三分では足りなくて

星見守灯也

三分では足りなくて

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。



 そのとき、手にあったのは十円玉が一枚きり。

 震える指で押し込むと、カチャンと金属の当たる音がした。

 なんでこんなときに限って十円玉がこれだけなんだろう。

 十円玉たった一枚で何が変わるというんだろう。

 駅の伝言板に書かれた「もう終わりにしましょう」の文字と彼女の名前。

 焦る気持ちを押さえ、ゆっくりと間違いがないようにダイヤルを回す。

 同じ市内にいるというのに、ここと彼女の部屋はこんなにも遠い。



「もしもし、俺だ。なんで……」

「あなたって人は、前からそうだったじゃない」

 出るなり、うんざりした口調で彼女が言った。

 あのときも、その前も、そのずっと前、会ったときからそうだったと彼女は言った。

「そういうところが嫌なのよ」

「だって、君は何も言わなかったじゃないか」

「はっきり言わないわよ。子供じゃないんだから」

 十円玉半分の堂々巡りは残りの半分になってもまだ続いた。

 彼女は俺に不満があって、俺はそれに気づかずにいた。

 ただそれだけのことなのに。

「それに、指摘したらあなた怒るじゃない。『そんなことで』って……」

「怒ったことはないよ」

「でも不機嫌になる。そういうところが嫌い」

 沈黙。

「やっぱり別れましょう」

 沈黙。

「あなたは言われるのが嫌だし、私もいちいち言うのは嫌なの。別れたほうがいいでしょ」

 言われてみれば、心当たりは俺にもある。

 でも、彼女だってはっきり言ってくれなかったじゃないかと責める気持ちもある。

 だから素直に謝れずにいた。

 ちゃんと謝って、許してほしいと言えばいいのに。

 左腕の時計に目をやる。二分半を過ぎた。

「ねえ、聞いてるの?」

「……聞いてる」

 それからまた沈黙。

 俺が悪かった。そう言えばこんな喧嘩すぐ終わるのに。

「別れないでくれ」

「はあ?」

「あのな、俺は……」

 向こうで息を飲むかすかな音がした。

「俺は……」

 そこまで言いかけて声が急に頼りなく、か細くなる。

「ごめん」

 かすれた声でうめいた瞬間、十円玉が深く落ちる音がした。

 その音は俺の腹を底から冷たくした。

 受話器からは単調なツー……ツー……という音だけが繰り返されている。

 後ろに並んだ男が「早くしろよ」というように睨んでいた。




「昔はスマホどころか携帯電話もなくてね」

「そうそう、固定電話か公衆電話だったもんだ」

「十円玉が落ちるのが早くて」

 そこまで言って、老年の女性は笑った。同じくらいの歳の男性も笑う。

「駅から急いで電話をかけたはいいが、十円玉がなくてなあ」

「そう。それで切れちゃったから仕方なく、あなたの家まで行ったの」

 切れてしまった電話を置いて、彼女は彼の家に向かった。

 彼が駅から帰宅するより早く着いて、寒風のなかを待っていた。

「駅から帰る途中はずいぶん後悔したもんだ」

「顔を見るなり謝ってきたもので、私も冷静になって……」

 二人は何度も電話をかけて夫婦になった。

 あの電話から五十年、それはスマホを持った今でも変わらない。

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三分では足りなくて 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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