第6章 現

「何も覚えていないんです・・・」

 衣川詩音はそう答えると、頬を強張らせながら目を伏せた。

 彼女の膝の上で、か細い指が小刻みに震えている。

 玉水が謎の死を遂げた五日後、詩音は未央に付き添われ、四方の事務所を訪れていた。

 あの日、救急車で病院に運ばれた彼女は、丸一日眠り続けた後に目覚めたのだ。

 医師の診断では、過度の疲労との事で、しばらく静養すれば大丈夫との事だった。

 因みに、玉水の弟子達も皆退院し、師の葬儀と後継者問題で大わらわになっている。

「覚えている所までで結構ですよ」

 四方は詩音に柔らかな言葉遣いでそう促した。

「はい」 

 詩音は静かに頷くと、テーブル上の珈琲カップに目線を泳がせた。

 事務所には四方とつぐみ、そして詩音と付き添いの未央しかいない。

 鴨川と石動はイベントの準備で郷に戻り、陽花里と宇古陀はそれぞれ自分の仕事が入っている為、不在だった。特に宇古陀は、珍しい事に、ここ何日か姿を見せていない。一階のカフェでバイトしている娘の美夏の話では、何でも急な取材依頼があり、そちらにかかりっきりで家にも戻ってきていないらしい。

 まあ探偵事務所としては、本来あるべき姿に戻っただけなのだが。

「あの時、私、禊の儀式を受けていたんです」

 詩音は、重い口を開いた。

「禊? 全裸でですか? 」

 四方は首を傾げると眉を寄せた。

「はい、衣類を着ていると、念がそこに残ってお祓いの邪魔になるらしいんです」

「そんな話、聞いた事が無い」

 つぐみが瞳を大きく開くと、残念そうにそう宣った。

「禊の儀式って、どんなことをされたんですか? 」

 四方が詩音に問い掛ける。

「触られました。全身を・・・」 

 詩音は恥ずかしそうに顔を赤らめると、再び口を閉ざした。

「それって、明らかに変ですよね」

 四方は淡々と詩音に質問を続けた。感情の起伏の無い言霊に、詩音は戸惑いを覚えたものの、迷った末に黙ったまま頷いた。

「そうでしょうか。有名な占い師さんですし」

 詩音は露骨に不満気な声で四方に答えた。

「ちょっと調べてみて分かったんですが、玉水は自分が気に入った依頼人が現れると、お祓いの儀式と称してそう言った行為を行っていたようです。男女関係無く」

 四方は申し訳なさそうに口角下げた。

「えっ! 」

 驚きの声を上げたのは、詩音ではなく未央だった。

「私も、悪い気が纏わり付ていると言われて・・・」

 未央は青ざめた顔で口を押える。

「立場を利用して、自分の性欲を満たしていたようです。お弟子さん達も皆、元顧客で、玉水に気に入られて勧められるままに彼女に仕える様に使えるようになったそうです。その行為も毎夜繰り広げられているとか」

 四方の言葉は、未央に衝撃を与えていた。未央は、詩音に玉水を紹介した事の呵責の念に囚われたのか、眼に涙を浮かべると、唇を震わせながら俯いた。

「悪いのは玉水ですよ。未央さんに罪はありません。それに、玉水は決して偽物の霊能師じゃなかった。結界の張り方を見ると、それなりの力を持っていたようです。ただ、相手の力が強過ぎた」

 四方は未央を慰めると、じっと中空を見据えた。

「その相手が、私に呪いを掛けているのでしょうか。玉水さんは、私を守って命を・・・」

 詩音の眼が不安げに揺れた。

「そうではないと思います。多分、狙いは最初から玉水だった。もしあなたがターゲットなら、玉水同様、あの場で命を狩られていたでしょう」

 淡々と語る四方の言葉に、詩音は身震いした。

「じゃあ、私に掛けられた呪いと言うのは――」

「何とも言えませんが・・・今は解かれていると言えばよいでしょうか」

 四方はそう言うと、珈琲カップを口に運んだ。

「解かれてるって、何故あなたに分かるんですかっ! 霊能力もないのにっ! 」

 詩音の顔に、険しい表情が浮かぶ。明らかに四方を疑っている素振りだ。

 ただの探偵風情が、分かりもしないのにそれらしく振舞っている――彼女はそう思っているようだった。

「分かります」

 四方は、そんな詩音の態度など気にも留めぬといった振舞で、ゆっくりとカップをテーブルに置いた。

「因みに、あなたは、相手にそのような力があるかどうかを見定める事が出来るのですか? 」 

 四方は、微笑を浮かべながら詩音を見つめた。

 詩音は戸惑っていた。

 詩音の中で、探偵と言う職業を色眼鏡に掛けて見下している節があった。浮気や不倫、ストーカーの調査といった、人の情念が成せる所業を貪り、生業とするハイエナのようなイメージを抱いていたのだ。

 今日、未央に連れられて探偵事務所を訪れたのも余り気乗りがしなかったのが事実だ。今回の事件で自分を助けてもらった謝礼の為に、未央に促され、渋々訪れたのだった。

 ただ、面会の相手が女性だったのは、彼女の想定外だった。彼女的には、整髪料と煙草の臭いを纏った陰のある中年男をイメージしていたのだが、未央に紹介された探偵とその助手は、息を呑む絶世の美女だったのだ。それも年齢的にも自分とさほど変わらない程の。

 詩音は意外な事実に驚きはしたものの、謝礼の意を伝えたら、早々に立ち去るつもりだったのだが、事件の事を根掘り葉掘り聞かれ、更には崇敬していた玉水の行為を性欲の捌け口であったと決め付けられた事にも憤りを感じていた。

 彼女自身、最初は玉水の施術に疑問を感じたのは事実だった。だが、禊の儀式の名のもとに、玉水に手指と舌で全身を愛撫された挙句、迎える絶頂は、今までに感じた事の無い快楽と充実感を彼女に齎していたのだ。

 これこそ真の施しなのだ。

 自分に掛けられた呪いを無に帰すための力を注いで下さっているのだ。

 玉水の施術を重ねるうちに、彼女はそう感じる様になっていた。

 それ故に、彼女は玉水の行為に疑いを持つことなく身を任せて来たのだ。

 だが四方に、その全てを否定されてしまった。

 下賤で野卑な存在と見下していた相手に、自分が情念の渦中に取り込まれていたのだと指摘を受けてしまったのだ。

 詩音はもう我慢の限界だった。

 相手は自分を救ってくれた人物だ。医師の話では、あのまま発見が遅れたら、確実に衰弱し、死を迎えていたとも言われたのも確かな事実。

 でも、心から崇拝し、しかも命を懸けて自分を守ってくれた玉水を卑しめる四方を、彼女は許せなかったのだ

 元々、思った事はすぐに口に出すタイプで、それ故に敵も多かったのだが、元来兼ね備えたカリスマ性が、かろうじて彼女を支えていた。

 今回も、目の前の探偵に敵対したところで、自分に負の要素を担う危険はないと判断したのだ。

 詩音は自分の感情をぶつけた事で、四方が頭を下げて許しを請うだろうと予想していた。明らかに自分よりも遥かにレベルの高い美貌の持ち主を、平伏せさせられると思っていた。

 ここまで来ると、玉水への侮辱に対する怒りよりも、四方達の美しさに対する嫉妬心が上回っているかのようだった。

 だが、四方の態度は詩音の思惑とは全く異なる事だった。

 四方は詩音の暴言に対し、目を逸らす事も詫びる事も無く、真っ向から対峙したのだ。

 詩音を直視する四方の眼は、深淵の闇をも貫くかのような鋭い刃の様な覇気を宿していた。また、短く紡いだ四方の言霊は、強力な呪詛となって憤怒に燃える詩音の意識を、一気に鎮静化させていた。

 四方自身は詩音に対して自然な対応をしただけで、特に圧を掛けた訳ではない。

 どちらかと言うと、詩音の自滅だった。

 これは、四方と対峙した相手によくみられる傾向だった。

 特に、カリスマ性をもつ人物が、己の杓子定規で四方と対峙した際に、彼らは自身の愚かさと醜さを気付かせられ、態度や人間性が急変する事がある。

 これも、四方の持つ人徳と言うべくなのだろうか。

「失礼しました」

 謝罪の言葉を述べたのは、詩音の方だった。

 四方の堂々とした態度に、彼女は感情の赴くままに嚙みついた事への羞恥と後悔の念に駆られていた。

 詩音の謙虚な態度に、未央は驚きの表情を浮かべた。

 今までの詩音なら、暴言を吐き捨てて、その捨て台詞を回収せずにその場から立ち去る事が常だったのだ。

 今日の詩音は、いつもよりもしおらしく、小さく見える。

 詩音を四方に引き合わせたのは正解だったのかもしれない――未央は眼をほそめると、人知れず静かに笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 


 





 

 

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