桃猫
篠崎亜猫
桃猫
「私ね、桃色の猫が見えるの」
「はあ」
「いつもおうちに来てくれるのよ」
先生は変わった人だった。
作家業をしている人で変わっていない人の方が珍しいと聞くから、たぶん先生はこれでも普通だったのだろう。でもだいぶ変わっていた。編集者がよく失踪したり死んだり辞めたりすると噂で、その分別手当が出るほどの問題児だったが、しかし世間的には大御所なので、担当がつかないわけにはいかない人間だった。
「青じゃないんですか」
私は自分の分のお茶を傾けながら軽く聞く。苦いお茶だ。先生は薬効がどうこう言っていたけれど忘れた。まずいので、唇だけ潤して、飲んだふりをしている。もう3年、このお茶を飲んでいるけれど慣れない。地獄の釜の垢みたいな味だった。
「詩人なら青でしょう、青猫。都会の孤独ですっけ」
「ううん。でも桃色なのよ」
先生は浴衣姿で縁側の籐椅子に腰かけて、行儀悪く脚を小机の上に乗せたまま話した。長い黒髪は緩くクリップでまとめてある。艶黒子があって、まつ毛は長い。詩人、我原笑(われわらわらい)先生の本名を、私は知らない。
「じゃあその猫は孤独の象徴じゃなくって都会の欲望の象徴とかですかね。歌舞伎町とか、きっと桃色三昧じゃないですか」
「新稲さんは歌舞伎町、行ったことがおありなの」
「ないですけど、あそこはモンエナピンクしか勝たん!みたいな女子が多いって聞きますから」
「モンエナ……」
先生は、モンエナモンエナと呟きながら立ち上がってふらふら箪笥に寄って、帳面とペンを取り出した。それからまたふらふら籐椅子に戻り、サリサリ執筆を始めた。
こうなった先生はしばらく動かないが、私は今日、先生の原稿を取りに来たのだ。私は我原先生の本名も知らないし、原稿の在りかだって知らなかった。唯一知っているのは現金の在りかだけで、私は先生への対応が長くなった際は残業代と称してしばしば諭吉を頂戴している。
「先生、新作も大事ですけどまず提出分をくださいよ」
「モンエナ……の……アルミ缶、アルミ缶かな。リサイクル……輪廻」
「だめだこりゃ」
つけっぱなしの蚊取り線香は今日も臭いし、先生の家は無駄に広くて古かった。トイレと風呂からはギリギリ文明を感じるけれど、台所は汚いガスコンロだし、平屋で畳で襖で雨戸だった。おかげで楽に残業代がいただけるんだけど、と思いつつ、こんな環境にいれば私だって詩ぐらい書けるやい、とも思う。
私はスーツのボタンを数個開けて畳に寝転がり、いつの間にかそのまま眠った。
「新稲さん、おはよう」
「おはようございます……」
柔らかいおっぱいが顔に当たる感覚があって、私はとろとろ目を覚ました。ブラジャーを付けない先生のおっぱいが浴衣越しに私の硬い胸元で潰れていた。私にしなだれかかった先生は「よくお休みでした」と言って、黒蜜の飴と原稿をくれた。
外はずいぶん暗いようで、もう道には街灯がついていた。
「お夕飯食べて行きなさいとかないんですか」
「新稲さん、気をつけてね」
「話を聞け」
「あのね、桃色の猫なんだけど、最初は白猫だったんじゃないかと思うのよ」
「なんですかそれは。新作のインスピレーションですか」
「白猫が汚れて、洗われて、汚れて、洗われてを繰り返しているうちに、色素が定着して桃色になってしまったんだわ、きっと」
「はあ左様で」
私は一本に縛ったばさばさの髪を適当に弄りながら返した。早く帰って推しの配信が観たかった。
「それで、私は桃色の猫が見えるのだけれど」
「聞きましたよそれ。ではまた来ますんで来月分の原稿よろしくお願いしますよ」
玄関を出ようとする私の袖をつかんで、「今、その子が貴方の肩にいるのよ」と言う先生に半笑いで返した日、私は車に轢かれて死んだ。
猫はきちんと先生の所に帰ったらしい。
桃猫 篠崎亜猫 @Abyo_Shinozaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます