今日にかぎって!

昼星石夢

第1話今日にかぎって!

 泥棒には三分以内にやらなければならないことがあった。

 この巨体を抱えて家を出なければ。進藤は他人の家の二階、埃っぽい六畳間にある押し入れの中で、それだけを考えようとした。

 ことは一か月前、ボスが気まぐれで言い出した話が始まりだ。

「お前、あの世って信じてるか?」

「何ですか、急に」

「いやな、この前健康診断の結果が返ってきたんや。そしたら要検査って書いてあってな」

「健康診断なんて受けてるんですか」

「なんや、悪いか。俺らの仕事かて健康第一に決まっとるやろ。そんでな、まあ、昔親父が世話になった人が泥棒に大事なもん盗られた、ゆうて困ってる話を耳にしたもんやさかい……」

「僕ら同業じゃないですか」

「やかましいわ、まだ話の途中やろ、知り合いの古物商にあたってみたら、どこにあるか知っとる、店に売りにきよった、って言うやないかい。盗品やさかい、うちでは扱われへん、ゆうてな、断ったらしいけど」

「そんな古物商とよく知り合いになれましたね」

「あほか。相手をみとんねん、相手を。持ってきたやつが、なんとも素人臭くて信用できんから断ったんや」

「警察に任せておけばいいんじゃ……」

「あのな、今どこにあるんやろか、傷つけられてへんやろか、ああ、一日も早く取り戻したい、ゆう持ち主の気持ちが想像できんのか」

「僕らが言いますか、それ」

「うるさいのぉ、とにかく古物商が言うには、見聞きしとるかぎりまだ手元に持っとるやろ、いうことや。お前、盗ってこい。ええか、優しい顔した人型のもんや」

「え、なんで」

「わしの功徳を積むために決まっとるやろ」

 進藤はあの世も神も信じてはいなかったが、ボスからの命令には逆らえない、逆らったら待つのは地獄と信じていた。

 進藤は仕事に関してはプロフェッショナルを気取っており、その日から入念な調査、下見を行った。泥棒の中年男は、毛髪の乏しい頭で常に猫背気味、住まいは年季の入ったボロアパートと、実家の二階建て一軒家を行ったり来たりしていて、仕事はスーパーと駐車場の守衛、独身で、少しでも時間があればスマホを操作して生活していた。ボロアパートの自宅のほうは、男の留守中に部下を見張りに立たせ、簡単なピッキングでお邪魔したが、目当てのものは見あたらなかった。そもそも家具といえるものは、卓袱台とせんべい布団と中古の冷蔵庫ぐらいしかなかったが。自宅にないなら実家だ。

 実家のほうは、人通りの少ない自宅よりもむしろ、進藤にとって有難い家だった。身長よりも高いブロック塀が家の周囲を囲っていて、確認したところ、勝手口は常に無施錠、出てくるのはおそらく泥棒の父親である爺さんだけだった。道路と道路に挟まれた角地だが、そこまで交通量も多くなく、隣は若夫婦で旦那は朝早くに家を出る。そして爺さんも午前中に図書館へ出掛けることがわかった。一週間前にふらりと泥棒の男が帰ってきた以外、訪ねてくる者もいなかった。

「楽勝っすね」

 決行当日、軽薄そうな部下が言った。実行時間の理想は五分だ。盗るものの重さが正確にわからないため、いつもなら単独行動の進藤は念のため、部下を連れてきていた。あてにはならないが、見張り役にも使えるメリットはある。

 道路の反対側はフェンスの向こうに林があり、ちょっとした散歩コースになっているので、その辺りを怪しまれない程度に行きつ戻りつして、爺さんが家を出るのを待った。遠くに車の走行音が微かに聞こえるだけで、静かなものだ。冬の枯れて頼りなげな枝葉の木々がざわつき、小鳥の鳴き声など全くしない散歩道には誰も来ない。

「あ、出てきましたよ。じゃ、追いかけまーーす」

 進藤は予防線として、部下に爺さんを駅まで尾行させ、そのまま周辺で待機しているように言っておいた。駅から家まで徒歩三分、申し分ない立地と言えるが、停まる電車は各駅のみ、一時間に一本と聞けば、そこまで魅力的とは言えない。

「何かあったら連絡しろ。こっちからも呼び出されたらすぐ出れるように、前みたいに電源切ったりするなよ」

「大丈夫ですって、あの時は当たりが出て、たまたまですから。今日はパチンコ行きません。つか、無いし」

 溜息をついて部下と別れると、進藤は素早く辺りを確認し、塀の内側に滑り込んだ。手入れの行き届いていない庭木をおいやって、勝手口の前に立つ。作業ズボンのポケットから手袋を取り出し、装着すると家に侵入した。途端に卵焼きの残り香のような、香ばしい匂いが鼻をついた。あの爺さん料理をするのか。進藤は内心で呟いて別のポケットからシャワーキャップを二つ取り出し、靴に嵌めた。

 台所。必要最低限の暮らし、そんな印象だが、きちんと整理されていて、テーブルクロスと椅子の座布団の相性も悪くない。壁に掛かっている小さな複製画も雰囲気に合っていた。一通り見渡して、水切りラックに目がとまる。

「茶碗が、二つ……」

 思わず小声で言ってしまった。そこには茶碗だけでなく、汁椀や湯呑、小鉢まで綺麗に二つずつ並べてあった。泥棒の男のものと思いたかったが、茶碗の側面が紺と薄桃色では望み薄だろう。この家には婆さんもいるのだ。怒りにまかせてどかどか歩きたいのを抑え、つま先立ちでささっと台所を抜ける。まずは敵の位置を確認しなければ。その後のことは相手の出方しだいだ。

 台所の隣は便所と風呂場で、手狭だが小綺麗に見せていた。よく見ると水垢や何かの染みが浮いて見えてくるが爺さんの、あるいは婆さんの歳を考えると、仕方ないだろう。人の気配はない。

 短い廊下を渡り、今どき珍しい玉すだれをくぐると玄関だった。二階へ続く急傾斜の階段が上がり框のすぐ正面にある。進藤は玄関口から見て右手から出てきたので、左手の引き戸に手をかけ、すりガラス越しに中の様子を窺う。人影は見えないのでそっと引く。応接間兼リビングといったていの部屋。箪笥やキャビネットを静かに物色するが、探し物はここにもない。

 ――と、奇妙な音が聞こえて、動きを止める。耳に集中すると、どうやら隣の部屋から聞こえてくるらしい。さっきとは違い、襖で仕切られた奥、そこに婆さんがいるようだ。襖を小さく、薄く開いた。婆さんの背中が見えた。畳の床にじかに座り、毛糸を転がして縫物でもしているらしい。僅かに見える横顔は、目をしっかりテレビのほうにむけ、くだらない番組ににやにやしながら、妙な音程で鼻歌をうたっている。奇妙な音の正体はこれらしい。テレビは無音に近いのだが、婆さんの耳には補聴器がついており、にやにやしていることからも、テレビと補聴器は接続されていて、婆さんの耳にはしっかり聞こえているのだろう。

 婆さんのいる部屋は寝室のようで、使うことがあるのかわからない化粧台と、半分開いた押し入れに布団が仕舞われている他、ポールに爺さんの服が掛かっているだけで、人型のものはなさそうだった。婆さんはこれだけ見つめても、わざと少しだけ足で物音を出しても全く気づく気配がないので放っておくことにした。

 玄関に戻り、階段を上る。上っていくごとに表面に積もる埃の層が厚くなる。二階にある二部屋は一階とは違い、物置小屋だった。まず、左の部屋に足を踏み入れる。うずたかく積まれた段ボール。その中にはいつの時代のものだ、と思われるような洋服や、何を模しているのかわからない置物、爺さんが勤めていた時にでも使っていたのだろう事務用品が眠っていた。なぜか壁際には古いベビーベッドが置かれている。マットレスは虫食いが目立ち、柵の中にはアルバムが数冊入れられていた。本当はこんなものを見ている場合ではないことは、進藤が一番よく承知しているが、ペラペラと自身には縁のないアルバムというものを覗いてみたくなり、捲った。

 白黒の写真に頼りなげな正装の若い夫婦。爺さんと婆さんの結婚記念写真らしい。その後に続く写真はカラーになり、どれも大勢の中に爺さんがいたり、婆さんがいたりする、慰安旅行の写真や、向かいの散歩道の写真だった。と、ぺらりと捲った次のページに、泥棒の男が赤ん坊だった時の写真を見つけた。この頃からたまに家族旅行をするようになったらしい。学校行事の写真でどんどん成長する男は、下見のときの人物と同一人物とは思えないほど目に光が宿っている。

 おや、と進藤は眉を上げる。また赤ん坊の写真だ。だが隣にまだあどけない男がいる。どうやら兄弟がいるらしい。その赤ん坊は枚数を重ねると、妹だと判明した。ずいぶんと愛嬌のある、可愛らしい妹だ。兄妹は仲がいいようで、一緒に公園で遊んでいる様子やランドセルをしょって並んでいる写真があった。妹は母親にべったりのようで、写真に写っているときはいつも母親にもたれかかっていた。

 だが、四冊目を境に、妹の姿はめっきり見えなくなった。しっかり見ているわけではないが、写真を撮る期間もとびとびで、被写体の婆さんや泥棒の男の表情も、それまでとは違っていた。なんだ、何かあったのか――。

 いや、よそう、時間にしては一瞬だが、無駄な時を過ごしてしまった。振り返り、壁をくり抜くように作られた押し入れを開いてみる。

 進藤は息を止めた。そこには白い骨覆に包まれた骨壺が置かれていた。赤のランドセルや、女の子供用の服も。物置小屋にあって、その空間だけ異空間のように静謐で、埃っぽさの欠片もなかった。

 進藤は扉を閉めた。ここにはない。それに、僕には関係ない、何も見ていない、おい、何を動揺している?

 軽く呼吸を整えた。早く人型の探し物を見つけないと。

 だが、さっきも目に付いたはずの、爺さんの昔の賞状や、婆さんの手製の小さな手袋を見ると、なぜだか腹を殴られるような感覚をおぼえて、どこかの土産物を蹴飛ばしてしまうと、体が勝手に、それを元の位置に戻してしまった。

 隣の部屋に移る。ここも物置小屋だが、使い古された学習机があった。きっと、泥棒の男の部屋だったのだろう。ベッドフレームの上には男の服や、古いゲーム機が置かれている。そうだ、あの男は泥棒なのだ。今日に限って僕は泥棒から盗品を取り戻すのであって、盗みに入ったわけじゃない。進藤はぶつぶつと頭の中で唱えた。だが、あの男、どうして泥棒なんかに?

 いや、そんなことも関係ないしどうでもいい。進藤は押し入れを開けた。布団がいくつか押し込められていたが室内よりは空いていた。布団の手前に何か置いてあった。置いてあったというより、放り込まれていた、というほうが適切かもしれない。手にとってみると、写真立てだった。そこには笑顔の幼い男がいて、両脇にまだ若い爺さんと婆さんが控えめにだが温かく笑っていた。進藤にはこういう経験がなかった。母親は幼い時に他界したし、父親とはあまり話さない。笑顔をみたことも記憶になかった。別に育ちがどうとか言うつもりはなく、自分の両親に恨みもないのだが、ただ、なぜ写真の中の少年と、今の自分が同じ穴の狢なのか気になった。

 進藤は首を振った。だから、そんなことを考えている場合じゃないだろう。気合を入れなおすために、肩を上下させた。そして何気なく押し入れの上、天井を見た。ほんの少し、天井板がずれている。進藤は押し入れの中央板に片膝をのせ、上半分の空間に入りこんだ。そしてゆっくり板をずらすと、緩衝材に包まれた人型の物体が隠されているのを見つけた。

 進藤は肩まで天井部分に突っ込むと、その物体をそっと引き寄せた。重さはニ十キロぐらいだろうか、小学校高学年の子供ほどの大きさで、なんとか天井裏から引きずり出し、腕に抱えようとして、尻餠をついた。どどん、と押し入れ内で大きめの音が響く。まずい。進藤はしばらくじっとして、階下の様子を窺った。婆さんに気づかれは、しなかったようだ。

 ビ――ビ――、と尻で振動がして、飛び上がりそうになる。部下からだった。

「まずいっす! 電車待ってたはずの爺さんが引き返してきて、駅を出ました」

「なんだと! くっそ」

「見つかりました?」

「ああ、だがちょっと厄介だ。お前も戻ってきて外で待ってろ。運ぶのを手伝え」

「うっす」

 ここから出なければ。三分以内に退散しなければ。

 進藤はいったん人型の物体を押し入れに寝かせ、隣の部屋から道路の状況を確認しようとした。厚めのカーテンから少し覗いて、ギクッとする。どこから集まったのか、三人のおばさん連中が、こちらを見上げてなにやら立ち話をしているのだ。正三角形の形の三人組は向き合って、たまにこの家を、そして進藤のいる二階をちらちら見ては何か言い合っている。その表情から、あまりいい話ではなさそうだ。それでは男の部屋側の道路は、と、隣の部屋のカーテンもそっと開くが、こちらはプードルを連れた女が、ゴールデンレトリバーを連れた男とこの家のはす向かいで談笑していた。

「くそ! なんでこんな時にかぎって! さっきまで誰もいなかっただろうが」

 進藤は出来る限り声量を絞った声で悪態をついた。

 ――と、ぎい、ぎい、と二階へ上がってくる、大儀そうな音がした。進藤は慌てて押し入れの上段に飛び乗った。婆さんだ。婆さんは階段を上りおえると、ふうう、と息を吐いた。そしてえっちらおっちらと、隣の部屋に入っていく気配がした。

 だから、こんな時にかぎって! 進藤は地団駄を踏みたい気持ちを必死で抑え、早く出ろ、早く出ろと念じた。

 だが、僅かな間をおいて、押し入れの壁越しに、婆さんの鼻をすする音が聞こえてきた。

「なあ、みいちゃんなあ、なんでかなあ」

 と婆さんの微かな声。ひっくひく、と嗚咽が止まらない。

 進藤は唐突に、幼い時のことを思い出した。母のことを覚えていない、学校の図工かなにかで、母の日に母親に紙で作った花をあげるように言われて、ただ周りに合わせて似たような花を作って持って帰った日、父にそう言った。別に、悲しいとか、どうして僕にはママがいないの、とか、そんな感傷的なトーンではなく、ただ事実を口にした、といったふうに。父はその時、手をあげそうになった、と思う。右手を上げて、だがハッとしたふうに拳を作って、口に当てて、歯を食いしばって、右手を下げて、踵を返した。意味がわからなかったし、今でもわからないが、あれが父が感情をむき出しにした唯一の出来事といっていい。なぜ今、思い出したのか。

「また会えるかなあ、会えるよねえ、お父さんも、お兄ちゃんも、頑張ってるからね」

 扉を閉める音がした。押し入れの妹の骨壺に話しかけていたのか。

 お兄ちゃんも頑張っている、か。いや、あいつは頑張っていない。泥棒になっているじゃないか。ほとんど死人のような顔をして、いやむしろ死人より酷い顔をして、夢中になれるのはスマホだけ。爺さんも毎日図書館で、どうせ居眠りしているだけだろう。それに婆さんだって、さっきまでにやにやテレビを見て笑っていたじゃないか。なんで急に泣いているんだ?

 僕は――。進藤はふと、ぽっかり胸に空洞ができた気分で自問した。僕は、どうなんだ? なんでこんなことをしていたんだっけ。いつからこんなことになってしまったんだっけ。どうして父の笑った顔を忘れてしまったのだろう。母は、今の僕を見たらどう思うだろうか。

 僕は、頑張っていないのだろうか。

 気づけば、人型の物体の横で、体育座りをしていた。婆さんは、パタン、パタンと物音をさせて、部屋から出てきた。アルバムを見ていたのかもしれない。そしてまた、ぎこ、ぎこ、とさっきよりもゆっくり階段を下りていった。

 進藤は顔を拭って、再び婆さんがいなくなった部屋の窓を覗いた。正三角形の三人組は、まだ井戸端会議を続けている。何を言っているかまでは聞き取れないが、ここまで声が聞こえている。他人の家の前で何をそんなに話すことがあるのだろう。この家の人のことをどれだけ知っているつもりなのだろう。

 落ち着け、全くこの家と関係ないことを話しているだけかもしれないじゃないか。早く出ないと。進藤は、人型の物体の部屋の窓を見る。犬の散歩をしていた二人がいなくなった代わりに、今度は子供が四人で遊んでいた。

「嘘だろ。今日は平日じゃないのか? なんなんだ、あの餓鬼どもは、こんな日にかぎって!」

 進藤は押し入れの中央板を蹴り上げようとした。が、かすって、柱に足の小指をぶつけた。「ぎぃ!」と叫びそうになったのを、どうにか屈みこんで、歯を食いしばり耐えた。だが、どうする。このままじゃ出られない。もう三分経つ。そうだ、部下にどうにか爺さんを足止めさせて、あのおばさん連中……は、厳しそうだから、餓鬼どもを追い払わせるか――。あいつにそんなこと出来るか?

「くそ!」

 進藤は半ばパニックになっていた。こんなことは今までになく、プロフェッショナルとしてあるまじきことだった。そこへまたしても部下からの連絡だ。

「なんだ! もう爺さんが着くってか? わかってるよ、そんなこと! お前、足止めを……」

「まずいっす、サツっすよ、あれぜってぇ警察です。爺さんの家の近くで張ってますよ。バレてんじゃないっすか。オレ無理っす。帰ります。進藤さんも早く出てください」

「は? おい!」

 進藤は掠れた小声で通話口に怒鳴ろうとした。だが、奇妙な視線を感じ、押し入れに目をやると、緩衝材がはだけて穏やかな顔がこちらを向いていた。

「仏像……」

 進藤は今まで勝手な想像で、これは何かアニメのキャラの実寸大の人形か、レトロな人型の看板人形だと思っていた。だからこちらを見ている顔が、思いのほか平らで、無表情に近い微笑をたたえていることに声を失った。

「なんすか? 金ならいらないっす、あ、爺さん玄関入っていきました。進藤さん、もう出てますよね? 三分過ぎてますよ……」

 進藤は通話を切った。と同時に、ガラガラガラと玄関扉が開く音がした。

「今日は早かったねえ」

「ちゃうよ。図書カード忘れてもて。どこやったかな」

 階段脇で二人の会話を聞く。

「どこにもあらへんよ」

「うん? おかしいな……あれ、内ポケットに入ってたわ。いつも外側のポケットに入れてるから、こっちは探してなかった」

「あらあ、私みたいなことゆうて……」

 しばらく間があった。この二人は、息子が泥棒だと知っているのか? 知ってしまったら、どうなるのだろう。婆さんはそれでも、お兄ちゃんも頑張っている、と言えるのだろうか。

「お前も行くか?」

 一瞬、進藤は自分のことを言われたのかと思った。だがそんなはずはなく、爺さんは婆さんにそう聞いたのだ。そうだ、行ってしまえ。進藤は音をたてずに、あの正三角形三人組がまだいるか確認した。しかし三人はどこかにすっかり消えたあとだった。今度は餓鬼どものほうを見る。――いない。もとから存在していなかったように、道路には誰もいなかった。爺さんと婆さんが出掛けてしまえば、当初の予定通り、ミッションクリアだ。部下が言っていた警察も、本当だとすれば不在の家には来ないだろう。

 ――だが、もし、出掛けないなら……。進藤は作業ズボンから折り畳みナイフを取り出す。それしか方法はない。

「私はええわ。今日は……みいちゃんの命日やからね。一緒におったろうおもて。お父さんは行ってきて」

 進藤は、ナイフをきつく握りしめた。

「そうか……わしも今日は、もう、家におろうかな。駅まで往復して疲れたしな」

 なんでだよ、進藤は胸中で叫んでいた。今日にかぎってどうなってやがる。

『どうしますか?』

 進藤は「ひぃ」と声をあげた。どこから聞こえた? 引き寄せられるように仏像に目がいく。馬鹿言え、ただの置物だぞ。

『わたしはあなたを見ていますよ』

「ひょぇ」と情けない声が出た。おかしい。幻聴が聞こえ始めた。きっと極限状態で自分の脳が作り出した声に違いない。怖気ずくな。プロなんだぞ。確かに人を殺したことなんてないが、遅かれ早かれこういう時がくると、覚悟はしていただろ。

『どんな選択でもわたしは……』

「うるさい!」

 ついに進藤は大声をあげるという失態を犯した。仏像は憐れむような、しかし進藤のよく知っている蔑むような顔ではない、柔らかい顔で相変わらず笑っている。

「何か聞こえなかったか?」

 爺さんが言った声がした。終わりだ。何もかも終わりだ。

 ぎい、ぎい、と上ってくる。

「私は何も聞こえなかったけどねえ」

 婆さんの声を聞きながら、しかし進藤はナイフをもとのポケットに戻し、押し入れの柱に頭をもたせかけて力を抜いた。とん、と尻が落ちて、さっきと同じ体育座りになる。ふと首を曲げると不思議なことに、まだあの仏像と目が合っている、気がした。この仏像はなんていうのだろう。女性っぽいな。もしかして母はこんな顔だったのかもしれない。こんな状況で驚くほど穏やかに進藤はそんなことを思った。

「ごめんください、警察です」

 玄関からよく通る声が響いた。階段を上る音が止まる。ややあって、ぎこ、ぎこと二人分の下る音がしたかと思うと、

「家宅捜索です」

 と別の声音が言い、今度は遠慮のない足音が階下に響いた。


「聞いた? 盗まれた仏像、この家にあったんですって」

「ああ、息子さんが捕まったって、仏像盗んだからだったのねえ。罰当たりなことするわねえ」

「ほんとよ、あのお寺の観音様だったらしいわ」

「ああ、そういうことだったの。どうりで最近扉が閉まっていると思ってたら」

「そうそう、でもね、あのお寺の氏子さんによると、犯人、捕まってないんですって」

「ええ? どういうこと? 息子さんが犯人なんでしょ? ここの家の。昼間っからフラフラしてると思ってたのよ、怖いわあ」

「そうなんだけど、お寺の住職さんが許しちゃったのよ! だから不起訴? になって、とにかく前科もなしよ!」

「ええ? そんなのダメじゃない。またやるわよ、ちゃんと罰さないと。甘いわねえ」

「どうして許したの? 自分の財産盗られたのに」

「よくわからないけど、氏子さんが言うには、観音様に傷もなくて、あの息子も反省してて? あそこの家の人も苦労したから、みたいな」

「なにそれ。反省してたら何しても許されるっていうこと? それに苦労してない人なんていないわよねえ」

「そうよねえ、うちのお義母さんの我儘なんてほんと、酷いもんよ」

「ねえ。きっと住職さん、すれてないから。それで甘々なのよ。だって、盗んだ理由、聞いた? 女に使う金ほしさですって」

「私はゲームの課金に使いたかったって聞いたけど」

「どっちにしてもろくなもんじゃないわね」

「そうよ。でもね、驚きなのが、犯人は二人いたらしいの!」

「ええ! どういうこと?」

「氏子さんが、警察がこの家に仏像取り返しにきたとき、知らない男が連れられて出てくるのを見たんですって」

「ええ! 息子じゃないの?」

「違うわよ。だって、髪の毛ちゃんと生えてたって言ってたもの」

「ちゃんと生えてたって、ははは」

「氏子さんが住職さんに詳しく聞いたところによると、仏像を取り返しにきたって言ってたんだって」

「はあ? どういうこと? 泥棒じゃないの?」

「泥棒よ、でもなんか、自分は泥棒で、今回は仏像をあの家から盗むのがミッションだったって言ってたらしいの」

「ええ? 頭がおかしいのかしら」

「あの家の人、いなかったの?」

「いたらしいわよ。びっくりしてたって」

「びっくりって、どうして他人が家にいることもわからないのよ」

「だけど、もっとびっくりなことに、住職さん、その泥棒も許しちゃったんですって!」

「ええ! 何考えてるの?」

「だからなんで許しちゃうのよ!」

「なんでも、泥棒も反省してて、足を洗うって言ってて?」

「口先だけに決まってるじゃない」

「それで、観音様が許すって言ったから、だそうよ」

「馬鹿ねえ。なんで仏像が話すのよ。むしろ怒ってるわよ、地獄に落ちろ! って」

「地獄に落ちろって、ははは」

「二人とも示談で済んだそうよ」

「ふうん、加害者に甘いわね、全く」

「ねえ、ほんと。それに最近、知ってる? あの家の人、ご夫婦で出掛けてるのよ」

「ええ! 息子が犯罪者なのに?」

「ていうか、奥さんまだ生きてたの? 全然見ないからてっきり死んでるんだと思ってた」

「ははは、私も」

「非常識だと思わない? 全く反省してないっていうか。なんていうか」

「ねえ、ほんと。あら、あの女の人って、この辺の人?」

「トイプードルの? さあ」

「最近、犬の糞の不始末が多いのよ。この前、大きな洋犬散歩させてる男の人がいて、犬がおしっこしてる横に、糞が落ちてたのね、それで、ちゃんと始末してくださいね、って言ったら、僕のじゃありません! って大声で言うのよ。びっくりしたわ」

「僕のじゃないって、当たり前じゃない、ははは。あなたのもののわけないわよね?  まさか」

「違うわよ、そういう意味じゃなくて、僕の犬の糞じゃないってこと」

「ははは」

「でもそれならそうで、他所の犬の糞でも拾っておけばよくない? 私ならそうするわ」

「ねえ、人間が出来てないのよ。そもそも他人に怒鳴るって、頭がおかしいのよ、きっと……」

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