ひとりキャンプ

百舌すえひろ

ひとりキャンプ

信田祐一のぶたゆういちには三分以内にやらなければならないことがあった。

箸の確保。

カップ麺へお湯を注いだ後に、割り箸がないことに気がついた。


仕事が非番の日は山に登り、ひとり静かに魚を釣り、物思いに耽ることが彼の至上の喜びだった。

前日までに作り置きした総菜をタッパに詰め、現地で温かい物が食べれるよう小さな鍋とカップ麺を用意していた。

沢で魚を釣ってる時までは、世俗の垢を落とすように童心にかえって楽しんでいたのに、ここにきて現実が迫って来たのだ。


『箸がなければフォークで食べればいいじゃない』と、どこかの貴族が言いそうなセリフが彼の頭をよぎったが、フォークどころかスプーンも忘れてきていた。

祐一は自分の迂闊さに苛々しながら、家から持ってきたオクラの煮浸しを指で摘まんで口に入れた。


――今から下山するか? ナンセンス。

だいたいカップ麺の時間なんて、大まかな目安。

メーカーの言いなりになって厳密にしなくても死にはしない。


鍋で湯がくタイプのラーメンを作るときは、二分半がいいと言う人間がいる。湯がぬるければ、長めに四分と言う人間だっている。

たとえ倍の六分経ったとしても、麺が伸びて少し気分が萎えるだけのこと。


だが祐一は、予定通りに事が進まないと落ち着かない。

人生は計画通りにはいかないものだが、彼からすると、時間を守れない人間は人間ではない。

生物学的には人間だが、社会人としては一人前とはみなされないし、厳守できない人間に良い働きは期待されない、と固く信じている。

日々襲いくるさばききれないタイムテーブルは、どこかを犠牲にしながら――大抵の人間は仕事を優先しプライベートを切り詰め、心身を消耗させて生活しているものだから。


普段気を張って過ごしている癖が、たかがカップ麺の待ち時間にさえ神経を尖らせてしまう。

今まで積み重ねてきた自分自身への自信と信頼が損なわれてしまうような不安が、ふつふつと湧き上がっていた。


――せっかくの休みなのに、俺はなにを焦っているんだ。


二つめのオクラに手を伸ばす。

総菜に使ったオクラの莢はすこし小さい。

素人が作ったものだから、農家のものほどうまくいかないのだろう。隣人からタダで貰ったものなので、文句は言えない。


祐一の隣には暇そうな大学生が住んでいる。

平日の夜中でもネットゲームをしているのか「うっひょー」だの「クソがっ」だのと騒いでいて、とてもうるさかった。

そのくせベランダに鉢植えを置いて優雅に家庭菜園なんぞしているせいで、祐一の洗濯物にまで虫が寄ってくるのがとても癪に障っていた。自分は毎日残業で、仕事にプライベートが圧迫されてボロ雑巾のような生活を強いられているというのに。

だからベランダの仕切りの隙間から、数少ない収穫物を盗ってやった。騒音の迷惑料だと思って、受け取ってやるさ、と。


祐一は沢に浸したスカリの中を見た。

やっと獲れた岩魚が口をパクつかせている。

彼の予定ではカップ麺を食べながら、これの塩焼きを眺めようと思っていた。


「あ」

祐一は弾かれたように立ち上がり、河原に置いたザックの中をさらった。

釣れた魚を串刺しにするための串も忘れて来ていた。


――最悪だ。今日はもう諦めるしかない。せっかく釣った岩魚はもったいないがリリース。


仕方なく川に放ったが、岩魚は祐一のそばを離れなかった。


『私を逃がしてくださるのですね。なんと慈悲深い』

女の声にびっくりして後ろを振り返ったが、周囲には誰もいない。

『ここです。あなたの目の前』

川面に向き直ると、濃い灰色の岩魚が悠々と尾びれを震わせ、水面から口をパクパクさせている。

その口の動きをぼんやり見ていた祐一は、自分はとうとうおかしくなったと焦り、急いで荷物を片付け始めた。

『待ってください。願いをひとつ、叶えてさしあげます』岩魚が言った。

「ばっ、ばかばかしい! 魚に何ができるんだ」

自分の幻聴を振り払うように、わざと乱暴な口調で叫んだ。

『そうおっしゃらずに、試しに言ってください。ひとつだけですけれど』

岩魚の声とやらは、穏やかに祐一に語り掛けている。


「だったら箸出してくれ」

『よござんず。でしたら木立から枝を取ってきて、この川の水でよく洗ってくださいな。くれぐれも……』

「おい、お前が出してくれるんじゃないのかよ」

『……箸が欲しいとおっしゃいましたので、入手方法をお伝えしました』

「なんだよそれ」

『私は岩魚です。物をいきなり出すわけないじゃないですか』

「詐欺じゃないか」

『あなたはご自分で箸を作ることすら気がつけなかったではありませんか』

「この期に及んでそんな現実的な答えを出すかよ」

そう言いつつ、祐一は自分が盲目的に困っていたことを恥じた。


――そうだ。俺には現地調達しようという考えが抜けていた。時間にばかり気を取られて。なんて間抜けなんだ。だったら……


祐一は眼の前の岩魚を鷲掴みした。

『なにをなさいます』

「箸も串も、薪に使ってる小枝の何本か洗えば済むこと。塩焼きも予定通りやる」

『ご無体な』

「お前は口を出しただけだ」

そう言うと、祐一は岩魚の口に枝を一気に突き刺した。

「馬鹿らしい。さっさとこうすればよかった」


気がつけば五分が過ぎていた。

麺は少しふやけていたが、予定通り岩魚の塩焼きにありつけたことで祐一は満足した。


*


翌日、河原で成人男性の遺体が発見された。

焚火に使われていた薪から夾竹桃きょうちくとうの枝が、所持品のタッパと彼の胃の中からは、チョウセンアサガオが検出された。


夾竹桃はどこを口にしても即効性の猛毒があり、燃やして出た煙からも毒が拡散される。

チョウセンアサガオの莢はオクラと似ているが、口にするとめまいや幻聴が起こる。

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