第7話



 気が付くと、僕は翠が亡くなった場所――交差点の真ん中にいた。空には既に太陽が昇り、周囲にはたくさんのひとがいる。

 みんな、交差点の真ん中で立ち尽くす僕を不審そうに見ながらも、そのまま追い抜かしていく。

 両目から、ぽろぽろと涙が溢れてくる。

 目の前に、現実が落ちている。翠がいない現実を、今になってようやく実感したような気分になった。 

 事故から一ヶ月。翠の葬儀はとっくに終わって、翠がいない毎日を三十回も繰り返した。

 毎朝目を覚ますたびに現実を思い出して、泣いた。それでも、ずっとそうしてはいられないと、必死に受け入れなきゃと心に言い聞かせて、花を供えに来た。

 美空さんの提案に乗ったのは僕だ。

 過去をやり直すんじゃなくて、伝えそびれてしまった『ごめん』を、今までの『ありがとう』を伝えるためにきた。

 ふぅ、と息を吐く。

 伝えたかったことは伝えられただろうか。頭が上手く回らない。

 後悔だらけだ。この先もきっと、後悔ばかりになるだろう。でも、これが今の僕の精一杯だった。

 空を見上げる。抜けるような高い青に、吸い込まれるような感覚になる。

 ぼんやりと空を見上げていると、視界に赤いなにかが過ぎった。

『おかえりなさい』

 目の前に、美空さんがいた。ハッとする。僕は美空さんに向き直ると、抱いていた疑問を訊ねた。

「……あの、ひとつ聞きたいことがあります」

『なに?』

 美空さんはゆっくりと瞬きをしている。

「翠との会話の中で、以前と少しだけ違うやり取りになったところがありました。あれは、どういうことなんですか? 僕では未来を変えられないけれど、翠の行動次第では未来を変えることができるってこと? それなら翠は……」

 矢継ぎ早に訊ねる僕に、美空さんは静かに首を横に振った。

『言ったでしょ。彼女が死んだ現実は、なにがあっても変わらない』

「……そうですか」

 覚悟はしていたけれど、やっぱり押し潰されそうに胸が痛い。

『でも、あなたが会った彼女は、かつての彼女とは違う』

「……どういうことですか?」

『あなたが今から過去に行ったように、彼女も死んだあと過去に戻ったということよ』

「え……?」

 どきりとした。

「じゃ、じゃあ、翠はもしかして……じぶんが死んだことを……」

『知っていたわ。その上で、あなたに会ったの。あなたにどうしても、『ありがとう』と『ごめんね』を伝えたいからって。……あのね、死んだ側にだって、伝えたいことがあるのよ。もしかしたら、残された側よりもあるかもしれない。だって、転んでも手を差し伸べることもできないし、ただ寄り添うことすら叶わない。じぶんのいない未来を生きていくのを見守るって、とてももどかしくて辛いことだから』

 それに、と美空さんはどこか遠くを見つめて言った。

『残されたひとたちはみんなじぶんの想いに囚われて、そのことに気が付かないのよね……』

 美空さんの言葉に、僕は愕然としていた。

 翠は、最初からぜんぶ知っていた?

 僕のおかしな行動にも、涙の理由を聞かなかったのも……。

『――私ね、ようやく気付いたんだ。私には私の人生があるように、翔にも翔の人生があるってこと』

『――翔がいれば友達なんていらないと思ってた。ずっとふたりだけでいられればいいって。……だけど、それじゃダメだよね。ふたりだけじゃ、私たちの世界はずっと小さいまま。ふたりだけの世界はすごく脆いから、些細なことで呆気なく崩れちゃう。もっとほかのひとの視点を知って、もっとほかの価値観の言葉をもらって、吸収していかないといけなかったんだ。翔はずっと、それを私に教えようとしてくれてたんだよね』

『ありがとう』

 あれは、あの言葉たちはぜんぶ……、僕のための言葉だったのだ。

 驚きで一度止まったはずの涙が、再び溢れ出してくる。

 息が詰まり、思わずうずくまったそのとき。

「あのー……」

 ふと、声をかけられた。振り向くと、四十代くらいの女性と幼い男の子がいた。手には、かすみ草の花束を持っている。

「……はい?」

 女性は申し訳なさそうに眉を下げて訊いてくる。

「もしかして、この前の事故で亡くなった板垣翠さんのご家族ですか?」

「……いえ、翠は……僕の、恋人でした」

 言葉をつまらせながら答えると、女性は傍らの小さな男の子を抱き締め、深々と頭を下げた。そして、名前を笠井かさい美奈子みなこと申します、と名乗った。

「ごめんなさい。翠さんは、私とこの子を助けてくださったんです。そのせいで、亡くなりました。私たちを助けなければ、彼女が暴走車に巻き込まれることはなかったんです。本当に、なんと言ったらいいか……」

 彼女と男の子は、翠が助けたひとたちだった。

「……そう、でしたか」

 立ち上がり、女性を見る。

「本当に、申し訳ありませんでした」

「……翠が死んだのは、あなたのせいじゃありません。だから、顔を上げてください」

 女性が顔を上げる。僕は、そのまま傍らの男の子に視線を流した。

「君のせいでもないよ。だから、なにも気にしないで。そんな顔をしなくていいから」

 女性は静かに頭を下げて、語り出した。

「実は、この子の父親は、かつて前妻との子を事故で亡くしているんです。私たちが事故に遭ったとき、夫は顔を真っ青にして病院に駆け込んできました。……きっと、前の奥さんと――美空ちゃんを亡くしたときのことを思い出しちゃったんでしょうね。翠さんにお礼がしたいと、何度も言って」

「――え?」

 聞き覚えのある名前に、耳を疑う。

「あの……今、美空って言いました? その亡くなったお嬢さん、美空さんって言うんですか」

「えぇ。夫の連れ子でした。美空ちゃんも、ここで運悪く車に轢かれてしまって……私は写真でしか会ったことないけれど、とても綺麗なお嬢さんなんです。あの日も、月命日だったので花を手向けに。それで、事故に」

「……そう、だったんですか……」

 その後、美奈子さんは丁寧にお礼を言って男の子と帰って行った。

 僕はその場で、呆然と立ち尽くした。

 美空さんは、神様じゃなかった……?

 彼女もまた、この場所で命を落とした被害者だったのだ。

 じゃあ、今回の件は。

「自分の家族を守ってくれた翠への、恩返し――とか?」

 ……考えすぎかもしれない。

 そもそも、彼女の言う美空さんと、あの美空さんが同一人物かも分からない。

 記憶の端で、赤いマフラーが揺れている。

 顔を上げると、晴れやかな空が広がっていた。

 ……彼女はいったい、何者だったのだろう。

 分からないけれど、

「……嘘つき」

 であることだけは、間違いなさそうだ。

 だって、僕はてっきり、過去の翠に会っていると思っていたのに。教えてくれたってよかったのに。

 ……まぁ、確信をつく言葉を言っていなかっただけと言われたらそれまでだけど。

 ……でも。

『私は、美空。この神社の神様』

 ……こんな嘘、ふつうは付けない。

 じぶんを、『神様』だなんて。

 思わず笑みを漏らし、空を仰ぐ。

「……でも、ありがとう」

 それから、

「ごめんなさい」

 神社で初めて会ったとき、僕は彼女にひどい言葉をぶつけてしまった。

『くそったれ』

 美空さんに詰め寄ったとき、彼女は言った。

『ごめんなさい』と。

 あれはきっと、心からの言葉だったと思う。

 きっと彼女にも大切なひとがいて、伝えそびれてしまったことがあったのだ。

 その想いがあったから、僕の前に現れてくれた。

 チカチカと、信号が点滅する。

 僕は少し早足で横断歩道を渡り切った。

 すぐとなりの歩道用信号機の下には、たくさんのお供えものがある。これはきっと、翠だけではなく美空さんへ送られたものも混じっているのだろう。

「……また、花束買ってこなくちゃな」

 その場で立ち止まって、彼女に手を合わせる。

「ふたりとも、どうか安らかに」

 今日、ここに翠はいない。それでも変わらず、季節は巡る。けれど、君が託し、信じてくれた未来を、僕は生きなければならない。

「また来るね」と呟いて、歩き出す。

 頬を撫でていく風に、僕は小さく笑みを漏らした。

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