豆と餅の甘いスープ
一年で一万円。
駅前の駐輪場を契約している。通勤、通学の利用者が多いけど、一日百円の利用料を払えば、誰でも使える駐輪場。
あ〜〜ぁ……
今朝は満杯だ。無理矢理とめてもいいけど、祝日の今日は、自転車がギチギチ。出す時の苦労を思い浮かべただけで、うんざりする。私は迂回して、駅前のショッピングモールへ来た。
帰りに買い物するから、許してほしい。そんな言い訳がましい心持ちで、モールの駐輪場へ自転車をとめて、電車で会社へ向かう。
最初こそ、このやり口に後ろ暗い気持ちになっていたが、今は『沢山買い物すればいいだろう』と、勝手な帳尻合わせで罪悪感を薄めている。
ホームの端っこから乗る、通勤快速。先頭に近い車両。大抵
眠りに落ちる数十分、私は夢を見る。
悪夢の風景も又、いつもの日常だ。
そう。モールに自転車をとめた日は、心のどこかに、それが引っ掛かっている。いつか誰かに、お店の人に注意されたりするんじゃなかろうか? ギチギチの駐輪場を回避したいが為に、小さな悪事を繰り返している。そんな小骨は刺さったまま。
帰宅途中、最寄り駅に着いて真っ先に、ショッピングモールへ向かう。
モールは駅前で、改札を出て、階段を降りて駅を出たら、通りを渡って
「…………??」
おかしい…………駅前が、何か違う。何か…………よくはわからないけど、印象が違う……気がする。
確かに、いつもの最寄り駅のはずなのに、人通りは無く……でも、やたら通りの交通量は多くて…………信号が、無い。
こんなの、渡れる訳、無いじゃないか。危ないな。
まるで高速道路みたいな勢いで、トラックばかりビュンビュン走っている。私は幾ばくかの恐怖を覚え、裏通りの住宅街を抜けて行くことにした。
戸建ての立ち並ぶ道は静かで、袋小路に行きつ戻りつしながら、なかなかモールが見えてこない。そして、歩いていて気付いたが、やたらとフェンスで区切られている。ブロック塀が、全部フェンスに置き換わってしまったかのような風景……こんなだったか?
……こんなものか。
些細な奇妙さは、小さな不安を呼び覚ます。
自転車を取りに行ったら……帰ろう。
沢山買い物しようと思っていたけど、帰りたくなった。きっとこれから雨が降ってくる。そんな空を見てしまった。
私の自転車……
一瞬、記憶が
どこへ、とめたっけ?
駐輪場。巨大なショッピングモールの、広大な駐輪場。正面口? 西口? 多分、行けば思い出す。私の自転車。近所のホームセンターで買ったから、お揃いだらけの自転車。
モールの敷地内にも、フェンスが乱立している。いくら何でも、区切り過ぎじゃあないのか? フェンスがある所為で、見えているのに向こう側へ行けない。祝日だからか知らないが、人が多い。近所の人が皆、ここへ集まって来たかのような……私は人混みを掻き分けて、駐輪場を探し回った。
露店まで出てる……今日、何かあるのか?
モールは人でごった返している。人混みを歩いていたはずが……畳? 屋内に居る。板張りの長い廊下へ出た。左右には、障子を
歩いているうちに、不安で心細い気持ちになってきた。もう後少しでも歩いていたら、何をしているか、忘れてしまいそうである。
ここは、
今にも泣きそうなほど、幼い悲しみに支配される。全く、訳がわからない。
トボトボ歩いていると、周りの人が皆、手に白い椀を持っている。何かの
配膳しているみたいだ。私も並ぼう。
まばらな人の列に加わる。ここに並んでいれば、きっとあれが
配膳の人は、白くて浅い
見たこと無い感じがするけど…………あれだ。あんみつだ。あんみつに餅が入ったような、半透明のスープに具が浮いている。そんなような汁物だ。温かくも、冷たくもない。そして……甘いのだろう。
黄桃や蜜柑も浮いている。匙で
私は畳の上に立ったまま、甘い汁物を食べ尽くし、飲み干した。
糖分はやさしい甘さで、私の脳を
忘れずに居られた。
又、人混みの中に居る。『急ぐと危ない』とか、『あちらへ行こう』とか、聞こえてくる。あっちか。
どこへ行ってもフェンスがある。邪魔だ。フェンスが立っている所為でスンナリ行けず、蛇行になってしまう。無駄だ。
「そぇ……ぁ……しの、……てん……ゃ〜〜」
「え?」
後ろから声がする。何を言っているんだ?
「それぇ……ぁ〜〜しのじ……ぇんしゃ〜〜」
片足をついて振り返る。セーラー服の女子高生が、手を振って呼びかけてくる。
「それぇ、あたしの自転車だってば〜〜」
「!?」
自転車だって、私も私の自転車を探している最中で…………乗ってる。自転車に乗っている。ぐらりと、よろけそうになる。
探していた自転車に乗って、自転車を探していた。そんなばかな。濃紺のセーラー服姿が数人、走って追いかけて来る。この自転車、彼女のものなのか?
いや、私の自転車だ。意味不明な確信しかないのに、私のものだと思い込む。降りて、サドルの下に挿さった鍵を見れば、私の鍵には鈴が付いているはず。でも今は、彼女を振り切りたくて止まれない。
頭の中にふと、同じ自転車が
これは本当に、私の自転車か?
同じ場所で買った、同じ車種の、彼女の自転車じゃあないのか?
後ろで、『返してよぅ』と聞こえた気がする。私は、物凄く悪いことをした黒い気持ちが溢れかえって、戻ろうと思った。
でも、私はもう戻れなかった。
又、人混みだ。
歩いてる。自転車はなくて、靴はある。もう、何だか、色々とどうでもいい。歩いているより、最早人波に
何で、あっちへ行かなきゃ、ならないんだっけ……
混んでいるものだから、不意にフェンスが眼前に現れる。私はもう鬱陶しいとも思わず、フェンス沿いにフェンスが
少しずつ人混みが緩和されてきた。
「あちらへ行きたいなら、こっちだ」
そんなのが、何か聞こえた。先を行く人が話しているのだろう。助かる。私もそっちへ行こう。
側溝の幅ほどしかない道。通路。まるで猫の通り道。
左手は煉瓦の壁を伝い、右手は
どこかで見た気がする。
高架線から見える車窓に、読めない漢字のネオンサインが、駅ビルの壁面に
頭の中にしまわれた漢字の読み方を、あれだったか、これだったか、探して回る感じ。やっぱり読めない。
読めない漢字の、ネオンサインの上に居る。私はビクンとして、ふらついて、赤と緑色に光る
左手の頼りはただの壁で、右手が泳ぐ下には高架線と同じくらいの高さで、夜が拡がっている。
もう…………ダメかもしれない。
私はさっきから、何度も、いつの間にかを繰り返している。
ここは……もう……あちら側なんだ。
そんな確信を得た瞬間、ずるりと足が滑った。
落ちる、落ちる、落ちる。
身体全体が、何の浮力も無いまま、縦に落ちて行く。
気持ちの悪い落下は長く、これが悪夢なら、私はいつの間にか電車の端っこの席に居て、目を覚ます……はずなんだ。
【終】
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