エピローグ
エピローグ【記憶を上書きしていくために】
あの日、葉子を殺したのは松橋さんだった。
浅野の部屋の合鍵を使って俺の部屋の上階にこもり、盗撮映像と音声から、俺の名を語って注文したピザが宅配されたのと、俺が不在なのとを確かめた。
その後一度マンションを出て、私服からピザ店の制服に着替えてマンションに戻る。
電話をかけ、葉子を浅野の部屋に呼び出した。
電話の主が浅野だと思っていた葉子は、部屋で待っていたのが見知らぬ女性であることに驚く。彼ならもうすぐくるから、と言葉巧みに警戒を解いて、松橋さんが葉子を部屋に招き入れる。まとめたデータを寄越せと迫られた葉子が、パソコンでファイルを開いている隙に、松橋さんが改造スタンガンで葉子を気絶させた。気絶している葉子を”六階の”窓から突き落として殺害。データが入ったメモリースティックを持って、浅野の部屋に施錠してマンションを出た。
――葉子は、浅野の仇である教授の娘。もしかしたら、最初から生かしておくつもりはなかったのかもしれないが。
監視カメラに映っているのはピザ宅配員に見える人物。
俺の部屋には鍵がかかっている。
浅野の部屋も同様で、彼には完璧なアリバイがある。
こうして、警察の捜査をかく乱することに成功した。
このとき使われたピザ店の制服が古い物だったのは、雪奈さんの形見の品だったからだ。
あえてそれを使用することで、雪奈さんが生きていた証を少しでも多く感じたかったのかもしれない。
ところが、浅野にはひとつだけ誤算があった。
葉子から奪ったデータを開いてみたら、それは目的の物と違ったのだ。
それは、記憶消去方の問題点について訴えた、教授宛てのメッセージでしかなく、添付されていたデータも、神崎美優が自殺に至った経緯をまとめたものでしかなかった。
本命は別にある。そう睨んだ浅野は、柚乃を(松橋さんの手引きによって)けしかけて俺のところにこさせたのだ。
それが、本当にあるのかどうか懐疑的であったとしても、記憶消去方を転覆させかねない葉子のデータの存在は、浅野にとって目の上のたんこぶだったから。
記憶消去方のサービスを継続させることだけが、浅野の目的だったから。
そうすることでしか、雪奈さんの存在を感じられなくなっていたから。
これが、事件のあらましだった。
俺は我妻教授のことを強く恨んでいた。だからあの日、確かに俺は教授を殺そうと思っていたのだろう。
だが一方で、どこまで覚悟が決まっていたのかは疑わしい。
たびたび葉子が指摘してきたように、俺は優柔不断だったから。
教授殺しで先回りをされたことに、どこかで安堵していたに違いない。
――心の痛みを緩和させることが、きっと何よりも大切なんだよ。
そこで葉子の言葉を思い出して、過去(葉子の死)としっかり向き合った上で、再スタートするためにあの記憶を消したのかもしれない。
お前はどう思う? 葉子。
葉子が残したデータの中身だが、記憶消去方の悪しき部分のみにスポットをあてたものでは断じてなかった。
記憶を消したあとで、精神のバランスに異常をきたす可能性があると言及した上で、どう対処したら良いのかについて触れられていた。
たとえば、記憶を消したことで穴になった部分を、どうやって埋めるべきか、との方面からアプローチした疑似記憶のサンプル。
たとえば、記憶を完全に消去するのではなく、ちょっとずつ記憶を改変していくことで、心の痛みを緩和していく方法について。
親から与えられる無償の愛。成功体験。こういった、幸せな疑似記憶を、後天的に補完していく方法等々。
単純に記憶を消すだけではなく、『記憶消去方』をより発展させることで、さらに良い方向に変えていくための方法が、いくつか提案されていたのだ。
この部分を読んで、俺はひとつの可能性を見出していた。
俺と柚乃が、記憶を消しても希死念慮にとりつかれずに済んだのは、癒着した記憶が、心の穴をちょうどいい具合に埋めてくれていたからじゃないのかと。
いささか都合の良い、妄想なのかもしれないが。
この研究データの存在を、俺はただちにマスコミに提供した。
筧葉子の名と、彼女がたどった数奇な運命が、繰り返しテレビや雑誌で報道された。記憶消去方を研究している機関にもこれらの情報は還元された。記憶を消すだけではなく、さまざまなオプションサービスが提供されることになったのだ。
記憶消去方が原因になったと思われる自殺者は、あれから一人も出ていない。
葉子の死からだいぶ時間は経ってしまったが、彼女の願いはこうしてすべて叶ったのだ。
*
四月。東京の街角には春の匂いが満ちていた。
あれから何度目の春になるのだろう、と考え、次に、そもそもあれから、とはいつのことを指すのだろうか、と思う。
どうでもいい思考を断ち切って、マンションの窓から外を見る。ビルの隙間から、満開の桜が見えていた。東京も、こうして見ると案外桜が多い。
今年の夏がきたら、俺は三十歳になる。
あれからまもなくして、俺は再就職した。
昔取った杵柄でもないが、結局IT関連の仕事をしている。正直、年収は以前勤めていた会社と比べて下がってしまった。それでも、顧客のニーズに答えるためにどうすればいいかと考えて、ひたすらキーボードを叩いているのが性に合っているのだろう。意外にも心は充足していた。
結婚はしていない。
それどころか、特定のパートナーもいない。今だけではなく、あれからずっとだ。
俺は今でも葉子の死を乗り越えられていない。それでも、処分できずにいた彼女の私物を、いくつか整理できたのは前進だろうか。
相変わらずの、微速前進ぶりだが。
浅野と松橋さんは、殺人罪と殺人
柚乃は、傷害罪で懲役一年半の実刑判決を受けた。
浅野の事件においては彼女は被害者なのだが、我妻教授の事件においては加害者であったから。犯行は偶発的ではあったが、凶器を所持していたこと。障害ののち、被害者への被害弁済をせずに放置したことが影響し、執行猶予のつかない実刑となった。
柚乃の刑が確定した日に、一度だけ彼女から電話があった。
そのとき俺はちょうど喫茶店でコーヒーを飲んでいたのだが、ワンコールで取ると彼女は驚いていた。声を震わせて、俺と会って話したいことがあると言ったのだが、俺は断った。今はまだ会えないと。
柚乃とはそれきりになった。
*
朝食は、バターをたっぷり塗ったトーストと、北海道産のミルクを入れたカフェオレだ。特に観たい番組はないが、なんとなくテレビをつけて、ニュースキャスターの声を聞き流す。
リビングのソファに座り、ぼんやりと時間を浪費するのが俺は好きだ。
忙しい仕事明けの週末なのだし、もっとゆっくりしたいところだが、今日は用事あったことを思い出して食器とコーヒーカップをキッチンで洗う。
薄いジャケットを羽織り外に出ると、心地よい風が時折吹いて、長くなった髪の毛をゆらした。
朝なのに、人通りが結構多い。日が高くなるにつれて、動き出した街の気配を感じながら、建物の隙間から見える空の青を振り仰いだ。
今日は、良い天気になるだろうか。
*
四月。東京の街角には春の匂いが満ちていた。
刑期を終えて出所する今日、私を迎えにきてくれる家族はいなかった。唯一の肉親である姉はいないし、叔母家とは折り合いが悪いのだから当然だ。ただ一人、楓だけが迎えにきてくれた。
「よく頑張ったね。柚乃」とだけ短く告げ、楓が右手を差し出してくる。その手を取って握りしめ、「お世話になりました」と短く口にする。
空は雲ひとつない青だ。爽快に晴れ上がった空は、しかし、都会の空特有の不透明なヴェールに包まれているようでもあった。
そのせいで、日の光が地表まで届かないのだろうか。晴れていても、じっとしていれば肌寒さを感じさせる風と空気に身震いをする。
刑務所を出るときの服装は、白のブラウスとボーダー柄の膝上丈スカートを選択した。
薫さんの部屋を飛び出したあの日、着たまま出てきてしまった葉子さんの形見だ。
もしかしたら、これは私なりの願かけだったのかもしれない。これを着て出所したら、彼が迎えにきてくれるんじゃないかと、そう思ってしまったんだ。
バカみたい。
刑期が決まったあの日、謝罪の場を設けてもらえなかった時点で、わかっていたことなのに。
私では葉子さんの代わりにはなれないと。
楓と別れて歩き出す。道行く人が、こちらを気に留めることなく通り過ぎてゆく。人の往来が途絶えると、追い越していく人も、追いかける誰かもいない道を一人で歩いてゆく。それはまるで、この先の自分の人生みたいだった。
振り返ると、刑務所の建物はすでに遠くなっていた。
街全体が、春の匂いで満ちていた。
左手にある公園では、桜の花が満開だった。
出所するのがこの季節で良かった。
今日の天気が快晴で良かった。
寂しさが、ほんの少しだけ緩和されるから。
そのとき、パアーン、とクラクションの音がした。
信号が青になったのに気づいていない車に、後ろの車が鳴らしたのだろうか。
気に留めず、歩き始めたところにもう一度。
今度は、さっきよりも音が近い。クラクションを鳴らし続ける意味がわからず、音のほうに振り返った。
街路樹が並んでいる歩道の先に。赤い車が停車していた。
車のドアが開いて、降りてきた人物の姿にはたと立ち止まる。
「どうして……」
こぼれる、と形容するのが相応しい呟きが、口からもれた。
思いがけない
私は、彼を騙した。彼が与えてくれた好意のすべてを踏みにじって、なんの恩返しもすることなくマンションを出た。だから、もう二度と会うことはないと、会ってはならないのだとそう覚悟していたのに。
どうして彼はここにいるのか。
「出所、おめでとう。という言い方はおかしいのかもしれないけれど、よく頑張ったな」
「どうして? 私は、薫さんを騙して裏切った人間ですよ」
「ああ、そのことか」
などと、事もなげに彼は言う。
「一度失敗した人間がダメになるのか? 違うだろ? 葉子が言っていたんだよ。どんなに悔やんでも過去は変わらない。どんなに心配しても未来がどうなるわけでもない。大切なのは、今を懸命に生きることなんじゃないかって。過去は今を縛る鎖になってはならない。そうだろ?」
ああ、葉子さんには本当に適わないな。死してなお、これほどの影響力なのか。
「飛べなければ走ればいい。走れなければ歩けばいい。歩けなければ、這ってでも。だが、人は弱い生き物だ。誰かと支えあってじゃないと、歩けなくなることもある。ならば、」
――大切なものを失った者同士、傷をなめ合うみたいな関係も、悪くないんじゃないのかなって。
傷をなめ合う関係。その言葉が、すっと胸に染み込んできた。
側にいることを、私は許されて良いのだろうか。自分のこの気持ちを、隠さなくて良いのだろうか。今度は私が、彼を支える立場になりたいと願ってしまって良いのだろうか。
「葉子のことは忘れない。どんなに辛くてもこれは大切な思い出だから。だが、鎖は断ち切る。ここから先は俺の人生だ。すべての記憶をそのままに、新しい記憶で上書きしていきたいんだ」
手伝ってくれるかい? と彼が言った。
「私、あれからちょっとだけ大人になれたんだ」
「ああ、知ってる」
「今度は、子ども扱いなんてさせないんだから」
「ああ、そうだな」
人の記憶はいつか消える。人の心の痛みもまた。
けれど、一度つないだ絆は、ずっと消えることはないのだろう。
「手、つないでもいいかな?」
「おう」
今日、つないだこの小さな絆が、いつか赤い糸に変わりますようにと、葉子さんにごめんねと謝りながら、ささやかな願い事をする。
思い出したくない辛い記憶や悲しい記憶を、そこだけピンポイントで消すことができるとしたら、君ならどうする?
無論、辛い記憶を消したところで、失われたものが戻ってくることはない。
それでも、過去をすべて清算して、新たな気持ちで前を向いて生きたい。そう願う人は決して少なくないだろう。
でも、私はもう消さない。
振り返ると、本当に道は凸凹で、歩いているだけでもくずおれそうになったけれど、悩みながらでも駆け抜けてきたことが、必ず、自分のこれからに活きてくるはずだから。
私は、お姉ちゃんや楓みたいに強くはなれない。
私は、葉子さんの代わりにはきっとなれない。
それでも、私は全力で前を向く。
支えてくれたすべての人を私が忘れないように、今度は私が、誰かの心に住めますようにと願いながら。
世界は、今日もまたどうしようもなく回っていく。
私も、彼も置き去りにして。
置いていかれないように必死に歩いた。
おめでとう、柚乃、とお姉ちゃんの声がした気がした。
滲み始めた視界の中、暖かい春の日差しが降り注いでいました。
『穢れた、記憶の消去者』 ―了―
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