書き出しからダメだし。
綾波 宗水
第一稿
「“神には三分以内にやらなければならないことがあった”」
まだ冒頭を読み上げたに過ぎないのに、先輩はすぐに軽く手を挙げ、僕の作品の進行を制した。先輩の文学による文学のためのマンツーマン指導、それが僕らの文芸部。他に部員がいない分、僕個人の緊張であるがずが、障壁なく隅まで伝わり、跳ね返って再び皮膚へと刺さってくる。
「たぶん、創世記的な話を書いたのよね?」
……まあ、その通り。しかし、これくらいでしたり顔をされるのも癪なので、ただ首を動かして反応する。先輩はというと、こちらを見つめている訳ではないが、聞き返しがなかったので、不遜な後輩の態度も問題なく視界に入ってはいるらしい。
「だったらさ、神が時間に追われるのはおかしいよ」
「別にそういうことがあっても……」
ようやく目が合ったが、どこか幼児をあやすような瞳をしていた。やはり癪にさわる。しかも顔が良いのがまたなんとも。昨日も告られたと、誰かが廊下で噂していた。もちろん、本人とそのような話は一切しないが。
「その〈時間〉は、神があらわれる以前から、世界に存在していたの?」
「え、いや~それだと」
「神が世界を造っているというのも疑わしくなるよね。だって、既に神の権能に属さない、時間というものがあったのだから。そうすると、その神を生み出した存在もちらついてくるし、そもそも、その神とやらが三分以内にやならければならないことってのも、既に真の神や世界の側が、どこかで実施しているかもしれない。君のその一文は、神を創造物におとしめる論理だよ」
これから、ハラハラドキドキな物語が始まるというのに、彼女は軋るパイプ椅子から立って、壁際に誰かが置きだしたインスタントコーヒーを用意しだす。本日の論評は以上という合図。
「コギト・エルゴ・スム」
もうすぐ暦の上では春だというのに、余計に寒々とした気でいると、不意に先輩がそう呟く。一瞬、僕は何かの聞き間違いかと思い、黙っていると「ラテン語だよ」と教えてくれた。
……確か、数学で使う
「“我思う、故に我あり。” デカルトの言葉だよ」
「先輩って倫理選択でしたっけ」
「ううん、世界史B」
なんともあっけらかんとした様子だが、これは何も僕が知識不足というわけではないと信じたい。例によって先輩が博識なのだ、と。
「疑いだすと、何でも存在してない可能性が出てくるでしょ。でも、デカルトは疑っている自分、それと神だけは存在していると考えついたの」
感嘆符の他に返す言葉が無いところに、かなしいかな、僕と先輩の間における、文芸部員としての力量さが表れている。先輩は今年大学受験だが、きっと僕では受からない、偏差値が高いところなんだろう。
「聞いてるの?」
「は、はい、もちろんっす」
「はぁ、じゃあ私の話を要約してみて?」さらりと艶のある前髪をいじりながら、僕の方へと近寄ってくる。
「ええっと、つまり……世界には神がかりな先輩と僕しかいない上に、僕には三分以内にやらなければならないことがある」
ポットからそそがれたコーヒーをひとり味わいながら、今度こそまっすぐ僕の前に立ち、もう片方の手で僕の右肩をやさしく叩く。
左手のハンドクリームの香りとコーヒーが上手く混じった空気にドギマギしていると、背中の側から暖かくなってきた。
「そこから書きだしてみなよ」
白に仄かな朱の入ったような先輩の顔。距離が近すぎて、言葉の意味がわかったのは、空気が再び跳ね返ってきてからだったからだ。
書き出しからダメだし。 綾波 宗水 @Ayanami4869
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