シンセシス

犀川 よう

シンセシス

「好きなんだよね」

 大学の食堂で私の向かい側にいる彼が、トンカツを箸で刺してからそう言った。周りはとても騒がしいはずなのに、彼のややかすれた声と私の心臓の音だけ耳に入る。こんなふうになったのはいつぶりのことだろう。記憶の淵をなぞってみると高校一年の頃を思い出した。グループで遊園地に行った帰り、その日に初めて会話をした男子から告白されて以来ではないだろうか。その時の私は嬉しさよりも驚きと戸惑いしかなくて、反射的にその男子に謝り、勇気を台無しにしてその場を終わらせてしまった。あの時、自分にもっと余裕があったら違った未来があったのだろうか。ふと、淡い後悔のような気持ちが私の心をざわめかした。

「トンカツがそんなに好きなの?」

 大学も三年生になれば一丁前に色んなことから逃げる術を身につけてきている。今日まで彼とは互いに探り合ってきて、”そろそろ”言ってくるだろうと予測は十分にしていた。それでも、私はワンクッション置いてしまう。駆け引きをしているつもりはないけれど、そうしたくなってしまったのだ。

「君のことだよ」

 彼は箸を置いて私の手を取ろうとする。私は彼のこういう優しさに戸惑いを覚える。彼は私を大事にすることが優しさだと思っている。私がわざと拗ねたり、我儘言ったりしても、彼はそれを真摯に受け止めようとする。何故、彼はそこまでしなくてはならないのだろう。私は自分で彼を試しているくせに、理解ができないように思えているのだ。

「知っているよ。ずっと前から」

「そうなんだね。それなら——」

 彼に最後まで言わせたくなくて、自分のトレーを持って立ち上がる。最後に食べようと思っていた、天ぷら蕎麦の海老には後ろ髪引かれる思いだけれども、をして返却口へと歩く。彼は追って来ることもなさそうだったので、私はそのまま食堂のドアを開けて外に出た。


「馬鹿だねぇあんた」

 講義が終わりカフェで友人の桂子と合流すると、呆れ顔でそう言われた。

「だって、食堂で告白されるなんて、思わないじゃない」

「そりゃあ確かにアイツもアイツだけど。あんたも逃げることはないじゃないの」

 桂子は夕飯分のカロリーはありそうなクリームたっぷりのラテを置くと、スマホのメッセンジャーを私に見せる。

「ほら、アイツからの。あんたと一緒にいないか聞いてきているけど?」

「――いないから」

「あたしが嘘つかなければいけない理由は?」

 桂子はそう言いながらも、”いない”と返信を打つ。

「ありがとう」

「なんだかねぇ」

 肩をすくめながら笑われた。私はアイスコーヒーに目を落とす。

「彼ね、きっといい人だと思う。私のことが好きみたいだし、優しいし、ちょっとくらいの我儘なら嫌な顔せずに聞いてくれる。道路側を歩くとか、さりげなく椅子やテーブルにあるゴミを避けてくれるとか。良いところを挙げたらキリがないくらい」

「その話に、だけど、ってのがつくわけね」

「わかる?」

「当たり前よ。それくらいわからなければ、食い意地張ったあんたが、海老天を諦めて食堂出るなんてしないっしょ」

「……さすが高校からの付き合い」

「だわな。あー。こちとら出会いすらないのに、何が悲しくて、あんたの告白から逃げた話を聞かなければいけないのさ」

 桂子はそう言いながらも笑っている。高校三年生で彼氏と別れてから、出会いがないのが不思議なくらいの美人な彼女。本人はその自覚がないのか、あれから今日まで、出会いの機会のフラグを折ってきたのか、浮いた話は一切聞かない。腰近くまで伸ばした黒髪をいじる姿は同性の私から見てもとても綺麗だ。

「で、何がご不満なわけ?」

「何なんだろう。実は私にもよくわからないの。ただ、何となく、違うなぁって」

「中身が良いなら、見た目?」

「見た目は嫌いじゃない。むしろ中身が何というか、こう、イラっとするというか」

「あんた、それは惚気?」

「違う違う」

 桂子にイラっとされないよう、慌てて否定する。するけれども、本当の所、何故彼の告白から逃げてきたのだろうか、うまく説明ができない。

「話を聞いてると、結局さ」

「結局、何?」

「あんた、怖いんじゃないの?」

「何が怖いのよ?」

「——自分が恋に溺れるのが」

 桂子はそう言うと、ラテを一気に飲み干した。


 帰り道、家の最寄りにあるコンビニの前で、背広の男性がオラついた格好で煙草を吸っている。避けて中に入ろうとしたけれど、そのガラ悪の男が自分の兄だとわかると、溜め息をついてお尻に蹴りを入れる。

「――いってぇな。おお!? お前か。なんだ、機嫌悪いな」

「身内がご近所似迷惑なことをしてるからでしょうが。何やってるのよ」

「煙草吸ってんだよ。わかるだろ」

「ちゃんと立って吸いなさいよ。近所の目って言うのがあるんだから」

「関係ないわ」

「親が恥ずかしい思いをするの」

 私は立ち上がらせると、兄は渋々とそれなりな姿勢で吸い直す。

「……なんだ、振られたんか?」

「何でそう思うのよ」

「俺に言わせれば、女が機嫌の悪くなる理由なんざ、振られたか、甘えたいか、生理かの三択しか考えられんからな」

「最悪だね。兄貴、よくその感性で婚約できたね」

「愛されてるからな」

「うわっ、すっごいイラっとした」

「振られたヤツには申し訳ないな」

「振られてないから」

 兄の煙草を奪い、吸い殻入れに放り込む。

「どうしたん? マジで何かあったんだろ?」

「……今日ね、それまで良い感じだった人から、告白されたんだ」

「で、振られた、と」

「話、つながらないよね?」

「だな。で、どうなったん?」

「告白されたんだけど、逃げちゃった」

「なんでよ?」

「わからない。だけど、最後まで聞きたくなくて、逃げてきちゃった」

「へー。じゃあ、そいつのこと、嫌いだったんじゃないの?」

「そうなのかな?」

「そうなのかは、俺が聞きたいわ」

 兄はまた煙草を吸い始めた。

「兄貴には、そういう経験とか、話を聞いたりしたことはない?」

「ないな」

 速攻。

「だけど、まぁ、何となくだが、気持ちはわかるかな」

「本当? なら教えて」

 兄は一服してから私を見た。

「告白したそいつが、お前のことを心の底から好きだと、お前自身が思えないからじゃないか?」

 私は絶句する。桂子が言っていることも兄が言っていることも、私は認めたくなかった。だから、意識の底に押しつけながら沈ませて、と思いこもうとしていた。

「そうなのかな」

「それはお前が決めることだわな」

 兄は煙草を吸い殻入れに捨てると、先に帰っていった。

 私は桂子と兄の言っていることの両方を、心の中で、合わせて理解していると思う。彼の気持ちが偽物とは言わない。だけど、彼が私そのものを見ているのではない気がしていた。桂子が言うように、もし彼の告白を受け入れたとしても、恋愛にハマって、自分が自分でなくなることに恐怖心があるのも確かだ。高校時代、友人やクラスメイトが恋愛というサーキットでクラッシュアウトしていく姿を何度も横目で見てきた。好きです、はいよろしくお願いしますで始まった恋愛が、キチンと完走するなんて話の方が希少なのは確かだ。だから、二人の話を統合シンセシスすれば、私の偽りのない本心になるのだと、納得はできる。

 理屈では理解できても、気持ちはそれに同期してくれない。この歳になってもまだ恋愛初心者な恥ずかしさも含めて、どこかに逃げ込みたい気持ちになる。

 大学も三年生になれば一丁前に色んなことから逃げる術を身につけてきている。とりあえず今日はお酒に逃げることにしよう。——そして、お酒に弱い兄を潰してから、自分も潰れるまで飲んでやろう。

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