チャチャ

惣山沙樹

チャチャ

 大人になった今でも、あの時のことはハッキリと思い出せる。

 赤とんぼの歌が流れる通学路で、僕は地べたを這いつくばって「チャチャ」を探していた。


「ど、どうしよう……もうすぐ暗くなる……」


 鍵につけていた小さなテディベアのぬいぐるみ、チャチャ。僕が小学校に入学して鍵っ子になるからと、父からプレゼントされたものだった。

 父は忙しい人だ。ほとんど家にいない。母とは離婚していて、僕は顔も覚えていない。家事はヘルパーさんに来てもらっていて、宿題は学童保育で見てもらっていた。

 最初は心細かったけど、小学三年生ともなるとそんな生活にもすっかり慣れて、いつものように家に入ろうとランドセルから鍵を取り出したところ、チャチャがいないのに気付いたのだ。

 何度も何度も記憶を呼び覚ました。学童保育から出る前、教科書をランドセルに入れる時、チャチャがいるのが見えた。だから、落としたとしたらこの通学路なのだ。


「さ、寒い……」


 二月の終わり。春が来る前の最後の冷え込みだろうか。乾いた風が僕の髪を揺らした。今日に限って薄着だ。マフラーでも巻いておけばよかった。


「チャチャ、チャチャ……」


 アスファルトに飛び出した長い雑草をかきわけ、溝の中を覗き込み、誰かが拾って置いた可能性も考えてガードレールも見た。

 もう何往復しているだろうか、僕の足で十五分の通学路を。探せど探せど、チャチャの姿はなかった。

 僕がこれほどチャチャにこだわるのは、小学校でも学童保育でも友達がいないからだ。僕は話す……というより、声を出すこと自体が苦手だ。話しかけられてもすぐに返せない。だから、チャチャをお守りにして、毎晩話しかけていたのだ。

 算数のドリルを家に忘れてしまい、先生に叱られた話。体育の部サッカーでゴールキーパーにさせられ、ろくに体が動かせずボロボロに負けた話。クラスで一番可愛い女の子に、佐伯さえきくんって暗いよねと笑われた話。

 チャチャが返事や相槌をすることはない。刺繍糸の口をきゅっと結び、僕の話を聞いてくれているだけだ。それだけで、どれだけ救われるか。


「うえっ……えっ……」


 我慢できなかった。もう小学三年生になったというのに、僕はへたりこんでぐずぐず泣いた。チャチャはいつも僕の側に居てくれた、大事な友達。新しいぬいぐるみなんて代わりにならない。僕はチャチャじゃないとダメなのだ。


「おい」


 低い声がした。パッと顔を上げると、若い金髪の男の人が目の前に立っていた。作業着、というのだろうか。紺色のツナギを着ていた。ズボンの裾は大きく広がっていた。


「えっ……あっ……」

「何泣いてるんだ。どうしたんだ。親は」

「あっ、あっ、あのっ」


 毎日顔を合わせるクラスメイトでさえ、ろくに挨拶ができないというのに、初対面の男の人に事情をすぐに説明できるはずがない。


「そのっ、あのっ」

「ゆっくりでいいよ。俺も一気に聞いて悪かった」


 男の人はしゃがみこんで目線を合わせてきた。鋭い目つきだが、その瞳には温もりがこもっているように感じて、本当に心配してくれているのだと信じることができた。


「ぬ、ぬ、ぬいぐるみ、落としちゃって、そのっ」

「ん? ぬいぐるみ? クマのやつか?」

「そ、そう!」

「それならさっき、ポストの上にあったの見たぞ」

「えっ」


 男の人は右手を差し出した。


「ほら、立てよ。連れて行ってやる」

「あっ、あっ……」


 僕はおそるおそる左手を伸ばした。男の人がぐいっと引っ張ってきて、僕は勢いよく立ち上がった。


「そんなに遠くないよ。行くぞ」


 手は繋がれたままだった。振り払うのも失礼な気がして、僕はそのままついて行った。男の人が言っていた通り、ポストの上にチャチャがいた。


「チャチャ!」


 男の人が手を離してくれた。僕はチャチャを手に取り、頭を人差し指で撫でた。こんなところで待っていてくれたのか。


「そんなに大事なぬいぐるみだったんだな」

「はっ、はい……」


 お礼を言わなきゃ。そう思うのに、なかなか言葉にならなかった。


「あっ、ありっ、あり」

「おう、礼なら伝わってるから大丈夫だぞ。それよりさ、この辺コンビニない? タバコ切れちゃって」


 僕は男の人をコンビニに案内した。まっすぐレジに行くのかと思いきや、彼はホットドリンクの棚まで行った。


「何か飲み物おごってやるよ。そんな薄着だと寒かったろ」

「で、で、でも」

「遠慮すんなって。ココアなら飲めるか?」

「は、はい」

「じゃあ俺はコーヒーっと」


 断ることもできず、そのまま男の人は飲み物とタバコを買ってしまった。コンビニの裏にある灰皿の所で、僕はココアのペットボトルのフタを開けた。


「小学生に受動喫煙させんのはあんまよくないけどな……まあちょっとくらい平気だよな」


 男の人は慣れた手つきでライターで火をつけ、白い煙を吐き出した。父の匂いだ、と思った。父も喫煙者だ。僕は黙ったままなのに、彼はつらつらと話し始めた。


「俺さ、こっちに引っ越してきたばっかりなんだよ。まだ土地勘がなくてさ。ここにコンビニがあるって知って助かった。お前はこの辺の子だよな?」

「は、はいっ」


 男の人が僕の頭をポンポンと撫でてきた。


「家まで送るよ。案内、ありがとな」


 タバコが小さくなる前に、何か言うことができればよかったのだが、僕の喉はつっかえてしまって、結局男の人と一緒に帰ることになってしまった。


「すっかり暗くなっちまったな。親御さん心配してるだろ」

「お、親の帰り、もっと、遅い、のでっ」

「じゃあ一人か。まだ小さいのにな」


 僕の背は小さい。並ぶと一番前だ。もしかしたら、男の人は僕をもっと幼いと思っているのかもしれない。


「ぼ、僕、三年生、ですっ」

「そっか。えっと……名前聞いてなかったな。あっ、まずは俺からか。小林亮司こばやしりょうじだよ」

「さ、佐伯翔真さえきしょうまです」

「翔真くんな。偉いな、一人で」


 小林さんの顔は暗くて見えなかったが、声色はとても安らげるもので、まるで昔から知っているかのようで。


「翔真くん、チャチャっていったっけ、さっきのぬいぐるみ」

「え、ええ」

「もうなくすなよ。俺も、離れて会えなくなった人がいるからさ」

「そう、ですか」


 父と住むマンションについた。小林さんとはここでお別れだ。やっぱり、きちんとお礼はしなければならない。


「あのっ、そのっ、小林さん」

「ん? 何だ?」

「えっと、んっと」


 言葉が出る代わりに、出たのは手だった。僕は小林さんの服の袖を掴んでしまった。


「どうした?」

「もう少し、お話、したいです」


 そんなことを言ってしまった。なぜなのか、自分でもよく分からなかった。


「俺……子供に懐かれるツラでもないんだけどな。まあいいよ。ファミレスでも行くか? どのみち俺も一人でメシ食うの寂しかったし」

「い、行きます」


 こうして、小林さんとの交流が始まった。二人が血の繋がった実の兄弟と知るのは、もう少し先の話。

 

 

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チャチャ 惣山沙樹 @saki-souyama

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