君と一緒には暮らせそうにない

中村ハル

三分で仕留めたい

 坂上には三分以内にやらなければならないことがあった。

 三分と言えば、至極短い。ぱっと思いつくのは、カップラーメンができるのを待つ間。空腹の時には長い三分であるが、慌てている時にはあっという間である。

 そう。坂上のように、狭苦しいキッチンに黒く小さな影が走り回っているような事態の場合には、途方もなく長く、そして光の矢のように一瞬でもある。

 朝食のパンを魚焼きのグリルに入れていた時、視界の隅よりもさらに端っこに、黒く素早い影の移動を認め、坂上はぎくりと身を強張らせた。あいつだ。いると思ったら、必ずいる。見間違いでも勘違いでもなく、奴等は確実に存在している。たとえ意識が捕らえきれていなくとも、無意識に拒絶しているが故に無意識下でも察知するのだから、人間の身体とは不思議なものだ。

 例えば電車に乗り込んで、スマホ片手に何気なく空いた席に座ってから、自分の周囲が不自然に空いているのに気がついたことはないだろうか。ふと、奇妙な緊張感に目を上げると、他の乗客たちがすいと視線を反らす。今まで確実にこちらを見ていたはずの気配を色濃く残した視線は、明後日の方を向いていながら、ちらちらうろうろとこちらを素通りしたり、はたまた頑なに伏せられたりしている。己がなにか緊急事態のただ中にいることに気付いた時には、後の祭りだ。どぎついアルコール臭と共に、へべれけに酔っ払ったオヤジが背中を幾度も波打たせながらもたれかかってきたりするのだ。

 そんな場面でも機能しない危機察知能力だが、こと、黒く素早いアイツに関してだけは、いると思ったら、確実にいる。

 坂上は、零れかけていた鼻唄を引っ込め、息を殺す。

 手探りで武器を探すが、生憎と手近に強力で心強いスプレーが見当たらない。先週2本目を使い切ったことを思い出して、愕然とした。

 だから、惰性で取り続けてはいるが滅多に読まない新聞が、まだ広告が挟まったままテーブルの上に置いてあるのを認めた時、自分を心の中で褒めちぎった。これだ。

 そっと手を伸ばして、新聞をさらに折りたたむ。丁度、手で握れるサイズは、まるで端から対黒い影の武器として想定されていたかのようにしっくりと馴染んだ。ぎゅっと掌と心を引き絞って、じり、と身体を慎重に翻す。腰を落とし、視線を走らせ、黒い影が滑り込んだ先を見据える。テレビの後ろだ。

 素足がフローリングの床に張り付いて、ぺたりと音がする。鼻腔から吸い込む息が、細く震えて、心臓が跳ね上がる。落ち着け、落ち着くんだ。べつに、アイツは、噛みついてくるわけじゃない。ただ、隙を見せれば、飛び出してくるかもしれない。そうなれば叫ばずにいる自信が、坂上には微塵もなかった。絶対に叫ぶ。だが、負けたくはない。アイツを、絶対に、この部屋から追い出すのだ。だって、考えても見ろ。夜になればアイツは元気を増すだろう。そうなれば、寝ているこっちを脅かしてくるのだ。一度など、同衾していたことがあり、明け方に絶叫して隣人に薄っぺらい壁を連打された。反省している。隣人は、見た目がちょっと怖い。できれば、穏便に過ごしたいのである。

 坂上はぐるぐるとしょうもないことを考えながら、テレビに向かってにじり寄る。そっと気配を消して、テレビの後ろのやけに真っ白な壁に視線を走らせる。いない。坂上の視線が、黒いアイツの速度に負けぬほど俊敏にテレビの周囲を錯綜する。視線の動き通り、坂上の心は千々に乱れて混乱している。どこだ。どこにいる。ずくん、と心臓が痙攣した。取り逃がしたなんて、そんなはずはない。

 新聞を握り直し、ふと、視線を上げたところで坂上の喉が情けなく震えた。迸ったのは絶叫ではなく、ひい、という細い喘鳴だ。

 黒いアイツが、頭上からばたり、と落下して鼻先を掠める。膝と腰が無様に折れて、ついでに心も折れかけた。すんでの所で踏みとどまれたのは、今、新聞を投げつければ確実に仕留められると、ここに越してからの数多の戦歴を右手が記憶していたからに他ならない。考えるよりも先に、渾身の力で新聞を叩きつける。

 すぱん、と小気味よい音の下で、ぎぃ、と呻きが聞こえた。

 坂上は勝利を確信して、新聞を素足で踏みつける。万が一にもアイツがすり抜けてこぬように、念入りに躙った。足で新聞を押さえたまま手を伸ばし、ティッシュを大量に掴み取る。素手でアイツを処分するなんて、考えただけでも悍ましい。直視しないように目を眇めて、恐る恐る新聞を捲る。動く気配はない。

 一息にティッシュで摘まみ取り、新聞の一枚目を剥ぐって白い塊ごと包むと、ぎゅうと押しつぶす。

 これでいい。

 まだ微かに震える手で悍ましい新聞の塊を持ったまま、坂上は深い息を吐いた。

 間に合った。あとは、これを。

 振り返ったところで、玄関扉が叩かれる。

 神経質なあの叩き方は、強面の隣人だ。タイミングが悪い。

 ち、っと舌打ちをして居留守を決め込もうかとも思ったが、恐らく、先程の床を打った音で、在宅なのはバレている。案の定、急かすようにまた扉が叩かれた。

「はい」

 渋々開けたことを悟られぬように引き攣った笑顔を浮かべた坂上の前に、渋面を包み隠しもしない隣人がぬっと顔を覗かせる。何も言わぬ内から、鋭い眼光が坂上の顔から手元に降りて、握りしめた新聞の塊に据えられる。

「やっぱり。お宅さ、多いんだよ。うちにも入ってきて正直うんざりしている」

「あ-、すいません」

「どうにかなんないの」

「えっと」

 言っている傍から、また黒い影がぬるりと坂上の顔の横の壁を過る。しまった、と思うよりも早く、隣人が拳を影に叩き込んだ。

 ぎい。

 影が哭く。

 拳の下で、黒い影が戦慄く。

「素手……」

 思わず呟いた坂上は目だけを動かして壁を見た。

 骨張って大きな拳の下で、真っ黒な女の首が潰れている。ひしゃげて不規則な痙攣を繰り返す首は、輪郭が茫と滲んで烟っている。

「出るって判ってて住んでるんだから、ちゃんと設備は揃えておけよ」

「はい、すいません」

「駆除業者、紹介しようか」

「あ、お願いしてもいいですか」

「待ってろよ、今、スマホ取ってくるから」

「あの」

「何」

「えっと、今は何しにうちに?」

 女の首を片手にひっつかんで背を向けた隣人が眉間に皺を寄せた。

「『焦げてる』って」

「え」

「焦げてるって教えに来たんだよ」

「え、あ、パン!」

 疾うに好みの加減の三分を過ぎた魚焼きグリルからは、トーストが焼け焦げた香ばしすぎる匂いと煙が漂いだしていた。

「グリルで焼かずにトースターを買えと言っていたぞ」

「誰が」

「お前の部屋の壁から出てくるヤツだ。まさかそいつじゃないだろうな」

 坂上が握りしめている新聞紙の塊を見遣って、隣人が眉を寄せた。

「違いますよ。こいつを駆除しようとしてパンが焦げたんだから」

「そうか、アイツはいいヤツっぽいから、駆除するにしても後にしておけよ」

「え、じゃあ、共存できるかな」

「できねえよ」

 呆れた顔で隣人が、煙を上げるグリルを指さす。

「家が燃えるぞ」

「あ。わあ、ちょ、ま」

 慌てふためく坂上を置いて、隣人はくるりと背を向けた。

 つんのめるようにグリルを消して蓋を開くと、もう、と黒い煙と共に、無残なトーストが覗いた。

 換気扇を回すと、黒煙は渦を巻いて吸い上げられたが、吸い込まれていく時に、ひいいいと細い悲鳴を上げている。

 先日壊れたトースターからも出てきたやつだ。

「引っ越そうかな」

 奇妙にあちこちが新しく改装された古い部屋を見回して、坂上はため息をついた。

 また床を、黒い影が走り抜けていく。

 

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