【KAC #1】一般号泣少年、運命の時を迎えるが迎えないかもしれない

二八 鯉市(にはち りいち)

一般号泣少年、運命の時を迎えるが迎えないかもしれない

 雪野 一樹ゆきの かずきには三分以内にやらなければならないことがあった。


 そして彼を見つめる巫女アーケにも、三分以内にやらなければならないことがあった。


 聖なる泉が、こんこんと湧き出ている。

 神託の間の空気は冷え冷えとしていた。

 巫女アーケの目の前には巨大な鏡があり、そこには異世界――雪野 一樹の暮らしている世界が映っている。


 鏡に映る雪野 一樹は今日、クラスの女子と共に二人きりでテーマパークを訪れている。先程買ったキャラクターもののポーチに描かれた顔が、彼の胸のあたりでニコニコ揺れている。

 そんなグッズの笑顔に負けず劣らず、ああ、雪野 一樹の幸せそうな顔は、なんと楽しそうな、あどけないのだろう。まさしく彼はどこにでもいる、普通の高校生だ。


 ――だが、彼は選ばれてしまった。


 アーケは、神託の杖を握りしめ、唇を噛んだ。


 「アーケ様」

背後で従者が深々と首を垂れる。黒いフード越しに、その表情は見えない。

「なんですか」

「本当に彼を今、召喚しなければならないのですか。いくら命運を握りしものとはいえ、まだ――幼い」

「お黙りなさい。今だから、なのです」

巫女アーケは、手をかざす。エネルギーの集約を感じる。

「彼――雪野 一樹には、我々の世界を救ってもらわなければならない。その為には、この四年に一度の、大地と月と太陽が祝福を告げるこの日でなければならないのです」


 大いなる始祖の神々は、彼を世界を救う勇者とすることを選んだのだ。巫女アーケはただ、粛々と自らの――仕事をするのみである。


 従者の声にはやはり躊躇いの息遣いが聞こえる。

「この日でなければ、ですか」

「ええ、絶対に。例外はありません」


 私は――声に、迷いが滲んでいないだろうか。

 できるだけ、冷酷で冷静な巫女として、あるべきように振る舞えているだろうか。



 アーケはを飲み込み、鏡を見つめた。



***


 弾む音楽、子どもの泣き声、笑い声、足音。土曜日のテーマパークは混んでいる。


 列に並びながら、雪野 一樹の心臓は飛び跳ねていた。

 次の、次のジェットコースターが帰ってきたら、自分たちの番なのである。一樹は、手汗をジーンズで拭いた。


  隣で、キャラクターグッズを持って自撮りをしていた緑川 双葉みどりかわ ふたばが、「楽しいね~」と微笑む。

 一樹は曖昧に頷いた。


 一樹の喉はもうカラカラだ。視界の端で、係員が次の誘導の準備を始めている。


 ――実は、一樹は絶叫マシ―ンの類が苦手である。

 ――だが。


 「次の方々、どうぞー!」

紺色の制服を着た係員が、一樹たちをジェットコースターの乗り場へと誘導する。

 安全バーをつけていると、「ふぅははは」という地の底から響くような低い声がスピーカーから聞こえた。

「『魔の三分間』へようこそ諸君。君たちは、我輩の恐怖のマシーンから無事に帰還することができるかなァ?」

一樹は――安全バーをグッと握りしめた。隣で双葉が――世界一大好きな女の子、双葉がぽんぽんと安全バーを軽く叩く。

「乗ってみたかったんだよね~! 今日は誘ってくれてありがと!」

「い、いいんだよ」

喉を引きつらせながら、一樹は答えた。そして、ン、ンンン、と咳ばらいをする。


 一樹は、銀色のレールが続く前を見据えた。


――この『魔の三分間』の、一番上から落下する瞬間。

――双葉に、『付き合ってください』って叫びながら落ちるんだ!


 安全バーは既に手汗でぬるぬるであった。


***


 巫女アーケは暫し、目を閉じていた。始祖の神々の言いなりである自分という存在、そしてこちらの世界へと呼び寄せる少年の運命を捻じ曲げてしまう事――

 逡巡と思考の海から、意識が浮上する。


「いけない、そろそろ時間だわ」

アーケは神託の杖を掲げた。大地と月と太陽、すべての波動が重なる瞬間は間近だ。彼を呼び出すエネルギーを、杖に集中させる。


 「ごめんなさい、でもあなたは選ばれたんだも、の?」


 アーケは――覗き鏡を二度見した。


 鏡の中の、雪野 一樹――は――係員に抱えられ、連れ合いの双葉に背をさすられながら、エチケット袋に嘔吐していた。

 顔色は紫、目は落ちくぼみ、全身にびっしょりと汗をかいている。先刻買ったキャラクターグッズの可愛いポーチが、首からぶらんぶらんと揺れている。


 「……えっと」

集中。集中しなければ。アーケは大地と月と太陽の御名において勇者を召喚するエネルギーを杖に灯そうとしたが。

「えーとなんだっけ、大地の……違う、星と太陽の……ああ、違う、えっと始祖の神々へ申し」


 『おえぇえええっ』

「……」

『大丈夫~? 雪野クン、あたしほんと無理させちゃってごめんねぇ』

『ちが、みどりかわわるくない、おれ、ンンッ、きんちょうし、ちゃっ、うえぇええええ、げほっ』

「……」

『うんうんひとまず休もうね~。ゆっくりでいいからベンチいこ~』

『ち、ちがぅっ、おれ、みどりかわ、にっ、いいたいこと、ゴェッ、おぇえええええ』

「……」

『うんうん後からなんでも聞くよ~ひとまず休もうよ』

『ちがうぅっ、ひっく、っく、なんで、おれっ、ちがっ、こくはくっ、うぅうぇええ』

ぼたぼた。涙、鼻水、吐しゃ物。色々なものがカラフルなタイルの地面に落ちる。

『大丈夫大丈夫泣かないで、ほらハンカチ貸してあげるからぁ』

『う、うゎあぁああっ、もういっかい、おぇっ、もういっかい、やりなおさせ、おぼっ、ゴァッ』

「……」


 かくして。

 大地と月と太陽の祝福する三分間は過ぎた。



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