運河の街の猫

大崎 灯

運河の街の猫

 私の住む街には運河が流れている。

 駅からマンションまでの徒歩8分の距離で二回も運河にかかる橋を渡る。少し南には海があり、空が広く風が潮の香りを運んでくる。

 そんな街だ。


 運河縁うんがべりにはウッドデッキの遊歩道がある。日当たりが良く、トントンと軽い足音がするのが心地良い。橋のたもとから遊歩道への出入口は少し開けた場所になっている。

 そのうちの一つに野良猫が住んでいる。

 背中から額までが茶トラ柄で腹の方が白いのが二匹、三毛一匹の計三匹である。


 彼らは私がこの街にに引っ越してきた頃に生まれたのだと思う。大きな茶トラ白の母猫にくわえられて運ばれていく小さな姿を覚えている。当時はまだ、猫たちは今の場所に住んでいなかった。見かけた場所も区々まちまちだった。


 その頃の私といえば、色々あって会社を辞めたばかりで、逃げるようにしてこの街に引っ越してきたのだった。

 最初に彼らに遭遇した時、黙々と子猫たちを運ぶ母猫の姿に圧倒される思いだった。母猫と同じ茶トラ白が二匹と三毛一匹それからどういうわけか真っ黒が一匹。一匹を運び、そして次の一匹を運ぶ。忙しそうな母猫は私に一瞥いちべつも与えなかった。その背中と短い尻尾はとても雄弁で私の弱い心を見透かしているように感じたものだ。


 しばらくすると子猫たちは母猫の後を自分の足でついていくようになった。ただ、何にでも興味を示すお年頃だ。立ち止まって私に大きな目を向けたりする。このニンゲンは何者なんだろう、と見上げていると、母猫が戻ってきて、早く来なさい、と急かしたりする。

 私と彼らは、行き合えば会釈えしゃくを交わすご近所さんのような距離感だと勝手に思っていた。母猫の方ではもう少し低い評価だったかもしれないが、子猫たちは私に近づいてくることもあった。


 この街での新しい暮らしは順風満帆とはいかなかった。前の会社での色々を自分の中で消化できていなかったのだろう。理由もなく悲しくなったり、何もする気が起こらなくなったりする。

 そんな私に彼らが近づいて来たりするときは、少し気が軽くなるような気がした。

 子猫たちは好奇心に溢れたとても澄んだ眼差しでこちらを見上げる。どうしたニンゲン、元気か?とでもいうような感じだった。


 しかし、もう少し大きくなってくると、子猫たちは段々と私を警戒するようになった。野良猫は人を警戒する。普通の事である。ただ、それはとても寂しいことだった。

 それまでは母猫に叱られたりしながらも近づいて来たりしていた子猫たちが、遠巻きに私の姿を見かけただけで逃げるのである。私は彼らを撫でようとしたこともないし、特に何かをしたわけではないのだけれど。

 母猫が、ニンゲンは怖いものなのよ、と吹き込んだのか。それとも何か怖い目に遭ったのか。


 視界の端で見かける子猫たちは、月日とともに大きくなっていった。

 何時の頃からか、母猫は一緒にいなくなったようだ。独り立ちの時期がきたのだろうと思っていた。

 ところが、子猫たちのうちの茶トラ白の二匹はその後もいつも一緒だった。三毛もたまに一緒にいる。仲の良いきょうだいなのだ。彼らには多分、家族という発想がある。家族では縄張り争いをしないという考えなのだろう。


 私は警戒されながらも度々彼らの前で立ち止まる。この街は運河に囲まれた島のような土地だ。都合、彼らに行き合うことも少なくない。あちらでは迷惑だろうが、彼らの成長を見るのは楽しかった。

 もう子猫とは呼べない彼らが前後に背筋を伸ばして歩く様を見ていると、こちらも背筋を伸ばさなくてはと思ったりしたものである。


 そんな暮らしを1年くらいはしていただろうか。

新しい暮らしにも慣れ、多少は心に余裕を持てるようなってきた。

 会社を辞めるときに同期が言っていた言葉の意味がようやく分かったのもこの頃だった。私の送別会で「一ヶ月くらいは何もせずにゆっくりした方がいいよ、まずは休むことだよ。」と言われたのを覚えている。さして親しくもなかった彼女が瞳を潤ませてこんなことを言うものだからとても驚いた。けれど、当時の私はそれほどに酷い有り様だったのだろう。今から振り返ると、そうだろうなあ、と思い当たることがないでもない。そして、そのことに自分で気づかないような状態だったのだ。

 今更ながら恥ずかしい。


 相も変わらず街を歩けば猫たちに行き合うのだが、そのうちに彼らの大きな変化に気が付いた。徐々に人を警戒しなくなってきたのである。

 そうして気付くと、彼らは今の場所に住み着くようになっていた。遊歩道への出入口の少し開けた場所。猫が日向ぼっこするのにおあつらええ向きだ。なるほど人が怖くなければ住処に適した場所といえるかもしれない。


 この半年くらいは、いつも同じ場所に並んでごろごろしている。横を私が通り過ぎてももう逃げる事もない。むしろ、近づいてきて、私の足に背中を擦り付けてくることすらある。


 彼らを変えたものは一体なんだったんだろう。

 どこか人間っぽい彼らが私を恐れないのはむしろ自然に思えるけれど。


 最近、新たに黒猫が一匹加わった。

 幼い頃に離れ離れになったきょうだいとの再会、だったりするのだろうか。

 本当のところは分からない。

 ただ、そのうちにここに猫の大家族が住むようになるのかもしれない、と夢想すると妙に楽しい気持ちになるのである。


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運河の街の猫 大崎 灯 @urotsunahiko

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