第9章 鬼来
「宇古陀さん、お忙しい所無理言ってすみません。それに車も出してもらって」
「いやあ、四方ちゃんの頼みならいつでもOKだよ。それに、俺の方のネタにもなりそうだし」
宇古陀は機嫌よく笑い飛ばした。助手席につぐみが乗っているのが余程うれしいのか、ハンドルを握りながらも時々横をチラ見している。
その都度、つぐみから『ちゃんと前を向け』と叱責を喰らっているのだけれども、それも本人にとってはご褒美相当の嬉しさらしく、終始御機嫌だった。
「衣川は相当参っていたんだな。四方ちゃんの話じゃ何人もの祈祷師や霊能師を頼ってたみたいだし。強気にずばずば暴言を吐き捨てる姿からは、想像つかないな」
宇古陀が感慨深げに呟く。
「口きき方を知らん奴程、中身は脆いものだ」
宇古陀の言葉に、つぐみが淡々と答えた。
「流石つぐみちゃん、まさしくその通り」
宇古陀は頷くと、さり気なくつぐみをチラ見した。
「宇古陀、いいから前を向いて運転しろ。私の太腿なんかいつでも拝めるだろ」
「有難きお言葉! 車を降りたら是非ガン見させて頂きます」
つぐみの忠告に、宇古陀は真顔で返答した。
宇古陀の変態性向上には、つぐみが発する言葉が原動力になっているに違いない。
四方はそう思うと、一人苦笑した。
「宇古陀さんは喜邑琉宇威とどうやって知り合ったんですか? 」
四方が宇古陀に尋ねた。
「やっぱ取材だね。某誌で占師と霊能師に聞いてみたって記事を連載しているんだけど、それがきっかけかな・・・」
宇古陀は記憶をたどる様に語り始めた。
喜邑琉宇威はタロットカード占いをやる傍ら、祈祷や除霊も手掛けており、長身で清潔感のある好青年と言う事だった。その容姿と温和な口振りから、女性を中心に人気があるようだ。
「彼の師匠は玉水でね。彼が独立する際には色々と一悶着あったみたいだよ」
宇古陀が意味深に語った。
「客の引き抜きとかですか? 」
四方は眉を顰めた。弟子や従業員が独立する際の客に引き抜きは、どこの世界でもある話だ。
「まあ、それもあったとは思う。それよりも大きかったのは、玉水が彼を弟子と言うよりは男として見ていた節がある点だ。これは、玉水の他の弟子から聞いた話だけど、『私を捨てないで』とか、『一生呪ってやる』とか相当罵られていたらしい」
「身勝手な話ですよね」
四方は嫌悪に顔を歪める。
「まあね。喜邑は特別な感情は無かったらしいのだけど、玉水は彼を愛し過ぎて恋人同士の様な感覚に陥っていたんだろうね」
宇古陀は呆れた口調でそう言葉を綴った。
「でも、喜邑も少々問題有みたいですよ」
四方がしれっと付け加える。
「え? 」
宇古陀が驚きの声を上げる。
「見た目は清潔感のある好青年なんですが、女好きで有名で、そっちの方はとんでもなくだらしないとか」
「知らなかった。その情報、どこから手に入れたの? 」
「上月さんです。衣川さんが、玉水や月姫以外にも祈祷師や霊能師を訪ねていないか聞いた時に教えてくれました。喜邑はこともあろうに依頼人の衣川を執拗に口説いたそうです。衣川さんはうまくかわしたそうですが、脈が無いと知ったら今度は上月さんを口説き始めたとか。それも、衣川の目の前でね。呆れた二人は早々に立ち去ったそうです」
「マジかよ、それ。最低な男だな」
宇古陀が唸る。
「この話、更に続きがありまして・・・衣川さん、その時の喜邑の事、SNSで暴露しちゃったんですね。実名は出していませんが、分かる人には分かる表現でした。それに気付いた喜邑が、当然の様に応戦して根拠の無い話をぶちまけたものだから泥沼状態になったようですよ」
「とんでもない男だ。私が股間を蹴り砕いて子孫を残さぬようにしようか」
つぐみが憮然とした面構えで吐き捨てた。
「つぐみ、それはやめた方がいいよ。足が穢れるから」
四方が抑揚の無い声でつぐみを諭した。
「怖っ! 玉ひゅんレベルの話だ」
宇古陀は蒼褪め乍ら足を閉じた。この恐怖は男にしか分からない。
「もうすぐ着くよ」
宇古陀は車道をそれるとコインパーキングに入り、車を止めた。
「そこのマンションの最上階が喜邑の住居兼仕事場だよ」
宇古陀は車を降りると正面にそそり立つタワマンを見上げた。
「凄いな・・・占師ってそんなに儲かるのか? 」
つぐみが眼を見張った。
「実家が富裕層だからな。今みたいに売れる前からあそこに住んでる」
宇古陀が羨まし気に呟く。
不意に、近くで止まっていた車のドアが開く。
「あれ、四方さん達だ」
車から現れた女性が驚きの声を上げる。上月未央だ。グレイのフレアスカートに白いブラウス、足元は黒のパンプスといった控え目ないで立ちが、かえって彼女の魅力を際立たせている。
助手席側のドアが開くと、そこから姿を見せたのは衣川詩音だった。白地に花柄のワンピース、そして白のハイヒール。自己主張の強さを示す彼女らしい、人目を引く風貌だった。
「お久し振りです」
衣川詩音は四方達に深々と頭を下げた。
「こちらこそお久し振りです。もう体調は宜しいのですか? 」
四方が微笑みながら返礼した。
「有難うございます。お陰様で仕事にも復帰しています」
詩音は穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「ひょっとして、四方さん達も喜邑先生に会いに来たんですか? 」
未央が四方に快活な声で話し掛ける。
「ええ。ちょっと確認したい事がありまして。宇古陀さんにアテンドして貰ったんです」
四方が静かな口調で答える。
「宇古陀さんは顔が広いですもんね」
未央が感心したように頷く。
「上月さん達も、ひょっとして? 」
「はい。突然、先生に二人で大至急来るように言われまして・・・気乗りしなかったのですが、何だか余りにも切羽詰まった感じだったので」
未央は眉を顰めながら、余り気乗りのしない素振りで答えた。
「行きましょうか。多分、我々が彼にお聞きする内容も、お二人を呼んだ理由も共通の事だと思いますから」
四方が、いつになく真面目の表情でそう促した。
マンションに向かうと、エントランスに佇む女性の姿があった。
年齢二十代半ば位。切れ長の眼、筋の通た鼻に薄い唇。容姿はモデル並みに整っている上に、長い黒髪が艶やかな光沢を放ち、紺のスーツスカート姿に清廉な美しさを添えていた。
彼女は四方達の姿を見ると、足早に近付き、ドアを開けた。
「四方様と衣川様ですね? 」
「はい」
彼女の問い掛けに、四方は静かに頷いた。
「お待ちしておりました。私、喜邑の秘書の粂野と申します」
粂野は微笑を満面に湛え乍ら、四方達に深々と頭を下げた。
「御案内致します。どうぞこちらへ」
粂野は頭を上げ、そう言うと、踵を返し颯爽と歩き始めた。
ふわりと、甘酸っぱい香りが中空を漂う。
「宇古陀、みっともないからやめておけ」
露骨に鼻孔を膨らませる宇古陀を、つぐみが憮然とした面相で窘める。
「わかった。じゃあ――うべっ! 」
つぐみの髪に鼻を近付けた宇古陀の顔面に、容赦なく拳が食い込む。
「大人しくついてこい」
つぐみがゆっくりと拳を引っ込めた。
「ふへーい」
宇古陀は鼻を押え乍ら、間の抜けた声でつぐみに返事を返した。
「あの二人の関係って、何なのですか? 」
未央が呆気にとられながら四方にそっと囁いた。
「うーん、御幣はあるけど女王様と奴隷、有名女優と付き人みたいな感じですかね」
四方は苦笑しながら、苦し気に言葉を紡いだ。
エレベーターに乗り込むと、あっという間に最上階に到着する。
「四方、うちのビルにもこれくらいの代物が欲しいな」
エレベーターを後にすると、つぐみが羨まし気に四方に語った」
「うーん、カフェの売り上げが今の五倍以上になったら考えてもいいよ」
「探偵業は入っていないのか? 」
つぐみが怪訝な表情を四方に向ける。
「着きました。どうぞ」
粂野は一室の前で立ち止まると、ドアを開いた。
マンションとは思えない広い玄関からまっすぐ廊下が伸びており、其の両サイドに幾つものドアが続いている。
粂野はそのドアの前を通り過ぎると、四方達を突き当りの部屋に案内した。
「こちらです」
彼女はドアをノックするとドアを開いた。
四方達は息を呑んだ。
三十畳近くある広いフロアーに、豪奢な応接セットやバーカウンターがあり、所々に置かれた観葉植物やモニュメントが更に彩を添えている。
「失礼致します。先生、お客様をお連れしました」
粂野は恭しくソファーに向かって声を掛けた。
途端に、ソファーから長身の男が跳ね起きる。
「ようこそ。お待ちしておりました」
男は慌てて四方達のそばに駆け寄ると、腰をくの字に曲げて頭を下げた。
喜邑琉宇威だ。恐らくは高級ブランドであろうベージュのスーツに白いワイシャツ姿で、髪も短めで見るからに清潔感のある好青年的イメージを前面に押し出している。目つきも人を射貫く様な眼光は湛えておらず、温和そのものであり、訪れる人が容易に心を開く雰囲気を醸している。
彼が特に若い女性中心に人気があるのは、こういった外観から滲み出る不思議な抱擁力が関係しているのだろう。
ただ、其の奥底に潜む獣性までも見抜ける者はいないようだ。実際、スキャンダラスな話が見え隠れしているものの、なかなか表に出る事は無かった。その手の情報は、幾つもの企業を牛耳る実業家の父親が各メディアに圧力をかけて全て握り潰しているというのがもっぱらの噂だが、それを実証する者は誰もいなかった。中には果敢に取材する無頼漢もいたが、ある日を境に忽然と消息を絶ち、連絡が取れなくなってしまうのが常だった。
『喜邑には触れるな』――そっち系のメディア界隈では、いつの間にかそのような暗黙のルールが出来上がっていたのだ。
但し、宇古陀の様なスピリチュアル系のルポライターは、自分のPRになる為か、反対にすこぶる歓迎されているらしい。
「どうぞ、こちらへ」
芝居がかった仕草でソファーへと誘導する喜邑の眼は、四方とつぐみを捉えて離さない。
「宇古陀さんが凄い人脈の持ち主ですね。これ程の美女の皆さんとお知り合いとは」
喜邑の表情が緩む。
「まあ、私が人畜無害だからでしょうかねえ」
宇古陀は笑みを浮かべながら、遠回しにジャブを喜邑に叩き込んだ。
「みなさんどうぞお座りください」
喜邑は宇古陀の暗喩には気付いた素振りを見せずに、四方達に席に着くよう勧めた。
「今回、衣川さんと上月さんにもお越し頂いたのは、宇古陀さんが取材のお申し出があった際に、きっと係わりがあると思ってお呼びしたんです。粂野、例のものを」
喜邑が粂野に声を掛ける。
「かしこまりました」
彼女は大きな茶色の封筒を携えて現れると、それをうやうやしくローテーブルの上に置いた。
「この中に入っています」
喜邑は封筒を手に取ると、中から一枚の白い和紙を取り出した。
「これなんです」
彼は嫌悪に表情を歪めながら、それをテーブルの上に置いた。
「えっ? 」
詩音が驚きの声を上げると、バックからクリアファイルを取り出した。
「やっぱり同じものだ・・・筆跡も似ている」
喜邑が低い声で呻く。彼は口元に仄かな冷笑を浮かべた。
ローテーブルの上には、A4サイズの和紙が二枚。
どちらにも、同じ文字が墨で書かれている。
「呪」と。
恐らく毛筆で書かれたのだろう。筆遣いの癖がどちらも似通っており、ほぼ間違いなく同一人物によって書かれたものだ。
「衣川さんにも来ていただいたのは、これを見せたかったんです。前に相談に来られた時、見せて頂いたものと同じものが私の所にも届いたので。丁度同じタイミングで宇古陀さんのお知り合いの探偵さんからも、このメッセージの事で問い合わせを頂いたので、同席していただいた方が良いかと思ったんです」
喜邑は上ずった声で早口気味に語った。
「喜邑さんの所に来たのは、これ一枚だけ? 」
宇古陀が喜邑の顔を覗き込む。
「はい、今のところは」
「喜邑さん、誰かに恨まれるような心当たりはありませんか? 」
四方がド直球な質問を喜邑に投げ掛ける。
「無いです。同業者の中には、成功者の私を妬んでいる者もいるかもですが・・・そうだとしても、こんなあからさまに、それも単純な呪詛を送り付けたりしないでしょう」
喜邑が冷ややかな笑みを浮かべた。
「喜邑さん、これ、呪詛じゃないですよ」
四方が淡々と答えた。
「えっ? 」
喜邑が驚いた表情で四方を見た。
「ただの警告ですね。次はお前だって感じの」
「警告・・・」
四方の言葉に喜邑が蒼褪める。
「この言葉自体は呪物でも呪詛でもありませんよ。受け取った者に呪いが掛けられている事を伝えるだけのものに過ぎません。でも、これを受け取った方の精神的動揺は結構なものですよね。当然動揺し、猜疑心の塊みたいになって、ついには周囲の者が皆、自分を呪っているのではないかと疑い始める」
四方が、じっと喜邑を見つめた。
「そ、それは・・・」
喜邑が落ち着かない素振りで目線を泳がせた。
「あなたが受け取ったものは、以前衣川さんが相談に訪れた時に持参したものと類似していた。喜邑さん、あなたはこう考えたんですよね? これは、衣川さんが自分を陥れようとしたのではと」
「馬鹿な!? そんな事は無いっ! 」
「喜邑さん、衣川さんに迫った事をSNSで暴露された腹いせに、あなた自身もSNSで反撃しましたよね。名前は出さなかったものの、分かる人には分かるようにね。執拗に口説くので困り果ててお帰り願ったら、ありもしない事をSNSに上げられたって。でも、これこそデマでしょ? 」
「・・・」
喜邑は目じりを吊り上げると、じっと四方を睨みつけた。口元が小刻みにぷるぷる震えている。
「衣川さん達を呼びつけたのは、自分に送られてきたものと照合する為でしょ。私の取材依頼に即OKしてくれたのは、私達に衣川さんの嫌がらせの承認になってもらう為。どう転んでも衣川さんに非があるような展開に持ち込もうとしてましたね」
「何、言ってやがるっ! 」
喜邑は、憤怒に表情を歪めながら、忌々しげに言葉を吐く。
「もし、それぞれの筆跡が同じならば、元々の依頼自体が自作自演のでっち上げ。違っていれば、衣川さんが嫌がらせで自分の所に送り付けたとのだと言う事にして。このメッセージの所在は、限られた者しか知りませんから、言いがかりはつけやすい」
「いい加減にしろっ! たかが探偵の癖に。名誉棄損で訴えるぞっ! 今からすぐにここから出て行けっ! 」
四方の発言に、喜邑は取り乱し激高した。
「たかが探偵――ですか。その言葉、職業差別ですよ。れっきとしたハラスメントです」
四方が、落ち着いた口調で語り掛けた。
喜邑は顔を真っ赤にしながら、充血した眼で四方を睨みつけた。
「出て行けと言うのなら出て行きますけど、いいんですか? 」
四方が、じっと喜邑を見据えた。彼女の黒い瞳に、神秘的な輝きが宿る。
「ど、どう言う、意味だ・・・」
四方の眼の圧に圧倒されたのか、喜邑はおじけづいた表情でしどろもどろに答えた。
「妙な気が入り込んでいるんです。この部屋に。彼女の結界も、残念ながら奴には歯が立たなかったようです」
四方は喜邑の背後に立つ粂野に目線を向けた。
粂野は無言のまま、蒼褪めた表情で四方を見つめていた。
行かないで
彼女の怯えた表情が、四方に無言の懇願を伝えていた。
突然、部屋の片隅で何か弾ける乾いた異音が響く。
それはまるで開き直ったかのように、次第に音源の間隔を詰めながら、部屋の四方から静かに旋律を刻み始めた。
ポルターガイスト。
騒霊と呼ばれるその名に相応しく、弾ける様な乾いた音は次第にその密度を高めていく。
不意に、硝子の粉砕音が部屋中に響き渡った。ホームバーの棚に並べられたウイスキーの瓶が次々に砕け散る。
所々に飾られていたモニュメントが倒れ、床に叩きつけられる。
「な、何だこれはっ! 」
旋律に憑りつかれた喜邑の表情から、血の気が失せていく。
「つぐみ、来るよ」
四方が静かにつぐみに囁く。
「うむ」
つぐみは小さく頷くと、じっと喜邑の背後を見据えた。
「い、い、い・・・」
究極の畏怖に喜邑の舌は蝋石と化し、もはや言葉を紡ぐのも困難な状況に陥っている。
喜邑の背後の中空に黒い節くれだった異形が姿を見せた。
数本の木の枝を交互に組み合わせた様な奇妙な其れは、中空を漂いながら、次第とその所在を明らかにし始める。
指だ。
無数の細かな剛毛がびっしりと生えた指の先には、釜の様に湾曲した鋭い爪が生えている。
指は小刻みに震えながら、左右に重ねたそれを、ゆっくりと引き離していく。
不意に、指の緊張が解けた。
同時に空間が大きく左右に裂ける。
空に生じた亀裂から、黒い人影が飛び出した。
朧げながら像を結ぶそれは、人型を成すものの人ではなかった。
びっしりと細かな毛に覆われた体躯は、四方の倍近くはあるだろう。
天井の低い家屋だったら、優にぶち抜く程の高さだ。
その高い位置から四方達を見据える顔には、鋭利な刃物を彷彿させる光を宿した眼が憤怒に歪み、口元は耳まで大きく裂け、発達した犬歯が顔を覗かせている。
更に、奇妙なものが。
額からは、二本の異様な突起物が天を突き上げているのだ。
角だった。
おとぎ話に出て来る様な風貌の異形――鬼だ。
鬼は迷う事無く喜邑に襲いかかる。
が、その瞬間、彼の前に粂野が術り込み、呪詛を紡ぎながら印を結んだ。
鬼は憮然とした表情で、彼女に掌を向けた。
次の瞬間、彼女の身体は中空を疾走し、壁に勢いよく激突――寸前、黒い影が彼女を抱き停める。
つぐみだ。
「た、助けてくれっ! 」
粂野の安否を微塵も憂う事無く、喜邑は鬼に懇願した。
鬼はにやりと笑みを浮かべると、容赦なく飛び掛かる。
刹那。
鬼の身体は大きく後方に弾き返された。
喜邑の前に、複数の掌大の白い
それだけじゃない。
幾つもの人形が彼と衣川、そして上月を取り囲む様に中空に浮かんでいた。
四方の式神だった。
鬼の登場を察知するや否や、彼女は人形を放って結界を張ったのだ。
彼女はその時、式神にこう命じた。
「霊力のない者を守れ」――と。
鬼は思わぬ反撃に動揺したのか、数歩後方に退いた。
が、同時に黒い影が奴の動線と重なった。
つぐみだ。抱き停めた粂野を床に降ろすと、大きく中空を駆り、一気に間合いをつめたのだ。
退く鬼目掛け、つぐみは大きく右手を振り下ろした。
瞬時に彼女の右手から伸びた鋭い爪が、鬼の身体を袈裟斬りにする。
刹那、鬼の背後の空間が大きく裂け、奴を呑み込むと再びそれを閉ざした。
「逃がしたか・・・」
つぐみは悔しそうに唇を歪めた。
「仕方ないよ。きっとまた現れるから」
四方はそう言うと、床に横たわる粂野の基に駆け寄った。つぐみが抱き留めたおかげで、壁に激突する事は避けられたものの、鬼の気をまともに受けたダメージが大きいのか起き上がることが出来ない。
「大丈夫ですか? 」
四方が粂野に語り掛けると、彼女は力無く頷いた。
「つぐみ、ありがとう。私の式神では間に合わなかった」
駆け寄ってきたつぐみに、四方が笑みを浮かべた。
「いや、四方。間に合っていた。ただ奴の力が強過ぎた。二体いれば違ったかもだが」
つぐみが申し訳なさそうに答えた。
彼女の目線の先には、粂野の背中に張り付いた一体の人形があった。
四方の式神をもってしても、一体では鬼の放った気を留める事は出来なかったのだ。
「つぐみ、あれは多分・・・」
「ああ。間違いない」
四方とつぐみは互いに頷くと、床に横たわる粂野を抱き起した。
「奴の気をまともに喰らったからな。命に別状はないが、しばらくは療養が必要だ」
つぐみが粂野の背中を優しく撫でる。
「ベッドに寝かせた方がいいかな」
宇古陀が粂野を抱き上げようと――が、それよりも早くつぐみが彼女を抱きかかえて立ち上がった。
「宇古陀、有難いがお前は煩悩が見え隠れしている」
つぐみがにやりと笑みを浮かべて宇古陀に言った。
「うーん、そんなつもりは少しあった」
宇古陀は苦笑いを浮かべながら頭を搔いた。この人物は根が正直だから、妙にいやらしさは無い。
「今のは・・・」
喜邑は血の気の失せた表情で、四方を凝視した。
「鬼――の様な存在です。鬼化しかけている情念の塊とでも言うべきか」
四方は淡々とそう語った。
「四方さん、助手の方、私と契約しないか? 」
「契約? 」
喜邑の突然の申し出に、四方が怪訝な表情で彼を見る。
「ビジネスパートナーとして契約しないかって事だよ。金ならいくらでも出すし、住まいもここと同等のものを用意する。どうだ、悪くない話だろ? 」
喜邑がにやりと笑みを浮かべる。
「心底呆れましたよ、あなたには。パートナーがあなたを庇って死にかけたって言うのに、心配はしないのですか? 」
四方が冷めきった声で喜邑を諫めた。
「彼女はパートナーじゃない。私のサーバントだ」
喜邑は眉間に皺を寄せると、吐き捨てる様に言い放った。
「サーバントねえ・・・でも、その彼女の方が霊力に長けているし、運命の星を見る眼も備わっている。残念だけど、あなたにはその片鱗すらうかがわせるものが無い」
四方はじっと喜邑を見据えた。漆黒の瞳に宿る魂の輝きが、虚偽で塗り固められた喜邑の正体を引き剥がしていく。
「あなたは富と権力にものを言わせ、彼女を囲い、利用して来た。自分には全く能力がないのに、あたかもその才があるかのように演じ、華やかな表舞台を独り占めにして来た。そんなあなたを支えて来た彼女の真意は知り得ませんが・・・少なくとも私は、あなたの生き様が許せない」
四方は容赦の無い言霊を放つと、踵を返し、粂野を抱きかかえたつぐみ達と部屋を後にした。
「お前の部屋は? 」
つぐみが粂野の耳元で囁く。桑野は弱々しく微笑むと、右手で一番玄関に近い部屋を指差した。
刹那、リビングで悲鳴が響く。
喜邑の悲鳴だ。
慌ててリビングに駆け戻る四方。
彼女が部屋のドアを開けた瞬間、その表情が硬く強張った。
天井のシャンデリアから吊るされた喜邑の無残な姿が、そこにはあった。
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