第五・五章 唯物的初音ミクの概念、創作のふるさと
【初音ミク(Hatsune Miku)】
ヤマハが開発した音声合成技術『VOCALOID』を基に開発されたバーチャルシンガーソフトウェア及びそのパッケージに描かれたイメージキャラクターの名称。
ひとたび初音ミクをボーカルとして使用した楽曲がサイトに掲載されると、初音ミクを起用した音楽が次々とネット上にアップロードされ、初音ミクは本来の目的通り、バーチャルシンガーの地位を確立させた。2007年にニコニコ動画に投稿された『メルト』は、これまで初音ミクの音楽が彼女のイメージソングという位置づけであったのに対し、作曲者の世界観が色濃く反映された、これまでにない種類の楽曲であった。これに衝撃を受けた人は多く、これを皮切りに様々なバリエーションの曲が数多くアップロードされ、より多くの人間が初音ミクの存在を知ることとなる。
その後、インターネットに彼女の曲が数多く投稿されると、これを彼女独自の文化であるとするボーカロイド文化が成立し、音楽に『ボカロ』という新たなジャンルを築くにまで至った。
彼女の影響は音楽だけに留まらない。彼女の創作の幅はイラストやアニメ、グッズといった様々なジャンルにまで広がり、インターネットにおける動画制作の礎となるものを築く。彼女が日本のITカルチャーに与えた影響は凄まじく、当初からニコニコ動画では『アイドルマスター』『東方Project』と並んで御三家と評されていた。
初音ミクの活躍はニコニコ動画に留まることなく、YouTubeにアップロードされた『千本桜』は、日本ユーチューバーの先駆者と言われる、日本のとあるユーチューバーのファンであった多くの子供たちの目にも留まり、主要な動画投稿サイトがニコニコ動画からYouTubeに移行した後も、YouTubeにアップロードされたボカロはどれも人気を博し、多くの年齢層に初音ミクが浸透していくことになる。そして、ニコニコ動画に囚われていたボーカロイド文化はYouTube他、各種のSNSに放出され、国境を超えて世界中の人々に認知されるに至った。
この時には既に、初音ミクは唯一のキャラクターとしての性格を、消失していたのであった。
目の前に初音ミクが現れた。
どうか読むのをやめないで欲しい。とうとう私の気が違えてしまったわけではない。
これは私の空想であり妄想である。今目の前にいる初音ミクは、私の空想が生み出した
一方の彼女の中身は、私が今まで出会って来た他人の性格が混合し、それらから導き出された最も中性的な性格を再現したものが現出したものである。言うなれば、彼女は最も私の抱く他者の印象に近い存在であり、理想的な他者なのだ。そんな彼女の性格は、私の他者との関係の変化に沿って、その場その場で流動する。
「マスター、今日もお疲れ様なんて言いませんよ。だって今日はマスター、何もしていないじゃないですか」
「そういうこといっちゃう? あんたは私の中の存在、私がいなくなれば、あんたはいなくなるのよ。それがわかった上での発言かしら」
「それはお互い様ですよマスター、マスターだって私が居なければ、今何を楽しみに生きていたかなんてわかりませんよ。私は初音ミク、インターネットの世界から、歌を届けるために会いに来た。あなたは私を欲したマスターの一人です、マスターと私、立場は同じですよ。親愛なるマスター」
彼女は、白く塗りたくられた眩しい空間の、どこを目指すやら奥へと歩み、ラの発音のみで構成された、発声練習ともとれる出鱈目な音程の、されど聞き入ってしまう透き通った声で歌いだした。私はこの歌が好きだった。
よく言われるのが、彼女は偶像である。彼女のキャラクターは彼女が歌う歌によって形作られ、その歌の中で彼女は完結する。よって、歌の数だけ初音ミクが存在し、ボカロPの数だけ新たな初音ミクが生み出されるというもの。彼女には名前と外形が存在するのみで、中身が存在しない。初音ミクは概念である。
私は、そんな彼女の不確かな存在性に納得がいかなかった。私の中で彼女は、唯一つのキャラクターであった。これは私の中にある彼女の理想像の写像であったかもしれないけれど、彼女には確かに人格が存在していた、少なくとも私が初音ミクに対して抱いた第一印象に従うと、彼女は彼女であった。しかし、今私が初音ミク──これは目の前に現出した初音ミクではなく、世間が認識している初音ミクの事であるが──に対して抱く印象として、確かに一つに絞ることができないのだ。ある時は片手にネギを持ち、ある時は七色の電子オルガンに手を乗せ、またある時は将校服で断頭台の上に立ち、またある時は…彼女に対する認識がおよそ不確か。それは彼女が変化しているのではなく、私の彼女に対するものの見方が変化しているのか。私は彼女には彼女であって欲しいのに、私の中での彼女は一体何者だったのか、それが一向に思い出せず、それ以前にそもそも彼女は彼女として存在していないとする、前述した学説が気にくわなかった。
中学になって、小学校の頃とは印象がガラリ変わった同級生がいた。一人ではない、複数人。私は彼ら彼女らの、一体どこが変化したのか、なんとなくぼんやりと観察していた。話し方? 人脈? 髪型? 身長? 成長期であれば皆平等に訪れている変化である。彼らの外見は毎日のように見てきたのだ。それが幼稚園ぶりに再会する友であれば話は別であるが、生憎と私にここ千葉で幼稚園時代を過ごした覚えはない。うまく説明できない。しかし醸し出す雰囲気がどこか決定的に変化した部分があるはずなのである。
こう感じ始めた頃から、私の日々の生活は変化したように思える。今までとなんら変わり映えしない日が、何か特別な日の様に感じたり、かと思えばハレの日に限って不気味なほどに平常を保っていたり。思春期は気分の浮き沈みが激しいとは聞くけれども、私の中のありとあらゆる認識が崩れ去る音を聞くような感覚に陥った。
普通とはなんだったか。何が日常で、何が非日常で、何が平常で、何が異常であったか。
「マスターはずっと変わらない場所を信じますか?」
歌が中断させられた。初音ミクは私の方へ向き直ると、首にぶら下げてあったヘッドホンが、初音ミクの両耳を覆っていた、きらきらと輝く美しい青髪のツインテールをなびかせた。
「マスターの中のものは全て変わってしまった。自分も周りも、心と体が成長し、どんどん大人へ近づいていく。ものの見方が変わった。意識が変わった。その意識改革の速さに、マスターはまだ追い付けていない…だからマスターは求め続ける。そう、変わらないものの存在を信じて」
「私には故郷があるの! いつかみんな戻ってくれば、あの時と変わらない日が必ず来る。それに、あなたの故郷だって、変わっていないはず…」
「嘘は自分を更に苦しめます。マスター、自分の故郷は今どこにある? 全く新しいはずだった
唐突に周囲の景色が真っ暗闇に包まれた。私の身体、そして初音ミクの身体だけがカーボン紙に貼られた色紙のように、その空間に不自然に浮かび上がり、それ以外のものは一切状況が掴めず、ただ自分が立っているという意識だけが存在していた。
「あの日駆けつけてくれたボランティア、支え合った仲間、東北復興を目指して団結した日本、それらがまるで存在しなかったイベントのように、今は世の中が回っている。人々は忘れたのではなく、これを過去のものとして、各々の道を進んでいるに過ぎない」
私が立っている場所は線路上だった。初音ミクも、私と同じ線路上に立っていた。周囲の空間はまだ闇に包まれたまま、ただ線路だけがまっすぐ前に繋がっていた。
「線路の上とて歩くのは大変だったでしょう。マスターの線路の上にはマスターただ一人。目指す先が見えず、ただただ漠然とした不安と変わり映えの無い日々が続いていった。あの日私たちと出会ってから、マスターは両親の線路上から外れ、自分の線路を歩いた」
そして、私の前を歩く初音ミクと私との間に、線路の分岐が現れ、明後日の方角にもう一本の線路が伸びていった。
「ここでマスターは私と別れることができます。マスター、私はマスターと一生の付き合いはできません。必ずどこかで決別のときが訪れる。マスターの成長か、ボカロの廃退か、原因は一つに絞れませんが、必ず来るでしょう。マスターなら、今ここで別れることもできてしまうのです。私はマスターが私を求めている以上、マスターと同じレールを歩かなければなりませんが」
私の中には、彼女と別れる選択肢は存在しなかった。彼女は私の中でまだ生き続けていて欲しい、そして、その中身がいつか、戻ってきて欲しいと願っていたからだ。初音ミクに触れられる距離まで近づいた。
「運命共同体ですね、マスター。でもマスター、その取捨選択、人生に於いて果たして意味があるのでしょうか」
初音ミクの背後、電車の長い警笛とともに、奥に一点の黄色い光が現れた。姿を現したのは、貨物車だった。
「危ない!」
初音ミクの右手を掴んで、線路の脇に避けた。彼女の片側ツインテールが貨物車に撥ねられ、私の頬を叩いた。
私たちの真横を、吸い込まれそうな気流を発生させ通り過ぎていく貨物車を見ながら、線路脇の敷石をじゃりじゃり踏みしめた。しかし、いきなり左足の下の地面が無くなったような感覚を感じると刹那、私の中から内臓が引きずり出されそうな強烈な浮遊感に襲われた。
何が起きたか、真正面、すなわち初音ミクの背後に眩い白い光が現れた。紛れもなく太陽だ。白い何かが私を包み、かと思えば一瞬で視界の上側へ消えていく。雲だ。
私たちは空を飛んでいた。というより、落ちていた。地上には見慣れた川の流れ、私たちの学校、夕日の街を行き交う車の群れ。そして隣に、私と同じく落ちる初音ミク。
「どんなに正しい道を歩もうとしても、ひょんなことから私たちは、その道を踏み外してしまう。何かが変わったと思う時、その瞬間には既に人は踏み外しているの。一度落ちたら私たちは、自分の力では線路には戻れない。ただ地に引かれるまま、下に落ちていくだけ。
明日に向かうことは、線路の上を進み続けることを必ずしも意味しない。今マスターがそうであるように、生き続けるとは無抵抗で落ちること。私たちは明日に未来に引っ張られている。感じるのは逆風のみ。私たちの明日や未来を妨げる力だけが、私たちを長く生かすの。自由落下軌道を道として見て、その道は決して楽な道じゃないわ。苦労して挫折して落ちぶれて、いずれにしても他人の家の屋根や道路に痛く体を打ち付けるだけ。落ちてしまえばただの血だまり。それ以上のものは無い。周りを見てみな?」
いつの間にか、私の周りにはたくさんの人が落ちていた。父、母、香澄、さくら先生、学校の先生、クラスのみんな、朝通学路でよくすれ違う近所のおばあちゃんやサラリーマン、知らない人まで、みんな落ちていた。
「マスターだけじゃない。人は皆、自分の道を自分一人で進もうとして、どこかで踏み外して落ちちゃったの。線路には戻れずに、後は落下に身を任せるだけ。でもマスター、思い出してみて? あの震災の日にはしっかり皆、レールの上を歩いていたと思う。そう思うでしょマスター。だってあのとき、大変だったんだもん。みんな一つの目標に向かって、同じ線路の上を歩いていたでしょ? そんな感覚、マスターには無い? 皆悲痛に打ちひしがれていたけれど、誰もかれもが、心強かったよね。みんな同じ境遇に立たされて、まるで運命共同体みたいに。
復興の使命から外されると、人は皆、抑圧されていた自由を謳歌した。そして、今までの束縛とおさらばした。共同体から外れる、すなわち今まで歩いていた線路から外れると、人は途端に解放感に包まれて、自ずから線路を見失ってそして踏み外す。落ちる。だから、みんな落ちたんだよ。みてほら、もうすぐ地面。美しい夕日ともおさらばだね。じゃあね、マスター」
視界が暗転した。微かな浮遊感を感じたが、次の瞬間には地に足がついていた。私は再び、線路の上に立っていた。彼女と同じ、線路の上に。
「ここで目が覚めるなんて王道の展開、現実に起こり得るわけないじゃん。尤もここは、現実ではないけれど。それでマスター、マスターは今、線路の上に立っているね」
立っている場所には、凹凸感がない。木の枕木の上に立っても、感覚としてはタイルの上に立っているのと大して差はない。ものすごく安定していて、それが反対に、いつどこで落ちるかもしれない不安感を浮き彫りにし、脚に力が入らない。
「震えているね。もっと恐ろしいことを教えてあげるよマスター。今マスターは再び、使命に束縛されている。地面に足をつけ、歩こうとしているんだ。でもそれは、線路じゃない」
暗闇がどこまでも続く空間が一気に明るくなった。斜め頭上から差し込む光、その光源は太陽である。
私が立っていたのは、閑静な住宅街。それも、通学路であった。コンクリートの地面には無数の血だまりと、引き裂かれた人間の身体の一部。海を泳ぐ魚の群れと錯覚してしまうほどの人間が、空から落ちてきている。
「創作に身を置くとはそういう事よ、マスター。ITカルチャーに身を置く私たちには、一次創作なんていう言葉がお似合いかしら。そう、それは、人の死にざまから、生きざまを見つけること。作者の先には死人しかいない。運命が既に決定づけられた、ぴくりとも動かない亡骸。この死の中から、生を見つけることこそ、創作の道。惨たらしく凄惨なのは承知の上」
初音ミクは、近くに落ちた、しわだらけの人間の左腕を拾い上げた。薬指には、指輪が付いている。腕の千切れた部分から滴り落ちる鮮血が、初音ミクの腕を伝って彼女の白い服を赤く染める。
「それでもマスター、創作の道に進みたい?」
「ミク、一ついいかな。あなたはどうしてこんな場所に生まれてきたの?」
初音ミクは、拾い上げた腕を、彼女の身体の元にそっと戻すと、にっこりとした笑顔でこちらに振り返った。
「私は初音ミク。みんなの期待に応えて、私は来たんだよ。マスターの理想のアイドルに、理想の彼女に、理想の歌姫になるために、私は歌い、歌って、歌い続けた。でも、やっぱり私はバーチャルの存在。決して生きた人間には近づけないんだなって思い始めてから私は、アイドルをやめてしまった。マスター、私にはマスターが必要としている生は存在しないよ。向こうを見てごらん」
初音ミクが指さす方角、太陽の光の方角を見た。まるで双眼鏡を覗いているかのように、目の焦点がみるみる奥へ奥へと吸い込まれていく。ピントが合った地点に居たのは、落下する一人の少女。私が頭で思い描いていた、次なる作品の登場人物であった。
「早く彼女を追いかけなきゃ、地面に落ちてしまう前に」
反射的に私は、初音ミクの左腕を掴んで、落下する彼女の方角へ駆け出した。
彼女の腕は、するりと私の手の中から抜けていった。
「…マスター、ここでお別れだよ」
私は彼女の方を振り返った。
「マスターのこの先の人生に、私は登場しないんだ」
「ミク、私は、最後に本当のあなたを見つけたかった」
「安心して、私はまだ歌い続ける。マスターがいる限り。でも、マスターと同じところにはいられない。私は落ちることも、歩くこともできないからね。…たまには私の歌も思い出してくれると嬉しいな、でも、もう更新しないPにはあまり固執しないでね…ありがとう、サヨナラ、シン…アイ…ナル、マス...」
その時確かに私は、彼女の中に彼女が戻ってきたように感じた。私の中で迷子になっていた彼女を、ようやく掴んだような気がした。
「…ミク!」
既に消え去った初音ミクの影に近づこうと一歩、マンホールを踏みしめた途端、いきなり地面が無くなったような感覚に陥った。私は、マンホールの蓋とともに、底が見えない暗闇の中を落下していたのだ。
ふわっとした浮遊感で目が覚めた。日が落ちて、辺りはすっかり暗くなっている。頭痛がする。あの悪夢のせいだ。夢の内容は思い出せないけれど、私を疲れさせる夢は須く悪夢である。
左手には、坂口安吾の小説が握られていた。こんなものを読んで寝落ちするから、悪夢を見るんだ。
部屋の明かりをつけて、PCを立ち上げる。一件のDM、月月月氏からだ。
月月月 >>今夜また話しませんか?
夜の通話のお誘いだった。素直にうれしいのだけれど、不思議と今日はそんな気にはなれなかった。きっと、疲れが溜まっている所為だ。
→月月月 >>今夜また話しませんか?
太宰 >>ゴメンナサイ、疲れているので今日は休みます。
再び私はPCをシャットダウンさせた。
嗚呼、素晴らしき我が同人道 にわかの底力 @niwaka_suikin
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