第2話 東ベルリン

【東ベルリンへ】


 西ベルリン動物園駅から、Uバーン9番線に乗り込むと、車内の雰囲気は東京の地下鉄とそれ程変わらなかった。レオポルトプラッツ駅で、東ドイツに向かう6番線に乗り換えた。三つ目の駅からの東ドイツ領内に入った。そこからの途中駅は全て通過したが、ホームを通り過ぎる時、銃を持った警備兵が数メートル間隔で並んでいるのが見えた。「幽霊駅」をいくつか過ぎた後、国境駅のフリードリヒ通り駅に到着した。


 暗いホームを出て長いこと歩いた先に、入国審査所があった。指示に従い一人ずつ扉の向こうに消えていく。私の番になり扉を開けると、そこは閉ざされたブースだった。天井は鏡張りで、私の手元も監視している。ガラスの向こうにいる、冗談の全く通じなさそうな鋭い視線の入国審査官が、私の顔とパスポートの写真を穴があく程見比べた後、指で奥に進むよう指示した。言われた通りに通路を進むと、今度は小さな部屋に入った。年配の審査官が、私のバッグの中味を検査し、それが終わると、どこからベルリンに入ったか、旅行の目的や日程などを尋ねてきた。このまま、何処かに連れていかれても誰にもわからないだろうと思うと、背筋が寒くなった。一通りの質疑応答が終わると、審査官は日帰りビザをパスポートに貼り付けた。入口と反対側にあるドアから出ると、また長い通路が続いていた。次に行き当たったのは税関手続きの小部屋だった。相変わらず部屋の中では、取り調べのように係官と一対一で向かい合う。ビザの発行料金を支払った後、二十五DDRマルクを強制的に両替[i]させられた。係官は、神経質そうに書類やら紙幣をやたらバサバサさせていた。そこを出た後は、再び誰もいない狭い通路が延々続き、まるで迷路に入りこんでしまったようだった。不安が恐怖に変わりそうになった頃、両開きの扉が見えた。ブザーの音とともに扉が開いた先は、東ドイツの人々が行き交う駅構内の広場だった。


 扉から二、三メートルの所にロープが張り巡らされており、その向こうには沢山の人達の姿があった。西ベルリンや西ドイツから尋ねてくる家族や友達の到着を待っていたのか、私が出てきた瞬間、皆どっとガッカリした表情を見せた。恐縮しながら、ロープの外に出ると、再会を果たし抱き合って泣いている人達が何組もいた。取りあえずは、美羽が出てくるのを待った。こんな所でバラバラになりたくはない。周りの人に交じって、ドアが開く度に目を見開いては、出てくる人を見送るのを十回は繰り返しただろうか。ようやく美羽が現れた時には、ロープの前に進み出て彼女の手を握りしめてしまったが、何時間も、ひょっとしたら何日間も大切な人を待ちわびている東ベルリンの人達を前に、大げさなジェスチャーをしてしまったことに気まずさを感じた。


【ブランデンブルグ門 (正面側)/ウンター・デン・リンデン】


 フリードリヒ通り駅を出ると、早朝の曇り空から一変して、眩しい程の青空が広がっていた。主要な観光地のほとんどは、そこから歩いていけるようだったが、まずは、ドイツの象徴といわれるブランデンブルグ門を目指した。数ブロック歩いて、ウンター・デン・リンデンの大通りに出ると、左折して通りの西端にあるブランデンブルグ門に向かった。大きな菩提樹が続くプロムナードを歩いていくと、門の上にある、四頭の馬に引かれた馬車に乗った勝利の女神の像が見えてきた。女神の後ろには、東ドイツの旗が誇らしげに翻っている。門の向こう側には、ベルリンの壁が見えた。一点の染みもない真っ白なコンクリートの壁だった。ベルリン最大のランドマークだというのに、門の周辺には観光バスの一台も止まっておらず、何組かの観光客がちらほらいるだけだった。かつては、ベルリンを占領したナポレオンや、国家権力を握ったヒトラーが、華々しくパレードをしたブランデンブルグ門だったが、今は東西ベルリンの境界にあるため、どんな権力者もそこをくぐる事ができない。


——勝利の女神は、かつての賑わいを失ったウンター・デン・リンデンの通りを、どんな思いで見つめているのだろう? 


 そんな感傷にふけったのも束の間、近くにいた数人の観光客にツアコン風の男性がドイツ語で移動を促し始めた。彼は、何故か私達にも視線と手振りで「一緒に来い」的なジェスチャーを出した。それにつられて私達も、彼らの背中を追ってウンター・デン・リンデンを東に戻った。この通りは、ブランデンブルグ門とかつてベルリン王宮があった場所を結ぶ、いわばベルリンのシャンゼリゼ通りだ。中央の散策路の両脇にそれぞれ三レーンもある道路を、大小の積み木を二つ重ねたような角張ったセダンが、悠々と走っていく。ソ連大使館や高級ホテルなど、石造りの重要構造物が続くが、建物が比較的低層であるため妙に日当たりがいい。道行く人は少なく、官庁街の日曜日のような寂しさが漂っていた。


 先の観光客と共にウンター・デン・リンデンの東端近くに到達すると、ギリシアの神殿のような建物の前に、ちょっとした人だかりができていた。建物正面の柱の前に、二人の兵隊が立っていたその場所は、衛兵の詰め所(ノイエ・ヴァッヘ)だった。まもなく衛兵交代式が始まり、三人の衛兵が、足を太股からつま先まで一直線に延ばし、片手に長い銃を持ち、もう片方の腕を振りながら歩いてきた。三人は、建物の真ん中まで来ると、直角に曲がり任務中だった衛兵と交代した。このナチスの行進をイメージさせる、巨大なゼンマイ仕掛けの人形のような歩き方は、社会主義の軍隊らしさがでていた。ロンドンで観た、大人数の楽隊が先導するバッキンガム宮殿の華麗な衛兵交代に比べ、スケールもギャラリーもずっと小さかったが、エンターテインメントではない、国家の権威や規律の厳しさが伝わってきて、不思議な迫力があった。


 この後、ちょっとしたアクシデントが起こった。突然、私のお腹がキリキリと痛み出したのだ。食あたりでもしたかと考えてみると、前日、ブリークからバーゼルへの移動の途中、チューリッヒで食べた、仔牛とマッシュルームの煮込みが思い当たった。濃厚なソースがとても美味しかったが、大量に入っていたガーリックに、今頃になってお腹がびっくりしたのだろうか? それとも、東ベルリンに入った緊張が原因だろうか? あたりを見回すも、どこにも公衆トイレなどというものは、ありそうになかった。美羽に、トイレに行きたいと訴えた時だった。どこからともなく中年の女性がすっと現れて「あの建物に行きなさい」と英語で言って、斜めむかいの大きなビルを指した。彼女は「仕方ないわね、こんな所で」といった感じで、顔をしかめて私を見つめていた。


【東ベルリンのショーケース】


 兎に角、おばさんに教えてもらった方向へ行ってみると、ブロンズ色に輝くガラス張りの横長のビルがあった。その現代建築には、重厚な歴史的建築物が軒を連ねるウンター・デン・リンデン通りに、イオン大型店が進出したかのような唐突感と異様さがあった。建物の中に入ってみると、シャンデリアが輝く突き抜けの天井のロビーがあり、二階には清潔な公衆トイレもあった。トイレをお借りし、やっと落ちついたので、ビルの中の巨大カフェテリアでブランチを取ることにした。ビュッフェ形式のカウンターから、パン、赤いゼリー、ハムにチーズ、ポテトにコーヒーなどを取ったが、日本円換算で百円にも満たなかった。場所の立派さの割には、食べ物は意外と質素で、雰囲気は大学の学食に似ていた。温かい紅茶で一息つくと、美羽が呟いた。


「助けてもらって言うのもなんだけどさ、さっきのおばさん、涼子がトイレに行きたがってること、なんでわかったんだろう? それも、あんなに素早く」


 言われてみたらそうだった。彼女はずっと私達の事を見ていたのだろうか? ヨーロッパに来て以来、アジア人が物珍しいのか、現地の人に好奇な目でジロジロ見られることは、しばしばあった。パリの労働者ご用達のビストロに行った時など、全てのテーブルのおじさん達が、一斉にこっちを見ていたこともあった。スプーンとフォークを持ったまま後ろを振り返る人がいる程、あからさまだった。でも、この国の視線は違う。こちらからは、見られていることがわからないのだ。まさか私達も監視されている? ブランデンブルグ門からノイエ・ヴァッまで私達を『引率』した男性もただのツアコンではなかったのかもしれない。考えすぎだと思いながらも、ゴミひとつなく、表面上は全てが秩序正しく存在しているこの場所には、それを完全には笑いとばせない雰囲気が漂っていた。


 不思議と言えば、一体ここはどこなのか? ガイドブックで確認してみると、「共和国宮殿」という場所にいることがわかった。美術館、ボーリング場、コンサート・ホールなどの文化・娯楽施設の他、東ドイツの議事場もこのビルにあるらしかった。社会主義の豊かさを展示した虚構のショーケースの中にいるような気がしてきた。ボーリング場と国会議事堂の組み合わせが、どうなると「人民の宮殿」になるかを是非理解してみたかったが、平日午前中のそこは静まりかえっていて、見学できそうになかった。狐に騙されたような気持ちで”宮殿”を後にした。


【ペルガモン大祭壇】


 腹ごしらえをした所で、近くにあった博物館島に移動し、東ドイツ随一の規模を誇る、ヘレニズム美術とイスラム美術専門のペルガモン博物館に向かった。わざわざ東ドイツまで来て、ギリシャやらローマやらの古代文化を見学する意義については疑心暗鬼だったが、その懸念はすぐにふっとんだ。入館するなり目に飛び込んできた、荘厳な柱に囲まれたアクロポリスの神殿に度肝を抜かれたからだ。それは、博物館の名前にもなっているヘレニズム時代の古代ギリシャ都市、ペルガモン[ii]の巨大祭壇遺跡を復元したものだった。神殿に続く数十段の階段の両脇には、ギリシャ神話の神々と巨人が闘っている微細なレリーフが刻まれていていた。 


 館内に展示されていた遺跡再生の歴史[iii]からは、ペルガモン博物館が、ドイツの歴史に翻弄され、数奇な運命を辿った事も読み取れた。ドイツが推進したペルガモン大祭壇 やイシュタール門に代表される巨大遺跡再現プロジェクトは、第一次世界大戦、敗戦後のインフレなどの苦難を経ながらも、一九三十年代初頭に、前代未聞のスケールで完工した。しかし第二次世界大戦敗戦後に大祭壇や主要な美術品がソ連に運び去られ、返却が叶い再びここに展示されたのは一九五九年のことだったという。折角ドイツに戻されたものの、西ベルリン市民がここを自由に訪れることは叶わない。美術品までもが東西冷戦によって分断されている現実を思うと、今朝西ベルリンについたばかりの日本人の私達が、こうしてドイツ最大の遺跡を眺めていることに申し訳なさを感じた。


 博物館は、生き生きとした表情で展示物を見入っている見学客で賑わっていた。ドイツ語が行き交っていて、ほとんどの人が東ドイツ人のようだった。肩車をしてもらって、自分の背丈よりも高い所にある遺跡の装飾品を覗いている子供達や、仲の良さそうな学生グループを見ていると、社会主義だろうが資本主義だろうが、親子の情愛や友情は変わらない気がした。彼らはとても礼儀正しく真面目そうに見えた。


 思った以上に長い時間を過ごしてしまい、ペルガモン博物館を出た時には陽が傾き始めていた。暗くなる前に、東ベルリンの国境を抜けたかったので、ほとんど残っているDDRマルクを使い切るべく、買い物にでることにした。博物館近辺は、東ドイツの中枢機関が集まる場所であるせいか、ローカルの庶民が買い物をするような商店は見あたらなかった。観光客が集まる場所なのに、お土産屋があるわけでもなかった。フリードリヒ通り駅まで戻ると商店街があったが、どのお店に入っても買いたいものも、東ドイツならではと目を引くものも見つからなかった。結局、ひまわりの写真が貼ってあったレモン色のシャンプーと、パステルカラーのキャンディーの詰め合わせを購入した。レトロなボトルが可愛らしい商品だったが、後日使ってみるとシャンプーは泡立たなかった。キャンディーも、飴に張り付いた包みを剥がすことができず、食べることを諦めた。


【『涙の宮殿』から西ベルリンへ】


 朝、降り立った時には気がつかなかったが、フリードリヒ通り駅は、地下鉄(Uバーン)と市電(Sバーン)に加え、地上では長距離電車も発着する大きなアーチ型の駅舎を備えていた。駅のコンコースに行ってみたが、どこにも地下鉄や市電の乗り場を示す表示がなかった。窓口の駅員に尋ねると、駅の反対側に行くように指示された。電車が走る高架の下を進むと、涙を流して別れを惜しんでいる人達が見えてきて、そこが国境検問所の建物があることがわかった。それは水色の窓枠が映えるガラス貼りのモダンな建物だったが、その明るさをしても、その場の湿った雰囲気をかき消すことはできなかった。


 今でも忘れられないのが、たまたま通りがかった中年の女性が、私達をぼんやりと見つめながら、立ちどまったことだ。彼女の目は「あなたは自由な世界へと帰っていくけど、私はここから先に行くことができない」、そう言っているような気がした。私達は、彼女が暗示した『東ドイツ人にとっての永遠の限界領域』を超えて国境検問所(涙の宮殿)に入った。


 出国手続きは、徹底した荷物検査に始まり、東ベルリンで購入したお土産とレシートをチェックされ、財布に残っていたDDRマルクは全て没収された。その後、西ベルリン市民、西ドイツ人、外国人、東ドイツ人と別々に列を作らされた。入国時同様、一人ずつブースに閉じ込められて出国審査が行われたが、検査官は、外国人観光客の私達については「去る者は追わず」といった風で、入国審査より時間も緊張も少なかった。出国の矢印が示された長い通路の果てにあった扉が開け放たれると、そこは西に向かう地下鉄Uバーンのホームだった。


 また、いくつかの幽霊駅を通過し、西ベルリン領域の最初の駅に着いた時には、文字通り肩から荷が下りたようで、空気が軽くなった気がした。たくさんの人達が乗り降りする光景に胸をなで下ろした。西ベルリン動物園駅で下車すると、今朝初めて見た時には嫌悪感を覚えたホームに転がっているアルコールの空瓶や通路に寝ていたホームレスの人達にさえ親近感を覚え、猥雑であることは、自由の証なのかもしれないと思った。そして、駅を出るなり耳や目に飛びこんできた、車のクラクションの音やネオンの光に、東ベルリンの街並みには色彩と音が欠けていたことに気がついた。


(第三話 西ベルリン・西ドイツ<ニュルンベルグ>に続く)




[i] 当時、東ドイツに入国に際し、旅行者は滞在期間一日あたり二十五DDRマルクを両替することが義務づけられていた (原典・Wikipedia: East German mark, https://en.wikipedia.org/wiki/East_German_mark)


[ii] 現トルコ・ミュシア地方に紀元前三世紀半ばから二世紀にあった古代都市 (原典・「ペルガモン」『ウィキペディア』https://ja.wikipedia.org/wiki/ペルガモン)


[iii] ドイツ帝国が成立した一八七一年、ペルガモンに招かれたドイツ人の考古学者団が大祭壇の欠片の一部を発掘し、それをベルギーに持ち帰る。数年後、自国の文化水準を大国の英国並みに高めようとする機運が高まる中、ヘレニズム時代に建てられたペルガモン大祭壇をベルリンに復元する構想に進展し、ドイツ政府はペルガモンのアクロポリスを発掘しベルリンで再現する権利を、トルコから獲得する。遺跡の大々的発掘とベルギーへの輸送、大祭壇の欠片の組み立て、遺跡を収納する博物館の建築と改築の長きプロセスを経て、更に第一世界大戦、敗戦後のハイパー・インフレーションによる工事の遅れも乗り越え、漸く一九三一年に、大祭壇が再現された。第二次世界大戦の勃発後、大祭壇とその周辺のレリーフは防空施設で保全されたが、戦後、赤軍が戦利品としてソ連に運び去られる。ソ連から東ドイツへ返却され、大祭壇が再び博物館で公開されたのは一九五九年のことだった(原典・Pergamon Altar,Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Pergamon_Altar#From_discovery_to_presentation_in_Berlin)


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【参考文献】

「共和国宮殿」(2020年7月30日20:10 UTC)『ウィキペディア日本語版』https://ja.wikipedia.org/wiki/共和国宮殿


Berlin S-Bahn (November 25, 2020, 21:10 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_S-Bahn


Berlin U-Bahn (Nov. 8, 2020, 22:13 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_U-Bahn#History


Berlin Wall (November 28, 2020、12:44 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_Wall#Official_crossings_and_usage


East German mark (Nov. 30, 2020, 7:17 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/East_German_mark


Pergamon Altar (Oct. 21, 2020, 21:27 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Pergamon_Altar


Thomas Cook Continental Timetable, February 1986


West Berlin (Nov. 29, 2020, 12:19 UTC), Wikipedia, the free encyclopedia,https://en.wikipedia.org/wiki/West_Berlin#Transport_and_transit_travel

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