第18話


 ルルちゃんが迎えに来た。最後の花びらが落ちると、一時停止したように花蓮も波も止まっていた。ルルちゃんは僕の手を引っ張り、空へと向かって行く。


 彼女が悲しまなくていいように、ルルちゃんに最後のお願いをした。


「花蓮から僕の記憶を消してくれないか」


「ヤダ。それ相応のモノがないと取引はしません」


「あるよ」


「なに」


 胸に手を当てて答えた。


「この気持ちを受け取ってくれ」


 残っているものはもうこれしかない。誰かを愛おしいと想う気持ち。今まで自分に欠けていたモノ。


「あほらし」


 ルルちゃんは蔑んだような目で見降ろした。

 その目には見覚えがある。いつも僕がしていた目だ。茉実にもあんな残酷な表情を向けていたのだろう。


 ルルちゃんが何もない空間をノックした。すると、たちまち扉が現れた。

 だが扉は開かれなかった。


「何よこれ」


 怒りで扉を力強く叩いている。

 上空から男性の声が聞こえてきた。


「ルル」


 彼は二メートル近くありそうな体に太くて長い蛇巻き付いていた。その蛇がルルちゃんに向かって威嚇した。


「……喜雨さま?」


「人を殺めたな」


 ルルちゃんは怯えたように縮こまった。


「それは喜雨様のために」


「そんなこと望んでいない。必要もない」


「でも私が連れてきた霊で生き長らえたでしょ。今だってこんなに立派な姿に」


「食べるふりをして空に返していた。あの時の私にはお前を止める力も魂を元に戻す力もなくて、あの者たちに申し訳ないことをしたと思っておる」


 蛇が彼女の頭を今にも丸呑みしそうだ。牙がルルちゃんの頭の上にセットされている。彼が合図を出すのを待っているようだ。よだれが髪にかかり、顔まで垂れているが彼女はそれを拭おうともしなかった。彼のことを、体を震わせながら見つめている。


「今はもう他の者から手を差し伸べてもらい、そちらに移動して一から修行することにした」


 ルルちゃんはもう何も発せなくなっていた。

 彼は僕の方を振り返り言った。


「この子は私が責任をもって罰を受けさせる。君からの恵みは私に力を与えてくれて他の者へ助けを求めることができた」


 差し出された手のひらには僕が神社で死にかけた蛇にあげたハート型のグミが乗っていた。


「あの時の――」


 彼は優しく微笑んだ。その笑みは僕の心を羽が付いたように軽くさせた。

 後ろには何人か付き人がいた。抵抗する力もなく傷心しきったルルちゃんは付き人たちと一緒に空に吸収されるように消えかけた時、目をガッと開き、下にいてまだ固まっている花蓮を凝視した。


「ルル、やめろ」と喜雨様の声に彼女は妖しい笑みを浮かべて消えた。  

 ルルちゃんは腹いせに花蓮から僕の記憶を消して行った。


「すまない。ルルの心はもう悪に侵されている。ルルに食われたあの三人はまだ間に合う。元に戻そう。だがあの子の中の君の記憶は戻せない。もうあちらの世界へルルが持って行ってしまった」


「だけど、僕は花蓮のことを覚えていた」


「それは君の気持ちが強かったし、完全にあっちの世界に連れて行っていなかったからね」


「全部、もう一度全部初めからやり直せばいい」


 僕が彼女に見惚れたあの瞬間から――。

 やっと気づけたんだ。この想いを彼女の心に響くまで伝え続けたい。


「よかろう」

 と、喜雨様は指をパチンと鳴らした。 




 桜の舞う季節だった。

 僕は大学一年生になったばかりだった。


 花蓮は死んでいなくて、翔真とは別れていて、友里と付き合っていた。僕とは違う学校へ進んでいた。学校でたまにすれ違う茉実は僕のことを全く覚えていなかった。


 花蓮がバイトをしているファミレスへ向かう。注文を取りに来ても花蓮は他人のように接する。当たり前だ。記憶を持っていかれたのだから。どこかで期待していた自分が愚かだった。


 オムライスを注文して、大嫌いなグリンピースを寄せようとご飯をいじくり回していたら、脇を通った花蓮が言った。


「宝物でも探しているの」と。


 ハッとした。顔を上げると、花蓮はにやりと笑っていた。

 そして僕も笑い返す。


「もう見つけた」


 それはすでに見つかっていた。気付かないようにしていただけ。ずっと目の前にあったのだ。

 花蓮は茶化すように言ったのに、明るく応える僕を見て驚いたように目を丸くした。


 目の隅に彼女の姿をとらえた。

 また戻ってくるからと席を立つ。

 

 見慣れた後ろ姿。つい触りたくなる髪。


「茉実さんっ――」


 茉実は振り返った。あんなにそばにいたのに今初めて彼女を見た気がした。何度も頭の中でシミュレーションしたのに言葉が詰まり、出てこない。


「えっと、あの、えー、あ……」


 彼女が手を伸ばし大きく振った。僕も振り返そうとしたら後ろから「茉実」と言う声が聞こえた。同じ大学の女子たちだった。


「なんで先帰ろうとしてんのよ。今日、新しくできたカフェ行こうって前から言ってたのに」


「ごめん、ごめん」


 茉実がちらりと僕の方を気にして見た。その視線に気づいた一人の子が言った。


「あれって、同じ学校の人やん。何、仲いいの?」


「いいや。ただ呼び止められて」


「もしかして告白とか」ともう一人の子がからかうように言う。


「まさか……、ちょっと先言ってて」

 と茉実が近寄って来る。


「何?」


「えーっと」


 連絡先をまず交換することからだ。


「あの、」


 茉実と目が合った。いろんな今までの彼女の表情が溢れ出てきた。泣いてる顔も怒っている顔もいたずら顔も全部が宝物だった。どんな表情も見たいと思った。気付かないうちに、あの頃から掘り続けていた穴が茉実でいっぱいに詰まっていた。溢れ出しそうだ。


「あ、……あっ」


 ――愛してる。

 

 僕の心の中の声は彼女には届かなかった。


「何でもないならもう行くね」


 彼女は走って女子たちを追いかけて行った。

 その後ろ姿を見てもう一度呟く。


「愛してる」


 僕は今恋をしている。一世一代の恋を。

 

 席に戻り、寄せていたグリンピースを一気に口に含んだ。

 それはやっぱり苦かったが、ケチャップが甘さを足してくれていてなんとか食べられた。


 後味を消すようにコーラを飲み込む。

 シュワシュワっと炭酸が味を消してくれて、のどにも刺激を与えてくれた。心の苦みも解放された気がした。


 まだ時間はたっぷりある。

 窓の外を見ると、桜の花びらが上へ上へと舞い上がっていた。  

 

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「あ」の先が言えなくて @yume_mina

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