第2章:『全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ』



 その後、マトの集落の者達は崖の下に落ちたチェイトンの遺体を回収しようとしたが、結局見つかることはなかった。


 それだけではない。その直前にマトが追い込み落としていったバッファローの群れの死体も、崖の下にはなかったということらしかった。


 ただ、岩場に血がべっとりと付いていたり、削れた毛皮の一部が付着していたりと、どうやら落ちた形跡だけはあったらしい。


 崖は、到底助かる高さではない。落ち方によっては奇跡的に息がある個体も稀にいるが、大怪我は免れない。さらに逃げようとしてもがくが、結局幾ばくも進めないまま力尽きて死んでいるのが常だ。だが、捜索に行った狩人たちの話では、ただの一匹も、崖の下にはいなかったという。


 怪我をしたマトを発見したため、狩人たちが崖の下に行くのが遅れたという理由もある。だとしても、一匹も見つからないというのは、奇妙な話であった。


 ある者は、「他の集落の者が横取りしたのではないか」と推測した。だとすれば大問題である。危険であり、同時に神聖でもある狩り。命を奪う行為は、一種の儀式的な意味合いを持つ。それを、自らがリスクを冒すことなく、横から狩りの成果だけをかっさらう・・・・・など、赦される行為ではない。下手をすれば、集落間の抗争にも発展しかねない。


 とはいえ証拠があるわけではない。狼などの野生動物が盗んだ可能性もある――もっとも、獣の習性に詳しい者は「獣が荒らしたにしては綺麗すぎる」と否定したが――とにかく、推定無罪だ。何も、マトの集落の者も、積極的に余所と戦いたい訳ではない。


 だから、奇妙な話ではあったが、この謎は棚上げをしておくことになった。そろそろ冬が近い。頭を悩ませたところで、食料が戻ってくるとは限らない。だとすれば、うだうだと悩み続けるよりも、もう一度狩りをした方が早い。そういう結論に達したのである。


 チェイトンに刺されたマトの傷は、完治に二週間ほど時間がかかった。


 刺された直後には熱が出て、一晩ほど意識を失ってはいたが、翌日にはすっかり恢復していた。しばらくの間、背中が突っ張るような違和感があったが、それも消えた。


 怪我を治したマトは、直ぐにでも狩りに参加をしたかったが、叶わなかった。長老に止められたのだ。


「何故ですか、長老」マトは言った。

「マト。お主は強すぎるのだ」長老は、諭すような口ぶりだった。「追い込み猟に出るのは、少しの間止めておきなさい」

「強すぎる……?」

「猟に参加したシンテに話を聞いた。もう、ほぼお前ひとりでやれてしまうようだな」

「はい」

「それは前代未聞のことだ。追い込み猟は、何人もの狩人が協力し、計画を立て、慎重に事を成し――それでも失敗することもある。それほど難しい狩りなのだ。それを、ひとりでやりおおすなど、聞いたことはない。おそらく、長い歴史の中でも、お前しかできないことだろう。何故そんなことが可能なのだ?」

「それは――」


 難しい質問であった。出来ない理由は答えられても、出来る理由を探すことは難しい。マトからすれば、何故他の者ができないのかが不思議だった。

 だが、あえて、理由をつけるとするならば。


「おそらく――、〈声〉が聞こえる、からではないかと思います」

「声?」長老が聞き返す。「バッファロータタンカのか」

「それもありますが、なんと言えば良いのか――」


 動物たちの声が聞こえる。そう表現するのが一番近い。無論、実際に音となって鼓膜を震わせるわけではない。だが、マトには空を飛ぶ鳥の、地を跳ねるウサギの、そして逃げ惑うバッファローの考えていることがわかるのだ。何をされるのが「嫌」であり、どうやって逃げようとするのか、そういったものが感じ取れるのである。


 もっといえば、それは動物だけに留まらない。


 大地に咲く草花や、根を張る樹木が相手であっても、その〈声〉を聞くことができたのだ。生い茂る草の声を聞けば、どんな動物が隠れているのかわかったし、森の声を聞けば、このあと天気が崩れることもわかった。


 自然そのものが、人の言葉より遙かに雄弁に、マトに語りかけてくる――。

 少なくとも、マトにはそう感じられるのだ。


 と、言った内容を、マトは長老にたどたどしく説明する。言語化が難しい感覚の話なので、理解して貰えるかどうか自信はなかったが、長老は得心が言ったように頷いた。


「なるほどな。マト――お主はおそらく〈大いなる神秘ワカンタンカ〉に近いのだろう」


 〈大いなる神秘ワカンタンカ〉とは、マト達の部族が信仰する、神のような存在である。この世界を作り出した、全ての中心に位置する創造主だ。しかしながら、神のように人格を持ったもの――というわけではない。


 言い換えるならば宇宙の根本原理のような概念であり、『力』そのものだ。〈大いなる神秘ワカンタンカ〉の前では全てが平等であるとされている。比喩表現ではなく、この宇宙に存在するあらゆるものが平等なのだ。男も、女も、老人も、赤ん坊も。人間だけではなく、四つ足の獣も、空を舞う鳥も、地を這う蛇も、小さな虫も。それだけではなく、草や、花や、木や、水や、石――それら全てが等しく上も下もないのである。


 マト達は、自分たちはこの〈大いなる神秘ワカンタンカ〉の意のままに生かされていると考えており――「すべてが繋がり、すべてが共有」されると信じている。


「お主は、他の者よりも〈大いなる神秘ワカンタンカ〉に近い。故に、繋がっているものの〈声〉が聞こえるのだろう。普通は、同じ人間のものしかわからないのだが、な」

「そう、だったのですか」

「だから、強い」

「ありがとう……ございます」

「だが、良いことばかりでは無い。マト、先程も言ったが、お主は強すぎる。行き過ぎた強さは、歪みを産む」

「歪み――ですか」

「そうだ。そう難しい話ではない。簡単なことだ。マトよ、お前が狩りを一人でおこなってしまったら、他の者が狩りをできない。経験を積むことができないのだ。そんな状態が続けば、この村の、お前以外の男が惰弱で腰抜けになるのに、そう長い時間はかからないだろう」

「それは……」


 マトは言いよどむ。否定はできなかったが、肯定するのもそれはそれで傲慢な気がしたからだ。

 長老は、そんなマトの心情を汲むように、目を細めて見せた。


バッファロータタンカの群れは強い。なぜだかわかるか?」

「『群れ』だから……ですか?」答えたマトは、あまりにも回答がそのまま過ぎたかと焦る。「あ、えっと、つまり――みんなで助け合っているから、隙が無いということであって……」

「そうだ。子供などの力が弱い個体を、強い個体が守ることで、強靱な群れとなっている。故に狩るときは、その布陣を乱さなくてはならない――ということは、わかっているな?」

「はい」

「我々も同じなのだ。もしもバッファロータタンカの群れの中で、一匹だけ群を抜いて強い個体が居たとしても――それ以外の個体が皆弱いのであれば、狩るのは簡単だろう」

「そうだと思います」

「そういうことだ。我々も、強い群れとならねばならぬ。バッファロータタンカのようにな。そのためには、マト――お前ひとりだけが強くても駄目なのだ。群れの男達が、皆強くなくてはならぬ。子供や、年寄りや、女を守るために」

「わかります」

「ホカーラのことは、残念だった」


 それは、去年狩りの最中に死んだ友の名前だった。


「お前が追い込み猟で気を張るのは、ホカーラのように死ぬ者が出ないようにという気持ちからだろう」

「……」

「その気持ちは間違いではない。しかし、お前ひとりで村全てを支えることはできない。なんでも出来る者は、なんでもやってはいけないのだ。人を信じると言うことを覚えなさい」

「……はい」


 そういうわけで、マトはバッファロータタンカ狩りに出なかった。朝焼けの中、村の若い男衆二十名が、馬に乗って出発するのを見送った。


 その日は、ウサギやビーバーなどの小動物を狩りに出かけたり、村の中の力仕事を手伝ったりなどをして過ごし――、



 そして夕方、男達が全滅したという知らせを受けた。





 太陽が草原の空を橙色に染め上げ、夜の帳が少しずつ降りかけているころ。

 ひとりの男が、村の外れに辿りついた。


 ふらりふらりと、今にも倒れそうな足取り。大工仕事の片付けのため、偶然外を歩いていたマトが、最初にその男に気づいた。


「――どうした?」


 声を掛けながら近づく。気を抜けばその場に崩れ落ちそうなほど弱り切った足取り。危険があるようには思えなかった。


「おい……、まさか、シンテか?」


 日が沈みかけているため、近づくまで誰かわからなかった。

 しかしその男は、今朝見送ったばかりの、バッファロータタンカの追い込み猟に出かけた狩人のひとりだった。


「……マト、か」


 顔見知りを発見した安心感からか、シンテが倒れこむ。マトは慌てて近づき、その身体を支えた。


「大丈夫か、おい――しっかりしろ」


 声を掛けるが反応はない。シンテは、マトの腕の中で気を失っていた。

 どうしたというのか。


 何はともあれ、マトは気絶した彼を村の中へ運ぶことにした。


 ちょうど、炊事の為に火を起こしている女たちがいた。たき火の側に、シンテを降ろす。女の内のひとりに長老を呼びに行くよう依頼した。


 横たえたシンテの、怪我の具合を確かめる。

 ひどい怪我だった。

 左の腕の骨が、完全に折れている。肋も数本折れてしまっていた。折れた骨が内臓に刺さっていないのは、不幸中の幸いだった。

 呼吸が浅い。全身が痛みの為の発汗でぬるついている。


 怪我の具合を見ていると、長老が急いだ様子でやってきた。


「シンテが戻ったらしいな」

「はい」マトが答える。「ひどい怪我です」

「いったい何があったのだ」

「わかりません。村に着くなり気を失ってしまったので」


 呻き声が聞こえる。シンテからだった。意識を取り戻したようだ。


「シンテ!」マトが応じる。「大丈夫か」

「マト……」シンテが掠れた声を上げる。「村に着いた、のか……」


 長老が差し出した水袋を、マトが受け取る。シンテの上体を起こしてやり、水を飲むよう促す。痛みに呻きながらも、シンテは水に口を付けた。


 ほんの少しだけではあるが、落ち着いたようだった。


「大丈夫か」マトが呼びかける。

「ああ……。なんとか、な」

「いったい何があったんだ。戻ってきたのは、シンテだけか?」

「みんなは――」シンテが、マトの目を見た。「――死んだ」

「え?」

「皆死んだ。俺以外、みんな、死んでしまった……」

「おい、それは――」


 マトは言葉に詰まる。思わず「嘘だろ」と言ってしまいそうだったが、シンテがそんな嘘を吐かないことはよく知っていた。常に冷静で、物事を俯瞰して把握することができる性格だ。


「何があった?」マトは質問をする。


 シンテが、マトの腕にしがみついた。凄まじい力だった。


「ああ、あれ・・は……あれ・・は、何だったんだ。わからない。化け物だ。恐ろしい。あれは――」

「落ち着け、シンテ」


 シンテの視線が定まらない。身体が震えている。濃い恐怖――精神の錯乱が見て取れる。マトは、質問を変えることにした。


「今朝、出発したよな、馬に乗って」

「……ああ」

「そこから、順番に話してくれ。何があって、何を見たのか」

「わかった……」


 シンテは、一度大きく深呼吸をした。水をさらにもう一口飲み、心を落ち着ける。そうしてから、訥々と話し始めた。


「村を出た俺たちは――狩り場を移動しながら獲物を探した。そして、昼過ぎにバッファロータタンカの群れを見つけたんだ。あれを。見つけてしまったんだ。見つけなければ良かったのに。くそ――」シンテは水を飲んだ。「変な群れだった。三十頭ほどの群れだ。この前、マトと狩ったのと、同じくらいの規模の群れだ。だが、変だった。」

「変?」

動かない・・・・んだよ。普通、バッファロータタンカは近づけば逃げ出すだろ?」


 シンテの言うとおりだった。野生に住む動物のサガだ。狩るものと、狩られるもの。草を食べる動物は、肉を食べる動物が近くに来れば警戒し、さらに距離を詰めれば逃走を始める。それは、もはや自然の摂理ともいえる防衛反応だ。逃げなければ、食われてしまう。


「だってのに、あのバッファロータタンカの群れは、俺たちが近づいても、逃げようとしなかった。それどころか、一切動かなかったんだ。ただただぼーっと突っ立ってるっていうべきか、そんな感じで、俺たちに対して、まったく反応を見せなかったんだよ」


 それは、確かに異常なふるまいだった。野生に生きるものとして、あり得ない挙動だと言って良い。


「だから、そうだ。俺たちは、矢を射ってみようってことになった。よせば良いのにな。だから、俺が、弓で、撃った。なんであんなことをしてしまったんだろう。狙いを付けて、群れの端にいた奴にな。やめればよかった。なあ、マト――どうなったと思う?」


 話していくうちに、またシンテが震え始めた。マトに対してした質問は、おそらく一息呼吸を置くためにしたのだろう。


 その意図を汲み、マトは少し考えてから口を開いた。


「まさか、弓で射貫かれても逃げなかったのか?」


 マトの答えに、シンテが口の端を歪める。


「正解だよ――矢が刺さっても、まったく動かなかったんだ。どうかしてるだろ? まるで、虻でも止まったかのように、一切、反応を見せず、痛がりもしなかったんだ。なあ、あれはいったいなんだったんだ?」

「……わからない」

「わからないよな。俺もわからないんだからさ。それで――その段になって、ようやく、これはどうやら尋常じゃないってことがわかったんだ。近づいて逃げないってだけじゃない。矢で貫かれて痛がらない生き物が、どこにいる? 俺たちは、完全に気圧されてしまっていた。バッファロータタンカの群れにな。それで、ビビって逃げだそうとしたんだ。引き返そうとな――そのときだ」


 シンテの呼吸が浅くなる。


「そのとき、ようやく奴らが動き出した。それまでまったく、ぜんぜん、ちっとも、俺たちの方なんて見向きもしなかったのに。まるで俺たちなんていないかのように振る舞っていたくせに、俺たちが背を向けたとき、あいつらは急に、俺たちに向かって走り出してきたんだ。一斉に、ひとつの塊になってな。俺たちは、慌てて逃げた。急いでな。でも、追いつかれた。最初は、グングシュカの奴だ。一番後ろだったグングシュカに先頭のバッファロータタンカが体当たりした。グングシュカは、馬もろともひっくり返った。それで、動けなくなったグングシュカに、バッファロータタンカたちが群がった。グングシュカの悲鳴が聞こえた」


 シンテが、頭を掻きむしる。


「俺たちはグングシュカを見捨てた。救おうともしなかった。戦おうとしなかった。立ち止まりもしなかった。ただアイツの悲鳴を背に、ひたすらに馬を走らせた。だって――しょうがないだろ!? 怖かったんだよ。俺を軽蔑するのか? マト。軽蔑してくれ。俺は――グングシュカの断末魔を聞きながら――ほっとしたんだよ。ああ、これで、俺たちは見逃されるって。だってそうだろ? 狩りっていうのはそういうもんだ。いつもの狩りだ。群れからはぐれた奴が狩られる。あべこべだ。俺たちは、狩られる側になったんだよ。いつもとは逆にな。それで、バッファロータタンカたちがグングシュカを狩っている間に、俺たちは逃げられる。そう思った。でも、駄目だった。しばらくすると、後から、蹄の音が聞こえてきたんだ。いくつもの蹄の音が――」


 シンテは話し続ける。


「あいつらが追ってきたんだ。すぐにわかった。だから、俺たちは戦うことを決めた。逃げられないからだ。鬨の声をあげた。戦士のようにな。グングシュカを見捨てたくせに。とにかく、られるまえにるしかない。そう決めて、立ち向かった。でも、駄目だった。勝てなかった。殺せなかった。あいつらは――死なないんだよ」

「死なない?」

「そうだ。弓で射っても、槍で突いても、なにをしても死なないんだ。不死身だ。怪力自慢のマザが、斧で頭をまっぷたつにしたのに、ピンピンしてるところを俺は見た。頭が半分ないのに、全然平気な様子だった。いかれてる。あいつらは、バッファロータタンカのかたちをしているがバッファロータタンカじゃない。いや、それどころか――あれは、生き物じゃない。あれは――、あれは、なんだ……?」

「それで――全滅したのか」

「……そうだ。不死身で、数でも負けていた。ほとんど相手にならなかった。みんなが弾き飛ばされ、踏みつけられ、転がされ、死んだ。誰も、誰も、誰も助からなかった」

「よく、生きていてくれたな。シンテ」


 マトの言葉に、シンテは驚いたように目を見開いた。そして、それから、からからと声を上げて笑い出した。笑っている途中で、折れた肋が痛んだのか、顔をしかめる。


「俺も途中で轢かれてな、吹き飛ばされて馬から落ちたんだ。そして、そのとき――ふっと、死んだふりをすれば、助かるんじゃないか? そう閃いたんだ。乱戦だったし、バッファロータタンカたちも、死体にまで構っている様子はなさそうだったからな。だから、地面に倒れ込んだまま、息を殺して、指一本動かさないように、じっとしていた。みんなまだ、必死で戦っているのにな。そうして、皆が殺されていくなか、ただひたすらに、俺は、それを見てたんだ。俺は、俺は――」


 それまでずっと黙って話を聞いていた長老が、シンテの肩に手を置いた。

 シンテは、肩を震わせ、声を殺して泣き出した。

 しばらくの間、誰も、何も言わなかった。


 長老は、近くに居た女に、シンテの世話をまかせると、マトを連れその場を立ち去った。


 マトと長老は、村の外れまで歩いて行く。


 誰にも会話を聞かれない場所だ。


 長老が、低い声で話を切り出した。


「どう思う?」

「シンテの話ですか」

「そうだ」

「シンテが嘘を吐いているとは思いません。おそらく、本当に襲われたのでしょう。不死身の、バッファロータタンカの群れに」

「私も同意見だ。」

「ですが、殺しても死なないバッファロータタンカなど、聞いたことがありません。長老は、ご存じですか」

「私も知らない。長く生きてはいるが、見たことも、聞いたこともない――だが、間違いなく、それは魔の領域に属する存在だろう。人の手に負えるものではない――シンテたちは、狩りの前の祈りを欠かしたわけではないのだな?」

「はい」

「で、あれば精霊の怒りに触れたわけでもないのだろう。おそらく、あれは呪いの類いだ」

「この村にまで、来ると思いますか?」

「来るだろう。それがいつになるかはわからないが。呪いとは、そういうものだ」

「では――」

呪い師ウィチャシャ・ワカンを頼る」


 異論はなかった。魔の道は魔。専門家の協力を得る必要があるのは、あきらかだった。


 問題は、いまマトたちの村に呪い師がいないことだ。タイミングの悪いことに――つい先日、病で亡くなったのだ。近くの集落に協力を仰ぐ必要がある。


「ワクパの村のキミミラは、強力な呪い師ウィチャシャ・ワカンだと聞きます。呼びに行きますか」


 マトの提案に、長老はしばらく考えてから口を開いた。


「いや――ツァメラを呼ぶ」


 長老の言葉に、マトは目を見開いた。


「ツァメラですか……。ですが――」


 講義しかけたマトを、長老が制する。その目の光は、有無を言わさなかった。


「反論は赦さぬ。時間が無い。マト、お前にしか頼めない。朝、陽が昇ると同時に、馬を走らせ、ツァメラの許へ向かえ。なんとしても、彼の協力を取り付けろ」

何を差し出そうとも・・・・・・・・・ですか」

「そうだ」

「……長老は、それで良いのですか」

「良くは無い」長老の声色は厳しかった。苦渋の決断だというのが、マトにもわかった。「だが、躊躇っていてはならない。これは、私の直感だが――この呪いは、下手をすれば、この村そのものを滅ぼすことになる。そんな予感がする。だとすれば、〈白い貌の呪い師〉と取引をしてでも、彼の力を借りなくてはならない」

「……わかりました」

「今晩は見張りの人数を増やす。マト、お前は明日に備えて身体を休めておけ」

「はい」


 もっともツァメラのことを好く思っていない長老が決断を下したのだから、自分はそれに従わなくてはならない。


 マトが、そう考え、返事をした時だった。



「――おい、来るぞ!」「来る!」「来るんだ!」



 叫び声がした。シンテの声だ。何事かをわめいているようだった。

 ふたりは慌てて、たき火の前へ戻る。


 シンテが暴れていた。近くの女が落ち着かせようとしているが、効果が無い。


「落ち着きなさい、シンテ」長老が言った。

「長老! 駄目だ! 追いつかれた!」シンテが立ち上がり、長老に掴みかかる。鬼気迫る表情だった。「聞こえるだろ! 聞こえないのか? 奴らの蹄の音が――来る、来る、来るんだ! 逃げられなかった! どこまでも、追いかけてくるんだよ!」


 その時だった――。


 シンテと、掴みかかられていた長老の身体が吹き飛んだ。


 跳ね上げられたのだ。


 天高く。


 横から、突っ込んできた何者かに。


 なんだ。


 なにが起こった。


 突然の出来事に、マトの思考が止まる。


 ぎりぎりで視界の端に捕らえる事ができたのは、一匹のバッファロー。


 バッファローが、全力で突進して、シンテと長老に体当たりをぶちこんだのだ。


 ふたりを跳ねたバッファローは、そのまま村の中へと突き進んでいった。


 そして、一軒の家へと突っ込む。

 ウィグアムと呼ばれる、ドーム型の住居だ。木でできた棒と、樹皮や布、バッファローのなめし革を組合わせて作られた住まいであり――当然のことながら、猛獣の突撃に耐えられるようなつくりではない。


 鈍い音を立てながら、家が倒壊する。中にいた人間たちの、驚いた声と悲鳴が聞こえてきた。


「ぐ、う……」


 呻き声。

 弾き飛ばされた長老が、マトに対して助けを求めるように手を伸ばす。


 その腕が、へし折られた。

 もう一匹――別のバッファローが、通り抜けざまに踏みつけたのだ。


「がああああっ」


 痛みによる叫び。

 それもすぐに搔き消された。さらに別のバッファローが、走りながら長老を蹴とばしたのだ。

 長老は、何度も回転しながら地面を転がり、そして、動かなくなった。


 一匹ではない。


 マトは、バッファローたちがやってきた方向へ目を向ける。

 遅かった。何十匹ものバッファローたちが、今まさに村の中へ入ってきたところだった。


「くそっ――」


 そこからは、早かった。

 まるで、津波のように――バッファローたちは村を飲み込んだ。


 人を撥ね飛ばし、踏みつけ、砕き、殺し。家を壊し、蹂躙する。


 悲鳴。


 狂乱。


 あるいは、そんな反応を見せる前に波にのまれる。


 阿鼻叫喚であった。


 一分と立たないうちに、マトの村は、地獄の様相を見せていた。


「おおおおおっ!」


 マトは、地面に転がっていた斧を手に取ると、自身に向かってきたバッファローの頭めがけて振り下ろす。


 手ごたえ。硬い頭蓋骨を粉砕し、振り下ろした斧は深々とバッファローの頭にめり込んだ。致命傷。脳を破壊されて、生きていける生物はいない。


 だが――、


 次の瞬間、マトは弾き飛ばされた。地面に転がる。バッファローは、斧が頭に刺さったまま、悠々と走り去って行った。


 別の一頭に轢かれそうになったマトは、慌てて立ち上がり、躱す。


(本当に、死なないのか――)


 間近で見ればわかる。たしかに、あれは尋常の存在ではない。死なないこともなにより、マトにとって一番の異常は、〈声〉が聞こえないことだ。このバッファローたちが何を考えているのか、全く読み取ることができなかったのだ。


 シンテが話していた、不死のバッファローの群れ。それが、長老の予感した通りに村を襲撃してきたのだ。


(早すぎる――)


 このままでは、全滅する。誰もが、骨を砕かれ、肉を裂かれ、臓腑を潰され、死んでしまう。


 死。


 胸騒ぎ。


「ウィノナ……」


 マトは、恋人のいる家へと走り出す。


「ウィノナ!」


 走りながら名前を叫ぶ。全力疾走。彼女の住んでいた家も、他の家がそうであるように、バッファローにより倒されてしまっていた。


「ウィノナ!!」


 倒壊した家へ駆けよる。潰れた布と木材。死に物狂いで、マトはそれをかき分ける。


 ――居た。


 家財の下敷きになるようにして、ウィノナが倒れていた。抱き起す。頬を叩き、意識を確認する。


「ウィノナ、ウィノナ!!」

「――――」


 ウィノナが、うっすらと目を開ける。生きていた。マトは、安堵の息を吐きだす。身体を調べるが、目立った怪我はないようだった。


「ウィノナ、立てるか」

「……」


 恋人を抱き起そうとしたマトの手が止まる。

 彼女を連れて逃げる――。果たして、それは可能なのだろうか。どこまでも追い続けてくる、呪いのバッファロー相手に。


 シンテの話を思い出す。

 彼はどうやって村まで逃げてきた?


 目の前の、村を駆けるバッファローの群れ。その動きを追っていくと、あること・・・・に気づいた。


「ウィノナ」マトは、腕の中の恋人に語り掛ける。「死んだふりはできるか? 横になって、まったく動かずに、じっとしているんだ」


 こくり、と。ウィノナは頷いた。


「よし。いいか。絶対に動くなよ――息を殺して、死体になりきるんだ」


 そう指示を出すと、マトは立ち上がる。

 地面の死体が握っていた槍を取ると、叫びながら走り始める。


「みんな! 逃げるな!」腹の底から、村の中に響くような大声をあげる。「死んだふりをしろ! 地面に倒れて――死んだふりだ!」


 村の中のバッファローたちは、動いているものに反応して突撃を仕掛けていた。逆に、怪我をして動けないものに対しては、驚くほど興味を抱いていない。動かない方が助かりやすいのだ。下手に這って逃げようとして、そこを踏みつぶされる者が多かた。


「動くな!」マトは叫ぶ。「今すぐ地面に伏せて、死んだふりをしろ!」


 もちろん、動かなくても、運悪く踏みつぶされてしまう者もいる。だからこそ、マトは自分だけは走り回りながら村中へ指示を出す。


 動く者がマトだけになれば、必然――バファローが狙うのはマトだけになる。そうなれば、この群れを村の外へと誘導することが可能になる。それが、狙いだった。


 暴れる猛獣を前にして、自ら倒れて動かないというのは、かなり心理的なハードルが高い。どうしても、少しでも距離を取ろうとしてしまう。


「みんな! 倒れろ――! 早く! 動くな!」


 叫びながら村の中を走り回る。おそるおそるといった具合で、村人たちが地面に伏せる。狙い通り、バッファローたちの狙いが、マトに集中する。


 そうなれば、バッファローたちの攻撃も苛烈になる


 走る。

 速度を上げる。


 逃げる。

 横から突っ込んできたバッファローを、跳んで躱す。


 転がる。起き上がる。

 倒壊した家を盾にする。


 後ろを振り返る。およそ三十匹。すべてのバッファローが、マトの後ろについてきていた。


 マトは、足を止めることなく村を出た。


 遮蔽物がなくなる。遮るものがない草原では、逃げるのはさらに難しい。


 徐々にマトと群れの距離が縮まる。


 追い付かれる――。


 その瞬間、マトは、一番最初に追いついたバッファローに飛びついた。


 首にしがみつき、背中に乗る。


 乗り心地は、馬とは比べ物にならないほど悪い。一瞬でも気を抜けば、放り出されそうだ。


 マトはバッファローに乗ったまま、夕暮れの闇の中へと消えていった。


 

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