第4話 傘になりましょう
合鍵を出して鍵穴に入れると、それはスルッと開いた。いつもより、スムーズに。
⋯⋯明かりの消えた玄関でなにかを踏んで転びそうになる。スタスタとリビングに歩いていくとヒールの片方を拾う。ドアは半開きで、お楽しみの最中だ。
「『マリッジブルー』なんてないじゃん。それとも独身最後のお楽しみってヤツ?」
じゃあね、と振り返りもせず逃げるようにその場を後にした。
なによ、なによ、なんなの!?
なにがいけなかったの?
電車に遅れたから――?
電車の中の気分は最低だった。
わたしはいちばん壁際の席に座り、冷たい壁に寄りかかって考え事をしていた。
こういう時に思い出すのはいい思い出ばかりだって言うけれど、まさにその通りで、わたしの頭の中は壊れたラジオみたいに同じ曲を流していた。
付き合い始めた頃に流行ってた「ずっと一緒に」って感じの曲。
まぁ、噂がないわけじゃなかった。
龍明は外科医志望で体格もいいし、看護師と
バカみたい。『マリッジブルー』とか言っちゃって、それ以前に気持ちが離れちゃってるって考えたことがなかった。
ほんと、バカみたい。
「――あの? 大丈夫ですか」
ぶわっと涙がこぼれてくる。仁科さんの瞳は心の一番弱い場所を突いてくる。
「仁科さん⋯⋯」
わたしは彼の服の裾を掴んだ。彼は少しおろおろして、ガラガラに空いた電車の隣の席に座った。
「肩、貸してください」
「連絡先も知らないストーカー男なのに?」
びっくりして顔を見る。やさしく微笑んでる。
「冗談です。他人だからこそ、やさしくできたり、安心できることってありますよね?」
「⋯⋯いいですか?」
「望むところです。斎藤さんの傘になりましょう」
それはちょっとクサいと思った。
だけど気持ちは伝わってきた。
彼は――本当に彼はわたしを――。
彼のマンションは駅の真ん前で、電車の発着がよく見えた。あの日、ストーカーのように駅前にずっといたわけじゃないとわかって、少し笑う。
わたしは仁科さんに手を引かれるまま、その部屋に行き、窓から電車が出た駅を眺めていた。
紅茶をいれていたティーポットを置き去りにしたまま、彼はわたしを抱きしめた。
わたしは最初こそ驚いたけれど、体の重みを彼に預けた。ホッというため息が耳元に聞こえ、くすくす笑う。彼から紅茶の香りが漂う。
それからわたしたちはわたしたちらしい、穏やかでスローなおしゃべりのようなキスをした。彼がしゃべって、わたしがしゃべるような。
「⋯⋯いいですか? 僕、やさしくできませんよ。初めてなんです」
「え?」
答えるより先にギュッと抱きしめられて息が苦しくなる。タチの悪い冗談じゃないかと思っていると、彼はわたしの背中を撫で回すばかりでなにもできずにいた。
わたしはそっとスカートをめくり、彼の手を導いた。
「それがどこなのかわからない」
彼の手は無遠慮に下着に入ってきて、またはぁーっと、さっきより深くため息をついた。
「待たせなくて済みそうですが、待たせたくなりました」
わたしは答えの代わりに、彼の腰骨に右足をかけた――。
◇
わたしと龍明は破談になった。
あの女とはずいぶん前からズルズル続いていて、切れなかったらしい。
「いいから」と断った帰りの車の中で、そんな反省になるのかわからない気持ちの悪い話を聞かされた。
そう言えば、仁科さんの連絡先を知らない。いや、またマンションに行けばいいかな、と思う。あの不器用な人の部屋に、別の女がいたりするまい。
龍明の話は続いていた。結婚しても続けようと迫られていたこと、正直、断りきれなかったこと――。
「理世、俺たちやり直せないかな?」
頭の中でなにかが壊れた。
わたしは車の鍵を開けて、右折レーンにいた彼の車から飛び出した。
左車線はがら空きだったので龍明に「バカ!」と言って振り返って⋯⋯信号が変わる前に走り抜けようとしたところ、突っ込んできた黒い車に⋯⋯。
「理世! おい、理世! 返事しろよ! くそっ! ――医者だ、誰か救急車を早く呼んでくれ! 理世! 返事しろ! 理世!」
「りゅ⋯⋯」
「そうだ! 結婚なんてどうでもいいから、そのまま戻ってこい! 理世!」
「りゅう⋯⋯」
涙が頬を伝う。
胸が灼けるように熱い。
結局、龍明はまだわたしのことを――。
「理世!」
声が遠ざかる。
ああ、そう言えばわたしは仁科さんに呼びかける名前さえ聞くのを忘れていた――。連絡先も知らない。笑える。
彼の笑顔が、頭に浮かんだ。
(了)
〖KAC20241:3分間〗扉が閉まる前に――sideB 月波結 @musubi-me
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