トイレはどこ?

 夢とか覚えてない。

 見てないのかもしれない。





 駅に居る。

 どこ? ここ。


 帰らなくっちゃ。

 うっそ…………私なんにも持ってない…………。え? はぁ? 手ぶらだ…………。サササササと自分を撫で回す。長財布。ペッタンコの黒い財布だけ持っていた。

 帰ろう。

 切符買って帰ろう…………ここ何線? 路線図は…………と、辺りを見回す。知らない駅の構内に居る。いったい幾らの切符を買えばいいのか、わからない。不安。歩き回ってみたけど、どうしても路線図を見つけられない。不安な気持ちにあせらされる。……券売機。そうだ、券売機に行き先表示があるかもしれない。

 人、結構居るな……この駅、階段しかないの? エスカレーターもエレベーターも見当たらない。造りも何だか、記憶の彼方な時代の駅で、覚束無おぼつかない状況に、不安がいや増す。

 券売機が、改札のすぐ近くにあるみたい。並んでる。正月の初詣はつもうでかってくらい、並んでる。地方都市だか郊外の駅っぽいのに、おかしな話だ。まぁいい、並ぼう。

 ミチミチの行列の末に、結局よくわからないまま切符を買った。不安も持ち越しだ。改札を通ってホームへ行く。いや、行きたいの。何番線? 目の前に、階段は三つ。又しても行き先は不明瞭。不安に、だんだんいらつきが混ざってきた。しょうがない、三つとも昇ってやる。あぁ、もう。いったい何がどうなってるの? ホームは一つじゃない!





 のどかな陽射し、やわらかな光。雲一つ無い水色の空、山々は青々と、所々雪を被っている。……………………山々? てゆーか、新緑と雪? 『アルプスの少女ハイジ』みたいな眺望が、眼下に拡がっている。さっきまで顔を出していたいらつきは、引っ込んだ。困惑。スイッチバック駅なんて、絶っっ対利用したことない!


 マジで私、どこに居るの??


 山荘みたいな駅から、帰れるはずないよ。私は絶望のベンチから立ち上がると、涙目でホームの階段を降りた。


 トイレ…………


 別に、凄い漏れそうとかじゃない。トイレ行きたい。ちょっと落ち着きたい。……トイレ……どこ? 階段の途中に、隙間みたいな細い通路があった。足もとには黄色い点字ブロックが延びている。

 そうか。やっぱり私は、間違った階段を昇っていたんだ。





 通路を歩いていると、私は総武線のホームに居た。困惑は、居なくなった。消えた。さっきまで頼りに見つめて、歩いてきた黄色い点字ブロックは、津田沼つだぬま駅の快速ホームの白線だった。

「間もなく一番線に、快速エアポート成田、成田空港行きがまいります。危ないですから、黄色い線までお下がりください。この電車は十五両です」

 …………安心。今まで、何の感情も覚えず聞いていたアナウンスが、絶対的安心感を与えてくれる。

 私は黄色い点字ブロックを踏みしめながら、階段を昇って駅ビルのトイレへ行くことにした。


 駅ビル……こんなエレガントだったっけ?


 津田沼駅の改札フロアに出たら、デパートだった。乳白色の大理石マーブルタイル、ガラスの壁みたいなショーウィンドウ。でも、誰も居ない。快速ホームは夜八時みたいな雑踏だったのに、ここは薄暗い…………


 トイレ。


 トイレ行こう。泣きそう。帰りたい。おうち帰りたいだけなのに。項垂うなだれていた頭を上げて、トイレの案内表示を探す。外壁に向かって歩いていけば、どこかに出てくるだろう。あっ……た。ほっ。…………ふむふむ、トイレへの通路までエレガント。どうして、屋内にスミレが咲いてて、リスが居るの? ファンタジー…………って、二重ドア? ファミレスか! …………ファミレスだ。


 かゆいファミ……うまレス……


 じゃなくて、何の冗談だ?? トイレは? 仮に、ここがファミレスでもトイレでも、誰も居ないの超不気味。そして音も無く、困惑が私にピッタリ寄り添う。

 ファミレスの入ってすぐのとこみたいな造り、中には席も見える。でも、全部さっきのデパートと同じ、何もかも優雅な大理石で出来てるの。何これ、帰りたい。トイレ行きたい。一回落ち着きたいとかじゃなくて、よりにもよって尿意の方。

 もう、泣いていたかもしれない。デニーズなら、ハンバーグどれにしようかな〜〜って迷うとこなのに。こんなのってない。

 店内は、薄暗い。ボックス席ばっかで、てゆーか囲いのある席しかなくて、本来ならテーブルとか、ソファーなり椅子なりあるべき所に便器がある……………………トイレだ。トイレだった。店内全〜〜部、女性用トイレだった。

 なんで女性用かって? 誰も居ないけど、気配と音がしている。聞くに耐えない音の方じゃない。化粧ポーチからコスメを取り出したり、リップやパクトを開け閉めする音、女性同士のヒソヒソボリューム、音消しを信用していない流す音。それらが遠くでしていた。





 個室……なのだろうか? 囲いの一つに入ってみた。便器は、今時珍しい和式。囲いは、本当に席と席の敷居程度で、用を成さない。用も足せない。

 壁側の個室へ行ってみた。酷く汚れている。アンブレラマークで有名な製薬会社が関与してそうな、得体の知れない感じの汚れ方。トイレットペーパーがどれも濡れていて、使えそうにない。

 さっきまで、遠くからしていた人の居る気配が、微妙にこちらへ近付いて来てる気がする。





 ぃや…………怖い。





 トイレ行きたい。





 使えるトイレ、マトモなのは、どこ?


 ファミレストイレは、ファミレスなだけあって、結構広い。囲いのトイレを片っ端から、使えそうな所がないか、試してみたけど…………例え緊急でも、どれも妥協点が見つけられない。最悪だ。

 ウロウロと歩き回っていたら、奥まった席の壁に、不自然な扉のような物が並んでいる。尿意で気が狂いそうになっていた私は、迷わず開けた。


 個室だ!


 ルーバー扉のその個室は、業務用エアコンでも収納していたのか、内部は意外と広い。そして、何故かここにも和式便器がある。

 私はとりあえず入って、使おうと思った。がしかし、床は汚水が浸水している。一瞬ひるんだ私の思考は、スパコン並にフル稼働していたと思う。


・足が濡れるが、いいのか?

・水を流すレバーが折れて見えるが、気にしないか?

・何ならトイレットペーパーも濡れているようだが?

・内鍵なんて無い、ルーバー扉を押さえながら用を足すと、指がどうにかなりそうだが?

・限……界……だが?


 ここまで。私がルーバー扉を開けてから、耐え難き選択をするまで、1フレーム。


 解放の時は、安堵ではなかった。


 いつまでも切れぬ尿意。砕け散りそうな指先。終わらぬ解放。外部から確実に近付いてくる人の気配。無理な体勢で痺れゆく足腰。それらがどれも、私を苦しめてくる。

 あまりに過多なストレスは、意識を朦朧とさせてきた。私の脆弱な脳は、今にも強制終了シャットダウンか、スリープモードに入ろうとしている。

 駄目だ。それは安全策じゃない。ただの『社会的死』だ。

 いけない。こんなとこで、倒れる訳にはいかない。3フレーム考えてみたけど、汚水にお尻丸出しで突っ伏すのは、耐え難き選択にも含まれていない。





 思考も状況もグチャグチャだ…………扉を押さえる最後の中指が、滑った気がする。無慈悲な脳は、本体込みの安全までは考慮してくれなかったようだ。スローモーションで汚い床と便器のフチが迫ってくる…………違う、私が倒れてい……るん……













 アラーム。

 スマホのアラームだ。起きて、スライドしてオフる。寝起きは良い方だ。たまに、間違えてスヌーズ触っちゃうけど、私には要らない機能なんだよね。ぐっすり眠れて、スッキリ目が覚める。いつまでも起きれない人って、かわいそう。

 今日会社に着ていくスーツ。ポッケに財布入れたままだった。ペッタンコだから鞄に移すの、忘れちゃう。鞄に財布を入れ直して、忘れ物が無いか見渡す。大丈夫。タンブラーボトルも入れたし、そろそろ出よう。


 あれ?


 靴が、濡れてる。

 雨なんか、降ったっけ?


【終】

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