役者のお仕事

野森ちえこ

舞台袖の闘い

 彼女には三分以内にやらなければならないことがあった。


 ——ちょっとおー! なにしてくれてんのよあんた! ふざけんなバカヤロウッ!!


 舞台袖の早着替えエリアにて、おとなの女性らしからぬ悪態を心でつきながら彼女は猛スピードで町娘の衣装を脱ぎ捨てた。


 彼女はこの舞台で、町娘Aと宿屋の娘、それから王女の三役を演じている。

 今は町娘から王女への早着替え中である。

 しかし、本来なら五分あった着替えの時間が三分になってしまった。なぜか。現在舞台上で長いモノローグを語っている役者が、セリフのまんなかをすっとばしたからである。あまりにも自然にとばしたため、気づくのが数瞬おくれた。もしかしたら本人にもセリフをとばした認識はないかもしれない。それほど自然にとばして、自然につなげた。


 いつもであれば、次の出番まできっかり三分という、きっかけのセリフが聞こえるときは、ちょうどドレスを着おわって、ウイッグを装着するタイミングだった。

 それが今日は、まだ町娘の衣装を脱ぎおわっていない段階できっかけのセリフが聞こえてきたのである。なんてこと。

 やはり反対側の舞台袖で着替え中であるはずの相手役もさぞかし慌てていることだろう。

 場面転換があるスタッフたちの空気もにわかにざわめいている。


 それでもまにあわせるしかない。舞台にハプニングはつきものである。状況を把握してしまえばあとは対応するのみ。切りかえの素早さはみな一流だ。


 彼女もまた、サポートスタッフの手を借りながら普段の倍速モードでドレスとウイッグを装着し、さらにネックレスとイヤリング、ティアラをつけてスタンドミラーを確認した。

 出番まであと二十秒。

 そこには、町娘Aから一国の王女に変身した彼女の姿があった。


 気高く、ちょっぴりお転婆な王女さま。

 ふつうの少女である部分と、王女としての誇りをかねそなえた、魅力的な女性である。

 あと十秒。

 暗転。

 目をとじ、深呼吸をひとつ。

 さあ、出番だ。


     (おしまい)


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役者のお仕事 野森ちえこ @nono_chie

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