聖婆

聖婆

　お前さん、肩で息をしてるね。

　方々（ほうぼう）にえらく傷をこしらえて……。

　でも、安心しな、ここが最後だよ。

　来るまでにいろいろな障害があったろうに、ご苦労様。

　それにしても、こんなお婆ちゃんに会うために命の危険を冒すなんて、物好きなこった。

　え、最後の部屋で待っているのがこんな婆あだとは思わなかったって？

　お前さんもきれいな顔をして言うねえ。

　ま、白いレースを開けたら、普通は美女が待ってると思うわな。

　悪かったね。

　ま、お詫びと言っちゃなんだけど、お飲みよ。

　ほら、目の前にコップが出てるだろ。

　甘いだろ、母乳だよ。

　ふふふ、びっくりしてるね。ま、無理も無い、外界には母ってもんが居なくなっちまったものね。

　成熟した女性の胸を見たことがあるかい？　

　ぼっかりお椀を伏せたような山が二つ胸に膨らんでいて、弾力があったり、ふうわり柔らかかったり、そりゃ触り心地の良いもんなんだよ。

　その頂点にあかい突起が付いていてね、赤ちゃんを産むと、溢れんばかりの白いミルクがそこから出てくるんだ。それはそれは不思議な光景でね……。

　人間が人間の食べ物を作る、この乳房は唯一の場所なんだよ。

　なんでここに母乳があるのか、って？

　ラボで乳腺細胞を培養して造ってるのさ、無尽蔵にね。

　タンクの内腔を覆った細胞が、まるで血を流すようにお乳を造っていくのは凄まじい光景だよ、採取元の母の執念を感じるって言うかね。

　あたし？　あたしは思考パターンを移植されたただの人工知能だよ。

　こりゃ作られた映像さ。せっかくなら美少女にして欲しかったんだけどね、科学者だった息子がこの姿がいいって譲らなかったのさ。

　他の男に恋愛感情を持たれたくないって、変だろ。

　ま、外界では『聖母』って事になってるらしいからお前さんのように期待してくる奴には悪いことをしてるんじゃないかってちょっと気が咎めるけどね。

　質問に答えて欲しいって？

　いいよ、その椅子にお座り。

　この神殿に寄進している屍をどうしてるのか？　どうやって子供を作っているのか、人類を救うためにはどうすればいいのか……って。

　ちょ、ちょっと待ちな、そんなにいっぺんに答えられないよ。

　順に話そうかね。

　もうずいぶんになるから、お前さん達の間でも記憶が曖昧になってきているかもしれないね。

　人類が増えすぎて食糧事情が悪くなった末に資源も枯渇して戦争が起こったのさ。

　もう疑心暗鬼の連続でさ、瞬く間に地上は荒廃しちまったよ。

　ま、人間が悪いわけじゃない、人間を操る欲張りな遺伝子が悪いのさ。

　結局、環境ホルモンや、放射能で男も女も生殖能力が無くなっちまった。

　今はお前さん達の屍から栄養素やDNAを取り出して、クローンを培養槽で育ててる。

　全てオートマチック、息子達が確立した技術だよ。

　暫く母乳で育てられた後、この神殿の入口に赤ちゃんが現れるというわけさ。

　最近、早死にするものが多いって？

　仕方ないさ、リサイクルでお前さん達の遺伝子もだいぶ疲弊してきてるしね。

　第一この工場ももう限界。

　そう、人類は滅びるのさ。

　悲しいかい？　でも、それは遺伝子が作った感情なんだよ。

　ふふふ、かく言う私も寂しいんだよ、実はね。

　私だって遺伝子に作られたものだからねえ。

　ゲノムって知ってるかい？

　平たく言えば、ＤＮＡの遺伝情報すべてのことさ。

　実は人間のゲノムの中にウィルスの遺伝子も眠っているんだよ。

　気の遠くなるくらい過去にヒトのDNAと一緒になったんだろうねえ。

　今の環境じゃもう人類はどうあがいても駄目さ、滅亡はもう目と鼻の先だよ。

　こらこら、泣くんじゃ無い。

　存続するには何か別な手だてを考えなくちゃいけない、って息子達もがんばったのさ。

　で、思いついたのは他の生物のゲノムの中にヒトの遺伝情報をなんとか組み込もうってことなんだよ。

　遠い未来、新たな造物主の出現でヒトの遺伝情報が目覚めるかも知れないじゃないか。

　それが、人類の情報を何とか後世に残す役目を託されたこの聖婆（SAVER）の最後のあがきってもんさ。

　で、ものは相談だけどね。

　屍じゃなくて、活きの良い細胞が沢山欲しかったんだよ。

　難関を突破して来る、勇気があって知恵がある、お前さんのような若い個体から、ね。

　ありゃ、もう母乳に入れた睡眠薬が効いたのかい……。

　大丈夫、お前さんの身体、無駄にはしない。

　蝶や、鳥や、蛆虫達が春になったらきっとこの神殿から沢山出て行くよ。

　何億年後の復活を夢見ながらね。