三の悲劇

九重ツクモ

第1話

 瑞紀にはあと三分以内にやらなければならないことがあった。

 あと三分でこの歩道橋の下を電車が通る。

 それまでに、今足元に転がっている尚哉の死体を線路に落とさなければならない。


「早く、早くしないと」


 今すぐ、証拠を隠滅しないと。



 瑞紀と尚哉が付き合ったのは、大学三年の春。あと三か月もしたら、三回目の記念日を迎えるという所だった。

 けれど、三日前。

 尚哉の浮気が発覚した。

 女にだらしない尚哉が、浮気をしたのはもう三回目。

 いくら寛容な瑞紀であっても、我慢の限界というものがある。

 瑞紀は尚哉の部屋に乗り込み、半裸の女を叩き出して、いつも通り別れを切り出した。

 これまたいつも通り、尚哉は「ほんの出来心だった。本命はお前だけ」という決まり文句を繰り出した。

 これまではそれで「なあなあ」にしてきたけれど、今日という今日は限界だった。

 と言うより、いい加減愛想が尽きた。

 下着姿で土下座をする尚哉の後頭部に「お前とはもう赤の他人だから」と吐き捨てて、瑞紀は部屋を後にした。


 それで終わりかと思いきや、意外にも尚哉は瑞紀を追いかけた。

 適当にその辺にあった服を着たのかずいぶん珍妙な格好で、傍から見れば滑稽極まりない。

 雪が降る寒い夜で、人通りがほぼなかったことが不幸中の幸いだろう。

 いや、やはり不幸だったかもしれない。

 結果、誰も瑞紀の犯行を目撃するものが居なかったのだから。



「待てよ!! いいから話を聞けって!」

「しつこい。何の話を聞けって言うわけ」


 線路の上に架かる歩道橋に差し掛かった時、ついに尚哉は追いついて、瑞紀の肩を掴んだ。

 肩にかけていたトートバッグがずるりと落ちる。

 瑞紀は不快感を露わに振り返った。

 歩道橋には雪が積もっている。夕方から降り続いた雪が踏み固められ、底冷えするような寒さだ。

 急いでつっかけたらしいサンダルを履いた尚哉の足は、見ている方が冷たい。

 けれど怒りに顔を真っ赤にした尚哉は、気にしていないようだった。


「俺と別れてどうすんだよ! 俺以外にお前と付き合える奴なんて、いる訳ないだろ!」


 先程までの機嫌を取るような猫撫で声とは違う。明らかな侮蔑を含んだ声で、尚哉が怒鳴る。

 瑞紀が最も傷付く言葉を、尚哉はよく分かっていた。


「俺みたいに、お前のこと受け入れられる男が居ると思うか? 居ないだろ? こんな片田舎でさ」


 浮気がバレる度、尚哉は土下座をして舌先三寸の謝罪を口にするけれど、その本心はこれだ。

 頭を下げれば簡単に瑞紀が許すと思っている。

 尚哉の他に瑞紀を受け入れる男など、居るはずがないと思っているから。


 ぷちん。

 瑞紀の中で、何かが切れる音がした。


「死ねよ!!!」


 ほとんど叫ぶように怒声を吐き出すと、肩からずり落ちて手首に引っかかっていたトートバッグをぶんと振り回した。


 ごん。

 鈍い音と共にトートバッグは見事頭に的中し、ぐらりと尚哉の体がバランスを失なった。


「あっ」


 そこからは、酷くゆっくりと時が進んだ。

 そういえばトートバッグにはノートパソコンが入っていたな、とか。

 尚哉の履いているサンダルは随分滑りやすそうだな、とか。

 この角度で倒れると、手すりに頭をぶつけそうだな、とか。

 刹那の内にそんなことを考えて、そして全てが、瑞紀の思い通りになった。


 ばたり。


 手すりにこめかみを打ち付け、尚哉は倒れた。


「尚哉! ……尚哉? ねえ、尚哉。 尚哉!!」


 尚哉はぴくりとも動かない。

 瑞紀は慌てて這いつくばり、尚哉の体をゆする。

 と同時に、頭の下の雪にじわじわと血が広がるのが目に入った。


「死んだ……? えっ死んだ……!?」


 瑞紀は尻をついたまま後ずさる。

 尻がじんわり濡れて冷たくなるが、そんなことはどうでも良かった。


 まさか人を殺してしまうなんて。

 しかもこんなクズ男を。

 もし自分が殺したと警察に知られたら、その動機を聞かれる。尚哉との関係を聞かれる。

 大勢の男たちに囲まれて、きっと。


 完全にパニックに陥った瑞紀は、はっと閃いた。

 混乱しすぎると逆に頭が冴えるのだろうか。

 つい先日、職場の同僚が話していたことを思い出していた。


『自分線路沿いに住んでるんですけど、この時期は夜中でも電車がうるさいんですよ。線路に雪が積もらないように、三十分毎に電車が走るんです。除雪車がないからなんですって。終電から三十分毎ですよ? 勘弁してほしいです』


 そうだ。この線路には三十分毎に電車が走る。

 この先の駅に終電が着いた時間から、もうすぐ三十分が経つだろう。

 もうすぐ…………あと、三分だ。


「早く、早くしないと」


 尚哉の死体をこのままにはしておけない。

 このままでは、事件性があることが明白だ。

 でも、もし電車に轢かれたら?

 きっとこの傷だって、分からなくなってしまうに違いない。

 そうすれば事故か自殺ということになるかもしれない。


 瑞紀は急いで尚哉の上半身を担ぐ。

 話には聞いたことがあったが、死体というのは本当に重いのだと実感した。

 尚哉は男性にしては小柄な方だが、それでも重い。

 筋トレが趣味で良かったと心から思う。

 この重たい尚哉の体を担いで、安全柵を乗り越えるなんて芸当、瑞紀以外に出来るだろうか。


 少なからず、女には絶対無理だろう。

 瑞紀が鍛えているから出来るのだ。

 瑞紀が、男だから。



 瑞紀が自分の恋愛対象が男だと気付いたのは、中学の時だった。

 それまでも全く女に興味がないとは思っていたが、幼い故に恋を知らないからだと思っていた。

 けれど、中学の頃、同級生にはっきりとした欲情を感じ、自分が同性愛者の部類なのだと気付いた。

 それに最も戸惑いを感じたのは、瑞紀自身だ。

 誰にも知られたくなかった。ずっと隠すつもりだったし、隠してきた。

 けれど、高校の時。

 誰が言い始めのか、瑞紀が同性愛者だという噂が校内に流れた。

 瑞紀は誓って何もしていない。誰かに告白した訳でもなければ、誰かの物を盗った訳でも、隠し撮りをした訳でもない。

 だからそんなのデマだと笑い流せれば良かったのだが、図星だけに上手く誤魔化すことが出来なかった。

 そこから瑞紀は不登校になり、家に引きこもって過ごした。

 けれど、引きこもっている間、体を鍛えて自信を付けたのが幸いした。

 このままではいけないと、高卒認定を取って県外の大学に通うことにしたのだ。

 大学では決してバレないよう、静かに過ごそうと瑞紀は決意していた。



『お前さ、男が好きってマジ? 俺、お前の高校にダチがいるんだよね。俺男もいけるよ? お前のこと結構好きなんだけど、付き合わない?』


 そんな瑞紀に訪れた、青天の霹靂。

 それが尚哉だ。

 高校の頃の死にたくなるような噂を知ってもなお、自分を受け入れてくれるとは思わず、瑞紀は舞い上がった。

 元々尚哉は好きなタイプであったし、躊躇することなくその告白を受け入れた。

 それが、すべての過ちだとも気付かずに。


 後から思い返してみれば、尚哉は瑞紀を支配したかっただけなのだろう。

 どうせこいつには俺しか居ないのだと、俺以外に行き場がないのだと。

 そう考えることで、圧倒的に瑞紀の上に立っている自分を愛していたのだ。


 社会に出て、瑞紀は様々な価値観を知った。

 瑞紀のような同性を愛する人たちも、普通に恋をして普通に付き合うことが出来る。

 ただ瑞紀自身が自分を受け入れられず、殻に閉じこもっていただけなのだと知った。

 確かにこの都会とは言えない街で、仲間を探すのは難しいが、無理ということもない。

 いざとなれば都会に出ても構わないのだし、少なからず、自分のことを大切にしない尚哉に縋り付く必要はない。

 どうせ、尚哉は男より女が好きなのだから。


 そう考えていた矢先の、尚哉の浮気。

 思い返せば返すほど、こんな男は死んで当然だと思えた。


(そうだ。こんな男が死んだからってなんだって言うんだ。三途の川を渡り切る前に地獄行きになったっておかしくない)


 瑞紀は自分に言い聞かせながら、尚哉を担いで柵を登る。

 遠くの方に電車のライトが見えてきた。

 まだこの距離なら自分の姿は見られないだろう。

 早く尚哉を落とさなければ。

 そう思い、柵の天辺まで登った、その時。


「あっ」


 誰かに、背中を押された。

 尚哉の死体が重しとなって、柵の外に体が投げ出される。


 落ちる瞬間。瑞紀は見た。

 さっき尚哉の部屋から叩き出した、あの女の顔を。


「男のくせに。お前が死ねよ」


 その瞳は、憎しみに満ちていて。

 ああ、彼女も尚哉を愛していたのだな、と思った。

 けれど女の言葉は、いつの間にか近くに迫っていた電車の音にかき消えて、瑞紀の耳に入ることはなかった。





 激しい急ブレーキの音が響き渡り、電車が止まる。

 しかし、時すでに遅し。

 電車の運転席の窓には、真っ赤な鮮血が張り付いていた。


「あー。こんな時間に参ったなあ」


 電車の運転手が頭をかいて電車から出てくる。

 実に迷惑そうな顔だ。

 げんなりとしたまま運転手は電車に戻ると、無線機を手に取った。


「こちら〇〇線三十三号車、〇〇線三十三号車、三番歩道橋下で人身事故発生」


 凄惨な現場に淡々とした運転手の声が響く。

 頭上の歩道橋には、もう誰もいなかった。

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