おうちにかえろ

もくじつ

第1話

 子供には三分以内にやらなければならないことがあった。

「さんぷんってなあに?」

 水槽に額をつけたまま子供は首を傾げて答えた。

「先生がさあ、毎回言うんだよ。うるさいの。今すぐやりなさいっていったら三分以内にやりなさいって」

「今すぐがさんぷんなの?」

 丸いクラゲの水槽はカラフルな照明で代わる代わるに照らされていた。燃え上がるような赤色から青緑色に変わる。子供の頬はクレヨンで塗った宇宙人のように青く染まった。

「今すぐって今から数えて何分何秒ですかって聞いたら怒ったんだよ」

「ふうん。せんせいって怒るんだ」

「先生はぼくのこと嫌いなんだ」

「そうなの」

「知らない。もう行っちゃったよ。三分たったもの」

 平日の水族館はがらんとしていた。揃いの帽子を被った子供達の騒ぎ声はもうとっくに聞こえなくなっていた。どこか遠くでペンギンの落ちる水音がした。

 子供は口を閉じて静かにしていた。それから手を握りしめて分厚いアクリルの塊をこつんと叩いた。

「ねえ、家に帰りたい?」

「いえってなあに」

「ぼくもう帰りたい。イルカショーはもう見たし、パスモの使い方だって分かるし、帰れるよ」

「でもどこに帰ればいいの」

「ミズクラゲって書いてあるよ。水ならなんでもいいんでしょ」

「そうなのかなあ」

 そうなのかもしれなかった。子供は背負っていたリュックの中から両手で大きな水筒を取り出した。中の麦茶は飲みきってしまったので軽い。

 子供はリノリウムの床に座り込むと、両足で水筒を真っ直ぐになるよう固定した。それから蓋を両手で思い切り回すとパッキンがこすれる手応えが伝わった。きしんで蓋が外れた。

「水いれなくちゃ。トイレどこ?」

「左すぐ曲がったところ」

 トイレも人気は無かった。子供はそろそろと周囲を見渡してそれをよく確認し、それから手洗い場の水栓に空の水筒を近づけた。自動水栓のセンサーには白い水垢がこびりついて反応が悪い。

 何度も水筒を近づけては遠ざけてを繰り返していたら、水栓と衝突して金属音が思ったより大きく響いた。子供は一瞬身を竦ませた。急にセンサーが反応し水筒から水が溢れた。急いで蓋をする。

「ねえ、ねえ。水いれてきた。早く入って、見つかっちゃう」

「そこの銀色にはいるの。せまくない?」

「だいじょうぶだって、ねえ早く」

 ミズクラゲはまだ小さかったので水筒に入るには触手を一本無くすくらいですんだ。子供が慌てて蓋を被せたものだから引っかかったのだ。


 子供はリュックを閉めるのも忘れて、水筒を抱いたまま小走りでクラゲの部屋を出た。静かな水族館には相変わらず人影は少ないが、ぼんやりと座っている真珠売りの女性の前はことさらに足音を潜めて通り過ぎた。

 ようやく到着した出口の自動扉がのろのろと開くのを待ちかねて、子供は走り出した。真っ直ぐに伸びる道路は秋の日が影の一つも無く照らし出してまるで空中に浮いているようだった。子供は一心に走った。来たときと帰るときではまるで違う場所のようなそんな道路を走った。

 走っても走っても駅には着かなかった。

 道路には車が数台恐ろしく速く行っては来るばかりで、子供を追い越した四角くて真っ白な車がまた帰ってくる。先程過ぎたはずの巨大なイオンがまた少し先に見えてきた。

 子供は道ばたの自販機の側でついに足を止めると、汗を拭って抱えていた水筒の中身を一息に飲み干した。子供の喉元を柔らかくぬるついた輪郭が通り過ぎる。

「あっ」

 最後の一滴が水筒からアスファルトに落ちた。

「飲み切っちゃった」

「あ、ひどい」

 子供のみぞおち辺りからクラゲが言った。子供が軽く腹を叩くと揺れるのか声が弾んだ。

「痛くなかった?」

「あんがいね。あったかいしここでいいよ」

「いいの」

「いいよ」

 そういうわけでまだクラゲは子供の腹の中にいる。


 

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