をピョンピョン跳ねて行って彼を抱きしめた。

「……それに、ボクは歴史上のどの時代へも行くことが出来る。時間と空間は生きてる者の制約だからね。ボクたちには関係ない。そしてぼんちゃんも、ボクと一緒なら、どこへでも行けるよ……」

 チュン太は僕に頬ずりをされながら、さらにそんな説明を加えた。

「ここはどこなの?」

 僕はようやくチュン太を解放し、さっきからの疑問を投げてみた。

「そうだね……実際見た方が早い。ちょっと行ってみる?」 

 チュン太は答えるかわりに、さっさと空を飛んで行く。

 僕もおそるおそる羽ばたいてみた。やっぱり鳥だ。みるみる体が宙に浮く。木から木へ、屋根から屋根へ、僕の体は自由自在に空を飛んでいる!

 僕は欣喜雀躍こおどりした。

「待って!」

 小さくなって行くチュン太を見失わないよう、あわてて羽を動かし、急いであとを追う。なれない羽の動きに、しばらくはふらついていたが、そのうちに飛ぶコツを覚えた。屋根に石をのせたあばら家の群れがしだいに遠ざかる。

 中天の太陽を浴びながら、チュン太と僕は抜けるような青空を飛んだ。うしろをふり返ると、エメラルドの海が鏡のように光っている。

 僕らはほどなくして、町の中心に位置するらしい、樹木の茂った小高い丘に辿りついた。 

 丘の上には、まぶしいほど白く巨大な宮殿が、青空に照り映えるようにそびえ立っている。

 等間隔に並んだ太い柱、装飾の施された大理石の屋根、遠近法を思わせる均整のとれた四角い建造物は、かつて写真で見たことのある「パルテノン神殿」であった。しかもそれは廃墟ではなく、中で本物の人間が立ち働く現役の建物であった。周りにはオリーブの木が青々と茂っている。

「数年前に完成したばかりだ。まだ新しい石の匂いがするよ」 

 チュン太に導かれるままに、僕はおずおずとあとに従った。てことは、ひょっとして僕らがいるのは、今から二千年以上前の、西洋文明発祥の地といわれる、あの古代ギリシャ……?

 僕らは宮殿の柱の陰に舞い下りて、中の様子を覗いた。

 宮殿の広場では、何やら祭典が行われているらしい。

 丘のふもとから延々とつづく行列―――神官らしき人たちを先頭に、民族衣装を着けた若い男女、いかめしい正装の長老たち、かご水瓶みずがめ、皿や壺などを捧げ持つ人々、山羊やぎや羊などの家畜をはさんで、鼓笛隊に導かれた華やかな騎兵団があとにつづく―――その長い長い行列が神殿の前に勢ぞろいすると、やがておごそかな儀式がはじまった。

 さきほどの神官がうやうやしく祭壇に祈りを捧げている間、中央の舞台には一頭の雄牛が連れて来られた。つづいて不気味に光る大鉈おおなたが運び込まれる。やいばに反射した光が鋭く目を射る。緊張した空気が辺りをつつんだ。舞台を取り囲む人々は固唾かたずを呑む。

 そして、上半身裸の、筋骨隆々たる力士に大鉈が渡されると、力士はそれを大きく振りかぶり、えられた雄牛の首めがけて、掛け声とともに一気に振り下ろす。

 その、あまりに鮮やかな一太刀ひとたちに、雄牛ははじめ何が起きたか分からず、首のない胴体のまましばらく立ちつづけていたが、やがて事情を悟ったように、ドサリという音を立てて地面に倒れた。

 見物客から大きな歓声が上がる。

 僕は息をのんだ。チュン太も真剣に見ている。

 力士は得意気にゆっくりと、血のついた鉈を拭った。 

 血しぶきは客席にまで飛び散り、中には顔を真っ赤に染めながら、まるで無上の喜びに打ち震えるように、狂気の目を見開いている者もある。

 それからまた、こんどは羊が連れて来られた。

 力士も二人目に交代する。 

 運命を察した羊は必死に逃げ惑うが、やがて警固の者に捕り押さえられ、新たな一太刀のもと、哀れにも真っ二つとなった。

 生贄いけにえの動物たちはつぎつぎと神聖な舞台に上げられ、そしてただの肉の塊となった。

 民衆は戦場のような残酷さに目をそむけながらも、日常にはない鮮烈な興奮に、魂の浄化カタルシスを感じているようだ。

 犠牲となった動物の肉は奥の調理場へ運ばれ、長いまな板の上で細かく刻まれる。

 僕とチュン太は胸の鼓動を抑えつつ、ふと思い立って、神殿の上空を一周してみた。太陽に照らされた唯一無二の建築を中心に、街や海がゆっくりと回転する。丘に集まった人々の熱狂が空まで伝わって来た。

 ふたたび客席に降りてみると、せり上がった舞台では、ひときわ美しい若者たちによる華麗なダンスが行われていた。つづいて勇壮な武芸、老練の俳優たちによるシリアスな演劇などが、手を変え品を変え演目に供される。さきほどの動物の肉は、料理されて観客たちにふるまわれた。

 やがて大編成の器楽隊と合唱団による演奏で舞台が最高潮に達すると、しめくくりにもう一度おごそかに、神官の祈りが捧げられて式典は終了した。

 人々はぞろぞろと神殿をあとにし、満ち足りた顔で丘を下りて行く。

 ぽかんと口を開けて見ていた僕は、ようやく自分のいる場所を確信した。

 僕らはやはり「古代ギリシャ」に来ているらしい。

「古代ギリシャ」と言えばたしか紀元前の時代なので、つまりキリストが生まれるよりももっと前の話だ。いずれにしろ僕の知識と想像をはるかに超えている。しかしいったいなぜ……

「なんで僕らはここにいるの?」

「それはボクにも分からないよ。ボクは案内するだけだから」

 チュン太は、とくに自分から僕に何かを見せたい訳ではなく、ただ与えられた役割を忠実に果たしている、といった顔でそう答えた。

 僕は、あらためて自分の茶色い羽を見下ろしながら、なるようになれ、とようやく腹をえた。

「せっかくだから、もうすこし街の方を見てみようか……」 

 チュン太に促されて、丘をぞろぞろと下りる人々の頭ごしに、僕らはすべるように空を飛んだ。風景はしだいに聖から俗の方へと相貌を変える。

 僕はだんだん飛ぶことにも慣れて、ときどきチュン太を追い越し、先を飛んだりした。自分の羽で空を飛ぶのが、こんなに気持ちいいとは思わなかった。

 やがて買い物客でにぎわう界隈に近づくと、なにやら食材や日用品をあきなう屋台が、小さな広場を中心に軒を並べていた。

「採れたてのトマトがひと皿一ボロスだよ。安いよ、安いよ……」

 店先でのそんなやり取りは、現代と少しも変わるところがない。

 白い布地を身にまとった老若男女が、いろんな店を思い思いに覗いている。店頭には色とりどりの果物、野菜、肉や魚、香辛料や酒などが並んでいる。珍しい形の食器や、さまざまな服地を商う店もある。金貸しのような場所まである。舶来品と思しき物品が多いのは、ここが港町だからであろうか。

 広場に近い路地のまん中で、魚屋の主人が客に声を掛けている。

「今日はでっかいたいが入ったよ。いい形だろう。たまには気前よく、とうちゃんに食わせてやれ。いつもっぱばかりじゃ、くたばっちまうぞ……」

 連れ立って買い物に来た女たちがどっと笑う。みんな一様に、大きな鯛を取り囲んで珍しそうに眺めている。しかし、一くさり店主の口上を聞いたあと、彼女たちはそろって一山いくらのいわしを買う。 

「ちくしょう、みんな渋チンだね!」

 店主はそれでも笑顔を絶やさない。

「ありがとね!油で揚げても、塩漬けにしてもうまいよ。やせっぽちの鰯みてえな父ちゃんに、よろしく言ってくれ!」

 そんな問答を聞きながら、チュン太と僕はまたしばらく市場いちばの様子を見て回った。

 丘の上にパルテノン神殿を頂くからには、ここはやはりギリシャの首都「アテネ」にちがいない。

「当時は『アテナイ』と呼ばれてたんだよ」

 チュン太が僕の心を読んだようにそう答えた。

 異国情緒あふれる街並みと、そこに住む人々の生活を垣間見るのは、やはり楽しいことである―――と僕は旅行者の気分で、そんなのんきな感想を述べた。

「うん―――だけどね、ひと頃のアテナイに比べると、これでもさびれたほうなんだ。いわばの風景だね。ほら、おばさんたちの話を聞いてごらんよ……」

 買い物をえた女たちが三々五々帰途についている。町の中心を離れると、とたんに周囲は、ボロ家の立ち並ぶさびれた風景に様変わりする。漆喰しっくいのはげた家々にはドアがなかったり、窓が壊れていたり、決して裕福とはいえない暮しぶりが伺われる。空き地や廃屋はいおくも珍しくない。

 女たちの会話が聞こえる。

「……スパルタと戦争する前は、もうちょっと色んなものが買えたんだけどね。今じゃ全然ダメさ。これくらいで我慢しないとね。あるもので何とかするのが、あたしたちの戦いだからね……」

「うちの亭主も、まだ仕事が見つからなくて、家で飲んだくれてばかりいるよ。困ったもんだ。早くこんな暮しは終わりにしたいね。それにしても政治家は何をやってんだろうね。ひどい世の中だ、まったく……じゃあまた」

 女たちは別れて、それぞれの家路を辿る。

「なかなか大変なんだね……」

 僕はチュン太と一緒に、草の生えた民家の屋根に止まって、あらためてその荒涼とした風景を眺めた。

 するとそこへ、路地裏から一人の老人が、こちらへ向かって歩いて来るのが見えた。老人は顔中白い髭をはやし、ボロ衣をまとって、足には何も穿いていない。買い物客でもなく、ただふらふらと、気まぐれに歩いているように見える。

 日に焼けたその顔は、うす汚れた髭に埋もれて表情がよく分からなかったが、よく見ると、なんだか僕の父に似ているようだ。偏屈そうに口をへの字に曲げている。ただ、異様なほどギラギラした目が、只者ただものではない雰囲気を醸し出している。

 老人は所在なげに界隈を歩いていたが、やがて一軒のあばら家の前まで来ると、何かを思い出したように、裏庭から回ってその家に入った。

「ついて行ってみよう……」

 僕とチュン太は顔を見合わせ、前後して屋根を飛び越える。そして裏庭に生えている木の枝に並んで止まった。草ぼうぼうの庭には、洗濯物が乱雑に干してある。

 開け放されたドアからは、中の様子が垣間見える。

 うす暗い家の中では、一人の男が地面にしゃがみ込み、何か一心に作業をしていた。木の棒でころもを打っているのは、仕立て屋か何かであろうか。

 老人はまるで自分の家へでも入るように無遠慮に敷居をまたぐと、男の目の前へ立った。男は老人を見上げた。

 二人の会話が聞こえる。

「仕事の調子はどうか?」

「やあ、ソクラテスさんか。不景気でかないませんよ」

「奥さんは元気か?」

「元気なんてもんじゃねえ。あいつぁ殺したって死にゃしねえです。ニクたらしいくらいで」

「オシドリ夫婦、は昔の話か?……たしか、なかなかの器量よしだったな」

「とんでもねえ。そりゃわけえころはちょっとした別嬪べっぴんだったが、この頃じゃ見るかげもねえです」

「そんなことはないだろう。先月、市場で見かけたときはニッコリ挨拶してくれたぞ」

「外づらはいいんだ。うちん中じゃ眉間にシワばかり寄せて、可愛げのカケラもねえよ」

「困ったな」

「年取ってショボくれるのはお互いさまだが、せめて亭主が帰ったときぐらいお茶でもれてくれねえかなあ」

「そんなに、あれか、か」

「まったくもってずぼらです。家なんか散らかり放題、片付けようともしねえよ」

「お前のたのみ方が悪いんじゃないのか」

「女房にもの頼むのに、いちいち丁寧な言い方できるかってんだい」

「親しき中にも礼儀ありだぞ。下さいプリーズを付けるだけでも、ちがうと思うがな」

「自分の女房に下さいなんて言えるかい。貴族でもあるまいし」

「もしお前が貴族だったらどうする」

「女房には頼みません。召使いに頼みます」

「ということは、お前は召使いのように奥さんをあつかっているのだな」

「貧乏だからしょうがねえや」

「そりゃ、眉間にしわも寄るってもんだ」

「せめてあのシワだけでもなんとかならないかなあ」

「何かいい方法はないか」

「うちが金持ちだったら、カミさんにもらくさせてやれるんだけどな。そしたらあんなに険しい顔、しなくてすむ」

「余裕が大事ってことか」

「そうだねえ。余裕だねえ。しかし、カミさんも休むヒマなく働いてくれてるからな。仕事したうえ家事もこなして、そりゃ腰も痛くなるってもんよ」

「いい奥さんじゃないか」

「ま、そうかもしれん」

「働き者で、しかもきれいな奥さんだったら、言うことなしだな」

「そりゃそうだ。しかし今からじゃ遅いだろう」

「そうだろうか。まだ遅くはないと思うが」

「財産家のタレスのところにとついだマリぺはカミさんと同い年だが、カミさんより十歳くらい若く見えるよ」

「何がちがうのかな」

「まず歩き方だな。眉間にシワなんか寄ってないし、背筋がこう、ピンと伸びて、表情にも余裕があらあな」

「さっそうと歩いて、表情もニコやかだったら、お前の奥さんももっときれいになるだろうね」

「きっとそうだろう―――ソクラテスさん、あんた、何かいい方法でも知ってるのかい」

「いや、知らん。だが、くらいは何とか作れるんじゃないだろうか。少なくとも、時間の余裕なら作れるだろう」

「どうやって」

「たとえば―――そうだな、奥さんは包丁は研ぐか」

「いつも苦労して研いでるみたいだ」

「それを、お前が代りにやってあげたらどうだ」

「研いだ包丁で、刺されませんかね」

「研いでくれた人を刺す女はいない。安心しろ」

「それで?」

「お前が包丁を研いでいる間、奥さんはお茶でも淹れてくれるかもしれん」

「そんなにうまくいきますかね」

「やってみないと分からん。そんなふうなことを他にもあれこれやってみるんだ」

「ほか、って」

「たとえば、食事のあとの皿洗いくらい、お前にも出来るだろう」

「馬鹿にしちゃいけねえ。皿洗いくらい出来ますよ。これでも昔ぁ料理人になろうと思って修行したこともある」

「奥さんは待ってる間、パンケーキなど焼いてくれるかもしれん」

「本当かな」

「それからお前、料理が出来るんなら、たまには手の込んだ魚料理でも作って、奥さんにふるまってみろ」

「こんどは何が出ますかね」

「フンパツして、もっとたくさん材料を買って来るかもしれん」

「また俺が作るのかい」

「そういう具合に、お前が奥さんにやさしくすれば、奥さんもお前にやさしくしてくれる。きれいで、やさしい奥さんが家で待ってると思えば、仕事にも精が出るってもんじゃないか」

「なるほど。そりゃ、いいことずくめだ」

「今日からやってみることだ」

「分かった。じゃ、さっそく、包丁研ぎから始めてみるよ」

「刺されないように気を付けな」

「やめてくれよ、ソクラテスさん―――でも、あんたと話してて、なんだかいい気分になったよ。ありがとう」

 眼光鋭いこの老人はソクラテスと呼ばれていた。僕はまさか、と思ったが、チュン太を見ると、うん、と小さくうなずいている。

 男は老人に、せめてものお礼にと、籠から取り出した銅貨を渡そうとしたが、老人は受け取らない。その代わり、少々食べ物をめぐんでくれ、と言うので、男はパンとスープをふるまった。ソクラテスはゆっくりと、うまそうにそれを平らげ、髭についたスープを手で拭って家の外に出た。僕らのいる軒下を通って、庭をあとにする。

「ソクラテスさんは、仕事はしてないのかな」

「ああやってみんなと会話して、食べ物をもらって暮らしてるんだよ」

托鉢たくはつのお坊さんみたいだね」

「もう少しついて行ってみようか」

 老人はまた歩いて行く。こんどは坂道を上ってどこかへ行く風であるが、とくに当てはないようだ。たまに立ち止まって、道端のガラクタをじっと観察したり、野良犬をからかったりしている。

 しばらく丘を上ると、今までとは少し雰囲気のちがった、上品で瀟洒しょうしゃな家々が目立ちはじめた。どうやらこの辺りは、庶民の暮らす下町ではなく、多少生活にゆとりのある上流階級のつどう山の手であるらしい。曲がりくねった道を辿るにしたがって、家々の造りは豪華になる。そのうち、ひときわ門構えの立派な屋敷の前へ来ると、ふとソクラテスは髭に手をあて、垣根の前をうろうろしながら、中の様子を覗いた。

 垣根の内側に広がる庭園では、一人のたくましい青年が、裸の上半身に汗をにじませながら、円盤投げの練習にはげんでいる。

 庭の向こうにそびえ立つ、三階建ての白い建物の窓に、青年の母親らしき女性の姿が見える。召使いと思しき痩せた娘に、なにか用を申し付けているようだ。

 ソクラテスは垣根越しに青年に声を掛ける。

「あいかわらず文武両道というわけか」

「……ソクラテスさんじゃありませんか!」

 青年はうれしそうに顔を輝かせ、入口の方へ駆け寄って、錠前のかかった重たい門を開けてやった。

「親父さんは?」

「商用でシラクサに行っています。二、三日は戻りません」

「精が出るね。商売繁盛だ―――」

 二人の会話が聞こえたのか、母親は窓の外を一瞥いちべつし、そこに老人の姿を認めると、とたんに眉根を寄せて、ピシャリと窓を閉めてしまった。ソクラテスは肩をすぼめる。

「しかしどうも―――母上には嫌われたようだな」

「……すみません」

 青年は申し訳なさそうに、大きな体を小さくする。

「競技会にでも出るのか」

「来月、都市対抗の試合があるんです。ライバルには負けたくないんで」

「友と競い合うのはよいことだ。実力以上の力が出るからな」

「いや、本当いうと、大会が目標ではないんです」

「では何が目標だ」

いて言えば、自分に勝つことです」

 青年の眉は凛々しく、目はキラキラしている。

「感心だな。人に勝つより自分に勝つ方がもっとむずかしい。それが出来るのは、ヘラクレスか、やせ我慢のお坊さんくらいだ」

「ははは。―――勝敗も大事ですが、そもそもライバルも競技会も、ぼくにとっては通過点にすぎないのです」

こころざしが高いな。さすが海運王の息子だ」

親父おやじは関係ありません!あの人とはそもそも、考え方がちがうんです」

 青年はとたんにムキになる。

「あまり親父さんとはうまくいっていないのか」

「あの人はかねのことしか考えていない。金ですべてを動かせると思ってる」

「私も、金は大事だと思うよ。たいがいのことは金で解決できるからな」

「ソクラテスさん―――それはあなたの本心ではないでしょう。分かってますよ。その証拠に、今もあなたは手ぶらだ」

 ソクラテスはボロ衣を着た自分の姿をまじまじと見下ろす。手にはなにもなく、足も裸足だ。

「ほんとだな……」

「ぼくはあなたのように、で強い人になりたいのです」

「なんにも持たないのは、やはり心細いぞ。年を取ればなおさらだ。せめてお前のように、頑健な体があればね。うらやましい限りだ」

「ぼくだっていつまでも若くはない。いつか年も取るでしょう。しかしその前に、目に見えない本当の力を身につけたいと思ってるんです。武芸にはげむのも、実はそのためなんです。その人の本当の財産とは、財力でもなく、権力でもなく、つまるところ人間力ではないでしょうか。真の賢さを身につけ、清く正しい政治家になって、このアテナイの町を変えたいのです。欲得ずくの大人にまかせていては、この町は腐り切ってしまう。ぼくはあなたのような、真の意味での知恵者ちえしゃになりたいのです!」

「いやいや私は何も知らんよ。近ごろは若者が私を買いかぶって困る。せいぜい私が知っているのは、自分がということだけだ。そんなもの、何の役にも立たん。やはりこのごろは、何か財産を持つことが大事だとつくづく思うよ。お前がいろんな場所へ行って大手を振って歩けるのも、親父さんの財産のおかげだよ」

「さあ、どうだか―――しかしあなたの言う財産とは、決してふつうの意味での財産とはちがうでしょう、ソクラテスさん」

 皮肉屋の老人のことをよく知っているらしい青年は、挑むような微笑を浮かべている。

「お前もなかなかひねくれ者になったな。だれのせいかな?」

 ソクラテスも愉快そうに笑っている。そして髭をなでながら、青年に問う。

「そもそも、財産とは何だろうか。たとえば―――ある将軍に部下の兵士が百人いたとする。この百人は彼の財産だろうか」

「軍人にとって兵力はやはり財産でしょう」

「ところが、部下のうち誰ひとりとして、将軍に忠誠心がなく、あわよくばその地位を狙っているとしたら、どうだ?」

「うーん、その場合は財産とは言えないですね。そんな軍隊ではいくさのとき頼りにならない」

「そうだ。部下というだけで財産とは言えない。―――ところがここに、ある一人の農民がいたとする。彼には十人のがいる。この十人は彼の財産だろうか」

「なるほど―――財産は自分のものとは限らない、友だちは自分のものではないが、彼の財産である、というわけですね。いざという時に助けてくれるから」

「私の言わんとするところは分かったようだな。そう考えると、このアテナイにおいて、誰が持てる者で、誰が持たざる者か、お前の中でその顔ぶれが違ってきたのではないかな」

 ソクラテスは青年の目の輝きの変化を見て取る。

「それではもう一つ―――ここに一人の教師がいたとする。経験のあるベテランだ。彼は生徒たちにとって、財産だろうか」

「教師というだけで財産とは言えません。まちがったことを教えるかもしれないし、ぼくらを誤った道へ導くかもしれない。古い価値観を理不尽に押しつけるかもしれない。彼は財産ではありません!」

「そう思うか―――しかし残念ながら、彼は生徒たちの財産なのだよ。彼にかぎらず、全ての教師たちは生徒たちにとって財産だ。―――なぜなら、優秀な教師は言うまでもなく、無能な教師でさえ、かならずとしての利用価値があるからだ。この人のようにはなりたくない、こんな行動はしてはいけない、という悪いお手本だ。たとえば、が悪くなると大声を上げる、憶測で物を言う、若者を見下みくだした態度をとる、自分の非を認めない、依怙贔屓えこひいきをする、エリート意識が強い、つまらない冗談を言ってひとりえつる、平気で人を傷つける、おためごかしを言う、などなど、人として慎むべき例を、これでもかと言うくらい見せてくれる。われわれはここから学ばない手はない。つまり、馬鹿づら下げた能なしの教師こそ、君たちの最良の財産なのだ」

「ずいぶん言いますね」

 青年は苦笑する。

「もちろん、これは皮肉というものであって、実際は、信用できない人間の言うことには従わなくてもよい。いや、。教師に限らず、会社の上司や市会議員、警察官や裁判官だって同じだ。もしくは、従うフリをしてはなでもひっかけておけばよい」

「あはは」

「ではあと一つ。息子にとって、父親とはいかなる者か。財産だろうか」

「うーん、父親か―――むずかしいですね。たしかに、日ごろ恩義を感じない訳ではないんです。しかし、いっそのこと、どっかへ行ってくれた方がいいのではと、よく思うことがあります。なにかにつけ、進路を邪魔されるような気がする。いつまでも子ども扱いして、自分に従わせようとするんです。横暴としか言いようがない……」

「なるほど―――反面教師にするにしても、父親は今さら選べないしな。嫌だからといって、すぐに縁を切る訳にもいかない。むずかしいところだな」

「たしかに、ぼくたちより困難な時代に生まれ、裸一貫、懸命に働いて、財を成したおやじはエラいと思います。しかし、自分が成功したからといってそのやり方を押しつけようとするのは、筋が違うのではないでしょうか。こちらとしては迷惑千万、余計なお世話です!」

 青年は怒りとも悔しさとも、歯痒さともつかない表情を浮かべ、ひとり鼻息を荒くしている。

「どうしたもんかな」

「―――でもね、一方で、ソクラテスさん、そんなおやじを見るにつけ、その美点も欠点もひっくるめて、ぼく自身に似ているなと思うんですよ。頑固なところとか、思い込んだら一途いちずなところとかね。結局、ぼくにとって父親とは、自分を映す鏡であり、超えるべき目標であり、よきケンカ相手であり、そしてカジるべきスネでもある、といったところでしょうか。財産といえば、財産かもしれないですね」

「なるほど―――君の二律背反するアンビバレントな気持ちはよく分かった。―――しかし、残念だが、答えはノンだ。息子にとって父親は財産ではない」

 ソクラテスはキッパリと言う。青年は拍子抜けしたように肩をすぼめる。

「父親は財産ではない。それどころか、彼は次のステップへの踏み台であり、汚れたテーブルを拭く雑巾であり、荷物を運ぶ馬車馬であり、乗り捨てるべきボロ船だ。用が済んだらさっさとポイしてしまう方がよい―――」

「そんな……」

「逆に、父親にとってなのだ。むしろ宝物といってもよい。何をおいても、まっ先に守るべきもの、それがなかったら生きていく希望さえ失いかねないもの、何にもましてかけがえのないもの、それが息子だ。父親にとって息子とは、それほど大事なものなのだよ。ゼウスにかけて、ではない。―――もし、私の息子が私のことを財産などと呼ぼうものなら、私はいつだって家をオン出てやるぞ。―――君たち若者は、自分が親父おやじさんの財産であるということを、決して忘れてはならないのだ。―――よいかな」

 青年はゆっくり息を吸って、空を仰ぎ、そのあと何かを言いかけたが、ふたたび口をつぐんだ。頬にはかすかに笑みが浮かんでいる。

 そのとき、屋敷の中から母親が出て来て、ボロ衣の老人の前へ仁王立ちになった。わざとらしく手にほうきを持っている。

「いやはや、すこし長居しすぎたようだ。稽古けいこの邪魔をしてすまなかった。健闘を祈る。ではさらば―――」

 ソクラテスは逃げるように、大きな庭をあとにする。

 青年はあわてて追いかけて行って、一旦引き返し、家から取って来た葡萄酒の壜をかろうじて老人に手渡した。そして大声でその背中に向かって叫んでいる。

「近々、仲間を集めて集会を開きます。その機会に、うちの親父を呼んで、スピーチをしてもらいます。ソクラテスさん、その時は、あなたも来てくれますね、約束ですよ!」

 ソクラテスはふり向きもせず、ちょっと右手を挙げたまま歩き去る。そのうしろ姿が、憎らしいほど颯爽としている。

「みんなの人気者なんだね、ソクラテスさん」

 僕は目を細めてチュン太につぶやいた。

「庶民の間ではね。でも、こんな調子でずけずけと、時の権力者や多数派を容赦なく批判するものだから、あとで訴えられて、裁判にかけられてしまうんだ」

 僕は、無実の罪で毒杯を仰いだ哲学者が、はるか紀元前にいたことを思い出した。

「そういえばソクラテスは―――けっきょく死罪になるんだよね。でも、どうして、そんなことになったんだろう」

「ちょっと裁判の様子を見に行ってみようか」

 チュン太はまた先に立って、街の中心部に位置するらしい広場の方へ飛んで行く。僕もすぐさま後を追ったが、不思議にもそのかん、そこにあるべき時間の隔たりは、易々やすやすと乗り越えているようなのであった。

 広場の脇にある、柱廊に囲まれた、ひときわ立派で堅固な建物が、この町の裁判所であった。

 中に入りきれなかった人々が大勢、階段の辺りにあふれて法廷を覗いている。その頭ごしに、僕らはドアの隙間から中へまぎれ込んだ。

 うす暗い法廷が、しだいにくっきりと浮かんできた。

「みなさん、ご静粛に!メレトス君の訴えは、おおよそ以上の通りである。アニュトス君、リュコン君、つけ加えることはないか―――それでは、今からソクラテス君の言い分を聴こう。そしてそのあとに裁判員の投票を行う。―――ソクラテス君、中央へ進み給え」

 ソクラテスは杖をついて立ち上がり、ゆっくりと証言台の方へ向かう。ざわついていた場内は静まりかえり、ソクラテスの、裸足でぺたぺたと歩く音が法廷にひびく。見わたせば傍聴席には、数百人の人々が裁判の成り行きを見守っている。二階席の最前列にいる、美術室の石膏像で見たような髭づらの男は、おそらく弟子のプラトンであろうか―――

 用意された水を一口飲むと、ソクラテスはやがてぼそぼそと喋りはじめた。しかし、声が小さいので、何を言っているのかよく聞こえない。聴衆はさらに耳を澄ませる。その刹那せつな、老人の目が光った。

「……メレトス君が私を訴えているのは、つまるところ次の二点においてである。

 一つ、国家の信ずる神を信じず、あやしげな神を信じていること。

 一つ、若者を腐敗にみちびき、国家の転覆を企てていること。

 そして私に対する求刑は死罪であるという。

 アテナイの諸君。はじめに言っておくが、私はこのアテナイに生まれ、アテナイに育ち、故郷を愛することにおいてはここにいる誰にも負けないつもりだ。戦争にも三たび参加し、祖国のために戦った。したがって、私が祖国の転覆を企て、アテナイの神々を敬わないというメレトス君の訴えは、まったく取り合うに値しない誤りである。私が凡百ぼんびゃくやからに耳を貸さず、その言を斥けるのは、ひとえに神のみに従う、信仰心の厚さゆえなのである。もし、そのことが諸君を怒らせたとしたら、どうかお許し願いたい……」

 ソクラテスは、集まった聴衆一人ひとりの顔を睨むように、ひとしきり場内を見渡すと、にわかに語気を強めた。

「……アテナイの諸君、私のす行いの中で、ひとつとして神の威光をたたえないものはない。私がさまざまな人々の相談にのり、ささやかな助言を行うのも、少しでも彼らを神の近くに導くためである。そして神をあがめるとは、われわれ人間一人ひとりの小ささを知ることである。私は私自身の無知を自覚するがゆえに、もっともらしい顔であちらの席に座っているメレトス君やその友人たちよりも、すこしは知恵があるつもりだ。もし、彼らのように、真実を語るかわりに相手を言い負かすのが正しいのであれば、また徳のかわりにつまらぬ処世術を説き、不当な報酬を得るのが正しいのであれば、あるいは魂を益する修養をなおざりにし、身を利するための蓄財をすすめるのが正しいのであれば、たしかに私は誤りを犯した。メレトス君の言う通り、刑罰に値するものである。しかし、本当のところはどうであろう。真理や徳や魂を語ることが、雄弁術や処世術や蓄財を説くより無価値なことだと、誰が言えるだろうか。私は自分の小ささを知るがゆえに、その問いに答える傲慢さを持ち合わせていない。かわりにその判断を、アテナイの神々にゆだねる者である!」

 場内の一角から鋭い拍手が起った。プラトンをはじめとする青年たちである。 

 ソクラテスは、またコップの水を飲んだ。

「……ダイモニオンの精霊は、私がまちがった方向に進もうとする時、かならずそれを思い止まるよう私に警告する。私にはその声がはっきりと聞こえるのだ。しかるに、このたびメレトス君が訴えた罪状のいずれにおいても、ダイモニオンの声は私に何の警告も発しなかった。つまりそれは、私の思うところをということである。それがもし間違っているというのであれば、それに代わるどんな信心を、メレトス君たちは持ち合わせているのだろうか。せいぜい一山いくらで買ったいわしの頭を拝むくらいのものであろう。彼らがなにか喋ったかね?」

 場内に失笑が起った。メレトスとその仲間たちは顔を真っ赤にした。

 僕は聞きなれない言葉が出て来たので、チュン太に訊いてみた。

「ダイモニオンの精霊、って何?みんなの言ういかがわしい神様のこと?」

「うーん、ソクラテスはときどき『ダイモニオンの声』が聞こえたというんだ。ボクにもよくは分からないけど、おそらく彼自身の直観とか良心のことじゃないかと思うんだ。昔の人は情報が少ない分、第六感みたいなものが優れていたというからね。中でもソクラテスはそれが特別だったんだ。―――だけど、何の説明もなく『ダイモニオン』なんて言うもんだから、いかがわしい神を信じていると、みんなに誤解された節もある」

 僕はソクラテスの頑固そうな横顔を見た。それにしても、この老人は本当に僕の父によく似ている。

「つぎに―――私が前途洋々たる若者に考えを吹き込み、腐敗に導いたという点について。この訴えがまちがいであることは、火を見るよりも明らかである。もし私が、長年にわたって有望な青年をたぶらかし、彼らを堕落させたというのならば、私によって腐敗させられた青年たちの多くは、こぞって私に石を投げるであろう。そして諸君に死罪を命じられる前に、私はとうに、彼らの投げた石によって命を落としていたであろう。しかるに、実際はどうか。私にたぶらかされた若者たちは、石を投げるどころか、窮地に立たされる私を、なんとかああやって助けようとしてくれている。あの二階席に座っている若者たちの目を見よ。彼らの目は腐っているか。死んだ魚のように、白く濁っているか。私には彼らの目は、彼らの生まれ育ったエーゲ海の海の色のように、美しく澄んで見える。彼らの目の輝きこそ、真実がどこにあるかを、雄弁に物語るものではないか!」

 青年たちの盛大な拍手が鳴り響いた。彼らの顔は誇らしげに紅潮している。となりの青年と肩を叩きあう海運王の息子の姿も見える。

「……スパルタとの戦争に負けてこのかた、アテナイが昔日せきじつの輝きを失っているのはたしかな事実だ。そして民衆の心は傷つき、ひどく混乱している。ところが人々の中には、私がその混乱に乗じて、私腹を肥やしているなどと愚かなことを言う者がある。アテナイの諸君。それならばなぜ、私はこんなにみすぼらしく、貧乏なのであろう。もし彼らの言うとおりならば、今ごろ私はでっぷりと太って、豪華な衣装や飾り付けをまとっているはずではないか。またある人は言う。そんなに故郷を救いたいのであれば、なぜみずから政治家となって世の中を変えようとしないのかと。なるほど、たしかに私はこれまで、政治的な発言をできる限り避けてきた。なぜか。それは、政治家として長生きするためには、よほど計算高く、厚顔無恥でなければならないからだ。私は自分の誇りを失わないために、つねにとして活動をつづけてきた。その方が性に合っているからね。私に言わせれば、こんな老いぼれに世の中を乱されたといって有能な面々がそろって大騒ぎするのは、むしろ恥ずかしいことではないかね。それに、及ばずながら努力している本職の政治家に対しても、失礼ではなかろうか。どうだね、アニュトス君。ましてその政治家本人が、私を訴えるなどというのは如何いかがなものか。職務怠慢という言葉を知ってるかね……」

 アニュトスと呼ばれた人物は、どうやら名の知れた政治家のようである。一階席の聴衆から被告人に罵声がとぶ。アニュトスの後援会であろうか。場内は騒然としてきた。

「しかしながら、アテナイの諸君―――」

 ソクラテスは意に介さず、ここでしばし沈黙する。声のトーンが少し変わる。

「……正直のところ、私に与えられた短い時間の中で、諸君の心を変えさせるのはもう不可能ではないかと思っている。人間ひとりひとりの力はとても無力なのだ。たった一人で懸命に船を漕いだところで、大きな波の前には一たまりもない。私にはもう時間が残されていない。諸君―――ゼウスにかけて、私は私の信じるところを、自分の使命にしたがって行ってきた。それをどう評価するかは君たち次第だ。メレトスは私が死刑に値するという。私はむしろ、私の活動の報酬として、ギリシャ一の豪華なレストランで食事をふるまわれてもよいくらいだと思っている。―――こういう私の言い草が、もし諸君の感情を逆撫でしたとしたら、どうか御愛嬌と思ってほしい。物事はその表面だけを見てはいけない。私がどんな皮肉を言おうと、真実は変わらないのだ。私は諸君の良識を信じるがゆえに、あえて諸君に媚びることもしないし、憐れみを乞うこともしない。しかし、もし諸君の思惑おもわくと、神の思し召しが食いちがったとしたら、私は躊躇なく神のご意向に従う。アテナイの神を信じることにおいて、私も諸君と同じ、誠意ある市民の一人だからだ」

 満席の聴衆は、いだ麦畑のように静かになった。保守派も革新派も、穏健派も強硬派も、理想派も現実派も、みんなそれぞれの思いで、ソクラテスの弁明を聞いているようだ。

「……それゆえに私は、もしこの裁判において、私に厳正なる極刑が下されたとしても、従容しょうようとしてそれに従うつもりでいる。なぜなら、これまでアテナイの法律によって、私が恩恵をこうむってきたことも度々たびたびであるし、神が下された最終的な結論であるなら、諸君にとっても、私にとっても、おそらくそれが最良の選択のはずだからである。そもそも、死が悪いものであると、誰が決めたのだろう。いままで死の世界から戻ってきた者はいないのだから、誰もそれを証明できないはずである。よく知らないことを、知っているかのように言うのは、私のもっとも嫌うところである。私はむしろ、死は善いものであるかもしれないとさえ思っている。なぜなら、死が無に帰することであれば、それはなかなか得がたい最良のと同じであるし、また、死が別世界への移動であるならば、すでにそちらの住人となった、ホメロスやヘシオドスと話をする楽しみが待っているのだから―――」

 ソクラテスの妙に落ち着いた話しぶりは、まるで微笑を浮かべているようでもあった。青年たちは歯切れのよいソクラテスの演説に感銘を受けつつも、わずかな雲行きの変化に、互いの顔を見合わせている。ひとりプラトンだけが、まばたきもせず証言台をじっと見つめている。

「アテナイの諸君―――正直のところ、諸君の中には、なんとかソクラテスが折れてくれて、死刑ではなく追放刑や罰金刑を望んでくれたら万事丸く収まるのに、と気を揉んでくれる人もあろう。しかし、残念ながら、その選択は私にはない。もし追放刑であれば、追放された先で、私はまた同じ活動をするであろうからだ。真理の探求なき生活は、私には考えられない。また罰金刑などは、そもそも願い下げである。貧乏な私には、どんなわずかな罰金も払えない。―――いずれにしろ、よわい七十の私は、もうすでに死の近くにいる。失うものは何もない。諸君にとって、地位や名声や財産が大切なように、私にとっては、何より、真理が大切なのだ。真理を譲歩するくらいなら、私はむしろ喜んで死を選ぶ。―――もうこれ以上、何も言うことはない。私は疲れた。そろそろ去るべき時が来たようだ」

 ソクラテスは一礼もせず壇上から降り、しずまり返る法廷の通路を、勝手に出口の方へ歩いて行く。裁判官もあえて引き止めようとはしない。原告たちもみな仏頂面で老人を見つめている。弁明は、結局そこで終わるかたちとなった。

 裁判員たちが別室へ移動する。

 審議を待つ間、傍聴の人々はいったん法廷の外に出る。はり詰めた空気から解放されて、人々の舌はいきおい滑らかになる。

「……ソクラテスの言うことも、もっともだな。間違っていたのはわれわれかもしれない。あの爺さんも、一生懸命、世のため人のために頑張って来たんだ」

「いやいや、騙されてはいけない。ああいう詭弁きべんを弄する輩はいつの世にもいる。じっさい迷惑をこうむっている人間がこれだけ大勢いるんだ。情けは無用だ……」

 柱廊にひしめく人々の口から、さまざまな賛否両論が飛び交う。その数はおおよそ半々といったところか。

 すこし離れたところで、法廷の裏手にいたソクラテスにようやく追いついた青年たちが、老人を取り囲んで集まっている。青年の一人が言う。

「先生!ありがとうございます。僕たちの言いたいことを、すっかり代弁して下さいました。みんな感動して聞いていました。石頭いしあたまの大人たちにも、良心のカケラは残っているはずだ。きっと無罪です!」

「さすがに、豪華なレストランで食事、とまではいかないでしょうけどね!」

 みんなはどっと笑う。一人が小声になり、

「しかし、万が一、有罪になったとしても、われわれがなんとか資金を集め、先生を釈放できるよう計らいます。あるいは、ほとぼりが冷めるまで、外国に身を隠していただく手筈も整えておきます」

 青年たちはソクラテスへの感謝と尊敬の思いを、ここぞとばかり口々に述べたてる。老人は黙ったままである。

 僕とチュン太は、大理石の太い柱の陰から、そんな古代ギリシャ人たちの様子をじっと見ていた。

「……結果を知ってる僕らからすると、むしろ胸がいたむ場面だね。―――ひとまず法廷に戻って、判決を聞こうか」

 ふたたび法廷である。審議を終えた裁判員たちがすでに着席している。傍聴人たちもぞろぞろと場内に戻り、しだいに席が埋まっていく。

 ざわめきが静まるのを待って、裁判官が木槌きづちを打った。 

「……みなさん。被告人の刑が確定しました」

 運命の瞬間である―――

「被告人ソクラテス君。死罪。刑の執行は今日から三十日のあととする。以上」

 水を打ったような法廷は、一瞬ののち、歓声と怒号のうずとなる。抱き合って喜ぶ原告たち。うなだれる青年たち。腕組みをする者。天を仰ぐ者。万歳三唱する者。泣き崩れる者。。奇声を発する者。さまざまな感情をあらわにする人々のなかで、ひとりソクラテス本人は至って冷静である。眉毛ひとつ動かさない。どこからか頭の上に飛んできたあぶを、片手で追い払ったりしている。

「僕だったら無罪にするな―――」

 この老人の人柄を、わずかばかりだが見てきた僕は、すでにこの悲運の哲学者に肩入れする気持ちになっていた。

「なんで民衆というのは、こんなにいつも分からず屋なんだろう。立派な人物が見抜けないのだろうか。よく考えれば分かるじゃないか」

「人を判断するのは、それほど難しいってことだよ」

 チュン太が僕をなだめる。

「……立派な人と変人とは、なかなか区別がつかないんだよ。大人物の偉大さが分かるのは、ずっとあとになってからだ。その点で民衆を責めることは出来ないよ。実際アテナイの人たちは、このときソクラテスを死罪にしたことを、のちのちまで後悔したらしいよ。―――さあ、次の場面を見てみようか」

 あやうく不機嫌になりそうな僕の羽を、チュン太は強引にひっぱって連れて行く。

 僕は空を飛んでいるうちに、なぜかすこし気分が戻ってきた。やはり、空を飛ぶのは気持ちのいいことだ。

 チュン太が次に案内したのは、ソクラテスが収監されている牢獄であった。牢獄とはいえ、この哲学者は強盗犯や殺人犯ではなく、あくまで危険性の少ない思想犯なので、面会や飲食の自由は許されている。手かせ足かせもつけられていない。判決から刑の執行まで約一か月もの猶予が与えられたのは、アテナイの神事との兼ね合いであるらしい。

 その間、さまざまな人たちがソクラテスを見舞いに訪れた。中には、ソクラテスにそっと脱獄を持ちかける者もいた。そんな時、ソクラテスは微笑を浮かべて答えた。

「ありがとう。しかし、私は逃げないよ」

 実際、僕とチュン太が窓辺から見ている間にも、何人もの弟子や友人たちが、なんとかソクラテスの気持ちを変えさせようと説得に努めたが、老人は頑として首を縦に振らなかった。ソクラテスと以前からの知り合いであるらしい獄舎の番人は、いつでも老人が逃げられるよう牢獄の鍵を開けておいた。刑は刑として、庶民の心情はまた別のようである。

 そしていよいよ死刑執行の日が訪れた。アテナイの使者が遠くアポロン神への参拝を終え、その船が帰港する日の夕刻に合わせて、ソクラテスは毒杯を飲まされることになっている。

 その日は朝から、死を待つ哲学者のいる独房へと、まず妻と三人の子供たちが訪れた。

 気性の荒そうな妻は、判決にいまだ納得がいかず、夫が不当な理由で刑に処せられることを憤慨している。

「それではクサンティッペよ」

 ソクラテスは妻にたずねた。

「私が不当な理由ではなく、殺されるとしたら、君は大いに賛成するのかね」

 老人はかすかに頬に笑みを浮かべている。こんな状況においても、この変わり者は屁理屈を言って楽しんでいるようだ。あるいは、この世での最後の一日が、家族のさびしい愁嘆場しゅうたんばになるのを避けたかったのかもしれない。

 つぎに訪れたのは、ソクラテスを師と仰ぐくだんの青年たちである。彼らは老人がワインに目がないのを知っているので、最後の酒盛りをするため、最高級のシシリーワインを持参している。さかなには、あわびや貝柱の干物、あじやイカの燻製、茹でたソラ豆やインゲン、牛肉の塩漬けなど、海の幸、山の幸をたくさん集めて来た。

 ソクラテスはとても喜んだ。今日、死刑が行われるとは思われないような華やかさである。

「みんなよく集まってくれた。しかも、こんな御馳走を用意してくれるとは―――まったく、寿命が延びる思いだよ」

 ソクラテスの悪い冗談に、もちろん誰も笑わない。

 一同の雰囲気がまだ固いので、老人はさらにつづける。

「……幸か不幸か、私は醜男ぶおとこに生まれついたせいで、かつて女の道に迷ったことは一度もない。おかげで色男がおちいるような、余計な落とし穴に落ちなくて済んだのは幸いだった。しかしその代わりに、私を始終悩ませたのは、の道である。もちろん、私がいくら美食をむさぼったところで、それによって後世の人々の尊敬を勝ち得ることなど、あり得ないのは分かっていた。分かってはいたが、しかしめられなかった。気が付けばいつも、食い物のことばかり考えていた。―――オマール海老のクリーム煮、はまぐりのワイン蒸し、殻付きの生牡蠣、ニンニクの芽のオリーブ炒め、真鯛のマリネ、わたり蟹のブイヤベース……。エーゲ海でとれる豊富な海の幸と、旬の地野菜の組み合わせが、なかでも私の食欲をそそった。食のためなら、どんな苦労や犠牲もいとわないと思うほどであった。そして、満腹したあとの上等なワインこそ、この世の喜びの最上のものと考えた!」

 一同はグラスを片手に、ワインで乾杯する。

「……私は知っての通り、生業なりわいとしては石工をやったが、おそらくは料理人のほうが向いていると思っていた。味覚には自身があったからね。しかし縁なくして、私を料理の道へ導いてくれる者はいなかった。けっきょく石細工のほうは好きになれないまま、いつか思い通りいかない人生にイヤ気が差して、ヒマさえあれば演劇を観て過ごし、芝居のあとはなけなしの財布をはたいて一人食事をして帰った。それだから、妻のクサンティッペは決まって不機嫌だった。彼女はこのアテナイにおいて、あわれにも悪妻の代名詞のような評判が立ってしまったが、もとはと言えば私の食い道楽が原因なのだ。もちろん彼女は、決して理解のある女とは言えない。しかし、なかなかよくやってくれている方だ。彼女の名誉のために、ここで弁護しておきたい」

 そこで、弟子の一人がソクラテスに質問した。唇のつややかな、若くて美しい青年である。

「この世でのわれわれの『職業』というのは、何によって決められるのでしょうか。なにか運命のようなものがあるのでしょうか。私は先祖代々受け継いだ『墓掘り人夫』という私の家業が、どうしても好きになれません。もちろん、とても大事な仕事だとは分かっています。それでも、数ある職業の中で、なぜ私がそれをやらなければならないのか、つねに疑問なのです。たしかに、私に与えられた才能など取るに足りないものです。しかし、なるべくならその微々たる才能を生かす仕事をやってみたいのです。―――正直に言うと、私は役者を志しています。舞台俳優です。しかし、このまま夢のような目標に向かって努力をつづけるべきか、あるいは夢は夢として、地に足のついた仕事に打ち込むべきなのか、とても悩んでいます。そもそも演劇などという腹の足しにならないものを仕事にしたいという考えは、甘えた考えなのでしょうか……」

 ソクラテスは青年の悩みもさることながら、彼の恵まれた美貌と、それに負けないくらい一途いちずな口ぶりに、うっとりと目を細めた。

「……文明の世の中において、職業というのはすべて『分業』だ。この一つだけをやっていれば完全無欠だという職業など存在しない。あらゆる職業は他人との関わりにおいて成り立っている。医者だって、訪れる患者がいなければやっていけないし、農夫だって、このご時勢、自給自足はもはや不可能だ。そう考えると、墓掘り人夫というのも立派な仕事のひとつだよ。―――世の中を一つの船に例えると、オールを作る者、マストをつくる者、舷側ボディーを作る者、甲板デッキを作る者、その他いろいろある。船底のせんを作るのも大事な仕事だ。どんなちっぽけな役割でも、それを卑下する必要はまったくない」

「先生……」

 別の青年が横から口をはさむ。

「船底に栓なんかあるんですか」

「もしあれば、の話だ。私の話はすべて例え話だ。―――しかし、うーむ。そうか、役者か……。舞台はいいな。演劇は生命への讃歌である。若者が心惹かれるのも無理はない。とくにお前のような美しい若者が、自分の存在価値をそこに見出すのも、私にはよく理解できる。実際、私も芝居を観るとき、このまま時間が止まって欲しいと思うような、完璧な美しさを感じることがある。エロスはまさしく生命の源泉みなもとだ―――」

 老人は宙を見つめ、大きく息を吸った。

「しかし―――たしかに『美』は至高のものであるが、一人の人間に宿る美はなのだよ。いまここにあるものが、明日もここにあるとは限らない。そんな気まぐれな美の神に、愛する者をどうして捧げられようか。美の神アフロディーテ―――追えば逃げるもの。近づきすぎると火傷やけどするもの。そんな危険な代物しろものは、敬して遠ざけるのが賢明だと思うが、いかがかな。―――とはいえ、もし志す者がいなければ芸術もすたれてしまう。をいかににまで高めるか、それが役者というものの……」

 ソクラテスの話を聞いている間、青年はなぜかニコニコしている。

「……おやおや。なんだか嬉しそうだな。私が芝居の話をすればするほど、お前の目は輝きを増すように見える。どうやらお前の心はすでに決まっているようだな。ならば、私に何も言うことはない。他人のために自己を犠牲にするのが生き甲斐ならば、勝手にするがよい。飛んで火にいる夏の虫だ」

 美しい青年は満足そうに引き下がる。

 つづいて別の青年が前に出る。腕っぷしの強そうな巨漢である。

「先生はいつも自分たちに、魂のことを忘れるな、とお説きになります。肉体は仮の乗り物にすぎないから、魂を利するような生き方をせよ、と……。ならばなぜ、われわれは身体からだを鍛えるのでしょうか。現実の肉体を喜ばせることは、無益で愚かなことなのでしょうか」

「私は決して肉体を軽視している訳ではないのだよ。現に私が七十歳の今日こんにちまで生きてこられたのは、君たちや私の家族に、物質的にも助けられてきたおかげだ。私は、私の魂をここまで運んでくれた私の肉体に感謝している。しかし私の言いたいのは、肉体と魂の寿命が決してということだ。つまり、肉体よりも魂の方がいくらか長生きなのだ。早い話が、私が死んだあとでも、君たちは私のことをしばらく覚えているだろう。君たちの心の中に、このヘンクツなじじィの姿があるかぎり、私の魂は生きているのと同じなのだ」

 僕はチュン太の顔を伺った。いつか彼も同じようなことを言っていた。チュン太はいかにも当り前といった顔で老人を見つめている。

「……そして、さらに言えば、あのホメロスの詩歌などは、何百年も前に書かれたものなのに、今だにわれわれの心を打ってやまない。それはホメロスの魂が、何百年の長きにわたって、ということなのだ。さきほど私は、肉体より魂のほうがいくらか長生きだと言ったが、その意味では、魂はほとんどだと言ってよい。そしてその寿命を決定するのは、つまるところ魂のなのである。純度の高い魂ほど寿命が長い。よってわれわれは、生きている間、なるべく魂をような生き方をすべきなのだ。私が言いたいのはそういうことだ」

 ソクラテスは空になったグラスに、新たなワインをそそいでもらう。

「……そしてわれわれの乗る船、つまりわれわれのは、神から与えられたものであるから、当然大切にしなければならない。勝手に壊したり、捨てたりしてはいけない。しかし、一つ一つの船はとてももろく小さいので、めぐり合わせた船たちは、みんなで助け合って、この世という荒海あらうみをぶじ航海し終えなければならない。だからこそ、仲間の船を失うこと、すなわち愛する者の死は、計り知れないほどの悲しみなのだ……」

 弟子たちは互いの顔を見合わせ、とたんに眉を曇らせた。いままさに彼らは、自らを導いてくれる灯台のような巨大な光を失おうとしているのだ。

 また別の青年が歩み出た。あばた顔の小男である。

「われわれが与えられた船は、なぜ人によってこんなに形が違うのでしょうか。大きい船もあれば、小さい船もある。裕福に生まれる者もあれば、貧乏に生まれる者もある。また健康に生まれる者、病気がちに生まれる者、知恵のある者、それが足りない者、その船の形は、ほんとうに人さまざまです。わたしもアテナイの神を信じる者の一人ですが、じっさい神様は本当にいるのか、と疑いたくなるような現実もたくさん見てきました。まるでひとにぎりの祝福された人間しか、神様は愛さないかのようです。なぜ神は、こんなにも不公平に世界をお創りになったのでしょうか」

 ソクラテスは何度も大きく頷いている。

「なるほど、もっともな意見だ。世の中のいろんな出来事を見るにつけ、君のような疑問が湧き上がるのは至極当然だ。なぜ神は、こんなに不公平に世の中をお造りになったか。しかもわれわれは、生まれる時代も選ぶことは出来ない。そこに鎖で縛られているようなものだ。そして、与えられた船にどんなに不満があっても、一生それと付き合っていくしかない。誰かと取り換えるわけにはいかない。なぜ神はこんなに気まぐれで残酷なのか―――そこで私はこう考えることにした。たとえば―――もし私が美男子に生まれていたとしたら、ずいぶん女にもモテて、いい思いをしたであろうけれども、いずれ寄る年波には勝てず、老いさらばえて自分の姿を鏡で見たとき、一層の絶望と悲哀を覚えるのではなかろうか。しかも、若い時チヤホヤされた分、気位ばかりが高く、結果、魂も肉体も、両方取るに足りない人間になっていたかもしれない、と。―――そう考えたとき、われわれに与えられたマイナスの条件というのは、魂にとって実はプラスなのだ、それは魂を磨くためには、かえって良い条件かもしれない、とね。私が醜男ぶおとこに生まれたことや悪妻を持ったことが、哲学者になるためにはよい条件であったように」

 弟子たちはソクラテスの最後の教えを、一言も聞き漏らさないよう真剣に聞いている。が、中には、酔いつぶれて寝ている者もいる。ソクラテスもすこし酔いが回ったらしく、ベッドに横になって話をつづける。

「……もし魂が、死後には消えてなくなるものだとしたら、是非ともわれわれは、生きているうちに、できるだけ多くの欲望を満たし、肉体を喜ばせるような快楽を追求すべきである。じっさい世の中の大多数の人間は、その考えにもとづいて、私利私欲の追求に余念がない。ところが、それがもし叶わなかったとき、彼らは他人を憎み、うらやみ、劣等感にさいなまれ、みじめで浅ましい顔つきになるだろう。また仮に、それらを手に入れたとしても、フンゾリ返って御馳走をたらふく食べるだけの太鼓腹の人間を、だれが長らく尊敬するだろうか。そういう人間の不純な魂は、彼らの肉体がなくなれば、すぐに人々の記憶から消えてしまう。―――しかしその点、魂の永遠を信じる者は、現世において何か困難なことが起きても、それらはすべて魂を磨く好条件であることを知っている。ままならない人生の出来事に一喜一憂しなくてすむ。心に余裕がうまれる。心に余裕のある人は、なぜか物事が好転する。つまり、長い目で見れば魂の永遠を信じることが、よりよい人生の航海術にもつながるのだよ」

 小柄な青年はさらに質問をつづける。

「しかし先生。それにしても、なぜ神様ははじめからを作らなかったのでしょうか。―――いや、完全どころか、むしろわれわれ人間は未熟で欠点だらけだ。鳥のように空を飛ぶことも出来ないし、魚のように海を泳ぐことも出来ない。出来ないことだらけですね。苦労するために生まれた来たようなものだ」

「いかにもその通りだ。この私もいまだ完全な人間にはほど遠いしね。皆が言うように、私に欲がないなんてウソだ。私は欲望にまみれただらしのない人間だということは、私自身がいちばんよく知っている。たしかに若いころは完全になろうと努めたこともあったが、途中でそれはあきらめた。なぜなら、人はその愛されることに気がついたからだ。出来の悪い子供ほど可愛い。欠点の多い人間というのは、まわりが放っておけない、あいつを助けなきゃ、何とかしてあげなきゃ、と思うように出来ている。足の悪い者がいたら、みんなで手をさし伸べる。だれかに不幸があれば、いっしょに悲しむ。人生とはそういうことの積み重ねだ。かく言う私のいちばんの欠点は、愚かな者を愚かなままに愛することが出来なかったという点だ―――神様がそうされるようにね。私は政治家や学者たちの愚かさを厳しく批判し、コテンパンに言い負かしてしまったおかげで、こうしてその罰が自分に返ってきた。つまり、私自身が小人物だったということだよ。しかし、われわれがもし、自分の欠点を死ぬまで克服できなかったとしても、それはそれでよいと思っている。なぜなら、―――もう一度言うが、われわれはその存在だからだ。だからこそ、私は老人の賢さよりも、青年のひたむきさを好む。この欠点だらけの、愛すべき若者たちよ! そして私自身の魂が、欠点だらけの純粋なものであったからこそ、こうして君たちの魂と出会うことが出来た。いま、君たちの魂の姿が、私にははっきりと見えるよ。だから私は、今回の件でも、私の無鉄砲さを貫かせてもらおうと思う。神もきっと、そんな愚かな私を許してくれるであろうから」

「ソクラテスさん」

 いままで発言もなく、隅っこでグラスを傾けていたプラトンがふと立ち上がった。宴が始まって、どれくらい時間が経ったであろうか。独房に差す光が弱くなっている。

「われわれにも今、あなたの魂の姿がはっきりと見えます。われわれは生涯、あなたの姿を忘れることはないでしょう。いや、われわれがこの世からいなくなったあとも、あなたのことを語りつぐ人間がつぎつぎと現れ、あなたの魂は末永く生き延びるにちがいありません。しかしソクラテスさん、いますこし、あなたと語り合う時間が欲しかった……」

 プラトンの目は青い海のように輝き、その唇はしっかりと結ばれていた。そのまなざしからは、こんな声が聞こえるようであった。

 ―――ソクラテスさん。あなたの生涯は決してあなたの望んだ姿とはいえないでしょう。しかし、わが師よ、われわれの目に焼きついたあなたの姿―――たとえ不本意な結果に終わろうとも、最後まで戦いつづけたあなたの雄姿は、いつかきっとわれわれの真の財産となるでしょう。暗雲たちこめる困難な道を行くとき、あなたの記憶はきっとわれわれを、光の方へと導いてくれます。人生に悩む私の肩を、そっと抱いてくれたあなたの温かい手を、私は決して忘れることはありません。父なるソクラテスよ。あなたの身体からだはいつか野辺に朽ち果てようとも、あなたの魂はいつもわれわれのそばにあります。何百年、何千年後の未来の弟子たちが、あなたの生き得なかった人生を、いつか代わりに生きてくれるでしょう。だからソクラテスさん。私はさよならは言いません。瞼を閉じれば、あなたはいつもそこにいるのですから……

 僕とチュン太のたたずむ格子窓から、いつしか夕方の光が差していた。いよいよ老人が毒杯を仰ぐ時間が迫っている。みんなは言葉少なになった。

 なごやかだった青年たちの表情はしだいに固くなっていく。寝ていた者もただならぬ気配にふたたび目を覚ます。役人が盆の上に毒杯をのせ部屋に入ってきた。

 ソクラテスはワインのお代わりでもするように、銀の毒杯を手に取り、役人に礼をのべて、最後の言葉を告げる。

「それでは諸君、また会う日まで―――そうだ、クリトン君。借りていたニワトリを、ヤブ医者に返しといてくれ。なんだかんだ言って、ずいぶん世話になったからね」

 そんな些末な用件を言い残して、老人はためらうことなく、手にした毒杯を飲み干した。

 そしてしばらくのあいだ、みんなの顔を一人ひとり、まぶたに刻み込むように見回していたが、哲学者はとつぜん口から白い泡を吹き、顔面蒼白になって白目をむいたかと思うと、座っていたベッドに横向きに倒れ込んだ。

 一同は駆け寄って老人の体を抱き起こそうとした。

「先生!しっかりして下さい!」

 差しのべられた何本もの手の中で、ソクラテスの体は鉛のように重たくなっていく。

「先生!しっかりして下さい!先生!」

 若者たちの声がむなしく独房に響いている。

 うす暗がりのなか、茫然とする僕とチュン太を残して、鉄格子の影はいつしか闇に溶け、ついに何も見えなくなった。

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