【KAC20241】三分の青春
雪うさこ
*
佐藤和夫には、三分以内にやらなければならないことがあった。和夫は左の手首に収まっているくたびれた腕時計を必死に見つめていた。
——後、三分。三分だ。それでおれのすべてが終わる。
田舎のプラットフォームには、和夫一人しかいなかった。これから三分後に、このホームを快速電車が走り抜ける。
——おれはその電車の前に身を投げる。そしてこの佐藤和夫の人生は、ジ・エンドを迎えるのだ。
——懐かしいな。高校時代には、ここから毎朝、電車に乗って学校に通ったんだっけ。
もう今では、実家があった場所は更地になっている。父親は十五年前に死んだ。仕事中に、足場から転落したのだ。酒乱で、家族に迷惑ばかりかけている男だった。死んで悲しむ家族は誰一人おらず、残された母親は保険金で悠々自適に暮らすのだ、と言っていた。
だが、その母親も死んだ。三年前のことになる。彼女は癌だった。地域の組織に所属し、周囲とは仲良くやっていた人だった。けれど、それも死んでしまえば終わりだ。母が死んでしまえば、和夫のところに連絡を寄越す親戚もいなくなった。
残された和夫は、天涯孤独の身になった。子供のころからの勉強嫌いが高じて、高校卒業後は、そのまま東京に出た。羽振りのいい時期もあった。こんな自分ですら、外車を乗り回していた時期もある。けれど、今となっては、新聞配達のバイトだけが頼りだった。
贅沢をしなければ、暮らせる。節約に節約を重ね、細々をやってきた生活も、昨日で終止符が打たれた。新聞店の経営が思わしくなく解雇されたのだ。
——どうせ、おれなんて死んだって悲しむやつはいないさ。もう少しで電車が来る。おれはその前にひょいと飛び出して、後のことは知ったこっちゃねえ。いいんだ。それでいい。バラバラになってしまえば、誰にも迷惑はかけないからな。
和夫は電車が入ってくるのを、今か今かと待っていた。しかし。三分とはこんなにも長いものなのだろうか。腕時計と睨めっこをして、足をバタバタと動かしていると、ふと足元に、風に飛ばされた切符が舞い落ちた。
「すみません。私のです」
彼女はそう言った。和夫はそれを拾い上げて、彼女に手渡す。
「ありがとうございます」
「別に」
「助かりました。これがないと。キセル乗車になってしまいますものね」
——キセル乗車? 随分と古めかしい言い方だ。
和夫は思わず笑った。彼女は「あら、おかしなことを言いましたか?」と和夫を見上げた。
彼女は薄水色のサマーセーターに、鼠色の地味なタイトスカートをはいている。少し疲れたようなくすんだ肌色は、和夫と同じくらいの年齢なのではないかと思った。肩までの黒い髪が夏の風に揺れていた。
「あら。和ちゃん?」
女性は首を傾げた。その仕草。
——おれはこの人を知っている。
和夫は、雷に打たれたような衝撃を受ける。彼女は。
「美代ちゃん?」
「やだ。いつぶり? 成人式以来かもしれないね。戻ってきたの? いつ?」
「いや。戻ってきたっていうか……」
和夫の中に、たちまち青春時代の映像が蘇ってきた。高橋美代子。彼女はクラスのマドンナ的存在だった。同級生の友達は、みんな美代子が好きだった。時々、不思議なことを言い出すけれど、胸も大きくて、目もぱっちりとしていた彼女は、みんなのあこがれの的だったのだ。
体育の時間になると、美代子のブルマー姿を見たいと、他所のクラスからも男子が殺到したものだった。そんな美代子も、今では少しくたびれた中年の女性だった。
「和ちゃん。今はどこに? 奥さんいるんでしょう? お子さんも大きいの?」
「いや。結婚はしてないよ。独身。今日はちょっと、野暮用で……」
——自殺するのに、地元に戻ってきた、なんて言えるかよ。
「そうなんだ。やだあ。昔はモテモテだったのに。奥さん、捕まえられなかったのね」
「モテモテ? おれが」
「そうだよ。和ちゃん。野球部でかっこよかったじゃない。好きな子多かったな。私が野球部のマネジャーに志願したのは、和ちゃんと仲良しになれるからって、下心があったんだけど。和ちゃん、全然女の子に興味なかったもんね。いっつも友達と帰っちゃって。私のことなんて、見向きもしなかったもんね」
——それは違う。それは。恥ずかしくて。
「そっかー。奥さんいないんだ。なら、アタックしちゃってもいいのかな……?」
美代子は「うふふ」と悪戯な笑みを見せた。和夫の心臓は大きく跳ね上がる。
——ダメだ。電車が来る。おれは、この電車に飛び込む予定なんだ。おれは、もう生きていてもいいことなんて一つもなくて……。一つも? 本当に?
「な、なに言っているんだ。おれなんて、立派なおじさんだ。頭も、ほら。少し薄くなって」
「でも、和ちゃんは和ちゃんよ。あの時と何一つかわっていないよ。その目も、笑顔も」
——違うんだ。美代子。おれは、人生に失敗して。
「もう帰っちゃう? 忙しいの? 私は特に急ぎの用事ってわけじゃないのよ。もしよかったらお茶でもどう? あの頃は、こんなおじさんとおばさんになるなんて、想像もつかなかったね。懐かしい話でもしない? 若いころに戻ってさ」
——ああ、おれは電車の前に飛び込まないと……。
和夫の耳に、電車の汽笛が聞こえてきた。和夫のからだが一瞬でこわばった。背中を汗が滝のように流れていく。
人は——。死の間際、ふるさとを思い出す。もう誰もいないと思っていた。家族もいないこの場所なのに。和夫は
久しぶりに降り立ったふるさとは、とてもくたびれて、人の影もあまり見ない場所になっていたというのに。どうしてだろうか。ふるさとは、和夫を優しく迎えてくれた。ここに立った瞬間。体中に子供の頃の幸せだった記憶が、走馬灯のように駆け巡ったのだ。
しかもふるさとは、こうして懐かしい人物との再会も叶えてくれたというのだ。
——ああ、なぜ、おれはここに戻ってきたのだ。なにか大きな力に引き寄せられたみたいな。
膝ががくがくと震える。汽笛が段々を大きくなる。電車が近づいてきている証拠。和夫はからだの向きを変え、ホームへと一歩踏み出した。
——違う。そんな感傷に浸っている場合じゃ。おれは。おれがここに来た目的は……!
「和ちゃん!」
ふと耳元で、美代子の大きな声が響いた。その刹那——。目の前を快速電車が走り抜けていった。
——おれは。死ねなかった。三分が経過してしまったのだ……。
「どうしたの。怖い顔。しているわよ」
振り返ると、美代子が心配気におれを見上げていた。
「いや。別に。おれは……」
握りしめた手のひらにはぐっしょりと嫌な汗がにじむ。肩で息をして、目の前の美代子を必死に見つめた。彼女は微笑む。
「行きましょう。和ちゃん」
「あ、ああ——、ああ。そうだな」
和夫は快速電車が消えていった方角を見つめてから、大きく深呼吸をした。それから美代子の後に続いて、駅までの階段を下る。
——ああ、懐かしいな。ここは、高校時代に毎日通った場所だ。
三分。その瞬間に佐藤和夫の人生は転機を迎えた。長いようで短い時間であるが、佐藤和夫に取ったら、人生でとても大切な時間であったということは言うまでもない。
―了—
【KAC20241】三分の青春 雪うさこ @yuki_usako
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