第四章 寿限無、こわい

【学校運営(がっこううんえい)】

 小中学校というのは、多くの子供たちが生まれて初めて集団生活を経験する施設であろう。社会の仕組みが本格的に再現されており、そこに通う多くの子供たちが共に生活し、共に成長し、社会で役立つ多くを学ぶ機会が与えられる。

 学校によっては、生徒の主体性に重きを置く方針を採用しており、行事運営や経理まで、生徒は自分たちの手で、学校という巨大な組織を動かしていくことになる。学校という枠組みの中で、子供たちは各々が自分に与えられた役割をよく理解し、行動し、自分が社会でどのような立ち位置に居るのかを自覚する。

 やがて子供たちは成長し、大人になって社会へ出た時、これらの学校生活で培われた経験則がどのように生きるか、どのように生かすか、一人ひとりの選択が、今後の我が国の社会を大きく左右していくことになる。



 一日の時間が、日に日に短くなっている気がする。気のせいだろうか、気のせいなのだろう。だが実際、私は今さっき教室で朝のホームルームを終え、そして弁当を食べた。五時間目の数学は学校の時間の半分くらいを占めていた気がする。

 そして今日は、なんといっても学校運営では欠かせない、学級委員を決める日である。私の学校では、二年生に上るとクラス全員、いずれかの委員会に所属することになっている。二年生で決まった委員会は、そのまま三年になり、卒業するまで引き継がれる。委員会を統括するのは生徒会委員、本日より発表された立候補者の中から、今週末開かれる生徒会委員選挙により選抜される。

「まず始めに、学級委員をやりたい方男女一名ずつ」

 担任の呼びかけにすぐさま反応したのは、男女それぞれ一人。去年度も学級委員を経験したふたりだった。他に候補者もいなかったため、私たちのクラスではこの二人が即決で学級委員に任命された。

 委員会決めの司会は早速、この二人に引き継がれた。

「学級委員となりました、仙波満せんばみつるです」

「おなじく学級委員となりました、山下花音やましたかのんです。よろしくお願いします」

「さっそく次の委員会決めに移ります、公正取引委員三名」

 こんな調子で委員会決めは続いていった。

 私は入りたい委員会を既に決めていた。ずばり、図書室運営委員。通称、図書委員。週に数回程度、図書室のカウンター業務と本棚の管理、月イチでおすすめ書籍の紹介をする、やや出番が多いが仕事は比較的簡単な委員会である。

「次は図書委員、三名」

 ついにこの時が来た。私はおそらく一年でおよそ三回挙手をする。一つがクラスの係決め、一つが委員会決め、後の一つはなんかのタイミングで。私は挙手をするために貯蔵された分の体力を三分の一使い果たし、ほぼ地面に垂直になるように、手の指が圧力で結合してしまうほど密着させ、肘を無くし、高々と手を挙げた。

「四人候補者がいるので、後程じゃんけんをいたします」

 慌てることはない、この展開は既に想定済み。倍率は一・三、幸い競争率はそんなに高くない。いける、勝てる。根拠の無い自信が際限なく湧き上がってくる。

 相手は三人、総数四人、三人が勝ち、一人が負ける。二人組のペアを二組作成し、双方負けた方で最終決戦となる。

 一回戦、相手は関口君。小学校時代、給食では残飯処理係として大いなる働きを見せた彼。数量に限りがあるプリンなどをめぐるじゃんけんで培われた、彼のじゃんけんの経験を侮ってはならない。

 しかし、私には作戦がある。じゃんけんに手慣れた彼ならご存じなはず、男子は最初にグーを出す確率が高いという出所不明の統計データ。私がじゃんけん初心者であることから、彼は私が既に世間に広く知れ渡っているこの説に忠実に従い、最初のグーに勝つため、パーを出すだろうという単純な予測をしているはず。

 そこで私は、最初にグーを出すことで、彼のチョキに勝つことができる。

「それでは関口さんと今川さんがひとまず決定で」

 彼は、『最初はグー』のグーを出してから、その手を一度ひっこめることなく、そのまま本戦に入った。私は彼の行動に理解が追い付かず、手のひらが作り上げたグーの形状は中途半端に崩壊し、あろうことかチョキに限りなく近い形状へと変形し、固まった。信じられないことに、彼は『最初はグー』のグーのまま手のひらを開くことが無かったのだ。

 続く二回戦、相手は香澄、本人には悪いが、彼女には絶対に負けたくない。最初に何を出すのだろうか。相手の目をよく観察する。・・・・まったく読めない。

「いいですか?太宰先生、私は最初にパーを出します」

 陽動してきた!どうする、仮に彼女が本当にパーを出すとして、私は当然チョキを出す。しかし、彼女がそれを見越して、グーを出す場合がある。冷静に考えよ、すると、ここでの最適解はパーとなる。予想した通りに彼女がパーを出すとすると相子に持ちこめ、彼女がグーを出すとすると私は勝つことができる。この戦、勝てる!

「小野さんを入れて、この三名に決定しました」

 負けた。読まれた。こちらに向かい意地悪く微笑む香澄、私の頭の中が丸見えであったことをあざ笑うかのような微笑み。私は開いた手を、皮膚に爪痕が残るほど硬く握りしめた。

 結局私が選ばれたのは、保健体育委員。体育の度に用具の片づけなどを任せられ、体育祭直前には体育祭実行委員とともに体育祭の準備も手伝わされる、非常に面倒な委員会に入れられてしまった。

「よろしく、里美さん」「よろしく幸次くん」

 さらに田中くんと同じである。田中くんと同じ委員会だからとて、何をどうするわけでもないのだが、私は改めて、自分の男子に対する免疫の軟弱さに気づかされた。

 私は別に、田中くんもとい男子全員を病原菌扱いしたいわけではない。関わる人間を必要最小限にしてきたせいで、男子という一風変わった生態の生き物に関する情報が不足しており、対人免疫が暴走する。その結果、会話が滞る、正常な思考ができないなどといった症状を発症してしまうアレルギー体質なのだ。

「委員会が決定しましたので、クラスの係決めに移りたいと思います」

 私は一年で三回ほど挙手をすると言ったが、これから二回目の挙手が行われようとしていた。係決め、この時間に、一年の命運がかかっている。手を頭の上あたりに伸ばすと、指先にひりひりと伝わる、教室に霧のごとく漂う薄っすらとした緊張感。

「原当麻さん、それは挙手ですか?」

「あ、いえ、違います」

 私の中では既にこれだという係が決まっている。ずばり、『生き物係』。当然だが神奈川出身の音楽グループではない。去年からこの教室にいるミドリガメの亀吉くんと、水槽にメダカ三匹の餌やり当番、及び飼育環境の整備を担当する係だ。以前から生き物を飼ってみたいと思っていた私にとって、これほど魅力的な係がどこにあろうか。いや、あるはずがない。

 私は今年の挙手専用体力貯蔵庫から残量の五割を出し抜き、その時に備える。

「続いて、生き物係二名」

 時は来た!私は再び腕を天空へ向かって伸ばした。・・・その時右肘に電流走る。

「っつ!?」

 右肘を、椅子のどこかに思い切りぶつけてしまったのだ。頭の真ん中あたりまで持ち上がった右腕は、重力に引っ張られ虚しくも机の下に降ろされようとしていた。

「生き物係はこの二名でよろしいですか?」

 私の他にも、二人手を挙げているのが、痛みで涙で霞む視界から確認できた。全身の力が抜けていく。左腕で支えようにも、もう生き物係はこの二人で決まってしまいそうな空気だった。今から私が入り込める隙も度胸も無い。ああ、さっきの挙手紛いの動作にはしっかり反応してくれたのに、今回の挙手に反応してくれない。私の心の中のスイッチが諦めに切り替わった。仕方がない、小学校から四年間経験して、プロ並みの腕になったであろう黒板係に今年度もなってやろうじゃないか。

「待ってください、原当麻さんが挙手していました」

 その声は、保健体育委員会で今後学校生活を共に送っていく予定の幸次くんだった。

「本当ですか?原当麻さん」

「え?あ、ええ。ちょっと手をぶつけてしまって、でも大丈夫です、他の係を選ぶんで」

「いえ、先ほど私は彼女に譲っていただいたので、生き物係は原当麻さんにお譲りします」

 声の主は、生き物係に挙手をした一人、香澄だった。

「よろしいのですか?」「ええ」「それでは、生き物係は井戸川さんと原当麻さんで決定です」

 何事もなかったかのように、係決めは続いた。


「さっきはありがと、幸次くん、香澄」

 ホームルーム直前の帰り支度の時間、タイミングを見計らって、二人にお礼を言った。

「いや、礼を言われるようなことはしていないよ」

 彼はやや赤面しながら彼らしい溌剌とした笑顔を見せた。

「それにしてもすごいですね、随分後ろの席に座っている彼女の細かな仕草まで気が付くなんて、やっぱり野球などスポーツしている人は他人の微細な動きに敏感なものなのでしょうか」

 香澄はそう言って、彼に笑いかけた。香澄は笑っている。私には分かった。これは彼女の普通の笑い方じゃない。関りの薄い彼には分からないだろうけど、香澄は口角を上げて笑うような人ではない。表面に表せない、他意を奥に押し込めた感触の悪い笑いだった。

 私は彼女の網膜に、人影を見た。彼と、私の影を。


 放課後、私は金魚とメダカの餌をやるため、生き物係の井戸川くんとロッカーの中の餌をさがしていた。

「ここにあるはずなんだけど」

「ああ、あった。えっとー、小エビが亀吉くんで、この粒みたいなのがメダカの」

 私はメダカを担当した。

 水槽には三匹のメダカ、真ん中に河原で拾ったであろうつるつるの石と、奥に水草が生えている。匙で掬った餌を、水槽の上からパラパラと落としてやるが、果して餌に気づいているのだかいないのだか、当の本人たちは石の周りをふわふわと漂っていた。

 ふと、亀吉を担当している井戸川くんの方を見た。井戸川 湖南いどがわ こなんくん、私は彼が笑ったり、怒ったりするところを見たことがない。普段何を考えているのか、香澄とは違うベクトルでわからない。表情が出にくいだけだということは承知しているのだが、どうも、彼の心から感情が消失してしまっているのではなかろうかとついつい考えてしまう。そんな彼は今、甲羅から首を伸ばした亀吉と見つめ合っている。亀も動きがゆっくりで、のほほんとしていて、感情がわかりにくい。似た者同士、何か通じ合うものがあったのだろうか。

 そんなことを考えていると、井戸川くんがぼそりと呟いた。

「亀ってさ、普段何考えてるんだろうな」

 あなたにだけは言われたくないだろう亀吉も。


 部室へ行くと、既に皆揃っていた。

 どうやら、既に話し合いも進んでいたようだ。

「しかしのう、もうあと十五日切っておるぞ。なんとか完成するのか」

「太宰先生と私の力量次第でしょうね。大丈夫です、先生が何とかしてくれます」

「インフルエンザで休んだ時に勝手に名誉な係を押し付けられることには慣れている。とりあえず、何が決まったかだけ教えてくれないかな」

 決定事項を簡単にまとめると、記念すべき新文芸部初の同人誌では『情緒あふれる思春期の移り変わりの激しい心が生み出した男女間の関係のもつれ、軋轢を、心の成長に従って互いの適切な距離感や適切な対処法を掴んでいくことにより解決していく様を「生々しい性描写」←(ここ重要らしい)を交えながらさのさくら先生の挿絵を交えてライト文芸形式で描いていく』ことに決定したとのことだった。

「寿限無を読ませられている気分だった」

「改砂利水魚の水餃子(ぼそっ)」

「というわけで、太宰先生に宿題です。最低でも三日以内にあらすじを完成させなければなりません」

 あらすじを三日以内に。この文言だけで、私はおそらくご飯三杯は余裕で吐き出すだろう。私は四コマ漫画のあらすじを作るのに一日はかかる。それを三日でこなせと?できてせいぜい十二コマ漫画だ。

 そもそも私は、青春モノを書いたことが無い。SF、ホラー、ファンタジー、今まで書いてきた話はどれも、青春とはかけ離れている。

 SF×青春?できないこともないだろうけど、私の手にかかればおそらく、ちょっと夜が激しいバック・トゥ・ザ・フューチャーになるだろう。

「楽しみにしていたテレビ番組を録画し忘れた時の絶望感が漂っていますね、太宰先生」

「どうしよう香澄、できる気がしない」

 私は半ば涙目になって香澄に縋りついた。

「四コマ漫画を作るのです」

「へ?」

「ですから、今日一日で四コマ漫画を作るのです」

「へ?」

 肩をホールドする私の両手を冷静に手で払いのけながら、香澄はことも無さげに言ってきた。

「四コマ漫画を作ったら、その一コマをさらに四コマに分割するのです。そうすれば、十六コマ漫画の完成です。あらすじとして見れば申し分のない解像度でしょう」

 だんだんと、自分にもできそうな気がしてきた。

「よろしくお願いしますね、太宰先生」


 家に帰ると直ぐ、黒歴史ノートを取り出す。最新ページが、実に数年ぶりに更新される時が来たようだ。

 青春の四コマ、頭に思い浮かべる。


 「出会い、付き合い、乱れ、別れ」


 完璧だ。それを更に細分化。


 出会い

 桜舞う季節、曲がり角でパンを咥えた少女とぶつかる→同じ学年であることを知る→勇気を出して話しかける→同じ道で帰る


 付き合い

 同じ委員会に入る→校舎裏で愛の告白♡→初のデート→その流れでベッドへぁーン♡


 乱れ

 デートでテーマパークへ→待ち時間で気まずい無言→彼女がお値段異常なグッズを爆買い→価値観の相違から喧嘩


 別れ

 互いに疎遠になる→クラスの女子と二人で話してしまう→彼女が目撃→別れましょ


 うーん、なんの新鮮さもない上に、テーマパークの辺りが妙に生々しくなってしまった。

 第三者を投入して関係をもつれさせるか、それでも新鮮味に欠ける。いや、むしろ王道がよいのではないか。三日間しかないのだ、凝った物語など考えられるわけがない。しかし、王道なら王道で、読者が先の展開を予想できないようにしなければならない。そもそも王道とは何なのか、私は青春物語の王道たる展開を知らないのかもしれない。いくつかのパターンに分けられるはずだ。今まで読んだ青春小説を、思い返してみる。

『世界の中心で、愛をさけぶ』『ノルウェイの森』『時をかける少女』『トム・ソーヤの冒険』・・・

 考えれば考えるだけ、先ほど考えたストーリーがちんけに思えて悲しくなる。

 考えて、考えて、気が付けば、辺りはすっかり暗くなっていた。

 頭の中はいつの間にかシェイクスピアでいっぱいである。これ以上考えても埒が明かない。仕方がないから、パソコンを立ち上げた。

 フォローしていた投稿者の動画が更新されている。実に一か月ぶりの更新だ。

 ようつべ(YouTube)では、毎日決まった時間に制作した動画を投稿する、所謂毎日投稿が主流になりつつある昨今だが、この動画サイトではまだ、不定期に新作動画を更新するクリエイターがほとんどだ。

 とりあえず、うぽつ(uproadお疲れ)とキーボードを叩く。自分の打ったコメントが、右から左へと、黄色い枠に囲まれながら画面を流れていく。このうぽつが、動画内では初めてのコメントであった。

 彼の動画は、最近になってようつべの方へ侵攻を始めた、所謂ゆっくりと呼ばれるジャンルの動画である。細かい説明は省略させてもらうが、一般的に既存のゲームキャラクターに合成音声を当ててしゃべらせ、ゲームの実況などを行う動画を指す。

 彼は中でも、ある特定の事象について解説を行う、ゆっくり解説と呼ばれるジャンルの動画を投稿している。


『ところで霊夢、スパゲッティは好きか?』

『ええ、大好きよ』

『信仰してしまうほどにか?』

『ええ、それはちょっと…』

『じゃあ今日は、そんな霊夢にとっておきの宗教 ・ ──』


 彼のゆっくり解説は、実に多方面。歴史、宇宙、古典、カルチャー、様々なジャンルのマイナーな事柄について解説をしている。

 ウィキペディアに書かれている情報そのままコピーアンドペーストするだけのつまらない解説ではなく、彼の動画は独自研究を間に挟んだ、まるで論文のような内容になっている。読んでいるだけで眠くなりそうな内容でも、こうして音声で流すだけで、情報を強制的に頭の中に入れられているかのように、すんなり入ってくるから不思議だ。

 実は、シンクロニシチ氏や相当カッカ氏と知り合ったのも、彼が関係している。

 この投稿者はあらゆる分野のクリエイターが集うコミュニティの主催をしている。シンクロニシチ氏らはそのコミュニティに所属しているクリエイターなのだ。およそ一年前、作家にでもなった気でいた私が調子に乗ってそのコミュニティへと参加を表明したのをきっかけに、多くのクリエイターと知り合った。動画制作者、ボカロP、同人作家、ゲームクリエイター、声優、3Dモデル製作者、ニコ生配信者、普通に生活していたら、おそらく出会うこともないであろう種類の人間とこうしてお話ができている。他人とのコミュニケーションを苦手としていた私には、予想だにしなかった経験であった。画面の中の人々、画面の向こう側にいる人々と、ぐんと距離が縮まったように感じた。

 そんなのはまやかしだ。情報の発信者と受信者の間には、決して無視できない立場の違いが存在することを、この一年ちょっとの期間に嫌というほど思い知らされた。


『これが実際の彼女の運転免許証だ』

『頭にパスタをゆでるザル…、警察に免許証の提示を求められたらどんな顔をされるのかしら』


 制作者は日々、何かに追われているかのように忙しかった。更新の催促、人気が奪われることへの恐怖感、締め切りが迫る焦燥感、和やかな会話の向こう側には、いつも何らかのネガティブな感情が渦巻いていた。まるでビジネスの場に立たされたようだった。

 そうだ、私は怖かったのだ。一度踏み入れてしまったら、常に誰かに何かを言われ続け、耐えがたいプレッシャーに押し潰され、自分の知らぬ場所で、もう一人の自分がひとり歩きしてしまうのではないのだろうかと。不特定多数に自分の姿を晒すのが、嫌だった。不特定多数という言葉にさえ、嫌悪感を覚えた。

 しかし私は、なぜ今になって、作品を上げ続けているのだろうか。

 気が付けば、既に八話、自作の小説が世に晒されている。つい数日前には、全話に目を通してくれた人が現れた。他人目に晒されることをこんなにも嫌がっていたのに、今では多くの人に見てもらいたいと願っている私がいる。どこから出てきたのだろう、この私は。


『私の神社でも祀ろうかしら』

『好きにしろだぜ。今日はこれまで、よかったらユーザーフォローよろしくだぜ』


 回転いすにもたれ掛かって、目を閉じ、十数分間ブルーライトに晒された眼球を休める。疲れ切った視神経が映し出す目の裏の残像が、眼球を動かす度に視界の中央に入ってくる。人の形をした青い影だ。おそらく、画面に反射していた私自身の残像であろう。

 目を瞑っているとき、私は何を見ているのだろうと時々考える。やはり瞼の裏なのか、夢でも見ているのか、あの赤黒くて、妙に明るい空間は何なのか、視界の隅でちらちら動く影の正体は何なのか。視界の奥から、誰かが近づいてきたりしないのだろうか、本当に私だけの世界なのか。それとも他に誰か?

 そう考えると、目の前で蠢く私の残像が、急に怖くなった。耐えがたくなり、ぱっと目を開ける。パソコンの画面は省エネモードで黒くなっていた。私の顔が映る。朝、鏡で毎日目にする私とはまるで別人のようだ。部屋もいつもより暗い。自分のプライベートスペースが、何者かに乗っ取られたようだ。気味が悪い。

 部屋の電気を消し、リビングへと降りる。いつの間に、母親が帰宅していたようだ。

「いたならお帰りぐらい言ってよね」

 いつもの食卓だ。いつも目にする時計だ。いつもの電気の笠だ。私だけの、絶対不可侵の日常が、リビングに広がっていた。

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