第25章 斥候

 四方は雑踏から離れると、側道の小径へと足を踏み入れた。

 広葉樹の枝葉が小径を覆う様に繁茂し、容赦の無い夏の強い日差しですら、この緑の緞帳を退ける事は出来ない。

 先程とは違い、落ち葉の降り積もった未舗装の道が、木々の間を続いている。 

 本来の自然公園の姿が、ここにあった。

 自然が主役。人はあくまでもビジターに過ぎないのだ。

 四方以外に人の姿は全く無く、先程の喧騒が嘘の様だ。

 ここでは絶え間なく音源を重ねる蝉の声が、空間の覇者となっていた。

 地上での短い命を謳歌すべく怒涛の合唱を続ける蝉しぐれが、人と言う『侵略者』の存在を掻き消しているかのように思える。

 四方は、額の汗を拭いながら、そんな夏の風情に身を委ね、黙々と小径を進んで行った。

 不意に、視界が開け、涼し気な情景が四方の目に飛び込んで来る。

 湧水池のようだ。

 テニスコート位の広さだろうか。さほど大きくはないが、水はその存在すら無いかの如く透き通り、湖底から吹き出す湧水の揺らめきがはっきりと肉眼で見て取れた。

 比較的民家に近い開かれた地で、これ程迄の透明度を有する湧水池は、そうあるものではない。

 一般的な観光客なら、この情景に心を打たれ、しばしその美しさに見入る事だろう。

 だが、四方の表情は何処か悲し気な翳りを孕んでいた。

 池の周りは散策出来る様に整備され、ベンチや東屋が設置されているものの、余り知られていない場所なのか、人の気配は全く無い。

 美しい水は人を惹き付ける魅力と神々しさを秘めている。

 だがこの湧水は、まるでそれらしく模された人口の池の様に、何となくしっくりこない味気なさがぬぐい切れないのだ。

 池の奥に、苔むした石畳の参道が続いていた。

 この奥に、何かが祀られている。

 しかし、その参道に沿って並ぶ木々も、何処か疲弊している様に感じられる。

 神気に包まれた杜は、透明度の高い空気に満たされている。それは、山であろうが民家の近くであろうが変わりはない。

 恐らくは、この湧水池一帯は元々は厳粛な神気に包まれた神域のはずなのだ。

 でも、今のここには、それが無かった。

 清らかな水も、清浄度で見ると水道水と何ら変わりがなかった。

 本来宿るべき大自然を潤す神気が全く感じられないのだ。

 

 そろそろのはずだ。


 四方は待っていた。

 静かに、その時が訪れるのを。

 不意に、彼女の携帯が小刻みに震える。

 幸甚からだ。

 四方の顔に緊張が走る。

「はい、四方です。えっ! それは本当ですかっ! 有難うございます」

 四方の表情が、安堵に緩む。

 刹那、湧水が育む気に変化が生じた。

 水底から湧き出す水には、今まで枯渇していた生命力と躍動感が宿り、池全体に浸透していく。

 湧水に、神気が戻った。

 清廉に浄化された水の神気は池全体を包み込み、やがて周囲の木々に浸透していく。

 夏の日差しに虐げられていた木々の枝葉に生気が宿り、厳かな雰囲気を醸し始める。

 聖域に、失われていた神気が戻った瞬間だった。

 四方は、足早に参道を進んだ。

 この先に、この事実を伝えるべき存在がいる。

 四方はそれを感じ取っていた。

 参道を進むと、やがて開けた空間が四方を待ち受けていた。

 四方よりもはるかに高い円筒形の石柱が地面からそそり立っている。高さだけでなく、太さも大人二人が手を繋いで出来た円位は優にあるだろう。

 周囲はしめ縄で囲われ、真新しい紙垂がしつらえられており、風が無いのにさわさわと揺れていた。

 石柱自体は古いのだが、埋め固められている地面は真新しい赤土がむき出しになっており、その背後は土砂崩れでもあったかのように土砂がむき出しになっている。石柱の建つ背後に、重機で切り開かれたまま放置されている工事現場が見える。

 ここが依然、玄信が話していた『阿鼻』を封印している『要』の一つだった。

 工事中の手違いで穢された神域だったが、石柱の背後を守る杉の林が、崩れ落ちた土砂をかろうじて受け止めた御陰で、見た目の被害は軽度だったようだ。

 但し、神気を失った杜は、先程までは愚かな人の欲に穢された爪痕が痛々しく眼についていたのだ。

 でも、今は違う。

 背後の工事現場とは、明らかに時空が異なり、無理矢理切り開かれた地ですら、其の覇力に押されつつあった。

 四方は歩みを止めた。

『要』の前に佇む人影があった。

 錫杖を手に、黒い衣を纏っている。

 四方の気配を感じたのか、その人物はゆっくりと振り返った。

 若い青年の僧だった。まだ二十代半ばと言ったところか。涼し気な眼とりりしい眉毛が印象的な面立ちだった。

「お伝え致します。湧水池の龍脈は清浄化されました」

 四方は恭しく彼に頭を下げるとそう告げた。

「有難うございます。神気が一気に蘇りました。皆様まで巻き込んでしまい、申し訳ございません」

 青年僧は静かに言葉を紡ぐと、深々と頭を下げた。

「大丈夫です。我々は人の我欲が齎す情念を刈り取るのが仕事ですから。残りの龍脈も最終日までには」

「かたじけないです。私が非力故に」

「とんでもない。あなたにはもっと大変なお役目が・・・」

「有難うございます。御安心ください。御加護は我々にございますから」

 青年層は優しく微笑むと、四方に再び一礼した。

「四方さーん」

 参道の入り口から、小走りで近付いて来る人影があった。

 未央だ。

「あれ、四方さん、さっきどなたかとお話されていませんでした? 」

 未央が不思議そうに周囲を見渡す。先程までいたはずの僧の姿はない。

 見る限り、参道以外の道は見当たらないにもかかわらず。

 かと言って、ここに来る途中、擦れ違ってもいない。

「ああ、この近所の方の様です。『要』の裏を通って帰られましたよ。未央さんはどうしてここに? 」

 四方は未央を不思議そうに見つめた。

 イベントの総指揮を担う彼女が、始まったばかりの現場を抜けて公園のはずれに位置するこの場に現れた事に、四方は違和感を感じていたのだ。

「まずはここを拝んでおかなきゃと思って・・・一連の忌まわしい出来事の発端は、ここから始まっているような気がするんです」

 未央は沈痛な面持ちで『要』を見つめた。

 彼女は『要』に花を添え、手を合わせる。

 その横顔には、何か思いつめた様な深い悲しみが、暗い翳りとなって表れていた。

「イベントの方は大丈夫なんですか? 」

「ええ。スタッフ陣が優秀なので。それに・・・」

「それに? 」

「衣川が自ら総指揮を執っているんです。今回のイベントは絶対に失敗できないからって。私の下で働いていたスタッフを主体に新たに立ち上げたイベント企画部門が中心に動いていますから、私達はサポートに過ぎません。実質やることが無い状態なんです」

 未央は寂しそうに言葉を絞り出した。

「それって、ひょっとしたら・・・」

 四方の眼に、鋭い光が宿る。

「ご察しの通りです。彼女は私の会社を乗っ取るつもりです。今更なんですが・・・彼女には、私の姉や両親への謝罪の気持ちなんか、一片も無かった」

 未央の眼から、大粒の涙が流れ落ちる。

 固く閉ざした唇は震え、底知れぬ怒りと悔しさと悲しみが、彼女から言葉を奪っていた。

 四方は、そっと彼女を抱き締めた。

 未央は四方の肩に顔を埋めると、声を上げて号泣した。

 ここなら、誰にも聞かれる事は無い――その安堵感が、彼女のは張りつめた感情を一気に解き放っていた。

 その様子を、未央の背後から見守る者がいた。

 先程の青年僧だ。

 彼は慈愛に満ちた表情で、未央に手を合わせると、四方に会釈をした。

 四方は未央を抱きしめたまま、彼に会釈で答えた。

 彼は静かに頷くと、足音一つ立てる事無く参道へと消えた。

 この時、彼が憤怒の形相で虚空を睨みつけていたのを知る者は、四方以外には誰もいない。

「未央さん、これからの三日間は気の抜けない日々になります。もし何かアクシデントが起きれば、衣川は全ての責任をあなたに押し付けてくるかもしれません」

「・・・」

 未央は顔を上げると、不安げに四方を見つめた。

「大丈夫です。我々がついていますから。私の専門分野はスピリチュアルな分野だけではありませんし。探偵業はその手の法律にも通じていなければ商売できませんからね。それに、実は私、弁護士の資格も持っているんです」

「本当ですか? 驚きです」

 未央が眼を見開く。

「それと、今になって気付いた事があるんです」

「え? 」

「『呪いの訴状』です。私達が見る限り、それ自体には呪力は宿っていませんでした。でもそれがなぜ、衣川を追い詰めるかのように自宅の中にまで現れるようになったのか」

「それは・・・」

「全ては最終日に明らかになります。ファイナルイベントの後にね」

 四方はそう、未央の耳元で囁いた。





 


 


 

 

 

 

 

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