第五章 属性小論、過去の呪い
【締め切り(しめきり)】
人生は締め切りの連続である。仕事にしろ趣味にしろ移動にしろ、我々が生きている中で、締め切りを意識しない瞬間はこれっぽっちも訪れない。人間いつかは死ぬ定めにある以上、物事に締め切りが設けられるのは必然である。時間は有限であることをよく知っているから、我々は時間に対しては非常に敏感なのだ。仕事において締め切りを守らなければ社会的に殺され、趣味活動において時間を無限に考えていれば経済的に殺される。長い時間何も食べなければ生物的に殺され、本来の意味での死が訪れる。(英)deadline:死線。締め切り。
線を超えることは死を意味する。だからこそ時間は貴重なのだ。最近になってやたら費用対効果、コストパフォーマンスなどという言葉を耳にするが、若者が消費活動や生産活動に妥当性を求めるようになったのは、娯楽が増えて時間の使い方が多様化してきたことも一因であろう。そんな娯楽を提供する我々同人は、ひとつの物を生み出すために莫大な時間と労力と費用を費やし、それら活動に物質的な『効果』を一切求めない。コストパフォーマンスが同人道の精神とはおよそ遠い存在であり、そんな同人の道を歩み続ける我々同人ですら締め切りを守らねばならないのだから、締め切りとはまこと理不尽な存在であると常々思う。
人間というのはまことに不思議な生き物で、頭で理解はしていることでも、いざ行動を起こすと、目指すところとは真逆の方向に動こうとすることが“稀に良く”ある。
例えばそう、もう夏休みも残り一週間なのに宿題に一切手を付けず遊び惚ける。
例えばそう、原稿の締め切りが明日の放課後までであるとわかっていながら、呑気にニコニコ動画でくだらないMMDなんぞを視聴して現実から逃避する、などなど。
この奇妙な行動によって何かしら損害を受け、悲嘆の念に襲われることを、近い言葉で後悔などと言い表すが、その言葉の意味と表す状態に至るまでの道筋を我々は詳細に説明することができるにも関わらず、このような状態に誰彼構わず陥ってしまう。ということは、人間は学習能力に些か遺伝子的な問題を抱えているに違いない。
この重篤な事態に対しての責任を太古からの遺伝子に詰め寄ったところで、現状が回復することはない。
私はうさぎだ。のろのろと、だが着実に前へ進んできた後悔に追いつかれた哀れな野うさぎだ。それか、朝飯前に飲むはずだったミルクを溢して嘆く哀れなバニーガールだ。
部屋の隅に鎮座する姿見に映された自身の貧相な身体を何気なく眺めると、着ていた部屋着が徐々にバニーガール衣装へと変化していくような気がして、衣装と貧相な身体が望まない化学反応を起こして吐き気を催した。目に毒だ。姿見にはシーツを被せた。
さて、どうしたらこの惨状から逃れることができるか。
一つ、土下座して謝る。文芸部に顔を出しづらくなります。
一つ、仮病を使う。すぐばれます。
一つ、国外逃亡する。するためのビザもパスポートも資金もありません。香澄の場合、どこまで逃げようと地の果てまで追いかけて来そうです。
土日を挟んだのにも関わらず、純白を極めたままの原稿用紙をどう対処するか、ちんけな私の頭では解決策の一つも浮かばなかった。
「そんで俺に泣きついて来たと」
「お願いしますよ、シンクロニシチ氏」
私はネットの友人に縋りついた。PC画面の向こうから耳に振動するgeekらの低音ボイスのなんと心強いこと。
「俺のところからシナリオライターを派遣するから、一緒に考えてみるといいよ。招集かけるから待ってて」
ライター等が集う一斉チャットの着信が私のもとにも届く。ネット上に小説を投稿してはいるものの、ライターなどといったたいそうな肩書は私にはいくらか重すぎるために自分からは名乗らないが、心御優しい同胞のご厚意で私も彼らの集いに参加させていただいている。とはいえ、何か特別活動するわけでもなく、言わばただいるだけの存在である。
「紹介する、参天堂シナリオ担当、
「ドウモ、ゴショウカイニアズカリマシタ、月月月デス」
私のヘッドホンを通じて画面越しに聞こえてきた音声は、ボイスチェンジャーを噛ましたおよそ人間の声とは思えない機械的なものであった。
一般人の感性からしてみれば、ボイスチェンジャーを通しての会話に違和感を抱くかもしれない。がしかし、同人たちは、仕事の都合、プライベートの安全性、覆面で活動する者も少なくない。そのことを理解していた私は、特にとっかかりなく、すんなりと彼の特徴を受け入れることができた。
「ナニ、カキタイ?」
「そうですね、官能小説を書きたいなと・・・」
「描ケルヨ、トクイブンヤ。ソウダネ、先ズハきゃらくたーノ特徴カラ決メヨ」
マウスのクリック音が数回聞こえた。PCの通話画面に、相手の画面が共有される。そこには、セーラー服やメイド服、それらは決して奇抜なデザインではなく、頭に思い描いたそのままのものを引っ張り出したような、簡素なデザインの衣装に身を包んだ、特徴的な色や形の髪形をしたアニメ調の少女キャラクターイラストが並べられていた。
「幾ツカ、ヨウイサレタ素材ガアル。コノ中カラ、モットモいめーじガ近イ
共有画面は下へ下へとスクロールしていく。移り変わる画面の中で、私はとあるイラストに目が留まった。
「これ、今のもう一度」
明らかに周りのキャラクターと比べて背が低く、様々な箇所が幼く見える少女は、赤いリボンを胸元で結んだセーラー服を着ており、癖毛ショートな黒髪、前髪を白い花弁の花飾りがついたヘアピンで留め、ぱっちりとした二重の目を片方閉じ、開いた左目に人差し指と中指を当てて笑っていた。
「コノ子ダネ。イイネ、コノ子ノネンレイハ十五才、中学二年生デ、てにす部ニ所属シテイル。身長一四六せんち、体重四十三きろ。将来ノ夢ハオカシ屋サン。ドオ?カワイイデショ」
私はこの少女のイラストを見て、ひとつ感じだことがあった。興奮、今までにない程の。わかる、頭の中に、脇の下に、指先にまで、ドーパミンが溢れて脈打つ感覚が。
純粋無垢で幼気な少女が、ある日を境にずんずんと大人の階段を上っていく様を、一度小説で書きたいと思っていた。物書きなら誰しも一度はあるであろう。そうであると信じたい。もう戻ることができない、真夏の白熱した太陽の下で無邪気な笑みをこぼし、手にした飴玉が握力の不十分なばかりに、黒々とした蟻の群れに攫われ泣きじゃくるかつての自分のような少女が、歳を重ねるに連れいらぬ知識を蓄え、生物的に賢くなり、それはある種冷酷な弱肉強食の世界で己の身を護る武装でもあるが、鎧の奥でいがみ合う醜い世界で鉄の鎧を外し、柔らかい皮膚と皮膚とが触れ合うことで内に籠り放しだった自分が傷つき穢れ、かつての純粋を永遠に失わんとするその行為に、興奮を覚えずにはいられない。第一、自身が芸術家であると言いたいわけではないが、穢れ無き純白な画用紙を、様々な色で汚したいと思う気持ちは、芸術に携わる者たち全てに共通する一種の破壊衝動ではなかろうか。
私の脳みそ内で散乱していたパズルのピースが、ぴたり、ぴたりと、次々に噛み合わさっていく快感が全身を駆け巡った。登場人物にかかったモザイクが溶け出し、体内を流れて指先へ伝わり、鉛筆から排出される。椅子に張り巡らされた尻の根は、栄養素の代わりに物語の素材を吸収し、頭の中でストーリーへと変換されていく。
「時系列ヲはっきりサセテ、主人公タチノ行動ヲ考エルンダ。ダンペン的ニ思イ描イタ光景ヲ繋ゲテイクヨウナいめーじ。心理ビョウシャハトリアエズ放置デイイヨ」
月月月氏の意見も取り入れながら、あとは物語の骨組みを完成させていくのみであった。
「サイゴニ、登場人物ノ心情ヲ考慮シナガラ、物語ヲ俯瞰シテ、不明ナテン、ムジュンテンガナイカ確認スルンダ」
二時間前、白紙をただ茫然と眺めていただけの私が嘘の様、今日いっぱい怠惰を決め込んでいた脳細胞が目覚め、こめかみが膨張している。頭蓋骨が割れるように痛い。きっと、脳みその放射熱に耐えられなくて、骨にひびが入ったんだ。
本日投稿する予定でいた小説を放置して、私はあらすじ制作にのめり込み、気が付けば蛇腹折りカーテンの山の隙間から青白い微かな光が漏れていた。
「おはようございます、太宰先生。よくお眠りになられましたか?」
鏡を見なくとも本日の体調からおおよそ想像がつくよほどひどい顔色をしているであろう私を認めた香澄は、そんな嫌味を炸裂させた。
「香澄、香澄、今日ノート写させてね。いつもみたいに取っていないは今後文芸部での信頼に関わることを今日一日念頭に置いていてね」
最新ページに設定あらすじが殴り書かれた黒歴史ノートが香澄の手に渡った途端、そのノートを伝って全身の力がすっと抜け、ふわり体が宙に浮いたかと思えば、次の瞬間には香澄の柔らかい身体にふんわり包まれていた。
「よしよし、大変よく頑張りました。褒めて遣わそう」
「お褒めに預かり光栄の極み乙女であります」
紙人形のようにへ垂れ込んだ私を胸に置いたまま、香澄は私の黒歴史ノートをぺらぺらと捲る。
「いいじゃないですか、太宰先生」
彼女の口は毎度あまり当てにならないが、この時は香澄の胸が大きく膨らんだことが密接する身体に直接伝わり、彼女の発言に説得力を持たせた。
「でしょでしょ、私の中では一応最高傑作なんだけれど・・・」
「特にこの東京駅八番ホームの退避スペースから神話生物が現れてSAN値をごっそり削ってくところとか「ごめん、見てるページが圧倒的に違う」
大学ノート三頁に跨る資料を静かに行ったり来たりする香澄。どうも自分の書いたものが誰かに読まれている瞬間は、妙に気恥しい。例えそれが授業中、片目を閉じて右脳を寝かせながらもう片方の脳を動かして黒板の数式を半ば機械的に書き写しただけの数学のノートでも同じことが言える。書きなぐったようなノートでも、文字の形大きさ、マス目に沿っているか否かなど、細かいところで個人差が現れる。文字は心の写し鏡とはよく言ったもので、人が書く文字はやはりその人自身の性格を正確に表しているものだ。常に自分をさらけ出す自由主義的な立場をとっていたはずの私も案外、なるだけ自分の性格を他人に知られたくないのかもしれない。
私は彼女をよそに窓際に立って外を眺めた。今日一日が始まって間もないというのに、もう既に半日ほど経ったような気でいる。夜更かしをした所為で体内時計が狂っているんだ。私が必ず毎朝行うルーティーンの一つに、部屋のカーテンを開けるというものがあるのだが、これは朝日を浴びることで人間の体内の時計を一度リセットする意味があるらしい。私は必死に体内時計の調節ねじを巻き戻す間隔を日光から掴もうとしたが、寝起き直後ほぼ無意識下における感覚はなかなか掴みずらかった。
外では朝練に励む野球部員の猛々しい叫び声が響き渡る。幸次くんの声も、この中に混ざっているのだろうか。見ると幸次くん、一年生のボール拾いを手伝っていた。古き良き野球魂に照らし合わせれば威厳の消失ともとれる彼の行動は、平成のモラルのまさに手本であるように思えた。彼は周囲が見える人間であった。誰かがこぼした水を雑巾で拭いたり、廊下を這っていたカミキリムシを手でつまんで窓から放り投げたり、先週の係決めの時だって、私が挙手をしているところをしっかりと見ていた。あまりに些細なことで周囲には気づいてもらえていないが、それでも確かに、彼の働きはこの社会を円滑に動かしている。野球部の練習風景全体を見渡して初めて、これは気が付くことである。
ふと、一羽のカラスが太陽を横切った。影が朝の教室を駆ける。影につられて教室の様子を伺うと、さっきまで目と鼻の席にいたはずの香澄が教室中央の自分の席に座ってくつろいでいる。
「で、どうだった? 香澄」
私が尋ねても香澄は暫くノートを眺めている。そして獲物を発見したフクロウの如く唐突に顔を上げた。
「太宰先生、もしかしてギャルゲやられてます?」
「ぎゃ、ギャルゲ? …あ」
そうか、作成を手伝っていただいたのがゲームシナリオライターだから。しかし何故、香澄は気が付いた。正直私が見たところでゲームシナリオっぽさがあるわけではない。
「いわゆるその…物語に属性なるものが付与されています。今までの先生の作品には見られなかった傾向です」
「属性?」
「言うなればメイドカフェでいうところのメイドです。経営者の目的はカフェを営むこと、通常のカフェですとお客さんは珈琲を飲む、或いは寛ぐ、またはその両方といった目的を持って大抵の場合訪れます。しかしそこにメイドと言った属性が付与されます。するとどうでしょう、お客さんの目的はメイドたちに会い、話し、一緒に写真を撮ることに変わります。寛ぐといった目的で来るお客さんは減ってしまいますが、メイドさんに会いたいといった新たな需要が生まれるのです」
そう言い終わると、香澄は生意気にも胸ポケットから一丁前の目薬を取り出し、ぽたり、ぽたり垂らした。
「ふぅ…、ある一定の客層を得ることはできます。しかしながら、属性に傾き過ぎてしまいますと、折角の先生の文学から芸術性が損なわれてしまう。これらのキャラクターの特徴が、即物的な性表現の一つと捉えられてしまうのです。今回の同人誌企画では、あくまで性的表現は芸術的でなければなりません。もしこのキャラクターそのものの性的要素に作品の魅力が傾いてしまうようでしたら、太宰先生、おかわりですね?」
「部の設立が、一歩遠のく」
「その通り」
香澄は指をパチンと鳴らした。彼女が今まで見せたことがない新たな行動パターン、『指パッチン』が香澄の生態研究ノートの一項目に記された。
「それでも太宰先生は、これで行きますか?」
今の私には、これが最高傑作だった。これ以上の物は、おそらくこの中学在学中には浮かばないだろうと思われた。まぁ、毎作毎作『これが最高傑作だ』と息を巻いて取り組んで挫折するのだけれど。
「私なりに頑張ってみたいと思います。どうでしょうか、編集長」
「はい、改めまして、これからよろしくお願いしますね、太宰先生」
「ふむふむ、アンドロイドの少女が搭載された人工知能の学習能力より感情を手に入れ、それに気が付いた家庭用アンドロイド育成プログラムの若い指導員にあれやこれやを教え込まれるという・・・なんかお主の考えるエロとかなんとかって、結構中年男性的なんじゃの。何かもっと、ぴちぴちの女子中学生らしい健全なエロティズムを考えていたのじゃが」
「あなた、自分のファンに何を求めているのですかさくら先生」
さくら先生はぐうの音も出ぬといった表情で、小さくぐぅと唸った。
「しかしの、いくら何でもここまでポルノグラフィに偏った題材を、学校の教員までも納得させる芸術的エロスに昇華させることなど可能なのか?いくらなんでも」
「やらなければだめなんですさくらさん。生の根源的衝動は四つの欲望に分類されているんです。その内の一つである性欲に、私たち学生は恥ずかしい以外の感想を抱くことを禁止されている。確かに成人男性が想像するような大衆的エロティズムにおいて正しい性の知識が軽視されている傾向は教育者の立場としては危惧しなければなりません。しかし!文芸部の目的は誤った知識の流布ではありません! あくまで生物学的現象として、機械的なものとして教え込まれた性に関する諸々を、生き物らしく、文化的側面から見つめる機会を教育現場においても構築しようではないかという働きかけが目的ではありませんか!」
そんな目的私は初めて聞かされましたよ部長括弧仮。
「なんの答えにもなっとらんが、まあ、やるだけやってみるか。えーっと、太宰先生だっけか。とりあえず、『キャラクター』・・・大衆的じゃの。『登場人物』の印象だけでも教えてはくれぬか」
「ええ、キャラクターの外見はこんな感じのイメージで」
元となった月月月氏のイラストをさくら先生にお見せする。さくら先生は首を横に傾げ、食い入るようにそのイラストに注目する。
「ははぁ、これは月月月氏のイラストじゃな」
「わかるんですかさくら先生」
「こやつとは一度一緒にお仕事をしたことがあってな。まあいい、早い話がこのイメージにアンドロイドのイメージを重ねればいいのじゃな」
「そう言うことです」
するとさくら先生は、なにやらガサゴソと通学カバンを漁りだした。中から取り出したのは、ペンタブである。すらすらといじりだした後、液晶画面をこちらに向けた。
「過去に描いた『To Heart』のHMX-12、マルチじゃ。こんなイメージでどうかの」
これは、先生がまだ無名だった時代のエロゲ習作、その原画ではないか。ヤバい、喉から手が出るほど欲しい。ヤバい! ヤバいヤバい!
「ヤバいヤバい! お主、なんか口からにゅるっとしたものが出ておるぞ! や、化け物!」
頭にずしりと乗っかった、ぶよぶよとした毛玉のようなものの重みで目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
「おはよう、リゼルくん」
どうやら部活動中に寝てしまったらしい。枕元に突如日影がつくられる。
「他のメンバーはお帰りになられましたよ。あと残っているのは私とあなたと彼だけです」
授業終わりの管理人は、スーツ姿で私の横に立っていた。こうしてみると、やはり彼女は社会人なのだと感じる。
「すみません、私もそろそろ帰ります」
身の回りのものをかき集めるようにしてカバンへ滑り込ませ、パイプ椅子から立ち上がる。
「・・・・・・あなた、無理はしていないかしら」
「はい・・・? 無理、ですか?」
おそらく私の目の周りのクマを見て、管理人は心配したのだろう。
「はは、大丈夫ですよ。なんとなく、私は今の状態を気に入っています」
「そう、ならいいのだけれどね。何かあったら私かリゼルくんに相談しなさい」
管理人はそう言って、リゼルくんを抱えたままプレハブに鍵を掛けた。
サッカー部と交互に使用しているグラウンド。今日は夕日で赤く染まっていた。防球フェンスの向こう側に、何やら人影が見える。
「あ、幸次君!」
何を思ってか、気が付いたら私は幸次君を呼んでいた。そんなつもりはなかったのに。彼はこちらに気が付いた。手を振っている。
「うそ、どうしよう」
彼は走ってこちらに向かってきている。部活終わりの彼を呼びつけ、こちらに走らせ、『ごめん、やっぱり何でもない』じゃあ申し訳ない。何か、何かいい言い訳が無いか。瞬時に思い浮かんだのは、ドラえもんの秘密道具、『未知とのそうぐう機』である。怒るハルカ星人ハルバルを、のび太はどのように説得させたっけ。
「ビー玉、いる?」
「どうしたの唐突に!?」
いきなり呼びつけた私に用を聞くでも用がなかったことを咎めるでもなく、彼は私に向かって「帰ろっか」の一言だけ発した。そして今、私は春の終わりの夕日の中で、彼の隣を歩いている。季節外れの石焼き芋の屋台が、河を跨いだ向こうの街の方角から聞こえてくる。
「か~ら~す~、なぜ鳴くの~、からすのかってでしょ~♪」
「今時それを歌っている中学生初めて見た」
「小学生の時に流行らなかったか? ・・・あ~そうか、三年生くらいの時はまだいなかったっけ」
「私がこっち来たの大体MH4G くらいの時でしょ」
「それはもうちょい後じゃなかった?」
私たちは、小学生だったころの懐かしい話題で盛り上がった。ここに来てから4年、たった4年、私の中では、人生の7割くらいをこっちで過ごしていたように感じる。テレビも街の広告も、元の明るさを取り戻しており、全てが正常に回っている。まるで、あの日が無かったかのようだ。
「里美さんの故郷って、どんなところなの?」
「ん? 私のふるさと。あまり、覚えていないけど」
そう、福島の小さな町。町内みんなが知り合いで、みんなで助け合って暮らしていた。漁師の露木さんは、夫婦で魚屋も営んでいる。いつの時代の三輪車の荷台に氷を大量に積んで、車が一切走っていない細い県道を、センターラインをはみ出して三十キロでぶっ飛ばす。友達と一緒に何回か荷台に乗せてもらった。車の窓を開けて走るのとは大違い、まるで鳥か空気を泳ぐ魚にでもなったかのような爽快感。私の隣に居たのは、近所のさんすけ君。私の悪い友達だった。母からはその子と絶対に遊ぶなとくぎを刺されていた。確かに彼といると碌な目に遭わなかった。ある時は不良に絡まれ、ある時は蛇に噛まれた。またある時は、なんでだったかよく覚えていないが、学校で先生に呼びだされた。私は隣のまた隣の街の私立の小学校に通っていたため、彼とは学校は別。しかし、担任も彼と私が一緒に遊んでいることを良く思っていなかったような気がする。
春になると河原に菜の花が咲き乱れ、夏になると馬に跨った甲冑武者の列が、ぎらぎら照り付ける日光の中を練り歩いた。秋には産業まつりがあり、近所の男子は法被姿で囃子に参加していた。冬は氷が張った池でスケートごっこ。星がきれいだった。空気が澄んでいた。蛍が見えた。遠く離れた海の小波が聞こえた。過疎っていたけど、その分活気があった。
「──それが今では・・・」
「ごめん、辛いこと思い出させちゃって」
「ううん、ときどきこうやって思い出してあげないと、無くなっちゃうような気がするの」
ふるさとは、私の中にしかない。この千葉県で、私がふるさとを忘れたら、あとは誰が、私のふるさとを想ってくれるのだろうか。
「ただいま、おかえり」
今日は母が出張でいない。大広間から伸びる階段を上がり、二回の小部屋へ向かう。デスクトップの画面は深い闇、画面越しになにかが覗いている。画面に反射した私の顔がそう見せているのか、いや、視線は決して一つや二つではない。やがて画面の闇は部屋を飲み込み、四方八方から何者かの視線に襲われるのだ。そうなる前に、私はPCを立ち上げた。すぐさま青い画面へと変わる。これから始まる物語の一頁目を開くような興奮と、じれったい気持ちが合わさり合う奇妙な時間が続く。
ようやく開いたホーム画面には、一件のダイレクトメッセージが表示されていた。月月月氏からだった。
>おはよう、順調かい?
>>はい、なんとかシナリオは完成しました。
そう短く返信を終えた私はそのまま、執筆活動に入った。
たまに自分のノートを見返してみると、よくもまあこんなに設定を書いたと過去の自分に感心してしまう。架空の人物、架空の国家、架空の法律、架空の科学技術、明らかに破綻した設定のものもちらほら見受けられる。わざわざ図書館まで足を運んで資料をあれこれ探したりなんかしたっけ。
だけど、折角作ったこれらの設定もほとんど使っていない。撲り書かれたこれらの文字列も、いずれは綺麗な文字へと生まれ変わり、多くの人々の目に写ることを夢見ていただろう。それをいつまでもノートの肥しにしたままでは、彼らの怨念がいずれ夢に出てくるのではないか。そんな恐ろしさが、彼らの願いと裏腹に、私を遠ざけるのだ。
そして私はノートを閉じ、静かに投稿するボタンをクリックするのだった。
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