人生が変わる三分間

柚城佳歩

人生が変わる三分間


俺には三分以内にやらなければならない事があった。


緊張感のある静寂、見定めるような視線。

大学のコンサートホールのステージで、真ん中に設置されたグランドピアノの椅子に座り、長く深く呼吸をする。


よし、やるか。

大丈夫、この曲は昔から好きで、練習に行き詰まった時の息抜きとしても度々弾いてきた。

だからちょっと……いや、かなりテンポを上げたとしてもまぁ他の曲よりは悲惨な事にならないだろう。一応それなりの形にはなる、と信じたい。


ドビュッシー作曲『月の光』。

きっとほとんどの人がどこかで一度は耳にした事があるだろう有名な曲。

俺がまだ五才の頃、ピアノを習っていた姉が練習で弾いていたのを初めて聴いて一気に引き込まれた。

自分でも弾いてみたいと強く思ったのがピアノを始めたきっかけだ。


普通に弾いたら四分半から五分くらいは掛かるこの曲を、今回ばかりは三分で弾き切らなければならない。

なぜこんな事になったのか。

話は二ヵ月ほど遡る──。




リチャード・カメリア。

奇人で有名な世界的指揮者がいる。

特定の楽団を持たず、気紛れにオーディションを開催しては構成も曲もテーマも毎度バラバラの内容のコンサートをゲリラ的に行っている。

初対面同然の実力も疎らなメンバーを短期間で纏め上げ、観客が満足するような魅力を引き出してしまうのだからその実力も確かだ。


そんなリチャードが今度日本でコンサートを開くと発表があった。

と同時に、オーケストラのメンバーオーディションの受付が始まった。

俺の通う音大でも当然その話題で持ち切りになり、皆すぐにこぞって参加を決めた。

周りの雰囲気に乗せられたわけじゃないけれど、俺も参加する事にした。


リチャードが有名なのはその実力や奇人さだけじゃない。

彼が行うオーディションについても、毎度無理難題や突発的で予想外な事を要求されると噂されている。ちょっと怖くもあるけれど、どんな風なのか見てみたい好奇心の方が大きかった。




俺の実力で受かるとは思っていないけれど、せっかくやるからにはと九割本気、一割は記念受験的な気持ちで迎えたオーディション当日。


広瀬ひろせ椿つばきさんですね。ではこちらから一枚引いてください」

「……え?」


受付を済ませた直後に差し出された抽選箱らしき白い箱。

理解が追いつかない事この上ないが、促されるまま手を入れ掴んだ紙を開くと“47”とあった。


案内されたコンサートホールには、既に参加者が各々自由に席を選んで座っていた。

参加希望者が多いため、オーディションはパート毎、数日に分けて行われる。

今日はピアノパートの日。よく見慣れた顔もあちこちにいたが、皆どこか緊張した面持ちだ。

ざっと見た感じでは五十人くらいだろうか。

それならさっきの紙は何かの順番かもしれないな。


応募者全員が集まったところでリチャードがマイクを片手にステージに登壇した。

流石有名人だけあって彼が現れた瞬間に張り詰めていた空気が一変、拍手と歓声が沸き起こった。

それに笑顔で応じた後、簡単な挨拶とオーディションの流れの説明があり、最後に投下されたのが「持ち時間三分」という爆弾とも思えるルールだった。


誰も声こそ発しなかったが、会場の空気が一瞬でざわめいた。

そりゃあそうだ。だって事前に伝えられていたのは

“得意な曲を一曲演奏”

とあっただけで、制限時間などについては一切何も言及されていなかった。

それが急にここにきて“三分以内”なんて言われたら、パニックになるのは当然というものである。


更にざわつかせたのは受付で引いたくじらしき紙。

普通に考えればあれが演奏順だと思うだろう。

でもここで普通にいかないのがリチャードという人だ。


事前に用意していたらしい。ビンゴの時に見た事のある、中に白い球の入ったガラガラを乗せた台をステージ脇から持ってくると、徐ろに回し始めた。


カラカラ、カラカラ……


軽快な音がホールに響く。

まさか。全員が固唾を呑んで見つめる中、小さな球が一つ転がり出た。


「32番!オーディションは32番の人から始めるよ。開始は二十分後。自分の演奏が終わったらそれを回してくれ。出た数字が次の人の番号だよ」


なんだ、それ……。

これじゃあいつ自分の番が回ってくるかもわからない。初っ端からとんでもない事言い放ったなこの人。

ステージの端に、陸上の大会で見る大きなタイマーが設置される。こんなオーディション見た事ない。

興味本位で来てしまった事を少し後悔しそうになる。


時間になり、哀れかな、一番に指名された青年が、心做しか青褪めた顔でステージに向かっていく。

頑張れ……。ライバルのはずだけれど、応援ぜずにはいられない。

彼が弾き始めると同時、タイマーもスタートした。




妙な緊張感に包まれるホールで、オーディションは着々と進んでいく。

三分という時間に合わせて短くアレンジする人、その場で即興で演奏する人、流石腕に覚えのある人ばかり集まっているだけはある。

ただ残念ながら俺にはそんな技術もセンスもない。

今の俺に取れる手段と言ったらテンポを上げて弾く事くらい……か?

そんな思考は突如として遮られた。


「次、47番」


いよいよ来たか、自分の番。

もうこうなったらやるしかない。

ええい、出たとこ勝負だ!


ステージに上がり、椅子に座って深呼吸を一つ。

大丈夫、この曲は昔から好きで、今まで何度も弾いてきた。一番弾いた曲と言っても過言ではない。

やった事は、というかそもそもやろうと思った事もないけれど、倍近くテンポを上げたとしても一応形にはなるだろう。というか、なって欲しい。


気合い半分、願望半分。

今まで経験した事のない気持ちでピアノと向き合う。

鍵盤に指を乗せ、目を閉じると、頭の中で速いテンポでのメロディーをイメージした。


……よし、いざ尋常に勝負!


指が動く、音が鳴る。

自分でも驚くほど滑らかに音が奏でられていく。

考えるな考えるな考えるな。手の感覚に任せろ。

まるで綱渡りをしているような気分だ。

両側が崖になっている一本の細い道があって、そこを自転車で猛スピードで駆け抜けている感じ。

鍵盤は道で、ちゃんとした場所に指を乗せられれば道が続いていく。そんな感覚。

情緒もへったくれもないのは自分でもよーくわかっている。でもこれが今の俺の精一杯だ。


後半、曲調と相俟ってより一層駆け抜ける気分になりながら、最後の音が響いた。

ほんの少しの余韻を残してペダルから足を離す。

終わった……。

タイマーに目を遣ると、ピッタリ3分で止まっている。なんとかやり切った……。

ノーミスで弾くのは当たり前。スタートラインに立ったに過ぎないけれど、いつもとは違う達成感に包まれていた。




後日、オーディション事務局から封書が届いた。

結果から言うと不合格。まぁそうだろう。

でも驚く事に続きがあった。


“『月の光』の速弾きはその場で思い付いたんだろう?

君の気迫と思い切りがとても印象に残っている。

今回のコンサートのイメージとは合わないけれど、ツバキくんとはぜひまた会ってみたい。

次のコンサートには起用するつもりでいるから、その時また会おう。

これからも練習頑張って!”


直筆で書かれたメッセージを何度も読み返す。

見間違い、じゃないよな。

次のコンサートで俺を起用……?


「……まじかっ!」


本当に、人生とはどう転ぶかわからないものだ。

たった三分で大きく変わる事もある。

同封されていたコンサートチケットを見ているうちに、じわじわと現実感が込み上げてきた。

次こそはもっと、自信を持って弾いてやる。

これから忙しくなりそうだ。



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人生が変わる三分間 柚城佳歩 @kahon

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