不運な男の顛末
歩
不運の先に
彼には三分以内にやらなければならないことがあった。
ここまでの彼は不運続きだった。
昨夜は遅くまで、大事な商談の準備に追われていた。
時間には余裕あったはずなのだが、後輩がミスをし、それのカバーに奔走していたため、自分のことは後回しになってしまっていた。「大丈夫、大丈夫」と、何度となく彼女を励ましながらも、頭のなかでは時間とも戦っていた。あとはプレゼンの練習だけでいいのだ。「大丈夫、大丈夫」は自分に対しての言葉だったのかもしれない。
無事に終わり、泣いていた彼女をなだめつつ帰せば、自身は会社に泊まり込みで準備を万端に整えた。
大丈夫、これなら。
彼は一安心して、いったん眠りについた。
スマホのアラームはしっかりセットしたはずだった。
ところが、スマホを取った時にはもう、ギリギリの時間だった。
急いでひげをそり、髪を整え、カバンを抱えて走った。
時計との戦いだった。
何度も、何度も、スマホの乗り換え案内アプリを確認する。
まだ、まだ、間に合う。
次の……、次の……、電車に飛び込めれば……。
会社から最寄り駅まで走れば5分。
日ごろの運動不足がたたる。
酸素、酸素と、心臓も肺も悲鳴を上げる。
せっかく整えた髪も汗でもうぐちゃぐちゃだ。
ネクタイを取り、シャツの前を開け、とにかく走った。
懸命に走った。
あと、3分、たったそれだけ走ればいいだけだ。
何が乱れたっていい。電車のなかで呼吸も髪も服も整えたらいいんだ。
ホームの階段を駆け上がろうとした、そのときだった。
エレベーターに故障中の張り紙がしてあったのは分かっていた。
仕方ないとさらに走ったわけだが、一人の若いお母さんが大きな荷物を抱え、ぐずる赤ん坊を懸命にあやしつつ、危なっかしくも階段を上るのが目に留まった。
ほっとけばいい。
若いお母さん、何とかするだろう。
駅員がもしかしたら来るかもしれない。
けれど彼はほっておくことが出来なかった。
あの電車に乗れなければ、きっと間に合わない。
頭のなかは焦っていても、「大丈夫ですよ。気を付けてください」と、努めて笑顔でお母さんを励まし、子どもにも気を遣い、荷物を持ってあげた。
幸いにも、少し電車は遅れていたようだ。
じゃあ、と、お礼をいいかけたお母さんを残して、彼は電車に飛び込もうとした。
瞬間、目の前で転びそうになったお年寄りが……。
彼は飛び込んだ。
お年寄りの前に。
スーツのズボンに穴が開いても。
お年寄りを抱えるためにはカバンを放り投げることになっても。
カバンの口が何の拍子か開いて、なかの書類はバサバサと、滑り込んできた電車の風に乗り、まるでハトの群れのように空の彼方へと飛んでいっても。
彼はにこやかに、白髪のお年寄りをこそ気遣った。
こけた拍子にお年寄りの手から離れていた杖を、自分のカバンよりも先に拾い上げて、お年寄りの手に戻してあげた。「大丈夫ですか?」と、余裕を装うのは、お年寄りのほうが気を遣ってしまわないようにとの精一杯の配慮だった。
お年寄りは「君のほうが……」と申し訳なさそうだったが、それよりも駆け付けた駅員さんに事情を説明、「私は大丈夫ですから」と彼は最後まで笑顔だった。
心のなかはでも、もうダメだろうなとため息が深かった。絶望よりも、ここまでの苦労を思えば、あきらめきれない思いもあったのである。
商談は破談した。
先方が厳しい方で、それは分かっていたからこそ準備も整えていたのだが、「資料もろくに揃えられず、あまつさえ遅刻するようなものを大事な仕事のパートナーには選べない!」と、後日彼の頭越しに、彼の上司へお叱りの言葉もきつく、断りを入れてこられたのだ。
商談にこぎつけるまでに一年かかったものだった。
上司ももちろん、課を上げてのプロジェクトだった。
だが、上司からは「仕方ない」の言葉と共に、思ってもいなかったサプライズがプレゼントされた。
なんと、もっと大手から彼を名指しで仕事を任せたいといわれてきたという。
上司はニコニコ笑顔で、「よくやった!」と、彼の手を熱く握った。
まったく何のことか分からない彼だったが、急ぎ向かった新しい商談の場で「あ!」と、声を出すことになる。
「孫娘もよく助けてくださいました」
深々と頭を下げて出迎えてくれた、先方の白髪の会長は、あのとき駅で助けたお年寄りだったのである。
不運な男の顛末 歩 @t-Arigatou
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