常連さんは箱の中

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。

 一度目も二度目もそれは変わらず、気づいた瞬間に俺は迷わず遂行してきた。

 しかし今は違う。

 遂行せずこのままでも何も問題ない。今の俺には帰還しようと思う熱量がまるでない。




 何度目かのこの状況。

 始めこそ戸惑ったが回数こなしてしまえば状況の把握は瞬時にできた。俺自身が覚えていなくても魂の記憶として残っていた。

 それにこの腹から出ている細い紐。オカルトをかじったことがあれば分かるだろうが、シルバーコードなんて言われているものだ。

 そして頭の中に流れる『三分以内にやるべきことをやれ』という言葉。性別も年齢も一人なのか複数なのかすら分からない囁き。


 だが熱量を失った今の俺にはさっぱり分からない。


 やるべきものが頭に浮かばない代わりに見たことのある景色がヒントのように順々と浮かんでは消えていく。


 たどたどしい視界で大きな母の手に抱かれて小さな手を伸ばした打ち上げ花火。

 お揃いの制服を着た赤ちゃんと並ぶ懐かしい園舎。アトラクションのような先生の背中に揺られて見る夢。

 大きなランドセルの色をバカにしたこと。親友になった今でも許さない。

 教科書の落書き、文字にならない文字でつづった社会科ノート、好きな娘からもらったシャーペンの芯は今でも残っていたはず。

 真っ白な期末試験と真っ赤な父の顔。頬がジンジンと熱かった。

 当たり前に番号のない掲示板。なのに胸の奥が締め付けられて目玉が熱くなる。

 荒れた校内、教師の怒号。同類になりたくなくて必死で勉強した。

 番号を表示した画面に花びらが舞う。本人よりも泣く母の顔もゆらゆら揺れた。初めて自分が認証されたような気がして言葉が出なかった。

 その日に食べたご馳走は澄んだ美味しさで骨身に染みた。

 一人きりのワンルーム。狭いのに広くてとても寒い。

 無人島のようなキャンパスライフ、放置されるバイト、隣人の深夜パーリー。眠れぬ夜は大量の課題と共に過ごす。

 消えぬクマ、増える雑務、奪われる成果。

 初めての彼女は美人局。


 曖昧な記憶からできた走馬灯は忖度なのか苦しい場面はスキップしてくれていた。

 帰りたくないというのが本音かもしれない。





 白い部屋というより箱の中。

 何もない空間に座っていると不意に腹が釣り糸に魚が食いついたようにツンツンと引っ張られる。シルバーコードが誰かに引かれている。

 だが俺は動かない。

「三分、長いな」


 何も起きないまま時間だけが過ぎていく。

 やるべきこと……。

 それは簡単なこと。

 この頼りない紐を命綱に元の身体へと心の底から強く願いながら辿たどること。

 帰りたい帰らなければ!

 その思いでこの紐を掴み手繰たぐりよせる。

 ふいに触れようとする俺の手を紐は光のようにわずかな温かさを残して

 やっぱりどうしても戻ろうとは思えない。

 俺にはもう戻る


 どんな辛いときも一緒にいてくれたがいないのだから。

 仕事で忙しい両親の代わりに幼い兄弟の世話と家事に追われる日々に差した救いの光。たった一瞬テレビに映し出された彼女を見た瞬間に自分が抱えていた泥のような苦しみからスッと解放された。

 それから子守唄は彼女の曲になり、クラスメートからされるどんな嫌がらせも彼女のグッズをポケットに忍ばせることで耐えられた。不機嫌な父に殴られてもお小遣いを貯めて買った公式グッズであるハンカチで押さえれば痛みも消し飛んだ。筆箱に仕込んだ彼女の定規を折られた時は相手も同じ目に合わせたかったが、久々に見たテレビで微笑む彼女にあれほど荒ぶっていた怒り鎮まっていた。バイト代のほとんどを仕送りに取られても彼女のライブへ行くためなら過酷な労働も数日に一度の食事にも耐えられた。


 何度死にかけても彼女の元へ帰っていけた。


 それがどうだ。

 たった一言で俺たちは捨てられた。




 まばゆい光の中心で星屑のような俺たちを瞳に宿し、彼女の花のような唇が告げたのは『結婚していた事実』と『再婚』だった。

 祝福しなければ一ファンとして応援してきた支えてくれた彼女の人生なのだ、心臓を引き裂かれようと血涙を流そうとそうしなければなるまい。

 だがそれと同時に彼女の唇は次々と俺たちファンを地獄に突き落とす。

 十代で産んだ『隠し子』、夫となるトップヲタとの『妊娠』、大嫌いだったアイドルの『引退』

 全てが崩れていった。

 俺は知らぬ間に人妻に貢ぎ、彼女はその金で子供のおやつを買っていた。

 握手の時にいつも『もう少し頑張ってくれないと二人の将来が見えないな?』なんて言っていたのは金を無心するため?

 貯金も食糧もないライフラインの止まった部屋で破壊の限りを尽くした。




 そしてこの箱の中。

 一番最近食べ物を口にしたのはいつだっただろうか?

 それもどうでもいい。

 世話をしていた兄弟ももうバイトを始める年齢になった。両親の仕事も落ち着き、手を上げることもなくなった。介護が必要だった祖父母は施設への入居が決まり、手続きも終わった。


 ちょうどいいタイミング。

 俺はもう必要ない。




 その時一つの映像が脳裏に流れた。

 それが未来だというのは瞬時に理解できた。


 派手な遊びをする兄弟の姿。その後、後部座席でうつむきフラッシュを浴びせられる映像。

 ひしゃげた缶ビールを投げつける父とその後ろに立つロープを手にした母の姿。その背後には輪にしたロープがぶら下がっている。

 ヒステリックな職員に食事を投げつけられる祖父母の様子。


 そして、腹をめった刺しにされたモノクロの彼女の訃報。




『三分以内にやるべきことをやれ』

 春風のような強い風に圧されるように自分の中の何かがカチッと音を立ててはままった。

 俺は腹から出た紐を思いっきり引いた。

 長い三分でようやく戻る理由を見つけた。

 歪む口元を抑えきれないまま急加速して壁に散った。

 薄氷が割れるように散る様は何度見ても美しいと思う。

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