第3話 西ベルリン・西ドイツ(ニュルンベルグ)
【西ベルリン】
<西ベルリナーの憂鬱>
翌朝、宿泊していたB&Bのダイニングルームに行くと、朝陽にさざ波が反射するシュプレー川が見えた。横長の木製のテーブルの上にはゆで卵とチーズと堅いパンの朝食が用意されていた。席につくと、前日と同じように女主人が、コーヒーをサービスしてくれた。ゆで卵をエッグ・スタンドから取り出して殻を割ろうとすると、彼女が
「やってあげるわよ」
と言って、私から卵を取るとエッグ・スタンドに戻した。そして、卵のてっぺんの殻をスプーンで叩いて丸い穴をあけ、
「はい、どうぞ」
と返してくれた。なるほど、ゆで卵はこうやってスタンドに入れたまま、スプーンですくって食べるのかと感心していると、東ベルリンには行ってきたか、と聞かれた。昨日無事に一日観光を終えたことを報告すると、彼女は言葉を放り投げるように言った。
「私達だって電車にさえ乗れば、いつだって東ベルリンに行くことはできるわ。下車せずに通り過ぎるだけならね」
確かに、昨日乗ったUバーン6番の南北線は、路線の真ん中の区間だけ東ベルリン領域で、両端は西ベルリンだった。西ベルリン市民は、南北に電車で移動する途中で、東ベルリンの幽霊駅と国境駅を通過し、また西ベルリンへと入る。途中、否が応でも、東西ドイツの分裂を目の当たりにすることになる。西ベルリン市民の日常には、そうした「見えない壁」が、時々姿を現すのかもしれない、と思った。
<チェックポイント・チャーリーと自由への跳躍>
その日最初に向かったのは、チェックポイント・チャーリーだった。ここは、車や徒歩で東西ベルリンの国境を越える人々を管理する国境検問所だ。ベルリンの壁が建設された二ヶ月後の一九六一年の十月に、アメリカとソ連の戦車が睨み合い世界を震撼させた場所だが、今では、見逃してしまいそうな程小さな小屋がぽつんとあるだけだった。ただ、その小屋の看板に描かれた米、英、仏の旗が、三国による西ベルリン占領統治が続いていることを思い出させた。西ベルリン住民のほとんどがドイツ人だったし、西ドイツマルクの流通や西ドイツの法律の適用を認められていたから、西ベルリンは実質的には西ドイツであった。しかし、当時東ドイツやソ連はそれを認めていなかった。ベルリンまでの列車で同室した西ベルリン市民の彼女が、東ドイツの国境審査官に見せたのは、西ドイツではなく西ベルリンのパスポートだったのは、そのせいだ。国家主権という根本的なものが確立していない場所で生活することはどういうものなのかを、想像することは難しかった。そこに住み続けるには、何かを強く信じ続ける強さが必要なように思った。
チェックポイント・チャーリーの近くにある「壁博物館」に向かった。そこはB&Bの女主人が教えてくれた隠れ屋的な場所だった。ちょっと見には、お土産屋さんのような小さな建物だった。その外観とは裏腹に、展示内容は濃く、思わず息を止め見入ったものの、大きなため息と共に次に進むという連続だった。
入って最初に目を引いたのは、「自由への跳躍」と題された、白黒の写真だった。一九六一年当時、ソ連統治にあった東ベルリン地域では、西ベルリン地域との経済格差と自由への抑圧に苦しむ市民が、どんどん西ベルリンへ亡命していた。市民の逃亡を物理的に阻止するべく、その年の八月一三日に、東ドイツは突然東西ベルリンの境界に有刺鉄線(壁の前身)を張り巡らす。その二日後、一人の東ドイツ国境警備兵, Konard Shumannが鉄条網を飛び越え、西ベルリンに亡命した。その瞬間を、境界線の西側にいたカメラマンが捉えたのが、この写真だった。
この衝撃的な脱出劇に始まり、車のトランクに入れた小さなスーツケースに入ったまま国境を越えた女の子、気球に乗って空から壁を越えた人達、西側までトンネルを掘った人、シュプレー川を泳いで渡った人、壁を飛び越えた人、等々、考えつくありとあらゆる方法での亡命の記録、もしくは失敗して銃殺されてしまった悲劇が、写真や絵や模型で展示されていた。その中には、電車の車両の下に張り付いて亡命する人の絵があった。東ドイツの国境駅のホームで見た警備犬が、電車と線路の間を嗅ぎ回っていたことを思い出し、ゾクリとした。ただ、こうした亡命も、壁と国境警備が強化された影響で、七十年代以降、大きく減少したとも書いてあった。
この博物館は、ヨーロッパには珍しく日本語に翻訳された説明書きもあったから、一連の壁の歴史をよく理解することができた。各国の言葉で訳された説明文を眺める観光客は一様に溜息をもらしていた。展示物の年代が進めば進むほどに、諦めの空気が支配していくのを感じた。
<西側からのブランデンブルグ門(裏側)>
壁博物館を出ると、ブランデンブルグ門を目指した。直線距離では一キロもない近さにあるが、ベルリンの壁があるため、大分回り道をしなくてはならなかった。街の喧騒から離れ、森を突っ切ると、ベルリンの壁の向こうに、前日東ベルリンで訪れたブランデンブルグ門の裏側が現れた。見えるのは、女神の後ろ姿と馬のお尻だけだ。門の手前にあるベルリンの壁は、曇りひとつなく真っ白だった東側とは対照的には、一寸の隙間もなく落書きで埋めつくされてあった。そして、まるでそこは忘れてしまいたい禁忌の場所であるかのように、人間も建物も見あたらなかった。あるのは、壁の前にある「注意 西ベルリンはここまで」と、申し訳なさそうに書いてある小さな標識だけだった。
ベルリンの壁は、東ベルリン市民を閉じ込めるために作られたものであって、西ベルリン市民を囲い込む目的のものではない。一九七二年に米ソ英仏の四カ国協定が施行されてからは、東ドイツ大使館でビザを事前取得すれば、西ベルリン市民は東ベルリンへ訪問できるようになっていた。さらに、彼らは、西ドイツや他の西側諸国へ自由に旅行することもできた。とはいえ、全周囲東ドイツと国境を接する、この地で暮らす西ベルリン市民の閉塞感は、相当なものであろうと察せずにはいられなかった。空路でない限り、西側諸国に行くには必ず東ドイツを通過しなくてはならない。その度に、国境管理官の厳しい審査に耐えなくてはならないのは、二日前に乗車したベルリン行きの電車で目の当たりにしたばかりだった。
ブランデンブルグ門の向こう側には、前日訪れたウンター・デン・リンデンの葉を落とした街路樹と建物群が灰色にくすんで見えた。米、英、仏による占領統治が続いている西ベルリンと違い、東ベルリンは東ドイツの首都としての地位を築いていた。ペルガモン博物館や商店であった東ドイツ人は、不幸そうには見えなかった。平和な外見とは裏腹に、東ドイツから西ベルリンや西ドイツへの訪問は、年金受給者になるまでは、余程の事情が発生しない限り、許されていなかった。社会主義である以上、旅行だけでなく、様々なことに制限があるはずだ。自由が抑制されていても、心穏やかに生活していけるのだろうか? 自由を空気のようにして生きていた私には、それが不十分な世界というものがどの位息苦しいものなのか、うまく想像することができなかった。
ベルリンの壁が建設された直後は、壁の東側では亡命を目指す人と国境警備兵の激しいせめぎ合いが続き、西側では、亡命者を待ち受けるメディアや西ベルリンの警察が連日詰めかけていた。東西両陣営の緊張は高まり、一時このあたりは両軍が睨み合う一触即発の状況だった。それから二十五年、目の前にある壁は、どちら側もひとけがなく、不気味な程静まり返っていた。壁の力は絶大で、人々は亡命を諦めた。「壁」は東ベルリン市民だけでなく、社会主義・資本主義両陣営の戦闘意欲も抑制し、両者は冷戦下の平和を手に入れた。しかし、これは、東西ベルリン市民の犠牲のもとに成立した「負の均衡」であり、まやかしの平和が強固になればなるほど、ベルリン市民の絶望が大きくなるような気がした。
<ライヒスターク(旧国会議事堂)>
ブランデンブルグ門の目と鼻の先にある、ワイマール帝国時代に建設されたライヒスターク(旧国会議事堂)に立ち寄った。戦前の火災で失ったドーム屋根は未修築のままだったが、巨大な円柱が立ち並ぶ威風堂々たる風格に、ベルリンのかつての栄光と繁栄が偲ばれた。西ドイツの国会は首都のボンに移ったため、この建物は本来の役割を失い、展示会場として使われていた。中に入ってみると、「ドイツの歴史に関する質問(Questions about German History)」と題された常設展示があり、ちょっとした歴史博物館のようになっていた。ドイツ帝国建国以来の様々な出来事の写真や絵画が陳列されていた。
映写室を覗いてみると、終戦直後のベルリン市街地を撮ったカラー・フィルムが上演されていた。日差しが照りつける中、見渡す限り瓦礫の山となった場所で、何百人もの女性が一列に並んでバケツ・リレーをしている。瓦礫が入ったバケツを黙々と右から左へと動かしている姿を延々と追っているだけなのだが、リアルな映像に釘付けになり、一時間以上も黙って見続けた。女性によって始められたドイツの復興の様子を見ているうちに、日本も焦土となった国土から復興を遂げた、同じ敗戦国であったことを思った。日本人にとって戦後はもう遠い過去になりつつあったが、ドイツ人にとっては、どうなのだろうか? 国家分断の状況がある限り、ドイツ人、特にベルリン市民は、敗戦の辛酸を嘗め続けているような気がした。 ——ドイツ人は敗戦の痛手から立ち直ったのか?
「ドイツの歴史に関する質問」と題された展示会であったが、戦後史は西ベルリンの復興で終わっており、ベルリンの壁以降の出来事は含まれていなかった。私の質問への答えは、まだ歴史になってはいないのだと思って、そこを後にした。
<KaDeWe>
ベルリン動物園駅に戻り、広い街路樹に華やかな店舗のウインドゥが続く、西ベルリンの随一の繁華街を散策した。ドイツ最大の老舗デパート、KaDeWeの中のカフェで、遅い昼食を取ることにした。サワークラフトが添えられたフランクフルトと、アップルソースとサワークリームがかかったポテト・パンケーキと一緒に、地場ビールも注文した。旅行中にお酒を飲んだのは、それが最初で最後だった。フランクフルトにかぶりつきながら美羽が呟いた。
「地下鉄数分乗るだけで全然違う世界に着いたね。どれが本当のベルリンなんだろうね?」
考え込む私に彼女は続けた。
「西ベルリンの人達は、ブランデンブルグ門から離れてこの辺りを発展させたんだね。ベルリンにいると、西ドイツの首都がボンだってこと忘れちゃいそうだよね。ここに住んでいる筋金入りのドイツ人が頑張っているからだよね」
全く美羽の言うとおりだった。西ベルリンの繁華街は、モダンさといい、道行く人のせわしなさといい、今まで見てきたどのヨーロッパの街よりも現代的で活気に満ちていた。これだけの発展を遂げることができたのは、ドイツ人がいつかべルリンの栄光が戻ることを、ひいては祖国の統一を信じているからではないだろうか? 西ベルリン動物園駅の治安の怪しさも含め、ここには新しいドイツの息吹を感じさせる強いエネルギーがあった。ドイツの分断にも新しい展開があるかもわからない。そう信じたい。苦みの強いクラフト・ビールを飲み干しながら、私は心地よく気持ちが昂ぶるのを感じた。
KaDeWeを出ると、あたりは暗く雪がちらついていた。近くの広場では、三人の若い男性がロックを演奏していた。日本でも聞いたことがある、ヒット曲に吸い寄せられるように、観客の輪に加わった。彼らは、なかなかの腕前で、路上コンサートは盛り上がっていたが、雪の降りが強くなるにつれ、観客も疎らになっていった。ビールで体が火照っていたせいか、私達は寒さも感じず演奏を聴き続けた。
ボーカルの目の前で、音楽に合わせて夢中になって踊っている女の子がいた。幼稚園児くらいの年頃だろうか。毛糸の帽子のボンボンが揺れている。西洋人とは、こんなにもダンスが上手なのかと感心するくらい、全身が音楽と一体化してリズムをとっている。曲が終わると、ボーカルがドラムとキーボードに短く合図した。そして流れてきたのが、ペット・ショップ・ボーイの『ウエスト・エンド・ガールズ(West End Girls)』だった。観客が歓喜して叫び声をあげた。
退廃的な未来の街を思わせる、クールでミステリアスなサウンドがあたりを包んだ。
“In a West End town, a dead end world. The East End boys and West End girls. (西の果ての街、この世のはずれの世界。東の果ての男と西の果ての女)
"West End girls…"
"West End girls…"
雪がどんどん降ってきた。巨大な百貨店の裏側で、暗闇の中で一筋の明かりを求めるように、ボーカルは歌い続け、少女は踊り続けた。
——少女が大人になる頃、この街はどうなっているのだろうか?
そう考えずにはいられなかった。
【西ドイツ・ニュルンベルク】
ニュルンベルグ城のカイザーブルクの丘からは、古都ニュルンベルクの中世の街並みが一望できた。赤茶の三角屋根がどこまでも連なっているが、この殆どが大戦後に復元されたものというから驚きだった。新しい様式の建築で復興した日本と大違いだったからだ。昨日の早朝、ベルリンから夜行列車で西ドイツに戻ってきた。目の前の芝生では、若い女性がラジオをつけたまま、座り込んで雑誌を読んでいた。雪が舞っていたベルリンとは打って変わり、春の日差しが射しこむ暖かい午後だった。ラジオからは、透き通った女性の歌声が聞こえてきた。切なさの中に、歌い手の芯の強さと優しさが感じられるような珠玉のバラードだった。
“Saving All My Love for You[i]”
というフレーズが続いて、その一曲が終わった。
「日本でも、この曲聞けるとね」
と美羽が言った。
今晩の夜行でパリに出て、二日後にはシャルル・ド・ゴール空港から成田に帰る予定だった。ニュルンベルクの素朴な美しさに旅愁を感じつつも、帰国した二日後が大学の卒業式で、十日後が初出勤という現実が頭をもたげ始めていた。大学時代、毎日のように顔を合わせ、山ではザイルを結び合って命を預けた美羽とも、いよいよ袂を分かつのかと、センチメンタルな気分に浸った時だった。
「涼子、これだけ色んな所見たらさぁ、さすがにそろそろ働かなくっちゃ、って思えてきたよ。ベルリンにまで行ったしね」
と美羽が言った。それを聞いたら、気持ちが少し楽になった。何処にいようと、自分にできることを少しずつ果たしていくしかない、そんな気がしてきた。
「確かに。いい加減、ちゃんと働かないと、バチがあたるよね。さんざん山登りで親に心配かけたあげく、四十日間も放浪して散財したんだもんね。私達って最低だわ」
私達は「そろそろ年貢の納め時」と言って立ち上がると、笑いながら城壁の横の坂道を駆け下りた。
その頃、就任間もないゴルバチョフ書記長のライザ夫人が、パリのイブ・サンローランのファッションショーを鑑賞していた。東欧に立ち始めたさざ波の行方を、まだ誰も予測できなかった。
(「第四話 ベルリンの壁崩壊と2020年」へ続く)
[i] 同じ年、日本でもホイットニー・ヒューストンが歌ったこの曲は、「すべてをあなたに」という曲名で大ヒットした。
【参考文献】
「ドイツ民主共和国」(2020年10月11日4:46 UTC)『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツ民主共和国
「ベルリンの壁崩壊」(2020年10月2日1:29 UTC)『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリンの壁崩壊
Berlin S-Bahn (November 25, 2020, 21:10 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_S-Bahn
Berlin U-Bahn (Nov. 8, 2020, 22:13 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_U-Bahn#History
Berlin Wall (November 28, 2020、12:44 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_Wall#Official_crossings_and_usage
West Berlin (Nov. 29, 2020, 12:19 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia,https://en.wikipedia.org/wiki/West_Berlin#Transport_and_transit_travel
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