エピローグ

旅立ち

 太陽が空高く昇り、南門の前の広場にさんさんと陽気を注いでいる。


「本当に、もう行くのかい?」

 名残惜しそうに、ニケは言った。


「ええ」

 アレスは答えた。

「プシュケと話し合って決めたんです」


「お父様のことは、グールによる事故で片がつきそうだよ。アレスくんとプシュケちゃんに容疑がかかることはない。それでも、本当に行くのかい? ミネルウェンで暮らし続けることもできるんよ?」


 すでに、プシュケの救出劇から二週間が経過していた。

 国王の「不慮の事故」で、ミネルウェンは混乱していた。それでも、女王・ニケの手腕で、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。


 なお、ニケの判断で、エクスマキナの運用は問答無用で廃止されることになった。

 ニケならきっと、誰も犠牲にならない、誰も踏みにじられない政治をきっと行ってくれる。〈希望の家〉の子供たちは今度こそ、幸福に暮らしていくことができるだろう。そしてミネルウェンは、真の〈減らない国〉へと生まれ変わるだろう。


「ニケさんが旅の物資をたんまりと調達してくれたのではありませんか」

 アレスは、ニケから譲り受けた栗毛の馬の頭を撫でながら、快活に笑って言った。

 

 馬には大きな皮のカバンがふたつ装着されており、その中には水や食料、日用品や服や毛布などが入っている。良質な弓と矢もプレゼントしてくれた。それらすべてを、ニケが用意してくれたのだ。


「そうだけど……だけど……いざこうしてお別れとなると、僕、寂しくて……」

 ニケは幼い子供みたいに顔をくしゃくしゃにして、やがて静かに泣き始めた。


「ニケ」

 プシュケはニケに抱き着くと、背中に優しく手を回した。

「必ず、また戻ってくるからさ。今生のお別れじゃないんだぜ」


「うん……うん……」


「ニケ。とってもとっても、すっげぇお世話になったよ。ほんと、ありがとな」


 自分より頭二つ分ほど背の高いニケをあやすプシュケ。その様子はどこかチグハグで、かわいらしかった。

 

 プシュケの手首には、ソピアから貰ったミサンガが結ばれている。

 アレスは自分の手首に視線を落とす。そこにも、ソピアから貰ったミサンガが結ばれている。

 

 ソピアさん……。俺、また旅に出ることにしました。プシュケと話し合って決めたんです。俺たちは世界のことを何も知らないんだって、ミネルウェンで痛感したんです。俺たちは世界を知って、自分に何ができるのかを知りたいと思うんです。そして、少しでも世界がマシな場所になるように、できることを必死でやってみたいんです。ソピアさん、少しの間だったけど、本当にありがとうございました。好きと言ってくれて、本当に、ありがとうございました。とても嬉しかった。あなたとの思い出は、死んでも忘れません。


「また、会おうね。待ってるね」

 言うと、ニケはプシュケの額に口づけをした。それから、アレスの頬にも。


 アレスはキスの余韻で頬を赤らめながら、「あの、ニケさん」と言った。

「……けっきょく、エクスマキナの中の子供たちは、どうなることに……?」


「……楽に、してあげようと思ってる。子供たちの体は生きている。魂もある。だけど、脳は壊されて目覚めることは二度とない。だから……」


「……そうですか。では」


 アレスは、ポケットからあるものを取り出すと、それをニケに手渡した。


「これは、リボン?」


 そのリボンは、プシュケがソピアにあげた誕生日プレゼントだ。ディカイオとの戦いのあと、アレスがエイレネ寺院の地下で見つけて拾っていたのだ。おそらく、ソピアが抵抗して暴れた際に落ちたのだろう。


「ソピアさんを大地に還してあげる際に、これを一緒に送ってあげていただけませんか?」


 ミネルウェンでは、火葬後の遺骨を大地に撒く習慣がある。そしてその際、故人が生前に大切にしていた物を、遺骨と一緒に風に流してあげるのだという。そうすることで、故人の手元に送られると信じられているのだ。


「プシュケ、いいですか?」

 アレスはプシュケに尋ねた。


「もちろん」

 プシュケは涙をこらえて答えた。

「ソピア、それ、すっげぇ似合ってたからさ」


 いよいよ、お別れの時だ。ニケが門番に向かって「開けてやって」と叫んだ。


 やがて〈平和の壁〉の南門は、ゴゴゴと重厚な音を伴って、ゆっくりと内側に開いた。


 アレスとプシュケは馬を連れて、門へ歩いていく。


「旅、やっぱりやめたいか、アレス?」

 プシュケは少し不安そうに尋ねた。

「やっぱりミネルウェンに住みたいか?」


「いいえ」

 アレスは口元に微笑を浮かべて、首を横に振る。

「わくわくしますよ」


「ありがとな」

 プシュケは、屈託のない眩しい笑顔を弾けさせた。

 

 彼女の笑顔は、いつだってアレスの心を慰めてくれる。


「旅の途中でさ……」

 プシュケは、日没のようにゆっくりと笑顔を消していく。

「……もしかしたら、シャリテたちとばったり再会できるかもしれねぇよな」


「……そうですね」


「そしたらさ、あたし言うんだ。しばらくはアレスと二人だけで旅をするって。そんで、必ず戻ってきて、シャリテたちの国作りの手伝いをしてあげるってさ」


「……」


「シャリテなら、許してくれるよな、きっと」


「……ええ、そうですね。きっと」


 南門をくぐると、二人は後ろを振り返った。


 ニケと憲兵たち、アリシャをはじめとする〈希望の家〉の子供たち、そして宿屋のご主人と女将さんも、手を振ってくれている。


「アレスくん! プシュケちゃん!」

 ニケは手を筒にして、口元に当てて叫んだ。

「いってらっしゃい! また会おうね! 元気でね! キシシッ!」


「行ってきます!」

 アレスは叫んだ。

「必ず、また会いにきます! 俺たちのこと忘れないでくださいね!」


「行ってくるぜえええ!」

 プシュケも叫んだ。

「みんな、お元気でなー! 風邪ひくなよー! ちゃんと食べろよー! ちゃんとうんこしろよー!」


 アレスとプシュケは馬に跨る。アレスが前、プシュケが後ろに。

 二人を乗せた馬は駆けだした。目の前には荒涼とした大地がどこまでも続き、地平線に溶けている。


 背後からは、ニケたちの声援がしばらく追ってきた。アレスとプシュケは何度も振り返り、涙の混じった声で叫び返した。

 

 ミネルウェンの姿が豆粒くらい小さくなった時、アレスは言った。


「あの、プシュケは……その……ご両親に関する記憶も、思い出したのですよね……?」


 二週間前、プシュケはディカイオに〈先祖返りリフレイン〉を投与され、ご先祖様の記憶を得た。

 それと同時に、現世での失われた記憶も蘇ったのだと、彼女は言っていた。すると、彼女の両親が殺された時の記憶が蘇っていても、おかしくはない。


「……少しだけな」

 考えるような時間を置いて、プシュケは答えた。

「なんで?」


「……二週間前、エイレネ寺院の地下で、俺はあなたに真相を打ち明けようと決意した。でも、言えなかった。だから今、言わせてほしいんです」


「……」


「俺は、許されないことをしました。あなたを、不幸のどん底に陥れることを……」


「アレス」

 プシュケは遮るように言った。

「だとしても、きっとお前に悪気はなかったんだ」


「悪気があったとかなかったとか、そういうレベルの話ではなくて――」


「アレス」

 プシュケは、また言葉を遮った。さっきより強い口調だった。

「たとえアレスが、あたしや、あたしの大好きな人たちに悪いことをしたのだとしても――」


 プシュケはそこで言葉を切って、たっぷり十秒は間を置いた。その時間、彼女の心がひどく葛藤しているのを、アレスは背中で感じ取っていた。


「――あたしは、アレスを許すぜ」


 アレスは、はっと息を吸い込んで、目を見開いた。その瞳は、みるみる涙で水没していった。


 乗馬していてよかったと、アレスは思った。後ろに乗っているプシュケに、この情けないツラを見られずに済むのだから……。


「……ありがとうございます。プシュケ」


「なぁ、ところでさ、知ってるか?」

 プシュケは、急に挑発的な口調になった。

「あたしってさ、人に依存するタイプなんだぜ」


「何を今さら……。知っていますよ。長い付き合いですし」


「アレス。お前さ、覚悟しておいたほうがいいかもな」


「……え? どういう意味ですか?」


「なんでもないよ。ふふ」


 プシュケの押し殺した笑みが、振動となってアレスの背中に伝わった。ちょっとぞわりとするアレス。


「いちばん近い国、どこでしたっけ?」

 アレスが背中越しに尋ねた。


「〈蒸気の国〉だ。なんかさ、すげぇ速さで走る鉄の塊があるんだとよ!」


「なんですか、それ? 鉄みたいに重いものが、速く走れるわけないじゃないですか」


「だよなー。でもさ、世界は、あたしたちの知らないことだらけなんだよ」


「言えてますね。ミネルウェンで痛いほど思い知りました」

 アレスは笑った。

「ところで、今日はどこまで進みましょうか?」


 プシュケは「うーん」と唸ったあと、言った。


「行けるところまで!」


「賛成です」


 少年と少女の旅が、いま始まった。



〈END〉

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アレスとプシュケの冒険 ~減らない国での出来事~ 汐見舜一 @shiomichi4040

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