白い貌の呪い師
朽尾明核
第1章:『臆病者のかけた呪い』
†
チェイトンには三分以内にやらなければならないことがあった。
マトを殺すのだ。
他の者がやってくるまで、三分あるかどうか。
それまでに、目の前の男を殺さなければならない。
勇敢な戦士のマト。部族の言葉で〝熊〟を意味する名を授かり、その名の通り身体が大きく、力も強く。そしてなにより、マトには人を引きつける魅力があった。
快活で、細かいことは気にしない。仲間の中で困っている者がいれば、決して見捨てることはない。どんな危機が迫ろうと、慌てることなく対処法を見いだせる。聡明で、頭の回転も速い。まるでこの荒野の大地そのものの様に、頼りがいのある男――それがマトだ。
非の打ち所のない英雄。
チェイトンは、マトと幼馴染みであった。親同士が友人だったこともあり、物心が付く前から、それこそ兄弟の様に一緒に育てられてきたのである。
歳も同い年――それどころか、産まれた日も同じであった。
小さい頃、マトは今よりもずっと大人しく、物静かで、そして泣き虫だった。身体は大きかったが、臆病であり、このままでは、立派な大人になれないのではないか。マトの両親は、そんな心配をしていた。
チェイトンにとっても、マトは身体の大きな弟といった具合で、自分が面倒を見てやらなくてはならないといった幼いながらの使命感すらあったほどだ。
〈泣き虫マト〉が、勇者になったきっかけ。
それは、初めての狩りだ。
それまで、大人達が狩ってきた死体しかみたことのなかったバッファロー。それが、生きて、群れを成して何匹も、何十匹も動いている。
チェイトンが感じたのは、いままで味わったことのない恐怖だった。
彼らは、狩られるのを待っているだけの餌ではない。一匹一匹が心の底から生きることに対して必死なのだ。
圧倒的な野生の、大自然のエネルギーを内に宿した生き物。バッファローは、集落で見る死体よりも、何倍も大きく見えた。
狩りに初めて参加する少年達は、馬に乗り、大人達の後に付いていくような布陣だった。危険が及ばないように、というための配慮だ。
だが、チェイトンの馬が、乗り手の恐怖を察知した。
急に暴れ始め、大人達の敷いた狩りの布陣から飛び出してしまった。暴走。「群れから出た子供」というのは、最も狙われやすい。バッファローを狩るときも、取り残された子供を狙うのが定石だ。
生きるため――狩られる側のバッファローが、人間に牙をむいた。
一頭のバッファローが、チェイトンの馬に体当たりをして跳ね飛ばす。倒れ込む馬。チェイトンは大きく吹き飛ばされる。地面に叩きつけられ、身動きが出来ない彼に向かって、バッファローが迫り来る。
チェイトンは明確に、死を覚悟した。
周りの時間が、ゆっくりになったように感じられた。どんどん距離が近づき、バッファローが大きくなる。
死。
次の瞬間。
バッファローは大きく体勢を崩した。
何が起こったのかわからなかった。
マトだ。
急いでチェイトンの許へ馬を走らせたマトが、槍を持ったままバッファローに跳び乗り――そして、目に槍を突き立てたのだ。
痛みにより、バッファローの進路が擦れた。間一髪、チェイトンは轢かれることなく命拾いをした。
結局マトはしばらくの間バッファローの首にしがみつき、結局その槍でとどめまでさしてしまった。
素晴らしい狩りだった。信じられないと大人達が目を丸くした。
その日、戦士のマトが産まれた。
本人は、「ただひたすらに必死だった」とだけ言っていたが、狩りの才能があったのである。
その日からマトは三年もしないうちに、部族の誰よりも上手に馬を乗りこなすようになり、誰よりも遠くを飛ぶ鳥を弓で射れるようになり、槍を一本持たせるだけで、どんな獣であっても狩ってこられるようになったのだ。
性格も変わった。肉体が強靱になり、自信がついたことにより、明るくなったのだ。誰とでもよく話し、良く笑う。どこにだしても恥ずかしくない、太陽のような好青年へとなっていった。
もはや〈泣き虫マト〉と呼ばれた少年は、どこにもいなかった。
チェイトンも、その変化を嬉しく思っていた。マトは命の恩人だ。
幼い頃から共に過ごした彼が成長し、頼れる一人前の男になったことを、誇らしくも感じていた。
――そのはず、だった。
しかし、いつのころからだろうか。
正確な時期はわからない。
だが、自分でも気づかないうちに――いつの間にか、マトの眼をまっすぐに見れないことに気づいた。
劣等感。
自分が抱いている感情が、そう呼ばれている感情であることを、自覚するのに長い時間はかからなかった。
チェイトンは、大きくなっても狩りができなかった。
ウサギや鳥はいい。小動物には、人並みに矢を当てることができる。
だが、大型の獣――狼や鹿、バッファローになると、てんで駄目だった。足が竦んでしまう。どうしても、距離を詰めることができない。
理由は、わかっている。
あの日だ。
自分が明確に『死』を意識してしまったあの日。
いざ獲物を前にしたとき、マトに救われたあの日の記憶が脳裏に蘇るのである。
そうなってしまうと、もう駄目だった。本人の意思とは関係なく足は逃げ出してしまっている。槍を突き立て獲物を殺すことなど、到底できなかった。
狩りのできない男はさげすまされる。子供の内はまだしも、年齢を重ね、大人になるのであれば、狩りはできて当たり前だ。無論、得手不得手はある。しかしながら、チェイトンのように――上手い下手の次元ではなく――狩りそのものが出来ない者は論外であった。青年になるにつれ、いつの間にか、陰で〈臆病者〉と呼ばれるようになってしまった。
性格も変わった。会う人間会う人間が、自分のことを侮り、蔑んでいることが伝わってくる。そうなると、本人の心持ちも卑屈になる。
チェイトンは、明るくなったマトとは対照的に、暗く、笑わなくなっていった。誰と会話するときも、眼を合わせることができない。男も、女も、老いも、若いも、誰もが自分のことを嘲笑っている。表面上の態度とは裏腹に――中には、はっきりと態度で示す者もいる。
息が出来ない。
しだいに、チェイトンは酒に溺れるようになっていった。
狩りもせず、昼間から酒を呷るチェイトンに対する視線は、ますます厳しいものとなっていった。それを自覚しながらも、酒を飲むことは辞められなかった。
そんなチェイトンに対して、家族以外ではただひとりだけ、侮蔑の視線を向けない者がいた。
マトだった。
他人の、些細な軽蔑の態度を嗅ぎ取れるようになったチェイトンだったが、マトだけはそんな彼のことを見下さなかった。
酒を飲み過ぎて体調を崩すことは心配をしても、チェイトンを嘲笑ったりすることがないのだ。まるで、昔と変わらないように、少年の日の頃のように、本当の兄のように慕うのだ。ごく稀にではあるが、ワカンブラピ(細く裂いたバッファローの干し肉)やワスナ(脂肪にドライフルーツや干し肉を混ぜ込み固めた保存食)などを持ってきて、ともに晩酌をすることすらあった。
大人の目から隠れて悪戯をするこどものように、ふたりだけでひっそりと酒を楽しむ。そんなとき、マトは屈託無く笑うのだ。他愛のない話を一方的に喋り、けらけらと肩を揺らす。そして、布も掛けずに寝てしまう。
チェイトンは、それが――、
――とても、嫌だった。
いっそのこと、見下してくれた方がよかった。蔑んでくれた方がよかった。他の若い男がそうするように、口汚く罵ってくれた方が何倍もマシだった。
マトの態度が気を遣った表面上の立ち振る舞いではなく、本当に心の底からの気持ちから来るものであるのがわかればわかるほど、自分の器の小ささが嫌になるのだ。
チェイトンは、マトに嫉妬しているのに。その狩りの腕に、強靱な身体に、精悍な顔つきに、慕われる人格に、彼の全てを妬ましいと思っているのに。
マトは、チェイトンのことをかけらも軽んじていないのだ。一人の人間として、愛する家族の一員として扱ってくれている。
それが、余計に妬ましい。
嫌らしい、悍ましい、俗物的な心を持っていれば、納得できたかもしれない。「この勇者様も所詮は他の連中と同じ、他人を見下す浅ましい人間なのだ」と。
なのに、どこまでも人が良いから――。
それが、一番、羨ましかった。
それでも、殺意までは抱いていなかった。
そういうものだと、諦めていたからだ。
人としての、やるべきことが違うのだ。
成人の儀式でおこなった〈
そう思って、無理矢理、見ない振りをしてきた。
――マトを殺す。
そう思ったきっかけは、ひとりの女であった。
ウィノナという若い女は、チェイトンたちの集落でもっとも美しかった。気立ても良く、現在の酋長の孫であり、家柄も良い。若い男たちの間でもっぱら話題にあがるのは、彼女であった。皆、すこしでもウィノナに良いところをみせようと、狩りに精を出すのである。
チェイトンも、ウィノナのことは憎からず思っていた。
それどころか、集落の他の人間よりも、彼女と親しいという優越感があったのである。
小さい頃、チェイトンの家とウィノナの家は近くにあり、毎日の様に遊んでいた。ウィノナはチェイトンやマトより少し年下ではあったが、少し大人びており、一緒に遊ぶには、むしろちょうどよかったと言って良い。
チェイトンと、マトと、ウィノナの三人で、平原を駆けずり回る日々だった。
それは、鬱々と暗いチェイトンの心の中で、宝石のように大切にしまっていた思い出だった。日々の暮らしに楽しいことはなにひとつないが、過去の――少年の日の思い出だけは幸福だった。眠りにつくときは、アルコールに犯された頭の中で、ウィノナのことを思い浮かべながら眼を閉じるのである。
黒々とした艶やかな髪や、磨かれた石のように輝く大きな瞳。可愛らしかった少女は、年齢を重ねることで美しく成長した。
もう何年も、ウィノナと会話をしたことはなかった。自分から距離を置いた。挨拶もできなかった。
自分でも、わかっているのだ。それでも、認めてしまうことがこわかった。ウィノナが、自分を軽蔑していることを。恐れていたのだ。他の集落の人間と同じように、ウィノナが自分を〈臆病者〉だと見下していることを。
だから、近寄らなかった。
近寄らなければ、傷つくこともはない。眼を閉じて耳を塞いで、それで心の安寧を保つのだ。遠目から、美しくなった彼女を眺めていれば、それでよかった。
ある日の夜だった。
その夜は、酒を飲んでも眠ることが出来ず、チェイトンは気晴らしに散歩をしていた。集落を出て、近くの岩場へと向かったのだ。
それが間違いだった。
岩場の陰に腰を降ろし、ぼんやりと星空を眺める。夜風が気持ちよく、そのまま眼を閉じれば眠れそうだった。
うつらうつらし始めたころ、何か物音が聞こえた。
目を覚ます。頭が一気に覚醒する。聴覚は鋭敏だ。本能と言ってもいい。野生動物が近づいてきて、それが狼などであった場合、命取りになる。
チェイトンは素早く身を屈め、岩の下に隠れる。警戒態勢だ。
そうして聞き耳を立てていると、どうやら物音は人の声ということがわかった。複数――若い男女二人組だ。
どちらの声にも、聞き覚えがある。
汗が、背中を伝うのか感じた。
チェイトン岩の陰から、こっそりと音のする方を覗き込んだ。
――どうか、違っていて欲しい。
チェイトンの祈りは、無意味なものとなった。
そこに居たのは、マトとウィノナだった。
ウィノナは、いままでチェイトンが見たことがないほど蕩けきった表情で、マトの腕に自らの身体を絡ませていた。
人目を避けるようにして岩場に来た二人は、そのまま――チェイトンが見ている目の前でひとつになった。
星が輝く夜の空に、ウィノナの嬌声が響く。
動けなかった。
音を出せば、自分がいることがバレてしまう。もちろん、その心配もあった。だが、仮にそうでなかったとしても、チェイトンはその場を動くことができなかったに違いなかった。
脳が泡立つ。
心がかき乱される。
心臓が破裂しそうだった。
永遠に思えるほど、長い時間が経った。あるいは、一瞬のできごとのようにも感じられた。
空が白み始めた頃、ふたりは集落へと帰っていった。
チェイトンは、ひとり残されたあとも、しばらくの間――岩場の陰で屈んだまま、動くことができなかった。
口の中に、血の味が広がる。自分でも気づかないうちに、腔内をかみ切ってしまっていたらしい。
岩に掛かった
「マトを殺そう」
酒で焼かれ、ほとんど会話をしないチェイトンの声は、酷く掠れていた。
がらがらとした声は、人の言葉には聞こえなかった。
もう一度、自分に言い聞かせるように、声を出す。今度は、ちゃんと言葉に聞こえるように。
「マトを殺す」
だから、そういうことになった。
†
一匹、二匹と狩るのではなく、群れ全体を狩ることができる方法だ。人手もいるしリスクもある方法だが、その分成果も大きい。
バッファローの群れに対して、大勢で取り囲み、馬に乗って追い立てながら、少しずつ崖の方へ誘導していく。長い距離を移動するため、狩りはかなり長時間になる。時には交代をしながら、慎重かつ大胆に追い詰めていく長期戦だ。
やがて、バッファローの群れが崖に近づいたら、一気に追い立てて攻撃する。
逃げようとしたバッファローが、混乱しながら崖へと飛び出し、そのまま落下する。言葉にすると簡単そうではあるが、上手く落とすのはかなり難しいのである。
崖際に追い詰められたバッファローたちが、落ちずに反撃を試みることだってある。上手く群れをかき乱すことができないと、一致団結したバッファローの群れに手痛い反撃をもらうことも珍しくない。
チェイトンの祖父も、この追い込み漁の最中にバッファローに首の骨を折られて死んだ。
危険な狩りだが、成功すれば群れ全体を一度に殺すことができる、ハイリスクハイリターンの狩猟方法だ。
バッファローの肉や毛皮が大量に必要になる――祭事の前や冬支度など――ときに、行われる。
マトは、この狩りも得意であった。
彼の操る馬は速く、単騎でバッファローの群れを追い立てることすらできた。狩りの最終段階――崖際からバッファローの群れを落とす一番難しい手順を行うときなどは、むしろ率先して先行し、自分一人で崖から落下させる役を買って出ているようだった。
そうして、少しでも仲間が怪我をしたり、死んだりするリスクを減らそうとするかのように。
今日もそうだった。
マトは、最後の仕上げの段になると、先陣を切るために飛び出したのだ。
速い。
他の者達を置き去りにする――まるで、風そのもののようだった。
チェイトンは、周囲に目を向ける。他の狩人達は、露骨にほっとした表情を見せると、馬を走らせる手を緩めた。誰だって、危険なことはやりたくない。しなくてはならないならばともかく、マトが全てカタを付けてくれるなら、わざわざ自ら戦地に飛び込む必要は無い。
その気持ちは、チェイトンにもよくわかる。
だが――、
「その癖、よく人を〈臆病者〉だなんて言えたな。屑共が」
誰にも聞こえないよう口の中で呟くと、チェイトンは馬を加速させ、群れから抜け出した。集団から抜け出し、いの一番にマトを追う。
周囲から、困惑の声が聞こえた。
そうだろう。普段から、狩りには積極的に参加しないチェイトンが、急にやる気を出したように見えるのだから。
だが、気にしない。
チェイトンはマトを追う。
彼を殺すために。
風が、気持ちよかった。
脳裏には、子供の頃の風景が広がっていた。
三人で草原を走ったあのころ。
世界はどこまでも広く。そしてどこにでも行けそうな気がしていた。
頬を、熱い涙が伝うのを感じる。
涙も、風を切ることで直ぐに乾いた。
「お、チェイトン。来てくれたのか」
マトが、後を振り返り、笑った。
嬉しそうな笑み。
時間帯は、すでに正午近い。真上から太陽に照らされたマトの姿が、ひどく眩しかった。
マトは、馬から下りている。バッファローの群れの姿が見えない。
「もう、落としたのか?」
「……え?」
声が小さかったのか、マトが聞き返してくる。舌打ち。細かい部分で、自分の劣っている部分が意識されて暗澹たる気持ちになる。
今度は、意識して声を張り上げた。
「落としたのか?
「ああ。完璧――ほら」
そう言って、マトは崖際に近づくと下を覗き込んでみせた。
躊躇は一切無い。
足を滑らせれば自分も命はないだろう。にも関わらず、マトの表情にはほんのわずかな恐怖も見えなかった。
チェイトンからすれば、それも信じられなかった。
(少しぐらい、欠点を見せやがれ)
だが、位置としては好都合だ。無論、チェイトンがマトを殺すのに都合がいい――という意味で。
はやる気持ちを抑え、チェイトンは馬を降りる。
そうして、マトの背後から近づく。
時間の余裕はない。
後続がふたりの居る崖に到達するまで、おそらく三分あるかどうかといったところだろう。
三分以内に、マトを殺さなくてはならない。
――だが、焦るな。
早すぎないように。遅すぎないように。歩調が乱れれば、マトに感づかれるかも知れない。
殺意を押し殺し、気取られないように。
そうして近づきながら、チェイトンは腰布の下に隠してあるナイフを抜いた。
ただのナイフではない。
集落で、肉の解体に使うそれとは、鋭さは比較にならない。
本当は、銃があれば良かった。
銃があれば、マトも簡単に殺せたに違いない。
しかし、
――
だから、ナイフで妥協した。これでも、十分だ。筋力差があっても、刺しどころさえ良ければ、致命傷を与えられる。
マトの背中まで、あと十歩。
焦るな。
あと五歩。
落ち着け。
あと三歩。
行け、やれ――。
跳びかかった。
ぞぶり。
隙だらけの背中に、チェイトンが振るったナイフが突き刺さった。
全体重をかけ、両手で掴んだナイフを押し入れる。
「が、あ――」
マトの喉から、痛みに呻く声が漏れる。
(嘘だろ)
信じられなかった。
チェイトンは、本気でマトを殺す気だった。背中からナイフを刺し、あわよくばそのまま、崖から突き落とすつもりだった。
だが、びくともしなかった。
隙だらけの背中に、ナイフを突き刺したというのに、まったくマトは動かなかった。
まるで、脚に根でも生えているかのように。ほんの指の先程も、動かすことができなかったのだ。
そして、ナイフも――。
思い切り突き立てたにも関わらず、ナイフの刃の半分ほどしか刺さっていない。ナイフがなまくらな訳ではない。試し切りとして鹿の死体にナイフを突き入れた時は、驚くほど簡単にナイフは肉に吸い込まれた。マトの筋肉が、あまりにも硬く、止められてしまったようだった。
(あり得るのか、そんなことが)
痛みから、マトが身体を捻る。
その動きに引っ張られ、チェイトンが弾き飛ばされた。
マトから見て、横方向――崖際へ、だ。
地面に転がる。
幸運はふたつあった。
ひとつは、脚を踏み外すことなく紙一重で耐えることができたこと。もうひとつは、マトの背中からナイフが抜けたため、手の中にナイフが残ったこと。
チェイトンの右手が、崖の縁に触れた。
崖の下が、いやでも眼に入る。それだけで、背筋が凍った。高い。死を連想させる高さだ。遙か眼下に、バッファローの骸の山が見えた。
慌てて立ち上がり、マトと向き合う。
マトは、「信じられない」というような表情で、呆然とチェイトンを見ていた。
何が起こったのか、理解しようと努めている。
背中から流れる血を感じ取り、自身の怪我の具合をたしかめ、そして、チェイトンの手に握られたナイフを見て――ようやっと、現実を受け止めたようだ。
「何を……したんだ?」マトが言った。
チェイトンは、鼻で笑う。
「お前を殺そうとした。それだけだよ」
「何故だ――チェイトン?」
マトの言葉に、笑いがこみ上げる。
おかしかった。
耐えられなかった。くつくつと喉が鳴る。肩を揺らし、腹を抱える。「何故」と来たものだ。引き攣った笑い声が、空虚に響く。
マトが、一歩近づく。
そちらにナイフを向けて牽制する。
「近づくなよ」
二人の間が、張り詰めた空気で満たされる。
後続が来るまで、あと二分あるかどうか。
「わからない、か」チェイトンが言った。どこか、諦観を含んだような――そんな、口調だった。「それはそうだ。わかるわけがない」
「チェイトン……」
「お前にわかるか? 酒で頭の中に靄をかけなければロクに眠ることすらできない男の気持ちが?」「お前にわかるか? 知り会いからそうでない者にまで、会う人会う人全てに軽蔑される人間の気持ちが?」「お前にわかるか? 嫌われていることがわかりながら、そこから目を背けることしかできない男の気持ちが?」「お前にわかるか? 好きな女が奪われた時に、暴れるでも逃げるでもなく、ただせんずりを扱くことしかできない弱い男の気持ちが?」
「わからないよな――わかるわけがない」
チェイトンは、マトに向けていたナイフを、己の首に押し当てた。
「チェイトン、止めろ」
「お前には、わかるまい」
そう吐き捨てると、チェイトンは、自分の首をナイフで切り裂いた。
冷たい感触が、一瞬だけ――した。
赤い血潮が、勢いよく吹き出した。血潮が、崖の下へと降り注いでいく。
痛み。
「チェイトン!」マトが叫ぶ。
「呪われろ」チェイトンが、呪詛を吐き出す。「呪われろ。お前も、ウィノナも、村の人間も、呪われろ。俺は転がるひとつの岩だ。俺は漂うひとつの雲だ。俺は降り注ぐ雨の雫だ。俺は屠られた
チェイトンの身体が、斜めに
「チェイトン!」
マトが叫ぶ。
遠くなる。
マトの表情は最後まで、チェイトンの事を慮っていた。殺されかけ、呪詛の言葉を吐かれてもなお、チェイトンを助けようとしていた。
それが――それが何より、許せなかった。
俺はお前に憎まれたかった。俺がお前を憎むように。
そんな簡単なこともしてくれないのか。
お前の中の俺はそんなにちっぽけな存在だったのか。
身体が風を切る。崖の上のマトが遠くなる。
そうして、チェイトンの身体は暗い谷の底へと吸い込まれていった。
崖の上にはただひとり、勇敢な戦士だけが取り残された。
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